久し振りに休暇を取っての、沢歩きのはずだった。それがどうだ、突然に得体の知れぬ虫の攻撃を受けながら、洞穴のなかを這いずりまわっているのだ。首筋に侵入してくる虫に驚き、取り落とした懐中電灯を拾い上げると必死で逃れようともがきながら進んだ。
絶えず水滴が落ちる洞穴の天井は、気をつけねば頭を打ちつけそうに低い。奥へ進むほどに頭上から足元から襲いかかってくる虫の数が減り、急激に気温がさがったのか肌寒い。
どこかで水の落下する音が聞こえ、その方角へ進んでいくと、いきなり懐中電灯の明かりの輪のなかに滝が現れた。覗くと四、五メートルはありそうで、過ってこの滝壺へ落ちれば、永遠に発見されることはないだろう。こんな気味の悪い場所からは、一刻もはやく抜け出さねばと気持ちが焦った。そのとき、いきなり何者かに抱きつかれた。不意をくらって驚いた拍子に、手に持った懐中電灯を滝壺へ落としてしまった。
「出口がわからん、助けてや」
はんぶん泣き声でわめく相手に、胸ポケットからライターを取り出し火を点けてかざすと男のようだ。生憎だが、こっちも必死で出口を探しているところなのだ。ましてや、こんなところで人に出会うなどとは思いもしなかったが、ともかく「ついてこい」と声をかけてやった。
ところが、いざ出口を探し始めると、洞穴の内部は何カ所も枝分かれしている。進むほどに狭くなって、いき止まりであったり、地底湖みたいな水溜まりに、ゆく手を阻まれたりした。ひっきりなしに天井から水滴が滴る、真っ暗な洞穴の壁を手で触って伝い歩くうちに、出口を完全に見失ったことで、このまま自分の死を予感する恐怖に、秀人はおそわれた。
五十歳の大台を越えて、このまま平穏に定年を迎えられたであろうに、それが何と言うことだ。泥にまみれて地底をさ迷った果てに行き倒れて、この奇妙な虫どもの餌食になるなど、日ごろの願望とは違いすぎるではないか。あの女さえみかけなかったら、後先も考えずに、こんな洞穴のなかまでも深追いしたのは、魔がさしたとしか言いようがない。
「ウヒャー、また虫や」
傍にくっついて歩いていた男が、突然に悲鳴をあげた。同時に秀人の顔にも、パラパラとあの虫が襲いかかってきた。
「おい、走るぞ」
言うがはやいか、彼は暗闇のなかを駆けた。駆けながら踏み潰した虫の死骸で足を滑らせて何度も転び、そのたびに躓いた男が重なるようにのしかかる。転んだはずみにくちに入り込んだ虫を、ぺっぺと吐きながらやみくもに進うちに、前方が仄明るくなってきた。襲いかかる虫の数は一向に減らないが、確実に出口にむかっていると確信した途端に、ふたりは洞穴から転げ出ていた。暗闇から飛び出した途端に一瞬目が眩み、ふたりはもつれ合うように何度も転げた。そのたびに、虫に襲われ続ける恐怖から逃れようと、起き上がってまた走った。
「違うところに出たようやけど、ここは、どこなんやろ」
男の声に我に返り、秀人はあたりを見まわした。ともに夏草の上に、躯を投げ出した格好で転がっていた。そこはブナの林のなかで、一帯に葉の緑が鮮やかに目にしみた。洞穴へ入り込んだあたりの場所とは様子が異なり、たしかに男のいうように違う所へ脱け出たらしい。
「まぁ、どっちにしても無事に脱出できたんや」
男はそう言って起きあがり、背中のナップザックをおろして、なかから取り出したペットボトルの水を旨そうに飲んだ。暗闇の中でわからなかったが、いま見ると顔立ちは二十歳前後とも思える若者で、短めのブーツを履いて服装も固めてはいるが、山歩きのそれではない。
「また、どうして、こんなところまで来たんだい」
地元の者でさえ、めったに来ることがないだろう奥地の渓谷へ、見たところ彼のような都会風の青年がそれもたった一人で、近寄ることそのものが不可解に思えた。
「石田竜二といいます。実はおれ、バイクで林道へ乗り入れて来たんですわ」
「バイクでだと、そういう無謀なやからが自然を破壊してまわるのだ」
「そんな、決めつけたらかなんな、これからバイク便のライダーで、働くことが決まってるンや。ま、趣味と実益を兼ねるいうところかな。ちょっとキザかも知れんけど、青春との別れを記念して単独ツーリングをしてたんですわ。それが、ちょっとばかり飛ばしてたらネズミ取りですわ、ヤバイと思って逃げたら、白バイが追いかけてきよった。こっちも点数がないよってに必死ですわ。せやけど、林道へ逃げ込んだらこっちのもんや、ストリートとオフロード兼用バイクやからな、モトクロス並の走りで振り切ったった」
竜二は身振り手振りで、白バイの追跡から逃げ切ったことを自慢した。
「ところがや、調子づいて走りすぎてしまい、気がついたらえらい山奥まで来てる感じや」
「そうか、それは大変だったな。あ、僕は門脇秀人といいうけど、袖振り合うのも多少の縁だ、よろしく」
「門脇さんは何屋さんでっか。あとでお礼をしますよってに、住所を教えてくれませんか」
「礼などいらんよ、何屋だと問われれば、そうだな、不動産屋とでもしておくかな」
「マンションとか、売買してるんですか」
「僕はメモリアルパーク専門だ」
「何です、それ」
「墓場さ、それより、洞穴のなかで携帯電話を落としてきたらしい、といって探しに戻るのもなんだしな」
「あたりまえや、あの気色悪い虫のいる洞穴のなかへ戻るのは、もうごめんやで」
竜二は改めて衣服の肘や脛に付着している、押し潰されて腑の飛び出たうす茶色の奇妙な虫の死骸をみて顔を歪めた。そして、さっそく取り出したティッシュで虫の死骸を拭っている。
「それにしても、こんな山奥であんな女に遇うやてなあ、そや、門脇さんは若い女を見んかったですか」
「女?、狐にでも騙されてるのと違うのかい」
咄嗟にそう答えたが、この男もあの女を見かけたのだ。つまり、幻ではなかったのだと秀人は確信を持った。もっとも、いい年をした自分までもが、彼とおなじにその女を追いかけて、洞穴へ迷い込んだとは言いだせなかった。
「アホな、ちゃんと見たんや、離れてたけど金髪で結構ええ女に見えたなあ」
「それで、その女を洞穴のなかまで追って入ったってわけか。やっぱり狐につままれてんだ」
秀人は笑って言ったが、竜二はどうにも腑におちないらしい。笑いに反抗するような仕草で、袖口に付着している草の実を剥がし、投げつけようとするが、手に粘りついて離れない。
「それはノブキの実だ。僕の生まれたところも山国でな、子供のころ相手の服にこの実をくっつけあって遊んだものだ」
秀人は自分のズボンの裾にもくっついている、腺毛に覆われた実をつまみ取って言った。見れば、あたりは一面に蕗の葉に似通ったノブキが群生していて、放射状に並んだ実が風に揺らいでいる。
「門脇さん、これからどうしますねん」
「そうだな、日の暮れないうちにバス道まで出なければ大変だ」
秀人も粘り付くノブキの実を、指先ではじき飛ばして立ち上がった。
「うわー、なんや凄い木やなあ、妖気を感じるわ」
歩き始めた竜二は、大きな瘤から怪物のように何本もの幹がわかれて伸ている、ブナの巨木に目を奪われている様子だ。
「とにかく、急ごうや」
二人は互いに顔を見合わせて頷きあい、歩き始めた。ブナやミズナラの林を抜けて、足に絡みつく灌木の茂みをかきわけながら歩き通して、二時間余りが経っていた。秀人は腕時計から目を離し、立ち止まってあとから来る竜二を待った。
「鶏や、鶏の鳴き声が聞こえてる」
秀人に遅れまいと、懸命にあとをついてきた竜二が追いつきざまにいった。先ほどから時折聞こえる、間延びした鶏の鳴き声は秀人も聞いていた。
「人里のすぐ近くまで、来ているわけだ」
秀人は竜二に声をかけると、ふたたび歩き出した。ふたりがいく雑木林の斜面は、長年ひとの手が入っていないらしくて、野いばらや背丈ほどの灌木がはびこり、思うように進めない。それでも山国育ちの秀人は、絡まる蔓草を引きちぎり、低木の枝をかき分けて黙々とすすむが、根っから都会育ちらしい竜二は、いばらの棘で手を刺したり、蔓に足をとられるたびに大袈裟に悲鳴をあげた。そのうち、木立の合間から民家の屋根が垣間見えるところまできた。
「門脇さん、家や、家がある」
人里へ出たのが余程嬉しかったとみえ、竜二は声を弾ませた。
「あの消えた女は、もしかして、あの村に居るんかも知れんなあ」
「さあ、どうだか」
相変わらず、あの金髪の女にこだわる竜二に、秀人はわざと無関心を装って答えた。
「門脇さんは、また何であの洞穴へ入ったんです」
「そうだな、僕もその狐に騙されたくちかな」
いきなり問われて秀人は返答に詰まり、つい白状してしまったが、竜二はそれほど気にかける様子もない。
「やっぱりなあ、ひょっとしてあの女、門脇さんが言うように狐が化けてたんかなあ」
「その女狐に助平心を起こしたりするから、こんな目に遭うてるわけだ」
「きついなあ、けどほんまにそうかもしれんわ、狐やなかったら、あんな素早い逃げかたできっこないわなあ」
秀人の自嘲にも、竜二は妙に感心している。
「あかん、圏外で通じへん。それにしても、えらい静かなとこやなあ、誰も外を歩いてへん」
先ほどから、しきりに携帯電話をさわっていた竜二は、諦め顔で前方を窺って言った。ここから見える民家の屋根は、木皮などで葺かれているのか平べったくて、異常に低くみえた。
「ここに居ても始らん、出かけるか」
秀人は竜二を振り向いて声をかけ、意を決したふうに林の外へと歩き出した。竜二も遅れまいと慌ててあとからついてくる。
林をぬけて、背丈ほどもあるトウキビ畑の畦伝いにいくと、草に埋もれんばかりの道に出た。道にはなぜか、廃線跡に残された枕木然として、丸太ん棒が等間隔に敷かれてある。
「キンマ道だよ」
いぶかる竜二に対して、秀人は説明した。山奥で伐採した木材を道路まで運び出すのに、かつて、キンマと称する木製のソリが用いられていたことを思い出したのだ。キンマを滑らせるために、丸太を並べたものをキンマ道と言っていた。
ふたりはすでに集落に入っているのに、あたりには人の気配がない。道端にあるクヌギの大木の陰に、草に覆われた屋根があった。先ほど木立の合間から眺めた家なのか、家屋そのものが地面に這いつくばっているかに見える。
「やはり、ここに人なんか居てへんのや」
「先ほど鶏が鳴いていただろう。それは人が住んで居るってことにならないか」
秀人は言ったものの、自信なげにあたりを見まわした。
「あの家は、どないやろ」
竜二が四、五十メートル前方の道端に、木の繁る傍の家屋を指さした。近づくと柿の古木が庭先にそそり立つその家は、庭がそのまま畑の続きといった有様で、雑草のなかにみえる数本のトマトには、まだ青みがかった実がいくつかなっている。竜二がそれを目ざとく見つけてもぎ取り、いきなりかぶりついたものの、すぐに顔をしかめて吐き出した。
「ごめんください」
開けられたままの戸口から、奥にむかって声をかけるが応答がない。秀人が戸口から顔を覗かせてそっとなかを窺ってみるが、家の内部は薄暗くて人の居る気配も感じられない。
「こんにちわあ、お留守でっかあ」
竜二がふたたび声高に、家の中へ向かって呼びかけた。
「誰も居らんみたいやなぁ」
ふたりはさらに土間へ踏み入ると、もう一度奥に向かって秀人が「ごめんください」と声をかけた。
土間は戸口から奥にかけて細長く、上がりかまちに囲炉裏があって、木蓋をした鍋が自在鉤に吊されている。突き当たりに水瓶が据えられていてそこが台所らしい。流しのうえに小さな明かり取りの窓があり、のぞくと二人がいま歩いてきた道が延びているのが見えた。
「水瓶も空っぽやし、やっぱりここに人は住んでへんのや」
水瓶のなかを覗いた竜二は、秀人を振りかえって舌打ちをした。上がりかまちに、秀人が腰をおろそうとしたときだった。
「あーっ、あれ何や」
引きつった声で竜二が指を指す方を見て、秀人は反射的に二、三歩飛び退いた。誰も居ないと思った薄暗い奥の部屋で、蠢いているものがある。そのうち襤褸ぎれみたいな、ひとりの老婆が這い出てきた。見るほどに頭皮を僅かに覆う白髪、そげた頬に目脂でふさがれかけている落ちくぼんだ目、それでも僅かに開けられた眼の奥から、じっとふたりを見つめている。
「これはまあ、ようおいでないたなあ」
上がりかまちの手前までくると皺だらけの顔をあげ、まったく歯のない口をいっぱいに開けて、ヒキ蛙のような声で喉を鳴らして言った。
「お邪魔します。じつは道に迷ってしまい、困っているのですが」
「そりゃあ、難儀なされたじゃろ、まあ、おあがりにならんか」
秀人の問いに、老婆はふたたび歯茎を剥き出し喉を鳴らした。
「この家はバァさん一人なんか、それとも他に誰か居るのんか」
へっぴり腰で、ふたたび竜二が問いかける。
「わし一人じゃわ」
「オバアさん、わるいけど、ちょっとばかりここで休ませてください」
「そりゃそりゃ、せっかくおいでないたに、ゆっくり休んでいきないよ」
秀人の問いかけに老婆は喋りながら、さらに近くまで這い寄ってきた。
「門脇さん、他へいこうや、こんな妖怪みたいなバァさんのところ嫌やで」
「まぁ落ち着かんか、すこし休憩をとったほうがいい、それにそんな言い方はオバアさんに失礼だろう」
老婆の容貌を気味悪がって、戸口まで後ずさりしている竜二を秀人は叱った。片足を外に出して半ば逃げ腰だった竜二は、気の進まない顔で家のなかへ戻ってきた。
「バァさんよ、電話は、電話はどこや」
竜二は一旦腹を決めると、にわかに家のなかを詮索し始めた。
「そがいなもなあ、ここにはねぇじゃわ」
「電話もないんか、テレビは、テレビはあるやろ」
落ち着かない様子でうろうろと土間を歩き回る竜二を、老婆は黙って目で追いながら眺めているばかりだ。
「門脇さん、やっぱりここはあかん、なんぼバァさんだけでも、電話もなかったら連絡もとられへん」
「気の毒じゃが、どうにもならんで」
老婆が、ふたたび喉をならした。
「このオバァさんの言うとおりらしい。見てみろや、この家には電灯もない」
秀人が天井を見上げて言うと、竜二もおなじように見上げて、信じられないという顔で溜息をついた。
「おまんら、ちょうどよいところへおいでないた。兄さ、すまんが、下の川までいって水を汲んできてくりょ」
「冗談やろ、おれらにそんな暇はないのや」
声を荒げる竜二に、老婆は動じるふうもない。
「門脇さん、やっぱり他へいった方がええみたいや」
「まぁ待て、最初にこの家へ立ち寄ったのも何かの縁だ。それに、困っている年寄りの頼みを聞いてやらないのは薄情すぎる」
すでに浮き足立っている竜二に声をかけると、秀人は自ら水汲みへいく気で、キャラバンシューズの紐を結びなおした。
「誰か、こっちへ来よる」
竜二の抑えた声に、秀人も戸口へ近寄り外を窺った。人影はもうかなり近くまできていて、頬被りをしているうえに屈めた腰よりしたは生い茂る雑草に隠れてはいるが、杖をついて歩いてくる様子はかなりの年配である。
もしかして、この老婆の連れ合いかなどと詮索するうちにも、相手はどんどんと近づいてきて、とうとう庭先にある柿ノ木の下までやってきた。背中に何やら竹籠を背負った老人は、餌をもとめてかまとわりつく鶏を杖で追い払いながら、ひょこひょこと慣れた足取りでこちらへ向かってくる。
「オバァさん、誰か来たよ」
秀人は老婆を振り向いて尋ねた。
「嶽造のジサマが、おいでないたんじゃろ」
「これはよう、おいでないた。むさ苦しゅうしておるが、まあ、あがりないよ」
老婆が話している間にも老人は戸口から顔を覗かせ、ふたりを見て愛想よく笑いかけた。
「ジサマは、わしの躯がままにならんで、毎日食い物を運んできなさるじゃ」
老婆の言葉に、秀人と竜二は思わず顔を見合わせた。
「こがいな若い衆がおいでるのは、久しか振りじゃ」
老人は嬉そうに言いながら、頬被りをとると背中の竹籠をおろした。日焼けした顔に刻まれた深い皺、伸びるにまかせた白い無精ひげとは対象にみごとに禿げている頭部、そのどれもが年輪を刻んだ老農夫の顔だ。
「僕は門脇秀人という者です、東京からきたのですが、道に迷ってしまい困っています」
「おれは石田竜二、大阪からきたんやけど、この人と一緒に帰る道を探してますねん」
竜二が続けて、ぶっきらぼうに名乗った。
「わしは嶽造というが、ほれむこうに大きなカヤの木があるじゃろう、あのねきに屋根が見えるのがわしのウチじゃでな、これからジサマと呼んでくれりゃよいじゃで」
老人は戸口から二、三百メートル離れた真向かいに、ひときわ大きく繁る木を指さして言った。
「このババサマの名はトメさじゃ、気さくなババサマじゃで、おまんらもゆっくりすりゃええじゃわ」
嶽造は喋りながら、背中からおろした竹籠を上がりかまちに置くと、自らもそこに腰をおろした。
「トメさはこの春、山で滑ってから打ちどころが悪うて、立つこともままならんで弱りきっとんじゃ、この通り毎日わしが世話にきよるじゃで」
「そうとは知らずに申し訳ありません。迷惑をかけました」
「いやいや、迷惑なことなどありゃせん。それより腹も減っているじゃろ、おまんらの食うぶんも入っておるじゃで」
大変な家へ飛び込んだとばかりに、出ていこうとする二人を嶽造は慌てて引き止め、竹籠を指した。
にわかに空腹を覚えた二人が竹籠のなかを覗いてみると、大きな木の葉っぱが敷きつめられたうえに、拳大の団子が並んでいる。
「わしんとこでこしらえた蕎麦団子じゃで、ひとつ召さんか」
嶽造は立ったままの二人に、ひとのよさそうな笑顔をむけて言った。
「いま僕らのぶんもあると言われたが、ここに居るのがどうしてわかったんです」
秀人は、微笑む嶽造に訊ねた。
「ここは、めったによそ者は来ならんで、風がおまんらの匂いを運んでくるじゃわ」
「ジイさん、何をトボケとるねん、二人やいうことまでわかってた言うのんかい」
相手にからかわれていると思った竜二が、横合いから語気を荒げる。
「林の梢にさえずる鳥めらの匂い、草むらに潜む虫の匂い、谷あいの流れに住む大山椒魚とヤマメの匂い、この里の匂いは限られておるじゃで、おまんらがこの里へ迷い込みなされたときから匂いよったと」
「僕たちが、迷い込んだときから……」
こんどは秀人が、思わずくちをはさむ。
「さよう、迷い込みでもせにゃ、おまんらがここへはおいでることは、なかったじゃろ」
嶽造はそう言うと、肩を揺すって愉快げに笑った。「そらどういう意味や」竜二がちょっとむきになってただしたが、嶽造はそれには答えずに「くちには合うまいが、それ、遠慮せずと召さんか」と改めて籠のなかの団子を勧める。
「なあ、トメさよ、ふたりもの若い衆がおいでて、ほんによかったじゃで」
嶽造は手にした団子をちぎっては、傍までにじり寄ってきたトメさんのくちもとへ根気よく運んでいる。くちゃくちゃとトメさんが咀嚼する音が耳についたが、空腹は我慢の限界を超えていて、ふたりが同時に籠のなかへ手をのばした。
「夕飯には、ごっつぉうするじゃで」
嶽造はふたりが団子にかぶりつくのを見て、目を細めて言った。ふたりは団子を味わう余裕もなく、夢中で貪り食った。
「おまんら、食い終わったらすまんが水を汲みにいってくれんか、もう三日も水瓶は空っぽのままじゃあ」
「何やて、バアさんだけか思たらジィさんまでが、おれらに水を汲みにいけてかぁ」
団子を頬張りながら、竜二が目を剥いた。
「歳をばとると水汲みはきつい仕事じゃあ、それでもつい先ごろまではわしがぼつぼつと汲みにいきよったに、このごろはその日の飲み水を汲むのが精一杯じゃぁでな」
嶽造は、ほとほと困りぬいているといった顔を、ふたりにむけて溜息をついた。
「ジイさんよ、なに寝言を言うてんねん。そんなことおれらに関係ないがな」
「竜二君、ジサマの頼みを聞いてやれよ、それに汲みにいかないことには、水も飲めないようだ」
竜二が声高にまくし立てるのを、秀人が宥めた。
「チエッ、この近くに店はないのか、そこに自動販売機もあるやろ」
「そがいなもなあ、ここにはありゃせん。それより水汲みにいってくりょ、トメさも朝方飲ませたきりじゃで、喉が渇いておるじゃろう」
嶽造はそう言うと、天秤棒やら桶を表に持ち出して、水汲みにいかせる段取りを始めた。
「竜二君、早いこと水汲みにいってこいよ。そうすれば村の様子も少しはわかるだろ」
「何で、おれが水汲みをせなあかんのや」
「まあ、御馳走になったお返しだ。ここはひとつ協力しておこうや」
しぶしぶながら、水汲みにいくことになった竜二を秀人が励ました。
「さあ、そこの桶をかついでくりょ」
嶽造に促されて、竜二はさらに不服そうな面持ちで、空の桶を提げた天秤棒をかついだ。
「なかなか似合うじゃないか」
からかう秀人を、竜二は恨めしげに見返しながら、嶽造のあとについて水汲みへ出かけていった。
「兄さ、ションベンまりに連れていってくりょ」
ふたりが出かけると、こんどはトメさんが秀人に訴えた。
「えっ、ションベンて、便所へいきたいのですか」
秀人が思わず訊ねなおすと、トメさんはそうだとばかりに頷く。困惑したものの、こんな状況下に居合わせた以上しかたがない。秀人は、上がりかまちに居るトメさんに背中をむけて腰を低くした。その背中にトメさんがしがみつくと、秀人はそろりと立ち上がった。
子供のころの記憶に、農家の便所は外にあるのを知っていて、背中でトメさんが腕を伸ばして指し示すのに従い表へと出た。さらにトメさんは畑のなかへ入るように促した。久しく手がいれられていそうもない畑は夏草に覆われていて、栄養不足のトマトや茄子がひょろりと立っている。そのあいだをわけいって間なくして、トメさんは秀人の肩を叩いて降ろしてくれと言った。さらには自分が一人で立つこともままならないためか、秀人に身体を支えてくれと頼んだ。何か妙なかかわり合いになってきたものだと思ったが、意を決すると秀人は中腰になってうしろからトメさんの腰を支え持った。着物の裾をめくりあげてやるとすぐに放尿がはじまり、秀人は慌てて両足をずらせてしぶきを避けた。
「兄さ、ついでに糞もまるわいの」
いくら軽いといっても、中腰で剥き出しの尻を支え、不安定な姿勢を保つのは苦痛だった。そんな秀人のことを気にかけるふうもなく、トメさんはすでに力んでいる。そのうち「兄さ、そこの蕗の葉をとってくりょ」と言って秀人を振り仰いだ。
言われるままに手を伸ばして、目についた大きめの葉をちぎってやった。あたりには雑草に混じって蕗が自生していて、トメさんがここで用を足すのが何となく理解できた。
「兄さ、手がきかんで、それでわしの尻を拭いてくりょ」
秀人は蕗の葉を手にしたままで、我が耳を疑った。
「兄さ、はよ拭いてくりょ」
それもトメさんの催促に、一瞬の躊躇をかなぐり捨て、手探りで肛門のあたりを葉っぱで拭った。拭き終わった葉はそのまま離すと、親指ほどの黒い固まりの上にふわりとかぶさった。一匹の銀蠅が彼の目を掠め、羽音が仲間をよぶのか、目を落とすと無惨に萎れた蕗の葉にはや数匹がたかっている。
ここから正面を眺めると山の中腹あたりに、ひときわ巨大な岩石がそそり立っている。用をたし終えたトメさんは、その巨岩にむかい、くちのなかで何やら唱え合掌をした。
「ジサマもこのごろ弱ってきたじゃでなあ。わしを背負うのはもう無理じゃあ。兄さは躯もきついで、頼りになるじゃわ」
拝み終えるとトメさんは、またしてもヒキ蛙みたいに喉をならして笑った。
「あの大きな岩は、何かの神さまですか」
「神さまはどこにも、居なさるじゃで」
秀人の背中につかまりながら答えるトメさんは、ほんとに気分がよさそうだった。
ふたたびトメさんを背負って戻り一息いれていると、しばらくして水を汲みにいっていた竜二が戻ってきた。前後に満杯の水桶をさげた天秤棒をかついできた竜二は、嶽造に後ろから見守られながら、よたよたと危なっかしい足取りだ。そして土間へ入るなり、その場に桶をおろすと同時に天秤棒を投げ捨て、上がりかまちにどっと仰向けに倒れ込んだ。
「竜二君、そのくらいでへたばっていたら、田舎暮らしはとても無理だな」
「そうかて、えらい急な坂道や、水を飲むのにこんな苦労をせんならんやて、もう悲しいなるわ」
彼にとってはこの体験がよほどきつかったとみえ、ぼやきながらまだ肩を激しく波打たせている。
「いま、水を飲ませるじゃでな」
嶽造は汲んできたばかりの水を椀にすくいとり、トメさんに飲ませている。
「ジサマ、この兄さは、糞まりに連れていってくれたじゃわ」
水を飲みおわったトメさんは、満足げに椀をくちもとから離し、秀人に用をたしに連れていってもらったことを告げた。
「若い衆、ご苦労をかけたじゃなあ」
嶽造は秀人を振りむき、微笑みながら礼を述べた。
「そら気のええ兄さじゃて、こがいなババの尻まで拭いてくれたんなあ」
「えっ、門脇さん、バァさんのケツまで拭いたったんか」
寝ころんでいたはずの竜二が、いきなり身を起こして、信じられないという顔をした。
「わしの躯が弱りきっとるで、そがいなことまでさせて若い衆すまんことじゃ」
「ジサマ、その若い衆と呼ぶのはやめてくれませんか。僕の名は秀人です」
五十二歳という自分の年令を思うと、そんな呼ばれ方はなんとも気恥ずかしい。
「せや、おれもあんたの若い衆やない」
横合いから竜二が、尻馬にのって言う。
「ハハハ、おまんら、ここではとびきりの若い衆じゃ、秀さに竜さか、ま、これからはそう呼ぶじゃで」
「何がこれからや、おれらはすぐに出ていくんや、ジイさんバアさんの面倒を看るために、ボランティアをしにきたんと違う」
竜二がまくしたてる。
「そがいに声を荒げずとも、ここにはジジとババしかおらんじゃで」
嶽造は上がりかまちに腰をおろすと、竜二の顔をみつめて微笑んだ。
「竜二君、まあ落ち着けよ。ジサマのウチにはテレビぐらいはあるでしょう、それから電話を借りたいのですが」
「あいにくじゃが、そがいなものはありゃせんじゃわ」
嶽造はすげなく答えると、これからいくところがあるからと言って、ふたたび竹籠を背負うと出ていった。こうなると、頼りはトメさんだけだ。
「トメさん、いまジサマの言ったことは本当なんですか」
「その通りじゃわ、むかしゃあ暗うなりゃ囲炉裏で松の根っこを焚いて灯りをとったもんじゃが、いまは山へ根っこを採りにいく者もおらんで、暗うなりゃあ寝るしかねえじゃわ」
トメさんの言葉に、秀人は改めて煤けた天井を見上げた。
「暗うなったら寝るしかないか、ちぇっ、どんなとこやねん、ここは」
竜二がくちを尖らせて愚痴り、ふてくされてふたたび仰向けに寝ころんだ。
「電話もかけられない、というのは困るなあ」
昨日から一泊二日の予定で休暇をとってきたが、連絡がつかないとなると今日中に帰られなければ無断欠勤になる。それに明日は取引先へ、商談のために伺う約束がしてあり、秀人は困り切ってしまった。
「せやけど、日用品を売る店ぐらいはあるのが常識やろ、そこにやったら電話もあると思う、門脇さんおれちょっと探してくるわ」
思い付いたように、竜二が跳ね起きて言った。
「そうだな、ついでに近くにバスが通っていないか訊ねてみてくれ」
「わかった、ちょっとあたりを偵察してくる」
気を取り直したのか、竜二はいそいそと土間へ下り立ち靴を履いた。二人の会話を耳にはさんだトメさんが「まこと、何もありゃせんで」と引き止めたが竜二は耳をかさず、秀人の「気をつけてな」の声にVサインをして飛び出していった。
竜二が出かけたあと、秀人は先ほど出かけていった嶽造のことが気になった。
「トメさん、ジサマはまだ他にいくところがあると言っていたけど、どこへいったんです」
「ジサマがいかにゃあ、飢え死にする年寄りがぎょうさんなこと居るじゃで」
「飢え死に?」
秀人の問いには答えずに、トメさんは脛のあたりにできた瘡蓋をさかんに掻いている。それを見ているうちに、秀人は自分まで何やら身体のあちこちが無性に痒くなる気がした。これ以上この老婆と、要領を得ない話をする気も失せてしまい、思わず大あくびをした。思えば昼間の疲れが睡魔となって、一度に襲ってきた思いがした。
眠気を振り払おうと土間へ下り、竜二がかついできた水桶の水をはしりの瓶に移し、ついでに水を飲んで戸外へ出た。日射しは照りつけるが、陽の傾きから一日の終わりが見える。雑草にかこまれ、茎の太い大輪の向日葵が一本だけ重たげに頭を垂れているのが、人影のように思えてなんとも不気味だ。手持ちぶさたのまま、ふたたび屋内へ入ると奥の寝間へいったのか、囲炉裏ばたにトメさんの姿はない。上がりかまちに腰をおろした秀人は、襲いかかる睡魔に抗し切れずにごろりと寝ころび、そのまま深い眠りに引きずり込まれていった。
息苦しさとあまりの煙たさに、秀人は目覚めた。何かが燻っているのか、もうもうと煙が立ちこめている。たまに囲炉裏に炎があがるが、ふたたび猛煙が立ちこめる。喉のい辛っぽさに咳き込みながら、たまりかねて起きあがるや表へ飛び出した。あのまま日暮れまで寝入ってしまったらしくて、あたりはすでに夕暮れの気配だ。少し煙が薄まったところでなかの様子を窺うと、囲炉裏の端に嶽造が座っている。
「夜さりになると蚊が出てきよるで、燻し出しとかにゃあ眠れんで」
嶽造は涙目をこすっている秀人を見て声をかけた。それからおもむろに自在鉤にさげた鍋の蓋をとり、木造のしゃもじで鍋のなかをゆっくりとかき混ぜた。夏でも火のある囲炉裏は、煮炊きの為のかまども兼ねている具合だ。嶽造は秀人が寝ているあいだに、夕飯のしたくまでしたらしくて、鍋のなかにはゼンマイやネマガリタケなどの山菜が、汁の具としては多いほど入っている。
「そろそろ、竜さも、戻りなさるじゃろ」
そういえば竜二はどうしているのか。嶽造の言葉に、改めて気になった。何もないならないで、もうとっくに戻っているはずだ。
「熊にでも出くわしゃそりゃ怖そがいが、滅多に熊はきよらんじゃで」
そう言って笑うトメさんの顔が囲炉裏の炎に照らし出されるたびに、秀人は竜二のことが余計に気にかかった。そんなとき表に足音がして、竜二が戻ってきた。
「門脇さん、このジイさんの言うとおりや、ここには店の一軒どころか、道らしい道もない」
竜二は上がりかまちに腰をおろすと、疲れ切った顔でいままで探索してきた、村のなかの様子を話し始めた。
彼の言うところによると、この集落は思いのほか狭くて、道は一キロもいくと山のなかへ入り獣道にかわってしまうらしい。村のなかは道の両側に十数軒の民家が草に埋もれているだけで、他には何も見あたらなかったが、それでもよろず屋ぐらいはあるだろうと探しまわったらしい。さらに、沢沿いにずっと上へ二キロばかりのぼったところにも集落らしきものがあったが、そことてなにもなかった。そのうち、この村から出ていく道がないのに気付いた。そうなると必死で山に分け入って道を見つけようとしたが、どうしても見つからなかったと言って深い溜息をついた。
「ジサマ、一体ここはどういうところなんです」
「そうじゃな、人もだんだん減っていきよるで、いまはちっとばの年寄りが居るだけじゃで」
秀人の問いかけに、嶽造は掻き混ぜている汁鍋から目を離さずに答た。
「食い扶持を減らすには、やや児をつくらねえこったいうて、女は孕むと山牛蒡を煎じて飲んだりして、流産たりしたもんじゃが、こんねなるなら、やっと産んどくのじゃったわ」
横合いからトメさんが、嶽造のあとをついでくちを挟んだ。秀人と竜二は凄い話を聞くとばかりに目を見開いたまま、トメさんのくちもとを見つめた。
「そんでしまいにゃあ、部落が絶えてしまうことになってしもうて、思やあ、怖そがいなことをした罰が、いまになってあたったのじゃわ」
こんどは嶽造が、トメさんの言葉を引き継いでしみじみと言った。そのあと、山里ではこんなものしかないが腹いっぱい食うてくれと言って、鍋の汁を椀にすくって二人に勧めた。薄い塩味だけの汁は物足りないが、秀人には何だか子供の頃を思い出させる懐かしい味だった。
「竜二君、ここは途方もない山奥らしい、飢え死にしたくなかったら、あきらめて何でも食うんだな」
「なにが悲しゅうて、こんな豚の餌みたいなもん喰うてなあかんのや」
山菜だけの食事は、竜二にすれば粗食そのものに思えるのか、泣き出しそうなくらい情けない顔をした。
「自在鉤に挿して燻したヤマメでダシがとってある、旨いはずじゃが」
嶽造が、トメさんに食わせる汁を椀にすくいながら言う。
「なぁ、もうしょうもない芝居やめとこや、ここから出る道を教えてくれたら、ちゃんと礼をするがな」
ほとんど哀願するに等しい竜二の声に、チロチロと燃える囲炉裏の炎に照らし出されるトメさんの顔は無表情だ。嶽造にいたっては、トメさんに喰わせる汁をふうふう吹きながら、聞こえない素振りだ。
「あんたら、何を考えてるのや、それとも、おれらに嫌がらせをしてるつもりかい」
「石田君やめておけ、日が暮れてジタバタしても仕方がない。今晩はここで泊めてもらおうや。明日になったら道もわかるだろ」
「テレビもねぇ、電話もねぇ、ねぇはずだ、オラの村には電気がねぇ、オラこんな村いやだあっと」
秀人がたしなめると、それでも納得のいかない顔の竜二は、随分まえに流行った歌を真似てくちずさみ「くそーっ、信じられへん」吐き捨てるように叫んで唇を噛んだ。
昨夜あれから、嶽造が帰っていったあと、秀人と竜二は囲炉裏端でごろ寝をした。ところが寝付いたころに、蚤でもいるのか体のあちこちを刺され痒さに閉口した。そのせいでほとんど眠れなかったにもかかわらず、二人とも目覚めは早かった。睡眠不足の充血した目をしばたきながら、竜二は一足先に土間に立ち秀人が靴を履くのを待っている。秀人は世話になった礼にと、幾らかの謝礼を置いていこうかとも思ったが、ここではそんなものは用をなさないとなると、悪いが黙っていくことにした。
そろりと戸を開けると、外が膨らんでいるように霧が入り込んできた。「うわー何やこの霧……」竜二は驚きの声をあげたが、秀人は朝霧のなかを先に立って歩き始めた。恐らく視界は一メートルとてないだろう、ぼんやりと滲んで立つ柿ノ木を目当てに道へ出ると、昨日やってきたのと反対の方向へいくことにした。キンマ道の丸太につまずかないように、ひたすら足もとを見つめて歩いた。
「門脇さん、このままいっても道が途絶えてしまってるで」
昨日あたりを歩きまわった竜二が、うしろから声をかけた。
「村の出口がわからないなんて、どう考えても変じゃないか、あそこに居る老人たちも何だかわけのわからない人たちだ」
「ひょっとして、おれらほんまに狐に化かされてるのやろか」
秀人の励ましにも、竜二は心細げな声で話しかけながらあとからついてくる。間近に大きな木影が、霧のなかに見え隠れした。はっきりしないが距離からして、嶽造の家の傍に聳えていたカヤの大木に違いない。二人が村を出ようとしているのも知らないで、嶽造は眠り込んでいるのだろう。
踏みしめるたびに朝露を含んだ雑草が絡みつき、足もとまでびっしょりと濡らして二人は黙々と歩いた。すでに集落を出て道はかなり険しい峠を上っている。まわりの霧が次第に晴れ、谷を見下ろすと霧の合間に押し潰したような屋根が見え隠れしている。
「おい、ここなら携帯が通じるかも知れないぞ、連絡をとってみろよ」
「あきまへん、とっくに電池切れですわ」
竜二の携帯が使えないことがわかり、これで外部との連絡が不可能になったことに秀人は落胆をした。そのうち灌木の茂みのなかに、洞穴がくちを開けているのを見つけた。
「門脇さん、この洞穴、脱け道と違うやろか」
「いや、昨日の場所はこんな近くではなかった」
秀人は周囲を見まわして言った。
「昨日の洞穴は虫にたかられるよってに、あんまり気が進まん。この洞穴かてどこかへ通じてるはずや。いくだけいってみようや」
竜二は言うが早いか、身をかがめるようにして洞穴へ入っていった。
「門脇さん、何してるのや」
秀人が洞穴の前で躊躇していると、なかから竜二が呼んだ。その声に意を決して、彼もまた洞穴へ入っていくことにした。しばらくいくと洞穴は左に折れ、外の光りが届かなくなって暗闇を手探りで歩いた。天井は次第に低くなって、中腰にならなければ進めなくなり、そのうえ絶えず滴が落ちてきて首筋を濡らすたびに二人は悲鳴をあげた。やがて激しい水の音がして、竜二がライターを点けると正面の岩石の間から水が滝のように流れ落ちている。どう見ても、これ以上はいけそうもなかった。結局横穴へ入ったものの、五十メートルもいかないうちに引き返すはめになった。
滴り落ちる水のために衣服までが、じっとりと湿ったままふたたび二人は先を急いだ。水に行く手を阻まれたのがショックだったとみえ、竜二はほとんど無口になった。
秀人が足を止めた。熊笹に覆われている斜面に、ふたたび洞穴を見つけたのだ。これもまわりの様子からして、昨日の洞穴とは違った。竜二が内部を窺っていたが、そのうち秀人が制止するのも聞かずに入っていこうとした。
「門脇さんそんな顔せんかて、今度こそ絶対に脱けられるはずやで」
「けど、昨日抜け出た所とは風景が違う。それに、あの気味の悪い虫が居るかも知れないぞ」
「それはその時や、襲われたら一気に走り抜けたらええやろ。先っきの洞穴かて虫なんか居てへんかったやんか」
「だがな、また洞穴のなかで迷ったりしたら、それこそ一巻の終わりになるぞ」
「おれら大阪の人間は、なんでもまずやってみてそれから考えるねんや。あんたら東京の人間は理屈がおおいわ」
ふたりはちょっとした議論になったが、もう一度だけという約束で秀人が折れて目の前の洞穴にふたたび挑戦することになった。懐中電灯のひとつも持たずに洞穴に入るのは無謀とも思えたが、出口は必ずあるはず、と竜二は言い張った。
洞穴へ入り十メートルも進むと下方にむけて傾斜がきつくなり、外の光りも次第に届かなくなって、冷んやりとした空気が背筋を撫でる。手探りで進むうち横穴が二手に分かれているところへ出た。秀人がライターを点けると炎が流れた。ライターが消えてふたたび暗黒のなか、二人は風の吹いてくる方向へ勢いづいて進んだ。やがて、前方が明かるんできたかと思うといきなり洞穴の外へ出た。
「門脇さん見てみい、家がある」
転げるようにして穴から出た竜二は、声を弾ませて秀人を振り返った。見下ろす谷間には、数軒の民家が点在しているのが望見できた。竜二は脱出できたと有頂天になっているが、秀人は腑に落ちない思いがした。昨日は洞穴のなかでかなりの時間さ迷よっていたというのに、いまは洞穴へ入り込んでから出口までさほど経っていないと思えた。それにここから見下ろす谷間の風景は、何となく見覚えのある気がする。
「竜二君、よく見てみろ。あれはトメさんの家じゃないか」
「アホな、悪い冗談やめてや」
即座に秀人の言葉を打ち消した竜二は、民家のある谷間を目指して、背丈ほどもあるネマガリダケの群生する斜面を下り始めた。
「おい、方向を見失わないように気をつけろ」
秀人は先をいく竜二に、声をかけながら注意深くあとを追った。麓にいくほど地面が平坦になり、ネマガリダケの藪を抜け出た二人は数メートルの間隔をあけて、林のなかを息を切らして歩いた。先をいく竜二が足を止めた。見るとアカ犬がこちらへやってくる。
人の気配を感じた犬は、一旦逃げる姿勢をとったが、警戒の目をこちらに向けて少し離れて踏みとどまっている。
「アカアカ、ほれこっちへこい」
言いながら竜二がくちを尖らせて口笛を吹き、腰を屈めて呼び寄せた。アカ犬は警戒しながらも傍へ寄ってきた。竜二が頭を撫でてやると、さかんに尻尾を振り半分開いたくちからヨダレをさかんに滴らせている。アカ犬はそれからもふたりのあとをついてきていたが、いつの間にか居なくなっていた。
ブナの林が灌木にかわり、時間からすればもうそろそろ民家のあるあたりへ行き着いてもよいはずであった。昼をとっくに過ぎて、歩き通したせいか秀人は酷く腹が空いた。竜二もおなじらしく、手当たり次第に草や木の葉っぱをちぎってくちに入れては、ぺっぺっと吐き出している。しばらく行くうちに近くで水の流れる音が聞こえ、いきなり茂みが途切れ、幅二メートルほどの渓流にいきあたった。
そうだ、この流れに沿って下ればいいわけだ。沢歩きをしながらいまごろそれに気付くとは、秀人は我ながらその迂闊さに呆れた。
「おい、もう洞穴など探さなくてもいいぞ。この渓流つたいに下れば、嫌でもどこかの町へ辿り着くわけだ」
秀人は流れに口をつけ夢中で水を飲んでいる竜二に声をかけると、さっそく自分もおなじように水面に口をつけて水を飲んだ。乾いた喉に、水は甘く染みわたるように旨かった。横腹をつつかれて秀人が顔をあげると、傍で水を飲んでいた竜二が、少し離れた下流を指し示した。その方向を見ると、数十メートルばかり先で、流れがかき消えている。合点がいかない思いでふたりがさらに近寄れば、渓流は音を立てて灌木の茂みに覆われた洞穴に吸い込まれていた。洞穴の高さは水面より少し高いくらいで、とても人間が入っていけるものではなかった。こんなことがあるのか、このあたり一帯は、過去にどんな地殻の変動があったというのか。この流れの先は、どこかの山裾の地表に突然湧き出ているか、あるいは断崖から滝となって落下しているのだろうか。
望みはあっけなく断たれた。落胆したものの、ふたりは気を取り直してふたたび流れをさかのぼった。しばらくいくうち、秀人のまえを歩いていた竜二が立ち止まった。見れば、前方の流れのなかに女がいる。丈の短い筒っぽうの裾からのびる、太股の白さが目に焼きついた。
「あれや、昨日の女や」
言うより早く竜二が女に向かって駆け出し、秀人もそのあとを追って川のなかへ入った。水音に驚いた女がこちらを振り向いたが、ふたりの姿を見ると身を翻して逃げ出した。二人が川底の岩に足を取られているのを尻目に、女は流れのなかをそのまま水飛沫をあげて走り去った。
竜二は目の前で女に逃げられたことを悔しがったが、川縁で女が慌てて置いていったらしい魚籠を見つけた。みると、なかに数匹のヤマメが入っている
「あの女はこの近くの者に違いない、門脇さん、あの洞穴は正解やったんや」
女の置いていった魚籠のヤマメを、河原で焼いて食いながら竜二は興奮気味に話す。
「金髪じゃなかったぞ」
「えっ、そうやったかな」
竜二は自信なげに言ったが、秀人の見たのは金髪の女ではなかったし、それに振り向いたときのあの顔は、驚いたというより笑ったようにも見えたのがなぜか心にひっかかった。
ヤマメを食ったあと、二人は女の逃げていった川上へむかってふたたび歩いた。淵になっているところを除けば、深さは膝までくらいで、蝮などのいる川岸を歩くより安全に思えて、脱いだ靴を手にぶら下げ流れのなかを歩いた。川底は滑った岩石などで歩きにくかったが、それでも小一時間も歩いたかというとき、前方の川縁に板でこしらえた足場があるのが見えた。
「水汲み場や、何やここは初めてやない気がするなあ」
竜二が少々自信なげに呟くのを聞きながら、秀人はとにかく一度川からあがって村の様子を見ようと提案した。張り出した灌木の枝をかきわけて、急な坂道を上りきると民家のすぐ横へ出た。庭に大きな柿ノ木があるその民家は、ふたりとも覚えがあった。軒下で屈み込み、何やら草の根っこを並べて干していた老人が、気配に腰を伸ばしてこちらを向いた。その顔を見て、ふたりは思わず絶句した。
「そろそろ戻って来なるころじゃろと、夕飯をこしらえて待っていたんじゃわ」
嶽造はふたりを見ると、そう言って白い髭面をほころばせた。一日がかりで、この集落のまわりを歩きまわっていただけなのか。秀人は一度に疲れが出て、その場に座り込んでしまいそうな思いだった。竜二はよほどショックであったとみえ「なんでや、そんなん有りかあ」と言ったきり、その場にへたり込んでしまった。
「さ、ウチのなかへ入って休むじゃわ」
嶽造はそれまでしていた作業を止めて、先に立って家のなかへ入っていく。
「そういうことらしい、ま、今日のところは空振りだな」
秀人は地面に座り込んだまま動かない竜二の肩を叩いて促したが、彼自身も足が鉛のように重たかった。
「おまんらが、腹を空かして戻って来なると思うてな、冬瓜汁じゃがこれを召すと元気もでるじゃで」
二人が土間から上がって囲炉裏に腰を下ろすのを待って、嶽造は自在鉤に吊した鍋の蓋をとった。立ち上る湯気が、ふたりの空腹感をさらにつのらせた。傍でトメさんは、ジサマから冬瓜汁を食わせてもらうのを待っている。ここには、昨日と何ひとつ変わらない時間が流れていた。
二人が早朝から出かけたのも、山中をさまよった挙げ句にふたたび舞い戻ってくることも、嶽造はすべてを見通していたというのか。あの女がこの村の者なら、昼間に渓流で女と遇ったことも、嶽造はすでに知っているのかも知れない。それにしても、一体ここはどういうところなのだ。昨日から見かけた者はといえば、目の前に居るふたりの年寄りと、川でヤマメを捕っていた女だけではないか。他に人は住んではいないのか。ここにはその気配すら感じられない。
「明日にでも、おまんらと一緒に、部落のなかをまわろうと思いよるが、どがいじゃ」
箸を持つ手を止めたまま、考え込む秀人の心中を察するかのように、嶽造が声をかけた。
「何を言うてんのやジイさん、おれらはすぐにも帰らなあかんのや」
竜二が怒ったような言い方をした。
「ハハハ、そうじゃったわなあ」
嶽造はそう言って笑いながら、トメさんのくちもとへ冬瓜の小さな塊を運んでやっている。夕飯を食い終わるころには夏場とはいえ、すっかり暗くなっていた。
「こんなとこにいつまでも居てられるかい。明日は絶対にここを出ていったる」
嶽造が帰ってしまうと、竜二はまたも苛々して愚痴りだした。
「そう愚痴るな、狐に化かされるなんて、そうざらに経験できるものじゃないど」
「門脇さん、ほんまに狐て化かすんかなあ」
竜二の真面目くさった顔をみて、秀人はすこしからかってみたくなった。
「君は、きっと女狐にみそめられたのかも知れない、とすると、簡単にはここから出られないことになるな」
「そんな、嫌やでおれ」
竜二の困惑した顔をみて、秀人は声をたてて笑った。
「兄さ、もう寝るじゃわ」
そんな二人の会話を遮って一言、トメさんの姿が寝場所である奥の間の暗闇へ這いずっていくのを見届けると、昼間の疲れからか竜二はすぐに軽い鼾を立て始めた。
この村にきてから一週間がたっていた。ふたりは毎日のように、早朝から脱け道を探しに出かけた。そして日の暮れには決まって疲れ切った顔で戻ってきた。毎日が徒労の繰り返しで、そのたびに戻ってくるのがわかっていたように、嶽造は山菜汁を炊いて待っているのだ。
今日も朝から山のなかを歩きまわり、戻って夕飯を食い終えるなり、竜二は囲炉裏の傍に横になったまま鼾をかいている。このごろでは、蚤に血を吸われる痒さよりも疲れが上回っているのだ。
それにしても信じられないことに、ここは外部の世界とまったく遮断されているのだろうか。一週間も連絡を絶てば、家族が捜索願いを出しているに違いない。女房や大学生の娘と、高校へ通う息子の顔が浮かんだ。勤め先では、担当していた大規模墓苑の用地買収から関わっていたこともあり、事件にでも巻き込まれたかと、騒ぎになっているかも知れない。最初の三日ぐらいは、早く帰らねばと、胃が痛むような焦燥感に苛々してすごした。
しかしこのごろでは、そんな事柄を一切、忘れてしまっている時がある。それは説明しようのない、漠然とした解放感に似たものだ。かつて、カード地獄に陥り会社のカネに手をつけ、窃盗罪で捕まった同僚がいた。のちに彼の述懐を聞いたとき、塀のなかに入れられたそのときを境に、借金の取り立てに追われることもなく、家族や会社から責め立てられることもない。その安堵感に、彼は安らぎさえも感じたという。ちょうどそれに似かよった思いを、自分はしているのかも知れない。
竜二は明日もまた、外界へ通じる洞穴を探しに出かけるだろうが、何だか無駄な努力をしていると思えてきた。そうだ、明日にはひとつ、嶽造について村のなかを見てまわるか、ひょっとして、あの女に会えるかも知れんぞ。秀人は次第に目が冴えてきて、なかなか眠つかれなかった。
翌朝、例によって抜け洞穴を探しに出かける竜二に、秀人はここに居残って、嶽造とともに部落のなかを見てまわることにしたと告げた。
「門脇さん気はたしかか、信じられへんで」
秀人の心境の変化を竜二はどうしても合点がいかぬようだったが、仕方がないといった顔をしてひとりで出かけていった。
竜二の姿はすぐに霧に溶け込んでしまい、入れ替わりに嶽造がやってきた。
「今日こそおまんを誘って、地蜂の巣をとりにいこまいかと、そのつもりで来たじゃわ」
ジサマはそう言って肩にかけた竹籠を秀人に持たせると、自分はあぶら菜の乾し殻の束を小脇に抱え、ついてこいといわんばかりに先に立って歩き出した。
「ここへくる途中に、竜さがわしのすぐ横を通っていきないたが、吃驚させてもいかんと黙っておったじゃわ」
「こんな深い霧のなかでも、わかるのかなあ」
「そりゃ人でも獣でも近くで動きよりゃあ、気配でわかるじゃで」
嶽造は濃霧のなかでも、普段と変わらず視界が利くのか、老人とは思えぬ俊足で、秀人はともすれば霧のなかに見失いそうな影を、必死で追った。
やがて、霧が晴れるころ渓流に出た。嶽造は水のなかに入り、さらに流れに沿って歩き始めた。思いのほか水は冷たく、足の指先が痺れるようだ。両方の崖に何かを探る素振りで目を配らせて歩いていた嶽造が、突然立ち止まり秀人を振り向いてシダなどが繁茂する岸の一角を指さした。よく見ると窪んだところに穴があり、どうやらそこが地蜂の巣の入りくちらしい。嶽造は足もとの石を拾い上げて穴を塞ぎ、周囲をあぶら菜の乾し殻で覆い火をつけた。瞬く間に炎が穴の周囲を包んだ。
「こうすりゃ、蜂は焼け死んで巣のなかの子だけが残るじゃで」
もの珍しそうに見入る秀人の顔をみて、嶽造は得意げに微笑んだ。
蜂の巣とりから戻ってくると、嶽造はさっそく巣からまるまる太った白い小指くらいな蜂の子を取り出し、囲炉裏にかけた土鍋で炒り始めた。香ばしい匂いがあたりに漂うなか、奥の間からトメさんも這い出てきた。
「地蜂の子は滋養があるじゃで」
嶽造は言いながら、さっそく一匹をくちに放り込み、続いて傍で待っているトメさんのくちにも入れてやった。蜂の子は秀人にとって初めてだったが、くちにしてみると結構いけると思った。
朝飯を食い終わると、嶽造は秀人を誘った。村のなかを案内してくれるつもりに違いない。秀人はそう合点して快く応じると、嶽造は炒った蜂の子を竹筒に詰め、一つは自身が腰に吊し、もう一つを秀人の腰に吊させて出かけた。
「トメさも、あれで若い頃はええおなごでな、さんざん若い衆を泣かせたものじゃわ」
「するとジサマも、若いころにはトメさんの気を引こうと、あれこれあったわけだ」
秀人の相槌に、嶽造はアハハと豪快に笑った。
そのうち一軒の家のまえにきた。ここもトメさんの家と変わらず、背丈ほども伸びた雑草に半分は埋もれている。
「ここはクキのババサマのところじゃで、ババサマは自分で、小便や糞をまることができるで、まだましなほうじゃで」
嶽造は戸口を睨んだまま、ボソッと呟いて板戸に手をかけると引き開けた。クキと呼ばれる老婆は、上がりかまちからすぐのところで臥していた。一見して人が寝ているというより、襤褸切れが転がっているようにも見えた。
「ババサマ、具合はどがいじゃあ」
嶽造が声をかけると、老婆はこちらをむいてゆっくりと躯を起こした。
「地蜂の子を捕りにいくと言うたじゃろが、ほれ、持ってきてやったがの」
「そりゃどえらい、ごっつぉうじゃの」
嶽造が耳元で話しかけると、老婆は顔をしわくちゃにして喜んでいる。
「このお人は秀さじゃあ、トメさのところに居てなさる」
嶽造の紹介に、秀人は慌てて老婆に会釈をした。
「秀さ、裏へいって水を汲んできてくりょ」
当然のような嶽造の口ぶりに、秀人は頷いて家の裏へまわってみた。すると山からひかれた一本の竹筒の先から、小さな溜め池に水が流れ落ちている。両手で受けてくちに含み、秀人は思わず旨いと呟いた。
竹筒に水を汲んで戻ってくると、嶽造は蜂の子をすりつぶしたのを根気よく、老婆の口もとへ運んでやっている。
「これを喰らやあ、じきに元気がでるわいの」
嶽造は語りかけながら、老婆が歯のない口もとをつぼめて咀嚼するのを、目を細めて眺めている。
クキのババサマに、蜂の子を喰わせおえると、嶽造は次の家へ向かった。しばらくいって脇道へそれると、半分傾いた屋根がみえた。
「タメキチのトッツァマの家じゃ」
そう言うと、嶽造は戸を引き明けた。秀人もあとについてなかへ入ると、上がりかまちに近い壁際に、老人がもたれて座っている。
「トッツァマあ、どがいじゃ具合は」
嶽造が土間から大きな声で話しかけるが、名を呼ばれた老人は視線をはずしたままで一向に反応がない。嶽造が傍へ寄り肩に手をかけて揺すると、相手の体はそのまま、すうっと横へ倒れかかった。
「トッツァマは、弱りきっとたんじゃ」
嶽造は大きな溜息をつくと、ここはこのままにして、ひとまず次の家へいくと言った。哲夫が表に出ると、目の前に女が立っている。秀人は相手の顔を見て、思わず声をあげそうになった。以前に川で見かけた、あの女と容姿が酷似していたからだ。
「上の沢の、あねさまじゃ」
あとから表へ出てきた嶽造が、背後から秀人に女を紹介した。
「門脇秀人と言います」
「オイナと呼んでくりょ」
慌てて自己紹介をする秀夫に、女は微笑み軽くお辞儀をした。いまこうして間近で見れば、記憶にある容姿よりもかなり年増に思えたが、化粧っ気のない顔は意外なくらい艶やかだった。
「タメキチのトッツァマは死んでしもとる、よんべのうちにもういっぺん、看にくるじゃったわ」
「そういやぁ、朝からカラスがよう鳴きよったでな」
嶽造が告げると、女が相槌をうった。
「次々と逝ってしまうで、また寂しいことになるじゃ」
嶽造はタメキチのトッツァマの家をあとに、歩きながらぼそぼそと呟いた。これよりオイナと呼ばれる女も加わり、それから十軒ばかりの家を訪ねたが、どの家にも年寄りばかりが襤褸ぎれみたいに臥していた。
「すまんが、そこからババサマの尻を持ち上げてくりょ」
オイナさんに命ぜられるままに、秀人は動いた。着衣を脱がされた老婆の裸身に目をそむけたものの、意を決した秀人は、屈み込むと骨の突き出た尻のあたりに手を差し込み、頭の方に手を入れた嶽造と二人で老婆の体を横にずらせた。オイナさんが手際よく着物を広げ、ふたたび老婆をそのうえに寝かせた。いままで老婆が着ていた衣類は、持ち帰り水汲み場で洗ったあと、天日で乾かしておいて明日にまた交換するのだと嶽造は言った。老婆の爛れて膿が垂れている痩せ細った腹部や足に、オイナさんは手際よく竹の皮に包まれた青黒い軟膏状のものを指先につけては塗りつけ、うえから蕗の葉っぱをあてがい、包帯とは言い難い布切れで縛った。
「ほれ地蜂の子じゃ、ババサマの好物じゃったがの」
オイナさんは老婆の耳元にくちもとをくっつけるようにして語りかけ、擂りつぶした蜂の子を指先に取っては閉じた唇を無理矢理あけさせて食べさそうとするが、老婆は目を閉じたままで、その気力もなさそうに思えた。
「あねさまあ、もう充分に世話になったじゃあ、もうええじゃで、このまま死ないてくりょ」
突然に、老婆が振り絞るような声で懇願した。
「ババサマ、滅多なことは言わんこっちゃ、ちっとも案じるこたあないで」
オイナさんは老婆の肩を抱きかかえて、頬に伝う涙を、筒っぽの袖で目脂とともにふき取ってやる。
老婆の気持ちが静まり、眠りつくのを見届けて、三人はその家をあとにした。
嶽造はこれから、亡くなったタメキチのトッツァマを埋めにいくと言った。
墓場は集落から少し離れた雑木林のなかにあって、ここまでキンマ道が草に埋もれて続いていた。自然石のままの墓石が転がる墓地から仰ぐと、トメさんが拝んだ巨岩が正面から見下ろしている。しかし秀人がもっと驚いたのは、崩れかけた土盛りのところどころから人骨が露出していることだった。
「今年の春に埋めたんじゃが、わし一人ではもう墓穴も掘りきらんで、上から土をかぶせるだけでおいたんじゃが、おおかた狐がくわえて引っ張り出したんじゃろうて」
嶽造は話しながら、秀人に穴を掘るようにと、手にした杖で足もとの地面を指した。
亡骸がどうにか隠れるばかりの墓穴を掘ったところで、ふたたび秀人は嶽造とともにタメキチのトッツァマの家へ向かった。死ねばすぐに埋葬をしてしまうのか、死者の弔いはしないのか、秀人にはいまひとつ納得がいかない。
嶽造はそんな秀人の思いなど意に介さぬ様子で、彼に軒下に立てかけてあるキンマを、戸口まで運ぶように頼んだ。それは両側の二本の太い木を枠で支えた、ちょうどソリとおなじ構造の代物だ。嶽造は、このキンマに遺骸を載せて墓場まで運ぶと言った。墓穴の掘り手も、キンマの引き手も居らんようになってしもうて、困りきっとたところにおまんがきてくれた。これでわしの墓穴を掘ってくれる者が現れた、もういつ死んでもええじゃと、嶽造は本当に嬉しそうだった。
それから秀人と嶽造とのふたりで、タメキチのトッツァマの亡骸をキンマに載せた。トッツァマの亡骸は、あまりに軽かった。
いざキンマを引いてみると思ったより舵取りが難しく、秀人は何度となくキンマを丸太から外しかけ、その度に嶽造が大きな声で叱咤して舵を元に戻した。それでもなんとか墓地までやってくると、オイナさんが墓地の周囲にあるシキミの枝を払い落として、それを秀夫に掘らせた墓穴の底一面に敷いていた。亡骸を穴に納めると、その上からもシキミの葉で遺体が隠れるまで被せた。嶽造の言うには、狼でさえも嫌ったと伝えられるシキミは、葉っぱが棺の代わりであるのと同時に、動物が嫌う臭いと猛毒が死肉を貪りにやってくる獣を遠ざけるのだそうだ。
埋葬し終えると、オイナさんは真新しい土饅頭に向かい、その場にひざまずいた。嶽造もまた、オイナさんの背後まで歩み寄り深々と頭を垂れて合掌をしている。オイナさんは頭上で両手を合わせながら、口のなかで何かを唱え、地面に額がつくほどに何度も臥した。彼女が臥し拝むたびに丈の短い筒っぽうの裾が引っ張られて、そのつど白い尻が突き出て剥き出しになった。
墓場からの帰途、オイナさんは秀人たちと別れてひとりで帰っていった。嶽造と秀人がトメさんのウチの庭先までくると、足元に鶏の羽が散乱していた。不審に思う間もなく、竜二が畑のなかから現れた。その片方の手に、羽毛をむしった鶏をさげている。その彼にまとわりついて、山中で目撃したアカ犬がいた。犬は上目使いで秀人と嶽造を睨みつけ、低く呻った。「アカ、やめんか」竜二が叱りつけても、くぐもった唸り声をあげて口からは涎を絶え間なく滴らせている。
「芋や菜っ葉ばっかり食うてたら体が持たん。今日は久し振りに精をつけたるで」
秀人の顔をみるなり、竜二は手に持った鶏をかざして言った。
「そいつはトメさの鶏じゃ、一番に卵を産みよったに、また荒けないことを……」
嶽造が顔をしかめて言った。狐が化かすといった冗談を本気で怖がる竜二が、まさか自ら鶏を絞めるとは思いもよらなかった。人間も我慢の極限に近づくと野生に戻るのか、秀人はすぐには言葉がでなかった。嶽造は卵をよく産む鶏を絞められたことが、余程ショックだったらしくて、早々と帰ってしまった。
その晩は秀人も、久し振りに鶏肉のご相伴にありついた。もっともトメさんと嶽造に気兼ねをして、二人は庭先に石積みの炉をこしらへて、そこで鶏肉を焼きながら食った。
「どう考えても、おかしいなあ、女を追いかけて迷い込んだ、あの洞穴がどうしても見つからん」
焼けた肉をくちで引き裂き、傍らのアカ犬に投げてやっていた竜二が突然に手を止めて言った。
「まぁ、こうなったら焦っても無駄だ。そのうちきっと見つかる。アカ、おまえ、もしかして洞穴の場所を知っているんじゃないのか」
「こいつと山の中でいつも出くわすんや、もしかしたら、アカもここへ迷い込んできて、出口を探しているのかも知れん」
「そういえば、あのときも山ンなかで遇ったんだったな」
「いつまでもこんなとこに居てたら、飢え死にするのが落ちや。おれは門脇さんみたいに悠長に構えてられへん。あのジジィ、とぼけてるけど道を知ってるはずや」
「腹を据えろや、そのうちジイさんも洞穴の場所を教える気になるよ」
「くそジジィめ、締めあげたろか」
竜二は吐き捨てるように言ったまま、黙ってしまった。何とはなしに目をむけると、墓地のあるあたりに一条の青白い光りが真横に流れるのが見えた。それは間をおいて一つであったり、二つであったりした。
「門脇さん、あの光りは何や」
竜二も気付いたのか、問いかける声が怯えている。
「狐火いうてな、獣が骨をくわえて走ると、その骨の燐が光ってああ見えるのだ、子供のころにはおれの郷里でも見たことがある」
「やめてや、恐い話」
向こう意気だけは強がりなくせに、竜二が本気で怖がっている様子が秀人には可笑しかった。
竜二は久し振りの美食に満足したのか、家のなかに入ると囲炉裏の横にごろりと寝ころんだ。ましてや、一日歩きまわったことで、かなり疲れたとみえて、すぐに鼾をかき始めた。トメさんも、すでに奥の間で寝入っている。
秀人は食い残した鶏肉の残りを入れた魚籠を腰に結わえつけ、ひとりトメさんの家をあとにした。月明かりのなか、キンマ道を上の沢の方角にむかって急いだ。そこにはオイナさんが居るらしい。嶽造もオイナさんのことは、あまり喋ってくれないし、彼女もまた、トメさんのところへは立ち寄ることもしない。嶽造やトメさんの居る下の沢部落と、オイナさんの居る上の沢部落とは、どんなかかわり合いなのか。
突然にキンマ道が途絶えた。草に埋もれて道は延びているが、キンマを滑らせる枕木がそこで終わっている。大体の見当からすれば、もうこの辺りは上の沢のはずだ。オイナさんの家は、そのもっとも奥まったところだと、嶽造がたしか言っていた。川筋に沿って歩いている筈だが、背丈近い灌木に遮られていて川の流れる音だけがする。そのとき、トウキビ畑の先に民家らしき屋根が見えた。秀人のいる場所より低いところにあって、ここからは屋根しか見えないのだ。畑に沿った道なりに下っていくと、その家の庭へ出た。開けられたままの戸口からなかを窺うが、暗くて様子がまったくわからない。家の裏側へまわると、そこは川縁だった。
流れの中ほどに腰を屈めた人影があって、一目でそれがオイナさんとわかった。水面に顔を近づけていて、割れた筒っぽうの裾からのびる脚が、月明かりに白々と眩しい。秀人は声を呑んで見つめるうち、突然にオイナさんが顔をあげてこちらを向いた。
「このまえの魚籠を、返しにきたんだけど」
秀人は咄嗟にそう言ったが、オイナさんは何も答えない。彼女の素性が確かめたくて来たものの、やはりまずかったか、不審に思われるのはまずい。そう思うと居たたまれなくなり、魚籠を傍らの木の枝に引っかけて、足早に立ち去りかけたときだった。呼び声に振り返ると、彼女が川からあがってくる。
「仕掛けておいた梁で、ヤマメを掴んどったじゃあ、夜さりは動きが鈍りよるで、掴み捕るのには一番じゃで」
オイナさんは言いながら「ほれ、こんね、ぎょうさん捕れたじゃ」と魚籠のなかを見せ、先にたって表側へ歩いていく。彼女がさほど気にしていないことに安堵した秀人は、先ほどの魚籠を枝から外して、あとについていった。
「連れの竜二の奴が、トメさんの鶏を勝手に絞めてしまいやがったんだ」
縁側に腰をおろしたオイナさんに、秀人は困ったやつだという顔をして、魚籠を差し出した。
「それで、ジサマは怒ったんな」
「いや、怒るより、もう諦め顔だったな」
「芋と菜だけ食わせていた日にゃあ、ジサマも怒りなさるわけにもいかんじゃろで」
オイナさんはそう言って、可笑しそうに肩を揺すって笑った。
「あの、妙なことを尋ねるけど、この村には金髪に染めた女性もいるのかなあ」
いまひとつ、腑に落ちない顔で訊ねる秀人に、オイナさんはつと立ち上がると、暗がりの家のなかへ入っていった。しばらくして、現れたオイナさんを見て、秀人は思わず絶句した。彼女の頭髪が、金髪に変わっていたからだ。そして目のまえに居るのは、紛れもない、洞穴へ逃げ込んで消えたあの女だ。
「あんたは……」
「おまんらが見かけたのは、このわしじゃわ、こらえてくりょ」
「そうだったのか、しかし、カツラまで用意するとは、芸がこんでるなあ」
オイナさんは感心しきる秀人に、すぽりと脱いだカツラを差し出した。手に取ると手触りが髪の毛とは異質で、造りもなんとなく粗雑な感じだ。
「なんだか、手造りの素朴さがあるなあ」
秀人の呟きに、彼女は縁側から下り立ち、庭先の畑からトウキビをひとつもぎ取ってくると、悪戯っぽく笑いながら秀人の眼前でぐるぐるとまわした。
「なんだ、金髪はトウキビの毛ってわけか」
秀人は思わず呻いた。オイナさんによると、乾燥させたトウキビの毛は、色も見栄えもカツラに丁度よいらしい。
「秀さ、怒っているのじゃろ、このとおりじゃで、こらえてくりょ」
ふたたびオイナさんは、すまなさそうに詫びた。
「なにせ、嶽造のジサマも八十じゃし、わしとても五十になるじゃ。あがいにようけな年寄りの世話をするこたあ、もう無理じゃった」
「オイナさんは、とてもそんな歳にはみえんなあ。てっきり、若い娘と思い、洞穴のなかまであとを追っかけたんだから」
感心する秀人に、オイナさんは少しはにかんだように微笑んだ。
「ところでオイナさん、ジサマについて村のなかをまわって思ったんだけど、一軒一軒まわっていたら大変だ、せめて身動きできない年寄りたちだけでも、一カ所に集められないものかなあ」
実際にそうすれば無駄な労力を使わなくてすむし、世話をするうえでも合理的であると思えた。
「これまでは死人を墓場へ運ぶのも、上の沢の者は、わしが一人でキンマを引いて運びよったが、このごろでは、そうもいうとれんようになった。ジサマも昨年あたりからは、えろう弱りなされとるで、秀さの考えはそりゃええじゃが、年寄りらはみな自分のウチで死にたがるでなあ」
オイナさんはそう言ってから、かつて、ここには上の沢、下の沢ふたつの部落に住む、それぞれの未婚の男が、相手部落の娘に夜這いをかけて連れ帰り、嫁にする習わしがあったというような話をして「むかしのことじゃわ」と言って微笑んだ。どこからかアカが現れて寄ってくると、縁側に置いた魚籠を嗅ぎまわりだした。相変わらずだらりと垂らした舌の先から、涎が絶え間なく滴っている。
「この犬も、外から迷い込んできたんじゃ」
オイナさんはそう言って、シッシッと追い払いながら、犬から魚籠を遠ざけた。諦めたのか、アカはしばらくして居なくなったが、涎のあとだけが、地面に黒く染みを残していた。
「それじゃ、こんな夜遅くに下の沢から出かけてくるのは、夜這い目的になるわけか」
秀人の冗談めかした言い方にも、オイナさんは黙って微笑んだ。
よく朝、たちこめる霧のなかを、秀人は足早にキンマ道を下の沢にむかっていた。うしろから名前を呼ばれて振り向くと、オイナさんが追ってくる。
「上の沢へきて夜這いをかけたら、相手の女を連れ帰る決まりなんじゃ」
オイナさんは息を切らせながら、夕べ話したじゃろが、と言って睨み付け、秀人の腕を掴んだまま歩いた。トメさんの家までくると、柿ノ木の傍に嶽造が立って居た。
「今日からは、上の沢も下の沢も一緒じゃな」
嶽造はふたりの姿をみると、笑みを浮かべて言った。
「ジサマ、両方の部落の年寄りをひとところへ寄せたら、世話をするのにも都合がいいと思いますが」
「そりゃなるまい、どがいしてでも、年寄りらを自分のウチで死なせるじゃ」
「年寄りらを一カ所に集めたら、上の沢の端から下の沢の端まで歩きまわることもない。それに、いつでも年寄りらに目が届きます」
秀人は昨夜オイナさんに話した考えを、嶽造にも熱心に説いた。嶽造は黙って聞いていたが、寝たきりの年寄りたちにどう言い聞かせるのかと、納得しかねる顔だった。
「ためしに、秀さのいう通りにしてみるじゃ」
傍でふたりの会話を聞いていたオイナさんが秀人に助け船を出して、しぶしぶ嶽造も折れた。
「年寄りらを集めるのは、わしのウチがええと思うたが、上の沢の奥では遠すぎる。見たところ、このトメさのウチが一番しっかりしとるで、ここに集めたらどがいじゃ」
「雨漏りがしてるところに寝かしているより、ずっとましだと思いますよ」
オイナさんのあとを、秀人が続けた。
「そがいなことができるかのう。とにかく、わしがトメさに話をしてみるで」
嶽造はそう言って、二人の提案に頷いた。三人が表で話をしているところへ、家のなかから竜二が飛び出してきた。
「たまらんわ、ダニか蚤か知らんけど寝てられへん」
竜二は声高にがなり立てながら、三人のまえでシャツを脱いで大袈裟に振り払った。
「鶏肉のせいだ、それに違いない」
秀人は竜二に近寄り、小声で囁いた。
「そうかて酷すぎる、ジイさんもバアさんもよう平気で居られるなぁ」
「あの人たちはもう慣れっこだ。それに蚤にしろダニにしろ、年寄りより若い元気な方の血がよいにきまってる」
「アホくさ、門脇さん冗談言うてる場合か」
竜二はやや憤然として言い返したが、すぐにオイナさんに気付いて素っ頓狂な声をあげた。
「門脇さん、その女は」
「そうだ、このまえ川で僕らが吃驚させて、魚籠をおいて逃げていったあの女だ」
「うそや、もっと若かった思うけどなあ」
しげしげとオイナさんを見つめて、竜二は信じられないという顔をしている。あのときは、離れて見たから若く思えたんだろうと、秀人が答えると竜二は「そうかなあ」といまひとつ納得できない様子だ。そんな竜二をみて、秀人は思わずオイナさんと顔を見合わせて笑った。
「ちょうどええじゃわ、ジサマやババサマを移すのを、竜さにも手伝うてもらうじゃで」
「何が竜さや、そんな暇はないわい」
オイナさんに言われて、竜二はむっとした顔で、つっけんどんに答える。その様子をみていた秀人は、慌ててふたりのあいだに割って入った。
「竜二君そう言うな、トメさんの鶏を喰ったんだろが、元気の出たところで一日手伝えよ」
「門脇さん、ほんまは鶏を殺ったんはアカやねん。けど、そのためにアカがあいつらに殺されたら可哀想やよってに、おれが殺ったことにしてんや」
竜二は秀人の耳元でそう囁いたあと、しぶしぶながら同意した。
やがて霧が晴れ上がるのを待って、上の沢と下の沢に居る寝たきりの年寄りたちを、トメさんの家へ移す作業が開始された。そして、一番に離れている上の沢部落の年寄りから、順次移すことになった。
年寄りのなかには、自分の家から出ていくことをどうしても嫌がり、嶽造とオイナさんが言い聞かせるのに、苦労する場面も見受けられた。
それでも宥めすかされ、何とか承諾した年寄りたちは、秀人と竜二に背負われ、トメさんの家まで連れていかれた。
五人の年寄りたちを、トメさんの家に移し終えるのに、おおかた昼前までかかった。トメさんの家では、年寄りたちは軒下の日陰にむしろを敷き、その上に一列に並べて寝かされた。秀人は竜二に水を汲んでくるように言い、自らは畑のなかほどに、運んできた布団を干すための干台をつくるために、丸太を蔓で結わえて組み始めた。かたやオイナさんは、年寄りたちの着ている衣類を次々と脱がせにかかる。嶽造はあぶら菜の乾し殻を小脇に抱えて、秀人の組み立てた丸太の傍らに置いていく。それぞれが割り当てられた役割を、黙々とこなしている。秀人が布団を干し終えた頃、水汲みにいっていた竜二がやっと戻ってきた。おおかたヤマメでも追って、あぶらを売っていたに違いない。
「うわあ、凄い眺めやなあ」
ムシロのうえにずらりと並ぶ、素っ裸にされた年寄りたちをまえに、天秤棒をかついだままで竜二は目をむいている。
「そこえ置いてくりょ」
振り向いたオイナさんの指示に、竜二はまだ引きつった顔のまま、水桶をその場におろした。
「おい、ババサマのヌードに見とれてないで、こっちへきて手伝えよ」
「アホな、カビだらけの股ぐらなど、気色わるうて絶対に見たないわ」
顔を歪めて竜二が傍へ来ると、秀人は棒切れを渡した。嶽造があぶら菜の乾し殻に火をつけ、干してある布団の下に差し入れた。「それっ、叩け」秀人の号令に、ふたりは手に持った棒切れで布団を叩いた。嶽造は布団に火が燃え移らないように、燃え上がる乾し殻をせわしく左右に動かせ、パチパチと小さく爆ぜる音がする。
「こら一体、何のマジナイや」
「手を休めるな、こうして蚤を退治してるのや」
そうして布団の蚤退治がすむと、今度は脱がせた年寄りたちの着ていたものを、おなじように炎のうえではたいた。
その間にも庭先ではオイナさんが、竜二の汲んできた水で年寄りたちの体を順番に拭いてやっている。年寄りたちは股間や腰のまわりなど、皮膚の爛れた部分に塗られる軟膏が滲みるのか、ときどき悲鳴ともつかぬ呻き声をあげた。これは数種類の薬草を蕗の葉で包んだものを、昨夜オイナさんが一晩かけて、囲炉裏の灰に埋め込み、蒸し焼きにしてこしらえたもので、化膿止めの妙薬らしい。
「肌が乾いたら着物を着せるまいか。いつまでも股ぐらを放り出していては、ババサマらのホトが風邪を引きなさるで」
嶽造の言葉を合図に、オイナさんは年寄りたちに着物を着せ始めた。秀人と嶽造も相手が痛がらないように、慎重にオイナさんの作業を手伝った。ただ竜二だけは手を貸そうとはせずに、少し離れたところから、その様子を眺めていた。
そのあと屋内の蚊を追い出すのに、針葉樹の枝を燻したあと、次々に年寄りたちを家のなかへ連れて入った。トメさんの家は思ったよりも広くて、年寄りたちを寝かせても囲炉裏の端には、秀人やオイナさん、それに竜二らの寝場所は充分に確保できた。
日が暮れはじめると、嶽造が自分はここで寝るから、秀人とオイナさんにわしのところで寝るようにと言ったが、ふたりともここに居るほうが夜中に年寄りの世話がし易いからと断った。嶽造は竜二にも、自分の家へ来ないかと誘った。竜二は心を動かせたようだったが、鶏の一件で気が引けるのか結局いかなかった。嶽造は仕方なく、それではあとを頼むと言い残して帰っていった。するとこんどはトメさんが、秀人とオイナさんに奥の座敷で寝るように言いだした。
「兄さの方から上の沢までいって、あねさまに来て貰ろたじゃで、粗末にゃあできんて」
「ここはババサマのウチじゃ、わしらに気を遣わんでもええじゃわ」
気を遣うトメさんをオイナさんが宥め、しぶしぶトメさんが奥の寝間へ這いずっていくと、めいめいが囲炉裏端に寝ころんだ。うとうとしかけたとき、いきなりの奇声に秀人は思わず上半身を起こした。壁際に寝かした老人が、しきりに何かを言っているのだ。訴えていることを聞いてやるつもりで、傍へ寄っていったが、いくら耳を傾けても意味が通じかねた。やむを得ずに囲炉裏端へ戻ろうとしたとき、寝ているとばかり思った竜二がむっくり起き上がった。
「ちっ、こんなところで寝てられるかい」
竜二は腹立たしげに舌打ちして、土間に下り立ち暗がりのなか表に飛び出していった。それをみて、秀人は竜二を追って表へ出た。竜二は柿ノ木の下に佇み、空を見上げている。
「門脇さん、明日にでもここから出ようや、何が悲しゅうて死にかけのジジィやババァの世話をせなあかんのや」
「ここに厄介になってる以上、なにか役にたつことの一つもせねば、自分は親が生きているあいだに、なにひとつ孝行らしいこともしなかった。せめてここの年寄りらを、親だと思い世話をしているわけだ」
「門脇さん、あんたはそれでええか知らんが、おれはもうごめんやからな、明日こそあの洞穴を探し出したる。それにバイクも洞穴の向こうで待ってるわ」
秀人は竜二の思い詰めた表情に、いまの彼に何を言っても無駄だと思い、黙って頷くよりほかなかった。
「やっぱりこんなところで寝てられんよってに、とにかく今夜はあのジイさんのところへいって寝るわ」
竜二はそう言い捨てると、カヤの大木が影を落とす、嶽造の家を目指していってしまった。ふたたび家のなかへ戻った秀人は、暗がりのなか手探りでオイナさんの臥している場所を確かめて傍に横になった。
「竜さは、ジサマのウチへいきないたか」
暗がりのなか声のする方に腕を伸ばすと、手の先が生温い肌にふれた。触れたのはオイナさんの太股で、なおもまさぐると掌を内股で強く挟み込まれた。折からまたしても甲高い声で老人の独り言が始まったが、今度は聞き流して、彼女に密着するまでにじり寄った。上体を起こした秀人が、オイナさんの筒っぽうの胸元を広げて乳房を吸おうとした折りに、つま先で足もとに寝ている老婆の頭を軽く蹴ってしまった。慌てて身を引こうとした秀人の背中を、下からオイナさんの両腕がしっかりと抱き寄せた。
よく朝、秀人は目覚めると、いまでは日課になっている水汲みに出かけた。表に出ると両腕を大きくあげて思いっきり深呼吸をしてから、天秤棒で水桶を担って水汲み場への坂道をおりていきながら考える。
このごろ、こうした毎日の暮らしに甘んじているばかりか、そんな日常に積極的に溶け込んでいる、自分の気持ちの変化に驚くことがある。家庭も仕事も放棄している後ろめたさと、その一方では言い知れぬ安堵感とが、心のうちで奇妙に同居していることへの戸惑いなのだ。
その日は秀人とオイナさんのふたりで、薪をこしらえに山へ入った。手頃な雑木を切り倒して薪にすると、その場所に積み上げておいて、後日に背中に背負ってキンマ道まで運び出すらしい。そのあと、ふたりは上の沢へいき、オイナさんの仕掛けていた梁でヤマメの掴み捕りに時を忘れて興じた。
昼に戻ると言って出かけた秀人とオイナさんが、下の沢のトメさんのウチに戻ってきたとき、嶽造は寝たきりの年寄りたちに、遅がけの昼飯に、ナメコ汁をつくって食わせているところだった。
「ジサマ、上の沢で捕ったヤマメが今晩の御馳走です」
秀人はヤマメを入れた魚籠を、嶽造にむけて腕高く差し上げてみせた。
「よう肥えとるじゃで、こりゃ旨いじゃわ」
上がりかまちまで這ってきたトメさんが、魚籠をのぞき込んで言うと、嶽造がその様子をみて「むかしはトメさも、ヤマメを獲らせば下の沢では一番の名人じゃったでなあ」と、しみじみとした顔で言った。
その間にも、オイナさんは寝ている年寄りたちの敷き布団の下に、次々と乾葉を差し込んでいる。
「この乾葉は、蚤よけじゃで」
不思議そうに見つめる秀夫と目が合うと、オイナさんはそう言って微笑んだ。上の沢から戻るときに、彼女が背負っていた竹籠いっぱいに詰まっていた葉っぱに違いない。
夕方ちかく、囲炉裏端で柴の小枝に刺したヤマメを焼き始めると、臭いに誘われたのかアカがひょっこり現れて土間へ入ってきた。傍にきて上がりかまちに前足をかけ、だらりと舌を出したくち元から涎を垂らしながら盛んに尾を振る。秀人がヤマメの頭をちぎって投げてやると、それをくわえて表へ出ていった。
アカと入れ替わりに、竜二が戻ってきた。空腹と疲労のためか、無言のまま土間へ入るなり崩れるように上がりかまちに腰を下ろした。
「わかってんねんど、おまえらが知ってて教えへんのは、黙っててもそのうち絶対に白状さしたるからな」
竜二は突然に、嶽造とオイナさんを睨み付けて喚いた。
「竜二君やめんか」
たまりかねて秀人が叱ると黙ったが、その顔はまだ気がおさまらないというふうに、嶽造とオイナさんを睨み付けている。
「おれが手掴みで捕ったヤマメだ。旨いぞ」
秀人が焼き上がったばかりのヤマメを差し出すと、竜二は受け取るなりせっかちに頬張って、熱さに目を白黒させた。
オイナさんは、焼けたヤマメを頬をふくらませて吹いて冷ましながら、小さい肉片を年寄りたちに食べさせている。それに気付いた秀人は、炉端を離れてオイナさんを見習い、指先でほぐしたヤマメの肉片を、年寄りたちのくちへ運んでやった。
その夜、嶽造が竜二を伴って帰っていったあと、秀人はオイナさんに、先ほどの竜二の非礼な態度を詫びた。
「おまんが、気を病むことはないじゃわ」
オイナさんはそう言っただけで、囲炉裏端に横になると疲れたのか、すぐに寝息を立て始めた。秀人は洞穴へ逃げ込んだ金髪の女が、オイナさんであることを、竜二には絶対に打ち明けないでおこうと決めた。もしそれを知ったら竜二のことだ、あの洞穴の場所を教えろと本気でオイナさんに詰め寄る違いない。ましてやオイナさんが応じなければ、見境のない暴力に訴えてでも、聞きだそうとするのは目にみえている。竜二には悪いが黙っているのが賢明だろう。一旦そう決めると何となく気持ちが落ち着き、いつしか眠りにおちていった。
目覚めとともに秀人は表へ出て、いつものように深呼吸をした。真夏にもかかわらず、ひんやりとした山の冷気が体を引き締める。「お早うっす」朝もやのなか、突然に声がして竜二がやってきた。
「門脇さん、今日あの洞穴が見つからんかったら、山越えしてでもおれはここを出るつもりや」
竜二は思い詰めたような、昨夜オイナさんや嶽造に悪態をついたときと変わらぬ、厳しい表情をしている。
「山越えは危険だ、命がけになるぞ」
「どっちにしても命がけや、山のなかは冬も早うくるやろ、愚図ぐずしてたら雪に閉じこめられてしまうやないか」
竜二は秀人を誘っても無駄だと思っているのか、それだけ言うとすぐにいってしまった。
そのあと、秀人は水を汲みにいって戻ってくると庭先にオイナさんが居た。彼女は、射し始めた太陽に向かって合掌している。
「お早うさん、まったく竜二は懲りないやつだ。今朝もはやくから、ここからの出口を探しに出かけていった」
秀人は担っていた水桶を下ろすと、竜二のことがまだわだかまっていて、オイナさんの顔をみるとつい言い訳がましくなった。
「わしんたのジサマの、そのまたジサマのころの話じゃで。ここらあたりに、どえらい大きな地震があったげな。そりゃ天地が裂けるほどに山が崩れ落ちて谷が埋まり、部落から外へ出る道が塞がれてしもたんじゃと。けど、村役場も何の助けもせぬばかりか、部落を見殺しにしたんじゃ。昔のことじゃで、県の役人も、こがいな山奥まで調べには来なんだじゃろ」
「そうか、昔にそんなことがあったのか」
「それ以来じゃ、部落の者は久しか外との交わりを断って隠れ住んできたじゃあ」
オイナさんは話し終えると、薪を小脇に抱えて家のなかへ入っていった。
秀人はその日、嶽造と自然薯を掘りにいった。珍しく良質の自然薯にいきあたって、嶽造は上機嫌だった。よく肥えた自然薯を五本ばかり提げてふたりが戻ってきたとき、まだ陽があるのに珍しく竜二の姿があった。
「門脇さん、ちょっ、ちょっと」
秀人をみると、竜二はやや興奮した顔で自分が先に立ち、柿ノ木が大きな影を作っている下まで呼んだ。呼ばれるままにいくと、近くに誰も居ないのを確かめ竜二はくちを開いた。
「やっと、洞穴の入り口を見つけたんや」
「よく確かめたのか、この辺りには似通った洞穴がいくらもあるらしいぞ」
「間違いない、絶対にあの場所や、何よりの証拠に、あの妖怪みたいな大木がその近くにあった」
竜二は、目的の洞穴を見つけられたことで、ひどく興奮している。
「こうなったら、明日にでも脱出や」
「………」
「門脇さん、ジジイとオバハンには黙ってて、朝こっそりと脱け出そうや」
「せっかくだが、おれはここに残る。君一人でいけよ」
「門脇さん、まさか、本気でずっとこんなとこに居続けるつもりでっか」
竜二は、信じられないという顔をした。
「おれはな、この妙な村の人たちと、もう少し付き合って居たいと思う。わかってくれないだろうけどな」
「そうかてこんなとこに居てたら、死んでんのとおんなじようなもんやで」
「おれのことは構わなくていい、それより充分に気をつけていけよ」
竜二は、どうしても秀人の気持ちが解せない様子だったが、それ以上は何も言わなかった。いまの彼にとっては、余計な事柄にエネルギーを使うよりも、ここから無事に脱出できるかどうかが、はるかに重大な事柄に違いない。
「夕飯を召さんか」
オイナさんが表に出て、ふたりを呼んだ。
「あのオバハン、洞穴の場所を知ってやがったに違いない。腹の立つ、いてもたろうか」
拳をかざしてオイナさんを睨み付ける竜二を、秀人は慌てて制した。
自然薯を摺り下ろした、とろろ汁の夕飯を食いおわるころには、あたりはすっかり暗くなった。竜二は大きな欠伸をひとつして、明日の朝はやく出かけるからと嶽造の所へ寝にいくために腰をあげた。
「門脇さん、ここを脱け出たら、おれはもういっぺんバイク便で勝負したるで、こんなとこで死んでたまるかい」
見送って表に出た秀人に、竜二は満天の星空を仰いで言った。
「君はまだ若いから、これから何にでも挑戦できる。頑張れよ」
「門脇さん、もし考え直したら、明日の朝、この柿ノ木のところで待っていてくださいよ」
竜二は真顔で言い「それじゃあ」と手を軽くあげた。いつの間にかアカが現れて、竜二にまとわりつきながら去っていく後ろ姿を、秀人はいつまでも見送った。
夜明けとともに目覚めた秀人は、隣りに寝ているオイナさんがまだ寝息を立てているのを確かめ、そっと起き抜けると表に出た。待つ間もなく、竜二がやってきた。いつになく緊張気味の、それでいて、どこか晴れやかな表情は、やっとここから脱出できることの期待と意気込みの現れだろう。
「門脇さん、絶対に待っていると思てたわ」
「おれの気持ちは変わらんよ、まあ、短い付き合いだったけど、気をつけていけや。それから絶対に無理をするな、危険だと思ったら迷わずに引き返してくることだ」
「わかった、門脇さんも元気で」
いつも負けん気な竜二が、少し涙目になって秀人の手を握った。
「これ、腰につけていけよ」
秀人は、かねて用意をしていた魚籠を差し出した。魚籠のなかには、一晩囲炉裏の灰に埋めておいた拳大の里芋を二つと、上の沢のオイナさんの畑で穫ったトマトや瓜を入れてあった。もし洞穴のなかで迷ったとしても、一日や二日はこれで何とか飢えをしのげるはずだ。
「おおきに」竜二はペコリと頭を下げ、別れの思いを振り切るように背をむけると、足早に遠ざかっていった。
竜二を見送り家のなかへ戻ると、オイナさんは目覚めたばかりの顔で、家のなかに入ってきた秀人をみている。
「水を汲みに、いってくるから」
秀人はなにくわぬ顔でオイナさんに声をかけ、立て掛けてある天秤棒を手に取ると、はしりの水桶を担いでそそくさと表へ出た。竜二が抜け道の洞穴を見つけたことや、いま、まさに外の世界を目指して出かけたことをオイナさんにも黙っていた。竜二がでていくのは彼の勝手だし、別に隠す必要もないと思えることなのに、なぜか言いそびれた。
いつもの朝は、寝たきりの年寄りたちの世話が一段落すると、そのあと小一時間ばかりを三人があれこれと語らいながら朝飯を食べる。それから上の沢と下の沢に居残る年寄りの家を三人で手分けして訪問するのが日課なのだ。ところが今日に限って、嶽造は朝食を食い終わるとすぐに腰をあげ、何も言わずに出かけていった。
「今日はジサマ、どうしたんだろ」
何かといえば秀人を誘う嶽造が、黙って出かけるのは珍しい。
「おおかた茸でも採りに、いきなったんよ」
大きな底浅のザルに、摘んできたヤマヨモギを並べていたオイナさんは、顔もあげずに言った。彼女は薬草の知識が豊からしくて、ひまがあれば、こうして色んな薬草を摘んできては陰干しにしている。
竜二はいまごろ、見つけておいた洞穴を目指して山中を歩いていることだろう。うまく外界へ脱出できればよいが、秀人は涙目で握手をして別れていった彼の成功を祈った。
「わしはこれから上の沢をまわってくるで、秀さは下の沢をまわってきてくりょ。それから、このあいだの山へ入って、柴を刈っておいてくりょ」
囲炉裏ばたで物思いに耽っていた秀人に、オイナさんが声をかけた。囲炉裏で焚く薪は、冬に焚くぶんまで、いまから用意しておかねばならないのだ。
「わかった、それでオイナさんは山へは来ないの」
「わしの畑で大根を抜いてくるじゃ、いまからは、猪に荒らされるだけじゃで」
オイナさんは喋りながら、年寄りたちに配る蕎麦団子を入れた竹籠を持ってきて秀人に渡した。
秀人が年寄りたちの家を訪れると、それぞれが気分の良い日には、自分だけが知っている山菜の群生地や山鳥の捕まえ方、ヤマメのよく捕れるポイントなどを教えてくれた。
「おまんに言い伝える事ができて、ほんによかったじゃわ」
話したあとで年寄りたちは、必ず満足げにそう言った。秀人にしても、これは結構楽しいものだった。
下の沢の年寄りたちに食事を配り終えると、秀人は薪をつくるために山に向かった。亡くなったタメキチのトッツァマの家のまえを通りそのまま山道を登れば、このまえにオイナさんと来た薪を切る場所にいきあたった。そこからは、一筋の渓流の流れが光り、下の沢、上の沢の部落が一望にできた。秀人は、その箱庭のような景色にしばし見とれた。
そろそろ正午に近いと思えるが、ここでは時計など見るのも忘れるくらいに、時間に対する概念がなくなってしまった。腹が空けば何かをくちに入れて胃袋を満たし、夜がきて目蓋が垂れ下がってくればそのまま寝入る、そんな暮らしなのだ。
秀人は切り出した薪の束に腰をおろすと、ウエストポーチ代わりに腰につけている魚籠から瓜をとり出した。山へ入りがけにタメキチのトッツァマの畑に取り残された瓜を三本ばかり見つけ、もぎ取ってきたやつだ。表皮が黄色くなって熟れすぎているが、かぶりつくとひね過ぎた瓜は水気が少ないうえに種が大きく、咀嚼するたびにペッペッと大袈裟に種を吐き出さねばならなかった。それでもいっときの空腹を満たせた秀人は、そのまま束にした薪を枕に寝ころんだ。竜二はいまごろ洞穴のなかを這いずりまわっているのだろうか、などと考えるうちに睡魔に襲われ、いつしか寝入っていた。
喧しい烏の鳴き声で秀人は目覚めた。すっかり寝込んでしまっていたようだ。早く帰らねば、年寄りたちの夕食を配る頃だとしたら大変だ。オイナさんはすでに、芋汁などを炊いて待っているかも知れない。
秀人が急ぎトメさんのウチへ戻ってきたとき、そこにオイナさんの姿はなかった。嶽造もまだ戻っていないとみえ、家のなかも時おり年寄りたちの独り言を聞くぐらいで、ひっそりとしていた。囲炉裏の燃え残りの薪は完全に消えていて、いつものように微かな煙も揺らいではいない。囲炉裏端で、じっとこちらを見ているトメさんと目が合って訊ねてみた。
「さぁ、やっと見んで、そういやあ、足もとを固めていたで、山へいったんじゃわ、それより兄さ、水を一杯飲ませてくりょ」
トメさんは、目脂の溜まった目をしばたいて言った。秀人がトメさんに水を飲ませてやっているところへ、慌ただしい足音がして戸口からオイナさんが顔を覗かせた。
「秀さ、えらいことじゃぁ、はよう出てきてくりょ」
彼女の切迫した様子に、秀人は慌てて表に出ていった。表に出ると、そこには嶽造も居るではないか。
「竜さが奥山の崖下で倒れとったんじゃと、ジサマが見つけて知らせてくれたんじゃ」
オイナさんが息急いて一気に喋った。竜二は頭から足の先まで、蔓で編み上げたムシロにくるまれた状態で、竹のソリに乗せられていた。
「竜二……」
わずかに顔の部分を開けて、秀人が大声でいく度も名を呼んだが、反応はなかった。
「茸を採りに山へ入ったんじゃが、途中で竜さが倒れとったじゃあ、そらもう吃驚したでな。おおかた足を滑らせてずり落ち頭を岩に打ちつけたんじゃろが、わしが見たときにはもう息をしとらんなんだ」
嶽造は見つけたおりの状況をのべると、両手で持った杖で躯を支え、息苦しげに肩を波打たせた。それにしても、ふたりが険しい獣道を竜二の遺体を引きずり、ここまで運んできたというのか。秀人は、にわかに息苦しさを感じた。竜二が死んでしまうとは、あまりにも突然すぎて、言葉すら失った。
「あがいに元気じゃったになあ」
オイナさんが沈痛な顔をして言った。目を見開いた竜二の顔は、突然の恐怖に膠着したまま苦痛に歪んでいる。ここからやっと脱け出せると、興奮気味に語っていた彼の顔がいまさらに浮かんで、秀人は胸がつまった。
「こがいに暑いと、じきに臭うてきよるでな、いまから埋めに行こまいかと思うが、どがいじゃ」
嶽造がふたりに問いかけた。
「そうじゃな、ついでにもうひと踏ん張り、きばるまいか」
オイナさんは、頷きながら秀人を見た。
「ちょっと待ってくれ、埋めに行くのは明日では駄目なのか」
せめて一晩くらいは遺体の傍にいて、悔やんでやりたいと秀人は思った。いくらなんでも、このまま墓場へ直行では、彼があまりにも哀れだ。
「この節は骸も傷みがはやい。死人の臭いを嗅いで夜さりに獣が寄ってきよるでな、早う埋めたがええじゃ」
嶽造は秀人に対して、有無を言わせぬ調子で言った。そのあと、嶽造は腰痛でこれ以上は竹ゾリを引くのは無理だと言い、墓場までは秀人とオイナさんとで引いていくことになった。
墓場に着くと、さっそく秀人は嶽造が杖の先で指し示す地面に鍬を振り下ろした。やがて秀人の掘った穴の底に、オイナさんがシキミの枝を敷き詰めた。オイナさんとふたりで遺体を持ち上げて穴へ落とし込もうとしたが、意外に重くてうまくいかない。まるで埋められるのを拒んでいるかに、竜二の屍は重かった。そこでやむを得ず、秀人は満身のちからを込めると片方から竹ゾリごと持ち上げた。屍はソリから墓穴のなかに、横臥せにずり落ちた。
そのあと、オイナさんが遺体が隠れるまでシキミの枝で覆うと、秀人はふたたび土をかぶせた。洞穴のなかでの彼との出会いから今朝がたの別れまでが、映像のように秀人の脳裏をよぎり、そのあまりにあっけない死に、いいようのない空しさを感じた。
墓場から戻ってくると、秀人は一度に疲れを感じた。放心状態で軒下に座り込んでいると、ふいに目の前にアカが現れた。だらりと舌を垂らした口もとから涎を絶え間なく滴らせ、秀人が近づくと尻尾を下げたまま上目遣いでじっとこちらを見ている。そんなアカの横腹に、ノブキの実が一つ付着しているのを見つけた。思わず手を伸ばして、毛に絡んだ実をつまみ取り、手にねばつく実を見つめるうち、思いあたることがあった。
アカはきっと、あのノブキの群生していた場所へいったに違いない。ということは、洞穴のほど近くに群生するノブキを踏み分け、迷うことなく竜二は見つけておいた洞穴へむかったのだろう。いつも彼のあとにつきまとっていたアカが、ノブキの実をつけて戻ってきたのが何よりの証だ。洞穴にたどり着いた竜二は躊躇することなく、迷路のような洞穴に入っていったに違いない。
そこまで思いをめぐらせたとき、秀人は石田竜二の衝撃的な最期を思い浮かべ、激しくかぶりを振った。
アカ、なぜ戻ってきたんだ。そのまま突っ走れば、向こう側へ脱け出られただろうに。こいつは、竜二が死に至るまでの一部始終を目撃したに違いない。頭を撫でてやろうと手を伸ばすと、アカは警戒するように後ずさりをして、身を翻すと一目散に走り去った。
竜二が死んでから、一ヶ月余りが過ぎた。仮に置き去りにされた竜二のバイクが発見されても、遺体不明のまま事故死として処理されるであろう。あれから三人の間で彼のことが話題になることもなく、何事もなかったように普段の暮らしに戻っていた。もっとも、嶽造の腰の具合は悪くなる一方で、めったに山菜採りなどで山へ入らなくなった。三日まえにトメさんの家に引き取っていた老婆が死んだが、秀人とオイナさんのふたりで埋葬をすませた。
このごろオイナさんは、何も言わずに時々ふっと姿がみえなくなることがある。おおかたは山菜とか薬草を採りに、山へ入っているのだろうと思うのだが、以前は出かけるときには必ず声をかけていたものだ。今朝も年寄りたちに朝食を与えている彼女を見たが、気が付くといつの間にか居なくなっていた。
嶽造に頼まれ、疝気に効くらしいクロモジの木の枝を採集しに、墓場近くの林までいった秀人は、ついでに墓場に立ち寄った。途中でみかけた名も知らぬ草花を摘み取り、竜二の眠る土饅頭に供えた。見ればまわりには何カ所も獣の足跡があったが、なかに犬の足跡と思われるものもあった。そういえば竜二が死んでからというもの、アカは一体どこに居るのか、その姿さえもめったに見かけない。たまに姿を見せても、嶽造やオイナさんが居れば寄ってくることはなく、怯えたように走り去る姿を遠くから目撃するだけだった。
「すみません、ちょっと伺いますが」
いきなり背後から声をかけられ、秀人は反射的に立ち上がって振り向いた。声の主はまだ三十代とも思える年格好で、地図を片手に背中にリュックを背負っているところをみるとハイカーらしい。
「あのう、道に迷ってしまったのですが、ここは何処なのでしょうか」
山中をさ迷い歩いたのだろう、顔に疲労の色をにじませている。
「何処だと聞かれても、その地図が役立たないほどのここは山ンなかだ」
秀人はそう言って、久し振りに外界からきた男を懐かしい思いで見つめた。そのうち、男のキャラバンシューズの紐の結び目に、ノブキの実が一つ付着しているのに気付いた。この男も、あの洞穴に迷い込んできたのか。そんな秀人の思いを察するべくもなく、男はここで人に出会えたことで安堵したらしい。自分は須崎と言い、沢歩きが趣味でこの辺りへやってきた、などと自己紹介をした。
「そうか、その沢歩きにきて、迷ったってわけか」
先に立って歩き始めた秀夫の背後から、須崎と名乗る男は「はい」と素直に返事を返す。
「近くにおれのウチがある、とにかく、ついてこいよ」
「あの、JRの駅へむかう、バス道を教えてもらえばいいんです」
須崎の言葉に、日の暮れないうちに鉄道の駅までいかねば、という焦りがみえる。
「バスなどないよ、そんな山奥まで君はきているわけだ。ところで、沢つたいに歩けば迷うはずはないのに、どうしてまたこんなところへきたのだい」
「あの、つかぬことを訊ねますが、この辺りに金髪の若い女性いませんか」
「金髪だから、若い女とは限らないだろう」
「離れていたのでよくわかりませんが、身のこなしからそう感じました。こんな山の中でと、不思議なくらいでした」
「それであとを追っていて、沢から離れて道に迷ったというわけか。ともかく、今日のところはもう諦めたほうがいい、いまからでは日が暮れて山歩きは危険だ」
秀人は立ち止まって須崎を振り返り、穏やかにそう忠告してやった。須崎は気持ちを決めかねているらしく、思案顔で黙って頷く。そんな彼の様子を見ながら、秀人の気持ちはすこぶるよかった。
これで俺の墓穴を、掘ってくれるやつが現れたことになるな。そう思っただけで、おのずと、くちもとに笑みが浮かんだ。
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