襖がすうっと開く音がした。
ミシンのパンフレットを広げ、買うかどうしようかと悩んでいる最中だった。
「ミィちゃんか。遊びに来たの」
悦代は振り向かずに声をかけた。
「誰がミィちゃんや。おまえ、部屋で何こそこそしてるんだ」
修造の太い嗄れた声が飛んできた。
座布団から腰が浮くほどびっくりして、
「そっちこそ黙って襖開けて、なんか言ったらいいでしょう。お隣りの猫かと思ったじゃない」
「ミィちゃんならテレビの上で昼寝してるよ。なんであの猫、毎日家に来て寝てるんだ」
修造はそれだけ言うと襖を閉めて行ってしまった。その時、一枚のファックス用紙を部屋に投げた。さらりと畳をすべって用紙が傍にきた。
駅前のブティックからの発注書だった。一週間に一回程度、寸法直しの依頼がくる。今回はスラックスの裾あげが三本と、ワンピースのファスナーの取替えだ。
素人の真似事で始めたアルバイトだったが、オーナーが気に入ってくれたのか、切れ目なく仕事がくるようになって一年が過ぎた。悦代がミシンのカタログをみていたのも、もっと性能のいいミシンに買い換えようと考えたからだ。業務用のパワフルなものが欲しかったし、広い作業台も買いたい。しかし、仕事が回ってくるといっても月にして、二、三万では投資倒れもいいところだ。
ブティックのオーナーと引き合わせてくれた浜岡由紀子なら、とっとと買っちゃいなさいというだろう。アルバイトに本腰を入れるようになったのも、由紀子が中古のロックミシンを買ってプレゼントしてくれたからだった。布地を切りながら端の始末をするミシンで裾あげには重宝している。
由紀子に手紙を出してから半月あまりたったが、返事はまだ来ない。始めは茫漠とした不安感だったのが、尖った異物を呑み込んだみたいに無視することができなくなっている。それは速達の年賀欠礼の葉書を受け取ったことが原因なのだが。
夏の高校野球、開会式の朝だった。一試合目の九回の裏、三点差をつけられたチームがあっけなくツーアウトをとられ三人目のバッターが打席に入ったところで悦代はテレビから離れた。庭仕事の手袋と帽子を被って、玄関先の時計草をいじっていた。地植えにして金網につたわせているのだが、昨日やっと一輪だけ花を咲かせた。紫の縁取りで内側に向かって白く中心は黒い点が円を作っている。大きな歓声と溜息とアナウンサーの長く伸びた語尾が耳に届く。その時、郵便ですよと声がかかった。女の郵便配達員は一枚の葉書を直接悦代に渡した。
差出人は由紀子だった。表書きも裏書も毛筆で書いてある。裏書には、これからは新年のご挨拶は失礼させていただきますとだけ書かれてあった。身内に不幸があったとは書いてないし、まず第一に真夏に新年の挨拶を断るのも普通ではないと思った。
もう一度葉書をひっくりかえして由紀子の住所を確認した。奈良県吉野郡天川村とあり、聞いたこともない住所だった。由紀子は引っ越したのだ。
そもそも、由紀子とは生協を通じて親しく付き合うようになった。七年来の友達だが、最初の出会いが変わっていた。
その日は生協の配達日で、注文書を片手に自分が頼んでいた商品を箱からえり出していたときだ。音もなく悦代の隣りに来て、入会させて欲しいと言う。男のような七三分けにたっぷりとヘアークリームをつけ、男仕立てのジャケットとスラックス、胸元に七宝のついたループタイをした人、それが由紀子だったのだ。
一面識もないのに町内でやっているグループに入れてくれとは変わった人。と咄嗟に身構えた。悦代が聞こえないふりで身を翻したにもかかわらず、由紀子はヘアークリームの匂いをふりまきながら前に回りこんできた。近くの会社に勤めるものだが、ここの生協グループにどうしても入れて欲しいと言うのだ。
その場には数人いたが、由紀子は年恰好の近い悦代を選んでどんどん話しかけてくる。
小学生くらいの身長しかない由紀子は伸び上がるようにして悦代の視線を捕らえようとした。悦代のグループは二、三歳の幼児のいる二、三十代の主婦が四人で五十代は悦代だけだった。班長は回りもちで勤めているが、班長の家が荷を降ろす場所になるくらいで、この生協グループを呼びかけて作った悦代が承知すれば若い主婦たちが反対を唱えることはないだろう。
壁際に追い詰められるような沈黙が続いた。若い主婦たちは黙々と商品を仕分けしていたが、悦代がどう返事をするか耳をそばだてているようだ。
そこに生協の配達員の青年が近づいてきた。悦代の困惑を慮ってか、由紀子に入会の規則を話し出した。
「はっ、大変よく分かりました。こちらの皆様にはご迷惑をおかけしませんので、はい、出資金も。時間も大丈夫です。ありがとうございました」
由紀子は書類一式を受け取ると、息子のような歳の青年に深々と頭をさげた。そして今度は、悦代たち全員に向かって、「皆様、ご無理言いましてすみません。わたくし、浜岡由紀子と申します。来週からこちらでご一緒させていただきます。よろしくお願いします」と、挨拶してしまった。
悦代たちがあっけにとられているのにも構わず、ちょこちょこ動き回って、悦代たちの注文した商品を手にとって喜んでいる。配達員の青年が苦笑して、
「よかったら入れてあげてくれませんか。どうしても一緒にやっていけないってことになったら、僕から言いますから」
青年はよそのグループでもこんなケースはあるのだと言った。
そんなことを思い出していると、今にも悦代さん、悦代さんと言って由紀子がどこからか出てきそうだった。
ミシンのカタログのページに折り目をつけて本を閉じた。そろそろ下に行かないと修造の機嫌が斜めになる。
修造は三ヶ月前に定年退職し、毎日家に居る。現役の時も毎晩どこかしらで飲んで帰っていたが、今では昼前からビールを飲みテレビばかり観ている。糖尿の気があるにもかかわらず酒も煙草も節制しようとしない。
悦代がアルバイトをしていることも、週に一度服飾学校の特別クラスに通っていることも退職後に知ったのだ。主婦の暇つぶしだと馬鹿にしたように見ていたのだが、ファックスで仕事を請け負っているのには驚いた様子だった。
クーラーが寒いくらい効いている。悦代がひとりのときは一日中つけたりすることはなかったが、今年は六月の終わりごろからつけはじめて、今や一日中つけっぱなしだ。去年の同じ月の電気代とでは一万円近く高くなっている。言っても聞かないのは同じで、悦代はいらいらを腹の中にいつも据えていた。
隣りの猫がテレビの上で長くなっている。尻尾が画面の真中に垂れ下がり、高校球児の顔を隠していた。
いびきをかいている修造を跨いで、整理ダンスの上に置いてあるクッキーの缶箱をちゃぶ台におろした。中には悦代にきた手紙や葉書がしまってある。
今年来た二十枚足らずの年賀状を繰ってみると、由紀子の年賀状が出てきた。今年はお互いに還暦をむかえる年ですね、と書かれている。由紀子は六十才になったら仕事をやめると言っていた。言葉どおりその四ヵ月後、四月の終わりに由紀子の退職の挨拶状が届いた。こちらは印刷されてあるが、最後に添え書きがついている。
「生協では大変お世話になりました。あなたとした約束は必ず守りますから」と、いうものだ。
受け取ったときには気にもかけていなかった。今も何の約束だったか思い当たらない。
由紀子は今年の四月、退職と同時に生協を抜けた。それ以後、修造の退職があったり、悦代自身の体調がなんとなくすぐれなかったりして連絡をとっていなかった。
「おい、わし夕方から出かけるからな」
あくび交じりで修造が言った。
どうせまた会社勤めのころから行きつけのスナックに行くのだろう。返事をしないでいると、足先で悦代の膝を突付いた。
「ちょっとなに、足で蹴らないでちょうだい」
悦代が払いのけると、修造は舌打ちをしてトイレに立った。ステテコとランニングシャツ姿の背中は、日に日に萎んで小さくなっていくようだった。背は百六十センチ余りで悦代とほとんど同じだが、若いころは登山をしていて筋肉質で腕も太く逞しかったものだ。悦代が初めて修造と出会ったのも職場のサークルでの登山だった。ぼんやり浮かび上がってきた三十数年前の修造の姿が、ステテコの前を濡らしてトイレから戻ってきた修造に掻き消された。
「お昼何食べます。お腹すいてますか」
悦代はクッキーの缶箱を整理ダンスの上に戻すのに背を向けて立ち、舌をだした。
修造は俺が作ると言って台所に入っていった。くわえ煙草で冷蔵庫の中を覗いている。その隙にクーラーのリモコンで温度を三度ほど上げた。そして手早く茶の間を片付けて、ちゃぶ台の上を布巾で拭いておいた。
修造は退職するまでは料理など見向きもしなかったのに、突然目覚めたように料理を始めた。それがどの料理も手早く作って案外美味しかった。煮物こそしなかったが、包丁さばきも堂にいったもので、後片付けもきっちりした。
修造が台所に立つようになって、あきらかにガス台やシンクのまわりがきれいになっている。鍋や排水溝のかごも磨いているようだ。悦代の無精にあてつけているのではない。修造の性分というよりも仕事の方法が身についていて勝手にそうしてしまうという感じだ。
丼にキュウリとワカメとシラスの炒め物を盛って出てきた。吸い物の具は溶かし卵と玉葱だ。だらだらとテレビを観ているだけかと思っていたが、これらは確か数日前の料理番組の献立である。
「これだけできたらひとりでも大丈夫ね。いや、再婚しても喜ばれるわよ」
箸のさきでつつく真似をしながら言った。
「あほか」
修造はやんわりと膝を押して立ち上がると、後片付けをしに台所に行った。
夕方、会社勤めの頃と変わらぬ格好で修造が家を出て行った。週に二、三回はこうして外出し、午前をまわったころ必ず酒の入った状態で帰ってくる。悦代は昔のように時計をみてやきもきすることも無い。家に居ても共有する時間がほとんどないのは同じだし、服飾学校の課題をしたり、アルバイトの裾あげをするには好都合だった。
悦代は夕食をひとりで済ました後、あの葉書をもう一度取り出してながめた。天川村の住所で番号案内にかけて問い合わせたが、載っていませんと言う返事だった。駄目でもともとと由紀子の旧住所の電話番号にかけてみたが、即座に番号が変わりましたという録音のアナウンスが流れた。
何度思い返しても由紀子と諍いを起こした覚えなどなかったし、由紀子の性格からしても衝動的に絶縁を言ってくるような人間ではないはずだった。
二、三回だけだったがふたりで旅行もした。一泊の温泉旅行だったが、これからも続けられるものだと思っていた。気が合ったし、何より悦代にとって由紀子の発想や提案が大きな助けになっていた。町内のごみ捨て場のことで揉めた時も、役所の窓口を教えてくれて時間帯や指定場所の変更を認めてもらうことができたのだ。
由紀子が最後に生協に来た日はどうだっただろう。最後の日もいつもと変わりなかった。いや、由紀子の別れの挨拶にしんみりして涙ぐんでいた。由紀子は悦代の手を握ってきた。力を込めて何度も揺すっていた。悦代はうす紫のタイシルクにスワロフスキーのビーズでアジサイの刺繍をしたテーブルセンターを作ってプレゼントした。
恋人同士のお別れみたいですね。と皆が冷やかした。
由紀子は独身だった。ずいぶん前にセピア色の写真を見せられたことがある。二十代の由紀子はパーマヘアにブラウスの上半身の写真だった。この頃、外交官と婚約中であったと聞かされた。肺の病気に罹り破談になったのだそうだ。
プライベートな事はあまり話さないほうだったが、甥や姪がよく遊びに来るとか、由紀子のマンションに仏壇があり、食事は仏前に供えてから、それを食べるのだというのは聞いたことがある。
悦代は一度そのマンションに泊めてもらったことがある。螺鈿の大きな座敷机が居間の真中で黒光りしていた。悦代が贈ったテーブルセンターはこの机に合うようにと手作りしたものだ。仏壇は由紀子の寝室にあって見ることはなかったが、部屋全体に線香の匂いがしみついていた。
その時覚えていることといえば、由紀子の一人暮らしを大いに羨ましがったことだ。それから修造への不満をべらべらと喋った。
「旦那さんの悪口を言っちゃいけません。食べさせてもらってるんだから」
由紀子に遮られた。悦代はむきになって反論した。
「食べさせてもらってるっていっても、少ない給料であてがいぶちよ。向こうは外で好きに遊んでおいて、おまえはハウスキーパーだって言うの。どういう意味だか分からないから調べたわよ。そしたらお手伝いさんっていう意味。どう思う」
由紀子が急に押し黙った。悦代も言い過ぎたと後悔した。
「さあ、もうこんな話やめましょ。せっかく遊びにきてくれたんだから。まずお風呂に入ってらっしゃい。それからビールで乾杯しよう」
由紀子はそう言うと机を弾くように叩き立ち上がった。
「お湯溜まってるから、そこのパジャマとタオル持っていらっしゃい」
風呂場から声がした。まさかいっしょに入るというのではないだろうかと悦代は恐る恐る中を覗いた。
「わたしは朝風呂にはいる習慣だから。あがったらすぐ食事できるようにしとくからね」
入れ替わりに由紀子が出て行った。水道の蛇口に日本手ぬぐいが括りつけられ湯船に垂れ下がっている。
「このタオルはこのままでいいの」
不審に思い訊ねた。それでいいと言う。早朝の五時に湯を溜めるので音が響かないようにタオルに伝わらせて湯を出しているのだそうだ。
三本目の缶ビールを空にした頃、由紀子の呂律が回らなくってきた。
「悦代さん、わたしが何とかするからね。だから頑張りなさいね」
うん、うんと頷いたのは覚えている。悦代は何に頷いてたんだろうと肝心なところを酔っていて聞いてなかったような気がする。
翌朝、午前様だった修造が普段より早く起きて箪笥の引出しや押し入れをごそごそしている。朱印帳やハイキング用の服を引っ張り出してきた。
洗濯籠を下げて物干し台に上がろうと階段を登る悦代と赤いリュックを持って階段をおりてくる修造が睨み合った。
「おい、明日からな西国三十三ヶ所めぐりに行ってくるからな」というと口をあけかけた悦代の脇を駆け下りていった。
はあっと長い息が喉からでた。何をしようと文句を言うつもりはなかったが、悦代にキーパーを任せて広いグランドで走り回る修造を感じると気が萎えるのだ。高校時代の友人たちとは子育てが終ったら一緒に旅行しようと言い合っていたのに、孫が生まれると世話を頼まれたりかってでたりして、たまに会っても子供のいない悦代には興味のない話題ばかりだった。町内一キロの半径でことたりる悦代の生活はゴールポストそのものだ。
窓を開けて物干し台に上がろうと足を上げたが膝に電気が走った。プラスチックの風呂用の椅子を足で蹴りよせて窓の下に据えた。五十センチの窓枠を跨げなくなる歳なのか。ゆっくりと板の上を歩く。板が所々腐って抜け落ちそうだ。籠の上の洗濯物は早くも乾きかけている。陽のあたる場所に悦代のものを、修造のは軒下あたりに干し分けた。昨日穿いていたちりめんのステテコが縮んで子供物ように小さくなっていた。
裏の家から高校野球の声援が聞こえてきた。生協のグループのひとり中谷瑞江の家だ。三十才で第一子の女の子を産み、女の子が出来たから子供はもう作らないと話していた。中古の一軒家を買って住んでいるが、近い将来に新築の一軒家に移りたいと言っていた。もしかすると、瑞江のところにも由紀子から葉書が届いているかもしれないと思った。
そのとき裏の窓が動いた。悦代は大きな声で、
「中谷さん、いてる。中谷さん」と呼んでいた。
黒い頭が突き出て左右に首を動かしている。出てきたのは中谷さんの夫だった。平日に家にいるとは思ってもみなかったので驚いた。悦代は竿に掛けたバスタオルに姿を隠して、黒い頭が引っ込むのを待った。
空っぽになった洗濯籠を下げて一階に下りていくと修造がポロシャツとズボン姿に着替えていた。さっきの赤いリュックサックは形良く膨らんで整理ダンスの側に置かれている。
「昼飯食いに行こうか」
腕時計をはめながら言うと玄関に向かって歩いている。悦代はよれよれのTシャツにゴムのスカート姿だ。着替えの時間も待ってくれないのかと、植木いじりのときに被る麦わら帽子を頭にのせて修造に追いついた。
「おまえ、そんな格好で行くつもりか。ええとこ連れてったるから着替えて来い」と言って笑った。
和服のウエートレスが分厚いお絞りを修造と悦代の前に置いた。昼前の店内は悦代たちと五十代と思われる女の三人組だけだった。修造はメニューを閉じると上にぎり定食を二人前注文した。お飲み物はよろしいですかとウエートレスに言われビールを追加した。
ステーションホテルの六階から見おろす地上は案外近くに感じた。駅前に停められた自転車が幾重にも重なった一角と直線に歩く人たちの交差をぼんやり眺めていた。
「おまえ今度は何にも言わんのか」
悦代にビールを差し向けながら訊いてきた。
「今度ってどういう意味よ」
半分くらいビールが入ったところで止めるようコップを上げた。
「三年前に四国の八十八ヶ所巡りのときは、えらい勢いだったぜ。泣いたり怒ったりして。それで帰ってきたら別れる切れるって、往生したで」
悦代は覚えていた。お遍路というのは歳をとってから、夫婦で行くものと思っていたのに、スナックのママや同僚と行くという。社員旅行ならともかく遊びで遍路にいくということに抗議するのは当たり前ではないか。少なくとも悦代の意向を聞いてから決めるべきだと。やきもちと片付けられればそれまでだが、スナックのママに役目を奪われて、悦代は存在の危機を感じたのかも知れない。
「どうぞ、あなたはお仲間とお参りして死んだらいいとこに行ってちょうだい。わたしはちがうところに行きますから」
そうだったなと思った。たかが仲間内の旅行なのに離婚まで考えていたのだ。修造が定年退職したら退職金を半分もらってというお決まりのを。あの時修造のいった言葉、
「金だけでどうやって生きていくつもりだ。兄弟っていっても老後の世話なんかみてくれんぞ。どっちが先か分からんが、最後まで面倒みていくのはおれとちがうか」
周りからも更年期のせいじゃないかと言われたりした。それ以来、修造とはいっしょに住むしかない他人と思うことにしたのだ。
朝、修造は赤いリュックを背負って玄関を出て行った。顔を見なくてもこの旅行を楽しみにしているのが伝わってくる足取りだ。
悦代はひとりになった居間でテレビをつけた。高校野球ではなく情報番組にチャンネルを合わせた。冷房を消し、窓を開けると僅かだが風が通っていく。
十一時になったら生協の車が来る。注文書とお金の準備をしなくてはならない。昨日修造から生活費を貰った。年金暮らしになってからは五万減額されて月十万で食費と日用品を賄う。やりくりして残ったら悦代の小遣いにせいと修造は収支に干渉しない。上手くすれば今でも三、四万はへそくりにまわせるので、悦代の郵便貯金は高級車が買える位貯まっている。
注文書を見返していると惣菜の黒豆が載っていた。これは由紀子の好物で必ず買っていたものだ。懐かしくなってそれも買うことにした。
中谷瑞枝が班長だったので、鍵をかけて家の裏に回った。他のメンバーも前後して集まってきた。最初の頃は連れてきていた子供たちも小学校、中学校にあがり、このグループも成熟してきたなあと思った。
「篭野さん、昨日何か用事でした」
瑞江が訊ねた。悦代が物干し台で呼んでたことを言っているらしかった。彼女の夫にすっかりバレていたと思うと恥ずかしい。
「あなたのところに浜岡さんから葉書来なかった」
悦代は住所や書かれていた内容を詳しく話した。瑞江は来てないといい、他のメンバーにも来てないと言われた。
「でも、妙な葉書ですよね。最後のときも仲良さそうにされてたのに。篭野さんに思い当たることはないんですよね」
瑞江は葉書を見てみたいといった。新しい住所で電話番号を調べたことを話したときだ。
「さっき、天川とかなんとか言ってましたよね。確か大分まえに話題になってたところだと思うんですよ。もうすこし詳しく分かると思うんですけど」
悦代は急いで買った商品をまとめて家に戻った。五日間も修造が留守にするとは思わなかったので、使い切れない肉や魚を冷凍室に放り込んだ。豆腐や野菜は日持ちがしないので悦代ひとりで食べきらなければならないが作る気がしなかった。二丁買っていた豆腐のうち一丁と八宝菜セットの野菜をスーパーの袋に入れなおして瑞江の家に持っていった。
玄関脇に発泡スチロールの箱が三個積み重ねてある。これは来週の配達日に返すまでここに置いておくのだろう。子供用の補助輪のついた自転車が前庭に停めてある。小学一年か二年になった瑞江の娘が町内をこれで走りまわっているのを見たことがある。最近では同じ年格好の子供たちが次々と似たような自転車に乗り、一塊になって回遊魚のように同じところを走っている。
玄関のドアが閉まりきっておらず、悦代はチャイムを押さずにドアを開けて中に呼びかけた。瑞江はスリッパを鳴らして奥から駆けて来た。
「どうぞ、上がってください。散らかってますけど」
スリッパ立てから新品のようなスリッパを抜き悦代の前にそろえて置いた。
「これね、主人が急に旅行に行っちゃって余してしまうんで、使ってもらえるかしら」
上がる前に、スーパーの袋ごと手渡した。瑞江はその場で中を覗き悦代に礼を言った。
瑞江の家の間取りは一番奥が台所になっていて続きの部屋を食卓テーブルを置いたダイニングに使っている。畳のうえにカーペットを敷き詰めていて、それと同じものが台所の床にもはってある。引き戸の手前でスリッパを脱ごうとすると、そのままでと言われた。悦代の家とほぼ同じに建てられた建売住宅なので、和室の占める割合は同じだが、ここではテーブルにソファと床にじかに座る習慣はないようだ。
「じゃあ、葉書見せてもらえますか」
テーブルの上に蓋の開いたノートパソコンをセットした瑞江が手を伸ばした。悦代は向かいに座り、葉書を渡した。
「奈良県天川村で検索してみます。浜岡さんの住所の近くに何があるかぐらいはわかりますよ」
瑞江の手の動きがキーボードの音で伝わってくる。止まっては打ち、打ち終わっては待つこと数分間、次にマウスを使って何かを選んでいるようだ。瑞江が葉書と画面を見比べている。
「篭野さんありましたよ。同じ住所に『もへじ旅館』っていうのが。電話番号も載ってますから、ここにかけて訊けばなんか知ってるんじゃないですか」
悦代は椅子から腰を浮かした。
「今、見易いように印刷します。アクセス方法も全部打ち出します」
瑞江は掌を下に向け、悦代に座るように促した。テーブルの下でジージーと音がした。覗くと紙が吸い込まれ印刷されて出てくる。悦代が顔をあげると、瑞江がかっと笑った。
「篭野さんはパソコンしないんですか」
以前から何度も質問されていることだ。これは問いではなく、勧誘に近いだろう。興味はあるんだけどとか言うと話は発展するのだろうが、あえて否定してきた。だが、今日は世話になった事情もあり発展させなければ申し訳なく思えた。
「そうね。今日みたいなケンサクっていうの、そんなのができれば便利だと思うわ。調べる道具だとは思いも寄らなかったもの」
瑞江は本棚からバインダーを取り出しテーブルに広げた。
わたしこんなことしてるんですよ、と言うとページを繰っていった。おもちゃやバッグ、バイクのカラー写真がつぎつぎに現れる。カラーコピーらしい写真のしたに年月日と値段、人の名前が記されている。悦代は何のことかさっぱり分からない。
「ネットでこれを売りさばいてるんです。きっかけは主人のお父さんが集めてたミニカーだったんですけどね、これが全部で三十二万円になったんですよ。いらないからくれるって言うんで貰ってきたんだけど、うち女の子でしょ。それでバザーにでも出そうかと思ってたら、テレビでそのミニカーがマニアには人気があるって言ってて、一台一台写真撮って出品したんですよ」
「三十……、すごい。じゃあ、ここにあるの全部売ったわけ」
悦代はバインダーが預金通帳に見えてきた。
「いいえ、わたしの物は二、三点です。あとは、この話をすると頼まれるんです。友達やそのまた友達って言う人にね。もちろん、方法を教えてあげれば誰でもできるんですけど、なんかみんな尻込みしちゃって、代わりにやってくれって頼まれるんです。手間はかからないけどやっぱりタダって訳にもいかなくて手数料と報酬を決めてやってるんです」
「いくらで」
「手数料は三千円。報酬は売値の三パーセント。消費税より安く、コストパフォーマンスですね。欲を出しちゃうと長続きしないでしょ」
瑞江はウインクした。月にOL時代の給料分はあるらしい。
「商売のコツがつかめました。わたしが儲けたいからっていう臭いがでちゃったら駄目なんです。損をしてまでやるのはもっとダサい。いいなあって思わせるんですよ。篭野さんも思ったでしょう。家にある花瓶が実は備前の人間国宝の作だったらって、だって何百万にもなるんですもん。そのお手伝いをするだけなんだから、わたしのやってることは、とっても良い事だし誰も不幸にならない。篭野さんちにも何かありませんか」
いつか由紀子が瑞江にインターネットを勧めていたのを思い出した。この商売も由紀子の発案のように思えたが彼女が気を悪くしたらと思うと聞けなかった。
「感心したわ。それでお家の買い替え費用にするんでしょ」
新築の家が現実味を帯びてきた。
「違いますよ。これは、わたしのへそくりです。主人は知ってますけど、まさかこんなに収入があるとは思ってないです。わたしに収入があるって知ったら、当てにして頑張らなくなるじゃないですか」
恐れ入ったと思った。
玄関ドアが音をたてて閉まった。ランドセルの中で本や筆箱がぶつかるボコボコという音がこちらに近づいてくる。マァマァーと甘ったれた声が部屋に入ってきた。振り向いた悦代を見て瑞江の娘はびっくりして立ち尽くした。お帰りと声をかけたが、もごもごと何かを言って瑞江の背中に凭れかかり顔を隠した。ちゃんとご挨拶はと、瑞江に言われ、ただいまと小さい声で言った。赤いゴムで髪を二つに結んでもらっている。手足は長くて細く、頭も悦代の子供時代より相当小さくなったように感じられた。
「この子、ダンスが習いたいって言ってるんですよ。バレエとか日舞じゃなっくて、スタジオダンスっていうんですか。モーニング娘たらいう子たちみたいな踊り」
瑞江は娘にしゃんと立ちなさいと叱っている。最近では、親のほうが積極的にレッスンを受けさせたがっていると聞いていたが、瑞江はそうではないようだ。
「習い事も変わってきてるんでしょうね。わたしには子供がないから、全然わからないけど、中谷さんはお嬢ちゃんに何の習い事をさせたいのかしら」
瑞江はしばらく考えてから、
「この子が大きくなって感謝してくれるものかな。親が与えるものって、子供の中に注ぎ込めるものでないと、物だといつか無くなってしまいますもんね。わたしは絵とか音楽を習わせたいと思ってるんだけど、この子が何に興味を持つのかねえ。ダンスは友達が行くから行きたいんだよね」
瑞江の娘は首を横に振っていた。
家に帰ってきて部屋を見回した。土産に貰った置物や花瓶くらいしかない。ひとつ思い出して押し入れを開けた。修造が父親から貰った釣り竿が数本ある。鮒を釣る竿らしいが、高価だと聞いている。修造にとっては形見みたいなものだし、これから釣りを始めるつもりかも知れない。黙って売ったら怒られるだろうと宝捜しは諦めた。
瑞江から渡された紙は全部で五枚あった。民宿の一覧と天川村の紹介文、交通の案内にバスの時刻表が二枚になっている。大阪から特急で下市口まで一時間、そこからバスに乗り継ぐルートと自動車で行く場合の国道の案内が合わせてある。悦代の家からだと日帰りで行くには難しそうだ。
葉書と同じ住所になっているもへじ旅館について、短いコメントが書いてあった。
『女の宿、女性おひとりでもお泊りいただけます。もの作りの里・もへじ旅館』
近くに温泉もあるし、天河大弁財大社という神社や大峯山という結構高い山もある。由紀子を探しにいきなり行ってもいいような気になってきた。瑞江は悦代が行くことを予見してバスの時刻表まで打ち出していたのかもしれない。
悦代は受話器を取り上げた。三回目のコールで相手がでた。女の声だ。もしもしと悦代が言うと、ご予約ですかと聞く、少し考えて、
「つかぬ事を伺いますが、そちらに浜岡由紀子さんという方はおられますか」と尋ねた。
相手は沈黙したままだ。そこでまた、
「実はそちらの住所と同じところから葉書が届いたのでうかがったのですが」と続けた。
相手が口を開いた。
「失礼ですが。お名前はなんとおっしゃいますか」
「篭野悦代と申します」
また沈黙が始まった。が今度は言葉を捜しているという気配がうかがえる。悦代は辛抱して待った。
「篭野様ですね。受け取られた葉書は確かにここから出したものです。由紀子は今ここにはおりません。電話ではこれ以上申しあげられませんが、もしよろしかったらこちらにお越しいただけませんでしょうか」
次は悦代が沈黙する番だった。由紀子と呼び捨てにするには相手は身内の人間なのだろうか。姪がいるといっていたその人かなどと思いめぐらせていた。
相手の口調ではこれ以上の質問に答えてくれそうになさそうだ。修造は旅行に行って家にいない。すべての状況が天川村へ行けと示しているように思えた。
「今から大阪をでてもそちらに行くことができますでしょうか」と口走っていた。
時間は昼の一時を少し回ったところだ。
「下市口の到着時間がわかったらお電話ください。その時間に駅まで迎えにいきます」
相手はすぐさま答えた。
悦代は電話を切るとすぐに仕度にかかった。昨日修造から渡されたお金を銀行の封筒から五枚抜き出し財布に入れた。小旅行用に使っているファスナーつきの大ぶりの鞄に着替えと服飾学校で作った作品、洗面具、化粧品を詰め込み三十分後には家の鍵をかけていた。
今朝、修造を見送ったときには想像もしない展開だ。悦代はすごく大胆なことをしている自分に興奮した。
特急の切符を買い、電話の相手に到着時間を伝えると緊張の糸が解けたのか空腹感を覚えた。しかし、発車まで五分しかないので近くの車両に乗りこんだ。
午後二時三十分発の特急の車内は六割がた席が埋まっている。席に座っている人の頭を見る限りほとんどが五、六十代の高齢者ばかりだ。服装も普段着に近く、表情も明るくない。通りすがりに病院という言葉が耳に入った。そう聞くと、ここの皆が都会の大病院に診察を受けに来た帰りのように思える。これは通院電車なのか。悦代は縁起でもないと思い、一旦ホームに降りて席のある車両まで歩いた。
悦代の指定席のある車両は若い人ばかりだった。通路に立ち連結のガラス越しに後ろを窺った。
特急はすぐに動き出した。何度もしゃくりながら重そうに速度を速めている。先頭で待機していたワゴンサービスが横を通ったが空腹は消えていた。
膝にのせた鞄をポンポンと二度叩いた。鞄の底に入れたワンピースを確かめるためだ。
学校でスパンコールのデコレーションを習おうと通い始めたのは、テレビでその技術を持つとウエディングドレスやイブニングドレスなどで需要があると聞いたからだ。洋裁くらいしか特技がなかった悦代をおだててその気にしてくれたのが、やはり由紀子だった。そのお礼に、歌好きの由紀子が通うカラオケ教室の発表会で着てもらう服を作っていたのだ。サテンとオーガンジーを重ねたフレンチ袖の膝下丈のワンピースで色は由紀子の好きなオレンジにした。襟ぐりと胸の中央から縦に裾までスパンコールを縫い付けた初歩的なものだが、スラックスばかり履いていた由紀子がみたらどんな顔をするだろう。
三十分もしないうちに特急は県境を越えたのか山に近いところを走っていた。水田はやや褐色をおびた緑で畦が葉脈のように山裾まで続いている。この特急の終点は吉野だ。大阪に住みながら桜のときに訪れたことはない。山全体が薄桃色の衣を羽織ったような写真を思い浮かべた。
まもなく下市口に着くというアナウンスが流れた。一時間十五分は旅行気分を味わうには短すぎた。走り出した電車の最後尾がカーブを曲がって見えなくなるまで見送った。しばらくホームに立っているとクーラーとは違う涼気が体を包む。草木や土からしみ出した空気が山間の地に来たことを確認させてくれる。夕刻の太陽は山の頂に乗っかるようにあり、稜線を赤く染めはじめていた。
腕を左右に広げ、肺にたっぷり空気を入れてやった。この駅で降りた人はとうに改札に消えていた。旅行者は悦代ひとりのようだ。数台停まっていた自家用車は先に出ていた乗客をめいめい乗せて走り出していき、駅前から車は一台も無くなった。悦代は駅舎の前を往復し、ポスターやバスの時刻表をみたりして時間を費やした。この駅は前に来たことがあるようなないような既視感が何度も頭をもたげる。駅舎の外にあるトイレは場所まで記憶と同じなのには驚いた。
白い軽ワゴン車がロータリーに入ってきた。運転しているのは若い男だった。悦代はがっかりして公衆電話に向かおうとした時、その男が悦代の名前を呼んだ。
「すいません。遅れました。篭野さんですね。もへじ旅館の迎えの者です」
男は運転席に座ったまま上半身を窓から乗り出して言った。女の宿に男の従業員は看板に偽りありではないのかと内心文句をつけながら、男に向かっては友好的な笑顔で近づいている。
後ろのシートはたたまれ荷台と化しているので、悦代は男の隣りに乗った。ハンドルに上半身をくっつけるように運転する姿は不安であったが、車が山道を進み出すと男のハンドルさばきは軽快だった。この道を走りなれていて次にどっちにカーブするかを知っているのだ。対向できない細い道になるとずっと手前から停まって待っている。
「迎えにくるときにね、ここでよそから来た車が詰まってて動かなかったんですよ」
遠くからオルゴールの音色が聞こえてくる。
「バスが来るんですよ。音楽が聞こえるでしょ。よそからきた人じゃそれが分からないんで、ここ行っちゃうんだ。ずっと感応信号をつけてくれってみんなでお願いしてるんですけどね」
車体すれすれに通っていくバスの運転手と手を上げて合図をしている。悦代は左右に揺れるバスの後ろを振り返って見ていた。男はアクセルを踏み込み車を発車させた。
「一時間くらいかかるんですよね」
悦代はアクセス案内でみたバスの所要時間を言った。
「四十分くらいですよ」
男は前を向いたまま答えた。
「いつも迎えにきてるんですか」
なれた道とはいえ一日何往復もする距離とは思えないので尋ねた。
「未央ちゃんに頼まれたんですよ。僕はもへじ旅館のもんじゃないっす。近くに住んでる友達です」
電話の相手は未央というのだ。男は三十歳にはなっていないだろう。ボタンを外した開襟シャツの下から白いランニングを透かして逞しい筋肉がみえる。
「宮大工なんですよ。弁財天の修繕を親方が請け負ってて。で、もとは高知なんですが、弟子入りしてここにきたんですよ」
赤い欄干の橋を渡ると舗装道路にでた。街道のように川筋に沿って家並みが続く。突然車が停車した。三階建ての木造の家の前だった。間口三間のガラス戸で戸もガラスもよく拭きこまれている。
「ここです。僕は車を裏に入れてくるので先に降りてください」
男は短く二回クラクションを鳴らして走り去った。
すぐに未央と思しき女が出てきた。長い黒髪を緑のペイズリー柄のバンダナの下から垂らしている。昼にあった瑞江の娘が大きくなったような錯覚をした。
「いらっしゃいませ。よくおいでくださいました」
未央は突き出しかげんの大きな目をより見開いてお辞儀をした。さあといって悦代を土間に通した。
土間は何かの作業場のように広く、まわりには木桶や端材が束ねて積まれている。土間の奥が居間のようになっていて長机が三本並べてある。テレビがあり三人でそれを観ている。みな女の人だ。未央が土間続きにある厨房でお茶をいれて持ってきてくれた。テレビをみている女が客か従業員か見分けがつかない。悦代はどちらにしてもいいような簡単な会釈で居間に上がった。
「山組みの人はもうお風呂にいったの」
テレビのひとりが未央に尋ねている。
「まだ帰ってませんよ。夕食は七時から始めますから、今のうちお風呂に行ってこられたらどうですか」
未央の口ぶりではテレビの女たちはお客のようだ。それに山組みという一団もここに泊まっているらしい。
三人はいったん階段をあがり、手提げ袋をもって下りてきた。木のサンダルを履いて右の方へ歩いて行った。居間にふたりになったので悦代は由紀子のことをさっそく切り出した。
「それは晩にでも、こちらにお呼びした訳をお話します。それから、もしもう一日お泊りいただけるのでしたら、明日母のところへご案内しようと思ってるのですが」
悦代は深く頷いた。未央は商談成立とばかりに声のトーンを変えて、篭野様も今から温泉につかってこられてはどうですか。右にすぐのところに町営の公衆浴場があります。入湯料は二百円です。バスタオルのレンタルもありますのでそのまま行かれて大丈夫ですよと言って立ち上がった。
未央は夕食の仕度が残っているのでと謝り厨房にはいった。暖簾が振り分けられたとき、野菜か何かの切りものをする老婆の姿が見えた。
母という言葉が耳から離れない。しかし、ここで考えるよりお湯に浸かって考える方が利があるなと思い靴を履いた。
「貴重品はこのロッカーに仕舞ってください。お荷物はわたしがお部屋に運んでおきます。それと、この下駄を使ってください」と戻って言った。そしてみんなが履いていった木のサンダルを渡された。
ロッカーは郵便受けくらいの大きさで厨房の壁の裏に取り付けられてあった。鍵の抜かれている箱が十一あったので悦代が鍵を抜けば泊り客は十二になる。
悦代は風呂上りのことを考えてゴムのスカートとTシャツに着替えてから宿をでた。
木のサンダルは適当な高さがあり足に合った。来るときに渡った赤い欄干の橋を通り越すとすぐに公衆浴場が分かった。手前には土産物屋があり悦代の履いているサンダルと同じ物も売っていた。値段をみると二千五百円もする。佃煮や加工品を入れている大きな笊にはタラの芽の塩漬けもあった。これは悦代の好物であった。初めて食べたのは信州の上高地に旅行したとき、宿の夕食で摘みたてのタラの芽を天婦羅にしたものだ。歯当りは肉厚でほろ苦いのだがそれがまた美味しい。帰りに買って帰ろうと決めた。
浴場の建物は出来て間もないようで、白木のガラス戸を開けると木の香が漂ってきた。そこは木造りの下足場で緩く坂になってもう一枚戸がある。中に入ると安楽椅子や清涼飲料の自動販売機が置かれたフリースペースになっていて湯上りの人が一服している。その中央にフロントがありそれが男湯と女湯の境を作っていた。水色の事務服をきた女性がチケットを売り、それを自分でちぎってから半券を悦代に渡した。バスタオルを頼むと体を洗うタオルとセットのものがいいかと聞き返した。こちらは五百円もしたが、何日か滞在なら宿に持ち帰って、また使ってもよいということだった。
脱衣場には悦代ひとりだった。そこから見える風呂の中も数人しかいない。得をした気分で素早く服を脱いで風呂場に入った。
総檜造りの湯船にゆっくり足を入れていく。底まではっきりみえる透明な湯だが、少しぬるっとする。肩口まで浸かると知らずに、ああと声がでた。湯船の端にいた三人がアヒルの行進のようにつま先立って悦代に近づいてきた。
「さっきの方でしょう。こんにちは」
先頭の女が言った。肉付きのよい肩が湯面で青白く揺らいでいる。他の二人も追いついて話し掛けてきた。四人が自然と円陣を組む格好になり、お互いの腹やそのたるみで見え隠れするあたりにそれとなく視線がいく。
「こちらには何をしに来られたの」
また先頭の女が尋ねた。
「人に会いに」
悦代は短く言った。すると三人ともが不思議そうな顔をする。女の宿の規則に違反でもしたのかと気になった。
「そちらはどういったお仲間ですの」
悦代は間をあけず問い返した。
「わたしと彼女は友達同士で、彼女はここで知り合いになったの」と一番年若い女を見やった。
「今回は三人で味噌を作ろうって集まったんだけど、あそこは何かをしに来る場なのね。本を読みに来る人もいるし、草木染めや編物する人もいる。……そういう所って知らなかったの」
ぽかんとしている悦代を見て言った。
「ええ、まあ。それで、もへじ旅館ってずっとそういう宿でとおってるんですか」
「三年くらい前かしら。未央ちゃんの親戚の方がオーナーで始めたそうよ。だんだん口コミで広がっていって泊り客は女だけだし、ひとりで泊まりに来る人のほうが多いのよ。でも、絶対雑誌やテレビにはでないって断り続けてるから雰囲気が変わらなくて、わたしたちは喜んでるんだけどね」
親戚の方……。未央が母と呼ぶ由紀子とは違う人をさすのだろうか。
「あそこは未央さんとひとりおばあさんがいましたよね。あと、誰かおられるんですか」
由紀子のことは伏せて探りを入れてみた。
「あのおばあさんは土地の人で未央ちゃんが雇ってるってきいたけど。それと、大阪で働いてる弟さんが月に何度かくるかしら。三十五歳のひとり者。男前なのよ。彼女が狙ってるんだけど」
一番若い女を指さした。
「旅館をおばあさんと未央さんで切り盛りするのは大変でしょう。大勢泊り客もいるし」
すると指をさされた女が、
「他にも土地の人をアルバイトで雇ってるんですって。お年寄りばかりだけど、それが喜ばれてて、未央ちゃんはよそ者だったけど、すぐに受け入れてもらえたそうですよ」
「毎回違うおばあちゃんが働いてるもんね。味噌や佃煮の作り方も教えてくれるし、仕事してないときも来たりしてるよね。そうそう、それに宿泊費が安いのがいいよね。だってわたしたちがひとりで来るのは料理が目当てじゃないでしょ。だから食事は家族みたいに皆で食べて後片付けして、布団も自分で敷く。一泊三千円なの。居たいだけいて、何か作って帰るの。今、計画中なのはあそこをギャラリーにして作ったものを販売するの。売れたら幾らかマージン渡そうって」
先頭の女がそう言い足した。
夕食の時間まで三十分ほどあったので散歩することにした。今しがた脱衣場で服を着ているとき、三人にスカートを誉められたことに気をよくしていた。道行く人の視線がスカートに留まるのを意識して悦代は普段より背を伸ばして歩いている。
このスカートはアジア雑貨の店で売っていたベッドカバー用の木綿の布地で作ったものだ。全体がこげ茶の蔦模様で四辺に紫の太いラインが入っていて地味派手なところが趣味に合った。ゴムスカートだが脇の布を重ねて、そこは縫わず巻きスカートにしていた。サロンエプロンを真似た作りだ。これに合せて着るTシャツは丈の短いものと決めている。
しばらく歩くと登山道と書かれた標識があった。そこから覗くと砂利道が十メートルほどあり広場になっている。杉や雑草に埋め尽くされた周りとは違い、ぽっかり空いた穴のような土地で何かあるのかと足を踏み入れた。
砂利がサンダルの底に押されて沈む感じがする。ここを通ることが山に登る前の一種の禊の儀式のように思えて悦代も神妙に一歩づつ大股で歩いた。
広場に出るとそこに大きな銀杏の木が一本だけ植わっていた。のびのびと枝を広げあおい葉をびっしりつけている。都会の街路に植えられた銀杏が万歳をした格好なら、ここの銀杏は大の字とたとえるにふさわしい。改めて幹に近寄っていった。ふた抱えはある幹に右手の掌を押し当てた。それから盛り上がった根に足を載せ体を寄せた。もし登山道から人が降りて来なかったら、時間を忘れて、ずっと抱きついていたのでないかと思うくらい安らいだ。
夕食の後片付けを終えた未央が悦代の部屋にやって来た。中に招き入れようとすると、わたしの部屋に来てくださいと言う。未央の部屋は一階の階段の横だった。柿渋の黒茶色をした大きな板戸が入っていたので押し入れだと思っていた。畳敷きの大きな部屋で、ベッドに洋服ダンス、座敷机がゆったり収まって、まだ、布団が敷けるくらいのスペースを残している。
悦代はまっさきに座敷机の上のテーブルセンターに目を止めた。想像どおり黒い螺鈿の机によく映える。ここに来て始めて、由紀子の一部に出会えた気がした。
未央は緊張のためか何度か空咳をきった。先に用意して置いてあったグラスの麦茶を一口飲んでから話し始めた。
「ほんとに来ていただいてありがとうございました。篭野様のことは母からよく聞いておりました」
未央は改めて深くお辞儀をした。
「わたしの方はちょっとびっくりしてるんですよ」
悦代は未央の顔をまじまじと見て言った。
「本当はわたしは姪です。隠し子がいたと思われたのでしょ。彼女はずっと独身でした。養子になったんです。三年前にこの旅館を始めたとき登記や登録でいろいろありまして、そのときいっしょに籍に入れてもらいました。両親はずっとまえに他界してますし、わたしも四十になりますがひとり者で、きっと先のこと心配してくれたんだと思います」
未央は疲れた様子で話を休めた。悦代も頭がよく回らなかった。わずか一分ほどの沈黙がとても長く感じられた。
「母は仕事を辞めてすぐに体調を崩して入院したんです」
「こちらの病院でですか」
未央はかぶりを振った。
「大阪です。ほんとうはすぐこちらに移るつもりでしたので、母のマンションも売ってしまっていて。それで引越しをしなければならなくて、母の荷物もそれで運んだんですが……。結局こちらには来れませんでした。先月亡くなったんです」
悦代は机に凭れるように肘をつき両手で顔を覆った。
「じゃあ葉書は未央さんが出したんですね」
未央はこくりと頷いた。
「はい、謎かけのようなことをしてと、お叱りを受けるかもしれませんが、母の意向だったものですから。自分は空気のように消えたいから死亡の通知はしないで欲しいといわれました。元の住所も電話もありませんから、手紙や葉書は差出人に戻ります。それでいいと。ただ、数枚だけ葉書を送って欲しいといって渡されたのがそれなんです。逆に言えば、死んだことを知ってもらいたい方々だったのだと思います」
生協で六、七年のお付き合いはあったが、由紀子にとって親友に値するのだろうか。
「他の方もわたしみたいに探して来られましたか」
悦代にしても偶然がここに運んでくれたようなものだ。
「いえ、ここの住所を書いてあったのは篭野様だけですから」
未央の話はそのまま本題に入っていた。
「この旅館を始めた経緯はご存知ないでしょう」
毎週会っていたのに由紀子はそれらしいことなど何も言わなかった。悦代は首を横に振った。
「篭野様が……」
「ちょっと待って、篭野様っていうのは止めて」
こんな大事なことを伏せおいて、いまさら何を知らされるのかと苛立ちを覚えていた。
「じゃあ悦代さんってお呼びしても良いですか。母がいつもそう呼んでいましたから」
未央は悦代の内心をしらずに無邪気に言った。
「悦代さんが母の家に泊まりにきた晩、定年離婚するっておっしゃったときからなんですよ。母は悦代さんがひとりになったらこの旅館をいっしょにやろうって誘うつもりでした。でも、しばらくして悦代さんは離婚しないだろうって、わたしに言ってました。それでわたしに白羽の矢がたったというか。わたしが離婚してぴいぴい言ってたんで、生活していく力がつけば必ず今の苦しみから立ち上がれるんだから三十女の意地をみせなさいって叱られたんです」
悦代は修造に俺しかいないだろうと言われたことをのろけ話のように由紀子にしゃべったことを思い出した。そのあとも、あれは更年期のせいだったのねと軽薄に口にした。由紀子はよかったねという顔で聞いてくれていたのだ。
「それじゃここはその時に買われたものなの」
「いえ、そうじゃないんです。古い話になるんですけどね。母は三十代の始め、結婚を約束した人とここに住んでたんです。相手の男性は母との関係が元で離婚して、仕事も辞めてしまって、逃避行ですよね。商売人だった祖父が所有していた家なんですがここは。浜岡の地縁のないところです。わたしも詳しいことは知りません」
ひと月もしないうちに男は由紀子を置いて別れた妻の所へ帰ってしまったのだそうだ。元妻が病気になったかなにかで入院してしまったので、子供の面倒をみるためだ。結局、男は由紀子のところには帰って来なかったそうだ。
「母は大阪に戻ってきて商売を始めたんです。エンビパイプなんかを扱う会社だったそうです。祖父が工業部品を扱う会社をしてたので、何かの繋がりがあったとは思いますが」
「由紀子さんが会社をされてたの」
悦代と出会ったときは官庁まわりをする営業の仕事をしていた。
「あ、でも悦代さんたちと生協に入ってた頃は会社はやめてました。取引先だった会社に就職したてだったと思います。景気も傾いてきた頃で潮時とみたんでしょう」
パズルをひとつひとつ嵌めていくように、由紀子の全容が現れてくる。しかし、悦代がそこまで深く知ってもよいのだろうかという戸惑いもあった。
「じゃあ、明日連れてってくれるって言ってたのはお墓ですか」
瀕死の床にあっても息をしている由紀子を想像していただけに、お墓なら行かずに帰りたいと思った。
「お墓じゃないです。でも、どうしてもお連れしたいところなのでお付き合いください」
未央はそう言ったあと固く口を結んだ。
翌朝、山組みと言っていた山菜つみや草木染めをする一行が朝食を終えると帰っていった。味噌の三人は昨日水につけた大豆を茹でたり、樽を洗ったりして作業を始め出した。悦代は楽しげな三人のやりとりに馴染めず部屋に戻った。
「今日はお客さんが少ないので夕食はおばあさんにお願いしました。三時ごろ出発したいのですがよろしいですか」
追いかけるように未央が部屋に来た。
「今日帰ろうと思ってるんですけど、それで間に合えばいいですよ」
悦代の返事に未央は困ったという顔をした。
「あ、じゃあ帰るのは明日でも……」
「駅までお送りしますから大丈夫です」
それでも時間を三十分繰り上げることになった。
鞄を持って居間に下りてくると、昨日悦代を迎えに来てくれた男が座ってコーヒーを飲んでいた。
「きのうはありがとうございました」と悦代が礼を言うと、
「あそこへは四、五十分かかるんで帰りの電車は特急がないんですよ。でも橿原神宮まででたら急行がありますから大丈夫です」
「じゃあ、あなたが連れてってくださるんですか」
田舎の人の親切というか、人との距離の近さが驚きだった。
昨日と同じ車で未央が助手席に乗り、悦代は後ろの席に座った。例のハンドルにしがみつくような男の運転も未央と男の会話も気にならず、ゆったりと凭れて外を見ていた。昨日はそうとう歩いてきたと思われた登山道の入り口を一、二分で通過していく。未央はこの山に連れていこうとしているのだろうか。
車は延々と川沿いを走り、道の突き当りまできた。その分岐は山と反対にカーブをして川を渡るとすぐに勾配のきつい山道になった。道幅は狭く、深く掘れた穴にタイヤがはまると天井に頭をぶつけるほど体が跳ね上がった。ガードレールはおろか紐もはっていないので車が落ちはしないか心配だった。先に進むにつれて木の枝や雑草が道に覆い被さるように生えており、ばしゃばしゃと擦れる音がした。
山の頂上ははるか先に見えた。
と、その時、急に車が道の真中で止まった。
「着きましたよ」
男と未央はドアを開けて降りようとしている。ここから先は徒歩で行くのかと息を詰めた。
「ここから歩くの」
悦代の言葉を無視して二人は歩きだした。道のど真ん中に車を停めても大丈夫なのだろうか。おろおろと鞄を持ち出し体を半分車の外にだしたところ、荷物は車の中に置いていてくださいと数歩先から声が飛んできた。
車の前に回って少しいくと左側に草の倒れたけもの道があった。二人はためらいもせず草の隙間に体を滑り込ませた。虫の嫌いな悦代は両脇をしめて体を丸めるようにしてその中に入っていった。けもの道は下りになっていて、前の二人は頭だけしか見えない。土が湿っていて何度も滑りそうになりながら後を追いかけた。
顔をあげると二人が立ち止まって悦代の方を見ていた。彼らの後ろに鉄骨の大きな骨組みがある。山の斜面に頑強に立っている数本の柱と筋交いのほそい鉄筋が幾本も交差している。建設の途中で放りだされた建造物のようだった。長い時間で原生林に取り囲まれ奇妙な共生をしているようにも見えた。
非常階段が九十九折のように最上階までかかっている。
未央がさきに登り、悦代がつぎに行った。男はその後ろから手すりを両手で持ち、安全ネットの役目をしてくれている。
最上段まで登ると平らな大きな正方形の屋根にでた。悦代は木のてっ辺と同じ高さに立っているのに気がついた。
「ここはヘリポートなんです。いい景色でしょう」
未央は体を回し三百六十度を見回した。
悦代も真似てゆっくりと回ってみた。深緑の連山が静かな海の波頭のように隆起してとりかこみ、悦代の体は宙に浮いたようだった。うす曇りの空のせいか下は煙っていて、より一層天上の神秘を思わせた。
「すばらしいわ。この世じゃないみたい」
はしゃいだ声で言った。
「約束を果たせました」
未央がぽつりと言った。
「えっ」
悦代は動きを止めた。
「母が悦代さんにした約束です。自分が一番すばらしいと思っている場所に悦代さんを連れて行く約束していたと、聞いてました」
由紀子はわたしには生き直せた場所があるのだと言っていた。まだ誰にも教えてないけれど、悦代さんだったら教えてあげると泊まった晩にそう言っていた。だから頑張りなさいねと言ってくれたのだ。
「ここに悦代さんを連れてきて、ときどき旅館に来てもらったり、相談にのって貰うように頼みなさいって、母に言われたんです」
悦代は見返った。世間ずれをしていない小娘の眼差しでこちらを見ている。由紀子が推薦した人間を無条件で信じている目だ。
「母から言い付かったこと、まだ何も出来てないんです」
未央は下を覗き込んで、
「ここから散骨したんですよ」と話の向きを変えてしまった。
悦代も同じようにした。円錐形に底に広がる枝から深い闇が見えた。
鞄を持ってくればよかったと思った。
すると再び、
「働ける場と定住の場を作ることなんです。母はもちろん、わたしも再婚しなければ子供はいませんし、老後は不安と孤独が待っているわけですが、そんな女の人が集まっておけば、コミューンのようにね。最後まで希望を持って生きていけるって。旅館の裏にある敷地も購入していたんです。これからどうやっていいのか、とても自信がありません」
悦代は、はっと思い出した。
あれは約束だったのだ。悦代がひとりになったら一緒に暮らそうと言い合った繰り言のことだ。
『悦代さんが抱えてる問題は離婚したって解決しないよ』
由紀子が宥めるように言ってくれた言葉、夫が先に死んで、ひとりになったときの悦代の不安を見抜いていたのだ。
『人のために生きてこそ人間だよ』
由紀子の口癖だった。
演歌の好きだった由紀子。なんでもない演歌の歌詞が時に、胸にずんっとくるのだと言っていたな。
悦代は、由紀子がもう生きて息をしていないことを今初めて強く思った。
「生き直しの場所か」
すぐ傍で男の声がしたような気がした。
振り返ったが、男は悦代たちの邪魔にならないようにと離れた場所で立っていた。
男の右手が口元から離れると、薄く白い煙がふわふわと漂った。
悦代は白い線を目で追いながら、未央の手をそっと握った。
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