ここ数日の間に、私を悩ませる出来事が二つも起こった。
一つは、四日前の朝、独り暮らしをしている八十二歳の母親が再び倒れたことだ。
朝早く、私が目覚めるのを待ちかねたように電話が鳴り、それを取ると、母親が「頭がくらくらするし、立ち上がれない、それに何度も吐いた。すぐに、病院へ連れていってくれ」と消え入るような声で言ってきた。
半年ほど前、同じようなことがあったので、またかと思いながらも、服装を整え、電車を乗り継いで母親の家に行き、救急車を呼んで、この病院へ入院させた。これで、入院は四度目である。入院が度重なると、こちらも狼少年のように慣れてきて、ああ、またかと思う反面、入院ごとに母親の身体が弱っていくのが心配だ。
幸い、今回もまた、たいしたことではないらしい。すでに、嘔吐もなくなり、目眩も起こらなくなった。
ただ、どうも夜が眠れないらしい。「隣の人が、大きないびきをかくので眠れない。夕べは一睡もできなかった。何とか、病院にかけあって、個室へ移し替えてもらいたい」などと言って私を困らせている。個室にはなかなか入れてもらえないことは前の入院のときにわかっているはずだ。
その他にも、ティッシュを買ってこいの、暖かいお茶に入れ替えてこいのとさまざまな用事を言いつける。さらには、もう食事は十分食べられるのに、病院は何も出してくれない、こんなことではやせ細ってしまう。何とか医者や看護師に気づかれないように、いつも飲んでいる林檎ジュースを作れの、寿司を買ってこいのと言い出す始末である。
それらをするために、私は、朝早くからこの病院へ来ている。もし、来ないと看護師らに頼みこんで、家に電話をかけてくる。はやく呼んでくれとわめくらしい。それで、病院も困り果てて、何とか早く来てやってください、そうでないと大声を出されて、他の患者さんにも迷惑がかかります、と言ってくる。
考えると、自分の母親の看病だが嫌になる。こんなことをするために会社を辞めたわけではない。会社を辞めれば、もっと楽しいことがいっぱいできると思っていた。やりたいこともいっぱいあると。だが、まだ、何もやっていない。最近、少し焦り気味である。いったい、いつまでこのような看病を続けなければならないのか。
それにまた、病気が落ち着いた後、今後の母親をどうするかも問題である。もし、寝たきりにでもなられたらこれはたいへんである。問題は深刻になる。
もう一つは、別居中の妻から、「いい働き口が見つかった。知り合いの人に頼んでおいたら、あなたにぜひ来てほしいと言っている。こんないい話はめったにない。はやく返事をするように」と言ってきたことだ。
六ヶ月ほど前に、勤めていた薬品会社が倒産して、今、失業中である。いや、先程もいったように、もう働くのを止めにしようかと考えている。死んだおやじが、国道沿いの土地と家屋を残しておいてくれた。それを、飲食店などに貸している。それで、家賃が少し入る。子どものいない私たちにとっては生活費を徹底的に切りつめればそれだけで十分である。そう思うと、働くのは嫌になった。頭を下げて、病院や医院を駆けずり回り、まだノルマを達成していないと悩むような日々は嫌だ。A医院とB医院は取引を断ってきた。いったいこれはどういうことだ。それはお前の責任ではないのか、などと上司から叱られるのはもうごめんだ。
だが、働かなくなってから、三ヶ月ほど経ったある日、「私の思った通りだわ。あなたの目は腐ってきた。身体までぶよぶよしてきたし、まるで古くなった魚のよう。私がこんなに勧めても、あなたが働かないのなら、私はそんな人間とはいっしょに暮らせませんから出ていきます」と言って、妻は、さっさと家を出て行ってしまった。彼女は、今、勤めている薬局の二階で暮らしている。それから何度も「帰って来てくれないか」と頼みに行ったが「じゃ、あなた、働きなさいよ」と言って取り合わない。
妻は、働き口を世話することで、私を最終的に試そうとしている。これが妻がくれた最後のチャンスかもしれない。もし、以前のように、私がプロパーとして成績を上げるよう頑張るならば家に帰ってやってもいい、それがだめなら、きっぱりと別れましょうということらしい。いわば最後通告のようなものだ。
決断力のある男なら、たとえこんな問題が起こったとしても、即座に判断して、上手に解決するだろうが、私はそうはいかない。どうしようかなと迷ってしまう。
それに先程、母親は、私に用事を頼むと、さっさといびきをかいて眠ってしまった。それを見ていると、いくら病人でも、私に不条理なことを押しつけて、自分だけ知らん顔をきめこんでいることが許し難く、怒りがこみ上がってきた。このままいると、母親の嫌な一言で私の怒りが爆発しそうだ。
そんなことは絶対に避けたい。それはあまりにも見苦しい。辺りの人たちからもひんしゅくをかってしまう。
では、どうするか。
病室を出て、外の空気を吸い、さわやかな蒼空でも眺めれば、少しは気分も落ち着くだろう。木々の葉音や鳥の声などが聞こえればなおさらだ。
そんなことを考えながら、今、私は、五階の病室から一階のエレベーターの前まで降りてきたところだ。これから、西の端の廊下を通って外へ出る。
ようやく、通用口まで来た。突き当たりの、ドアの手前の左側には、見舞客用のための守衛室があり、守衛がひとり、紺の制服を着て、鍔の長い旧来の制帽を被って座っている。
私は、この病院へ来たときから彼のことが少し気になっていた。彼は別に私に何か気に障るようなことを言ったわけではない。ただそこに座っているだけである。だが、私がそこを通る度に、何か気がかりなことでもあるかのように、上目遣いでじろりと睨む。私のひがみだろうか、それがたまらなく嫌だ。勘にさわる。この私のどこかに胡散臭さでも漂っているというのか。
いや、そう言えば、先日も、駅から家に向かっているとき、警官が私を呼び止め、住所はどこの、何をしているの、今どこから帰ってきたのとしつこく聞かれた。あげくのはてには何か自分を証明するものがありませんかと要求された。
財布をとりだし、中身を調べたが、自分を証明するようなものなど何ひとつない。郵便局や銀行のカードがあったが、それでは証明にならないと言う。「では、どういうものならいいのですか」と聞いてみると、免許証とか、写真付きのクレジットカードとか、保険証とか、身分証明書とかだとか言われた。そんなものは持っていなかった。仕方がないので名刺を渡した。名刺には住所と電話番号が書いてある。それを見た途端、警官は、勤務先がないですねと言い、ますます私を疑うような目つきをした。
どこにも勤めていませんからと言うと、では、どうして食べているのですかと尋ねてくる。十三年前、父が死に、国道沿いの狭い土地を相続した。父が、それを商店などに貸していたので、その地代で食っていると言うと、その店の名前を言えと言う。店の名前など覚えていない。中川さんと木村さんと吉田さんだと言うと、フルネームでどうぞと言ってくる。だが、そんなのは思い出せない。すると、どうも変ですね、そんなことってあり得ない、などと言い、私をいっそう疑いの目で見る。
もっと他に、何か自分を証明するものはないですか、とさらに私に近づき、足先を見つめる。私は靴下を穿くのが嫌いなので、サンダルを履いていたのだが、どうもそれが気にいらないらしい。しまったことをした。ちゃんと革靴でも履いて来ればよかった。
だんだん、何か悪いことでもしたような気になって、このまま警察に連れて行かれるのではないかと不安になってくる。
そのとき、運良く顔見知りの郵便配達夫がバイクに乗ってこちらにやって来た。
私は、あの郵便配達夫に尋ねてください、私宛の郵便物を配達して来るんだから、と彼を指さした。だが、途端、しまったことをしたと思った。私宛に配達されてくる郵便物など最近はめったにない。
「おおい、ちょっと」と言って、警官は郵便配達夫を手招きした。彼は、バイクのスピードをゆるめ、私たちに近づいてきた。
「あのう、○○警察のものだが、この人の名前、知っていますかね」と警官は尋ねた。「ああ、あそこの、古い建て売り住宅の人ですね、ええっと、吉田さんと言ったかな」とまったく違う名前を言った。
「ええっ、吉田さん」
警官は、じろりっと制帽の鍔越しに私を見た。
「いや、そうじゃなかったかな、あれ、違ったかな、何だったけ、ええっと、思い出せないな」と私をじっと見ながら、何度も首をかしげた。
そのとき、不意に、横合いから、女の声がした。
「あら、源ちゃんのお父さん。今日は、源ちゃん、どうしました。もう、散歩は終わられたんですか」
雪ちゃんのおばさんだった。いいところで出会った。おばさんは柴犬の雪ちゃんを連れていた。雪ちゃんは白い顎を私のほうに向けてしっぽを振った。
「この人を知っておられますか」と警官は尋ねた。
「ええ、ええ、源ちゃんのお父さんでしょう。源ちゃんって、私ところの雪ちゃんの恋人。そりゃ、毛並みのいい、ハンサムな柴犬ですわ」
突然、郵便配達夫は、「私は、もうこれでいいですか」と、怒ったような声を出した。
彼は、原付のアクセルを思いっきり蒸かせて、警官が、彼のほうを振り向く前に、もうそこを十メートルばかり離れていた。雪ちゃんは、その音に驚いて、バイクに向かって、四、五回吠えた。
「名前は何とおっしゃるんですか」と警官はおばさんの頭の上から言った。その仕草が、気に入らなかったのか、少し怒りを含んだ声で「だから、言っているじゃないですか、源ちゃんのお父さんですよ」と言った。「あそこの建て売り住宅に住んでいる」ともつけ加えた。「だから、そんなんじゃなく、普通の名前を言ってくださいよ」と警官が言うと、「そんなの知りませんよ、源ちゃんのお父さん、それで十分でしょう、何が不服なんですか」そういったとき、雪ちゃんは、「はやく行こうよ」というようにまた吠えた。
「けっして怪しい人ではありませんよ」
おばさんは、再び、怒りの声を出した。
「うんうん」と警官は頷き、「まあ今日ところはこれでいいか」と独り言をいい、「やあ、お手間を取らせて済みませんでした、ありがとうございました」と礼を言うと、さっさと私に背を向けて立ち去ってしまった。
「ねえ、人間を犯罪者扱いにして、何だろうね、あの青二才のおまわりさんは」
おばさんは毒づいた。それから、「では、ちょっとそこら辺を一巡してきますわ」と、雪ちゃんを引っぱって行ってしまった。
私は、自分の名字が誰からも言われなかったことにかなりショックを受けた。自分が何者でもないような気がした。やっぱり、別居している妻の恵子が言ったように私はすでに死んだも同然の人間なのか。
恵子が言った。
「家でただぶらぶらしているような人間は大嫌い。そんなの死んだ人間と同じよ。死臭が漂ってくるわ」
しかし、私はやっぱり働きたくなかった。じっと家にいてテレビのワイドショウーでも見ながら居眠りをしていたかった。あるいは喫茶店の片隅でコーヒーでも飲みながらスポーツ紙を読んでいたかった。
通用口の扉を押し、外に出ると、そこは、吹き抜けの広場になっていて、患者とおぼしき人たちが、あちこちのベンチに腰をかけていた。しかし、二階の天井が広場の上を覆っていて空は見えない。それに、十月というのにまだ熱気を含んだ油っぽい風が頬に粘り着いてくる。
広場の左右には木々が緑色の葉を茂らせてはいるが、雨が降らないためか、灰色がかった葉裏をこちらに向けて、いかにも疲れたといった感じだ。
その向こうには、おもちゃのような瀟洒な家々が小さく覗いているが、その上は厚い雲に覆われている。
もう少しすかっとした風景を見たかった。気分もあまりかわらない。じっとりとした覆いのようなものが依然として心の壁に張り付いている。
これでは外へ出てきた意味がないとがっかりしながら、視線を前のほうへずらしていった。
前方正面はコンクリートの壁になっていて、その向こうが遮られていた。それで、一番奥の左側の端を見た。そこには、一人の男が、シルエットとなって佇んでいた。私はその姿を見てはっとした。心がざわめいた。彼を見るまで、彼の存在を忘れていた。しまったことをした。それは私の重大なミスだ。外へ行こうと思った途端、彼のことを思い出すべきだった。なぜそうしなかったのか、自分でも不思議なほどだ。
男の前は、一時的に車を留める、ちょっとした駐車場になっていて、一、二台の車が留まっていたが、かなりのところが空いていて、アスファルトの路面が広場になっていた。そこに鳥が群がっていて、男はそれに向かって、ちぎったパンを投げている。
男は、五分刈りで、私の歳とあまりかわらないようだ。土色の、どこか工場の制服のような厚い綿のシャツとズボンをはいている。どこから見ても魅力のある男ではない。普段なら、まったく無視して、一瞥も与えなかっただろう。しかし、彼の動作を見ていると、ただの暇つぶしとは思えなかった。その丁寧な動きには彼のやさしさが表われていて、かすかに心の芯が反応した。
私は、コンクリートの広場を早足で歩き、彼に近づいて行った。
男はさかんにパンをちぎって投げている。切れ端を投げると、鳥が群がってきてそれをつっつく。
最初に見たときは、一瞬、それは鳩かと思ったが、やや大きめの雀だった。
パンの破片を投げると、男の腕の動きに驚いて、雀はいっせいに周りの木々に飛び散るのだが、すぐに勇気のある数羽が降りてきて、男の放り投げたパンをつつきだす。するとその様子を見て、周りの鳥が、再び、道路に降りてきて、そのまねをする。
勇気がないくせにすばしこいやつは、他の鳥が加えている大きなパン切れを横取りし、それをくわえて飛びたち、木の上に持っていき、落とさないように器用に食べている。しかし、中には、あっちこっちうろうろしながら、まったく餌にありつけない不器用な鳥もいる。そんな鳥は、短い首を伸ばしたり縮めたりさせ、ただ、あちこち走りまわり、目をぱちくりさせているだけである。
男は、そんな鳥が可愛くてしかたがないらしく、それらが行くところ行くところをすべて目で追い、目尻を極端に細めて笑っている。その表情は、いつかテレビで見た、お産のあと、初めて自分の子どもと対面する母親の表情に似ていた。
「やあ、やってますね」
私は、男の傍らに近づいた。
私は、病院に来た最初の日から、そこに男がいることに気づいていたが、二日前からその男と口をきくようになった。
男は私をちらっと見たが、何も言わず、どんどん、ビニールの袋からパンを出しては鳥たちに与えている。鳥たちは、慣れてきたのか、男が大きく腕を振っても逃げなくなった。男の近くまでやってきて、男の手の指先を見つめている。
男は、突然、野手が遠くへボールを投げるように、あらぬ方向にパンの破片を投げた。近くの雀の群れはそれをまったく無視した。パンの耳なのだろうか、それはかなり遠くまで飛んだ。そこに、一羽の雀がいた。その雀が近づき、転がった餌をついばみはじめたが、大きすぎて、食べられない。くちばしでくわえると、何度も何度も切れ端を左右に振り回している。その動作はいかにもぎこちなく、きっと群れの中では餌にありつけない鳥なのだろう。男はそれを見て、いっそう深い微笑みを浮かべた。
「毎日餌をやるのはたいへんでしょう。お金もかかるし」
「いいや、大したことはない」
男は静かな口調で言った。
「そのくらいの金なら持っている」
男は、こちらを向かず、ずっと餌をやりつづけている。男はかなりのプライドを持っているらしい。
男は突然餌をやるのを止め、くるっと四十五度身体を回転させると、私をまともに見た。
しばらく、私を値踏みするようにじっと眺めていたが、彼の視線は先程の守衛のそれとは違い、どこかやさしさと慈しみのこもったものだった。
「今は暇かい。暇なら、連れていきたいところがあるんやが」
彼がそういうと、再び、私を鋭く見つめ直した。彼がそんなふうに見るのは初めてだった。何か自分の判断が間違っていなかったかどうか確かめてでもいるかのようだ。
「何んかしらんけど、あんたを見ていると、あんたにあれを見せたりとうなった」
男は苦笑いのような表情をした。
いったいどこへ連れて行くというのか、何を見せたいのか。こんな男の口車に乗ってのこのこついていっても大丈夫なのか。へんな所へ連れていかれ、金でもせびられるのではないか。
だが、どうみてもそんなことをする男には見えない。むしろ、彼をそんなふうに見ている自分が下卑た人間に思えた。
前にも言ったが、私はこの男に奇妙な感じを受けている。喋っていると、心の底に溜まっている苛立ちの澱がすうと消えていくような。
「少しならね。でも、いったいどこへ」
「ついてきたらわかるがな」
男は、微笑みながら言った。その仏のような細い目尻の揺れが、私とこの男との壁を取り払ってしまう。
男は、また、雀のほうを向き、ビニール袋を逆さにして、残りの滓をぜんぶ路上にまいた。雀たちは群がってそれを食べた。
「やっぱり、元気なのはいいなあ」
男はしばらくそれを満足げに眺めていた。
「さあ、行くか」
男は、私に、目で合図を送ると、さっさと歩き始めた。私は、その後ろを、まだ少し不安を抱きながら、ついて行った。
先程通ってきた通用口を、今度は逆側から通り、病院の建物の中に入った。中にはいると、一気に雰囲気が暗くなった。窓からは光が入っているのに病院の中はいつも暗い。
廊下を少し歩いたところに、地下へ降りる階段があった。男はそこを降りた。いくつか廊下を折れ曲がったところの突き当たりの前で男は立ち止まった。部屋の扉の上には「霊安室」と書いた札が掛かっていた。
男は、ポケットを探り、鍵を出して、ドアの鍵穴に差し込んだ。
驚いた。こんなところへ入っていったい何をするのか。
金属的な音が鳴り、廊下に大きく反響した。扉が重々しく開き、かすかな光が漏れた。
「ここに寝とるやつはな、おれの友だちや。昨日の晩に死によった」
男と私は中に入った。中は暗く、前方に祭壇らしいテーブルが置かれ、白い布の上に太いローソク型の灯りが三本立てられていた。中央に背の高い、手術用の寝台に似た台が置かれ、そこに白い布で覆われた死体らしきものが横たわっていた。
「身寄りも何もないやつや、おれと同じで、若いときは女房もおったそうやが、あるとき、仕事中に足場から落ちて、脊髄をやられよった。出かけにちょっと一杯飲んでいたので、労災ももらえず、会社も首や。女房とも大喧嘩して別れよったらしい。男が働かんようになったら、女房は必ず出ていきよる。子どももおるそうやが、死んでも絶対知らせたらあかんと言っていた。それがあいつの遺言や」
男は、寝台に近づき、頭の上の白い布を取った。白っぽい顔と髪の毛が現れた。鼻の高い、細長い顔だった。しかし、頬の色は青白く、透明に近かった。けっしてそれは人間の肌とは思えなかった。
私は怖ろしかった。足ががたがた震えた。
男は死人の額に手をあて、何度も摩った。
「こいつはすごかったな。彼の病気はかなり苦しくって、痛みもひどいらしいんやが、そんな顔は一度も見せんかった」
男は、死人の顔に手を合わせた。
「覚悟ができとったな。そやから、毎日、楽しそうやった。おれは自分の人生を楽しんでやる。そんな強い意志みたいなものがあったな」
男からの話を聞いていると、自分がいかに小心者で、いいかげんな男かと改めて思い知らされた。一度、もう働かないと決めておきながら、女房から圧力がかかると簡単にどうしようかと迷ってしまうなんて。
だが、つい先程からときどき、今のようなのんびりとした、まるで休息をしているような暮らしをしていていいのだろうか、とふと思ったりもした。それは妻の圧力からだけではなく、まったく別のことからもそう感じたように思う。
「こいつは、誰かが死ぬと、必ずここへ来よったんや」
今度は、男は、死人の胴体を布の上から摩りはじめた。それは大切なものを慈しんでいるふうだった。「なぜ、そんなところへ行くのか尋ねたことがあるんや。そしたら、死ぬ覚悟を決めるためやって」
前にいるこの男もまた覚悟を決めるためにここへやって来ているのか。
「おれだって、もうそう長うない。すでに、腎臓が一つ取られている、それに、残りのやつも、もうかなり悪うなっとる」
男は、他人のことを告げるように言った。
私は、再び死体の男の顔を眺めた。頬は痩け、顎がとがっていた。肌の色は薄い青色で鑞のように無機質な滑らかさがあった。しかし、話を聞いた後のためか、顔付きには精悍さが漂っていた。敵と戦って死んだ野武士のような感じがした。
「拝んでやってや。一人でも多くあいつを知ってやってほしいのや」
男が言った。私は、手を合わせて拝んだ。だが、何を思って拝めばいいのかわからない。拝んでからも、死んだ男の顔ばかりを眺めていた。
不思議なことだ。今まで死人の顔など怖ろしくて、目をそらしたり、顔をそむけたりしていたのが、今は違った。何度眺めても、嫌な気がしない。足の震えもいつの間にか止まっている。
「このひと、これからどうされるんですか」
男に尋ねた。
「今日の昼ごろ、葬儀屋の車が取りに来よる。そうするようあいつに頼まれたんや」
「いっしょに乗って行かれるんですか」
「いいや、あいつが言いよった。焼き場まではついてくるな。骨拾いもいらん。最後まで独りで逝くって」
男は、また、死人の頭に掌を置き、ゆっくりとそれを摩った。
「お前は立派やったなあ」
男は涙ぐんだ。
「わかってるがな、心配せんでもいい。今日もお前の言うた通り、あれをやるがな。休んだらあかんのやろ」
男は、真剣な表情で死人に語りかけた。
「彼が言いよった。おれが死んだ日でも、あれを止めたらあかんて」
「あれって」
「後でわかる。見せたるがな。でも、あんたが見ても、きっとそれはたいしたことやない、あほやってると思うわ。病院中のほとんどのやつはそう思っている。何がおもしろうてそんなことに夢中になれるんかって。そやけど、おれたちにとっては大事なことや。特にこいつとおれとにとってはな……こいつとおれはライバルやった。この病院を二分しとったんや」
男は寂しそうな声で言った。
「さあ、行こうか」
男は、ゆっくりと、白い布を顔上にのせ、しばらくは頭を垂れたまま、口の中でぼそぼそと何か言っていたが、それが終わると、さっさと扉の方へ歩きだした。
廊下に出たところで、立ち止まり、「今日の十時やで、四階の廊下の真ん中、待合室みたいなところあるやろ、あそこへ来てくれ。『あれ』って何かを見せたる」
男は、目を極端に細め、ハの字型にした。何とも言いようのないうれしさが漂っていた。それを見ると誰もが明るくなれそうな表情だった。よほどその「あれ」がこの男にとっては楽しいものらしい。
男と話し合うことで、また、いっしょに死体を見たことで私の気分はずいぶん和らいだ。それは不思議なことだった。死体を見ることで心が和らぐなんて普通は考えられない。きっとそれは、あの男に会えたといううれしさではないか。初めてまともな知人ができたといううれしさ。今でもありありと、あの五分刈りの男の顔を思い浮かべることができる。
しかし、エレベーターを五階で降り、母親の病室に近づくにつれて、その気分はじょじょに変わり始めた。母親の鬱としい顔を見たり、用事を言いつけられたりするのかと思うと、歩くスピードも極端に落ち、まるで這うようなスピードになった。
エレベーターと病室との半ば辺りまで来た。そこはナースステイションの前だった。そこを通ろうとしたとき、何となく中をのぞき込んだ。すると、その中の看護師の一人と目が合った。私は無意識にお辞儀をした。しかし、その看護師は驚いたように、後ろを振り返り、別の歳のいった看護師に何かを言っていた。すると、言われた看護師はその若い看護師に「はよう、あなたも来て」と大声を出し、慌てたように部屋のドアを開けて、私のほうに走ってきた。若い看護師も、すぐその後からついてきた。
「横山さん。いったいどこへ行っておられたんですか」
歳のいった看護師は怒ったように私に言った。声の調子は、すでに喧嘩ごしだった。
「ちょっと、喫茶室に」
ひょっとして、あの男と霊安室に入ったことを見付けられたのか。
「あなた、お母さんの看病に来ておられるんでしょう。それならちゃんと見ておいてください」
「はあ」と返事はしたものの、何を言っているのかわからなかった。
「あなた、お母さんから、部屋を変えてくれるように言うことを頼まれたのでしょ」
ああ、そうだった。それを忘れていた。しかし、それはまだ早い。夜のことだ。それに、そういうことを頼むことに抵抗を感じていた。言い出しにくかった。もう一度、本当に相部屋ではいけないのか、母親を説得してみようと思っていた。
「そうなんですよ。隣に入院してきた患者さんがいびきをかくので、やかましくって眠れないと言っているのです。それで……」
おずおずと答えた。
「それがね、たいへんだったんですから」
「たいへんって」
「おたくのお母さん、私の部屋を変えるの、どうなっている。まだ、何にも言ってこない。個室に入れてくれるんかどうか、はよう聞いてきてくれって」
「すいません。夜のことだから、慌てることがないと思って」
「この子が、点滴をしに行ったとき、お母さんからそう言われて、慌てて帰ってきて、尋ねるものだから、そんな話は聞いていない。それに、個室には入れない。個室が使えるのは、看護が一人、常駐してくれる体制をとってくれている人に限るのだと言ってくれるように指図したんですよ」
そこまで、ベテランらしい看護師が言うと、彼女の後ろに隠れていた若い看護師が突然私の前に進み出てきた。
「私が、そういうと、あなたのおかあさんが、あんたたち、私がお金ないと思ってばかにしてんのやろ。そのくらいの金なら持っている。はよう入れてくれ、もう一度言ってきてくれ、としつこく言われました。私は、そんなことはありません、そんなことはできません、と答えたら、やにわに、私の腕を掴まえて噛みはったんです」
若い看護師は、私があたかも母親のように目を据えて、ぐるぐる巻きの包帯をとり始めた。そうして、噛まれたところを私の前に突きだした。
腕の裏側のみずみずしい肌の上に赤い歯形がくっきりと付いていた。まん中辺りのそれは、破れて血が滲んでいる。まるで犬に噛みつかれた傷のようだ。母親はあの歳になってもまだ歯が丈夫なのだ。ほとんど欠けてはいない。
「すみません。申しわけありません」
頭を下げ、そう謝りながらも、歯形の傷を見ていると、滑稽で、笑いがこみあげてきた。彼女の腕に噛みつこうとしている母親の姿が何度も何度も思い浮かんできて、それが、犬の源太が嫌いな人に噛みつこうとしている姿と重なって見えた。
「患者さんに噛みつかれたなんて初めてです」
看護師は真剣に怒った。
「申し訳ありません。申し訳ありません」
若い看護師にもベテランの看護師にも頭を何度も下げたが、心は笑っていた。
「まあ、今回のことについては何も言いませんがね、もし、今度、こんなことが起これば、即刻退院していただきます。よく監視しておいてくださいよ」
「わかりました。本人にもよく言って聞かせます。それで、あのう……部屋替えのほうは……」
看護師たちは、もう私の言葉には耳をかさなかった。白い上着の背をこちらに向けると、さっさと帰って行った。
なんてことだ、ほんとうに。そう思いながらも、気分がよかった。へええ、うちの母親もなかなかやるではないか。最初はそう思った。しかし、何度も、看護師の腕に顔を埋め、力一杯若い肌に歯を突き立てている母親の姿を思い浮かべていると、その狂気じみた迫力が感じられ、ふっと、そうさせているのは母親のわがままなのではなく、もっと根源的な力のなせる業のような気がしてならなかった。
病室に帰ると、医師が別の看護師を連れて朝の巡回にやって来ていた。医師は横たわっている母親の顔を上から覗いていた。
「もう、大丈夫だ。嘔吐も完全におさまったしな」
「そうですか。まだ死にませんか」
「大丈夫、大丈夫。看護師に噛みつくぐらいやから大丈夫」
「へへへ。今度こそ、もうあかんと思いましたわ。だって、目の前が暗くなるし、心臓がどきどきしてくる。吐き気がするし、立ち上がろうとしたら倒れるし」
私は、この言葉はどこかで聞いたことがあると思った。それは私がまだ高校生のころ、夜中に私を起こし、「えらいことになってきた。目がまわる。心臓がどきどきする。胸も苦しい。はよう医者を呼んできてくれ。死ぬかもしれん」とわめきだしたときの言葉といっしょだった。あのときは、父親は単身赴任で、ずっと家にいなかった。
母親はあれ以来、ずっと、自分は死ぬかもしれんと恐れながら生きてきたのか。
母親がいつか言ったことがある。「私が子どもの頃、いっしょに暮らしていた従兄弟が死んだ。まだ、小学校にも行ってない頃に母親が死んだ。その後、いちばん私を世話してくれていた五つ年上の姉が死んだ。それから、父親も死んだ。十八歳の頃、七つ上の姉が死んだ。二十二歳のとき、一番親しくしてくれていた幼なじみが死んだ。それから、三十五歳のとき、父親代わりの一番上の兄が死んだ。六十九歳のときに自分の夫が死んだ」と。それだけ多くの親しい者の死を経験すれば、自分ももうすぐ死ぬかもしれないと怖れるのも無理はない。今風に言えば、たくさんのトラウマを持っていた。満身創夷といったところだ。彼女は不運だった。が、私も不運だ。因果な母親を持ったものだとあきらめるより他しかたがない。
やや絶望的な気分になったが、一方では、彼女もまた「死」を内に抱え込んだ「生」を生きてきたのかと思うと、それは死体の男やあの男と同じではないかとも思えたりもした。彼らとはあまりに大きく違いすぎるので実感の伴わない捉え方ではあったが、ほんの少しだけ、従来の母親とは違って見えた。
「じゃ、もう、何か食べてもよろしいか」
母親が尋ねた。
「そうやな、軽いのやったらな、いっぺんに重い食事をしたら、胃を悪くするからな」
「ああ、うれしい。また、食べられる。ありがとうございます。せんせい」
母親は上機嫌になった。額に何筋もの皺を寄せ、目を細めて微笑みつづけた。これもまた、先程、霊安室に連れていってくれた男が「あのこと」を話すときに作った陽気な笑顔とどこか似かよっているような気がした。
「給食係に言っておくよ。じゃ、おだいじに」
医者がそういうと、やれやれこれでこれで一仕事終わったというふうに身体の動かせ方もゆったりとさせ、病室から出ていった。
すると、今までにこにこしていた母親の顔が一変した。待ちかねていたというふうに私を睨み付けた。
「お前、私の頼んだこと、まだ、何にもやってくれてないやないか」
「ああ、個室に替えてもらうこと。あれ、そんなに慌てんでもいいやないか。寝るのは夜やろう」
「私が頼んでもあかんのや、お前やないと。金を出すのはお前やと思っているんやから。ほんまに腹が立つ。私が金がないと思って、みんなばかにしやがって」
「そんなことはない。もう死にそうで、ずっと患者の横につきっきりの人がいる場合だけ入れてもらえるそうや。そうでなかったら、入れてもらえないのや」
「そんなあほなことがあるか。個室が三つも空いているんや。誰かを個室に入れたほうが金儲けになる。ここは公立やない。金儲けをする病院や。お前まで、私をばかにして。金は一銭もお前の世話にならん。私を誤魔化そうとしたってそうはいかん」
ああ、これはだめだ。何を言っても通じそうにない。何が何でも個室に入るつもりらしい。困ったことになった。
しかし、母親の言うことにも一理はある。個室が空いているなら、入れた方が得だ。それは、きっと、完全看護をうたっている以上、個室に入れて、もしものことがあったら困ると思って、そのようなきまりを作っているのに違いない。それさえクリアーすれば、案外簡単かもしれない。
「ようし、わかった。私から頼んでみる。でも、あんた、看護婦の腕、噛んだそうやないか。えらい怒られたで。こんど、そんなことしたら、病院を追い出されるそうや。もう絶対したらあかんで」
「え、へっ、へっ、あの看護婦、えらそうにするから、いっぺん噛んだろうと思ってたんや」
母親は声を出して笑った。その声は一番端の患者のところまでも届くほどだった。私は、最近、こんな楽しそうに笑った母親を見たことがなかった。母親の頬が濃い紅色になり、一瞬、少女のように華やいだ。
朝食を取らずに来たので、空腹になり、自動販売機からミルクを買ってきてベッドの横で飲んでいると、病室のドアのところに、母親に手を噛まれた看護師が現れた。同じようにドアの方を向いていた母親は、慌てて顔をそむけ、視線を隠した。それは、犬の源太が叱られたときによくする仕草だった。
看護師がそれに気づいたかどうかわからないが、彼女も病室深くには入ってこないで、私を見付けるとほっとしたような顔になって言った。
「横山さん、横山さん。奥さんから電話です」
「ええっ、女房から」
私は、先程の母親以上に大声を出した。みんながちらっとこちらを見た。
妻の恵子からだって! どうして!
恵子は、私がここにいることは知らないはずだ。母親が入院したことだってひとことも言っていない。だのにここへ……。
「ありがとうございます」
丁寧に看護師に礼を述べたが、心はもう電話の所へ飛んでいた。いったいどうしたというのか。瞬間に唇が渇くほど緊張した。
私は、すぐに部屋を出て、ナースステイションの方へ走り出した。看護師は後ろで何か言っていたが、耳には入らない。
緑色の受話器がナースステイションの受付の前に本体からはずされて置かれていた。私はそれを急いで取ると、もしもし、もしもしと何度も繰り返した。
「そんなに大きな声をださなくても聞こえます。お母さんが入院なさったんですってね。ご苦労さん」
妻は皮肉っぽく言った。
「ああ、たいへんだよ。ほんとうに。で、どうしてここがわかったんだ」
「それで、お母さんはどうなの」
私の質問には答えないで彼女は質問をつづけた。
「ああ、もう落ち着いた。前回といっしょだ」
「そうでしょう。きっとそんなことだろうと思っていた。それで、どう言っているの」
「どう言っているって、何を」
「私が病院に行かないこと」
「ああ、いいや、何にも」
そうだ。母親にはまだ恵子と別居していることを言っていなかった。しかし、確かに、母親は恵子のことは何ひとつ尋ねない。
「やっぱりね」
恵子は急に沈んだ声になった。それは、がっかりしたというよりもっと沈んだ声だった。
「やっぱり? いや、恵子は今大変忙しいって言ってあるから」
「ふふん、前回は、私、あんなに世話をしてあげてたのに、完全に私を無視ね」
「………」
「まあ、それはもうどうでもいいわ。今度は、あなた、せいぜい親孝行をしてあげなさいよ」
前回は、妻の恵子が、ほとんど全部、世話をしてくれた。仕事が終わって、夜の七時ごろ帰宅してからすぐに病院に駆けつけて、いろいろ世話をやいてくれた。今度は、自分がそれを引き受けなければならない。そう思うとぞっとした。
「それはそうと、ここにおれがいることはどうしてわかったんだ」
再び同じことを繰り返した。
「ああ、そのこと。あなたに電話をかけても出ないし、お母さんのところに電話をかけても出ないし、仕方がないので、隣の吉田さんところに電話をかけたら、四日前に救急車がきて、入院されましたと言うものだから、きっとこの病院だと思って」
吉田さんとは、母親の隣の人だ。
「なるほど」
感心したふうに言った。
言われてみれば簡単なことだ。しかし、私は感心した。私だったら、電話が通じなかったら、もうそこであきらめてしまう。
「それで、あれ、どうするの」
「あれって」
「のんきね、あなたも私を無視するわけ。せっかくあなたのことを思ってやってあげているのに」
「ああ、仕事のこと」
「そうよ、そのために電話したんだから。早く返事してよ。待ってもらっているんだから」
「迷っているんだよ。正直」
早く返事しないといけないとわかりながら、母親の看護を自分への口実として、決断を先延ばししてきた。
こんなに迷うとは思わなかった。すぐに決着がつけられると思っていた。妻からのプレッシャーは思ったよりきつい。もしこの仕事を私が引き受けなかったら、恵子はおそらくもう帰ってこないだろう。それに、仕事を辞めたとして、その後に母親の介護という新しい仕事が待っているだけではないか。営業ならまだしも慣れている。自分の能力にも自信がある。もしうまくいけば会社も喜ぶ。給料も上がる。
そう考えると、会社で生き生きしていたこともあったことを思い出す。
例えば、私立の大病院の薬局を新しく開拓したときのことを思った。あれは誰が行っても落とせなかったものを、あの病院の薬局長が妻の恵子の出た大学の同じ研究室だったことを突き止め、それを梃子に攻めたてた。あの研究室の卒業生はすばらしい。あれは並の研究室ではなかったと恵子が日頃言っていることを情熱を込めて言いまくった。それが功を奏したのか、会社が出しているすべての薬を入れてもらうことに成功した。あのときはみんな驚き、社長までじきじきに褒めてくれた。
しかし、介護となるとまったく不得意な仕事だ。きっと私は不機嫌になるであろう。母親も私の介護に不満を抱くだろう。それに彼女は、生きていることに喜びを感じてはいない。単に死が怖いから、それから逃れようとして生きているようなものだ。もしそうなら私の人生観とは違う。恵子が、私の人生観と違うから私といっしょに暮らせないというなら、私も母親の人生観と違うから介護なんかできないといってもいい。それはお前のエゴイズムだ、介護をしろという声もするが、無理なことをしたってろくなことはない。
しかし、仮に、介護から免れたとしても、私はいったい何をしたらいいのか。何が楽しいのか、何をしたいのか。別にこれといって何もない。
「すまない、もうしばらく待ってくれ」
私は叫ぶように言った。恥ずかしい声だった。
「もうしばらくって?」
恵子は不満そうに言った。また、いつもの優柔不断さが現れた。頼りないひとだと思ったに違いない。しかし何と思われようとも、今は、すぐには結論が出せない。
「明日まで、いや、今日の夜まででいい。今日一日、じっくりと考えさせてくれ」
「きっとよ、わかっているわね。もし、仕事をしないのなら、私、帰らないから」
そういうと彼女のほうから電話を切った。
母親に頼まれて、一階の売店まで、ティッシュを買いに行ってきて、それを母親のベッドの棚に乗せてから、ふと腕時計を見た。驚いた。もう十時に近い。緊張が走った。朝、雀に餌をやっていたあの男との約束を思い出したからである。あれって何なのか。いったい彼はそこで何をしようとしているのか。
私は、慌てて階段を降り、四階の廊下を小走りに中央に向かった。そこは踊り場のようになっていて、かなり遠くからでも人がたくさん集まっているのが見えた。あそこに違いない。
それに近づくと、ある者は車椅子に乗り、ある者はカートにもたれかかり、ある者はソファーに座り、また、ある者は壁にもたれかかっている。多くの者はパジャマ姿だ。中には、移動できる点滴用の道具を付けて来ている者もいる。その数、十二、三人。その真ん中に、あの男が立っていて、こちらを向いて、手を振っている。
「よう。ここ、ここ」
痩せて窪んだ頬をいっそう窪ませて、まるで長い付き合いの親友にでも声をかけるように言った。
私が、彼の横に行くと、「この人はおれの親友や、怪しい人やない、安心したって」と言って、来ているみんなに私を紹介してくれた。
「まあ、そこに座っとけや」
彼はソファーを指さして言った。しかし、ソファーはすでに満席だった。ハンチングを被っている男がすくっと立って、私に、そこに座るように促した。私は手を振って、そんなに気を使わなくったっていいと合図したが、その人は私の腕を持って、そこへ座れと促した。
「遠慮しなくていい。座って、座って」
隣に座っている顔色のよくない五十代の男が言った。
まだ座るのをためらっている私を見て、その男が「あいつは源ちゃんの側で話を聞きたいだけや、何にも恩にきることがない」とつけ加えた。
あまり遠慮をしているのもかえって悪いと思い、ソファーの端に座らせてもらった。ハンチングの男はそれを見て、微笑みながら二、三度頷いた。
「源ちゃん」と私は小さい声で反芻した。あの男は「源ちゃん」と呼ばれているのか。私の飼っている犬と同じ呼ばれ方ではないか。「源ちゃん」と口ずさんでいると隣の男がそれを聞きつけ「本名は真下源太郎と言うんですよ」と教えてくれた。
「いいか、言うで。今日はGTが一つ、GUが二つ」
みんなはいっせいに源ちゃんの方を向いた。一気に緊張した雰囲気が漂った。いったい何が始まるのか。
「この3つのレースについてだけ、おれの考えを言う。スポーツ紙なんか読んで、みんないろいろと考えているやろうが、おれの意見は彼らとは違う」
どうも、今日の競馬の予想をするらしい。何だ、という気持ちは確かにした。がっかりもした。だが、源ちゃんは、今までに見せたことのないような精悍な顔付きになって、話し出した。これが、雀に餌をやっていたあのもの静かな男かと思うほど殺気立っていた。身の中からすごい迫力がうなりながら出ている。さらに、それを聞いている人たちの真剣さにも驚いた。瞬間に彼らのたてていたあらゆる音が消え、みんな源ちゃんに集中した。神経が張りつめて、緊張の塊となっている。
「あいつら、過去のデーターだけしか見てない。おれは違うで。過去の走り具合から、追い切りの様子、ジョッキーの姿まで、みんな生きたままこの頭に入っとる。おれの頭の中では馬もジョッキーもみんな息をしとるのや」
すでに何人かは魅せられたように頷いている。
「源ちゃんの予想はよう当たる」
隣の男は、私の耳元に口を持ってきて囁いた。
「夕べもまた走りよったで」
源ちゃんが言う。
「それで、一着の馬はどれや」
「それは言われん。そんなん言うたら自分で考えるおもしろさがなくなるやないか」
みんな、一瞬、沈黙し、しばらく間をおいて、声をかけた者のほうを向いて笑った。みんなの声は陽気だった。いったいここが病院なのか。彼らは本当に入院患者なのか。まるで競馬場にでも来ているように、人々は笑っている。
「ただ、特に注意しなければならないところだけ言うたる」
隣の男は、また、口を耳元に寄せてくる。
「必ず、前の日に夢をみるらしいわ」
隣の男は、いかにも源ちゃんを信用しているようだった。
源ちゃんは、馬の名前を一つずつ挙げ、その馬の調子と本来持っている潜在能力、今日それがだせるかどうか、彼の考えを述べた。
「いいか、この馬はな、今日で、すでに十五レースは走っとる。この時期が最もきついのや。それやのに、まだ金もうけのため馬主は走らせよる。人間は残酷や。しかし、馬はかしこい。必ず反抗しよるで。一番人気の馬やけれど、これは外しておいたほうがいい」
源ちゃんは、元気のいい代議士のように喋った。
「あれでも患者なんですか」
初めて私から隣の男に喋ってみた。
「腎臓結核で若いときに腎臓を片方とられとるそうや。もう片方も最近悪くなったらしいわ。人工透析も四日にいっぺんや。大好きな酒もたって養生をしているそうやが、今の調子やと、ようもって後一年と違うか」
「ええっ? あと一年」
「そうや。先生にも言われとるらしい」
男は、沈んだ声で言った。
源ちゃんは、元気よく、馬の調子について喋っている。私は、競馬のことはまったくわからないので、まるで外国語を聞いているようだった。しかし、源ちゃんの張り切りようはすごかった。大声を出し、つばをとばし、それが、窓からの光で煌めいた。
源ちゃんの額や頬は艶やかな若葉のようだった。目尻の皺もかえって逞しさを演出した。声は身体全体のエキスを集めたように力強く滑らかだった。みんなはその生気に魅せられていた。
「ようし、ここまでや。馬券買う人は、お金持って、また、十二時に集まって」
源ちゃんの話が終わると、聞いている人たちは拍手をした。私も思わずそうした。源ちゃんは照れくさそうに首を縮めて微笑んだ。
しばらくは、今までの自分に酔ってでもいるように機嫌よく佇んでいたが、急に落ちつきがなくなり、あちこち見回し始め、ついには目を閉じて、ときどき苦しそうにそれをしかめた。それから、ついに意を決したとでも言うように、ゆっくりと目を開けると、窓の方を向いて直立した。
「では、次は、吉ゃんや。吉ゃんの話を聞こう」と言った。みんなは驚いたように、源ちゃんの顔を見たが、すぐにその気持ちがわかったのか、しんと静まり返り、それから口々に「吉ゃん、やって、吉ゃん、やって」と言いだした。
源ちゃんはそれを聞きながら、黙って窓の方を向きつづけていた。窓の外は、いつの間にか雲が切れて青空が覗いていた。
源ちゃんの目から、葉っぱの上の水玉のような涙が出てきた。
「吉ゃんはな、きのうの晩死んだんや。吉ゃんの予想もよう当たってたで。いつも源ちゃんとここで張り合っていたんや」
隣の男がまた耳元で囁いた。
吉ゃんとは、きっと先程見てきたあの男に違いない。
「吉ゃん。なあ、吉ゃん。いつものようにやってや」
源ちゃんがもう一度言った。声はかすれてほとんど聞こえなかった。みんなも「吉ゃんやって、吉ゃんやって」と読経するように唱和した。私も、同じように窓の方を向いて、「吉ゃんやって。吉ゃんやって」と言った。
しばらくするとそれも止み、みんな無言で手を合わせ、外に向かって何度も何度もお辞儀をした。
吉ゃんは精一杯生きた。源ちゃんやその仲間たちもそのように生きている。何と言ったって病気に打ちひしがれていないのがいい。彼らを見ていると、こちらまで陽気になり、心が慰められる。
そんなことを考えながら再び病室へ帰ってきた。
ところが、部屋に入るやいなや今までの気分が一変した。母親のベッドが空になっていたからである。
すでに、母親が寝ていたベッドは、敷布が取り替えられ、上布団は丁寧に折りたたまれていた。
かっとなり、こめかみに鼓動を感じた。だめだ、せっかくいい気分になっていたものがすぐに覆る。私の人間ができていないためか。母親の身勝手のためか。
じっと、新しい敷布を見ながら、心の落ち着くのを待った。すると、隣とを仕切るカーテンが開けられ、パジャマ姿で横たわっていた隣の患者が、「お母さんはもうとっくに個室へ移らはりました」と言った。お礼を言ったが、その患者にさえ腹が立った。
こんなに心が動揺しているとき、母親に会うのは危険だ。しかし、ここにいるわけにもいかず、仕方がないので、個室へ行くことにした。
こんなことを、彼女は数え切れないほどする。以前、冷蔵庫のガラスの棚が壊れたので、ガラス屋に行って、買ってきてくれと電話で頼んできた。それで、妻の恵子の休みの日に、巻き尺を持ち、車に乗せてもらって母親の家に行くと、すでにそれは取り付けられていて、ヘルパーさんに頼んで、買ってきてもらったんやと平然と言ってのけた。それに、いかにも自分が気を使ったと言わんばかりの表情をした。恵子は何も言わず巻き尺を鞄の中にたたきこんだ。
病室に入ると、窓側に置かれているベッドに座って、母親は食事をしていた。部屋は広く、先程の六人部屋と同じほどだった。
「いいところへ入れてもらってよかったな」
母親は私の顔をちらっと見た。見てみろ、頼んだらちゃんと入れてくれるやないか。何をぼやぼやしてたんやと言いたげだった。
しばらく私を睨みつけていたが、急に顔付きを変えた。箸をトレイの中へ放り投げた。
「これ見てみ、こんなん食べさせられているんや」
すぐにでも涙を流しそうな表情に変わり、トレイを私に突きつけてきた。そこには、土鍋にはお粥、皿には大根の煮付けと豆腐の小さな切れ端がのっていた。
「はよう、料理作ってきてな、もっとおいしいやつ」
弱々しい甘えた声を出した。途端、自分の性器が母親に握られたような嫌な感じを受けた。また、いつものやつかと思った。自分の要求を実現させる手段。
いつもなら、ここで思考が終わっていた。しかし、今はふっと、それは彼女の声ではなく、どこか、もっと奥底から出てきた彼女以上の声ではないかと思えてしかたがない。
「いっぺんに普通の食事に戻ったら、また吐くがな。医者がよう考えて出しとるのや」
そうは言いながらも、自分の声に迫力がないことはわかっていた。
「何を言うてんのや。私は胃が悪うない。血圧と心臓のために吐いたのや。何もわからんとえらそうに言うな」
挑発的な言葉なのに私の心は落ち着いていた。
「わかった。わかった。作ったる。何がいい。何を食べたいのや」
「まずはトマトジュース。缶詰のはあかん。お前の絞ったやつや。それから、鯛の煮付け、捕れたてのやつやで……」
次から次へといろいろな食べ物が挙げられた。私が料理できるはずのないものばかりだった。
そう言えば、前回の入院のときもこんなふうにいろんなものを私に言った。私はそれをメモして帰り、恵子に作ってもらい、恵子がどんなに夜遅くなっていても、病院へそれを届けた。
恵子が帰ってきて言った。
「お母さんの食欲には驚くわ。本当においしそうに食べはるねん。まるでこの世の人とは思えないわ」
それでも母親は恵子に言ったらしい。隣のベッドの人には娘がおって、昼からずっとおいしいものを食べさしてもらっている。うらやましいって。あのときの恵子の怒り方はすごかった。帰ってきてすぐトイレに入り「あのばばーはよう死ね、あのばばーはよう死ね」と十回は怒鳴っていた。
あのときはそれを聞いて私も激怒した。もう、何も作ってやらない、作ってやらなくてもいいとまで言った。しかし、今それを思い出してもそれほど腹が立たない。果たしてそれは本当に彼女が言った言葉なのかそれとも、別の何かが言わせた言葉なのか、そんな疑問が起こってくる。
突然、ドアがノックされ、それを開けた。するとそこには四十歳ぐらいの背の高い女性が立っていた。身なりは、上下が紺色のスーツだった。
「どなたさまでしょうか」
丁寧にお辞儀をした。
「私はこういう者です」と言って名刺を出してきた。そこには、「○○老人介護センター『やすらぎ園』相談室・主任、○○○○」とあった。
「どなたさまですか」
後ろから母親の声が音色を変えて現れた。好奇心一杯の声だ。
「私、こういうものです。おばあちゃんとゆっくりお話がしたくってまいりました」
相談員は母親のベッドに近づいて名刺を渡した。母親は名刺をじっと見ていたがどうもよくわからないらしい。
「やすらぎ園・相談員主任さんって?」
「あの、この病院の隣に、おばあちゃんみたいなお年寄りの人が介護を受けながら、楽しく暮らしている施設があるでしょう。あそこから来ました」
「ああ、あそこねえ、ええ、ええ。それで、あんたさんは何のために来られたんですか」
母親の声が少し変わった。相談員はその心理をいちはやく読んで、いっそう笑顔を作った。
「息子さんが、おばあちゃんがここを退院した後、どうしたらいいのか困ってはるとお聞きしましたので、一度、園のことを詳しくお話しようと思って」
「そんなん、聞く必要はありません。お前、そんなところへ連絡したんか」
ますます不機嫌な声になった。
「いいや、ううん」
私は答えに詰まった。私も突然の訪問に驚いている。しかし、そう言えば、入院して二日目ぐらいに、母親の面倒を見てくれているベテランの看護師と廊下で会ったとき、「ちょと、ちょと」と呼び止められ、「お宅のお母さん、かなり足が弱っていますよ。入院が長引くと、もっと足が弱るので、今まで通りとはいかなくなる怖れがありますね。後のことをよく考えておいたほうがいいですよ」と告げた。私の一番気にしていることなので少しうろたえた。「私も女房も働いているので、とても一日中介護というわけにはいかないのです。どうしたらいいでしょうかね」と言うと、「隣に○○老人介護センターがあるでしょう。あそこに一度相談されてはどうです。なんなら、言ってあげましょうか」と言ったので、「よろしくお願いします」と答えた。
私の友人が会社から研修で老人介護センターへ行かされたのだが、その彼が、自分も身体が弱ったらそこへ入るとまで言っていた。それはけっして悪いところではない。母親がもしそのようなところへ入ると言ってくれればほんとうにありがたい。しかし、今、こんな形で来られたらなるものもならないではないか。
「いや、一度、どんなところか尋ねてみたかっただけや」
困惑しながらそう答えた。微妙な問題だけに適当な時期に母親の考えを尋ねてみようと思っていたのだが、今はタイミングが悪すぎる。自分以外の者には警戒心一杯なのだから。
「何言っている。誰がそんなとこへ行くものか。ちょっと介抱させようと思ったらもうこれや。私はそんなところへは絶対行きません。どうぞお帰りください。忠男、はよう帰ってもらって」
「お母さんはたいへんご立腹のようで」
相談員は私の方を向いて苦笑いした。
「すいません、母は昔の老人ホームを思っているみたいで」
「だから、どんなところか詳しくお話しようと思ったんですが」
「そんなの聞くものかね。早う帰れ」
母親の拒否感は相当なものだった。声の端々から怒りの炎が出ている。迫力が違う。
困惑は強まった。何だか、唯一の解決口が閉ざされたような気がした。しかし、不思議なことに、腹立ちは起こらず、むしろ、母親がいきり立てば立つほど心の芯がゆれた。生きる力ってすごいとさえ思え感動した。
「申し訳ありません。今日は、これでお引き取り願えませんか」
「おばあちゃん、まあ、そう言わんと。いいところよ、また、考えといてね」
母親は、顔をひっくり返して、彼女を無視した。相談員は、ドアのところへ歩いていった。私もその後につづいた。
母親に対抗するにはこちらもまた猛烈なエネルギーを燃やさなければならない。そうでないかぎり太刀打ちできない。
廊下に出ると、相談員は笑顔を作り「大変ですわね」と言った。
「また、お世話になるかもしれません。家で看護するなんてとても考えられませんから」
私は本心を言った。しかし、あの調子だと施設にはすんなりと入りそうにない。今はまだおもしろいとか何とか言っておられるが、いざ現実問題となると、これはたいへんなことになる。実際、どうしたらいいのかも検討もつかない。
いい考えもまったく浮かばず、しばらくの間、ドアを開けたままにして、ぼんやりと廊下の先を眺めていた。
すると、突然、前方から「ああ、ちょと、ちょと」という声が聞こえてきた。
見ると、廊下の向こうから、車椅子に乗った男がこちらに向かってやってくる。先程、隣にいた男だ。
彼が私に近づくと、「源ちゃんがおたくに連絡してやってくれと言うものやから。吉ゃんを運びに葬儀屋の車がきたんや。はよう一階の裏手の玄関へ来たって」と告げた。
「へえ、もう来たんですか。ありがとう、すぐ行くから」
それを聞くと、今までの困惑が一気に心の隅に追いやられた。吉ゃんのことが急に頭一杯に膨らみ、他のことが考えられなくなった。
助かった。出口のないことをあれこれ考えるより、とりあえずは目先のことを考えているほうがよほど楽だ。
「すぐやで」
男がそういうと器用に車椅子を反転させ、「わしもこれからそこへ行くわ」といいながら急いで走り去った。
「どこへ行くんや。私の頼んだもの早う作ってや」
後ろから母親の声がしたが、私は完全にそれを無視した。
病院の裏手には別の玄関があった。玄関の前にはコンクリートの車寄せがあり、そのまわりにはたくさんの雑草が生えていた。
バン型の霊柩車が後ろをこちらに向け、止まっていた。後ろの扉は大きく開けられ、棺が乗せられていた。棺は木のままで、白い布はなかった。
みんなは、車の後ろに集まっていたが、二人の看護師は、玄関のガラスの扉を背に、退屈そうにこちらを見ていた。
源ちゃんが棺のほうに身体を傾けさせながら、我々のほうを向いた。その横で、紺の制服を着た、いかにも葬儀屋の社員らしい男がさかんに頭を下げている。先程、踊り場にいた患者たちは口々に何かを言っている。それは、「源ちゃん頼むわ」とか、「なんぼ吉ゃんがそう言ってたかて、源ちゃんが行ったらそりゃ喜ぶで」とか言っていた。
「お願いします。誰か身内の人が立ち会ってくれないと困ります。でないと、火葬もしてくれませんから。誰か、ぜひお願いしますわ」
明らかに、社員は困っているようだった。
「わかった、わかった。だが、私が行くとして、あれ、どうする」
「ああ、あれか。あれは今日は中止や」
誰かが言った。源ちゃんは、言った男に目線を投げかけ、すごい形相で睨んだ。
「そりゃいかんわ。吉ゃんは、お前が死んだ日でも、もしあれがやっていたら、おれはやるで、あれは絶対止めたらあかんと言っていたんや。みんなそう長くは生きられへん。一日でも無駄にしたらあかんて。それがあいつの口癖やった」
それを聞いたとたん「私にお手伝いさせていただけませんか」と私が言った。それは、思わず口をついて出た言葉だった。言おうかどうか迷う暇はなかった。
みんなはいっせいに私のほうを見た。源ちゃんも驚いたようだった。
「何するんかわかっているんですか」
先程、私を迎えに来た男が言った。
「わかりません」
患者たちはいっせいに笑った。
「そうか、あんた行ってくれるか。それはありがたいわ。ただ、みんなの馬券を買いに市内までちょっと出てもらうだけや。どんな馬券を買うか、ここに書いてある」
源ちゃんは木綿の袋を私に見せて、指さした。みんなはそれをみて「お願いします、お願いします」と言った。
「久谷さん。後でちょっと説明したって」
源ちゃんは、先程の男のほうを向いて言った。彼は久谷というらしい。久谷さんは大きく頷いた。
「では、私が乗って行きます」
源ちゃんは晴れ晴れした声で葬儀屋の社員に答えた。
「源ちゃん。頼みがあるねん」
突然、一人の患者が言った。
「ひとかけらでいいから、吉ゃんの骨、ひらって来てくれや」
すると、多くの患者たちも手をあげ、「おれもや。おれもや」と言った。
「わかった。わかった。ようけ持って帰ってくるわ」
源ちゃんは、何度も頷いた。最後に、私のほうをちらっと見た。
「お願いします。私にもひとつ」
何のためだかわからないが私もそう言った。源ちゃんはにっこと笑い、頷くと、助手席のほうに歩きだした。後ろの扉は閉められ、バンは動き出した。動き出す瞬間に、車は警笛を鳴らした。それは普通の霊柩車のように美しいものではなかった。ただの車のおならのような音だった。しかし、患者たちはいっせいに手を合わせ「吉ゃん、吉ゃん」と叫んだ。
郊外にある病院から、街のど真ん中にある馬券売場までは、往復二時間はかかった。
久谷さんから、そこへの行き方や馬券の買い方の詳しく教えてもらったが、自信はなかった。しかし、例え、誤りがあったとしても、みんなは許してくれるだろう。
源ちゃんはまだ火葬場から帰っていない。それで、買ってきた馬券と書類とを、それが入っている袋ごと久谷さんに渡した。
久谷さんもその他の患者たちも、四階の例のたまり場にいて競馬中継を見ていた。まだ、馬券を買ったレースが始まっていないらしいが、みんなは歓声を上げてテレビを見ていた。みんなの声には血の気があった。元気な者でもそんな力強さは出せない。
ほとんどの人たちは微笑んでいる。ときどき大笑いをし、ときには手を振って悔しがった。
馬の走るときは彼らたちの肩がかすかに波打った。テレビの画像と彼らの身体が一体となって、力動的に動いた。まるで走っている馬になっているようで、そこだけ熱気の塊が渦巻いていた。「ああ」とか「よう」とか「いけー」とかいう声が少年少女のそれのように飛び散った。そこは病院ではなく、競馬場そのものだった。
久谷さんは先程、この中には癌の患者さんもいると言っていた。しかし、端から見ていてそれが誰なのかわからない。ひょっとして、久谷さんがそうなのかもしれない。
彼らは自分の病気を忘れるためそうしているのか。
いや、私にはそうは思えなかった。彼らは心底楽しんでいる。
久谷さんが袋を受けとるとき、「ご苦労さん、お世話をかけ済みません。ありがとう」と言った。それを聞き、みんなはいっせいに私のほうを向き、口々に「ありがとう」「ごくろうさん」と、頭を下げた。
「いっしょに見ませんか。もうすぐ、○○レースが始まりますよ」と誰かが言った。○○レースとは、おそらく馬券を買いに行ったレースに違いない。私も、そこにいて、彼らといっしょに笑い合いたかった。しかし、個室にいる母親のことを思うと、そうはしていられない。「ちょっと、病室へ帰ってきます。母親のことが心配で」と言ってそこを離れた。
母親には何も告げずに馬券売場に出かけた。それに、まだ、彼女から頼まれた仕事は何ひとつやっていない。彼女は怒っているだろう。何のために、介抱に来ているのか、ああ、娘がいたらよかった。息子など、何の役にもたたない。しかし、そう思われてもしかたがなかった。私は彼女のためにはほとんど何もしていない。
病室に入ると、ベッドの上に正座し、母親は窓越しに外を眺めていた。おやっと思った。彼女の顔がおだやかだった。ここ数日の中でもっともいい顔をしていた。私が入ってきたのに気づいても少しだけ顔を曇らせ「どこへ行ってきたんや」と言っただけで、その中にはいつもの詰問する調子がなく、怒気も含まれていなかった。
ベッドの横を見るとそこには母親の家に置いてあった花瓶があって、美しい花が生けてある。誰かお見舞いにでも来たのかと思ったが、どうもそうでないらしい。家にあるはずの花瓶がどうしてそこにあるのか。私が持ってきた覚えがない。
それをしばらく眺めた後、ちらっと母親の方を見ると、彼女はこちらを向いていつもの不機嫌な顔をしようとしているのだが、それができずに困っているようだった。彼女の表面的な顔付きの裏ににこやかな表情が見てとれた。いったいこれはどうしたことか。
「この花瓶……」
私がそこまで言ったとき、母親は、顎で、ベッド横の移動式物入れを指し示した。最初は何を言っているのかわからなかったので、彼女の顔を見ながら佇んでいると、何度も物入れに向かって顎をしゃくった。その度に微笑みが強まるようだった。
ふっと、源ちゃんが「あれ」の話をしたときに漏らした微笑みを思い出した。あれに似ているなと思ったが、そんなばかなことが、とすぐにそれを否定した。
母親はまだわからないかというふうに、顎をしゃくりつづけている。
ああ、物入れの扉を開き中を見ろということかと思い、しゃがんで扉を開いた。
驚いた。そこには、母親が先程私に作れと言った料理がみんな用意されていた。それどころか、いつも母親が好んで食べるカボチャの煮付けまであった。
「いったい誰が……」
「恵子さんが来てくれたのや」
ええ、恵子が来た。信じられない。午前中に電話に出たとき、せいぜい親孝行しなさいよと、皮肉交じりに言っていたではないか。
きっと、母親が、看護師にでも頼んで、恵子に電話をかけさせたのに違いない。あの子は何にもしてくれない、私は空腹で死にそうやとか何とか言って。それで恵子が料理を作ってきたのだ。なんということだ。私に相談もせず、恵子が一番いやがる仕事場にまで電話を掛けて。
けしからん。恵子から、また、あざけりと侮蔑の言葉を聞かされなければならない。そう思うと、しばらく遠ざかっていた怒りがこみ上がってきた。先程、感じた陽気な気分がまたたく間に吹き飛んだ。
「恵子さん、昼から仕事休んで、来てくれたのや」
その言葉がいっそう怒りを強めた。
「おかあさん、電話して呼んだのか」
「何言ってるんや。お前が頼んだのと違うのか。恵子さん、忠男さんから連絡が入ったと言っていたで」
「おれが?」
そんなこと言う訳はないだろう、と思った。今、私たちは別居状態にあるんだから。しかし、母親は嘘をついているとも思えない。だとすると、恵子が自主的にやってきたのか。そんなはずはない。それに、料理のメニューも合いすぎる。不思議だ。早急に彼女と連絡をとらなければ。
「それで、恵子はどこへ行った?」
「私の家に行ってもらった。下着も洗濯してもらわなければならないし、新しい下着も持ってきてもらわないといけないから」
「わかった、ちょっと電話をしてくる」
「恵子さん、すぐにここへ帰ってくるって言っていたで」という母親の言葉を振り切って、私は、一階の公衆電話へ走った。
連絡はすぐについた。最初は機嫌のいい声を出していたのだが、電話が私からだとわかると、途端にいつもの低い声に変わった。
「何?」
「母親に料理を届けてくれたらしいやないか。仕事はどうした」
「友だちに代わってもらったわ。やっぱり持つべきものは友だちやね」
「どうして、母親が食べ物をほしがっているのんわかったんや。それに、その種類まで」
「長年、あなたのお母様をお世話させていただいておりますと、そのくらいのことはすぐにわかりますの。ほんまに、あなた、何にも世話してないやないの。こんなことだとは思っていたけど。ひどすぎるやないの」
「すまん、助かった。申し訳ない。これからはおれがする」
「ふん」と恵子が言った。しかし、恵子からどんなことを言われても腹がたたない。
「三日間だけ私が手伝ってあげるわ。友だちが仕事代わってあげると言ってくれたから」
「すまん、そうしてくれ、助かる」
ありがとうを百回ぐらい言いたい気持ちだった。だが、それはなかなか表せない。
「三日間だけよ。その後のことは知りませんから。お母さん、今までみたいに、自分で何とかトイレに行ったり、料理ぐらいはできるぐらいに回復するとは限らないから」
「それは考えている。君には迷惑をかけないから」
「じや、また後でねえ」
電話は恵子から切ったが、しかし、朝のそれとは少し違った。会話の最後が「ねえ」という言葉で終わった。「ねえ」などという語尾は最近聞いたことがない。
恵子が料理を作ってきてくれたことで、今までにない晴れやかな気持ちになった。まったく、歌でも歌いたいぐらいだ。それに、これは、先程のいい気分とは少し違っている。もっと心の芯に近いところでのうれしさのようだ。
病室へ帰ろうと、エレベーターの前で、箱の位置を示す電光掲示板を眺めていると、背後に誰かがやってくる気配が感じられ、振り返った。源ちゃんがこちらに向かって走ってきた。
「やあ」と言って手をあげ、「今、帰られたんですか」と言った。「火葬場ではえらい待たされたわ」と源ちゃんは微笑みながら近づいてきた。
「言われたとおりに、馬券、買ってきました。久谷さんにみんな渡しておきましたから」
「えらいすまなんだな。ごめん」
彼は、かがみ込んで、背負っていたリュックサックを丁寧に降ろし始めた。そのとき、エレベーターが降りてきて扉が開いたが、二人ともそれを無視した。
彼は、リュックの中から、ティッシュに包んだ小さな塊を「これ」といって私に手渡した。包みはその口は輪ゴムでくくられていて、横にマジックで「横山忠男さんへ」と書いてあった。さらに、その横に、「今井吉造」とあった。「吉ゃん」は、本名は「今井吉造」というのか。
「横山忠男さんへ」と書いてあることにも驚いた。どこで私の名前がわかったのか。私は彼に自分の名前を言ったことがない。きっと、今日のどこかで、看護師か誰かに尋ねたのだろう。
それはとるにたらないことのように思えるのにひどくうれしかった。恵子の電話といい、源ちゃんのおみやげといい、いいことがつづいている。
「あいつには何にもお返しするものがないんやから、これ、喜んで受け取ったってや」
源ちゃんの声はしんみりしたものだった。
「ありがとう、ありがとう」
私は、そっと輪ゴムを外し、中を覗いた。少し灰色がかった数センチの骨が二つあった。白っぽいただの消し炭の端切れだった。ちょっと力を入れればこなごなに崩れそうだ。
これが、先程、霊安室で寝かされていた吉ゃんの一部なのかと思った。その変貌ぶりに驚いた。
しかし、逆に、これこそが人間なのだという気もした。あの寝かされていたときにあった頬や身体の肉は今は煙やガスとなって大気の中を漂っているだろう。形となって残っているのはこの骨だけである。しかし、これもまた、いつかは形を失うだろう。
骨を見ていると、哀しさが噴きだしてきた。いたたまれないような気がした。しかし、不思議なことに、それと混じって、一種のうれしさも起こってきた。
生きている人間とは、いや、この私は、一時だけでも天から形を与えられ、今、「生」という最も幸福な時間の中にいるのだという思いがしたのだ。
吉ゃんが、機会がある度にたびたび霊安室を訪れていた、と源ちゃんが言っていた。その気持ちがわかるような気がした。何か嫌なことが起これば、そっとこれに触れればきっと別の心が起こってくるに違いない。
私は、もう一度、骨を見た。その瞬間、それは、美しい珊瑚の破片のような透明な朱色に変わっていた。ええっと思い、目を凝らすと、それはもう先程のただの骨の破片だった。しかし、私の目の奥には今しがた見た美しい珊瑚の煌めきが焼き付いていて離れなかった。
「おおきに、これ、大事にするわ」
上着の内ポケットに丁寧にしまい込んだ。
源ちゃんはそれを見届けると、再びリュックを背負い、もと来た廊下を去って行った。
内ポケットに骨を入れると、その辺りがほっこりとする。「お前もいつかはこうなるんや。それまで精一杯生きて仕事も遊びも楽しまんと」そんな声が聞こえてくる。
部屋の前まで来た。いつもはここでしばらく間を置き、心の準備をする。母親から嫌なことを言われても、動じないぞと決心する。しかし、今は違った。何だか、心がおだやかだった。何を言われてもゆったりと受けとめられそうだった。
ドアを開けると、母親はベッドを斜めに起こしてもらい、それを背にこちらを見ていた。何か私を待っていたように思えた。
「お前、働いてないそうやな。休暇取って私を介抱しに来てくれているのと違うんか」
突然、いつもの攻撃的な調子になった。
いつもならこれを聞いた途端、かっとなって「それがどうした。働こうが働こまいがおれのかってや。おかあさんにとやかく言われるすじあいはない」と毒づいたに違いない。しかし、今回は違った。そうはならなかった。先程の歌を歌いたいような気分がまだつづいている。
「いいや、働くところがちょっと変わっただけや。明後日からまた働くねん」
やさしい声が出た。不思議なほどだ。
しかし、答えてから、あれっ、いつそんなことを決めた、と驚いた。それについては、まだ、決心していないはずだ。
だが、言ったとたん、それは嘘ではなく、今日のどこかで、そう決めたと思った。
「恵子さんが言っていたで。忠男さんは迷ってはります。お母さんの介護をとるか、定年まであと一踏ん張りするかって」
「迷ってなんかいるものか。決まっているやないか。この歳で、まだ隠居は早すぎる」
「そうや。それがいいわ。私のことやったら心配せんでいいで。まだまだ、自分のことは、自分でできる」
母親は着ていた毛布を蹴り上げて、両手を動かせて起き上がると、器用に足を動かせて、それを床に降ろした。いったい何をする気なのか。私は彼女の身体を支えようと慌てて彼女に近寄った。
「来んでもいい、来んでもいい」
片手を左右に力強く振った。もう一方の手はベッドの脇の金具を握り、すうっと身体を滑らすようにして、床に降り立った。ゆっくりとスリッパを履くと、何ももたず歩きだした。最初の数歩だけは心許なかったが、それからは普通の歩き方になった。さらに、ドアの近くまで行くと駆け足のかっこうをした。両手を「く」の字に折り曲げ、足を高くあげて、回転を速めた。それから、私のほうを振り返り「どうや」と言った得意げな顔をし、深い額の皺をひとところに寄せた。
私は驚いて、咄嗟の言葉が出なかった。「すごいなあ」とだけ言った。
「夜中に、廊下に出て、一人で、歩く練習をしてたのや。今日からは、誰にも遠慮せず、いつでもこの部屋でできるわ」
うれしそうな額の笑いがつづく。
私は、ほっとする。しばらくは、黙って母親の歩く姿を見つづけていた。
ああ、彼女もまた一生懸命生きている。吉ゃんや源ちゃんとおんなじや。これもまた生きるひとつの形なんや。
そのとき、私は初めてそう気づいた。
母親は、何度も何度もベッドの周りを歩きつづけている。
(了)
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