木曜の夜、金曜、土曜の夜。  あかね 直


 閉まりかけた電車の扉の隙間にむりやり躰を押し込み中島玲子は、やれやれと腕時計を見る。
 十時だった。これでは羽村と約束した奈良ロイヤルホテルに着くのは一時間も遅れてしまう。
 ホテルで会ってホテルで別れる慌ただしい出会いを、羽村は、死ぬ気で作った時間だ、と言う。いくら遅くなっても待っている、と相変わらず強引な誘い方をしても羽村は人を待つのは苦手だったから、これから起こるであろう一悶着を予想して玲子は溜息をつく。 
 近鉄沿線東生駒の高台に玲子はひとりで住んでいる。その一DKのマンションに羽村を呼んだことはない。最終砦を守りたい、と躊躇する玲子に気付いてか、気付かぬ振りをするのか、羽村は自分で予約したホテルで仕事を終えた玲子を待つ。そんなつきあいが半年前から続いていた。
 年末が近い十二月十九日木曜日。駆け足のように過ぎ去る師走が、線路の上を電車と共に一直線で進んでいく。
車両の中は明るい光に満ちて家路を急ぐ人の頭で優しげだった。どの人の息も発酵してお酒の匂いがする。上六から乗った奈良行きの快速急行は鶴橋で大半の人を下ろし、立っている人がまだらになった車内は見通しがいい。
扉にもたれトートバックを両足の間に挟む。電車の震動に身を委すと睡魔が一度に押し寄せるから、カーブで電車が大きく揺れるたびに、乗り過ごしたか、と、はっとする。
 電車の中で眠る若い女を「無防備なんだよ。自分の寝顔は恋人だけに見せるものなのにさ」と批判した羽村は、立ったまま三秒で眠る玲子の特技を見たらなんというだろう。窓から次々と飛び去る灯りを見ながら、三十三になったばかりだというのに白髪がめだつ羽村のことを考える。やり残した仕事のことをうつらうつらと思う。半分眠りかけた頭の中にふっふっという笑い声と一緒に話し声がしみこんできた。ぼんやりした目で声の主を探す。
……見てみい。やっぱりここやで。ここが一番安いで。
……安いっていっても。お金。本当にダイジョウブ。
……当たり前や。その為にタバコも酒も辞めたんや。
五人掛けの席の端でまだ高校生のような女の子と金色に髪を染めた男の子が、「南の楽園でハネムーン」と書かれたパンフレットを膝の上に広げていた。
 抜けるような青い空に白い教会、白いドレス、一生分の笑みを浮かべたモデル、青い海を飛ぶ飛行機のレイアウトは玲子の会社のものだ。
……おふくろがオマエとやったら心配せえへんてっ。ええ子やんか、てっ。
男の子の言葉に、女の子は笑いながらパンフレットで顔を隠す。男の子はそっと顔をのぞき手を握りしめる。 
……明日お金下ろしてくるよって。そしたら一緒に申し込みにいこう。
 つないだ手の甲で女の子の腹を撫でる。
……ここにオレ達の子供がおるんやな。
……。
……どうしたんや。泣いとんのか。
 男の子はもう一方の手でパンフレットを取りあげ女の子のひざの上に置く。バリ島のハネムーン用のパンフレットは幸せの青い鳥をイメージしている。女の子の足の上に羽ばたく鳥。パンフレットの下で男の子の指が女の子のふとももの間をはいずり回っている。
 玲子は膝の間に挟んだトートバックに力を入れる。玲子の閉じた足も、うっすらと汗ばんでいるのは暖房のせいばかりじゃない。
幾人かつきあっては別れた男達の手と重ねながら車内の男の子の手の動きをくいいるように玲子は見つめる。
 ぴっちり揃えた女の子の膝の間を男の子の節くれ立った指が埋まっていく。
 だめ。と男の子の手を叩いて女の子がつねった。
痛いやんか。とおおげさに顔をしかめ、大きく開いた足を今度は女の子の足にくっつける。
 男の子は女の子の耳元に息を吹きかけ何か囁く。ぼさぼさの金色の髪が彼女の耳に当たる。彼の息で女の子の前髪がふわりと動く。女の子はふっふと笑い、それから警戒するように車両を見渡す。玲子は悪さを咎められた子供のように目をそらし、また羽村のことを考える。
 羽村が今までの男よりましなのは裏道どおりにある薄暗いけれどネオンが騒々しい場所を選ばないことくらいかもしれない。ツアーコンダクターという仕事がら、奈良、京都、神戸と、玲子の家から、会社から、三〇分くらいで行ける駅前のホテルを予約し、メールでそのホテル名と部屋番号を玲子のケータイに送ってくる。 
 高層ビルを真下にして、ひっきりなしに電車が車庫に入るのを羽村に抱かれながら眺めるのが玲子は好きだった。羽村が訪れた異国の街の話を枕元で聞くのもだ。
 禁煙宣言をした羽村の前で、わざと玲子は煙草を吸う。その匂いを熱いシャワーで洗い流し、羽村が他の男のように玲子の部屋を見たいと言い出さないのは、羽村もそれ以上の関係を避けているのかもしれないと勘ぐってみる。
 それは彼の着ている真っ白い下着であったり、隅々まで丁寧にアイロンの当たったハンカチであったりする。母だよ、と羽村は、暴君だった父の死後得た母との平和な日々を苦笑まじりに話すが、どうやらそれが彼の根強い人間不信に繋がるものらしい。ときたま見せる羽村の冷ややかな視線は、だからなかなか埋まらないふたりの距離になる。始発列車に乗って慌ただしく自分の部屋に帰ると火照った躰もいつの間にか、躰の芯まで冷えているのに玲子は気付く。
 電車の中で大勢の見知らぬ人に寝顔を見せてもひとりの男に無防備になれないのは結局、玲子の弱さなのだ。
 いつのまにか女の子は男の子の肩にもたれるようにして眠っている。少し開いた口からもれる小さな寝息が男の子の首筋にかかりふたりの呼吸は合わさっていく。
 窓の外はすっかり夜でその夜を切り裂くようにすごい勢いで電車は走る。
生駒、学園前、西大寺、吐き出すように乗客を降ろし疲れ果てた幾人かを代わりに乗せる。
 その男の子達は、奈良の一つ手前の新大宮駅で降りた。
 玲子も後を追うように降りる。
 男の子は駅に隣接する自転車置き場から頑丈そうな自転車を受け取り後ろに女の子を乗せると夜の街にゆっくり消えていった。二人を見送るようにして、玲子は駅からタクシーに乗る。今夜一晩の宿として羽村が選んだホテル、奈良ロイヤルは、この駅から車で五分。かっての都、巨大な平城旧跡にある。
 車は真っ暗な国道を走る。羽村との距離が段々縮まる。運転手にホテル名を告げる時、フロントを通らず直接エレベータに乗る時、部屋番号を探して長い廊下を歩く時、これから彼に逢うのだと胸が高鳴る。躰が熱くなる。カレンダーを色分けするように彼に逢った夜と逢わなかった幾たびの夜が交差する。けれど、扉を開けて彼の顔を見た瞬間、逢いたかったのは本当にこの人だったのか、よくわからなくなる。
「ごめんね。遅くなって」
と言っても、羽村は怒っているのか返事をしないから先にお風呂に入る。じっくり時間をかけて出てきても、まだ業界新聞から目を離さない。
「ジェスツアーもとうとうダメらしいなあ。旅行代理店の中でも大手だったのにな。三月までもたないだろう。キミの所はどうだ」
どうして逢うなりそんな話になるのだろう。逢いたかった、と言ってくれればいいのに。電車で逢った男の子のようにオマエだけだ、と言う目で見つめてくれたらいいのに。待たせたことを棚にあげて、玲子は不機嫌になる。
羽村も不機嫌にどうなんだ、と目だけで重ねて聞いてくる。フリーのコンダクターをしている彼にとって玲子は貴重な情報源なのだろう。けれど、玲子の知っていることといえば、申し込みに来た客が思わず漏らす身の上話くらいのものだ。勤続年数は長くても、会社の重要なことは玲子の知らないうちに決定されるから、あまり念を押されると、会社での立場を認識させられた気がして玲子はますます不機嫌になる。
 昨年の九月テロ以降、雪崩のように倒産した旅行業界。玲子の勤める「青い鳥」は、ハネムーンに的を絞り伸びてきた。タイ、ベトナム、ラオス、サイパン、バリ、と安くて近いアジアの国、バラエティに富んだ全食事付き、ワンランク上のホテルを他社と同価格で提供してきた。
 羽村は玲子の店とも提携している優秀なツアーコンダクターだ。
 いつだったかパスポート残存有効期限が六ヶ月以上ないと入国できない国に三ヶ月しかないのに申し込んだ客がいた。会社が気がついたのは出発の前日。強制送還もありえると平謝りで客に連絡し出発した。案の定、入国カウンターで引っかかり、客は横にいる添乗員の羽村に、青い顔で、ダメでした、と言った。その瞬間、羽村は五千円をカウンターに差し出し、管理官は怖い顔したまま横目で「OK」と合図したと聞く。
 羽村さんの迫力に負けたんですよ、とうちの社員が誉める度に彼は憮然とした表情になり玲子にそっと言う。
添乗員をおだてりゃ何でも始末するって、思っているんだよ。あいつらは。
年間二百日前後引き受ける添乗の仕事は旅行会社の不況、好況に左右される。どこにも所属せずに三十三まで一匹狼で渡り歩いてきた彼の自負心は屈折した不満にもなる。
「金融関係は政府が一千万までは面倒みるけど、旅行代理店が潰れたら、客は詐欺にあったみたいだよなあ。旅行には行けない、金は戻らないではなあ」
「そんなことないわ」
「客が代金を払う先は旅行代理店だよ。その代理店は航空会社やホテルの支払いを何ヶ月も先延ばしにしている。潰れて初めて旅行にいけない仕組みを知る訳だ」
「……。ホテルも航空券も予約は入っているから、大抵引き継ぐ旅行会社から連絡がいくわよ」
「旅行に行きたければ、もう一度金を振り込めと言うわけだな」
「JATAという組織に会社が売り上げに応じて納付しているからお金は戻るわ。……でも損害額が多ければ多いほど戻る額は少なくなるわね。枠は一定なのだから」
「右から左にお金を渡すだけなら潰れる訳がないのに」
「ツアーの代金が安くなりすぎて大変なのよ。粗利益が一〇%で、クレジット決済だと三%から五%カード会社に引き抜かれ、おまけに入金が一ヶ月後。この間のグアム三泊四日の儲けは八百円。だからわたしたちはこの二年昇給もないし。ボランティア残業にボランティア休日出勤。代理店に勤める者は旅行に行く閑もないわ」
つられて玲子はつい愚痴を言ってしまう。言い出したら止まらなくなりそうだ。玲子はイライラとタバコを取り出し、火を点ける。大きく煙を吸い込む。
今日は食事を取る閑もなかった。週明けの飛び石連休、週末の年末年始の休暇を挟み、いくら時間があっても足りない。空港へセンディングする乗客名簿を作成し、直前のエアオンの申し込み、ホテルのクラス変更の連絡、現地添乗員の最終確認。仕事は嫌いじゃないからツアーの支払いに来店する客にも笑顔で接する。忙しければムキになっても完璧にこなす。だからずっと同じ職場で十四年も続けてこれた。明日も忙しいのに。と、玲子は、タバコの煙を羽村の顔に吹き付けるように吐く。
 小さなテーブルの上に水割りのグラスが置かれている。琥珀色の液体はグラスの氷にカラリとまとわりついている。小さな水滴がグラスの外にびっしりついている。ツーッと最初のしずくがグラスを伝ってテーブルにシミをつくる。
飲みかけた水割りを手に持ったまま、羽村は玲子を凝視している。玲子はその視線を避け、さっき電車の中で見かけたカップルを思い浮かべる。
 仕事と少し自由になるお金があれば、人生は驚く程選択権に溢れている、何度目かの泣きたくなるようなレンアイを経験したのちの結論は気の合う男と体温を確かめ合う関係だ。二口ほど吸った煙草を灰皿に押しつけるように消して玲子は考える。一年も経たずに次々と人が辞める会社は、若い女の子ばかりがちやほやされる職場でもないから、キーボードを叩く自分の年を気にしなくてよい。同じ年の男子社員が役職につく不満も、気ままな一人暮らしを続けさせてくれる給料の額で帳消しになる。だからいまさら羽村の機嫌なぞとる必要はない。
 帰れ、と言ってしまえばせいせいするだろうか。
 帰る、と言ってしまえば追っかけてくれるだろうか。
 玲子はもういちど煙草に火をつけ煙を吐き出す。バスタオル一枚の玲子は、試すように羽村の目の前で大きく足を組み替えてみる。ふとももの白さがいきなり羽村の目の前に飛び込む。釘付けになった目が耐え難い欲望に歪んでいるようにみえる。羽村の言葉は段々乱暴になる。
「空港からリムジンでの送迎、現地でベビーカー、ケータイ電話、ビデオカメラ、その貸し出し、今でこそ珍しくないサービスだけど、青い鳥の社長がみんな始めたことだものな。航空法約款、旅行業法、保険業、気象情報、政治経済にも通じ、治安が悪化した場合にも的確な指示がだせるオールマイティのワンマン社長だから、できたことだよ。けど部長は現場を知らない経理やろうだよ」
 玲子はブランディを瓶のまま取り上げ、自分のふとももに垂らす。一筋のしずくがひざの後ろ、ふくろはぎと、丸みを帯びた曲線をなぞりゆっくりと伝わっていく。足の親指と人差し指の間からぽとんと最初の一滴が床に落ち、玲子はまた酒を自分の足に流す。芳醇な酒の匂いが漂い羽村がごくりと生唾を飲み込んだ。玲子はテーブルの上に座り直し、ぴんと伸ばした足の指先で羽村の頬を撫でる。親指の爪で羽村の唇を端から順になぞっていく。羽村の紅い舌を絡め玲子の白い足の指は生き物のように行き来する。羽村は玲子の足首を丁寧に持って自分のズボンの上に乗せる。ウールのズボンがちくりと玲子の肌を刺した。それから羽村は皮のポーチに入った銀のアンクレットを玲子の足につける。クリスマスプレゼントだ、羽村は照れたように言った。玲子は足を躰に引き寄せ鎖を眺める。細い鎖が媚びるように揺れた。
 羽村は引きちぎるようにネクタイを外しカッターを脱ぐ。ズボンのファスナーをもどかしげに下ろす。玲子を抱きかかえてベッドに移動する。玲子はさっき電車の中で見かけたカップルのことをまた考える。すっかり羽村を受け入れる体勢で、だから、玲子は羽村を拒む。それを敏感に察した羽村は、玲子の短い髪をかきあげ、額に息を吹きかける。面白いものを見つけたんだよ、と玲子の足を押し開く。カトマンズで見つけた秘薬なんだ。甘いむせるような匂いだった。ふとももの内側がひんやりしてそしてそこがぽっと温かくなってくる。玲子は小さな喘ぎ声をもらした。

 翌朝六時半。平城旧跡から朝日が昇るのを見ようと羽村は言う。ホテルから西大寺の駅まで歩いて四十分。奈良ロイヤルは平城旧跡の一番端にある。平城旧跡を散歩しながら西大寺から電車に乗って帰ろう、というのだ。
 チェックアウトを済ます羽村を置いて玲子は先にホテルを出る。始まったばかりの朝は凛とした空気に満ちていた。吐く息が真っ白だ。首をすくめコートのポケットに手をやる。
 昨夜電車であった男の子とまた会った。玲子は思わずあっと言ったが、男の子は気付かない。自転車の荷台いっぱいに新聞をくくりつけていた。新聞配達をしているのだ。頑固そうに閉じた口は昨日の彼と大違いだ。ぐいっとペダルを踏むたびに肩の筋肉が盛り上がり金色の長い髪が風にさらされてキラキラと輝く。瞬く間に大宮通りを北に向かって走っていった。
 あんなふうに一枚一枚の新聞を客の戸口にまで配り、彼は南の島で結婚式をあげる。それから次の年には彼によく似た子供が産まれ、次の次の年にはその子の手を引いてこの広い平城旧跡の芝生を散歩するのだろう。
 ホテルの領収証を大切そうに財布にしまいながら羽村は玲子の後を追ってくる。羽村と並んで過去の都を歩く。かっての栄華の大地は光に満ちていた。寒くないか、と羽村が聞く。だいじょうぶよ。本当は眠くてしかたないのに昇りかけた太陽の輝きが眩しいから無理をする。
 跡地は見渡す限りの野原だった。その一角に会社更生法が適用され閉めたデパートがある。新聞で発表されるたび増える巨大な負債額、近畿一広いといわれたデパートだ。大きなウィンドウで囲まれた豪華な建物。一台の車も止まっていない広大な駐車場。きれいに整備されたアスファルトの歩道はデパートを一巡している。西側の細い道を通り抜け小さな踏切を渡る。雄大な奈良の都の跡は暖かい日差しに包まれていた。慌ただしい十二月ということも忘れさせる一面の平野だ。
 朝の散歩を楽しむ見知らぬ老夫婦とすれ違い間際にニコニコと挨拶を交わす。羽村も、今日は暖かくなりそうですね、と振り返りながら機嫌良く答える。きちんとコートを着込んだ羽村とダウンジャケットに黒のパンツを穿いた玲子は、さしづめ夫を駅まで送る妻に見えるのかもしれない。玲子はそっと羽村を見た。羽村はお揃いの老夫婦のウィンドブレーカーの背中の横文字を声をあげて読んでいる。玲子は冷たくなった手を羽村に温めてもらって歩く。東の空が金色に染まりその光に後押しされているようだった。 
 結婚しようか。と羽村が耳元で囁いた。
 えっ。問い返した玲子に羽村がぶっきらぼうに答える。
 さっきの夫婦みたいにさ。
 玲子の手を握りしめる羽村の手が汗ばんでいた。

 羽村と上六で別れ、そのまま掃除当番の日なので八時に出勤する。まだ誰も来ていない。広いフロアー室の灯りをつけると、足首のアンクレットが銀色に輝いて、さっきホームで手を振った羽村の笑顔も見え隠れする。
 次々と沸き上がる楽しい思いは制服の上着のボタンを留めかけて一気に消し飛んだ。 
 フロアー全体が暖かい。会議室の灯りもついたままだ。
 昨日消し忘れたのだろうか。経費削減を部長から口やかましく注意されているのに……。給湯室も煙草の吸い殻が流し台の三角コーナーに山積みのように捨てられている。洗っていない灰皿、コップが放り出されている。湯沸かし器の種火も点いたままだ。昨日の当番は誰だったかと腹立たしくなる。
 社長がぬっと顔を出した。
 目が充血して顔が脂ぎっている。躰中から煙草の匂いがする。社内一ダンデイを誇る人なのに、と玲子は緊張しながら観察する。よれよれのシャツ。だらしなく外れたボタン。はだけた胸には細い肋骨が神経質そうに浮き上がって見える。
 おはようございます。今片づけますから。
すまないな。キミは中島さんだね。いつも早くからごくろうさんだね。女子社員の中で一番長く働いてくれたんだね。
いえ。そんな。
 じゃあ。悪いけれど先に顔洗わせてくれるか。
 コップを洗い場の上に載せ、社長が蛇口をひねる。顔を洗いそれから頭に水をかける。水飛沫が跳ね上がり床が濡れる。水道の水は手を切るような冷たさで社長の首筋はたちまち赤くなっていく。うっうっと押し殺したような声がその時ふっともれた。まるで社長が泣いているように思え玲子は耳を疑う。小さな流し台に覆い被さる肩が震えていた。
見ては行けないものを見てしまった気がしてそっと給湯室の扉を閉め席に戻る。それでも、遠い存在だった社長が自分の名前を覚えてくれていた、と玲子は嬉しくなった。それからも不思議なことは続いた。
 いつも九時半に始まる朝礼がなかった。十時のオープンと共にフロアーに出てくる社長も部長も今日は会議室から出てこない。閉ざされた会議室のドアを見ながらデイリーの仕事は続く。電話はひっきりなしに鳴る。
 予約していたホテルなんですけどレベルアップできませんか。
 年末予約したんですが海外保険をファミリー保険に変更していただけませんか。
 時間はあっという間に経ち、交代でお昼の休憩に入る。
 異変は玲子だけではなしにみんなも感じていた。
 社長、部長は昨夜は泊まり込んだようだ。いつも二時に集金に来る銀行マンが九時に来て、古いつきあいだという支店長も慌ただしく出入りしているという。
 玲子は暗い予感を胸にしまい否定する。
 そんなことないわよ。ほら、新しい端末機入れたのも今年の春よ。JR端末、JTB端末、ネットでの予約も始まったばかりだし。情報誌への宣伝広告も同業者の中でうちが一番大きく派手よ。
 その支払いは月間三千万。年間四億。
 経理担当の子が口を挟んだ。
話題にすることがひとつの結論に繋がっていく気がして玲子たちはそそくさと仕事に戻ることにした。
 歩くと羽村にもらった足下の銀の鎖がキラッと光る。
 明日、土曜の早朝から海外旅行の添乗員として羽村は出発する。今晩逢わなければ次に逢えるのは年明けの中旬だ。会社のことも気になるが今は羽村のことばかり考えてしまう。結婚しよう、今晩返事を聞かせてくれと言った羽村の声を思い浮かべ玲子は胸が熱くなる。本当に羽村でいいのだろうか。羽村と結婚していいのだろうか。
 七時。漸く一日の業務が終わり、下ろしかけたシャッターに、昨日のカップルが駆け込んできた。
「良かった。間に合うて。……バリ島の挙式申し込みをしたいのですが」
銀行名が書かれた封筒とカバンの中からパスポートを出してカウンターに並べる。
玲子は二人のパスポートを確認して端末を叩き、契約を取る。ヤマダフミオ、二十歳。妻、アケミ二十一歳。
 航空券に予約を入れ説明を始めると突然アケミは泣き出した。慌ててどうしたの、って聞く。
「わたし中学も高校も修学旅行行けなかったのです。お金なくて。……そんなわたしがこんな……遠いところでフーくんとふたりで結婚式するなんて……フーくん。現場に出て疲れているのに、朝から新聞配達して、一生懸命お金貯めて。子供のくせにと反対するわたしの叔父さんにもちゃんと話してくれてました」
ヤマダフミオは申込書を前にしてうつむいている。
「フーくんは、オレができるのは働くことしかないからこれからも働いて働いて……どこにでも連れてってやる、て約束してくれました。それでも、いいのかな、って思うのです。子供も産まれるのに。こんなことにお金使ってしまっていいのかな、って思うのです。それで喧嘩してたら申し込み遅くなってしまいました」
フミオはふてくされたようにそっぽを向いている。
「……だいじょうぶですよ。思い切って出かけて下さい。きっとご満足いただけるはずですから……」
と玲子は微笑む。
「わたし、怖いのです。本当は。子供産むことが。うちの親みたいに子供捨てたりしないかと」
「信じなきゃ。絶対幸せになるのだと決心しなきゃ」
思わず強い口調で言ってしまって慌てて言い直す。
「旅に出て忘れられない思い出いっぱい作って下さい。……行って楽しんでください」
今度はアケミを見て微笑み、 ねっ、とフミオに促すようにいう。ヤマダフミオはへの字に口を曲げ返事をしない。アケミは唇を噛んで下を向いた。アケミの細い首を切り揃えたボブカットの髪が頑なに覆っている。気まずい沈黙に根負けしたのはフミオの方だった。
「オレ、オマエの為やったら何も惜しないねん。バイクも車も金も。オレの躰もや。何回もゆうたやろ。そやのに。……なんでオマエにはそれがわからへんのや」
フミオの声はボソボソと聞きづらい。アケミは涙でくちゃくちゃになった顔をあげてこくりとうなずいた。
 フミオは封筒からお金を誇らしげに出しカウンターに並べる。玲子は一万円札を指ですばやく弾いて枚数を確認する。扇に広げた一万円札が晴れ晴れするくらいきれいだった。入金とキーを叩き、数枚の引き換え券と青い鳥のバッチを渡す。
「当日、空港で同じこのバッチをつけた日本語が話せる添乗員がお待ちしていますので何も心配はいりません」
シャッターの隙間からふたりを潜らせ、お幸せに、と見送る。アケミは下を向いたまま小さな声で恥ずかしそうに、ありがとう、と言った。その声をフミオの腕が受け取る。大通りを渡り雑踏の中に消えていくふたりの姿を見ながら玲子も決心する。
 羽村を部屋に呼ぼう、二十歳から十四年勤めて築いた自分の砦を見せよう。初めてのボーナスで買ったお気に入りのソファーを羽村に明け渡そう、今度のお給料で羽村に似合いそうなジャージを買い部屋着にしよう。
 それでその日の業務は全て終わりだった。羽村に逢いたいと、はやる気持ちで机の上を拭いて、帰り支度をしていると、フロアーに部長がやってきて、全員第一会議室に集まってくれ、と言う。閑さえあればゴルフボールを叩く真似をしている人だ。そのゴルフ焼けした顔がくすんで見えた。
 会議室にジェスツアーのバッチをつけた人が緊張した顔でいた。顧問会計事務所の先生も出張ったお腹を縮めるように立っていた。その横に立っていた社長は朝見たときよりももっと憔悴していた。
 社長の挨拶はいきなりだった。
「本日……倒産しました。……。不景気が予想以上に長引き、テロによるあいつぐキャンセル。クレジットカードによる旅行代金決済。多額の資金を費やして導入したインターネットによる予約が軌道にのらないこと。理由はいろいろありますが、ただただわたしの力不足でした。一緒に頑張ってくれたみんなには本当に申し訳なく思っていますが、本日をもって全員解雇とさせていただきます」
 社長は深々と頭を下げた。社長に憧れて入社したというフロアー長は目を真っ赤に腫らしていた。
 続いて部長が、少し甲高い声でまるで事務連絡をするように淡々と言った。
「月曜日に倒産発表するのでそれまでは外部に漏らさないように、一部の債権者が有利な情報を得たことがわかれば後日詐欺として問題になるので注意をお願いする。今後給料等は弁護士に相談してできる限りのことはするつもりだ。業務の引継はジェスツアーに委すことにした。ついては、今現在の申込者に、破産の通知書と業務をジェスツアーに引き継く書類を発送していただきたい」
「解雇になったのにですか」
 今年入社したばかりの子が素っ頓狂な声をあげた。
「強制はしないのであとのことは個人の判断に任せる。土曜日、日曜日に出発する客は旅行できるが、月曜日以降は空港について初めて旅行にいけないことを知る。その混乱を避ける為の通知書発行だ。けれど重ねて言うが月曜までは他言しないようにしていただきたい」
 部長と社長の挨拶はすぐ終わった。席に戻っても、ひそひそ話やすすり泣く声が続く。混乱する会議室、フロアーをすり抜けて羽村に電話する。給湯室の隅で羽村に小声で、今日は逢えないと言う。
 なぜ、と聞くので、倒産したから、と答える。言いながら玲子は自分の会社が倒産したことがやっぱり信じられない。
羽村はすぐに行く、と言った。それがどういう意味かは三十分のちに羽村がやってきてすぐに解った。
羽村は窓口の玲子には目もくれず、
「部長いるか」とすごむように言って会議室に入っていった。羽村の大きな声が会議室の扉から漏れてきた。コピーを取る振りをして聞き耳を立てる。
 羽村は脅したり諭すような口調で、まだ対外的に倒産の話を伝えていないのをいいことに、これまでのツアコンの代金十日を請求し、年末年始の分も十日分先渡しで請求した。部長が銀行振り込するというのを今この場で現金でと強く押し切った。一日一万七千円。立て替えていた雑費を加えて四十万強。部長との押し問答の末どうやら支払われたようだ。
 今まで見たこともないような羽村の笑顔だった。意気揚々と引き上げる羽村の笑顔が醜く思えた。通知書作りが慌ただしく行われていたから誰も羽村の笑顔には気付かない。玲子も羽村に気付かない振りで忙しくキーボードを打ち込んだ。
お昼一緒に食べた経理担当の子が玲子の席にやってきて、やっていられないわよ、まったく、と愚痴をこぼす。
「どこから連絡を受けたのか一部のランドオペレーターに支払いを済ましたのだけど、みんな部長と懇意にしている業者よ。もちろん現金で。しかも添乗員の羽村さんには弱みでも握られているのか、年末年始の仮払いまでしたのよ。羽村さんてっ、私用じゃないかと思えるようなホテル代まで請求するのよ……。奈良ロイヤルホテル二名様。笑ってしまうわよね。部長はそれも経費として認めるし。ばかばかしくなるわ」
 羽村とつきあっていることは会社の誰も知らない。玲子が連絡したことも知られていない。それでも玲子は顔から火が出る程恥ずかしい。
 自分たちのホテル代まで……、なんということを。昨夜の姿態は今になれば思い出すのもおぞましい。ホテル代金を会社に請求する無神経さに気付かなかった自分も腹立たしい。
「それにね」と玲子の気持ちも知らずに話は続く。
「金庫に残ったお金をいつものように銀行の夜間金庫に納めようとすると、部長が預かるというのよ。まだ支払いがあるからって。あぁ。羽村さんのホテル代を払うのならわたしのお給料払って欲しいわ。ローンも残っているのに」
誰にも内緒よ、と釘をさして帰っていった。
 玲子は急にむくみ始めた足を撫でてみる。足首をぎゅっと掴んでみる。なじるようにつねってみる。
 ヤマダフミオとアケミの笑顔と泣き顔が目に浮かぶ。あの二人が必死になって貯めたお金を取り上げた……。玲子はかがんで足首の鎖を外しポケットにいれる。歩くたびに光り輝いていた今日一日が消えた。羽村が悪いわけじゃない。羽村は悪くない。呪文のように唱えながら玲子はポケットのアンクレットを握りしめる。まだ、会社に残って作業を続ける男子社員を後目に、玲子は私物の整理をする。十年余り座り続けた机の引き出しを開ける。シャーペン。ボールペン。誰かのお土産の置物。小さな縫いぐるみ。絵葉書。眼鏡。お箸。写真。どうしても捨てられないものが紙袋三つになった。引きずるようにして駅に着く。
 電車を待っている間に羽村からメールが入る。
戦利金有り。玲子の迅速な連絡のおかげ。サンキュー。
 すぐ削除する。羽村が悪くない、と言い聞かせても、腹立たしい。羽村の陽気さには掻きむしりたくなるくらいに腹が立つ。倒産したと電話をしたのは軽はずみだったのか、と玲子は自問する。
 倒産、ということがよく解らない。知らなかったとはいえ今日申し込みしてくれたお客さんに何と言えばいいのだろう。入金してくれたお客さんのお金は返らないのだろうか。勤めていた会社がなくなる、とはどういうことだろう。毎月疑うこともなく手にした二十五日の給料が支払われない、とはどういうことだろう。財布には五千円しか入っていなかった。

 翌日の土曜日は薄暗い日だった。眠れないまま夜が明けたので玲子の頭は重い。八時に出勤する。
 朝から何度も羽村から電話があった。何を話していいのか解らないので電話にでない。鳴るたびに取ろうとするけれど、大儀になってやめる。発信しかけてやっぱりやめる。羽村が乗る飛行機はもう飛び立ったのだろうか。平城旧跡で羽村と別れたのは昨日なのに、何か自分だけがずいぶん遠い所にひとりで来た気がする。
 昨日から居残りしていたフロアー長と一緒に臨時休業という張り紙をシャッターに張る。ポスターの端をガムテープで押さえるたびに、ガラガラと不自然な程大きな音が出た。青い鳥が一面に飛んでいるシャッターだった。小さな鳥がもっと広い所に飛び立とうとしている絵だ。
「ボクこの絵好きだったんですよ」ぼそりと言うフロアー長とは同期だった。入社した時は要領が悪くて失敗ばかりしていた彼。それなのに彼ばかり出世してしまったことが面白くなくて会社でも口を聞くことは殆どなかった。だから、今日も短く、そう、とだけ答える。
鉄道マニアの彼は、酔うと、自分のことのように、何しろ、うちの社長は小学生の夏休みに時刻表片手に日本一周を企てたんですよ、名前も聞いたことがない町の乗り換える路線も駅名も空で次々と言えるんですよ、と自慢していた。売り上げの一割しか利益を得ない旅行代理店青い鳥は、預り金というシステムで支払いを延ばし、広告宣伝、設備投資と競争するように投じ、薄利多売を目指し巨大化し、そして潰れたのだ。
 フロアーに入っていつものようにカウンターの窓口に座る。パソコンを立ち上げ、通常の仕事はしなくてもいいことに気付き、大きく息を吸い込む。預かったパスポート。ビザの申請。玲子は端末を開いて自分のやりかけの仕事を誰にでも解るように一覧にする。
 今日はほとんどの人が出勤してきた。みんなで手分けして残っていた通知書を発送する。お昼過ぎに車で郵便局まで持っていく。帰りにコンビニで買ってきた弁当を配るが誰も手をつけない。部長も社長もまだ来ない。今日は出てこないつもりだろうか。
 通知書が届くのは月曜か火曜だ。月曜日、火曜出発する客の一部は倒産したことを知らずに空港に行く。
 フロアー長が月曜日出発する客に電話すると言い出した。隠密にと、言う部長の言葉に反するが黙っているのはしのびない、と彼は電話をかけ始めた。
受話器から、騙したな、と怒鳴る客の声が漏れた。泣き崩れる客がいた。フロアー長は申し訳ありませんと繰り返し、黙々と電話をかける。他の社員も憑かれたように電話をかける。罵声を浴びせられながら次々とかける。
 玲子もヤマダフミオの家の電話を鳴らす。出ない。ホッとする。数字を押す手が震える。次の客に電話する。夫婦で初めての海外旅行をしたい、と申し込んだ人だ。
 定年まで四十年間弁当作ってくれた家内のお礼です、孫の教科書で英会話の練習も始めたんですよ、とニコニコ話した顔が浮かぶ。
「あのう」少し声が震える。
「お世話になってます。青い鳥です」
 あぁ。と明るい声が事情を聞き怒鳴り声に変わる。
「はい。いえ。もう一度ジェスツアーにお金を振り込んで頂けましたら」
 二重払いを強要するんだな。社長を出せ、電話の声は次々と変わる。家族中に回されているようだ。何時間も責められ漸く叩きつけられるように切られた受話器が鼓膜の奥の方で震動する。まるで身体の内部から罪人のレッテルを貼られていくようだった。昨日まで、あんなに輝いていたパンフレットが虚構の束のように見える。
 気がつくと、大半の社員が帰ってしまった。残っている女子社員は玲子ひとりだ。暖房が消えたフロアーは寒々としているのに電話を終えた玲子は拭っても拭っても額から汗が吹き出した。溜息と共に玲子はヤマダフミオに電話をかけようとする。
 その時遠慮がちにシャッターを叩く音がした。ひやりと予感が走る。玲子は受話器を置いて立ちあがった。カウンターの下をくぐりドアに近づく。シャッターの覗き穴から外の様子を窺ってみる。人影がする。
 マスコミが嗅ぎつけたのか車が何台か会社を見張るように停まっている。カメラを抱えた人がうちの会社を指さし、慌ただしく行き来している。人影は段々と増えてくる。パトカーが出動して大騒ぎになってきた。
 いるんだろう。開けろ。開けろ。と声がする。
 フロアーのシャッターが一刻の猶予もないようにどんと蹴っ飛ばされた。壁が痺れるように細かく揺れた。他の社員も外の様子を見ようと覗き窓に近寄ってくる。悲鳴のような音で電話がまた鳴った。
客に直接謝りの電話を入れたから外部に倒産したことが漏れたのだ。部長の心配したことが現実となった。怒った顧客がやってきたのだ。支払いを滞っていた業者が押し寄せてきたのだ。
 フロアー長がここにいると危険だから帰れと言う。
 まだできることがあるような気がする。ヤマダフミオに電話しなければと思う。このまま帰るのは無責任のような気がする。けれどフロアー長に引継の書類が入った紙袋を預ける。黙って受け取ったフロアー長の手に玲子は自分の手を重ねる。フロアー長の手は暖かだった。旅が好きで社長が好きで入社したという彼。ジェスツアーで彼は最後まで引継の仕事をするそうだ。それも無給の仕事だ、という。そのジェスツアーも三月までもたないという噂ではないか。
 裏口から地下の駐車場の一番端の薄汚い階段を昇り玲子は十四年勤めた会社を出る。
 玲子の頭上を音だけのジャンボジェット機が飛んでいく。
 霧が街を埋め尽くしていた。こんなにぼんやりした街だったのか玲子は驚く。勤めていた会社がなくなるということは、まるで自分が名前をなくしたみたいだ、と玲子は思う。ケータイがまた鳴る。羽村からだ。それを鞄の奥底に押し込んで玲子は駅に向かう。寒い夜だった。

 


 

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