正確な地図  若林 亨


 自転車で坂道を下りながら浩一はくしゃみを繰り返していた。四月になって暖かい日が続いていた。乾いた風、まぶしい太陽、二日酔い、寝不足。こういう日は特にだめなのだ。いったんくしゃみが出始めると止まらない。これまでいろいろな鼻炎薬を試してみたが、なかなか良くならなかった。どれも飲みはじめはいいのだが、しばらく続けていると効き目が薄くなりそこで種類を変えてしまう。その繰り返しだった。もう長患いになっている。最近は薬だけでなく薬局も変えて気分転換を図っていた。
 駅の裏側の小さな薬局に向かっていた。居酒屋やスナックの入った雑居ビルにはさまれてまったく目立たない店だった。張り紙や置き物もないのでのぞき込んでみないと分からない。壁の看板は文字が汚れていて読みづらくなっていた。この付近の薬局はすべて利用したつもりだったが、ここだけは目に止まらなかった。今日で二度目になる。
 鼻からはみ出た鼻水をハンカチでそっとぬぐう。そっとぬぐうのがポイントで、しっかりかんでしまうと粘膜を刺激してさらに大きなくしゃみを誘ってしまう。出勤前にくしゃみだけで体力を奪われてしまうこともあった。ひどい時は寒気が襲うまで続くのだ。
 薬局のガラス戸を引いた。十坪ほどの狭い室内は外観とは違って明るく小ぎれいにされていた。それにしても静かだ。小さな薬局はどうしてこうも静かなのだろうと浩一は思う。くしゃみがこらえきれなくなり二、三回繰り返すとそれが呼び鈴代わりになって、奥のほうから二十代半ばぐらいの男が現れた。二週間ほど前に来た時は白髪の中年男とこの青年がカウンターの内側に並んで座っていた。丸顔で童顔で少し目尻の下がったあたりがよく似ているので親子に違いないと思った。ふたりから熱心に新発売の薬を勧められ、ためしに買ってみたのだが、まるで効かないので飲み切る前にまたやってきたのだ。
「う〜ん、効きませんか」
 浩一の訴えに青年は笑って答えた。実際は笑っているのではなく、はじめから口元が緩んでいるので笑っているように見える。その顔を見ているとどうもこの店で買う薬はみんな効かないような気がしてくる。
「良くなりたいですよね」
 青年はあたりまえのことを言ってますます目尻を下げた。先日もマンションの隣の部屋の住人から、風邪がなかなか直りませんねと声をかけられた。やはり聞こえているのだ。生理現象とはいえ他人には迷惑なことだ。
「う〜んとねえ。私は平田といいます。三十五歳です。両親と一緒にこの店の二階に住んでいます。三階と四階はワンルームマンションになっています。全部で六部屋あります。ここは祖父の代からの店なんです」
 青年は突然自己紹介を始めた。
「私も最近になってようやく店を任されるようになりました。あとは早く結婚して落ち着きたいところなんですが、こればっかりはねえ」
 にこにこと笑った顔はとても三十代には見えなかった。学生ですと言われても納得してしまう。
 浩一は戸惑っていた。気持ち悪いので店を出ようかとも思ったが、気が付くと平田の笑顔に吸い付けられるように自分の名前を口にしていた。
「鷲尾といいます。鷲尾浩一です。三十になったばかりです」
 すかさず「浩一さん」となれなれしく呼びかけられて浩一は気が緩んだ。
「二年前に引越してきたんですよ。これで三回目の転勤なんです。今度はどんな街なんだろうって最初はいつも楽しみにするんですが、結局はだらだらと過ごしてしまいます。休みの日に歩き回るのもはじめの一ヶ月ぐらいで、あとは何してたんだろうと思うような毎日になってしまうんです。いけませんねえ。何かこう、心地よい刺激が欲しくなってきます」
 浩一はしゃべり過ぎた。そのことに気づいて照れ笑いを浮かべると、再び平田から「浩一さん」と呼びかけられた。
「あのう……これは、薬ではないのですが」

 バスに乗るのは久しぶりだった。街の中心部から離れるのも久しぶりだった。本当に限られた範囲でしか生活していないのだと浩一は改めて思った。
 薬ではないのですが、と平田から手渡されたのは簡単な手書きの地図だった。次の次のバス停で降りて通りを渡り、北へ歩くと小学校があるから、そこを右へ曲がって百メートルほど進む。目的の一軒家はその突き当たりに描かれている。
 とにかく一度行ってみてくださいよ、と平田は勧めた。病院でなかったら何なのかと怪しむ浩一に、とにかく一度、とにかく一度の一点張りだった。このところ休日は部屋にこもりがちだったので気分転換のつもりで行ってみることにした。話の種にでもなればいいというぐらいの気持ちだった。
 地図は正確に書かれてあった。その家はすぐに見つかった。ゆるやかにカーブした道の突き当たりというのが分かりやすかった。あたりには敷地の広い家がゆったりと立ち並んでいて、田畑もずいぶんと残っていた。
 門のあたりがちょっと実家に似ているな。これが第一印象だった。浩一は玄関の前に立って呼び鈴を押した。と同時に扉が引かれて、中から年配の女が飛び出してきた。
「あらいやだ、若い男にぶつかっちゃったわ。どうしましょう」
 女はそう叫ぶと浩一のシャツの袖をつかんでぐいっと引き寄せ、なれなれしく肩を叩きながら「ハッハッハッ」と豪快に笑い飛ばした。
 家の中は喫茶店風になっていた。玄関からふた部屋分が改装されているようだった。真ん中の大きなテーブルには花柄のクロスがかけられてあり、そのテーブルを囲んで四、五人の年配の女がコーヒーを飲んでいた。壁側にも小さめのテーブルが置いてあり、そちらでは中年の男が文庫本を読んでいた。木目の鮮やかな壁には油絵や写真、竹で作った小物入れ、一輪挿し。全体的に華やかな雰囲気が漂っていた。
「いやだ、この人緊張してるわよ」
 ぶつかってきた女がそう言ってまた浩一の肩を叩いた。
「あのー、ここは……」
「ほらやっぱり震えてる。かわいいわね。いくつなの、結婚してるの。恋人探しに来たんだったらお気の毒様。いまのところ適齢期のお嬢さんはいないのよ。ごめんね」
 真ん中のテーブルにはいつのまにか浩一のコーヒーが用意されていた。そしてその前に座らされた。また肩を叩かれる。歓迎されているのは分かるが気持ち悪い。
「ここはなんですか」
 大きな声で尋ねると二、三人が同時に答えた。
「ありきたりの会よ」
「ありきたりの会?」
「ほらやっぱり分からないわよ、あんな小さいんじゃ。せめて普通の表札ぐらいの大きさにしないと」
 コーヒーを飲んでいるうちのひとりが言った。
「あら、あなた必要ないって言ったじゃない。たいした集まりじゃないんだから表札なんて恥ずかしいって」
「ええ。でもこうして来てくれる人がいるんだったらやっぱりね」
「書き変えましょうか。バス停の前のはんこ屋さんに頼んだらいいわ」
「それこそ恥ずかしいじゃない。ありきたりの会をお願いしますって言うの」
 表に出てみると確かに扉の横には板が打ちつけられてあった。かまぼこ板の半分ぐらいの薄板に毛筆で、ありきたりの会、と書かれてあった。
 一応そんな風に呼んでいるけれど会則もなければ名簿もないということだった。会費もいらない。毎日午前九時から午後五時まで開放されている。出入りは自由。使用できるのは一階のトイレと台所、サロン。そして奥にある六畳の和室。飲み物はコーヒー、紅茶、オレンジジュース、お茶。どれも三百円。ひとりの時に自分で作っても三百円。それを光熱費や台所の備品に当てている。
 とここまで説明を受けて浩一は再びサロンを見回した。隅に置かれたラックにはクレヨン、画用紙、すずり箱、半紙。窓際の棚にはオカリナ、ハーモニカ、楽譜、カメラ、和紙の束。最初は見えなかったものが見えてきた。包装紙を折り曲げて作ったらしい昆虫の置き物がサロンのいたるところに置かれてあった。そして気が付くとみんなは思い思いに動き始めていた。ちぎり絵に熱中する人、カメラを持ってサロンを出て行く人、奥の部屋へ入っていく人。台所からは洗い物の音がする。壁側のテーブルではトランプ占いが始まる。みんな浩一のことは忘れてしまったかのようだ。
 しばらくしてさっきの女が奥の部屋から戻ってきた。
「ああそうそう、上杉さんのこと言い忘れてたわ。この家の家主さんなの。もうすぐ町内の寄り合いから戻ってくるんじゃないかしら。五年前に奥さんを亡くされてね。それからすぐ会社も辞めて、家の中をこんな風にされたのよ」
 それだけ言うとまたいなくなった。
 トランプ占いが盛り上がっている。スナック菓子を食べながら、息子がどうした、犬がどうした、煮物がどうした、カーペットがどうしたと。
 結局浩一は一時間ぐらい家の中に居た。テレビの野球中継を見たりちぎり絵作りに加わったりトランプ占いをのぞきこんだりして過ごした。不思議と退屈しなかった。
 家主の上杉は帰ってこなかった。女房を亡くして沈み込んでいる時に古い友人たちが励ますつもりで寄り合ったのがこの会の始まりということだった。そしていつの頃からかこの家を、ありきたりの家、と呼ぶようになっていた。

 浩一はいつも通り軽くシャワーを浴びてからサウナ室へ入った。五人も座ればいっぱいになるぐらいの狭い部屋だったが、ここが気に入っていた。
 銭湯へ通い始めて一ヶ月になる。これも気分転換のひとつだった。だいたい夜の九時ごろにやってきて一時間ぐらいいる。
 いい具合に汗が出てきたので水風呂へ向かうと、先に二十歳ぐらいの若い男が入っていた。最近良く見かける顔だった。角刈りで目つきがするどく、虫歯の痛みを必死にこらえているような硬い表情をしていた。いつも同じ顔をしていた。尻まで日焼けした細長い体を折りたたんで膝をかかえている。いかり肩が水面からはみ出ていた。唇が動いているので何かつぶやいているのかもしれないが分からない。視線を合わせないほうがいいと思って浩一は目を伏せる。
 水しぶきが顔面に降りかかってきた。若者が勢いよく立ち上がったのだ。同時に声が聞こえた気がした。
「このあたりの者か」
 そう聞こえた気がした。年齢に不似合いな低くねばっこい声だった。押しが強くて容易には引き下がらない、商談相手に数多くいる嫌なタイプの声だった。
 無視しようと思ったが、顔を上げた拍子に目が合ってしまった。
「このあたりの者かって聞いてるんだ」
 今度は頭の上から押し付けるように来た。
「あ、ああ、近くだけど」
 そう答えたつもりだったが、実際に声が出ていたかどうかは分からなかった。ひどく慌てていてひどく怖がっていたので、頭の中だけで答えたかもしれない。とにかくかかわりたくなかったのだ。若者はそれ以上何も言わずにサウナ室へ入っていった。
 浩一は脱衣場へ戻った。ちょうど野球が九回に入っていたのでドライヤーで髪を乾かしながらテレビを見ていると、隣のもうひとつのドライヤーも動き出した。目の前の大きな鏡にさっきの若者の上半身が写っている。肩幅があるせいで頭は小さく見える。その小さな頭に熱風を当てている。
 野球は一点差の好ゲームだったが、放送時間が終了してコマーシャルに変わってしまった。三分二十円のドライヤーが切れた。
「五十円崩れないか」
 隣から声がかかった。ごく普通の若者らしい高い声だった。けっして低く粘っこい声ではなかった。
 若者はドライヤーで髪を乾かしながら、もう一方の左手を浩一の方へ伸ばしていた。てのひらには五十円玉が乗っていた。
「崩してくれよ」
 今度はちょっといらついた口調だった。無視したかったが、鏡の中で目を合わせてしまったので浩一はすぐに財布から十円玉を五つ取り出して若者の五十円玉と交換した。ちょうどそのとき若者の使っていたドライヤーも切れた。
 若者の名前は広沢淳といった。二十歳だった。それから数日後の夜も同じように両替を頼まれたので毎日来るのかと声をかけてみたら、とびとびだという返事だった。この近くに両親と一緒に住んでいるが、うっとうしいので早く出て行きたい。二年間働いた溶接工場を辞めて今は職業訓練校に通っている。訓練は毎日三時に終わるので、週に四日焼き鳥屋でアルバイトをしている。原則禁止されているがちょっとでも金がほしい。訓練校はおやじばかりでつまらない。特に溶接科はじじいがたくさんいる。経験があると入れないと聞いていたので履歴書には別の仕事を書いて提出したら、最初の実習ですぐにばれてしまった。最近車の免許を取った。オープンカーが欲しい。女を乗せて海岸をぶっ飛ばしたい。
 淳は意外とよくしゃべったが、その間もほとんど表情を変えなかった。口の中が乾くのか、時々舌を出して唇をなめていた。
「ともだちたくさんいるか」
 そう尋ねてきた時も硬い表情のままだった。
「まあ適当にいるけどな」
 変なことを聞くやつだなと思いながら浩一は答えた。
「どうやったらできる」
「え、どうやったらって……」
「だからどうやったらできるんだよ」
 浩一はまじめに考えてしまった。知らないよそんなことと突っぱねておけばよかったが、出来なかった。
「ともだちが欲しいのか」
 口にした瞬間、まずいことを言ってしまったと思った。刺激を与えたんじゃないかと思った。しかし淳は何事もなかったかのようにさっさと着替えを終えて勢いよく外へ飛び出していった。

 冷やされた空気の中に香のかおりが漂っていた。深く吸い込むと余分な力が抜けて体が軽くなるのが実感できた。ありきたりの会へ来るのはまだ二回目なのに、こんにちはというあいさつが自然と口から出る。
 初めて来た日から一ヶ月近くがたっていた。できればもっと続けて来たかったのだが都合がつかなかった。これ以上間があいてしまうとすべてがなかったことになってしまいそうだったので、今日は部長宅での親睦会を断ってまでやってきたのだ。扉を引く前にありきたりの会の表札を確認すると、なんだかそれだけでわくわくしてきた。
 サロンには前回より多くの人がいた。年配の男が多かった。その中にここを紹介した薬局の平田がいた。相変わらずにこにこしている。やはり三十五歳には見えない。平田は特別に挨拶するわけでもなく浩一をトランプの輪の中へ誘い入れた。そこでは五、六人の男が十円玉をチップ代わりにゲームをしていた。ホイホイと声をかけながら代わる代わるカードをひっくり返し、そのつど「ややや」だとか「およよ」だとか言って驚いている。「やられた」とひとりが天を仰ぐと「やられましたね」とだれかが返事をする。ルールは分からなかったがとても楽しそうだ。
 そのうち香のかおりが奥の部屋から漂ってくるのが分かった。のぞきにいくと、その六畳の和室には淳が座っていた。角刈りの頭、細長いからだ、日焼けした肌、そしていつもの硬い表情。銀色の小さな香炉を前に淳はひとりでしっかりと正座をしていた。
「あ、やあ」
 と浩一は驚きを飲み込んで声をかけた。しかし淳は何も反応しなかった。まばたきを一回しただけだった。
 サロンへ戻りそれとなく仲間に尋ねてみると、今日来たばかりの新入りだということだった。
「よけいなことしなくてもいいのにこの人が雑誌に案内を出したのよ」
 この前玄関でぶつかってきた女がとなりの女を指差していった。
「お香でリラックスしませんかって書いたらあんなのがきちゃったの。どうしよう」
「どうしようってもう二時間近く座りっぱなしよ。気持ち悪いわ」
「ごめん。お香渡して帰ってもらおうか」
「あたしが言うわ。おじさんおばさんばっかりで見当はずれでしょう、もっと違うところへ行った方が有意義よって」
「でも案外リラックスしてるわよ。さっきちらっとのぞいたらそんな感じだった」
「あたしはだめね。あの手の顔は受け付けないわ」
「あら、じっくり見たらそこそこ男前よ。あなたのご主人の若い頃にそっくり」
「ばか言わないで」
 奥の部屋に聞こえるぐらいの大きな声でふたりはしゃべっていた。別に追い返さなくてもいいだろうと思いながら浩一は聞いていた。男たちも全員浩一と同じ考えで、もともと気楽な集まりなんだから好きにしてもらっていいじゃないかということで意見をまとめていた。その男たちの中に家主の上杉がいた。楽しそうにトランプを裏返していたうちのひとりだった。「上杉さん」という呼びかけを聞いて初めて分かった。
「なあ上杉さん。ここもだいぶ出入りが多くなってきたから、名簿ぐらい作ったらどうだね」
「めんどうくさいなあ」
 雪だるまのような体型をした上杉が答えた。一度会っただけでは忘れてしまいそうなほど平凡な顔をしていた。髪型から靴まで、特徴はどこにもなかった。地味な色を使ったアジロ模様のシャツと薄いグレーのスラックス。ほんとうにどこにでもいる初老の男だった。
「用心が悪いだろう。何かあったらどうするんだ」
「金目のものはないからなあ」
「奥さんの遺品があるじゃないか。盗られちゃ困るだろう」
「そりゃあ困る」
「だったらもうちょっと体裁を整えようや。住所と電話番号だけでいいんだから、おれがパソコンで作ってやるよ」
「ああ」
 上杉の返事は気の抜けたものだった。それでも名簿を作ることに決まったようで、下書き用の白紙が浩一のところにも回ってきた。
 サロンにいる七人が書き終えたところへ、奥の部屋から淳が現れた。
「君、君、今名簿を作ってるんだけど、よかったらどうだい」
 誘われるまま淳もペンを握った。
「いいのよ、無理しなくても。ちょっとのぞいてみただけの人もたくさんいるんだし。あとでほら、名前だけ残ってこの人だれだっけなんてことになっても困るし。それにごらんの通りおじさんおばさんばかりでしょう。若い人は退屈するじゃないかしらねえ」
 淳のことを気持ち悪いと言っていた女がそんなことをまくしたてているあいだに、淳は名前と住所を書き終えて、そのままトランプの広がっているテーブルに腰を下ろした。相変わらず無愛想なままだったが、案外なじんでいるようでもあった。一緒にトランプを始めるととたんに打ち解けていった。
 あそこは一体何なんだろう。
 帰り道にまた浩一は考えた。別にたいしたことはしていないのに、あの家にいると余分な力が抜けて心地よくなる。充実した時間を送ることができる。

 銭湯ではもうひとり口をきく男がいた。浅黒い体をした五十歳ぐらいの小柄な男だった。
「兄ちゃんのところも風呂なしか」と声をかけられたのが最初で、それから時々話をするようになった。
「迫田初っていうんだけど、ちっちゃな頃からいっちゃんって呼ばれてるんだ。はじめのいちってわけだよ。よろしくな」
 そのいっちゃんは風呂上がりに必ずビールを飲んだ。三百五十ミリリットルを二本飲むことが多かった。そしていっちゃんはいつもインクの染み付いた汚い作業ズボンでやってきた。何重にも色が重なっていて、もともとのズボンの色が分からなくなっていた。Tシャツはもっと汚れていた。
 この日もいつも通り缶ビール片手に、大きな扇風機の前をひとり占めしていた。脱衣場で長居するのも特徴だった。二十年間印刷所で紙を積んでいるという体はほどよく引き締まっていて、肌のつやも若々しかった。
「なあ兄ちゃん、やっぱり金持たんとあかんなあ。兄ちゃんは金持ちか」
 はじめの頃から何度も聞かされたセリフだった。最近また給料が下がり、仕方なく一万五千円の安アパートへ引っ越したらしい。しかし金がない金がないと言っているわりには、いっちゃんから切羽詰ったものは感じなかった。努力してなんとかしようという気持ちもないようだった。
「兄ちゃん、ワシにでも出来る仕事ないか」
 これも口癖のひとつだった。
「ないですねえ」
 おそらく本当にないだろうなと思いながら浩一は答えた。
「今の工場は三回辞めてるんだよな。それで他を探してもないもんだから頭下げてまた入れてもらうんだけど、そのたびに給料下げやがってよお。一年前なんか、今度は絶対だめだぞって言われて飛び出したんだけど、半年でまたまた里帰りだ。ワシもワシだけど雇うほうも雇うほうだよな。まあたいした仕事じゃないから安い金で働くやつだったら誰でもいいんだろうけど」
 浩一は心の中でばかですねえとつぶやいてすぐ、そんなことをつぶやいてしまった自分自身が情けなくなった。ばかなのは自分なのかもしれない。嫌な上司、嫌な取引先、嫌な商談、嫌な会議、嫌な毎日。嫌だ嫌だと思って過ごしている自分がいる。気分転換をはかるのに必死になっている自分がいる。
 うらやましいですねえ。これが正直な気持ちだった。うらやましいですねえと心の中でつぶやいてみた。
「兄ちゃん、なに考えてるんだよ」
「あ、別に何も」
「別に何もって兄ちゃん、嫁さんもらうんだったら金持ってからにしろよ。一円一円の世界だからな夫婦生活ってのは」
「そうなんですか」
「ワシは経験ないけど回りの連中がみんなそうだからよお。見ていてこっちがつらくなるぜ。金持ってないワシの方がよっぽどリッチだ」
 とその時、番台のほうから百円玉が転がってきていっちゃんのかかとに当たった。そしてかたんと音を立てて床に倒れた。
 すーといっちゃんの腕が伸びていく。まるでいま自分が落としたかのようにいっちゃんはその百円玉を摘み上げると、そのまま腰に巻いたバスタオルの淵へしまいこんだ。まったく自然な動きだった。何が起こったのか分からないぐらいだった。
 すぐに年入った男がやってきていっちゃんの顔をのぞき込む。いっちゃんは今しまいこんだばかりの百円玉を取り出してその男に手渡した。
「落ちとったらワシのもんとちがうんか、なあ兄ちゃん」
 そう吐き捨てると、またうまそうにビールを飲んだ。こんな風に生きていけたらどんなに楽しいだろうと浩一は思った。
 金がないが口癖のいっちゃんがある時めずらしく浩一にビールをごちそうした。七月の終わりのとんでもなく暑い夜だった。ボーナスが出たんだとうれしそうにしているので、百万ほどですかとふざけて尋ねてみたら、
「それくらいは欲しかったんだけどちょっと足りなかったな。けどまあワシにとっちゃあ腰が抜けるほどの大金だ。遠慮せずにがんがん飲んでくれ」
 ということだった。いっちゃんはだいぶ興奮していた。
「世の中まじめに働いてるといいことがあるもんだ。な、そうだろう」
「そうでしょうか」
「兄ちゃんはまだまだ修行が足りないな。貧乏を十年も続けてみろ。丸いものは全部金に見えてくるもんだ。ボタンも扇風機も太陽も魚の目玉もみんな金だ」
 いつもはたいがい缶ビール二本で終わるのに、この日はすでに四本目に入っていた。たいぶアルコールが回っているのだろう。浅黒い肌に朱が混じって明るく発色していた。
「僕のところなんかダウンですよ。二割ダウン。人は減らされるし、仕事は増えるし、プレッシャーはきつくなるし。それでボーナスダウン。いいことなんかありません」
 しまった、こんな情けないことを言うんじゃなかったとすぐに後悔したが、いっちゃんは案の定話半分に聞いていた。
「兄ちゃんのとこはボーナスあるのかい」
 と間抜けなことを言ってから急に声をひそめて、
「うつむいて歩けよ」
「は?」
「うつむいて歩くんだよ。地面をなめるようにして歩いてみろよ。ボーナスに当たるぞ」
 そう言ってひっひっひっと笑った。
「金、金、金って祈りながら摺り足で歩いてたらコツンとバッグに当たるんだ。女物のショルダーバックだ。バッグの中には財布があるわな。財布の中には金があるわな。財布の他にも金が入ってあるわな」
 もうこらえ切れないとばかりにいっちゃんは体をのけぞらせてがっはっはっと笑った。腹の底からの笑い声が銭湯の広い天井にぶち当たって跳ね返ってきた。
「七十万だぜ、七十万。茶封筒に入って七十万だ。七十万、七十万、七十万、七十万。兄ちゃん、飲めるんだろう、遠慮するなよ。今日はパーティーだからな」
 いっちゃんは冷蔵庫からさらに缶ビールを三本抜き取って浩一に渡した。
「金ならあるぞ。ほらほらほら」と番台にいるおばさんに千円札を一枚渡す。
 浩一は全く飲む気がしなかった。気持ち悪くなってきた。それって泥棒ですよねと確認してもどうせ、落ちてるものはワシのもんだと返してくるに違いない。
 豪快に笑っていたいっちゃん顔がふっとしらふに戻った。浩一が着替え始めようとした時だった。手にしていた缶ビールを邪魔なもののように床へ置いて、ひとつ大きなため息をつく。そして、
「兄ちゃん、退屈じゃないか。何か金のかからん遊びはないか」
 とはき捨てるように言う。
 この人は手に負えないなと浩一は思った。手に負えないけれど魅力がある。腹が立つほど自由に生きている。生まれ変わったらこんな風に生きてみたい。
「兄ちゃん、飲まないんだったら持って帰れよ。冷蔵庫はあるんだろう」
 缶ビール三本を押し付けられた。

 幼い頃に親戚のおじさんから教わったトランプの手品が役に立っている。ありきたりの会で評判がいいのだ。仕掛けさえ間違わなければ誰にでも出来る簡単なものだったが、みんな純粋におもしろがってくれた。種が尽きると本を買って新しい手品にも挑戦した。失敗しても恥ずかしくなかった。ほど良い緊張感。そして何より心地よかった。
 浩一はもう週に一度はありきたりの会へ顔を出すようになっていた。
 この日は紐を使った手品をふたつみっつ用意していた。ぶっつけ本番だったが平気だった。いつも通りバス停からゆっくり歩いて家の前までやってくると、中から笑い声が漏れていた。すぐに自分も仲間に入りたいと思って勢いよく扉を開ける。
「よお、来たか」
 手を上げて迎えたのはいっちゃんだった。テーブルの一番目立つところに座っていた。
「そろそろ来るんじゃないかと思ってたんだ。今ちょうど自己紹介をしてたところだ。仕事は盗人だって言ってもだれも信用してくれなくてよお」
 ポロシャツにジーパン姿のいっちゃんは新鮮だった。ずいぶんと老けて見えるのがおかしかった。どうしてこんなところにいるのかと思ったが、ありきたりの会はそういうところなのだ。淳もあれからちょくちょく顔を出して香を楽しんでいる。
「こいつは助手だ。ワシが食わしてやってるんだ。この前だって七十万ほど稼いでこいつに半分くれてやったんだけど、今の若いやつってのは金の使い方を知らないんだな。何に使うのかと思ったら、貯金しますだってよ。まったく面白くない生き方だ」
 みんないっちゃんの話をまじめに受け取っている様子ではなかったので浩一も大いに笑うことが出来た。いっちゃんの助手も面白そうだなと思った。ビールではなくコーヒーを一口づつ飲んでいる姿もおかしかった。
「泥棒さん」
 と仲間のひとりがいっちゃんに呼びかけた。
「盗人といってくれよ」
「あら、どう違うの」
「一緒だけど盗人の方が頭良さそうじゃないか」
「じゃあ盗人さん、あなたの専門は何なの。空き巣だとか金庫破りだとかひったくりだとかいろいろあるじゃない」
「置き引きだよ、置き引き。これ一本だ」
「それって一番簡単じゃないの。あたしにも出来るわ。ねえ、助手の人」
 と今度は浩一に来た。
「助手じゃなくて秘書と呼んでください」
「あらどう違うの」
「一緒ですが、秘書の方が賢そうですから」
 どっと笑いが起きた。しばらくは止まなかった。窓ガラスも床も天井も、壁の写真もちぎり絵もみんな笑っているようだった。浩一はこれまでこんなに人を笑わせたことはなかった。とても気分が良かった。いっちゃんのおかげだ。
 ここぞとばかりに用意してきた紐の手品を披露した。その場の雰囲気に乗せられ、手が勝手に動いた。何箇所かもたついたところはあったが、まったく気にならなかった。
 淳と同じように初参加でいきなり人気者になったいっちゃんだったが、その日以降ありきたりの会には顔を見せなかった。銭湯には来ていた。相変わらず扇風機の前でビールを飲んでいた。
「もう来ないんですか。みんなどろぼうの話をもっと聞きたいって、待ってますよ」
 浩一は隣に腰掛けた。
「昼間の集まりは苦手なんだよ。それにビールの一本も出ないじゃないか」
「持ち込んでもかまいませんから来て下さいよ」
「だめだだめだ、あそこには何もない。金目のものがないんだからワシにとっては用なしのところだ。それに、奥の部屋はなんだありゃ。たんすの引出しが全部引っ張り出されていると思ったらどれも年寄りくさい女物の服ばっかりじゃないか。下着まで見せびらかしてどういうつもりなんだ。仏壇の回りはアルバムでいっぱいだしな。どうぞお持ち帰りくださいって言われても遠慮するぜ」
 上杉さんはまだ奥さんのことが忘れられないんですと説明しようと思ったが止めた。いっちゃんには通じない。
「兄ちゃんビール買ってくれよ。あと二本ほど飲みたいんだ」
「茶封筒の七十万はどうしたんですか」
「ああ、あれか。あれは優秀な秘書さんに半分くれてやって、あとはたまってた家賃払って終わりだ。あっけないもんだな。なあ兄ちゃん、ワシにでも出来る仕事ないか。残業代がつかなくなって困ってるんだよ」
 いっちゃんはやはり裸が似合っていた。扇風機の前が似合っていた。そして貧乏臭さが似合っていた。ありきたりの会にはなじまない。
 注文通り缶ビールを二本買っていっちゃんに渡すと、いっちゃんはそのうちの一本を浩一へ戻して言った。
「まあ飲めよ。いつも世話になって悪いなあ」
 なんて楽しい人なんだと思いながら浩一は缶のタブに爪を引っ掛けて思い切り引っ張った。

 淳の就職祝いをしようと言い出したのは浩一だった。自ら幹事を買って出てバーベキューをすることに決めた。最初は渋っていた淳も、ボーとできるところだったらいいと言ったので近くの運動公園を選んだ。新しく作った名簿が役に立ち、十五人ほどが集まった。
 九月の半ばにしては朝からとても暑い日で、ほんの少し丘を登っただけで汗だくになった。淳は途中から裸になった。浩一も真似をしてシャツを脱いだ。
 そして今ふたりはバーベキューの網から少し離れた芝生の上で仰向けに寝転がっている。
「おーい食わないのか」と何度も声をかけられたが動かなかった。肉の焼ける香りが風下のふたりを包み込んでいた。
 ポツポツと淳は話した。職業安定所で見つけた陶芸の会社に半日だけ体験入社したところ、我慢強そうだから来いと言われて決めたという。ろくろも釜も見たことがなかったし工程も全く知らなかった。商売だから一定時間にできるだけたくさん作らなければならないと言われ、型に土をはめ込んで茶碗を作りつづけた。目安となる数にはとうてい及ばなかったが、要領がいいと誉められた。
「誉められてもぜんぜんうれしくないな。結局は見習いだし、金も安いし。でも住み込みってのが気に入った」
 そうだ。淳は早く家を出たがっていたのだ。
「もうこの会には顔を出さないのか」
「遠い」
「そうだよな。山の中へ修行しに行くみたいなもんだよな。でもたまには戻ってくるんだろう。そのときは顔を出せよ。坊さんになるわけじゃないんだし」
「坊さんか……」
 坊さんという言葉に刺激されたのか、淳は腹筋に力を入れてひとつ大きく息を吐いた。日に焼けた肌が太陽のエネルギーを吸収して、ぶちぶちと音のするぐらいに強くたくましく引き締まっていくのが分かった。常に新しい細胞が作られているのだ。
「女にもてるか」
 と淳は言った。
「もてるだろうよ」
 浩一は答えた。
「オープンカーで海岸をぶっ飛ばしたいんだ」
「気持ちいいだろうな」
「決まってるさ。女を乗せてぶっ飛ばすんだ。金があったら今すぐにでもやるんだけどな」
「女はいるのか」
「いない」
「女と車、どっちが先だ」
「どっちも先だ」
 誰もいない市営プールが太陽の光を跳ね返して白く明るく輝いていた。子供用の方は水が抜かれていた。市民への開放は一週間前に終わっている。
 どれくらいたったろう。
「どうしたんだ。腹でも痛いのか」
 バーベキューの串を持って上杉がやってきた時にはふたりともすっかり居眠っていた。
「幹事はもっとみんなの面倒を見なくちゃだめじゃないか」
 と浩一は揺り起こされた。
 上杉はだいぶ赤い顔をしていた。日に焼けたのではなくビールのせいだ。
「わたしはうれしいんだよ。君たちみたいに若い人が来てくれて、ほんとにうれしいんだよ。わたしはね、内気で引っ込み思案でのろまなもんだから、女房が死んでひとりになった時に回りが心配してくれてね。それでいろいろやってくれたおかげでどうにか今日までやって来れたんだ。感謝してるよ。ひとりきりだったらどうなっていたか」
 淳も体を起こした。
「わたしはただあの家を開放するだけでよかった。あとはみんなが考えてくれた。楽しい毎日だったよ。でもね、最近はやっぱり死んだ女房とふたりきりになりたいと思うようになったんだ。このままみんなに甘え続けるわけにもいかないし、本来の姿に戻りたいと思うようになったんだ」
 太陽が雲に隠れ、ひんやりとした空気に包まれた。浩一と淳はシャツを着た。
「上杉さん、またいらんことしゃべってるんだろう。だめだだめだ、あんたがひとりになったら途端に飢え死にしちゃうよ」
 遠くから仲間の声がした。
「大丈夫、大丈夫。飢え死にしたって大丈夫」
 上杉の返事はあまりにも弱々しかった。つぶやいているだけだった。
「そんなこと言わないで続けてくださいよ。みんな楽しくやってるじゃないですか」
 浩一はそう言って淳に同意を求めた。淳は面倒くさそうにうなずいた。
「ありがとう。わたしに子供がいたら君たちぐらいの年齢になってるんだろうな。欲しかったけど恵まれなかった。この前女房の部屋を掃除してたら急にひざががくっときてね。その場にへたり込んでしまったんだ。同時に気持ちもがくっときてね。それからは何をやってもだめだ。テレビを見ても本を読んでも音楽をかけても何も入ってこない」
 上杉の体は小さく丸く縮こまっていくようだった。
 雲に隠れた太陽はなかなか復活してこなかった。
「上杉さん、ビールがあまってるよ。最後の一本だけどどうだ」
 ふたたび仲間の声がかかった。

 ありきたりの家で盗難騒ぎがあったのはそれからしばらくしてからだった。
 その日浩一は昼過ぎにやってきた。扉を開けても誰もいなかった。サロンの電気はついていたのですぐにだれか戻ってくるだろうと思っていたがなかなか帰ってこなかった。これまでもほんの短い間ひとりになることはあったが、一時間近くもひとりで過ごしたのははじめてだった。どうしたんだろうと不安になりだした時、ようやく上杉が戻ってきた。青白い顔をしていた。
「盗まれたんだよ、君。女房を盗まれたんだよ」
 そう言って浩一を奥の部屋へ引っ張り込み、仏壇の中を指さす。すぐに浩一は位牌がなくなっていることに気づいた。
「いま自治会長のところへ行って事情を説明してきたんだ。三組の組長にも伝えてきた。やっぱり警察へ届けたほうがいいだろうな。君」
 どうしたらいいんだとばかりに上杉はその場で足踏みを繰り返した。ほかには何も盗まれていない。位牌だけがなくなっているという。部屋の中は荒らされた様子もなく落ち着いていた。かえって普段のほうが散らかっていた。
「女房はどこへ行ったんだろう。ついさっきまでここにいたんだ。なのにちょっと目を離したすきにだれかに持っていかれてしまった」
「うーん、そうですねえ、どうしましょう」
 浩一は冷静に答えた。勘違いじゃありませんか。掃除した時に位牌だけどこかへ置き変えたんじゃありませんか。しかしそれを確かめてみるのは止めた。ふたりで探してたとえ見つかったとしても後味の悪いものにしかならないと思った。
「もう一度自治会長のところへ行って説明してくる。君、悪いがこの部屋にいて他のものを見張っていてくれないか」
 そう言って上杉がまた家を出ようとしたとき、会の仲間がふたり入ってきた。女房を亡くして沈み込んでいる上杉を見かねて励ます会を始めたメンバーだった。
 ふたりは上杉の様子がおかしいことに気がつくと、とりあえず椅子に座るよううながした。そして「上杉さんよお」と声をかけた。
「あんたが負担になるというんだったらもう止めようか。無理して続けなくてもいいんだ」
「そうだ、無理しちゃいけない」
 もうひとりがつないだ。
「今もここへ来るまで話してたんだけど、ちょっと大きくなりすぎたと思ってるんだ。あんたの性格には合わなくなってきたなあって。あんたのためを思って始めたことなのに、いつのまにかメンバーのための集まりになってしまった」
「そうなんだ」
「あんたがにこにこしてるもんだからこっちも調子に乗って続けてきたけど、このあたりで考え直してもいいんじゃないか。特に最近は人が多くなってわけが分からなくなってきた」
「うん、反省してるよ」
「でもあんただって悪いよ。全部人任せにするんだから」
 上杉は落ち着きを取り戻していた。途中何度もうなずいてため息をついた。
 風船が大きく膨らんで、しぼんでいく。そんな感じで浩一は聞いていた。全く出る幕ではなかった。君はどう思うかと聞かれても答えようがない。
 急に家の中が暗くなったと思ったら大粒の雨が落ちて来て、開けっ放しの玄関からは冷たい空気が入り込んできた。
 よろよろと椅子から立ち上がると、上杉はふたたび奥の部屋へ入っていった。
 仏壇の鐘が鳴る。
 静かな静かな読経が始まった。

 十一月に入って急に寒い日が続いた。雨も多く降っていた。浩一はもう二ヶ月近くありきたりの会へ行っていない。仕事が忙しかったのだ。部長が糖尿病を悪くして入院し、先輩のひとりがバイクの事故で足を骨折し、さらには今年入社したばかりの新人が辞めていった。帰宅するのは毎日十二時近くになっていた。
 ようやく連休が取れることになった土曜日の夕方、浩一は久しぶりにありきたりの会へ行くことができた。バスを降りて通りを渡り、北へ歩く。小学校まで来たらそこを右へ曲がって百メートルほど進む。ゆるやかにカーブした道の突き当たりに一軒家がある。もう何回訪ねてきただろう。初めて来たときは桜が咲いていた。玄関が見えて、あの家かなと思った。地図で確かめるとどうやらそうらしい。門のあたりがちょっと実家に似ているな。第一印象は確かにそうだった。
 呼び鈴を押そうとして、あれっと気づいた。表札がない。かまぼこ板の半分ぐらいの薄さの板に毛筆で、ありきたりの会、と書かれてあった。その表札がない。
 急に鼻がもぞもぞとしてきた。あっこの感触は久しぶりだ。くしゃみが出るぞ。そういえば鼻炎を長患いしていたんだった。ありきたりの会へ来るようになってからはすっかり忘れていた。
 やはりくしゃみは一回ではすまなかった。二回、三回、四回と繰り返すたびにだんだんと大きくなり鳥肌が立ってきた。ティッシュペーパーで思い切り鼻をかむ。そんなことをすれば粘膜が刺激されてますます止まらなくなることをうっかりしていた。
「どちらさまですか」と家の中から声がかかった。上杉の声だった。
「鷲尾です。こんにちは」
「え? どちらさまですか」
「鷲尾浩一です」
 扉が開かれて再びあれっと思った。玄関から奥へ向かってまっすぐにローカが伸びている。その途中に階段がある。一番手前の部屋はふすまが半開きになっていて、そこへ猫が飛び込んでいった。サロンなんかどこにもない。
「上杉さん……」
 目の前に立っているのはたしかに上杉だったが、浩一は恐る恐る呼びかけた。かなり鼻声になっていた。
「はいそうですが」
「はいそうですがって上杉さん、ぼくですよ。鷲尾です」
「は?」
「半年前からここでお世話になっている鷲尾浩一です」
 しかし上杉は真顔のまま表情を変えなかった。けっしてふざけているのではない。それは十分に伝わってきた。
「ありきたりの会は……」
「ありきたり?」
「ありきたりの家は……」
「ありきたりの家?」
 腹の底からひときわ大きなくしゃみが出て堰が切れた。
「上杉さんどうなっているんですか。サロンはどこへいったんですか。みんなはどうしたんですか。上杉さん、ぼくです。鷲尾浩一です。上杉さん、上杉さん」
 混乱した状態のまま浩一は銭湯へやってきた。銭湯へ来るのも二ヶ月ぶりだった。
 サウナと水風呂を往復している青年がいた。淳だ。相変わらず虫歯の痛みをこらえているかのような硬い表情をしていた。てのひらと足の裏以外はしっかりと日焼けしている。真冬になってもきっとこのままなのだろう。浩一は体を洗いながらしばらく淳を眺めていたが、一向に気づく様子がないのでこちらから声をかけた。
「やあ、元気そうじゃないか、仕事はどうだ。今日は休みなのか」
 しかし淳は全く無視してサウナ室へ入っていった。
 浩一も続いてサウナ室へ入った。隣へ座ろうとすると淳は体をずらせた。だいぶすきまがあいているのにさらに距離を取って知らん振りを決め込む。見ず知らずの人と合席する時のような冷めた態度だった。浩一は淳の正面へ移動して話しかけた
「おい、ありきたりの家が変なんだ。あのサロンがなくなってるんだ。家自体はあるんだけどサロンがないんだ。上杉さんはいるんだけどぼくのことを知らないみたいなんだ。分けがわからん。一体どうなってるんだ」
 淳はそこまで聞いてから短く言った。
「あんただれだ」
 脱衣場にはいっちゃんがいた。扇風機の前のいつもの場所でテレビを見ていた。
「こんにちは」と声をかけて隣へ腰を下ろすと、いっちゃんは大きく体をずらせた。そればかりか背中を向けてしまった。
「どうしたんですか」
 その背中に呼びかけた。
「いっちゃん、今日はビール飲まないんですか」
 それでも返事がないので肩を叩いた。
 いっちゃんがようやく振り返る。
「兄ちゃん、人違いだろ。確かにワシはいっちゃんって呼ばれてるけど違うんじゃないか。声をかけてくれるのはうれしいんだけどよお」
 その顔はまじめそのものだった。ふざけているのではなかった。上杉さんと同じようにあなたはだれですかと問いかけている。
 いっちゃんがいっちゃんでない。浩一は必死にあたりを見回した。ここがどこなのか一瞬分からなくなった。
 淳が着替えを終えて脱衣場を出て行く。いっちゃんは自分でビールを買ってうまそうに飲み始める。体が一気に冷たくなり、裸でいることが恥ずかしくなった。いま自分に何が起こっているのか全く理解できないでいた。
 その夜はほとんど眠れないまま朝を迎えた。もうあとは平田の薬局へ行くしかなかった。そうだ、すべてはあの薬局から始まったのだ。
 自転車で坂道を下りながら浩一はくしゃみを繰り返していた。十一月の太陽はまぶしかった。
 平田は店の前で商品を並べていた。その後ろ姿に声をかけようと思ったが言葉が出てこない。
 平田が何気なく振り返った。二メートルほどの距離で目が合う。
「あ、あのう……」
 しかしくしゃみが邪魔をしてあとが続かない。
「ひどいようですね」と平田が心配そうに声をかけてくる。
「見てのとおりですよ」
「いつからですか」
「何年も前からです」
「そうですか。それは長患いですね。ちょうど新発売のいい薬が入ったんです。どうでしょう、試されてみては」
「はあ」
「朝晩二回です。効いてきたら朝一回だけでもかまいません。お勧めします」
 平田の接し方は完全に初対面の客相手のものだった。あの人懐っこい笑顔もなかった。
 薬の説明を聞きながらひょっとしたらまた、これは薬ではないんですが、と言って手書きの地図を渡してくれるかもしれないと思ったが、やはりありえないことだった。ありきたりの家なんか知りません、ありきたりの会も知りません、上杉さんも淳もいっちゃんも知りませんと態度が示している。
 浩一は勧められた鼻炎薬を買って店を出た。最後に「鷲尾浩一です」と名乗ってみたが、「お大事に」とごく普通に送り出された。
 もうこれ以上ありきたりの会について確かめにいくところはなかった。
 乾いた風が吹いていた。買ったばかりの鼻炎薬を飲んでみた。行く当てもなくしばらく自転車を走らせていると眠くなってきて、公園でもあればいいなと思っていたところへ突然まっ平らな土地が現れた。大型のショッピングセンターが何店も建つほどの大きな砂地だった。前方はかすみががかって見えにくくなっているので実際はもっと広いのかもしれない。いつからこんな場所ができたのだと思いながら浩一は自転車を乗り上げた。
 乾いた風がいっそう強くなり砂埃が舞う。それがまたくしゃみを誘う。
 砂埃はまるで浩一がやってくるのを待っていたかのように、あっという間にひとつの大きな塊となって回り始めた。視界が悪くなってきたなと思うまもなく、浩一はうずの中心に取り残されてしまった。周りは白く濁り、空しか見えなくなる。その空もぐんぐんと伸びていくうずによって覆い隠されていった。
 くしゃみは止まらなかったがそれでよかった。止まってしまえば途端にうずに巻き込まれ、どこかへ弾き飛ばされてしまいそうで怖かった。
 しっかりと握り締めているのは自転車のハンドルだ。もうこれだけは手放せなかった。

 


 

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