大学に入って初めての冬、学生課から紹介されたアルバイト先は、繁華街にある中華レストランの洗い場だった。時給はひどく安かった。 明日はクリスマスだというその日も、昼前から洗い場にこもっていた。白いゴム長靴の中にジーパンの裾をきっちり入れて、分厚い前掛けを腰に巻き、上着は貸与された半袖の制服だった。胸に「紅星飯店」と紺色の糸で小さく刺繍がされている。 「にいちゃん。まあ、ゆっくりしいや」 相棒のおっちゃんが、一斗缶に腰を下ろしたまま言った。ゴム手袋の指に挟んだ爪楊枝には、ショートピースが刺さっている。給湯器の種火で器用に火をつけて、唇の先で惜しそうにちびちび吸う。 「客が食うとるあいだは、暇やからな」 ほれ、といってもう一つの一斗缶を足で重そうに滑らせる。腰を下ろすと、きつい洗剤の原液が入っているそれは、尻の下でいつまでも重い波の音を響かせた。 昼間はそうでもなかったが、夜は、大きな宴会が入っていたためか、洗っても洗っても食器の山が減らなかった。 「今のうちに、センザイ、替えとこか!」 巨大な換気扇の轟音に負けない声で、おっちゃんが怒鳴った。 洗剤槽の底を隅から隅まで手探りで探して、もはや一枚の皿も残っていないことを確かめる。それからおもむろに栓のあり場所を探し出し、ひもをたぐってひっこぬく。洗い場の床じゅうが白濁した液で一時覆われる。洗剤槽を満たしていた溶液の水面がみるみるうちに下がってくる。やがて、底が見え始めると、あれほど念入りに探したはずなのに、その手を逃れたスプーンや散りれんげが、白々と姿を現してくる。 ホースでざっと槽内を洗う。栓を閉め、給湯器のバルブを開く。一呼吸おいて、むき出しのパイプから、咳をするような音とともに温水がほとばしり始める。おっちゃんが換気扇のスイッチを切った。耳を圧していた換気扇の音が消えると、槽が温水で一杯になるまでの間、洗い場にはしばしの静寂が訪れるのだった。 おっちゃんが、棚の上に置いたタバコに手を伸ばした。ゴム手袋の手で箱をつまみ、耳元で何回か振って、顔をしかめた。 「……売り切れやがな」 そう言って、あちこちに視線をさまよわせた後、言いにくそうに口を開いた。 「にいちゃん、すまんな、タバコ、買うてきてくれんかのう」 昼前から洗い場にこもりっきりだったので、救われたような気持ちになった。ゴム手袋と前掛けだけを取り、裏口から外へ飛び出した。 外は、夜だった。むき出しの両腕に寒風が吹き付けた。汗ばんでいた体が一気に引き締まった。通りに面した店のいくつかは、もうシャッターを下ろしてしまい、商店街は人通りもまばらだった。ひときわ明るい一角は、洋菓子を売る店のようだった。路上に出したテーブルの上には、真っ赤な箱が積み上げられている。その横で、サンタクロースの格好をした売り子が、声をからしている。 ――メリー・クリスマス。メリー・クリスマス。今ならケーキ半額でご奉仕。サンタクロースのプレゼント。今なら半額でご奉仕。さあ、買った買った。 舗道に反響して遠くまで響いていくその声を聞きながら、自動販売機でたばこを買った。洗い場に戻ったときには、芯から体が冷え切っていた。 下げてきた食器を置くカウンターには、皿や小鉢がこぼれそうなほど積み上げられている。早く洗いを始めないと、フロア係から苦情が来そうだった。 おっちゃんは新しいタバコをゆっくりとくゆらせながら、心配せんでもええ、と言った。客はもうおらん。今日は、あと、これだけや。これだけこなしたら、今日の仕事は終わりやでえ。 短くなったタバコを残飯かごに放り投げると、おっちゃんは換気扇のスイッチをたたき入れた。耳を圧する轟音とともに、猛然と洗いが始まった。 洗剤槽は、もはや温水で満ち、一斗缶からなみなみと注ぎ入れられた原液で白く濁っている。白っぽい水面からは、皿の縁が、密集した鮫のヒレのようにのぞいている。一枚一枚、手当たり次第に引っ張り出しては、スポンジでさっとなでて濯ぎ槽に滑らせていく。待ちかまえていたおっちゃんが、流水の中に二、三度くぐらせ、ステンレスの大きなバスケットに並べていく。幾種類もの皿や食器が、銀色のかごの中に、精密なパズルのようにはめ込まれていく。これが終われば、今日が終わる、これが終われば、今日が終わる、おっちゃんの言葉だけが、皿を洗うリズムとなって、頭の中をめぐっていた。ようやくカウンターの地肌が見え始めた。勢いに任せて洗いの速度を上げた。カウンターの上に乗っていた残りの食器類を一気に洗剤槽にぶちまけた。 「ウェイター! ウェイター!」 おっちゃんが、フロアとの仕切り口から顔を出して、叫んだ。 「ウェイター! ほんまにこれで終わりやな。もう、洗いモン、ないねんな。前みたいに、まだありました、じゃ、すまへんど。今日はこれで打ち止めや。もう、皿一枚、レンゲ一こ、洗わへんで!」 最後の一枚を濯ぎ槽に滑らせた後、残り物を探して洗剤槽の中をまさぐっていた手に、ふと、生柔らかい手触りがした。 スポンジかな? と思った。手に余るほどの大きさのそれを掴んでそろりと引き上げてみた。虹色の泡を割って浮かんできたのは、まるまると太ったネズミだった。力無く垂れた尻尾は、ぴくりとも動かない。行儀よく胸の前にそろえられた前足は、透き通るようなピンク色をしている。温水に漬かっていたためか、手袋を通してほんのりと暖かみが伝わってきた。半開きになった口から細かく白い歯がのぞいている。そのとぼけた表情を見ていると、今まで、洗剤槽の底に沈んでいたとは信じられなかった。その姿は、手のひらの中で一時、すべてをゆだねて眠っているようだった。 不意に、その祝福の言葉が浮かんだ。小さく、口の中で転がしてみた。かろうじて唇の外へこぼれたそれは、換気扇の音に吹き飛ばされた。 確かめるように、もう一度。 「……メリー・クリスマス」 今度は、小さなつぶやきになった。 誰につぶやいたのか、わからなかった。どうしてその言葉なのかも、わからなかった。ただ、わかっているのは、明日も、あさっても、その次の日も、見も知らぬ他人の唾液や口紅のついた、油まみれの皿やレンゲを、きつい洗剤で際限もなく洗い続けることだけだった。 「さあ、仕舞いにかかろうか」 おっちゃんの声がした。太いホースにつながれた水栓が開かれた。ホースの先からほとばしる水の柱を横ぐわえにして喉を鳴らしているおっちゃんが、ひどく逞しく見えた。
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