螢    北山 和希


 六月に入って、螢の飛ぶ季節になりました。
 大阪の北の方ではもう飛び始めた、というニュースが聞こえ始めたようです。
 河内長野でも毎年たくさんの螢が飛びます。源氏螢の生息する川は護岸工事がされていない為、本当にやさしい川で、子どもの頃見た風景がまだあります。川の流れは浅く、立っている岸辺と川面との落差がないため、まるで足元の近くまで水が流れてくるようです。そして土手にはいろんな雑草が茂り、川べりをおおっています。
 私はここ何年か、ずうっと毎年河内長野の日野に螢を見に行っています。いつも満足させてくれるくらいたくさんの螢が飛び交います。数年前でしたか、日野よりもっと奥にある滝畑ダムの横に流れている川辺にいきました。螢は七、八年周期に当たり年があるらしく、今年は例年にない飛びようだと、地元の人からの情報がありました。螢は、その日の気象にも左右され、二、三日も日をあけると、状況が変わってしまうものだと聞いていましたので、私は友人とその日のうちに駆けつけました。小雨の降る暗い夜でした。橋のかかっているその場所はさすがにたくさん飛んでいるのですが、外灯が点いている上に、子ども連れがたくさん来ていて、なんだかざわざわしていました。それで、場所を変え、ちょっと高くなるのですが、その川を見下ろすことのできる車道に移ってみました。視界にはすこし人家の屋根などもあるのですが、なにしろ雨の降る夜なので、そういうものは漆黒の闇の中に沈んでしまい、遠く微かにではありますが、螢の光が帯になって、川の流れに沿って蛇行していました。暗い闇の底に見える薄い光の川は、遠目にも螢のはかない吐息のように明滅していました。私たちは車道のガードレールにもたれかかり、ぼうーとしていました。なにしろ山の中なので通っていく車は一台もありません。高い木の上で咲く朴の花が目の下にありました。私はふと、自分はどこにいるのだろう、と思うほど心もとない気持ちになっていました。そしてこの光景は家に帰ってから明日、思い出したいと思いました。何故いまじゃダメなのだろう、今見ている時間に喜び、堪能するのではなく、明日思い出したい、と思ったこの唐突な思いをどう受け止めていいのか、戸惑ってしまいました。私はカメラのレンズになりきり、しっかりとそれをとらえることだけをしました。
 あの光景にであってから、数年がたちました。日野の多くの人々が愛する川辺の螢も圧巻です。
 でも、私はあの時の螢をよく思い出します。あの寂とした生命の鼓動を受け止める、私の側になかったもの。せわしない日常をとりあえず終わらせ、ちょっとピクニックへでも行くつもりで出かけていったこちら側の、心の騒然としたものがあの静かな光景に対応できなかったのだろうか、などと。
 あの年以来、私は滝畑の螢を見に行っていません。帰ってきてから、友人に聞いた話なのですが、昔、滝畑に幽霊がでるという噂があったそうです。その噂を聞いた友人の大学生だった息子さんが、それっとばかり友だち七人で出かけて行きました。もちろん何にも出会わなかったのですが、帰り道、人家のある人里までは、くねくねとかなりな道のりがあるのですが、二台の車の前の上になにかあかい、人魂のようなものがついてきてのだそうです。後ろの車に乗っていた何人かの人たちが、それをずうっと目撃していたそうです。さすがに元気な大学生の男の子たちも、真っ青になり、家に帰りついたときは、ガクガクと震えていたそうです。
 七、八年に一度という螢のあたり年が、そろそろまわってくるころではないか、そんなことを考えています。
 

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