蟠(わだかま)る  西村 郁子


 短くサイレンが鳴って止んだ。それから拡声器を通した男の早口が聞こえた。
 隣のビル建設に反対する住民を召集するための合図だ。
 大屋加美はベッドで寝ていたのだが、その音に起こされた。壁掛けの時計をみると九時前を指している。
 足で掛け布団を跳ねあげてベッドから出ようと体を動かしたが、ナマコのようにどさっと床に落ちた。
 南に付いたサッシ戸を通る光は弱く、空は薄灰色だった。肌寒さに両腕を掌でさすりながら昨夜脱ぎ捨てたジーンズを拾って履いた。上に羽織るジャケットを探しながら西側の腰高の窓を開けて下を見ると、すでに数人が集まっている。車道から斜めに頭を突っ込んだトラックをせき止めるように立ち並んでいた。加美は鍵をポケットに突っ込むとマンションの部屋をでた。
 今日木曜日は加美の店の定休日で朝寝坊ができるはずだった。
 おはようございますと加美が挨拶すると何人かが振り返ってくれた。
「ねえちょっと、わたしまだ心臓どきどきしてるのよ。ほら、いまおたくの理事長さんと話してる人いるでしょ。ヘルメットの兄ちゃんと警備員のおっちゃん。あっちの方から歩いてくるのが見えたと思ったら、トラックがここの歩道のとこまでダダッァと入ってきたのよ」
 エプロンの上から真っ赤なウインドブレーカーをきた女が加美の腕を取り、ぶら下がるように抱きついて言った。もう一週間もこの建設予定地の前で顔を合わせていて世間話をするようになったのに名前は知らない。それどころか建設地に隣接する三軒のマンションの住人でバリケードを作っているが、加美は管理人の顔しか知らなかった。
 赤いウインドブレーカーの女に腕を取られたまま話を聞こうとする人たちの輪に囲まれた。   
 後ろにさがろうと足をひくと背中が当たった。ひとりだけ話の外にいて、携帯電話で話をしていた女がいた。綺麗に染められたボブカットの髪が朝日に当たって金色に光っている。
「ちょっと、おばさん達、おしゃべりしてないで。横一列に並んで車が入れんように、もっとひっついて」
 男はそう一喝すると人の肩や背中を押して回った。男の手元がずれて、加美の胸を鷲づかみにしていった。
 腹が立ったので男を睨み返すと老人だった。縦皺ばかりの顔面と三角に切り取ったみたいな眼孔が暗く沈んでいる。
「昨日まで、みなさん大変ですねって優しい言葉かけてたくせに、工事の車が来たら、おばさん達だって」
 誰かが言う。
「舞い上がってしまってるのよ。他の男の人たちもそうだもん」
 隣にボブカットの女がいて言う。並ぶと加美より頭ひとつ高かった。白のレザーコートの腕が加美の肩に回された。加美は彼女の喉がなめらかに動くのを見上げながら流れてくるコロンの匂いを何度も吸い込んだ。
「あのおじいさん誰ですか。痛いわ。胸掴まれたんですよ」
 少し離れたところで集団になっているほうを加美はあごで指して尋ねた。
「町会長さんよ。ほら、この先のマンション建設のときなんかも仕切ってたのよ。町会と建設会社の協定で四年間の電気代を四万円だか、支払うことに決まったらしいの。詳しいことは知らないんだけど、私たちだって電気代の保障くらいしてもらいたいわよね。なのにここの建設業者はちっとも話し合いに応じないで。困ったもんだわ」
 赤いウインドブレーカーの女が語った。まわりの者は深く頷いたり、言われていたマンションを覗くようなそぶりで賛同した。
 加美のマンションでは工事を阻止するので、毎日立つようにという連絡があっただけだ。何を要求していたのか、どうして立っていたのかということがやっと見えてきた。
 ベージュの作業服を着た若い男がデジタルカメラでこの集合の様子を撮りだした。意地でもここを退かないと喋っていた女が二、三歩進み出てVサインをしている。
 ここでは誰知らずマンションの名で呼び合っていてリーダー的なマンションはエクセルさんと言った。加美のマンションは一番入居者が少なく消極的でもあった。クレセントと呼ばれたり、名乗ったりした。建設地の裏面に当たるマンションは収益とかオーナーズと呼ばれる区分所有者ばかりでエクセルの人たちの呼びかけで遠方から出向いてきている。その人たちはネオさんとなる。
 デジタルカメラの作業員が中央分離帯のある四車線道路の対面に渡ってこちらを写していた。
 作業員が戻ってくるとトラックも警備員も引き上げてしまった。場の緊張が一気に弛緩しスクラムを組まされていた加美たち女性陣は笑い合った。現場監督と町会長たちの一塊はまだ何か話し合っていて、皆が注目する。三十そこそこの現場監督は背が低く小太りだ。あばたの顔にねっとりと油が浮いていて、浅黒い顔色も日焼けしているというより肝臓が悪いのかと思うような不健康な黒さだ。帰り際、加美たちに向かって現場監督が一礼したが、禁じあったように皆がそれを無視をした。
 加美のマンションの理事長がつかつかと歩いてきた。
「今帰っていったのは施工業者の下請けの現場監督ですわ。向こうのいうのはね、ここに立っていたら工事妨害やいうことですわ。これ以上続くようなら法的措置も考えてるいうことを言ってました」
 一斉に抗議の声が上がった。話し合いもしてないのに、無視して工事を始めたのはあっちでしょう。誠意がないわ。わたしたちも役所に訴えましょうなどと、みんな勢いがいい。加美はそこに加われない温度差を感じていた。
 理事長は脇に挟んでいたセカンドバッグを手にもちかえて団扇のように振った。
「まあまあ、ちょっと待って、聞いてくださいよ。開発許可おりてますからね。役所いっても話はきいてくれませんわ。それに、工事の説明会もしましたって向こうはいってるんですわ」
「そうしたら、わたしたちどうしたらいいんですか」Vサインの女が詰め寄った。
「ですから、ね、法律では私たちのしてることが違法らしいです。でもね、おとといもこの三軒のマンションの理事と町会長さんで話し合って要望書を送ることになりましたしね。とにかく、工事が始まってしまったらなしくずしになりますので皆さんにはこれからも毎日立ってもらいたいんです」
 理事長はセカンドバッグを脇に収めると両手でズボンのベルトを持ってせり出したお腹の上までズボンをたくし上げた。体重に不釣合いな小さな靴がみえて、手を離すとまた隠れてしまった。
「そしたら私、これから仕事に行きますんで失礼します。今日は工事の連中来ないと思いますので解散してもらってかまいませんよ」
 そういうと鍵のたくさんついたキーホルダーをポケットから取り出し、目の前の路上に止めてあった黒いベンツに乗って走り去っていった。
 三十人ほどいた人がつぎつぎ帰っていく。まず、出勤仕度の男の人、その妻とおぼしき人たちが申し訳なさそうに挨拶をして帰っていった。次に病院の予約がと言う人が帰らなければならない理由を言って去っていった。
 気がつけば加美とエクセルの活動メンバー数人になってしまった。加美が毎日目にした人たちで、聞けば朝七時から交代で夕方四時まで立っているということだった。
「お宅はクレセントの人でしたね」
 薄茶色の作業着の上下を着た男が尋ねた。この人がいつも住人に説明をしたり指示をしているが、エクセルの理事長は別の人だ。
「はい。昼から仕事にでるので午前中の一時間くらいしか立てなくて、すみません」
 雰囲気に気圧されて、悪いなどと思ってもいなかったのに謝ってしまった。
「それはいいですよ。皆さん仕事がありますし、自分の空いてる時間にここに立ってもらえればいいんですから」
 男は拡声器のショルダーを右肩から左へ掛けかえながら愛想良く言った。床屋からかえってきたようなぴちっとした七三分けで髪全体が脱色したような銀色をしている。実直な会社人間か小さな工務店の社長だろうかと、加美は男のひさしのように突き出した長い眉毛を見て思った。
「お店してるって言ってたよね。何屋さんなの」
 Vサインの女が身を乗り出す。
「居酒屋です。この近くですんでまた寄ってください」
 店は二十八歳のとき親に資金を出してもらって始めた。家は弟が継ぐと決まっていたので、その見返りのようなものだ。
「それにしても今日のは何だったのかしら。金網のフェンスを括ってる針金をペンチで切って門を開けといてトラック持ってきてるけど、荷台は空だったし」
 赤いウインドブレーカーの女が再び話を戻した。さっきは気がつかなかったが、唇が腫れ上がって輪郭がなくなっている。加美の視線を感じたのか、
「毎朝立ってるもんだから冷えちゃって、ここの感覚がないのよ」
 と、言ってエプロンのポケットから小さなケースを取り出し人差し指で掬うとべったりと唇に塗った。
「僕らは妨害なんてしてませんっていえばいいんですよ。トラックが入るなら退きますよって。ただ、毎日ここに集まって話をしてるだけだからって、ここに立つことを禁じる法律なんてありませんよ」
 グレーの耳付き帽を被った四十半ばの男が勢いづいて喋った。この人も一日中監視のためにここに立っているらしい。やはり何を生業にしているのだか見当がつかない。
「娘が勤めてる弁護士事務所の先生がいうには、こういう地元住民と建設業者の揉め事ってよくあるらしいよ。例えばパチンコ店ができるってなると風紀が乱れるからとか」
 ボブカットの女が言った。
 加美は一歩下がって彼女を見返した。
「娘さんって、そんなに大きな子供がいるんですか。うそっ、信じられない」
 加美と同じ三十半ばくらいだと思っていた。
 ボブカットの女が何かいいかけた時、携帯電話の着信メロディーが鳴った。背を向けてできるだけ小声で話そうとしていた。そのせいで何度か同じ言葉をくりかえした。すぐに行きますと話を結ぶと携帯電話を折りたたんだ。
「ごめんなさい。すぐに出かけないといけなくなったの」
 ボブカットの女は赤いウインドブレーカーの女に向かって言った。
「お父さん、何か変わったことあったの」
 事情をよく知っている口ぶりである。
「たいした事じゃないんだけど。病院のヘルパーさんがちょっと来て見てもらいたいことがあるって言うの」
「じゃあ、私たちも帰りましょうか」
 Vサインの女が言ってくれたので、加美はほっとした。
「ほんとに大丈夫かな」
 耳付き帽の男は帰りたくなさそうである。
「もしまた来たらサイレンでお知らせしますのでここは、解散でいいでしょう。一階の酒屋のご主人にも頼んでおきますから」
 作業服の男は自分もこれから管理人室に帰って本来の仕事をするからと言った。
 加美は部屋に戻ってテレビをつけた。掛け布団は下に落ち、一週間分の汚れた服が部屋の片隅に積み上げられている。煙草を一服吸ってから、さて、どうしようかと考えた。もう一度ベッドに戻るか、洗濯を始めるか。誰の監視もない一人暮らしで部屋の整理や掃除の間隔が十日になり半月になっていった。彼氏がいた時はもっと片付けていたと思う。五年の間に、加美の部屋は疲弊した内部となり、恥部になっていた。
 午後には母親のイセのところに行かなければならなかった。二回に分けて洗濯機をまわし、加美自身もシャワーで昨夜の汚れを落とした。
 イセの風呂を介助するようになって二週間、今日で二度目になる。それまでは義妹の和子がひとりで介助していた。二週間前に湯船から上がる時、取っ手を持ち損ねて後ろに倒れて頭を打ったのだった。弟の典男が電話してきて、手伝うように言われた。イセの入浴日は木曜と土、日のどちらかで週二回だ。
 実家を建て替えて三層住宅になった家の前に立った。車庫に和子の使っている赤い軽自動車が止まっており、片側は空いている。加美が高校生の時に亡くなった祖母が植木いじりの好きな人で、小学生のころ夏みかんの苗をいっしょに植えたのが、成人するころには背丈より高い木になっていた。芋虫の好物らしく夏には葉っぱはすべて食べ尽くされ、当たると痛い棘だけが残った。花も実もつけたことはない。他に南天の木や枇杷の木もあった。弟の結婚が決まると全部取り去って敷地いっぱいに家を建てたのだった。
 イセには好きな刺身、義妹にはケーキを買って来た。門を開けると三段ほどの急なステップがあり玄関の扉に続く。階段の両脇に赤やピンクのベコニアが植木鉢で置かれている。チャイムで出てきた義妹がドアを開けるとお香の香りが顔にかかった。下駄箱の上の香炉から細い煙が立ち登っている。三和土は水拭きしたように清められてあった。
 挨拶もそこそこにイセを風呂場に連れて行くことにした。百五十五センチで六十五キロの体はベッドから立つと不安定に揺れた。リュウマチと思われた手足の強張りが、最近になって左手がほとんど動かなくなった。イセは医者嫌いだった。ここ数年健康食品や高額な代替療法を探してきては効果のあがらないの繰り返しで、かかりつけの病院はない。
 風呂場には介護用の足の長い椅子と湯船には吸盤のついた椅子が沈められていた。六十九歳の体にしては艶もはりもある。ただ、部屋にこもりがちのせいでふくらはぎや太股の肉は落ちている。加美も義妹もスゥエットに着替えていたが、シャワーのしぶきや泡がかかって下着までじっとりと濡れてしまった。
「お母さん一度頭の検査受けた方がいいよ」
 気づかれしたのか、赤みのさした顔をしてぐったりとベッドに腰掛けるイセに言った。
「お義母さん、私もそれがいいと思いますよ」
 義妹も追うように言った。
「あんたたちはそう言うけど、病院に入ってしまったら出てこれなくなるわ。薬漬けにされて殺されてしまうわよ」
 途端に険のある顔になった。
「違うって。入院しろって言うんじゃなくて、MRIって言って脳の断面写真を撮ったりするのよ。今はどうもなくてもこの前打った所になんかあったら大変でしょ。どうもないって確認をとる意味でも見てもらったほうが安心じゃないの」
 加美が力を込めて説得しているのに、イセは部屋の中を落ち着きなく見回し、頭がボーっとすると言って耳をを貸そうとしない。挙句に、あんた忙しいんでしょ、もう帰ってくれていいよと言い出す始末だった。
 病院へ行くという義妹と一緒に家を出た。
「うちの人にも病院にいくように言ってもらいますわ。お義母さんもうちの人の言うことは聞きますから」 
「ほんとごめんね。わたしとお母さんって昔から口喧嘩ばっかりしてるの。どっちも退かないでしょ。あの子はお母さんに優しいからね。わたしからもお願いしますって伝えておいてください」
 同居を承知で弟と結婚して四年になる。子供が欲しいからと仕事も止めて専業主婦になったが、二度切迫流産をし、今は本格的に不妊治療を受けている。三十になる前にどうしてもひとりは産んでおきたいのだそうだ。
 その夜、弟から電話がかかってきた。
「姉ちゃん、どうなってんの。会社に電話かかってきて、おふくろがごちゃごちゃ言ってきたんだけど。入院しろって言ったんだって」
 加美は壁掛け時計に目を走らせた。
「あんたまだ仕事してるの」
「いやもう帰るけど。和子は家にいないし、詳しいことが分からなかったから」
 イセと揉めたのだろうか。
「いないって、まだ病院から帰ってないの」
「違う。いや、産婦人科の病院が和子の実家の近くにあるから診察の日は泊まっていくようになってるんだ」
 そういえば出かけるときにおかずが作ってあったなと思った。
「入院なんて言ってないって。検査、検査してもらったらって言ったのよ」
 そういうことか、だったら僕からも言っとくよと、弟は電話を切った。

 いつものように建設現場の前で集まって立っていると加美のマンションの管理人が慌ててやって来た。今ポストにこんなものが入っていたと言って、A四版の封筒から分厚い書類を引き出した。一枚目に審尋通知と書かれた文字と裁判所の署名のある紙が添付されている。封筒の宛名は管理人のおばさんになっていたが、呼び出しを受けている人は十五人で、添付用紙には全員のフルネームが書かれてあった。
 法的措置云々をいったのが先週の木曜日だったから、今日が火曜日でまだ一週間もたっていない。
 紙が手から手に回っていった。名前のあった住人は自分のポストを確認しに走って帰っていき、その場は騒然となった。皆、同じ封筒をもって戻ってきたが、書類に目を落としゆっくりと歩いてなかなか戻ってこない。
 ファイルの中ほどには、カラーコピーの写真が何枚も載っていた。この前の時のものだ。各写真に住民の氏名が注釈で書き込まれており、名前の判らなかった住民は、住民A、住民Bという名称を付けられていた。加美も何枚かの写真に写っていたが、すべて住民Cとなっていた。
「これって、訴えられるってことですか」
 管理人のおばさんに尋ねた。
「もう訴えられたのよ。工事妨害の差し止め仮申請ってあるでしょ。向こうは弁護士立てて、こんな写真撮ったのよ。ここには、こちらの話を訊くので来週の水曜日に裁判所に来るようにってかいてあるもの」
 正直なところ、加美の名前がなかったことにほっとしていた。呼び出されていたらその日の店の営業に障っていただろう。けれど、同じことをしていて、名前の判明した人だけが訴えられるのは間違っていると思うし、逃げのびた身としては後暗くもある。
「でも、どうして名前が判ったんですか」
 加美は誰にとはなしに問いかけた。
 小石が頭に当たったように皆がきょろきょろと答えの帰ってくる方向を探した。
 すると、エクセルの管理人が、
「そりゃ、うちですわ。この間、現場監督の兄ちゃんがうちに来ましてね、この写真を持って、この人は誰ですかって言って、控えて帰ったんですわ。うちはてっきり説明会の事だと思ってね。あと、掲示板に工事の反対についての経過報告を逐次張り出してますから、何号室のだれそれまで調べられたんだとおもいます」
 そう言われれば、実際呼び出されているのはエクセルの住人ばかりだ。クレセントもネオも管理人と理事長のふたりずつである。その名前もエクセルの掲示板に載っていたせいだろう。
「理事長さんがね。立つのはやめようって言ってるのよ」
 管理人のおばさんが声を低くして言った。
「工事の車が来たら中に入らせる訳でしょ。それだったら、立ってる意味がないもの。それよりも法律の専門の人に相談して、こっちも弁護士をたてて反論するしかないって言ってるの。今日の書類持って相談に行ってくれるって」
 派閥ではないが加美は自分のマンションの意向に従わねばならないと思った。ネオマンションも毎日立つことを無意味と考えているらしい。唯一エクセルの積極的メンバーはあくまで、立つと言い張っている。総意が微妙に崩れていく感がぬぐえない。加美の中で寂寥感が広がっていった。時間帯もあるのだが、加美が親しく話をする人はエクセルの人ばかりだった。最後まで彼らと行動をともにしていたかった。彼らと連帯しているときに感じるノスタルジックな気持が好きだったのだ。
 管理人のおばさんが昼食の支度に帰っていっても、加美はぐずぐずとして居残った。
「わたしのマンションは、もう立たないって言ってます」
 エクセルの彼らだけになったところで、加美は訴えた。
「ぼくらは立ちますよ。もちろん弁護士にも相談するけど、立たないってことは工事を認めたことになるから」
 冷めた口調で耳付き帽の男が言った。おまえは関係ないんだと言われているみたいに感じた。
「でも、わたしはいっしょに立ちたいです。いままでいっしょにやってきたんだし」
 駄々をこねる子供のように感情が言葉に出た。
「そうだよね。ここでバラバラになったら力も弱まるし、せっかく仲良くなれたのにね」
 加美の気持を汲みとって言ってくれた。ついさっきの写真でボブカットの女は宗田睦美と言うことが判った。
 宗田睦美は父親を病院施設のある養護老人ホームに入院させていて、この前もヘルパーさんにコップを投げたことで呼び出されたらしい。
「手におえないから引き取ってくれっていうのよ。いま病院あたってるんだけど、あとは拘束帯をつけてベッドに縛りつけるような病院しかないわよ」
 携帯電話を叩く真似をした。
「大変ですね」
 加美にも他人事ではない。
「それはそうと、病院には問い合わせてみた」
 宗田睦美から脳外科のある病院を教えてもらっていたのだ。
「ええ。でも、初診は予約が出来ないって言うんです。で、あさって受付けの始まる前に行こうと思ってるんです」
 あさってにしたのは加美の定休日だからだ。義妹とふたりで連れて行くことになっている。
「そう。頭のことだから検査、絶対してたほうがいいよ。うちもいい病院探さないと、また、家で面倒みることになったら、間違いなく家庭崩壊だわ」
 冗談で言ってるのだろうと宗田睦美の顔をみて、加美は慌てて笑った顔を消した。

 家を出たのは朝の六時すぎだった。通勤のラッシュ前の車内はそれでもシートは埋まり立っている人もかなり多くいた。出掛けに食べたみかんが裏返りそうな胃の中で上下している。きっと胃が動いていないのだろう。吐いてしまえば楽になるのだが、駅に停まるまでどうしようもない。寝不足のときはいつもこうなるのだ。
 弟が赤い軽自動車に乗り込もうとしていた。
「おはよう。もう会社にいくの」
 運転席で下を向いてごそごそしている弟に話し掛けた。
「うわ、びっくりした。もう来てくれたの。今日はお母さんよろしく頼みます。それと、車、大きい方がいいだろうから僕の置いていくからね」
 隣に停めてある四輪駆動車を目で指した。
「和ちゃん、こんな大きいの運転できるの」
 加美の身長よりはるかに高い車を見て言った。
「お義姉さんおはようございます」
 後ろから急に声をかけられた。何となく決まりの悪い雰囲気に言葉が詰まった。
「わたしも時々運転してますから大丈夫ですよ」
 義妹は安心してくださいと笑って、その空気を掻き消してくれた。
 やっとシートのレバーの場所が見つかったらしく、ずんっと一番うしろまでスライドさせた。ハンドルとの間にいくらか隙間ができたが、長身の弟が手足を伸ばせるまでにはいかなかった。
 母親は身支度を済ませてベッドに座っていた。
 入れ歯を嵌めているせいで口のあたりの皮膚が張って、いつもより若やいで見える。弟にまで説得されたので逃げ場がなくなったすえのしぶしぶの了承だった。
「はぁ、こうなったらどうにでもなれだわ。もう、わたし疲れたわ」
 弟の前だといい格好したがるのに、加美に対しては恨みがましい言葉になってくる。
 イセを四輪駆動車の後部座席に乗せるのに思いがけず手間取った。車高が高いので後ろから押しても体が持ち上がらず、加美がシートに乗り込み後ろから両脇に腕を通して引き込み、義妹が足を持ち上げて抱えあげるようにして乗せた。
 車が走り出すと、イセはまぶしそうに目をしばつかせ、
「しばらく出ないうちにえらい変わったんだねえ。こんなところにマンションが建ってるし」
 細く開けた窓から吹き込む風をおいしそうに吸い込んでいた。
 病院の前に車を停め、乗せたときと逆の手順でイセを降ろした。時間は受付け開始の八時十五分を少し回ったところだった。入ってすぐにキャッシュディスペンサー機のような機械が置かれ、ボタンを押すとガイダンスが流れる仕組みになっていた。イセを義妹にみてもらって説明を聞いていると、横から物慣れたおじいさんが診察券を機械に入れて整理券を抜き出していった。そのあとでよく見ると、初診の方は直接受付けにおいでくださいという貼紙がしてあった。
 三十分ほどすると、マイクでイセの名が呼ばれ、第三診察室の待合へ行くよう指示があった。やっと順番がきたと喜んで行ってみると、そこにも大勢の人が待っていた。そこでさらに三十分またされると、カルテをもった看護婦がイセの名前を呼んだ。加美が代理で返事をすると、血圧、採血、検尿をしますからと突当たりのカーテンを指し、そこに行くように言った。
 そんな感じで、三十分おきにCTを撮り、X線を撮り、MRIを撮りに病院の一階と二階を往復した。それらが終わると最初の第三診察室の前で待つように指示され、さらに恐ろしいほど長い時間待たされた。どこも悪くない加美でさえ具合が悪くなりそうだった。イセは長椅子で隣になった女性となにか話をしていた。
 時折、車の様子を見に行っていた義妹が小走りにやって来て、
「いま駐禁がきてるので、車動かしてきます」
 それだけ言うと、くるっと踵をかえして走っていった。
 道幅の広い道路で、しかも交通量も少ないところを取り締まるとは。朝、車を停めたとき、ここなら大丈夫だと思った加美の予想はみごとにはずれた。
 間の悪いことにその時、看護婦が診察室に入るように呼び上げた数人の中にイセの名前があった。長い間座っていたので立ち上がるのでさえ時間がかかった。数メートル先にある入り口になかなか辿りつけない。廊下にいる人たちの視線の中、摺り足で歩いて行く。緊張のせいかイセの左手が痙攣をしたように震え出した。哀れむような声が聞こえてくる。看護婦は苛立ちを露に何度もイセの名を呼びつづけている。加美が替わって何回も返事をしているのに、こちらを見ようとしない。
 中の待合をみて唖然とした。丸椅子が申し訳のように二つ置かれ、あとの十人ほどは立ったままだ。母親は顔を紅潮させ肩で息をしている。丸椅子の人が席を替わろうと立ってくれたが、それを断った。待合の一角に小机が置かれ、年配の看護婦がカルテをチェックして処方箋を書いていた。待合の半数がそれを待つ人だ。
すぐに診察の方に呼ばれた。医者は五十前後の色白の男だった。イセを見るなり看護婦に車椅子を持ってくるよう指示し、ひとまず自分の前の丸椅子に座るよう言った。じっとイセの体を観察し、無言のままライトボックスにレントゲン写真を嵌めていった。
「ああ、やっぱりそうだろうな」
 医者のひとり言のような言葉は加美に理解できなかった。
 はっ、と聞き返すと、
「脳梗塞です」
 と、短く言った。レントゲンとイセの状態が符合していたことでの、やっぱりそうだろうという事なのだ。
 医者はイセにこれまでの経緯を訊きだした。こんな状態まで放置していたことに怒っているのは言葉の端々で分かった。加美は不安定なイセの背中を手で庇うように立っていたが、目を閉じたまま質問でまくし立てる医者にイセは自己診断を交えた回顧談を始めだした。医者は目を開けて、いつですか、と、きつい口調で遮る。喧嘩の仲裁に入った気分で加美は代わりに答えるようにした。
「これね、ここの首に通っている血管ありますね。太い四本の血管が通ってるんですが、あなたのは、これ、全部細くなってます。それから、血栓の跡もいくつかみられます」
 何も言わせないぞという顔つきでイセを見据えた。
「ベッドが空いてたら今日入院してもらいますからね」
 医者は向きを変えて、カルテに書き込みながら言った。
 後ろに立っていた加美にはイセの背中が固まったように見えた。医者のいうには、この状態だといつ寝たきりになるような発作が来ないとも限らないのだと。医者の真っ黒な髪には油性の整髪料の光沢と櫛目の筋がくっきり引かれている。切れ長の目に固太りの体は白衣を替えれば、料理学校の教授といっても通りそうだ。プライドが高そうで気難しい近寄りがたい印象だ。
 診断に要した時間は十分あまりだった。血管を広げる点滴治療を二週間すると手渡された紙に書いてある。イセは医者にも加美にも入院はいやだとは言わない。おそらく、自分の頭が時限爆弾だと医者に脅かされたせいだ。
 車椅子に乗せられて診察室から出たイセは、またも衆目の的となった。
「えらいことになってしまったわ」
 イセは病院に来たのが元凶だといわんばかりに悔やみ事を言った。
 先刻、イセと話をしていた女性が近づいてきた。彼女は脳梗塞で入院し、予後の観察のため通院していることが判った。入院と聞いて、いい先生だから安心して入院できると励ましてくれた。
 義妹はこのまま入院になったと聞くと、パジャマや身の回りのものを取りに家に帰った。
 病室は六床の部屋だったが、ベッドは四台しかなく、イセは入り口の右側をあてがわれた。改装間もないだけあって病室もきれいだ。窓側のベッドがなく空いているし、夕方になっても陽が十分に射し込んでいて病院独特の湿った空気が感じられない。
「良い病院じゃない。リュウマチとばかり思ってたのも、原因がはっきりしたし。良かったね。ここで治療してもらって、また、散歩にでも出られるようになるよ」
 加美は服のままベッドに横になったイセに向けて言った。
 六時ちょうどに夕食の膳がイセのところにも来た。食欲がないといっていたが、残すのが勿体無いと言って全部平らげた。

 昨日より気温が一気に五度も下がる寒い朝だった。病院の報告をしようと、宗田睦美を待って早くから工事現場の前で立っていたが、耳付き帽の男とエクセルの管理人の二人だけだ。召喚状を受け取った人の中には賠償金を請求されるのではと怯える者もいて、俄か作りの結束は緩くほどけ始めていた。
「あなたは来週の審尋会に呼ばれてますか」
 地方出身のなまりで管理人が尋ねた。このなまりに聞き覚えがあるのだが、どこのものだか特定できなかった。
「この人は違うよ。住民で呼ばれてるのはエクセルだけだからさ。でも、時間の取れる人は裁判所の前まで来てもらったらいいのとちがいます」
 耳付き帽の男が加美の言葉を奪って管理人に話した。ちょっと前に、兄弟が内装関係の仕事をしていて要請に応じて無償で手伝いを引き受けているのだと誰かに話しているのを聞いた。それ以外は仕事をしていない。リストラのせいか、病気なのかは分からない。話の断片では、独り身であるらしい。朝の五時から洗濯してきたと自室のベランダを指差したとき、加美も一緒にそちらを見上げたことがあった。毎日洗濯をするのですかと聞いたら、すると言っていた。食事も三度とも自炊をしてるのだそうだ。
 常連のひとりになった加美に打ち解けたところを見せてくれるようになったのだが、ふと気づくとじっと見られていることがあった。
 しばらくするとエクセルの人ばかり二人、三人と出てきた。宗田睦美もその中にいた。寒い寒いと言いながら加美の脇に腕を差し込んできた。ミントの匂いがした。
「病院どうだった」
 軽く訊いてきた。
「入院したの」
 宗田睦美はガムを口の端によけるようにして唾を呑み込んだ。
「なんの病気だったの」
 神妙な顔つきで聞き返した。
「脳梗塞。でも、点滴の治療だけなんだけど、診察受けたら、即入院っていわれて。ちょっと大変だった」
 イセの顔が浮かぶ。病室をでるときも、目蓋を閉じたまま生返事で答えるだけだった。帰りの車の中で、どうしてそんなに病院がいやなのだろうねと義妹と首を捻ったことも思い出された。
「どうして母は病院が嫌いなのかしら」
 加美は宗田睦美に答えを求めた。
「さあ、うちの父は神経質で頑固だったから薬の副作用のことはうるさかったけど、基本的には病院で診てもらってたわね。あなたのお母さんも副作用でなにかあったんじゃないの」
 リュウマチの治療のときステロイドが合わないと言っていた。加美も薬の知識はまるでないが、ステロイドとかは投与する量に厳密さがいるものではなかったか。イセはやはり勝手に薬を飲まなくなったに違いない。
「医者が信頼できないで薬を飲まないのなら医者にかかるべきじゃないって、父に言ったことがあるの」
 宗田睦美の目に父親との葛藤の日が映ったように見えた。
「それでお父さんは何て言ったの」
「何も。黙ったままだったわ。代替医療や副作用のない薬を探すこともしないで家族に苦痛を言ってたわけでしょ。父は理論的な人だったから、痛みで自分を見失っていたって気づいたのかもしれないわ。それからは、積極的に調べたりしたから」
 宗田睦美の父親はアルツハイマーだと聞いていた。何か他の病気もあったのだろうか。加美はその病名を聞けずに躊躇していた。
「ボケだしたのは八十になったころからよ。始めは胃癌でしょ、糖尿がでて、目が悪くなって。年を取ってくると全身にがたがくるのね」
 なるほどと思った。イセも病名をあげるとリュウマチ、慢性中耳炎、虫歯、狭心症と限りがない。
「自分の体を守ってやれるのは、自分自身しかいないのよ。体なんて、当てにならない友達みたいに思っておかないと」
 また、なるほどと思った。加美は辛抱のできないたちで、体の具合が悪いと何を置いても寝て治そうとする。宗田睦美に言わせれば、正に正しいのだ。
「あっ、ということは来週のお休みの日は、実家に帰らなくてもいいのかな。木曜日だけど」
 いいことを思いついたという顔つきで宗田睦美が尋ねた。
「見舞いにいくつもりしてるけど、どうして」
 場合によっては中止してもいいというニュアンスで言った。水曜日はみんなが裁判所にいくことになっているから、そのときの話しあいがあるのだろうか。
「うちのマンションの二階に外語学園の講師の寮があるの。ときどき、親睦会みたいなパーティをしてるんだけど、楽しいのよ」
 そういえば洗濯物を干している外人の姿を下から見たことがあった。宗田睦美が親しそうに手を振っていたが、彼のことだろうか。
「わたし、習っているの。同じマンションのよしみで、彼らの休みの日に部屋にきてもらってね。三人いるのよ。みんな二十二、三の若い子ばかりで、教えるのも上手いの」
 英会話を習うのは加美の長年の夢であった。そんな方法があるのなら、加美もやってみたいと思った。
「いいなあ。わたしも習いたいな」
 そうなの、と、宗田睦美はあっさり請合ってくれた。
「じゃあ、その時頼んであげる。一時間千円だけど、大抵おまけしてくれるわよ」
「でも、わたしの家に来てもらうのは……」
「娘は寮のほうに行ってるわよ。どちらにしろ二人きりになるんだけどね。それが嫌だったら、教室に習いに行かなくちゃならないんだけど」
 加美が自宅を嫌がったのは、人を招くためには相当な掃除をしなければならないからという理由だ。寮にいける手があるのなら問題はない。
「いいえ、そんなんじゃないから。わたしも寮に行って教われるならありがたいです」
 宗田睦美はにやりとした。
「誰かと住んでるのね」
「え……、それはない。ほんとに。すごく汚いんです、わたしの部屋。掃除するの引越しするくらい大変なんです」
 そう言っても、にやにや笑ってからかうのだった。
「どういう人たちなんですか。教えてくださいよ」
 ベランダのときに見たのはひとりだった。カールした黒髪の左程背も高くない男だった。ラテン系というか南米の国を取材するテレビなんかでレストランでギターを弾いていそうなタイプである。宗田睦美にそれを言うと、
「その人はエディ。あと、カインっていって画家志望の子と、リーランドは法律家になる勉強をしてるの。三人ともアメリカの大学生で一年から二年で帰っちゃうの。交換留学生みたいなものかな」
 その話だけで加美の世界が広がったような気がした。
「もしかして、布教活動をされるのですか」
 教会に併設されていると聞き、気になった。
「生徒にはしないけど、親しくなってきたら日曜の礼拝にきませんかくらいはいうわね。断っても大丈夫よ。彼らは気にしないから。わたしも行ったことないし」
 それを聞いて安心した。
 お昼を食べに帰りますと、耳付き帽の男が声をかけた。十二時前だった。

 紙袋を両手にイセのいる病室に入った。イセは居ず、ベッドは空だった。紙袋をパイプ椅子に置いて、しばし間の抜けたように立っていると、向かいのカーテンがさわさわと動いた。頭にターバンのように白い布を巻いた六十代の女が体をベッドで支えながら摺り足でこちらに向かって歩いてくる。片手にアルミの急須を持っていて、病室をでて行こうとしているようだ。
「こんにちは」
 イセの所在を教えてくれないだろうかと挨拶した。
 彼女の唇が検査と言っているふうに動いた。加美は彼女の後ろを見送るように体の向きをかえて会釈した。そのあとに、お茶なら代わりに給湯室にいってあげれば良かったと後悔した。
 待っている間に紙袋の中身を解くことにした。入院のしおりに書いてあるものを買って来たのだ。義妹のアドバイスで入院に使ったものは退院のとき捨てるとよいということで、ほとんど百均ショップで揃えた。お風呂の洗面器、タオル、シャンプーにリンス、箸に箸箱、湯呑み茶碗、ウエットティッシュ、歯磨き粉に歯ブラシにいたるまで売っていた。加美は日用雑貨の森の中で時間を忘れそうになった。パジャマと下着はイセに合うものがなかったので百貨店で買ったが、百均ショップにも売っていた。
 看護婦に付き添われ車椅子でイセが戻ってきた。
「忙しいのにごめんね。狭心症の病気があるって言ったら心臓のほうの検査をされたのよ」
 看護婦が車椅子を押して出て行くと、すぐに話し始めた。横になるように言ったが、座っている方がいいと言ってベッドから足を垂らしている。床に着くか着かないかの高さで安定が悪そうだった。
「そこ、踏み台があったほうがいい」
 イセのつま先を見ながら言った。
「これでいいのよ。立ち上がるときここの手すりを持って、こう体をずらしていくとすぐに立てるから」
 イセは実際に立ってみせようとしたが、もうわかったからと止めた。
「何か困ったことない」
 身の回りのものは足りているのかという意味で尋ねた。
「便がでないのよ。下剤買ってきて欲しいわ」
 家にいる調子で頼んできた。
「お母さん、ここ病院よ。看護婦さんに言わないと駄目じゃないの」
 呆れていう。
「だって気使うんだもの。夜のトイレだって、ひとりで行って転んだらどうしようって思うと行けないのよ。それで我慢して我慢してボタン押すの」
 何故辛抱するのかと思う。
「それで今夜から夜だけオマル置いてもらうことになったのよ」
 イセはほっとしたように言った。
 向かいの女の人が帰ってきた。床を這うような速度で慎重に歩いている。
 彼女の口がまた動いた。
「ええ、今帰ったとこです。どうも」
 えへへ、とイセは笑った。言葉が通じていることに加美は驚いていた。
 彼女がカーテンに隠れてしまうとイセはまた喋り出した。
「今の人は脳腫瘍の手術されたのよ。後遺症で声が出なくなったんだって」
 えっと声を漏らしてしまった。平然とイセは話し続ける。
「隣には若い奥さんがいて、鼻を手術したのよ。あの子に食事のお茶のことや食器を返してきてもらったりよくしてもらってるの。後でよくお礼いっといてね。斜め前の奥さんも脳腫瘍で手術したし」
 メスを入れないのはイセだけだった。ここではリハビリも受けられることになっており入院して正解だったと思った。
「もうそろそろ帰るけど持ってきたものここのキャビネットに入れてあるよ。パジャマも洗い替えのを買っておいたし、ほかにいる物あったらいっておいて、和ちゃんか典男に言っておくから」
 加美もあたりを見回して抜け落ちているものはないか確認した。
「典男は来るのかな」
 昨日は顔を見せていない。
「さあ、何も聞いてないけど、携帯に電話してあげようか」
 そう言って加美は自分の携帯に電源が入っているのに気づいた。そんなにかかってこない電話だが慌てて電源を切った。
「別にかけなくていいから。あしたは和ちゃんが来てくれるんよね。そしたら、わたしの手帳持ってくるように言っといて」
 赤い小さな電話帳のことだろう。
「誰か連絡して欲しい人いるの。山本のおばちゃんには一応電話したよ」
 イセのいとこで一番懇意にしている親戚だ。
「いや別にないけど、あんたたちの携帯の番号も載ってるし持ってきておいて。それと、テレビのカードと電話のカード買ってきてほしいわ」
 ベッド脇のテレビはプリペイド式のものでコインと違って観ている時間だけ料金がかかるようになっている。その自動販売機は病室横の公衆電話のところにある。加美はすぐ出て、一枚づつ買った。
「それとリハビリするときの靴がいるのよ。購買に上履きが売ってるらしいからまた買っといて」
 イセは時計をみて早く店に行けと言った。百均で買った置時計が三時を指していた。加美は同室の人に帰りの挨拶をしてまわってから病室を出た。
 病院の玄関を出るとすぐ、携帯の電源を入れ直して弟に電話をした。電話は留守番サービスに切り替り、会社名を名乗った弟の名前が彼の声で流れた。大学を出てからずっと同じ食品の貿易商社に勤めており、去年係長に昇進した。今は中国の食材を仕入れる部署にいて、度々中国に出張している。
 しばらくすると弟からかかってきた。折り目正しい話し方をするので、加美は返事を詰まらせてしまった。職場からかけているせいもあるだろうが、たまに家の電話でも営業的な口調になっていることもある。今夜病院に行けるのかと訊くと、
「いやちょっと無理なんだ。土、日も出勤しなくちゃならないし」
 年末を控えて、やはり食べ物関係は忙しいのだろうか。会社の業績は悪くないと聞いていたし、忙しいというのは喜ばしいことだが。
「ああそう。そしたらお母さんには言っとくわ。あ、和ちゃんから言ってくれるか。病院は交代で行くことにしたから。仕事中にごめんね」
 長くなっては迷惑だろうと電話を切ろうとすると、
「おふくろどうだった。見舞いにいってくれたんだろ」
「元気だったよ。同じ病室の人たちに親切にしてもらってるみたいだし。典男は来てくれるのかって言ってたから電話したんだけど、分かるでしょ。息子離れできてない人だから」
 弟はそれには答えず、
「実は業務の統廃合の話が出ててさ、僕もどうなるかまだ決まってないんだ。とにかく、リストラとかいうんじゃないけど」
 忙しいのが嘘でないと言いたいのだろう。
「気にしたんならごめん。まあ、仕事のほう頑張って」
 またしても、いやみっぽく言ってしまった。仕事を優先して当たり前だという弟の考えに不満があるのだ。加美は仕事中でもイセの電話で煩わされている。いや、もっと単純にひがみなのかも知れないと思った。

 木曜日は早くから人が集まっていた。昨日の報告をするためだろうか、それぞれのマンションの理事長と町会長が真剣な顔つきで話し合っている。
 裁判所に行った人たちも全員出てきていた。
「宗田さん、昨日どうでした」
 加美は宗田睦美に駆け寄った。振り向いて笑顔をみせたが、いつもの明るさはなかった。
「あんまりいい話じゃなかったの。向こうは弁護士と会社の人間がひとりきてただけで、裁判所の人が質問するんだけど、こっちの言い分は聞いてくれないの。質問にだけ答えさせる訳」
 昨日の審尋が理不尽だと言った。結局、このままここで立っていたら昨日呼び出された人たちは業務妨害に問われることになるのだそうだ。
「今度は損害賠償を請求されるんだって。おかしいと思わない、迷惑をかけてる方が正しいだなんて」
 宗田睦美は工事業者の名前が書かれたプレートを睨みつけた。その時、エクセルの管理人が集まるように声をかけた。理事長たちが立っているところに円陣を組むように寄っていくと、加美のマンションの理事長が話し始めた。
「みなさんご苦労様。それから昨日裁判所に行かれた皆さんご苦労様でした。すでに行かれた方はご存知でしょうが、このままここに立っていては駄目だといわれました。建設会社の方は正当な手続きをふんで工事を始めようとしているので、止めさせているこっちの方が違法である。立たないように言われました。ちょっと、この紙、みんなに回してください」
 回答書と書かれたプリントが手渡された。この前にだした要望書の返事のようだ。
「これはうちのマンションが出した要望書の回答ですが、ほとんどの要望が拒否されてきました。つまり、工事でどこかが壊れたとか傷つけたとかいう以外は保障する義務はないといってきてるんです。ビル管理会社の顧問弁護士とも相談しましたが、弁護士もですね、住民が勝手に交渉したり、慰謝料を請求するようなことをされたら、即降りるということでした。これからのことですが、マンションごとに提訴するのか、いっしょにやるのかということになりますが、今夜理事会を開いて煮詰めていこうと思っています」
 協定を求めて立っていたことが、業務妨害にしかならなかったのだ。理事長はこれで解散して欲しいと言った。一番最初に町会長が自転車で帰っていった。加美はクレセントの人に手招きされてマンションの前に呼ばれた。
「さっきも他のマンションの理事長さんたちと話し合ったんですけど、クレセントとしては今日から立たないことになりました。ネオさんも立ちませんが、エクセルさんはしばらく続けられるそうです。マンションによって影響の大小がありますから交渉も別でやることになると思います」
 全体に向けて言ったこととずい分違うことを言っていると思った。町会長の態度の変わりようにも失望した。
 工事現場に戻ってみるとエクセルの人たちだけが残って話していた。加美は宗田睦美の隣に寄り添って黙って話を聞いた。裁判所のことを話しているようだ。
「僕らが全員行ったら裁判所は驚いてたよ。みんなが来るとは思わなかったって。普通は会議室でするんだけど椅子が足らないから裁判室でやったんだ。僕らは傍聴席に座って、向こうの弁護士は中に入って、ほんとの裁判みたいに」
 へえっと言って声に出したのは加美とあと一人だけだ。残り全員がその場にいた人たちで、代わる代わる初めての体験の感想を言い合った。
 加美は昨日、出陣式のように見送ったときのことを思い出してにやけた。女の人はきれいに化粧をして参観日のようなよそ行きの服を来ていたし、男の人もスーツにネクタイを締めてどこか気恥ずかしそうだった。皆さん今日は見違えますねと加美がおだてると赤くなったり嬉しそうに笑っていた。
「わたしたちが話そうとしたら裁判所の人が止めるのよ。何のために行ったのか分からないわ」
 そう言ったのはVサインの女だ。昨日は化粧をして、髪の毛もムースで整えていたので、十歳くらい若くみえた。
 宗田睦美が合図をした。
「そろそろお昼だから帰りましょうか」
 加美の背中を軽く押して歩き出した。
「どこに行くんですか」
 黙って歩く宗田睦美に聞いた。
「うちでお昼食べていって。パーティのまえに紹介しとこうと思ってカインも誘ったの。わたしも娘もリーランドに習ってるんだけど、木曜日はカインしか休みがないの」
 加美は立ち止まった。
「どうしたの」
 いぶかしげに加美の顔をのぞきこんだ。
「こんな格好だから。頭もぼさぼさだし。一回帰ってもいいですか」
 心の準備もいるのだ。
「前から言っとくんだったね。でも、ちっともおかしくないよ。かわいい、きれい、だいじょうぶ」
 宗田睦美はぐいぐい背中を押してきた。
 初めて人の家に入るとき玄関のところで必ずその家の匂いを嗅ぐことになる。宗田睦美の家はフローラル系の芳香剤の香りがした。その影に壁や家具に染み付いた樟脳のような匂いと、水回りの湿気た匂い、それに食べ物の匂いが渾然となって生活を感じさせた。置物がやたらと多いなと思った。それも動物や人形の陶製のものでそれを載せているテーブルやスタンドの数も半端な数ではなかった。
「ごちゃごちゃしてるでしょ。昔の商売道具なの。父が病気になるまえまでインテリア雑貨の店をしてたもんだから」
 敷物やタペストリーもパッチワークのように床や壁に敷いたり取り付けられていた。よく町屋を改装したギャラリーのような喫茶店をみかけるがこの部屋もそんな感じだ。
「そこに座って。すぐ準備するからね」
 ブルーのカッターブラウスの袖をアームバンドで止めながらキッチンに入っていった。ここのキッチンは独立していてダイニングの隣にある。バス、トイレ、キッチンが同じ側に並び洋室が二部屋とダイニング、一番奥がリビングと襖で仕切った和室になっていた。
「キッチンが個室みたいになっているのっていいですね」
 見えない宗田睦美に向かって言った。
「そうなの。キッチンが気に入って買ったんだけど、これは良かったと思う。料理作って散らかってても見えないから後でゆっくり片付けられるしね」
 シャーシャーとフライパンで何かを炒める音にのって宗田睦美の声がかえってきた。
 ドアチャイムが引き伸ばすように一回鳴った。加美は居ずまいをただすように椅子の上で二、三度体を左右に動かし様子を窺った。
 キッチンでフライパンの音が止み、宗田睦美が小走りで玄関へ行った。
 頭を下げるように長身の男がついて来た。宗田睦美が伸び上がるようにして男の耳元で囁くと、男は片手をジーンズのお尻のポケットにいれたまま、にっこりと笑ってハーイっと言った。
 加美は椅子に座ったまま、同じようにハーイと言ったが、その時、右手を胸のところに挙げて掌を相手に向けていた。しまった。これではインディアンの酋長みたいだと思ったが、すっかり舞い上がっていて手をどこに持っていけばいいのか分からなくなった。
 料理が並び、改めて紹介しあった。男は加美をすぐにカミと呼び捨てにし、何か話す前にカミを頭につけて言った。簡単な英会話なのだろうが、加美は何度も宗田睦美に通訳をお願いした。
 カインは不器用な箸使いで料理を食べていた。手首が固まって扇子を持って踊りをしているような食べ方だ。口に運んでいる途中で落とすと、白い歯をみせて照れ笑いをした。瞳は青みがかったグレーなのに髪の毛は真っ黒だった。正面の顔幅は、小顔の宗田睦美と変わらなかったが頭幅はその倍はあった。頬の真中あたりまで髭剃り後があり影を作っている。
 細く長い指で口の端を拭い料理のお礼を言うと、ソウ、と言って加美を見つめた。
「レッスンの予約を決めましょうかって、カインが訊いてるよ」
 宗田睦美が加美の肩を揺すった。
「宗田さん、言ってよ」
 加美は手を合わせた。
「練習だと思って。単語並べて言えばいいのよ。わたしだって最初は何言われてもイエスしか言えなかったのよ」
 結局、宗田睦美に代わって言ってもらい毎週木曜日の午後三時に決まった。
 カインと一緒に宗田睦美の家を出た。エレベーターの扉が閉まるとカインの体臭が濃くなるのが分かった。メンソールとスモークハムが入り混じったような匂いだ。それが体温で暖められることによって匂いに角がとれ臭くはなかった。カインが腕を動かすと発散される。加美はマタタビに目を閉じる猫のように匂いをきいていた。
 二階でエレベーターが停止するとカインは降りていった。降りるとき、夜のパーティーにくるようにみたいなことを言ったと思う。イエスと加美は言った。
 時間を少し遅らせてカインの寮を訪ねた。宗田睦美はキッチンで料理を盛り付けている最中だった。ここはレイアウトが宗田睦美の部屋と違って、対面キッチンになっていた。
 部屋は建具がすべて取り払われ変形した広間になっていた。そこに車座に座っている人が十人くらいいた。ベランダで見たエディという人がギターを弾いて、みんなでカントリーソングを歌っている。カインがここにおいでと手招きしてくれた。料理から顔をあげた宗田睦美が笑って頷いている。加美は手拍子で合わせながら、宗田睦美のことばかり見ていた。盛り付けた料理を運んでいるのは若い綺麗な女の子だった。柔らかい体をしならせて、狭い隙間へ手を伸ばして絨毯の上にお皿を置いていく。痩せた体に良く似合ったジーンズは、後ろから見るとハート型のお尻をしていた。
 リーランドはどこにいるのだろうと思った。すると、キッチンのカウンターからひょっこり頭を出した。オーブンで何か焼いていたらしい。ハート型の彼女が嬉しそうに手伝っている。なるほどリーランドは美しいと思った。さらさらの金髪で濡れたような長い睫に薄い茶色の目をしている。額から伸びた高い鼻と、薄い上唇がえくぼのできる顎へとシャープな輪郭を形作っている。
 宗田睦美が隣に座った。
「あれがうちの娘」
 リーランドとアップルパイを切り分けているハート型の女の子を指差した。いまどきの子には珍しい黒髪をバレッタでうしろに留めている。清楚という言葉が似合う。華やかな宗田睦美の顔に比べると似てはいるが、目も鼻も少しずつ地味である。
 二時間ほどでお開きになり、加美は部屋に戻って煙草に火をつけた。一ミリの軽い煙が肺を満たしてゆく。これから楽しいことが始まる気がする。そう思うと頬が緩んだ。一ヵ月をスパンとした単調な繰り返しをずっと送ってきた。それが宗田睦美という知り合いができ、カインという英会話の先生もできた。加美はその夜、卵を抱くように暖かな眠りについた。

 イセの入院から十日たった土曜日の午後、加美が病室に入ると弟がベッドの脇の椅子に座っていた。何時間も前から来ていたらしく、加美をみると椅子から立ち上がった。今から会社に行くといって帰っていった。
 キャビネットの抽斗をあけると、山本と書いた見舞い袋が入っていた。
「山本のおばちゃん、お見舞いに来てくれたの」
 加美は洗濯してきた衣類を紙袋から取り出しながら言った。返事がないので振り向くと、イセの様子がおかしい。うっすらと涙をためているのだ。
「具合悪いの。どうしたの」
 ベッドに横になっているイセの顔を覗き込んだ。イセは目をそらし、じっと天井をみている。
「典男と何かあったの」
 弟の態度もどこか変だった。イセがまた無理なことを言い出して、それを叱ったのではないだろうかと思った。
「昨日光恵ちゃんが来てくれてさあ……」
 のっそりと話しだした。
「知り合いの健康食品の人といっしょに来てくれたのよ」
 首を振ってキャビネットの上を示した。茶色のドリンク瓶が数本置いてある。黒いラベルに白抜きのカタカナの名が書いてあった。
「その人が霊感のある人なんだけど、わたしのことを霊視してくれたのよ」
 イセと山本のおばちゃんという人は、信仰や霊感といったところで気があっていた。二人は新興宗教とマルチ商法を合体させたような団体を見つけては入会してきた。ずっと一つの団体ではなく、違うところを渡り歩くといった感じで、次々新しいところを見つけてくるのだ。二人には金儲けの欲はないようで、必ず真実の宗教で病気や悩みを救って貰えると信じているのだ。
「それで何を言われたの」
 また高い買い物をさせられたのだと思った。以前は、碁石の親玉のような石のセットを二十五万円で買っていた。カラーボールといって一つ一つ色が違っていて、それぞれ健康や金運と役割がついているのだ。当時イセは加美や弟夫婦にも単品ではあるが買って持たせたことがあったが、辞めるとき返品するからと回収された。もちろん、お金は返ってこなかったが、その種のものを持っているだけでよくないという考えからだった。
「わたしと和ちゃんは前世で敵同士だったっていうのよ。こんな体になるのはカルマのせいだから病院では治らないだろうって。そんな話しをしてるときに和ちゃんが来ちゃって……」
 イセは自分が言ったのではないといいたげだった。
「その話、和ちゃんに聞かれたの」
 加美は呆れて言った。
「違うのよ。その女の人が勝手に和ちゃんも霊視したんよ。それでこのままだと子供ができないから除霊しなさいって」
 イセは目をごしごし擦った。
「そりゃ駄目だわ。それで典男におこられたんでしょ」
 イセは目がかすむと言って何度も擦っている。
 加美が言いかけようとすると、
「もう、みんなわたしが悪いのよ。これからは何も言わない。わたしだって、こんな体だからみんなに気を使ってるのに、はやく元気になって迷惑かけないように思ってるのに……」
 加美は深い溜息をついた。キャビネットのドリンク瓶を一本とって効能書きを読んでみた。腸内細菌という文字に目が止まった。
「これは健康食品とちがうの」
 イセの表情が元に戻った。
「あんたも飲むといいわ。それは腸内細菌が入ってるの。新聞にも載ったらしい。病気は腸の中のバイ菌が悪さして起るらしいの。それ飲んでリューマチの人が良くなったんだって。わたしもこれで治るような気がするのよ」
 そのセリフを何度きいたことか。加美はイセにではなく病気の人間につけこみ法外な値段で売っている人に腹が立つ。このドリンクの値段もびっくりするような額だろう。イセはそれを察してか、
「これは一本、八百円よ。そんなに高くないでしょ。ただ、わたしみたいに体が悪い人は顆粒になった分がいいらしいのよ。ドリンクの三倍分の成分が入ってるの」
「それでまた買ったの」
 イセは値段を言いたがらなかった。
「でも、半年分だから月になおしたら五万くらいよ。あんたわたしのすること何でも否定するけど、自分でお金出すからいいでしょ」
 最後は臍を曲げてしまった。半年分で三十万するのだ。もっと、いい使い道がありそうなものなのにと思う。

 レッスン用に新しいノートを買った。あと和英辞典を実家に行って、納戸から引っ張り出してきた。イセは物を捨てたがらない性格で加美たちが使ったおくるみや学生服なんかもとってあった。大掃除になると、誰かが捨ててしまおうと言うのだが、まだ使えるのをごみに捨てるのはもったいない、支援物資におくるとかリサイクルに役立てるから残せと命じる訳だ。それじゃいつ送るのかと逆らうと、わたしが死んだらみんな捨ててくれたらいいと怒る。高価な物はないだろうが、時間がたてば骨董的価値のあるお宝に化けることを祈って目をつぶっている。
 加美はトートバッグを肩に掛けて、カインの部屋のチャイムを押した。掌に汗が滲んでくる。白いボタンダウンを着たカインが現れた。この前広間だった場所がダイニングに戻っている。丸いダイニングテーブルがレッスン用の机らしい。
 スキルチェックとかいうのを始めた。イラストの絵を指して、加美が何かを答える。カインは冷蔵庫を指差した。分からない。天井についた扇風機もガスコンロも全部言えなかった。加美は普段、英語のつく名前のものに囲まれて生活していると思っていたが、それは最近使われるようになった物だけだったのだと知った。
 馬鹿さ加減を露呈するのに三十分を費やしたようなものだった。
 カインは分かったと言うように本を閉じた。呆れたり、馬鹿にしたような態度はみせなかったが、初級クラスに決まった。
 簡単な表現の繰り返しをする。例えばビハインドとフロントを使って文章を作る。間違ったり、詰まったりするとカインがアドバイスをするといったやり方だ。
 レッスンが終わった。加美は今さら知らないとは言えないし、人に聞けないという、見栄の箱から抜け出せたようで爽快だった。
 カインが自分の描いた絵を見ないかと言った。複雑で急を要するときは日本語で話す。カインの日本語は加美の英語と似たようなもので安心した。
 玄関の横がカインの部屋だった。扉を開けると美術室の匂いがした。窓際にパイプベッドがあるだけで衣服も本も見当たらない。そのかわり、ベニヤ板や角材が壁一面に立てかけてありセメント袋や一斗缶がブルーの防水シートの上に置かれている。歯磨きチューブのような油絵の具が木箱に無造作に投げ込まれ、ベニヤの切れ端で作ったパレットに絵の具が搾り出してあった。
 カインが押入れからキャンバスを引っ張り出してきた。三点を部屋の入り口に並べた。色彩は暗く、みな抽象的な作品だ。どれもレリーフのように盛り上がっている。ひとつの絵はエンジ色がかった黒い背景で中央にいくほど白っぽくなって胎児のようなものが描かれている。
「ベイビー」
 加美は胎児を指差して聞いた。カインはそうだと頷いた。
 他の二作は何が描かれているのか分からなかった。一つは蘭の花びらのようなびらびらした曲線ばかりで赤や黄、緑といった原色が赤黒い背景の中で飛沫のように飛び交っている。もう一つは花札の二十坊主のような色と構図で切り立った山にも見えるし象のようにもみえる。批評を加えようにも言葉が浮かんでこないし、浮かんできても英訳できるはずもない。
 何もいわないでいると、カインは防水シートの一角に加美を呼んだ。セメント袋は亜鉛華と書かれてある。カインはメジャーカップで適当に粉を掬うと、缶の液体をたらした。蜂蜜のような形状の液体の名前はワニスといった。それをナイフで混ぜていくとペーストのように滑らかにのびていった。手じかにあった緑の絵の具を搾り出して、更に混ぜていくと、ちょうど白い絵の具を混ぜた時のように色が薄まっていった。
 カインは場所をかえて、イーゼルにかかっていた描きかけのキャンバスに全部を載せてみせた。そしてそれは左官の作業のように好きなところに伸ばせたり盛り上がらせたりできるのだ。
 今度は加美にやってみないかと言った。同じように溶いてみても上手く混ざらない。カインの手が加美の耳の横を通った。右手を上からつかんで押し付けるように往復させる。エレベーターの中で嗅いだカインの体臭が、加美の顔を撫ぜる。この脇に鼻を押しつけて思いっきり匂いを貪りたい。匂い尽くしてしまいたいと思った。加美は頭をカインの腕につけた。そしてゆっくりと首を回した。カインの湿った赤い唇が加美の鼻先に触れる。カインの左手が加美の乳房の下にまわりこみ絞るように強く抱いた。
 耳栓をしたみたいに回りの音が小さくなった。腰が重く力が抜けてゆく。気がつくとブラウスのボタンがすっかり外されていてカインの黒髪が加美の胸のところで動いている。防水シートの硬い音が頭の中で鳴りつづけた。音が止まったと思った。静けさに目を開くとコンドームをつけているカインが映った。もう一度目を閉じる。二度と目を開けないと決めた。ちらちらと顔に陽が当たったり影になったりする。赤い闇と黒い闇が加美を溶かしていった。
 白いボタンダウンを着たカインが玄関のドアを押し広げて加美を送り出そうと待っている。もつれるようにして外にでた。トートバッグの持ち手を肩にかけてお礼のお辞儀をしてから歩き出した。エレベーターの前で振り返るとカインは手を振った。

「昨日、どうだったの」
 ベッドの脇で洗濯物を入れ替えている加美に向かってイセが訊ねた。
 カインとのことを聞かれたみたいでどきりとした。
「面白かったよ」
 加美は俯いたまま答えた。タオルや下着が二日分溜まっている。義妹はあの日から見舞いに来なくなった。英和辞典を取りに行った時も留守でイセから合鍵を借りたのだ。一度、弟の携帯に電話をしたが体調が悪いからとしか言わなかった。
「昨日も来なかったのね」
 紙袋を差し上げて言った。
「まだ機嫌なおしてないんでしょ。典男も土曜日に来たきりだし。嫁さんのほうが大事なんだから」
 イセは苦々しげに言葉を吐いた。
 加美はこのままこじれてしまっては退院してからが厄介だと思った。
「和ちゃんに電話してみるわ。お母さんも謝らないとだめよ」
 加美は財布を取り出して、公衆電話のところに行った。
 家の電話は留守番になっていた。義妹は実家に戻っているのかもしれない。もう一度受話器を取り弟の携帯にかけた。弟はすぐに出た。
「わたし、今電話いい」
「大丈夫だけど。何」
 抛って投げるような返事だった。
「今、家に電話したんだけど留守だったし、和ちゃん病院にも来てないから、どうしたのかと思って」
 加美もむっとして言った。
「実家に帰ってる」
 怒ったように言った。
「あんた何怒ってんの。どうしたの」
 少し退くように優しく訊いた。
「子供が出来ないとか何とか言われてさ、すごく傷ついたみたいで。もう大変なんだから、こっちは」
 疲れたといったように溜息が聞こえた。
「和子の親も怒っちゃってさ。そんな家には帰せないって言われるし。毎日、向こうに行って宥めてるけど、子供を産めないわたしなんかと離婚して産める人と再婚すればとか言い出すし」
「ほんとに……」
 加美は目を瞑った。
「お母さん、このこと知らないよね」
「言えないよ」
 弟は退院するまでに義妹を連れて帰るからと、加美に口止めをした。イセは今週で点滴の治療が終わり、来週からリハビリを本格的に始めることになっている。病棟も回復期の患者の棟に移る。予定では一ヵ月間だ。
 イセが心配そうな顔で加美の言葉を待っている。やはり、伏せておく方が良いと思った。
「留守だった。それで典男にかけたんだけど、まだ、具合が良くないみたい。風邪じゃないかな、和ちゃん。そんな心配することはないと思うけど」
 イセはそうかと言って頷いた。
「リハビリで一ヵ月入院するって言ったけど、もう、退院したいんだけど。家でリハビリするから、明日、先生に言ってみるわ」
 加美は慌てて反対した。
「何言ってるの。そんなの駄目、駄目。ちゃんと入院してる間にリハビリのしかた覚えとかないと帰ってもできないでしょ」
 イセはなおも、
「薬飲んでるから、胃が悪くなってきたし、ほんとのこといったら、ここのリハビリの先生、頼りないんよ」
「なにを、この前はリハビリの先生、いい人だって言ってたじゃないよ」
 押し問答の末、一週間様子をみようと言うことで落ち着いたが、イセの気が変わらないうちにと逃げるように病室をでた。

 マンションごとの交渉は遅々として進んでいなかった。今日もポストにアンケート用紙が入っていて、弁護士費用のことについて質問がされてある。勝ち目のない勝負だということが、誰の目から見てもはっきりしてきたところの採択だ。着手金が約百万かかるのだが、修繕積立金からだすのか、住民の頭割りで自己負担するか、訴えに賛成の者だけが負担するかという選択方式である。まだ、弁護士を立てていなかったのかというのが驚きだった。加美は修繕積立金の項に丸をつけて投書箱に入れた。
 工事現場をみるとエクセルの人たちも立ってなかった。宗田睦美にもパーティ以来あってない。いつまでも会わずにおけないだろうが、できればしばらく会わずにいたかった。店に行くため工事現場と反対方向に歩き出した。
 向こうから耳付き帽の男が歩いてくる。スーパーの袋を下げていた。加美に気づいて歩く速度がゆるくなり立ち止まった。
「こんにちは。エクセルさんのほうはどうですか」
 加美は先程のアンケートの話をした。
「もう、うちは弁護士に頼んだよ」
 耳付き帽の男はそっけなく言い立ち去った。クレセントやネオの消極さに怒っているのだろうか。加美の店の客で、そのことに詳しい人によると、工事を差し止めるには二億円前後の供託金を裁判所に納めてこそ、同じ土俵にのって話ができるのだと聞いた。そうでない場合は署名を集めたり、役所に陳情に何回も足を運ぶという地道な方法しかないのだ。理事会でそのような話し合いがされたのかどうか、また、三つのマンションを合わせると何百世帯も入居しているなかに、詳しい知識を持つ人がいないとは考えられない。
 鞄の中で携帯電話のメロディが鳴った。ディスプレイを見ると公衆電話とあった。イセに違いない。
 案の定、
「もしもし、わたしだけど。今日ね、光恵ちゃんが来てくれてね、いろいろ相談したんだけど退院することにしたから」
 張りのある大きな声だ。
「退院って。昨日、一週間様子見ようって話したじゃないよ。何を急に言い出すの」
 何を勝手なことをと腹が立った。
「だから、来週の土曜日に退院するから。あんた仕事だから別に来なくてもいいから。光恵ちゃんとこの前の人が連れて帰ってくれるし」
 イセは思ったことは縦からでも横からでも通す性格だった。
「典男には言ったの。それにこの前の人って、和ちゃんに子供できないって言った人でしょ。典男、怒るよ、そんなことしたら」
 義妹が実家に帰っていることを教えてやろうかと思った。
「家に電話してもいないし、携帯に電話しても病院にも来てくれないんじゃ相談しようがないじゃない。あそこはわたしの家なんだから嫁に遠慮することないわ」
 イセはそこで電話を切った。
 その夜、店を閉めてから弟に電話をした。車を運転していたらしく、今からそこに迎えに行くと言ってすぐ切った。店は加美のマンションから駅でいえばひと駅だが、裏道を通れば歩いて十五分で帰れる。
 シャッターを降ろした店の前で二十分近く待った。助手席に乗り込み、改めて弟の顔を見た。
「明日から中国に出張なんだ。今も和子のところに行ってきたけど、もう戻る気ないって言われたよ」
 車を走らせながら言った。
「そこに入ろうか」
 加美はオレンジの看板が回転するファミリーレストランを指した。弟の大きな車は駐車場の天井に擦れそうで、加美は車の中で頭を下げた。
 黄色いワンピースを着たウエートレスが水を置いていくと、加美は昼間の電話のことを話し始めた。弟は退院と聞いても驚きも興味もなさそうで、
「今のウエートレス、年くってるよね。四十五から五十前だぜ」
 と、店内を見回した。それにつられて加美も辺りをみた。加美の席から離れたところにリーランドとカインと宗田睦美が見えた。かっと、血がのぼって、話に集中できなくなったと思ったとき、
「俺、中国に駐在になるんだ」
 ぽつりと言った。
「それじゃ和ちゃんもいっしょに」
「いや、向こうの加工工場の社長になるんだけど、いわば現場監督みたいなもんでさ、日本と中国に月のうち半分ずつ行ったり来たりしないといけないんだ。和子は連れて行けない。まあ、来てくれって言っても断られるだろうけどね。その辞令が今日あってさ、和子に言ったら、半月もおふくろと二人っきりでやってく自信がなくなったって言うんだ。この前の事も含めて、おふくろの信仰とか霊感だとかの押し付けに、もう我慢ができないって」
 コーヒーカップの取っ手をいじりながら言った。
「さあ、その気持は分かるけど、あの家どうするの。あんたたちどこに住むの、えっ、まさか離婚はしないよね」
 弟は首を振った。
「おふくろに施設に入ってもらおうかって思ってるんだけど。俺もあの家のローン払って、他の家を借りるのは無理だし、それで駐在の勤務が終わったらおふくろを引き取ろうかと思うんだけど」
「施設に入る費用はどうするのよ」
「おふくろ金はもってるよ。それに和子がいなかったらひとりじゃどっちみち生活できないし」
 この話を聞いたらイセはどんな顔をするだろう。
「どうしてもいやだって言ったら。和ちゃんどこに住むの」
 弟はかくんと頭を垂れた。
「姉ちゃんのところ無理かな」
 えっと、聞き返した。
「お母さんをわたしが引き取るの」
 一LDKのどこにイセを住まわせるというのだ。弟は手で顔を覆っている。
「とにかく、今ここで決められることじゃないし、お母さんに話をしないことにはね。典男、出張からいつ戻ってくるの」
「金曜かな」
「じゃ土曜日にお母さん帰ってくるって言ってるから、わたしたちで迎えに行く? 山本のおばちゃんには断ってもらって」
 弟はうんうんと頷いた。
 体を横にずらして立ち上がった。加美も立とうとすると、トイレと言ってレジの方に歩いて行った。
 話の最中にも何度か宗田睦美たちのテーブルを見ていた。気づいたようで手を小さく振ってくれた。弟が席を離れたところを見計らって、宗田睦美がやって来た。
「いまの人、大屋さんの彼氏」
 トイレの方を見ながら言った。
「弟ですよ。母親の事で相談があって」
 演技がかった暗い声で言った。
 弟が大股でこちらに帰ってきた。宗田睦美と目が合うと、礼儀ただしくお辞儀をした。
「ご近所の宗田さんです」
 宗田睦美が頭を下げている。弟は弟ですと言ってにっこり笑った。雰囲気を察したのかレシートを持って、ひとり先に帰っていった。
「夜食を食べてたの。おいでよ」
 加美の手を引っ張った。抗しがたい誘惑に加美の踵はたやすく床を離れた。
「娘も旦那もいないの」
 加美の質問を予測して言う。加美たちのマンションの前にあるレストランではなく二ブロックほど離れたレストランに来ているのは近所の目を気にしてのことだろう。
 四人がけのボックスシートで空いているのはカインの隣だった。髪の毛の色でチーム分けをした具合になった。肉料理のプレートとパンの小皿がそれぞれの前にあるが、ほとんど残っていない。
 黄色いワンピースのウエートレスが皿を下げに来た。さっきと別のウエートレスだが年恰好は同じくらいだ。弟がいったように年齢層が高いと思った。
「大屋さんと会えないから、カインから聞いちゃったわよ」
 シートから飛び上がりそうになった。
「熱心だから、すぐ上達するだろうって」
 宗田睦美は間をあけて言った。
 カインは子供の頭を撫でるようなまねをした。
「とんでもない。あまりにも出来が悪くて呆れてるんですって」
 動揺していたが不自然ではないだろうと思った。腕や太股が触れ合うたび、痺れが波紋のように広がる。カインは降ろした右手を加美と自分の足の間に滑り込ませた。加美はそのサインを心地よく受け止めていた。

 モーターの重低音が枕をあてた耳へ流れ込んできた。工事が再開されたのだと直感した。もう少し眠ろうとしたが、恐竜の鳴き声のような重機を動かす音とコンコンと何かを叩く音が間断なく続き、頭から追い出すことができなくなった。うるさいと怒鳴りつけてやる勢いでベランダに出た。しかし、実際はそんな勇気はなく眼下で仕事をしている男たちを睨みつけるばかりだった。アスファルトを剥がす作業と足場を組む作業に分かれて二十人ほどの男たちがいた。無機質な音はこだまするのに、人間の声はほとんど聞こえてこない。
 工事現場を挟んでエクセルのベランダが見える。見知った人はいないだろうかと探していると、耳付き帽の男が手すりに手をかけて、じっと下を見ていた。彼のうしろに数枚の洗濯物が干してある。加美は耳付き帽の男に気づかれないように後退った。
 店に行く仕度をして下に降りていくと、管理人室のまえで人が集まっていた。自転車置き場の金網の外に鼠色のシートが張られていて光が遮られている。シートには防音という文字がかいてあるが、人の睡眠を破っておいて、いかにも建て前的な措置に苛立った。
 管理人室の人たちに挨拶して、行こうとすると止められた。
「大屋さんこの前のアンケートのことだけどね。弁護士に頼むっていう話はなしになったのよ。百万やそこらのお金でやっても、お金取られるだけだってことでね。修繕積立金は外壁の塗り替えや設備の修理に使うためのものだからって反対が多くて」
 管理人のおばさんは徒労の色を隠さず語った。
「エクセルさんは弁護士に頼んだって聞きましたけど」
 ここで退くのは道義的に良くないことではないのかと思えた。
「エクセルさんところも反対がでたらしいんだけど、いつも立ってた人たちだけで頼んでしまったらしいの。なんでもひとり二十五万ずつ出だしたんだって」
 そういうことだったのかと思った。耳付き帽の男が不機嫌であったのも納得できた。宗田睦美はどうしたのだろう。昨夜何も言わなかったところをみると造反したのかもしれない。
「宗田さんってご存知」
 管理人のおばさんが訊いた。
「ええ、知ってますけど」
 加美は訝るように管理人のおばさんを見返した。
「彼女、マンションで突き上げられてるらしいのよ。町会長と組んで建設会社からお金をもらったんじゃないかって。エクセルで訴えを止めようって言い出したのも彼女らしいの。娘さんの弁護士事務所に相談したら、負けるのは目に見えてるって言われたからとか言って、他の人を説得していったんだって。ほんとのことは分からないけどね」
 さらに管理人のおばさんは続けた。
「彼女不倫してるんだって言われてるのよ。ほら英会話かなんかの外人さんを家に連れ込んでるんですって。派手な感じの人だから目立っちゃうのよね」
 加美は膝から力が抜けていった。加美にあてつけて言っているのではないだろうかとも疑った。信じられないと首を振ってその場を逃れた。
 工事現場の前に制服の警備員が立っていた。馴れ馴れしく挨拶をしてきた。上からの指示なのであろうが、加美は疎ましくて舗道を二、三歩外れて迂回するように歩いた。
 宗田睦美の部屋の前まで来た。ドアチャイムに指をのせたまま逡巡してボタンを押せない。噂の真相を確かめるべくここに立っているけれど、本当はカインのことを宗田睦美に打ち明けようとしているのだと思った。この一週間、イセにまつわる憂鬱なこともカインを思うことで蓋をしてきた。出し忘れた弁当箱を抽斗に隠しておくみたいな子供っぽい逃避だ。
 指先に力を込めた。突当たる感覚があり、ゆっくりと指を離した。十秒ほどして、ドアが開いた。水色のアンサンブルのニットを着た宗田睦美が立っていた。
「突然来ちゃってすみません。今、うちの管理人さんから気になることを聞いちゃって。それでわたしもお話しておかないといけないことがあって」
 深刻な顔で宗田睦美に言った。
 頷くと薄っすらと笑顔を作り、
「いいわよ。散らかってるけど、どうぞ上がって」
 リビングに入ると、コーヒーの香ばしい匂いがした。ソファテーブルの上に婦人雑誌が開いて置かれ、その横にコーヒーの入ったマグカップがあった。
 宗田睦美はピンクのカップソーサーにコーヒーを入れて加美に差し出しながら、
「どういったことかしら」
 と、ソファに腰を降ろした。
「宗田さんがお金を貰って反対運動をやめさせたっていうんです。それと……」
 単刀直入に言い過ぎたと宗田睦美の表情が歪むのを見て思った。
「そのこと……、それね、うちのマンションの集会のときに言われたのよ。いつも帽子かぶってる人いるでしょ、彼が言ったことなの。町会長がこの前できたマンションの業者のように何年か分の電気代を払うような誠意はないと分かったから、たとえ弁護士を立ててもどぶに捨てるようなものだと言ったの。わたしもそれに賛成した訳。そしたら、興奮して、おまえら金貰ったんだろうって」
 宗田睦美はコーヒーを一口飲んだ。
「N建設のことを調べてくれた人が言うんだけど、N建設って公共工事ばかりやってたところなのよ。工事に反対されるなんて無縁だったから、近隣の住民と交渉ごとなんてしたことがないのね。それがこの前のマンションの業者と違うって、説明したの」
「納得してくれたの」
「全然。近くでそういう実績があるんだから、それで戦えるじゃないかって。挙句には、お前らみたいな手口は知ってるぞって言うの」
「手口?」
「最初は反対運動を煽っておいて、業者にお金を貰って、今度は反対派を抑える側にまわるってことなの。わたし、個別でN建設の人と話したこともないのにそんなことできるわけないわよ」
 カップのコーヒーを一気に飲み干した。
「結局、マンションでは訴訟を見送ったんだけど、四、五人が個人で訴訟を起こしたの」
 加美はその顔ぶれが誰なのか、だいたい分かった。
「帽子の人以外にも、宗田さんを疑っている人がいるっていうことですか」
 宗田睦美の眉が動いた。
「そういうことになるのかな。でも、あとの人たちは帽子の人に恫喝されて、やむなくお金を出したって感じじゃないかな。その人たちもわたしのこと怒ってるでしょうけどね。ずっといっしょにやってきて、お金を出す段になって抜けちゃったんだから」
 宗田睦美はそう言って立ち上がると、コーヒーメーカーに新しいペーパーをセットした。電熱で水が沸騰するとコーヒーのいい香りが漂い出した。
「大屋さん、仕事は?」
 キッチンから声がした。
「いえ、まだお話があるんで」
 どう切り出すべきかと困り果てていた。
「じゃあ、トースト焼くから食べてね」
 まな板を叩く小刻みな音が聞こえた。顔を見ないほうが言いやすいだろうと思い、
「英会話のレッスンのことなんですけど。わたしのせいかもしれないんですけど。良くない噂をされてるみたいなんです」
 冷蔵庫の閉まる音がした。
「でも、その前にわたしね、この前の始めてのレッスンの日にカインとセックスしちゃったんです。宗田さんに後ろめたくって、会うの辛かったんですよ。できれば、隠しとこうって思ってました」
 宗田睦美がキッチンから出てきた。聞こえなかったのか、加美の後ろに立って、
「噂って、わたしが男を連れこんで不倫してるってやつでしょ。知ってるわよ。あれ、娘のせいなの。リーランドとわたしのことを中園さんって、唇を腫らしてた人いるでしょ、その人に相談したの。娘が小さいときから知ってる人でおばあちゃんみたいな存在だったから。この前、うちに来て注意されたの。噂だと思ってたけど、チーちゃんから聞いたよって。娘、リーランドのこと好きだったらしいの。それでリーランドに言ったら、わたしの事聞いたらしいのよ。口もきいてくれないの」
 加美も驚いた。
「娘は一人暮らしをするっていってるし、父親のことも落ち着いてないっていうのに……」
 振り向くとそこに居なかった。
「大屋さんとカインのことは、そうなればいいんじゃないかって思ってたの」
 ハムとチーズを挟んだトーストサンドを持って帰ってきた。薄くスライスしたトマトが解けたチーズの上でグツグツと動いている。黒いものが混じったバターをのせているのだが、一口かむと塩辛のような味がした。舌でより分けて更に味を確かめると小魚のようだ。まだ、昼食を食べていない加美の胃袋はもっと欲しいとせっついた。
 しばらく無言で食べつづけた。
「もうひとつ作ってこようか」
 宗田睦美は何も載っていない皿を手に言った。
「はい、是非お願いします」
 加美の胃袋が美味しいと呼びかけてくる。宗田睦美と共犯だと知りリラックスしたのだろうか。
「わたしがリーランドとそんな関係になったのって、一年くらい前なんだけど、父をうちで引き取ってすぐのころなの」
 始めのころ罪悪感はあったと言う。
「それで理由が必要だった」
 今は理由は要らないのだという。
 開き直ったのか、覚悟を決めているのか、堂々とみえる宗田睦美が加美より高いところにいるように思えた。レッスンを辞めたほうがいいだろうかと訊いたとき、
「大屋さんが決めることでしょう」
 と言われた。

 二度目のレッスンの日がきてしまった。宗田睦美に突き放されてしまったので、辞めるなら断りは加美が入れなくてはならない。それなのにカインの寮の電話番号も知らなかった。
 手ぶらで立つ加美を見て、カインは不思議そうな顔をした。ここで断って帰る決意できたのに言葉が出てこない。すっと手が伸びてきて加美を中に引き入れるとドアが勝手に閉まった。正方形の靴ぬぎ場は、ドアが閉まると薄暗くなった。壁に加美を立たせたままカインは頭から順番に加美を触っていく。棒立ちのままじっとされるままになっていた。服は床に落ち加美は素裸となった。カインの吐く息が加美の吸う息になり、カインはカインでなく、加美に呼応する分身になった。
 ふたりでシャワーを浴びているとき、加美は泣いていた。最初は水しぶきでごまかしていたが、やがて声をあげて泣きじゃくった。カインはどうしたのという顔をしたが、黙ってスポンジで加美の体を優しく擦っていった。
 カインはレッスンの話には何一つ触れなかった。シャワーをでてまた、カインのベッドでいっしょに眠った。目が覚めると腰にバスタオルを巻いただけのカインが部屋をでてアイスクリームを持って戻ってきた。
 加美は何もしゃべらなかった。唯一喋ったのは、帰るという言葉だけだった。それも夜の十一時のことだ。ドアのところでカインがまた来週と日本語で言った。加美は笑ったつもりだったが、少し顔を歪めたに過ぎなかった。
 
 イセから何度も電話がかかったが、今日まで一度も病院に行かなかった。弟も同じらしく車の中は吐く息だけが重く堆積していった。
「和ちゃんはどう。なんか、今日お母さんと会っとかないと、余計会いづらくならないかな」
 車が信号停止したときに話し掛けた。
「昨日、家に戻っといてくれとは言ったけど、帰ってるかどうか分からん」
 うっすらと髭ののびた顎をさすった。
「家の掃除は典男がしてたの」
「ああ、一応、おふくろの布団も干してきたよ」
「すごい気がつくじゃない」
 誉めあげるように言った。
「和子に言われたんだ。あと、病院で使ってたものは捨てるようにって」
 捨てるのはイセが文句をつけそうだが、義妹も気をくばってくれているのだと少し安心した。
「姉ちゃん仕事だろ」
 アクセルを踏み込みながら言った。
「ううん、休みにした。一時間やそこらでは話できないと思って」
 車は病院の前を通り過ぎてパーキングに止めた。入り口のバーが降りると満車のランプが灯った。
 受付けのまわりは満員の状態だった。三週間前の長い一日を思い出してぞっとした。イセは五階から九階に移動したと言っていたが部屋は分からない。エレベーターの階上ボタンのパネルには十一階まである。外観からはそんな高層ビルには見えなかった。
 ナースステーションでイセの部屋を教えてもらい、病室の入り口の番号を逆に辿りながら廊下を歩いた。言われた病室にイセの名が書かれたプレートが入っている。弟の背中に隠れるようにして病室に入った。カーテンが開いているベッドを順番に覗いていった。左側の一番奥のベッドでイセの声がした。カーテンの隙間に顔を突っ込んだ弟が挨拶をしている。加美が続けて弟の脇腹あたりから首を突っ込むと山本の叔母と見知らぬ五十くらいの女がいた。
「来たよ。あ、おばちゃんこんにちは。ごぶさたしてます」
 あれほど断ってくれるように頼んだのに、これで叔母達を帰す手間が増えてしまった。
「ちっとも病院に来てくれないから、心配して来てくれたのよ」
 加美を見て責めた。
「どうもすみません。僕たちで連れて帰りますので。ご心配かけました」
 弟が叔母たちに向かって言った。これにはイセも叔母も何も言えず、加美が精算をして病室に帰ってくると、叔母たちは帰っていた。イセと弟のふたりになったときに、義妹のことを話していたようで、イセはのぼせたような赤い顔をしている。
 家に帰ってきた。車庫に赤い軽自動車が入っているのを見て三人ともあっと声に出して顔を見合わせた。
 義妹が玄関に出てきた。白いエプロン姿の笑顔で手を振っている。車から降りたイセの手を握りおかえりなさいと言った。イセも義妹の手を握って、ただいま帰りましたと言った。イセの鞄を車に残しておいて弟が車をロックした。
 窓を開けているのか、玄関ドアを開けると空気が通り抜けていった。それにのって煮物の香りもした。とたん、加美のお腹が鳴った。
 糊のかかったシーツに包まれた布団がこんもりと折りたたんであった。イセをベッドに寝かせると、奥の方からでたような嘆息がイセの口をついた。
「ああいい気持ち。和ちゃんありがとうね」
 イセは布団の縁をさすりながら言った。
「お義母さん、疲れたでしょ、ちょっと休憩してからお昼にしましょうね」
 胸のところまで布団をかけながら言った。
 加美は台所にいく義妹のあとについていった。筑前煮が大鉢に盛ってある。さやいんげんのきれいな緑とはり生姜のうす黄色が彩りを飾っていた。
「やっぱり鯛がいいと思ったんですけど、どんな料理がいいでしょうかね」
 四十センチくらいの尾頭付きを加美に見せた。
「お母さんは刺身が好きだからね。でも、こんなに立派な鯛だったら焼いてもおいしいだろうしね」
 加美と義妹が話していると弟が入ってきた。冷蔵庫から缶ビールを取ると美味しそうに飲んだ。
「姉ちゃんも飲むか」
 と、言ってもう一本出した。
「いいじゃないですか。お仕事ないんだし」
 義妹が勧めてくれたので蓋を開けた。
「やっぱり退院祝いだから尾頭付きがいいと思うよ」
 弟のひとことで鯛はガスオーブンの中に入った。
 イセをダイニングテーブルに連れてきて遅い昼食を始めた。途中トイレに行くと言い椅子を立ったが、しばらく家を離れていたせいか敷居の段差をこえるだけでも時間がかかるようになっていた。加美は心配なのでトイレまでついて行った。
「この左手がいうこと利いたらねえ」
 イセはパンツをあげる時に呟いた。
「リハビリすれば動くよ。筋肉はいくつになってからでも鍛えたらつくんだって」
 加美はパンツに手をかけながら言った。
 イセが戻ると弟が仕事の話をし始めた。
「来年の二月から向こうに行くことになると思うんだ。二週間から三週間で日本に戻ってきて、こっちで一、二週間仕事して戻るみたいな」
 日本に戻っても出張があったりするので、家に帰れるのは数日くらいしかないのだそうだ。期限は二年ということだが、もし、それ以上の駐在になるのであれば会社を辞めると言う。
「二年は覚悟して欲しいんだ。それで、おふくろにはその間、老人施設に入ってもらおうと思ってる。介護認定を受けてどんなところが使えるか調べないとならないから少し時間はかかるだろうけどね。あと、ずっと入所させてくれるかどうかも分からないから、とにかく時間がないから急がないとな」
 イセは黙って聞いていた。
「お母さんはどうなの」
 加美はイセの肩に手を置いた。
 何も言わない。
「病院でも言ったけど、和子にだけおふくろの面倒を看させて俺だけ向こうに行くことはできない。この前のことがあって和子もすごく傷ついてるし、また、これからあんなことが無いとも言い切れないだろ。和子とふたりきりのときにそんなことになったって、俺がすぐ戻って来れないわけだし。二年間だけということで別居して、俺が戻ってきたらおふくろを引き取るから辛抱して欲しいんだ」
 イセは膝の上の動かない左手をテーブルのうえにあげようと体を傾けている。
「何か取るの。どうするの」
 加美はイセの肩を抱くために立ち上がった。
「……のむから、おいて」
 掠れた声だった。何っと聞き返した。
「頼むからここに置いて。何でも辛抱するから」
 イセは言った。イセの正面に座っている弟の目の縁が真っ赤に充血していく。
「頼むから」
 加美は鼻の奥が痛くなった。イセの肩に置いた手が勝手にイセを揺さぶっている。
 弟たちは義妹の実家に行くと言って出て行っきり帰ってこない。加美はイセの隣の客間に泊まることにした。就寝の前にトイレについて行ったが、深夜二時ごろ、内線で呼ばれた。またトイレだった。
 眠れなかった。
 ぼんやりと考えていると前にみた夢を思い出した。石の下にいる虫で尻のところが鋏のようになっている虫に加美が刺された。その鋏が胴からはずれて寄生虫のように肉の中に食い込んでいく。裸のイセがでてきて、加美を連れて医者に診せに行くのだ。その夢にカインもいた。
 どんなシチュエーションだったか思い出せない。
 また内線が鳴った。
 部屋に行くと、イセはベッドに腰掛けていた。電気はつけておらず、廊下の光が薄く照らしただけで表情は見えない。 
「どうしたの。トイレ」
 歩み寄りながら訊ねた。
「粗相したのよ。ひとりでトイレに行こうと思ってたのに。立てなかったの。朝、飲んだ下剤が今ごろになって効いてきて」
 その言葉をきいて慌ててかけ寄った。
 パジャマのズボンを脱がせた。下着にやはり付いていた。体も汚れてる。このまま拭いただけでは臭いも取れそうになかった。
 イセを風呂場に連れて行くしかないと思った。シャワーならひとりででも入れられるだろう。
 シャワー椅子に座らせて、静かにお湯を出した。加美の掌で温度を確かめてからイセの太股にかける。パジャマの上は着せたままだ。浴室暖房をつけてもシャワーだけでは寒いに違いない。イセは黙って下を向いている。腰を流して、もっとよく洗ってあげるため、立たそうとした。くっくっくっとイセが唸った。
「どうしたの。痛いの」
 加美がのぞきこもうとするとイセは顔をそむけた。
 やがて、おうんおうんという嗚咽が搾り出すようにイセの口からでた。加美はタオルに石鹸をつけ黙ってイセの足を擦ってやった。しゃぼんの泡が排水溝の上に積もっていった。

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