日が斜めに射している。カーテンの花のモチーフ柄が窓にくっきりと刻印されている。やけに蒸し暑い。
「新車に買い換えようと思うんだ」
耕一の声だ。
「もうじき二人目も生まれるしさ。家族でオートキャンプのできる、ワゴンタイプのやつがいいな」
臨月近い大きな腹を抱えた耕一の妻も――名前が思い出せない――そばにいるようだ。
「近くにいいマンションが建つのよ」
今度は美由紀の声だ。美由紀はウェディングドレスを着ているのか。アンティークふうに、わざと色褪せさせたレースのドレスの裾が二〇畳のリビングの床を埋め尽くしている。日の光を受けて宝石のように輝いている。眩しい。
甲高い声がする。ええっと、あれは耕一の子供――? いいえ耕一、それとも美由紀なの? 「来ないでちょうだい」
自分の声に目覚めた。こんなふうな感情の昂ぶりを感じたのは、ずいぶんと久しぶりのような気がする。激しい運動をした後のように胸が苦しい。しばらくぐったりとしていた。暑い。汗がつつーと首筋を流れ落ちる。夜の間にかいた汗で、パジャマの首回りが湿って重たくなっている。
また、声がした。今度は確かに現実の中の音として聞いた。横になったままそっと首をめぐらせた。テーブルの上のノートパソコン、ティーカップ。椅子の背に引っ掛けたままの、洗い晒した普段着。ベッドの上には紫陽花柄のタオルケット。そしてそれに包まれた、汗にまみれ打ちひしがれた、老いたからだ――。いつもと変わりのない朝だった。廊下の方に耳を澄ませてみたが、声はそこからではないようだ。美喜子はゆっくりと身を起した。
網戸を開け放つ。道路を隔てた向こうに、半分に切り取られた山の断面が見える。土は白く干からび、そこに緑色の網が張り巡らされてある。それはいつも美喜子に、網にかかった巨大な鯨の腹を連想させる。真っ青な空に引っかき傷のようなふた筋のひこうき雲。
地上には子供はおろか、通行する人の姿すらない。ここは山を削り取ってできた人工の街である。山の断面に沿って緩やかなカーブを描いた四車線の道路が、はるか向こうまで見渡せた。どこから飛んできたのか、透明のビニール袋が一枚、ふわりふわりと揺れながら風に流されていく。その先から一台の乗用車がカーブを曲がって来るのが見えた。
盆に入ったのだ、と美喜子は気がついた。迎え火や墓参りと無縁の盆は、ただ、街の機能の一時停止でしかない。
また声が、今度はすぐ近くからした。お隣のベランダとは、境界に薄い板が一枚立てられているだけで、繋がっている。声はそこからした。
お孫さんだな、と美喜子は合点がいった。
ここ、終身介護付き老人マンション「エクセランス緑ヶ丘」の住人は、美喜子のような独り者がほとんどだが、お隣のように夫婦で入居している人もいる。お隣は夫婦ともに元高校教師で、一人娘が遠方に嫁いでいるということだった。お盆でやって来たのだろう。
三年前までは、と、競うように美喜子は思う。うちもあんなふうに賑やかだった――。耕一と美由紀――亡くなった弟の子供たち。
「もう、来ないでちょうだい」
振り絞るようにして言った、あの日の声が甦った。あの日の二人の顔。生まれて初めての拒絶にあった幼児の顔――。
あの子たちを小さい頃から、わが子のようにかわいがってきたのだ。仕事で地方に出張すれば、二人が喜びそうな土産をまっさきに物色した。遊園地にだって連れて行った。二人の手を両手にしっかり握り締めて、長い行列を三人で辛抱強く並んだのだ。あの子たちの、日焼けしたなめらかに丸い頬――。デパートの玩具売り場はおなじみの場所だった。目を輝かせてロボットの模型に見入っていた。お人形の金髪を撫でていた。ぜーんぶ、買ってあげる、と言った時の「ほんと、ほんとにぜーんぶ?」と驚いて聞き返した顔――。
入学、卒業、就職、結婚、出産……。彼らの人生の節目には存分なことをしてきた。長い年月、美喜子が彼らにしてきたことが、いつしか彼らを甘やかせることになってしまったのか。彼らは金の無心をするようになっていた。親ならば当たり前にNOと言い、それでも当たり前に親子関係は続いていったのだろうか。一度口にした拒絶の言葉は、楔のように美喜子を打った。
勤めて二五年目に思い切って買ったマンションには二〇畳のリビングがあった。女ひとりの暮らしには不要な広さだったが、それもこれも、みんな耕一と美由紀のためだった。彼らがやって来てもゆっくりとくつろげるようにと配慮したのだった。それを売り払い、ここに移り住んだ。ここは美喜子には馴染みのない土地だった。友人もない、もちろん血縁の者もいない。何もないところに行きたかった。
子供の声に混じって、お隣のご主人の、ふだんよりいくぶんトーンの高くなった声も聞こえてくる。美喜子はその場を動けなかった。
玄関のチャイムが鳴った時、心臓が止まるかと思った。盗っ人のように、足音を忍ばせてベランダを離れて、室内に戻ってから、大きな声で返事をした。急いでドアを開けようとして、まだパジャマのままであることに気がついた。「ちょっと、ちょっとお待ちくださいね」大急ぎで手近にあった普段着を頭からすっぽりとかぶり、ドアを開けた。
お隣の奥さんが菓子折りを手に、にこやかに立っていた。
「娘が来ましてね。これ、お口に合うといいんだけど」
奥さんのスカートに纏わりつくように小さな女の子がいた。
二年前にここに入居した当初、この奥さんは娘さんのお産の手伝いで不在で、ご主人ひとりの時期がずいぶん長かったと記憶している。
「まあ、これがあの時生まれたかた?」
美喜子がかがんで、顔を覗き込もうとすると、女の子は一瞬後じさったが、丸い澄んだ目で、まっすぐに美喜子を見つめた。
「こんにちは、でしょう」
祖母に促されて「こんにちは」と言った。
「お年は、おいくつ?」
しょっちゅう受ける質問なのか、女の子は即座に「にさい」とはっきり答えて、ころころした左手の指を曲げにくそうに折って、二、を作った。
奥さんはゆったりと太ったからだに、ゆったりとした笑みを浮かべて孫を見守っていた。
この知的で物静かな隣人に、美喜子はずっと親しみを感じてきた。美喜子は長く私立の女子大に勤めていた。だから、かつての職場が学校、という共通事項もあった。けれど日々の挨拶以上に相手の中に踏み込むのはためらわれた。あちらが夫婦連れ、という遠慮もあったが、お互いここを終の棲家と思い定め、かつての生活の全てを捨てて移り住んだのだ。もはや帰る場所はほかにない。そう思うと、相手に必要以上に踏み込んで、気まずくなってしまった時のことを思うと怖かった。
けれど今、美喜子は女の子が後じさったことに少なからず傷ついていた。今も女の子は祖母の後ろから、珍しい生き物を見る表情で美喜子を眺めている。マイナスのカードばかりを溜め込んでいる気がした。なんとかプラスに転じようと、気が焦っていたのかも知れない。
「今ね、パソコンの練習をしてるんですよ。もう、大変。ひどい恰好でしょ」
まだ櫛もあてていない髪に手をやりながら言った。
「まあ、パソコンを。山辺さんは、おえらいわ。わたしなんかもう、やろうという気にもなれないのに」 「そんな、まだよちよち歩きの、このお嬢ちゃんよりも頼りないくらいの初心者ですのよ。でも、おもしろいですよ。なんなら今、ちょっと上がって、ご覧になりませんか?」
誘ってから、部屋がひどく乱雑なことに気がついた。
「あ、ちょっと待って。今部屋を片付けますから」 慌てて言い足すと、奥さんはそれを制して、 「これから、この子たちと出かけますので」 と鷹揚に断った。
ドアを閉め、姿見に映った姿にぎょっとした。ワンピースの裾がほつれ、一部分がだらしなく垂れ下がっていた。白髪はもつれ、くすんだ皮膚に目だけ光っていた。鬼婆のような浅ましい姿だった。女の子が後じさったのも、無理ないことに思えた。
午後からの時間は、パソコン入力の作業に没頭して過ごした。在職中、ワープロはなんとかこなせた。しかし美喜子の四〇〇件に上る住所録は、ワープロに保存する限界にきていた。住所録を作る、それが美喜子が思い切ってパソコンを購入した最大の理由だった。四〇〇人の住所。四〇〇人の知人。美喜子の四〇年を越える 職業人生のすべてがそこにあった。
あいうえお順に入力している住所録は、まだ「し」のところだった。柴田、清水……と、かつての職場の知人が続く。新谷、のところで美喜子の指が止まった。嫁いだ美由紀の姓だった。一瞬、ためらった後、入力した。削除するのはいつだって出来るのだから、と心の中で言い訳しながら。
夕飯は食堂を予約していた。髪を撫で付け、薄く化粧をした。こざっぱりとした洋服に着替えて食堂へ降りていった。食堂は、入居前のパンフレットでは、一流ホテルのメイン・ダイニングをイメージして、という触れ込みだったが、どちらかというと、大企業の社員食堂といった趣である。広さはたっぷりとあるが、ガランとして華やかさに欠ける。もっとも利用者が老人ばかりであるから、華やかさに欠けるのは致し方のないことなのかも知れない。
食堂に入ると、窓際のいつもの席にいつものメンバーが陣取っていた。じじばば合わせて五人。一日中つるんで、カラオケにゲートボール、入居者の誰それの噂話に、うつつを抜かしている連中だった。当初、美喜子も誘われていっしょにカラオケに行ったことがある。演歌ばかりで美喜子が歌えるものがない。男たちは演歌でなければ、軍歌なのだ。促されて仕方なく、美喜子は「五番街のマリーへ」というバラードを歌った。別れたかつての恋人を気遣う歌詞だ。しらけた。それ以来あまり誘われない。でも、誘われなくて内心、ほっとしていた。
食事の時間になると、彼らはたいてい食堂に居座っている。彼らに会うのが面倒で、美喜子は食事はできるだけ自室で済ませるようになっていた。 「山辺さん、こっちにいらっしゃいよ」
ひとりが手招きした。
しかたなく同席するはめになった。
「山辺さんは、パソコンのお勉強中ですって?」
思わず絶句した。ここでの情報の伝達はコンピューターより速いのではないか。パソコンの話をしたのはお隣さんだけだ。それもつい今朝のことだ。お隣さんから漏れたのだろうか? 彼女が故意に、面白おかしく話して聞かせたとは思いたくなかった。ちょっと口を滑らせた言葉が、こういう閑を持て余している人たちに瞬く間に広がったか? 人の噂にかけてはとびきり勘のいい連中だった。それとも、パソコンが電気店から配達されてきたところを誰かに目撃されたか? 回転の鈍くなった頭を、この時ばかりは目まぐるしく回転させた。
「さすがにインテリは、やることがわれわれとちがいますなあ」
れいの軍歌氏が言う。
「われわれにも教えてくださいよ」 「見せてくださいよ、って言うほうがいいよ。われわれにできっこないんだから」 「そうだ、そうだ。一度、見せていただこう」
今にも大挙して美喜子の部屋に押しかけてきそうな勢いだった。
まだまだ、お見せする腕前でもないので、とかなんとか、言い繕って、その場はやり過ごした。
食事が終ると「お風呂に入りたいので、お先に」と席を立った。食事が終わるまで同席しただけでほとほとくたびれ果てた。いずこも同じ、ムラ社会であった。
だから、はしゃぎすぎだ、ちゅうの。と、部屋に帰り着き、ようやくひとりになると、おどけて言ってみた。見るともなしに、サイドボードの上の置時計に目をやった。艶を消した金色の置時計の振り子の上には、二匹のウサギが後ろ向きに乗っかって、ゆらゆら揺れながら時を刻んでいる。しばらくぼんやりとそれを眺めていた。短針が7を指した。ぽーんと音がして、ふりこのうさぎが一回転した。
「急がなくっちゃ」
弾かれたように美喜子は立ち上がった。パソコンの電源を入れた。
翌日は市のIT講座があった。春から美喜子はこの講座を受講していた。何を着て出かけようか、朝のうちから美喜子の頭はそのことでいっぱいだった。こういうことがてきぱきとできなくなってきていた。勤めていた頃の美喜子ははなかなかのお洒落だったのだ。通勤電車の時刻を気にしながら、手早く衣服を整え出勤する習慣が身についていた。今ではどうしてこうもしゃんとしないものなのか。老人臭い姿を晒すくらいなら、とついつい外出が億劫になってくる。加えて、少し前から踵を痛めていた。道中歩行困難になったらどうしようと、不安も兆す。 だいじょうぶ、だいじょうぶ、その時はタクシーを拾えばいい、なんとかなると、自らを奮い立たせながら、箪笥を引っ掻き回し、さんざんに迷った挙句、ペパーミントグリンのタンクトップに同系色のオーガンジーのブラウスを重ね、今年奮発して買ったグレイのスラックスを合わせてみた。靴は履き慣れたグレイのウオーキングシューズにしようと思う。一式揃えて、やっとほっと安堵した。
講座開始時刻のきっかり一時間前に部屋を出た。日傘も忘れずに持った。
玄関で常駐の職員から「お出かけですか?」と声をかけられた。
「ちょっと中央まで。夕方には戻りますので」と言う。 「お気をつけて、行ってらっしゃい」愛想よく送り出された。
バス停までは五分も歩けばよい。この市の中心部をバス停の名で中央と呼び慣わしていた。その中央まではバスで十五分。便利なようであるが、バスは朝夕の通勤時以外は、一時間に二、三本しかない。乗り遅れでもしたら大変だった。日傘を広げ、コンクリートで固められた道路沿いの舗道を急ぐ。山側もコンクリートでブロックされているが、その舗道とコンクリートブロックの隙間のわずかに残った地面に、びっしりと雑草が生えていた。 それがグリーンの細い帯になってどこまでも続いていた。
影のない舗道を美喜子は黙々と歩いた。途中、誰とも会わなかった。
バス停の、小さな屋根のついたベンチに腰かけて汗を拭っていると、陽炎のたつ道路のはじにバスがゆらりと白い車体を現した。時間通りだった。
中央のビルの四階の会場には、いつも通り一〇分前に着いた。講師の声が良く聞こえるように、前のほうに席を取る。平日の昼間という時間帯のせいで、メンバーは家庭の主婦らしい人と、美喜子のような老人が目に付く。内容もごく初歩的なものであった。
「くたびれましたね」
二時間の講座が終わり、後始末をしていると、後ろから声をかけられた。振り向くと、長身のモデルのように派手な顔立ちの若い女がにこやかに立っていた。思わず、一歩身をひいてしまった。なにかひどく場違いな感じがしたのは、自分になのか、その若い女になのかよくわからない。訝しく思う気持ちが先立って、あいまいに頷いたまま、やってきたエレベーターに共に乗り込んだ。
ビルの外の真夏の午後の日差しは、コンクリートの舗道を真っ白く発光させていた。一瞬眩暈がした。よろめいたはずはないと思うのだが、その若い女は美喜子のからだを支えた。
「大丈夫ですか? どこかで休んでいきましょう」 腕をとられたまま、近くの喫茶店に入った。 断ることもできたはずなのに、なぜそうしなかったのだろう。講座の間ずっと緊張していたせいで、美喜子はかなり疲労していた。炎天下に、女を振り切って歩き出す体力も気力ももはやなかった。それに女の口調や態度は自然ではあったけれど、どこか有無を言わさぬ押しの強さを秘めていたのも事実だった。 クーラーの効いた喫茶店の、ボックスシートに腰をおろし、運ばれてきた冷たいおしぼりを額に当てていると、ようやく人心地が戻ってきた。 「いつも一番前の席におられますね」 美喜子が落ち着いてきた様子を見て、女が口を開いた。 「わたしなんか、いつも時間ぎりぎりで、後ろの席しか空いてなくて……前の席に上品なおばあさんがおられるなあ、って。いつも見ていたんです。あっ、おばあさんだなんて、ごめんなさい」 「いいえ、おばあさんですもの。構わないわよ」 「わたし中田ゆかり、といいます」 女はバッグをごそごそ掻き回すと、淡いレモン色の小振りの名刺を差し出した。小花を散らした地模様の中心に「中田ゆかり」と名前が横書きに印刷してある。その下に090で始まる携帯電話の番号のみが書かれてあった。 「ここに職業、肩書きを書き込むのが目標なんです」 と言って悪戯っぽく笑った。 名刺まで差し出され、こちらが名乗らないのも、と思い、「山辺美喜子と申します。あいにくと名刺はございませんが」と言うと「どちらにお住まいですか?」と聞いてきた。「緑ヶ丘」と言うと、「え?」という顔をした。 「ここからバスで十五分ほど山のほうへ行くと……」と言いかけると、「ああ、あの辺りですか」と合点がいったふうだ。 「あの辺りも老人マンションだとか、少しずつ建ってきていますよね」 「その老人マンションなのよ。『エクセレンス緑ヶ丘』」 と言い直すと女の顔が輝いた。 「あの、立派なマンション」 「立派だなんて、あなた。老人ホームですよ」 「そんな……。悠々自適で暮らしてらっしゃる、うらやましいな。わたしなんか会社クビになって、これから仕事探さなきゃ、ってところなんです」 それから三十分ばかり他愛のない話しをした。インターネットのプロバイダーはどこがいいとか、親切なマニュアル本はなにか、とか。ゆかりは情報通らしく、美喜子の知りたいことに的確なアドバイスをくれた。楽しかった。もっと話していたかったけれど、相手は見ず知らずの行きずりの女、という警戒心が頭をもたげてきた。買い物があるのでそろそろ、とレシートを持って立ち上がりかけると、「あっ、ここはわたしが……」とゆかりが追ってきた。「いえ、くたびれたおばあさんにご親切にしていただいたお礼」いくぶん皮肉を込めて言うと、すなおに「ごちそうさまです」と頭を下げた。
それからスーパーに寄って、鯵の干物とほうれん草のおひたし、ヨーグルトを買った。焼きたてのクロワッサンも買った。
部屋に帰り着くと、電話が鳴っていた。内線ではなく、外からかかっていることを告げる黄色いランプが点滅しているのが見えた。靴を脱ぐ間ももどかしく、転がるように部屋を横切り、受話器を取った。
「お久しぶりです」
電話はかつての職場の後輩の啓子からだった。
啓子とは二、三年いっしょに仕事をしただけであったが、みょうにウマが合うというのか、慕われて、その後もずっと付き合いは続き、美喜子が退職後も、時々電話をくれたり、会食の機会を設けてくれたりしていた。
まだここに入居して間もない頃、啓子は他の後輩たちとともにここを訪ねて来たことがあった。食堂へ案内した時、「お嬢さんですかな?」と尋ねられたっけ。あれはれいの五人組のうちのひとりだったか? 指を折って数えると、啓子もそろそろ五〇に手が届く年頃であるはずだが、あの老人ばかりの食堂では若い娘のように華やかに人目を惹いた。子供はなくても、こうして若い人たちから慕われていることが誇らしかった。
啓子と話すのはあの時以来であった。
互いの近況を報告してから、
「学校もこのごろ世知辛くなりました」 近頃では挨拶のようになってしまった台詞を啓子は口にした。世間の不況に加えて少子化の影響は深刻であるのだろう。正職員の数をどんどん減らして、その穴を派遣職員で埋めていこう、というのが経営者側の姿勢で、自分のポストがいつ奪われるか、皆、内心「戦々恐々です」と言う。
美喜子が新制高校を卒業して、タイピストとして就職したのは一九五〇年。途中で一般事務職に転身を勧められ、内部試験に受かって、最後は課長補佐で退職した。大卒者が大半を占めるようになった職場で、高卒の女としてはまあまあの出世であった。学生課で新卒の啓子といっしょに仕事をしたのは、美喜子が四〇をいくつか過ぎた頃だったか。それは恋愛や結婚問題で揺れた年頃を過ぎ、このままこの職場に骨を埋めようと密かに決意した時期でもあった。決意してみると、にわかに仕事が面白くなってきつつもあった。一九七〇年代の学園紛争のうねりは、お嬢様女子大にも押し寄せて来ていた。まだ学生のような啓子とともに、団交を要求する学生の対応に当たった。機動隊まで出動した他の大規模大学とは比べるべくもないが、熱く緊張した日々だった。
啓子はその後職場結婚し、二人の娘は、たしか、高校生と中学生になっているはずだった。
「面白かったですねえ、あの頃は。みんな家族みたいだったし」
ほんとにね、と相槌を打ちながら、啓子の話す今の職場の状態が、どうにもしっくりとは伝わってこないことにもどかしさを感じる。退職して十年近い歳月は、自分の身を守る殻を、より強固に築き上げることのみに費やされてきたのか。自分は、世の中の動きや出来事に反応しない鈍い心になり果ててしまったのか。
「実はね、パソコン買ったのよ」
話が途切れた頃合を見計らって、言ってみた。
「えーっ、パソコンやるんですか? すごーい」
弾んだ啓子の声。この声が聞きたかった。
「この前、あなたに会った時、メールはおもしろいし便利だから、やりましょうよ、って、さんざん勧められたでしょう。一年経ってようやく重い腰をあげたってわけ」 「うれしいな。美喜子さんにメールで愚痴を聞いてもらえるようになったら。わたし悪口いっぱい書きますよ。Aさんやら、Bさんやらの」
啓子は美喜子の後輩で、今や管理職である誰彼の名前を挙げて、電話口で愉快そうに笑った。
「ちょっと待って。まだまだ初心者よ。とにかく今は住所録をこさえなきゃ。なにせ四〇〇件よ。メールはいつになるかなあ、この世とおさらばするまでにはなんとかなるかなあ」 「そんなあ。美喜子さんはタイピストをしてらしたから、キーボード操作はお手の物でしょ」 「タイプライターとコンピューターとでは、だいぶようすが違います」 弾む会話だった。久しぶりに気分が高揚していた。そのせいで、啓子のそわそわした気配を受話器を通して感じるのが、少し遅れたようだった。 「ごめんなさい」
遠慮がちに啓子が言った。
「今、ダンナが帰ってきたもので」 「あっ、それなら早く言ってくれればいいのに。ご主人、お腹をすかしてらっしゃるでしょ。早く食事の支度をしてあげて」
あたふたと電話を切った。ひんやりした塊を抱いた。部屋がすでに薄暗くなっていることに初めて気付いた。のろのろと立って、電気をつけた。靴脱ぎに今日履いて外出したグレイのウオーキングシューズが見えた。子供が大慌てで脱ぎ散らかしたあとのように、乱れたハの字のかたちで、黄色い明かりの中に浮かんで見えた。
左足の踵に疼痛があった。靴下を脱いで、かさついてひび割れた裸足の踵をさすった。左足を庇いながら、のろのろと立ち上がり、冷蔵庫から残りご飯を取り出してきて電子レンジで温めた。スーパーで買った惣菜にパックのまま箸をつけた。
食べ終えると、そのままソファにのめり込んでいきたがるからだを叱咤しながら、急ぎの書類を作るようにパソコンに向かった。
どれくらいそうしていただろう。美喜子はそっと老眼鏡をはずすと、凝った肩を揉みながら時計を見た。針は一時を指そうとしていた。とんだ宵っ張りの年寄りだ。と、ひとりごちた。部屋は少し冷えすぎているようだった。食事兼用のテーブルの上には、ノートパソコンのほかに、古い葉書の束、以前、ワープロで打ち出した分厚い住所録の綴りが乗っている。それらを掻き分けてエアコンのコントローラーを探し出すと、「切」の表示キーを押した。虫の羽音のような微かな機械音が止んで、瞬時、無音の真空の空間に、ひとり放り出されたような気持ちがした。美喜子は小さく身震いした。
一週間たった。盆も過ぎ、日差しもいくぶんかは和らいできたようだ。と、ベランダの外を見やりながら、美喜子は希望的な憶測をする。実際、この夏の猛暑はこたえた。
クーラーが苦手な美喜子はなるたけ窓を開け、外の風を室内に取り込みたいと思うのだが、望む風は得られず、かえって室内に侵入する熱気はぶ厚い層となって美喜子を取り囲み、息苦しくさせた。
年々、暑さ、寒さに弱くなっていくからだを、自覚せざるを得ない。昔はむしろ好きだったのだ。きっぱりとした暑さ、寒さが。それを楽しむ体力の余裕が今はもうない。
バス停に向かう道すがら、真昼間であるにもかかわらず、人っこひとりいない舗道を黙々とを歩いていると、容赦ない日差しに自分ひとりが意地悪く狙い打ちされているような気持ちになる。道端の雑草の群棲は丈が伸び、グリーンの帯は、てんでに勝手気ままな曲線を描いて蛇行している。
相変わらず外出の支度に手間取ったものの、予定通りの時刻にIT講座の会場に到着した。美喜子は部屋の中を見渡した。この講座も回を重ね、見覚えのある顔がひとりふたり、見える。少し懐かしい感じがした。軽く会釈しながら、何か物足りない気がしていた。ゆかりの姿が見えないのだった。
最前列のいつもの席に座り、講師が来て、講座が始まってしばらくした時、突然背中をつつかれた。パソコン操作に没頭していた美喜子は、飛び上がらんばかりに驚いた。講師が怪訝な顔を美喜子に向けたから、もしかしたら、ひえー、とでも口走ったのかも知れない。振り向くと、真後ろの席で、ゆかりが悪戯が見つかった子供みたいな顔で、いた。
講座が終わると、ゆかりと連れ立って部屋を出た。パソコンの解説書を探していると言うと、ゆかりは心安く本屋に付き合ってくれた。
「これ、わかりやすいですよ」 「よくわかるWINDOWS」という赤い表紙の本を、ゆかりは美喜子に向かって差し出していた。「わたしもこれ、持ってるんです」 「そう、じゃあ、それにしようかしら」
先にレジに向かった。ゆかりは文庫本を買うつもりらしかった。
レジを済ませた美喜子がゆかりを待っていると、腑に落ちない表情で、ゆかりがやってきた。手にはおつりの硬貨を握っている。美喜子と目が合うや、はっと我に返ったように、
「行きましょう」 と、美喜子の腕を取って足早に歩き出した。混雑した店の中を、人を掻き分けてずんずん進む。肩がぶつかろうがおかまいなしに進む。一度など、人の足を踏んづけてしまった美喜子が慌てて謝ろうとすると、その隙も与えず、ゆかりは美喜子を引っ張って行く。
本屋を出て、商店街のアーケードを数十メートルも行ったあたりで、ようやくゆかりは美喜子の腕を放した。美喜子はすぐには口もきけないほど、心臓が早鐘を打っている。
「いったい、どうしたって言うの」
怒気を込めて、ようやくそれだけ言った。やっぱりこんな女に気を許すんじゃなかった。踵が痛い。老人のわたしを無理やりこんなふうに走らせるなんて――。見るとゆかりも美喜子に負けないくらい、はあはあと、肩で息をしている。ゆかりは、これ、と手のひらを開いて見せた。華奢な手のひらに、五百円玉ひとつと、あと数枚の十円玉が乗っかっていた。
「おつり、間違えられたみたい」 「多かったの?」 「もちろん」
顎をつんと反らせて、ゆかりは大いに得意な顔をした。美喜子は思わず吹き出してしまった。つられたようにゆかりも笑った。それが引き水になったように、次から次から笑いがこみ上げてきた。道行く人が振り返って見ていた。
「だってわたし、失業者なんですもの」 「わたしだって、年金生活者なんですもの」
また、笑った。
帰りは、ゆかりが車でマンションまで送ってくれることになった。
「さっきね、思い出したの」
車が走り出して、美喜子は言った。
「何を、ですか?」
前方を向いたまま、ゆかりが問う。
「女学校の時のこと。もっとも、途中で終戦になったから、その時は、新制の高校になっていたかな。仲のいい友達に、進歩的な人がいてね。学校では、長い髪は必ずひとつに縛らないといけない、とか、いろんな細かい規則がまだ残っていて、そんなのこの時代におかしい、って彼女は反発していたの。その日、彼女はきれいに梳かしつけた長い髪をなびかせて、登校した。彼女とわたし、並んで廊下を歩いていたら、向こうからターザンというあだ名の体育の女教師がやってきたの。女学校時代からいる教師で、本名は桜子って言うんだけど、真っ黒に日焼けした、逞しい先生だったから、生徒たちはみんなひそかにターザンって呼んで怖れていた。彼女、どうしたと思う? いつもの勇ましい言動とは裏腹に、美喜子、逃げよう、って、わたしの手首を掴んで回れ右、して、もと来た廊下を一目散に駆け出したの。わたしは何も規則違反なんかしていないのに、何でわたしも、と思いながら、でも、彼女に手首を掴まれたまま、わたしも一目散に逃げたのよ。あの日のことを思い出したわ」 ゆかりは、ふふ、と笑った。 「ところで、あなたは、ずっと、こちらにお住まいなの? よく道をご存知だし」 「大学に入学して以来です」 と、ゆかりは言った。卒業してこの町で就職した。業界紙を発行している小さな会社だった、と、ゆかりは自分のことを話した。その会社が、折からの不況で、業務縮小することになった、と言う。「つまりリストラされたんです」と、冗談めかして言った。いま、三二と言う。 「独身です。一度結婚しましたが、今は独身」
美喜子の次の質問を見透かしたように言う。
頷いて美喜子はそっと、隣のゆかりの顔を見つめた。ハンドルを握りしめ、じっと前方を見つめたままの横顔が、対向車のライトに浮かび上がった。すらっとした鼻梁の下に、固く意志的に結ばれた唇があった。その横顔は決して笑ってはいなかった。
両側の切り崩された山の断面を、車のライトは舐めるように照らし出している。見覚えがある、と気付く間に、車はもうマンションのアプローチに滑り込んでいた。一〇分も乗っただろうか。
「ほんとに、よく道をご存知ねえ」
感心して美喜子は言った。
「もう一〇年以上この町に住んでます。ベテランドライバーですよ、わたし」
ご用の節はなんなりと、とおどけて言った。
じゃ、次のIT講座で、と手を振って別れるつもりが、
「ちょっと寄っていらっしゃいよ。お礼にお茶でも」 と誘っていた。よく知りもしない女を部屋に招くなんて、かつての美喜子には考えられない行動だった。ちらっとそれを意識したが、このまま別れてしまう惜しさのほうが勝っていた。 「じゃ、少しだけ」
戸惑うこともなく、ゆかりは言った。来客用の駐車スペースに、難なくバックで駐車させると、美喜子の後に従って車を降りた。
玄関をくぐると、職員が明るく声をかけて来た。
「お帰りなさい、山辺さん。デートでしたか?」
事務室から見えていたのだろう。
「そうそう、若いお嬢さんとね」
調子よくそう応じて、
「送っていただいたから、部屋でお茶でも、ってお誘いしたの」
ゆかりは職員に軽く会釈した。ふたりでエレベーターに乗った。
「少し、待ってちょうだいね」
部屋の靴脱ぎにゆかりを待たせて、美喜子は出かけた時のままの部屋を片付けた。いつもはなかなか重い腰が上がらないのに、この時ばかりは手早い。数分で取って返すと、ゆかりは飾り棚の青磁の壷を物珍しげに眺めていた。
「それね、飛び青磁というの。青磁の釉薬の下に鉄で斑紋を散らせてあるの。中国の元の時代に発明された技法でね、ちょっと面白いでしょう」 「そんなに古いものなんですか?」 「まさか。これは現代の日本の作家のものよ。前のマンションを買ったとき、お友達からお祝いにいただいたの」 「はあ、作家もの、ですか。高いんでしょうね」 「さあ、いただきものだから、お値段は……」
値段を聞かれて、美喜子はちょっと嫌な気分になった。金額のことより、その壷を贈ってくれた友人のこと、彼女がどんなに趣味のよい素敵な人で、彼女との付き合いがどんなに愉快なものであったか、そういうことのほうを聞いてほしかった。
部屋に通し、椅子を勧めてから、美喜子は湯を沸かそうと台所に立った。
「素敵なお住まいですね」 「初めはね、もっときれいだったのよ。でも、ひとり暮らしはダメね。ついつい不精になってしまってるわ」 「わたし、実は興味があったんですよ」 「そうみたいね」 「いえ、決して興味本位と言うんじゃなくて……」
ゆかりは慌てて言葉を継いだ。
「誰だって年を取るでしょう。わたし自身の問題として、それは切実に……」 「さっき、一度結婚した、っておっしゃったわね。そのこと、お聞きしてもいいのかしら?」 ええ、とゆかりは頷いた。「もう、終わったことですから」 「職場結婚でした。新入社員の頃、初めは先輩と組んで仕事を覚えていくんです。その時の先輩が彼でした。ほんとにもう、夢中の日々。先輩の全てを吸収して、早く一人前になりたいと、必死でした。ずっと先輩を見ていた。それが、幼い恋の始まり」
にっこり笑って美喜子を見た。美喜子は頷き返した。
「でも、結婚すると変わってしまうんですね。わたしもようやく一人前の仕事が出来るようになって、仕事がおもしろくなってきていたし。彼はわたしを頭では理解していただろうけど、わたしが仕事に打ち込むのが、内心面白くなかった。部屋が片付かなかったり、食事に手を抜いたりすると、やっぱり機嫌が悪かった。さっき、リストラと言いましたけど、ほんとうは依願退職なんです。職場の雰囲気がなんとなく、居辛いものになった、ということもあるんですが。彼とずっと同じ職場にいるのが、やっぱりつらかったし」
美喜子にも経験があった。職場で共に仕事をした相手に、同志的な、家族的な絆を感じたことは、過去に幾度かあった。それが恋愛と呼ぶものに変化したこともあるにはあった。美喜子に結婚経験はないが、ゆかりを理解できる気がした。
湯が沸く音がした。台所に取って返し、「紅茶でいいかしら?」と聞くと、「はい。でもどうぞおかまいなく」と言う返事が聞こえた。
二人ぶん淹れたダージリンと、買い置きしていたクッキーを盆に載せて戻ると、ゆかりは机の上のノートパソコンに目を止めていた。
「これ、最新型のですね。すごーい」
紅茶とクッキーを勧めながら、
「実はね、バブルの頃預けた定額貯金が満期になってね。ちょっと思いがけない額になったから、この際だから、って買っちゃった」
美喜子はくつろいだ気分で言った。
「お金は墓場には持っていけないし、残してやる身内もないしね。ええい、使っちゃえよ」
紅茶の湯気の向こうで、ゆかりの額がじっとり濡れて光っていた。
「ごめんなさい。暑いわね」
美喜子はエアコンのスイッチをオンにして、急速冷房にセットした。
「ちょっとパソコンを見せていただいてもいいですか」 「どうぞ、どうぞ」
ゆかりはパソコンにそっと触れた。
「どうぞ、立ち上げてみて」 と言うと、長くよくしなる指でキーボードを操作した。ティーカップを持ったまま、美喜子が近付いて覗き込むと、昨日まで打ち込んでいた住所録の画面が出ていた。 「それね、今作業中なの。なにせ四〇〇件だから、もう大変。そのためにパソコン買ったようなものなの」 「四〇〇件」
鸚鵡返しにゆかりは言った。さして興味のなさそうな声だった。そして、
「いいな、わたしもこれがほしかったんだ」と呟いた。 「懇意にしている電気屋さんがあるから、口を利いてもいいけど。安くしてもらえるはずよ」 「ほんとですか」と、ゆかりは輝いた顔を上げた。けれどすぐに、でも、と口ごもった。美喜子は逡巡するゆかりがいとおしくなった。 「お金なら、立て替えてもいいわ。返済はもちろん無利子、分割払いでもいいわよ」 一拍の間があった。 「ありがとうございます」
ゆかりは丁寧に頭を下げた。
あれから一週間が過ぎた。台風が近付いていると、朝のニュースは告げていた。
硝子窓に当たる風がごうと音を立てている。まだ成長し切らないせいか、ひどくまばらに見える街路樹が、か細い幹を右に左に、激しく撓らせている。今にもぽきりと音を立てて折れそうだ。雨がくる前の灰色の空は重たく不穏で、嵐の前の緊張をつぶさに伝えてくる。
「今日は外出を控えてください」 と館内アナウンスがあった。
酔狂な。こんな嵐の日に誰が出かけるものですか。と、美喜子はひとりごちた。今日はIT講座の最終日であった。おそらく延期になるのだろう。ゆかりはどうしているのだろう。あれからなんとも言ってこない。
窓が開けられないのでエアコンを除湿にしている。三時のお茶に熱いダージリンを淹れて飲んでいたら、窓の外がさらに暗くなって、ついに雨が降り出した。蛇口を一気に全開にしたような激しい雨が、斜めに硝子窓を叩きつけた。雨脚は窓いちめんにリズミカルな線模様を描いていく。眺めていると、どこかで見たような気がしきりにしてきた。しばらく考えていて、そして思い出した。それは前にテレビで見た、コンピューターで作った画像だった。マチスの絵のように、明快な色と線で表現された人々が、手を繋いだり、解いたりして群舞しているさまだった。
ふと、ゆかりに電話してみようと思った。
美喜子は自分からはめったに電話しない。無遠慮に相手の時間に飛び込んで行く、電話というものがもともと苦手だった。特にここに移り住んでからは、寂しがっていると、相手に余計な気遣いをさせてしまうのを懼れていた。けれど今はためらわなかった。
財布からゆかりの名刺を取り出して、〇九〇で始まる、携帯電話の番号を押した。しばらく呼び出し音が鳴って、「ただいま電波の届かないところに……」というアナウンスが聞こえた。美喜子の胸に小さな不安が芽生えた。
パソコンの代金は、三日前に電気店を訪れて支払ってあった。その時、品物はすでにゆかりに配達済であることを確認していた。
遠くでかすかに、地の底から湧きあがるような雷の音がしていた。もしや、ゆかりは美喜子にパソコンの代金を出させたまま、どこかへ消えて行ってしまったのではないか。徐々に湧き上がる疑念が胸を締めつけ始めた。少しずつ雷鳴が近付いて来た。
ぬるくなったダージリンを飲み干した。ひとまず心を落ち着けようと、パソコンに向かった。ゆかりへのパソコン配達の手配やら、支払いやらで忙しく、ゆかりが来たあの日以来、美喜子は自分のパソコンに向かっていなかった。
爽やかな木漏れ陽の壁紙画面がまず立ち上った。そして住所録、のはずが、ない。保存してあるはずのファイルがどこにもない。頭にかあーっと血が昇り、その後すうーっと引いていくのがわかった。指先が震える。動悸が激しくなる。ゆかりだ、ゆかりの仕業だ。
その時、世界が紫色に発光した。射抜かれたように美喜子は硬直した。
稲光だった。一瞬の後、地面を叩きつける轟音が響いて、紫の光が失せた。部屋は暗く、静かだった。停電しているのだ。天井の蛍光灯、電話機、冷蔵庫……。すべてがしんと鎮まりかえった。バッテリーの効いたパソコンの画面のみが青白い光を放っている。この薄暗がりに放置されているものは、空っぽのパソコン、そして美喜子……。美喜子は部屋を転がり出た。
非常灯がぼんやり廊下を照らしている。窓がないぶん、室内よりなお暗い。どこへ行くあてもないまま、廊下の壁を手探りで進もうとしていた。と、お隣から物音がして、ドアが開いた。ご夫婦も廊下に出てきた。
「すごい雷でしたね」と美喜子のほうから声をかけた。 「近くに落ちたのかしら」奥さんの声が応えた。
その時、「すぐに復旧しますので、ご安心ください」と、館内放送があり、終るのと同時くらいに電気がついた。
ひどく明るく感じる電気の下で、お互いの顔を眩しく見つけた。間抜けた感じで、お辞儀しあった。 「廊下に出たついでに、郵便受けでも覗いてきますわ」
なんだか照れくさく、一刻も早くこの場を立ち去りたいような気持ちになった美喜子は、いつものようにエレベーターに乗ろうとして、ご主人に止められた。
「階段で行かれたほうがよろしいよ。いつまた停電するかもしれんから」
礼を言って、階段を使うことにした。途中で何人もの人に出会った。みんな、部屋でひとりでいることより、外へ出ることを選んだのだ、と美喜子は思った。ふだん話などしたこともない人も、「こんばんは、びっくりしましたね」などと、声をかけ合って行った。みんな少し興奮していた。
郵便受けの中はからっぽだった。同じように郵便受けを覗いている人物がいた。れいの五人組のうちのひとりだ。
「なんにもなし」
開けもしないで、隙間から中を覗いて見て言った。美喜子と目が合った。美喜子は両手を広げて、肩をすくめる、西洋人がよくやるしぐさをやってみせた。
「わたしも、からっぽ」と言ったつもりだった。通じた。彼女の目に、親しみの感情が宿るのがわかった。なんとなくそのまま肩を並べて、階段を上って戻った。二階に着いた時、「わたしは、ここで」と彼女は言った。互いにお辞儀しあって別れた。再び階段を上り始めた美喜子が振り返ると、同時に彼女も廊下の途中で振り返った。今度は互いに、胸の前で小さく手を振り合った。まるで恋人どうしみたいだ、と部屋に帰り着くまで、美喜子はおかしかった。
部屋で電話が鳴っていた。突如目覚めたけもののように、外線を知らせる黄色いランプがせわしなく点滅している。受話器を取った。
「もしもし……」
返事がない。ノイズもひどい。間違い電話かしら、と訝っていると、
「もしもし、もしもし」 と密かに声がする。 「山辺さん、わたしです。中田ゆかりです」 「えっ、中田さん?」
こちらの声も聞き取りにくいのだろうか。ゆかりは一方的とも思える調子で話している。
「今ね、ラスベガスなんです。アメリカの」 いったい何を言っているのだ、ゆかりは。 「旅行社に勤める学生時代の友人から、キャンセルの穴埋めに格安で、と急なお誘いで。山辺さん、聞こえます? ここからストリップ・ストリートが見えます。きれい。光の洪水。美喜子さんにも見せてあげたい。えっ、ストリップじゃなくて、ストリップ・ストリート。みんなカジノでスッて、素っ裸のストリップになるからその名がついた、というのはウソです。ほんとうの意味は細長い帯状の道、っていう意味なんですって。でも、わたしもカジノに行きました。明け方まで遊んで、文字通り、スッカラカンのストリップ状態」
だんだん、ゆかりの声が明瞭になって、すぐ近くからかけてきているような錯覚に陥りそうになる。
「車で走っていると、砂漠の中から突然現れるんです、ラスベガスは。まるで蜃気楼みたいに」
そこでプツリと電話は切れた。「もし、もし、ゆかりさん」呼びかけても返事がない。もしや、また停電? 訝ってみたが、ツーツーという発信音は確かに聞こえる。あっけに取られた。ため息をついて受話器を戻した。
さっきから目の端にちらちらするものがあった。つけっ放しのパソコンだ。美喜子のパソコンは、海底の壁紙のセーバー画面になっていた。右のほうから極彩色の熱帯魚が現れて、ぷくぷくと泡を吹いている。左からエイが、のんきそうにひらひらと泳いでくる――。
パソコンの礼も言わないで……。人に借金しておきながら、ラスベガスだの、カジノだなどと、いったいどういう了見なのだ。おまけに、大切な住所録のファイルまで消してしまって――。ひとつひとつ、ゆかりのしでかしたことを数え上げながら、ふしぎと怒りの感情が失せていることに気付いていた。美喜子はパソコンの電源を切った。
いつの間にか雨風はやんでいた。嵐は通り過ぎたらしい。ベランダに出て、避難させていた鉢植えや物干しを元の位置に戻した。風に吹き寄せられた木の葉が、隅の排水口にたまっていた。取り除こうと、屈んだ頭の上を、光る何かが越えていった。立ち上がって見ると、ライトをつけた乗用車が道路を走り過ぎて行くところだった。
夕刻だった。車のテールランプが、幾筋もの滲む光の帯になって、幅広い郊外道路を滑って行く。近くの山を切り開いているブルドーザーのてっぺんに灯りが点った。 「ストリップ・ストリート」
口に出して言ってみた。
「砂漠の蜃気楼」 とも言ってみた。いくばくかの涼気を含んだ風が、美喜子の短く刈った髪の隙間を吹き抜けていった。
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