妻の朝子がくも膜下出血で急死してから一ヵ月が経っても、結城泰造は彼女の部屋に入ることができなかった。襖を開けることさえできないのだ。襖を開けたらそこに妻がいるような気がして恐いということもあるし、いなかったらいないでその時の自分の気持ちがどうなるのかわからないという不安もあった。仕事から帰ってきて部屋の電気がついていると、自分が消し忘れたことも忘れて、何だ、やっぱり生きてたんかと思うこともあったし、夕刊の記事に怒って、思わず流し台に顔を向けて声を出すこともあった。
妻の部屋に入れないで一番困るのは、洗濯物を干しづらいことだった。ベランダの干し場は妻の部屋に面しており、泰造は仕方なくダイニングキッチンから狭いベランダに出て、カニの横歩きよろしく体をずらせていき、干し終えるとまた同じ恰好で戻ってくるということをやっていた。腹の出ている泰造にとって、エアコンの室外機を避けながら、手摺りに腹を擦って横に歩くのは、一苦労だった。妻の部屋のカーテンが閉まっているため、中が見えないのは幸いだったけれども。 泰造が夕方川べりの散歩に出ようと思い立ったのは、その時分に家にいることがいやだったこともあるが、歩けば少しは腹もへこむかと思ったことも頭にあった。泰造は小さな洋菓子製造会社で配送を担当しており、夜中に一人で仕事をしていた。だから日曜日以外、朝からパートに出ている妻と顔を合わせるのは、夕方だけだったので、日が暮れて部屋の中が薄暗くなってくると、今にも妻が帰ってきそうな気がして落ち着かなくなるのだ。それで夕方になると外に出て、パチンコなどで時間をつぶし、定食屋で晩飯を食べて、そのまま会社に行くというふうになってしまった。 その日、泰造は自転車に乗って、近くの川まで行った。堤防の階段を使って自転車を押していくと息が上がり、泰造は堤防の上で、しばらく呼吸を整えなければならなかった。その横をジョギングする人やバイクが通り過ぎていく。 泰造は落ち着くと、川の方に目をやった。夕闇が広がる中、銀色の太い流れが続いている。堤防の内側には野球のグラウンドがあり、ずっと向こうにはテニスコートも見えていた。更年期の憂鬱を解消するためにテニスを始めた妻が泰造にもしきりに勧めたが、結局泰造は一度もラケットを握らなかった。それどころか妻のテニスをしている姿を見たことさえなかった。試合に出るから見に来てと妻が言うこともあったが、生返事をして見に行かず、帰ってきた妻の話を聞くだけだった。 泰造は堤防の上を自転車で行き、坂道があったのでブレーキを掛けながら慎重に川原に降りていった。そして川べりまで行って自転車を止めると、舗装された護岸に沿って歩き始めた。鉄パイプのガードレールがあり、護岸と川の間は灌木や葦が生えていた。犬を散歩させている人の姿がちらほら目に付く。 しばらく行くと、ネットフェンスで囲まれたテニスコートが見えてきた。泰造は立ち止まって、無人のコートを見た。河川敷のテニスコートとはここのことやったんかと泰造は思った。妻の話には何度も出てきたが、間近で見るのは初めてだった。日曜日ごとにここに来てたんやから、一度くらい見に来てやったらよかったなと思った。そういえば、まだラケットはあの部屋にあったな、何本かあったんやから、一本くらい棺桶の中に入れてやればよかったな、ふとそんなことも思った。 テニスコートの横を過ぎると、川の中に池が現れてきた。堆積物に周りを取り囲まれ、一ヶ所だけ川とつながっている。池の周りには釣りをするための小さな桟橋が何ヶ所かあって、数人が釣りをしていた。泰造は立ち止まって、釣り竿の先を見た。こうして釣りをしていれば、夕方の時間を潰せるなと思ったが、そうしないことはわかっていた。子供の頃、父親に連れられて釣りをしたことがあったが、泰造は一尾も釣れなかったのだ。もっとピッと合わさなあかんといくら言われても、できなかった。釣りはお前には向いてないと言って、父親は二度と泰造を釣りには連れていかなかった。 泰造はどの釣り人も釣り竿をぴくりともさせないのに飽きて、散歩に戻った。でっ腹のためにはもう少し早足の方がいいかもしれないと思い、心持ち腕を振って歩きかけたとき、前方を小さな影がよぎった。イタチかと思って近づいていくと、護岸の下に黒っぽい猫がいて、こちらを見上げている。泰造がおいで、おいでと手を振ると、猫はさっと葦原の中に逃げ込んでしまった。こんなところにいて、何を食べとるんやろ、釣り人が釣った魚でも貰うとるんやろかと泰造は思った。 次の日、昼過ぎに起きてビールを飲んでいた泰造は、つまみにしていた鱈の珍味をあの猫のために持っていってやろうかと思った。野良猫を手なずけるのも面白いのではないかと考えたのだ。少なくとも釣りよりも面白いに違いない。妻が猫好きで、いつか猫を飼いたいと言っていたことも頭にあった。野良猫に餌をやったという話を聞いたこともあった。賃貸マンションでは、猫を飼うことはできなかったのだ。 夕方、泰造は珍味の入った袋をジャンパーのポケットに入れて、家を出た。自転車できのう猫のいたところまで行ったが、猫の姿はなかった。しばらく周りを見たが、いなかったので自転車のスタンドを立て川べりに沿って歩いた。 戻ってみると、止めて置いた自転車のそばに虎模様の猫がいた。焦げ茶色に黒い縞模様があり、まだ子猫のようだった。泰造が近寄ろうとすると、逃げる仕種を見せた。泰造は周りに人がいないことを確かめてから、ポケットから珍味の袋を出してしゃがみ込んだ。紐状になった鱈を手に、泰造はじりじりと近寄っていった。しかしある程度の距離まで近づくと、猫はさっと護岸の下に降りてしまった。自転車のそばまで行って下を見ると、猫が見上げており、それに向かって泰造は手の中の珍味を投げた。珍味は猫の目の前に落ちたが、猫は驚いたように飛んで逃げた。泰造は珍味の味を覚えさせるつもりで、何本かを下に投げた。しばらく見ていたが、葦原から猫は姿を現さなかった。 翌日、再び珍味の袋を持っていくと、猫がいた。味、覚えたんかと泰造はほくそ笑んだ。近寄っていくと逃げたが、下に降りようとはしない。泰造は手に持った鱈を猫の前に放り投げた。猫は鼻先を近づけてにおいを嗅いでから、地面を舐めるようにして鱈を食べた。よしよしと泰造は声に出して言った。猫が一本を食べ終わると、もう少し手前にまた一本を放り投げた。猫は近寄ってきてそれも食べた。泰造はしゃがみ込んで腕を伸ばし、猫の鼻先で鱈をぶらぶらさせた。猫は前脚でそれをひっかけようとした。泰造はおっとっとというように前脚をよけ、腕をゆっくりと縮めた。猫がつられて近寄ってくる。ついにはそばまで来て、泰造の手から鱈を食べた。野良猫がそんなに簡単に人間の手からえさを食べて大丈夫かと泰造は猫に話しかけながら、次々と鱈を与えた。十本ほど与えたところで、後はおれの分やからなと言って、泰造は立ち上がった。しばらく歩いて振り返ると、まだ自転車のそばに猫がいて、こちらを見ていた。 明け方、会社からの帰りに泰造はコンビニエンスストアで珍味を五袋まとめて買った。 昼過ぎに起きてビールを飲むとき、泰造は猫用の袋を別にした。 夕方、行くと猫は泰造の来るのを待っていたかのように、立ち上がってガードレールの支柱に体をこすりつけた。待ってたんかと言いながら、泰造はしゃがみ込んで袋から一本取り出して与えた。猫は食べ終わると、催促するような目で泰造を見上げ、泰造が次を出そうとすると、袋を取ろうと手に爪を立てた。痛い、痛い。泰造は猫を振り払い、ちょっと馴れ馴れしすぎるんとちゃうかと言いながら、また一本を与えた。 猫に珍味を与えることが日課になった。自転車を止めて猫に珍味をやり、それから散歩をして戻ってくる。そこでまだ猫がいたら、また何本か与え、自転車に乗って、飯を食いに行くというようになった。泰造としては、餌を与えているつもりはなかった。野良猫だから、どこかでちゃんとした餌を食べているだろうから、珍味はいうなればおやつくらいの感覚だった。 妻の朝子に襖の外から手を合わせて、野良猫に食べ物をやっていることを報告した。葬儀屋が枕飾りに使った小卓と写真と骨壺を妻の部屋に置いていったのだが、泰造は一度もその前で拝んだことはなかったのだ。といって全く拝まないのも恐い気がするので、気が向いたときに部屋の外から拝むようにしていた。 「おまえの代わりに、やってるんや」そう呟いて、泰造は耳を澄ませた。部屋からは何の物音もしなかった。 そうして十日ほどたった頃、猫に珍味を与えていると、「イカを与えたら駄目ですよ」という女の声がした。見ると、紺色のトレーニングウエアを着た若い女がこちらを見ている。 「イカと違う、鱈や」泰造はむっとして、手にした珍味を振って見せた。一見すると、さきイカのように見える。 「そうですか。それは失礼しました」女はそう言って頭を下げると、泰造の方に近寄ってきた。髪を後ろに縛った顔が、神経質そうに見える。この時刻、犬を散歩させている若い女はよく目にしたが、一人でウォーキングしている若い女は珍しかった。 「それって、人間用の食べ物ですよね」 「そうや」泰造はイカでないことを確認させるために袋を女の前に突き出した。 女は袋をじっと見てから、「これ、酒のつまみですから塩分が濃いですよね」と言った。 「それがどうしたんや」 「猫にはあまり人間用の食べ物を与えない方がいいんですけど……」 「これは餌と違う。おやつや。ちょっとしかやれへんから大丈夫や」 「そうですか。それならいいんですけど」女はそう言うと、しゃがんで猫の頭を撫でた。猫は女の手に耳の後ろをこすりつけるようにした。 「バイバイ」女は猫に手を振って、離れていった。 女が遠ざかってから、おまえ、あの女と知り合いかと泰造は猫に向かって言った。猫は泰造の足に体をこすりつけて、次をねだる仕種を見せた。しかし女の言葉が残っていて、珍味をやろうかどうか迷った。結局それ以上与えずに散歩に行き、戻ってきたときにまだいたら少しやろうと思ったが、猫はいなかった。 翌日、猫用の餌を買った方がいいのか、珍味のままでいいのか、それとももうやるのはやめようかとさんざん泰造は迷ったが、日が暮れてくると珍味の袋をポケットに入れて、外に出た。猫用の餌よりも鱈の方がうまいに決まっていると泰造は思っていた。 いつもの場所に行くと、先客がいた。昨日の女だった。同じウエアを着ている。泰造は離れたところに自転車を止め、様子を伺った。 女は猫に話しかけながら袋から何かを取り出し、猫に与えている。泰造は何を与えているのか気になって、ガードレールに沿って少しずつ近づいていった。五メートルくらいまで近づき首を伸ばして女の手許を見ようとしたとき、女がこちらを見た。 「あ、昨日はどうも」と女が言った。泰造は黙って頭を下げた。それ以上近づくことができなくて、女の手許を覗き込もうとしていると、「これは猫用のドライフードです」と女は手のひらをこちらに向けた。黒っぽいものが乗っている。 「水も一緒にやるのが普通ですけど、ここは川がすぐそばにあるから要りませんよね」 こちらに話しかけているようだが、独り言のようにも聞こえるので、泰造は何も答えなかった。 女は袋の中の餌を全部与えると立ち上がり、泰造の方にちょっと笑顔を見せてから、腕を振って遠ざかっていった。 泰造は猫のそばに寄った。猫は前脚を舐めていた。泰造は袋から珍味を取り出し、ほらほら、あんなまずいものよりうまい鱈やぞと言って、猫の目の前でひらひらさせた。しかし猫は鼻を近づけてにおいを嗅ぐだけで、食べようとはしなかった。どうした、腹一杯なんか。泰造はなおも猫の鼻先に持っていったが、猫は顔を背けた。仕方がないのでその一本を目の前に放り、袋をポケットに仕舞って歩き出した。 散歩から戻ってみると、猫はおらず珍味だけが残されていた。 キャットフードの方がうまいんやろか、やっぱり人間の味覚と猫の味覚は違うんやろか、そんなことを思いながらも、泰造は次の日もやはり珍味の袋を持って出た。しかしいつもの場所に猫はいなかった。泰造は葦原にその姿を探しながら、行ったり来たりした。袋を握って音をさせてみたが、猫の姿は見えなかった。諦めて散歩に行こうとしたとき、離れたところにある植え込みの向こうに、紺色のウエアが見えた。俯いた顔が動いている。あそこで餌をやっているんとちゃうかと植え込みを回り込むように近づいていくと、果たして猫がいた。朽ちかけた木のベンチの上で、黒いものを食べている。女は猫の体を撫でている。女が気づいて顔を上げた。 「こんにちは」と女が笑いかけた。 「こんにちは」と思わず泰造も返した。挨拶をしたことで、近づきやすくなった。泰造は側まで行って、猫の様子を見た。猫は茶色や黒の星形のドライフードをがつがつと食べていた。女が散らばった餌をまとめようとすると、取られると思うのか前脚で押さえるようにして食べた。珍味を食べるときのどこか遊ぶような感じとまるで違っていた。 「キャットフードの方がうまいんかなあ」泰造は独り言のように言った。 「さあ、どうでしょう」女が笑った。 泰造はポケットから袋を取りだし一本抜くと、ドライフードの横に置いた。しかし猫はにおいを嗅ぐこともしないで、ドライフードだけを食べた。 「やっぱりあかんのか。すっかりキャットフードの味を覚えたみたいやなあ」 「すいません」と女が小声で言った。 謝られて泰造はびっくりした。 「いやあ……」それ以上言葉が出てこなかった。泰造は猫の頭を撫で、明日また来るわなと言って、その場を離れた。 散歩をしながら、明日から絶対キャットフードにしようと泰造は決めた。第一最初に餌付けに成功したんはこっちなんやからという気持ちがあった。 定食屋で夕飯を食べてから近くのスーパーマーケットに行き、キャットフードの棚を見た。いろいろな種類があり、泰造はどれにするか迷った。あの女に勝つためにはドライフードよりもうまそうな缶詰にした方がいいと思ったが、もし猫が缶詰の味を覚えてそれしか食わなくなったら、高い缶詰を買い続けなければならなくなる。それはちょっと困るというのが正直な気持ちだった。結局泰造は女が与えていたのと同じドライフードの五百グラム入りを買った。早く行って先に与えればいいと思った。 次の日、泰造はスーパーマーケットでもらってきた小さな袋にキャットフードをふた握りほど入れて、三十分早く家を出た。しかし川べりに猫はいなかった。先を越されたかと植え込みの向こうに回ってみたが、木のベンチは空っぽだった。早過ぎたかなとベンチに坐っていると、猫の鳴き声がして植え込みの中から猫が出てきた。前脚を伸ばして大きくのびをする。よしよしと泰造はうれしくなった。ポケットから取り出した袋の結び目をほどき、ドライフードをひとつかみ掴んでベンチに置いた。猫は飛び乗ると、舌で掬うようにしながらがつがつと食べた。泰造は女がやっていたように猫の体を撫で、ぴんと立てた尻尾も撫でてやった。 「こんにちは」後ろで女の声がした。泰造はあわてて猫から手を離した。女は手に袋を持っており、近寄ってくると猫を挟むようにベンチの端に腰を下ろした。 「同じやつにしたわ」泰造は猫を撫でているところを見られた気恥ずかしさをごまかそうと、袋の中を見せた。 「あ、ほんと」女は笑顔を見せた。間近で見ると、最初の神経質そうという印象が薄れ、子供っぽい感じがした。 袋から次のひとつかみを出して猫の前に置いていると、「もう長いこと、餌を上げてはるんですか」と女が訊いた。 「いや、二週間ぐらいかなあ」 「この子、可愛いですものね」女は手触りを楽しむかのように猫の背中を撫でた。 「そやなあ」 泰造は相槌を打ったが、特にこの猫が可愛いと思っていたわけではなかった。どの猫もそれなりに可愛いという感じを持っていただけだった。 「この子に名前付けてはります?」 「名前? いいや」 「だったら私が付けていいですか」 「かめへんよ」 女は立ち上がって泰造のそばにしゃがみ込むと、猫の顔を覗き込んだ。猫はドライフードを食べることに夢中になっている。 「まるこというのはどうですか。この子は雌だし、まるまる太っているから」 女はしゃがみ込んだ姿勢から顔を上げて泰造に言った。その表情と見上げる角度が女をさらに子供っぽく見せた。泰造は不意に、生まれてこなかった子供のことを思い出した。女の子だった。生まれていれば、これくらいの年齢になっているはずだという思いが突然起こり、そのことにびっくりした。今まで誰を見ても一度も思ったことがなかったからだ。 「だめですか」と女が再度訊いた。 「いや、まるこなあ、ええ名前や」 「そうでしょう」 女は、まるこ、まること言いながら、猫の体を撫でた。猫は撫でられるのを嫌がるように背中を引っ込めながら、餌を食べた。 持ってきたキャットフードを全部与えて泰造が立ち上がると、女も立ち上がった。 「餌やれへんのんか」 「一度にあまりたくさんやったらだめなんです」 「へえ、そんなもんか」 「この子なら一日三十グラムくらいかなあ」女は猫を見ながら言った。 「おれ、やりすぎたかな」 「そんなことないですよ」と女が笑った。 「おれ、明日から減らしてくるわ」 「そうしたら、二人で三十グラムにしましょうか」 女は秘密めかした口調で言った。 「そやな」思わず口許が緩んだ。 女は猫の前脚を掴んで、高い、高いをした。猫は無表情な顔をしている。そのうち後ろ脚をばたつかせ、女は猫を下ろした。バイバイ、まるこちゃんと猫に手を振ると、女は泰造に少し頭を下げ、泰造の散歩とは反対の方向に歩いていった。 洋菓子の配送中、泰造は、なぜあんなことを思ったのかと考えていた。子供がいたらなどと思ったことはなかったが、妻が死んで心のどこかでそんな気持ちがあったのかもしれないという気がした。 流産した後、妻はしばらく落ち込んでいたが、そのうち元気になった。すぐにでも次の子供を身籠もると思っていたし、そうなれば流産のことも忘れてしまうだろうと泰造も思っていた。しかし妊娠しなかった。妻はいろいろな病院を渡り歩いたが、原因は掴めなかった。泰造も一度だけ精液検査をしたことがある。 「いっぺん妊娠してんねんから、おれは正常やろ」と泰造は渋ったが、医者が確認のためにも調べた方がいいと言ったらしく、仕方なく妻の求めに応じた。結果は正常だった。 ずっと後になって、「おれは正常」と言った言葉が妻をひどく傷つけていたことを知った。何かで口喧嘩をしていたとき、ぽろっと妻の口からこぼれたのだった。泰造は何を今更昔のことをほじくり出すと腹を立てたが、一方では、そうか、そうやったんかと思ったのも事実だった。 妻はどのくらい病院通いをしていただろう。四年か五年か。それが過ぎて子供の話はぴたっとしなくなった。流産のことにも全く触れなくなった。ましてや妻と、生まれていたらいくつになるなどという会話はしたこともなかった。 明け方帰ってきて、寝る前に泰造は襖の外から手を合わせた。猫の名前、まるこいうことになったんや。娘さんが付けてくれてなあ。雄か雌かおれなんか全然気にしてへんかってんけど、やっぱり女の子はよう見てるなあ。流産した子供の姿を重ねたことは言いづらかったので、泰造は思いついたことを口にした。 昼過ぎに起きて、泰造は昼食代わりのビールを缶ビール一本だけにした。いつもと同じだけ飲んでも大丈夫だとは思ったが、万が一酒臭いにおいがしたらまずいと考えたのだ。夕方出るときも洗い立てのくたびれていないジャージーに着替え、ジャンパーも比較的ましと思われるものを着た。 川べりの道より一つ内側の道を自転車で行き、直接ベンチに向かった。遠くからベンチに人の坐っているのが見え、それが彼女だとわかると泰造はうれしくなった。 近づいていくと、女は顔を上げ小さく頭を下げた。泰造はベンチのそばに自転車を止めた。猫が警戒したように中腰になり、こちらを見た。 「餌、もうやった?」 「ええ、でも少しだけ」 「そんなら今度はおれがやろうかな」泰造はそう言いながらベンチの端に腰を下ろした。猫が太股の辺りに首筋をこすりつけてくる。 「よしよし」と泰造は猫の頭を撫でた。ポケットから袋を取り出すと、一握りだけ入れたドライフードを女に見せた。 「これぐらいやったら、ええかな」 女はくすっと笑ってから、「ええ、大丈夫だと思います」と答えた。 泰造は猫にドライフードを与えながら、「それにしても猫のこと詳しいねんな」と言った。 「実家で猫三匹飼ってましたから」 「実家てどこやのん」 「山形です」 「へえ、えらい遠いとこから来てんねんな」 「はい」 「こっちでは飼うてへんのん」 「アパート、ペット禁止なんです」 「あ、うちと一緒や。うちのマンションも賃貸やからペット禁止で、嫁はんがいつも猫の飼えるとこに引っ越ししたい言うててんけど」 女は猫の背中を撫でながら「引っ越しされないんですか」と訊いた。 「嫁はん、死んでもうたから」 「……すいません」 「いや、ええんよ。こうして猫に餌やんのも嫁はんの代わりにやってるみたいなもんやから」 猫がドライフードを食べ終わると、女は猫の前脚を持ち上げて、顔の前で赤ん坊をあやすように首を振り、猫が嫌がる素振りを見せると下に降ろした。 「それでは、失礼します」 女は小さくお辞儀をすると、肘を曲げて腕を振り、大股で去っていった。嫁はんが死んだなんて余計なことを言うたかなと泰造は気になった。 次の日は土曜日で、いつもだったら餌やりには行かないのだが、あの娘と一緒だったらおかしくないだろうと考えて泰造は出かけた。休みの日は河原の人出が多く、一人で猫に餌をやっている姿を見られるのが恥ずかしかったのだ。 晴れていたので案の定人出が多かった。夕方にもかかわらずバーベキューをやったり、バレーボールをしている人々がおり、犬を散歩させている人の姿も目立った。いつものベンチには若い男女が坐っており、一つの携帯電話を見ながら笑いこけていた。その前を通り過ぎて、泰造は川べりに自転車を止めた。 ざっと見たところ、猫の姿はなかった。泰造が猫を探して川べりを歩いていると、向こうから同じように葦原に目を向けながら歩いている彼女と出会った。 「まるこ、いませんね」 「人が多いから恐がってんのかな」 「それともすでに誰かから餌をもらったのかもしれませんね」 「そやなあ」 二人でしばらく猫を探したが、見つからなかった。 「今日はお休みみたいだから、私もう行きます」 泰造は彼女と反対方向に歩き出し、ときどき振り返って猫がいないか探した。彼女も振り返って護岸下を探しているのが見えた。 日曜日は夕方からぽつぽつと雨が降り出し、泰造はどうしようかと迷った。雨が降れば猫はどこかに雨宿りして出てこないのではないかという気がした。しかしあの娘が来ているかもしれないと思うと、中止できなかった。 片手で傘を差して、ゆっくりと自転車を漕いでいった。川面には雨の波紋ができている。犬を散歩させている人の姿はなく、テニスコートも無人だった。いつものベンチも雨に濡れており、今日は無理かなと思っていると、視界の隅に赤っぽいものが動いた。ワインカラーの傘だった。あ、来てる。急いでペダルを漕いでいくと、傘が回って彼女がこちらを見た。コンクリートのブロックに腰を下ろして、猫に傘を差している。 「雨降ってんのによう来たなあ」自転車のスタンドを立てながら泰造は言った。 「何だか日課みたいになっちゃって」と彼女ははにかんだ。 泰造は彼女の斜め後ろに半分傘が重なるように立ち、猫を見た。周りよりも乾いたところの残る場所で猫はキャットフードを食べていた。 全部食べ終わると、猫は彼女の足に体をこすりつけた。 「替わりましょうか」と彼女が腰を上げかけたので、泰造は「一緒にやって」と袋を差し出した。後ろから手が伸びてきて驚いたのか、彼女は一瞬たじろいだように体を引いてから、袋を受け取った。傘の柄を首で支えながら縛った袋の口を解くと、掌に中身を全部開けて地面にこぼした。猫は彼女の掌を前脚で押さえるようにしてキャットフードに飛びついた。彼女は袋を軽く縛り直して、泰造に返した。 傘に落ちる雨の音が多くなった。猫が餌を食べ終わっても、彼女は腰を上げようとはしなかった。猫は傘の下で、首を回して自分の体を舐めている。 「まるこ、どうすんの。お家に帰らないの。おねえさん帰るけど、ここにいたら濡れちゃうよ」 猫は傘の下を出て、鉄パイプの支柱に体をこすりつけた。彼女は猫の上に傘を持っていった。猫はぶるっと体を震わせた。 「濡れても平気なの。だったら帰っちゃうよ」 そう言いながら彼女は傘を外し、後ろ向きに歩き始めた。泰造は猫が濡れたままになるのなら傘を差し掛けようと思いながら見ていた。 猫は片脚を上げた姿勢で彼女を見ていたが、やがてその方向に走り出すと、彼女を追い越してそのまま下に降りていった。彼女は泰造の方を見て、よかったというように微笑んだ。泰造が笑い返すと、彼女は小さく頭を下げ、後ろ向きになって傘に隠れた。 次の日雨も上がり、泰造は河原の水たまりを避けながら猫の場所に行った。自転車のスタンドを立てているところへ猫が来て、泰造の足にすり寄った。人があまりいないので、泰造は猫をベンチまで連れて行って、そこでキャットフードを与えた。 しかし猫が食べ終えても彼女は姿を見せなかった。猫は食べ物を催促して、泰造の腰や太股に首筋をこすりつけるが、ないものはどうしようもない。「もうちょっと待ってや」と猫の背中を撫でながら、泰造は彼女が来るだろう方向を見たが、人の姿はない。早過ぎたかなと腕時計に目をやったが、大体いつもの時間だった。昨日雨に当たって風邪でも引いたんやろかと思った。 猫は腹が減っているのか、いつもは立てない鳴き声を上げて泰造にすり寄ったが、散歩の犬が近づいてくると飛ぶように植え込みの中に隠れてしまった。 泰造はいつもの散歩コースとは逆の方向に歩き始めた。彼女が遅れてやってきたら会うだろうと思ったのだ。しかしいくら歩いても彼女は現れなかった。 次の日も彼女は現れなかった。ひょっとしてと泰造は多めにキャットフードを持っていったので、猫は餌をねだることもなく、伸びをして自分の脚を舐めた。仕事でも見つかったんやろかと泰造は思った。それとも早番から遅番になったんかとも思った。彼女がどんな仕事をしているのか分からなかったが、なんとなくそんな気がした。 だから翌日も彼女が来なかった時には、遅番に違いないと確信した。仕事が見つかったのなら、どこか態度に表れるだろうというのがその裏付けだったが、どういう態度かは分からなかった。 週ごとに早番と遅番が交替するんじゃないかと思っていたから、次の日ベンチに彼女を見かけたとき、泰造は本当にびっくりした。 「こんにちは」と彼女が笑いかけた。 「よお」泰造は思わず片手を上げた。 ベンチに腰を下ろして猫と彼女を見ていると、いつもの日常が戻ったような気持ちがした。 「きょうおれ、いつもより多めに持ってきてるわ」と泰造はポケットから袋を取り出して見せた。 「すいません」 「え、いや……」 しどろもどろになって猫の食べているところを見ていると、「変なこと、訊いていいですか」と彼女が言った。泰造はどきっとした。 「なに」 「奥さんとは恋愛結婚されたんですか」 「………」 とっさに質問の意味が理解できなかった。 「すいません。変なこと訊いちゃって」 「いや、別に変なことちゃうよ」と泰造は袋を持った手を振った。「どっちかというたら見合い結婚かなあ」 「どっちか……」 「友達の紹介で知り合うて、結婚したから」 「それって恋愛結婚ですよお」 「そやろか」 「そうですよ」 実際は叔父の紹介だった。叔父の会社で事務員をしていて三十歳になってしまい、居づらくなって叔父に結婚相手を依頼したという話だった。叔父も朝子も同じ話をした。泰造は最初叔父の愛人かと思ったが、堅物の叔父に愛人はおかしいし、付き合ってみると朝子はひどく内気で、愛人という言葉からは程遠い感じがした。 猫が食べ終わって、まだないかとにおいを嗅ぎ、彼女の腰に体を擦りつけた。泰造は袋から掌にキャットフードを受けて、ベンチに置いた。猫は周りに警戒の目を向けてから、中腰で食べ始めた。 「どんな人だったんですか、奥さん」 「どんな人と言われても……」 「きれいな人だったんですか」 「普通やな」 「でも恋愛されたんでしょう」 「そやなあ」 泰造は風俗の店に数回行ったことがあるだけで、女性をリードすることに慣れていなかった。朝子も恥ずかしがって、二人ともぎこちないまま体を重ねることに必死だった。それが恋愛だったのか泰造には分からない。しかし一度寝てしまうと、結婚するのは当たり前のような感じになった。 「羨ましいです」 えっと泰造は思った。 「今の若い人は、昔と違うて自由に恋愛でも何でもできるんとちゃうんか」 「そうでもないです」彼女は小さく笑った。 「へえ、そうなんや」 「ええ」 猫が散らかしたドライフードを彼女は指先で集めた。 「恋愛と結婚は別だと思われます?」 「うーん……」 「奥さん一筋だったんですか、結婚してから」 「そうなるな」 「素敵な結婚生活だったんですね」 「いや、子供がでけへんかったから……」 泰造は流産以降の事情を話した。かいつまんで話すつもりが、「おれは正常」という言葉で妻を傷つけたことまで打ち明けてしまった。彼女は「そうだったんですか」と沈んだ声を出した。泰造は、生きていれば、あんたと同じくらいの年頃になってるはずやと言おうとして、やめた。 「奥さん、何としても赤ちゃんが欲しいと思われたんですね。その気持ち、分かります」 「………」 「でも奥さんはお幸せだったんでしょう」 「どうかな」 妻が幸せかどうかなど考えたことがなかったので、泰造は答えることができなかった。 「そうですよ、そうに決まってますよ」 「そう言うてくれたら、うれしいけど」 猫が食べ終わって前脚を大きく前に伸ばした。彼女は猫の前脚をつかんで高い、高いをしてから立ち上がった。 「いろんな話、ありがとうございました」 「いや、別に……」 彼女は猫にバイバイと小さく手を振り、そのまま泰造にも振った。泰造は思わず手を振りかけて、やめた。 その早朝、寝入ってしばらくして泰造は性的な夢を見て目が覚めた。草原で女と抱き合って口づけしている夢で、気がつくと勃起していた。泰造は起きあがってトイレに行き、小便をした。唇に感触が残っている。あんな夢を見たのは、眠る前、妻のことをあれこれ考えていたせいかと思った。あの娘にいろいろ訊かれたことが引っ掛かっていたのだ。同じ質問を朝子にしたら、どういう風に答えるだろうかなどと考えていたら、なかなか寝付けず、それで知り合った頃のことから徐々に思い出そうとしていたのだ。 夢に出てきた女が妻なのかどうか分からなかった。ひょっとしたらあの娘かもしれないとも思ったが、そのことはなるべく考えず、泰造は妻と最後に寝たのがいつだったか思い出そうと努めた。しかし、できなかった。更年期障害がひどかったときには妻の体にほとんど触れることができず、そのため症状がいくらか治まってからも同様の状態が続いた。夜勤であることも影響していたのだろう。あんなに早く死ぬと分かってたら、もっと一緒に寝といたらよかったなあと思いながら、泰造は再び眠りについた。 夕方、いつもの浮き浮きした気分とは違って、何となく恥ずかしいような気持ちで泰造は川べりに向かった。あの娘を変な目で見ていたのではないかという気がしたのだ。そのことに彼女も気づいていたのではないか。そう思うと、ペダルを漕ぐ脚が重かった。 だがその日彼女は来なかった。あれっと思うと同時にいくらかほっとした気分にもなった。 しかしそれから二日続けて彼女を見ないと、心配になった。もう遅番とか早番で自分を納得させることができなかった。何かまずいことを言ったのかと三日前のやりとりを思い出してみたが、分からなかった。彼女に、いい夫婦だったと思わせたことで、何か彼女を騙してしまったような気分になっていた。 次の日は日曜日で、配送の仕事がなかった泰造はいつもより早めに起きた。ビール抜きでパンと牛乳の朝食を取り、日曜日にしか飲まないインスタントコーヒーを飲んでいて、不意に、テニスを見に行こうかと思った。妻が生きていればテニスに行っている時間だった。 泰造はジャージーをやめて、ジーンズを穿くことにした。妻がジャージー姿の泰造と歩くことを嫌がって、一緒に外出するときはこれを穿くようにと買ってきたものだった。しかしほとんど穿いたことがなく、改めて穿いてみると、また太ったのか窮屈だった。それでも無理矢理ベルトを締め、シャツの上にジャンパーを羽織った。妻の知り合いに会いに行くのにだらしない恰好をしていくと、妻に申し訳ないような気持ちがしたのだ。 外はよい天気で風もなかった。河川敷のテニスコートは六面あり、どれもプレイする人々で埋まっていた。泰造は自転車を漕ぎながらその中に知った顔がいないか探した。といっても通夜と葬儀の時にしか会ったことがないので、分かるかどうか自信がなかった。 三番コートでプレイしている眼鏡の中年女性に何となく見覚えがあったので、泰造は自転車を止め、ネットフェンスの側のベンチに腰を下ろした。男性二人女性四人のグループで、男対女でダブルスの試合をしていた。中に入って挨拶をするには気後れがあった。何を話したらいいのか分からなかった。 しばらく見ていると、眼鏡の女性がボールを拾いに近くまで来た。そして泰造と目が合うと、一呼吸置いてから小さくお辞儀をした。泰造もお辞儀を返した。 試合が終わって女性ペアが休んでいたペアと交替した。眼鏡の女性はペットボトルから何かを飲み、タオルで額の汗を拭くと、横の女性に何か言ってこちらを見た。隣の女性もこちらを見る。泰造は見られて緊張した。 眼鏡の女性が芝生の間の道を通って、フェンスの外に出てきた。白いポロシャツにトレーニングパンツを穿き、サンバイザーを被っている。 「結城さんのご主人ですよね」と言いながら彼女は近づいてきた。泰造はあわてて立ち上がり、「はい」と答えた。 「この度は本当に大変でございましたわねえ」彼女は首を少し傾げる仕種を見せながら、頭を下げた。 「いえいえ、どうも」泰造もお辞儀をし、ずり落ちたベルトを両手で引き上げた。 「少しはお元気になられましたか」 「ええ」 「本当に急でしたものね。亡くなられるちょっと前に一緒にテニスをしたんですが、その時は全然お元気で、まさか亡くなられるとは夢にも思ってませんでした。ですから亡くなられたと聞いて、本当にびっくりいたしました。他の人も何で、何でとびっくりしちゃって。確かくも膜下出血だとお聞きしたんですが」 「そうです」 「血圧とかやっぱり日頃からお高かったんでしょうか」 「ええ」 しかし血圧が高かったのではないかと聞いたのは、手術をした担当医からだった。それまで妻の体のことに気を遣ったことなどなかったのだ。 「でもテニスをしているときは全然そんな風には見えませんでしたねえ」 泰造が黙っていると、彼女はテニスコートの中に向かって「橋本さーん、結城さんのご主人よ」と大きな声を出した。ベンチで休んでいた女性がこちらを向き、眼鏡の彼女がおいでおいでをした。橋本と呼ばれた女性はゆっくりとした足取りで外に出てきた。そして眼鏡の女性の横に並ぶと、「わざわざお返しをいただき、ありがとうございました」と頭を下げた。すぐには何のことか分からなかったが、満中陰のお返しのことだと気がついた。葬儀屋に任せっぱなしだったので全く忘れていた。法要も葬儀の当日だけで、それ以後一切しなかった。泰造にも妻にも近い身内はいなかったから、どこからも法要のことは言われなかったのだ。 「いいえ、どういたしまして」と泰造も頭を下げた。 「私の方にも届いてます。ありがとうございました」眼鏡の女性も頭を下げ、泰造は上げかけた頭を再び下げた。 ナイスバックハンドという声が響いた。二人の女性がコートの中に目をやり、泰造も目を向けた。向こう側の男性ペアの一人が得意そうにラケットを振っている。 「うちの女房はテニス、上手だったんですか」泰造は視線を隣に戻しながら尋ねた。 「上手だったわよねえ」眼鏡の彼女が隣の女性に同意を求めるように言った。 隣の女性は泰造に目を向けながら、「結城さん、上手でしたわよ。見かけによらず攻撃的で」と言った。 「攻撃的?」 「ご主人、テニスされたことは?」眼鏡の彼女が訊いてきた。 「ありませんけど」 「テニスって、ストロークを打ち合ってじっくり粘るタイプとチャンスボールが来たらすぐにボレーに出て攻撃するタイプがあるんですよ。結城さんは典型的な攻撃タイプで、調子のいいときは強くって、ちょっと歯車が狂うとミスが多くなる感じでしたね」 「へえ、そうですか」 「意外でした?」 「ええ」 本当に意外だった。攻撃的な妻の姿というのが想像できなかった。 「私は粘る方だったから、攻撃型の結城さんと相性が合って、よくペアを組んで大会に出たんですよ」 彼女はその時の様子を話してくれた。市が主催の草テニス大会で、五十歳以上の女子ダブルスの部に出たときの話だった。二人は準々決勝で優勝候補のペアに敗れたのだが、その時の妻の悔しがりようが印象に残っているというのだった。彼女から見たら妻のミスが取り立てて多かったとは思わなかったのだが、妻は自分のミスのせいで負けたと泣きながら彼女に謝ったらしい。それを聞いてまた泰造は意外に思った。妻が負けず嫌いだったというのも初耳だったし、泣いたというのも信じられなかった。泰造が妻の涙を見たのは、流産と分かったときの一回だけだった。 「結城さん、始まる前に何度もスタンドの方を見て、ご主人が見えてないか確認されたんですよ。私、試合に集中できないんじゃないかって気が気じゃなくって」 泰造は自分が責められているような気がして、身を縮めた。 試合が終わったらしく、コートの中から呼ぶ声がした。二人の女性は「お力落としのございませんように」と言って、戻っていった。 泰造が自転車で行こうとすると、眼鏡の彼女がフェンス近くまで来て、「結城さんの映っているビデオがありますから、お貸ししましょうか」と言った。「うちの主人が大会で撮ったやつですけど」 「ええ、そのうちに」 泰造は頭を下げて、その場を離れた。とてもビデオを見る心境にはなれないが、妻の映っているビデオがあるということに、何となくほっとしたのも事実だった。 夕方になって、泰造は猫に餌をやりに行こうかどうか迷った。朝の様子では人が多そうだったので、一人で猫の相手をしているところを見られたくないという気持ちが働いた。しかし、あの娘が来ないのが昼間の仕事を見つけたからということなら、日曜日には来るかもしれないのだ。泰造は三十分遅らせて家を出た。 河原はいくらか夕闇が降りており、テニスコートでもプレイをやめてネットを片づけている人たちがいた。 いつもの川べりの場所に自転車を止めて葦原の中に猫を探していると、植え込みの方から猫が走ってきた。鳴き声を上げている。ベンチでやるのは恥ずかしいので、泰造は川べりのコンクリートブロックに腰を下ろした。猫は泰造の足に体を擦りつけ、泰造がポケットから袋を取り出そうとすると、ブロックに飛び乗って泰造のジャンパーに爪を掛けた。 「よしよし、腹減ってたんか」泰造は猫の頭を撫でてやり、キャットフードを下に置いた。猫はかりかりと音をさせて、それを食べた。 「あの娘はもう来たんか。おまえ何か知ってんのか」泰造は思わず猫に話し掛け、気がついて周りを見回した。近くに人影はなかった。泰造はほっとして視線を戻し、猫の背中を撫でた。 猫が食べ終わっても、泰造はブロックに腰を下ろしたままでいた。猫は前脚を舐め、近くに生えている草を食べてから、下に降りて葦原の中に入ってしまった。泰造は猫の消えた葦原を見ながら、妻のことを考えていた。二十七年間も一緒にいたのに全然妻のことを知らなかったのではないかという気がした。今度あの娘に質問されても、どう答えたらいいのか分からない。正直に、全然分からないと答えるしかないのだろうか。 夕闇が濃くなってから、ようやく泰造は腰を上げた。 月曜日もその次の日もあの娘は現れなかった。たぶん二度と顔を合わさないだろうと思うと、楽しみを奪われたような気持ちになった。 水曜日、泰造は猫に餌をやりに行く前に、妻がパートで勤めていた会社に行ってみようかと思った。どういうところで働いていたのか見ておくのもいいかなという気がした。社長が退職金代わりにとかなりの額の香典を包んでくれたので、そのお礼ということなら訪ねてもおかしくはないだろうと思った。満中陰が済んでいるのも都合がよかった。 背広姿で行きたかったが、若い頃のものしかなく、全く入らなかった。仕方なくジーンズの上にジャケットを着て、革靴を履いた。社長の名刺の住所から大体の場所が分かったので、泰造は自転車に乗ってその辺りまで行き、人に尋ねて会社を探し当てた。 三階建ての古いビルだった。扉の横に「三好食品株式会社」という看板が掛かっている。泰造はずらりと並んだ自転車の空いているところに自分のを入れ、少しためらってから、ドアのノブを押した。 中は二十畳くらいの広さでカウンターがあり、手前のパソコンの前には三十代くらいの女性が坐っていた。奥には社長と思しき男が眼鏡を掛けて、算盤を弾いている。 「何か」女性が立ち上がって声を掛けてきた。 「私、こちらでお世話になっていた結城朝子の夫で、結城泰造と申しますが」 泰造が頭を下げると、奥から「結城さんのご主人」と社長の声がした。社長は眼鏡を外し立ち上がっている。 「さあさあ、どうぞこちらへ」 社長は机の横にある応接セットを手で示した。泰造はすいませんと呟きながら奥に行った。 「いやあ、大変でしたなあ。急なことで」 「はあ。その節は大変お世話になり、ありがとうございました」 泰造は深々と頭を下げた。 「いやいや、何もそんな……。まあ、どうぞ、どうぞ」 泰造は社長の向かいに腰を下ろした。 「それでもう元気にならはりましたか」 「ええ、何とか」 「そりゃよかった。私らみたいな歳になって女房に先に逝かれたら、そりゃあがっかりしまっさかいになあ」 「はあ」泰造は曖昧な笑いを浮かべた。 先程の女性がお茶を運んできた。社長に勧められて泰造はそれを口にした。 「結城さんはベテランでしたから、うちにとっても大きな痛手ですわ」社長は湯飲みを置きながら言った。 「そうですか」 「パートのおばちゃんたちのまとめ役をやってもらってましたからなあ。肩書きは付いてませんけど、まあ主任みたいなもんでしたわ」 時折職場の愚痴を聞かされたことがあったが、泰造はほとんど聞き流していた。 「女房が働いていたところを見せてもらうわけにはいきませんか」 話が途切れたところで、泰造はそう切り出した。 「ええ、ええ、いいですとも」 社長の後ろに立って泰造は事務所を出た。すぐに倉庫になっており、別棟の建物が工場になっているらしかった。事務所の建物と同様に工場もかなり年数がたっているようだった。コンクリートの床も所々剥がれており、大小のパイプも錆びているものが多かった。 大きなガス台を洗っている男がいて、社長が「海野くん、結城さんのご主人や」と声を掛けた。 男は白い帽子を取って、「この度はどうも……」と聞こえないくらい低い声で言って、頭を下げた。白髪頭の天辺が禿げかけている。 「女房がお世話になりまして」と泰造も頭を下げた。 「海野くんはここの工場長なんですわ」と社長は言い、「結城さんはようやってくれたわなあ、ほんまに」と工場長に顔を向けた。 「はあ、そうです」 実直そうな人だった。こういう人でよかったなと泰造は思った。 社長は次にパートの女性たちが働いているところをガラス戸越しに見せてくれた。テーブルの両側に、白頭巾と白衣を着た女性たちが四人ずつ並び、手前の大鍋に入った黒豆を小さな袋に詰めているのだった。彼女たちは忙しそうに手を動かしている。豆を入れ、蜜を入れ、シールをし、殺菌籠に入れると社長は説明した。その袋の口を紅白のテープで縛り、結婚式の引き出物に使うということだった。 女性たちの一人に見覚えがあった。葬儀から一週間ほどたったころ、ロッカーに残っていた妻の持ち物を持ってきてくれたのだ。お参りをしたいと彼女は言ったが、汚くしているのでと泰造は丁重に断ったのだった。 その彼女がこちらに気づいて、小さくお辞儀をした。それにつられて何人かがこちらを見た。その瞬間胸が痛くなった。妻がそこにいると感じたのだ。 社長が別の部屋にも案内すると言ったが、泰造は断って、帰ることにした。事務所に戻り、社長と挨拶を交わしてから外に出た。 マンションに帰り、ジャージーに着替えて、泰造は猫の許へ急いだ。ベンチのところに来ると、猫が待ちかまえていたように植え込みから姿を現した。泰造は猫の前脚を掴まえて、初めて、高い、高いをやってみた。猫はほんの数秒じっとしていたが、すぐに後ろ脚をばたばたさせた。よしよしと呟いて泰造は猫をベンチの上に降ろし、ポケットから袋を取り出してキャットフードを与えた。 「こんにちは」声のした方を振り返ると、あの娘が植え込みの陰から出てくるところだった。 「ああ」泰造はびっくりした。 彼女はいつものトレーニング姿ではなく、スカートにパンプスを履いていた。手にはスーパーマーケットの袋をぶら下げている。 「まるこ、元気でした?」 「うん」 彼女はスカートを気にしながらベンチに腰掛け、餌を食べている猫の背中を撫でた。 「実家に帰ることにしました」と彼女が言った。 「………」 「結婚するんです」 泰造はうんうんというように頷いた。 「見合いなんですけど、それもいいかなあって思って」 泰造は妻と自分とのことで、正さなければならないことがあると思ったが、どう話せばいいのか分からなかった。妻と自分はこうだったんだと自信を持って話せることが全くないような気がした。 猫がキャットフードを食べ終わり、ベンチから飛び降りて草を食べ始めた。 「これ、受け取って下さい」彼女は手に持っていた袋を差し出した。受け取って中を見ると、半分以上残ったキャットフードの袋と黄緑色のリンゴのようなものが二個入っていた。 「これ、何」 「ラ・フランスです」 「ラ・フランス?」 「西洋梨の一種で、おいしいんですよ。実家で作っているんです」 初めて聞く名前だった。泰造は一つを手に取った。 「今はまだ食べ頃ではないんです。こうして押してみると分かりますが」と彼女は泰造の手の中の洋梨を人差し指で押した。「まだ堅いでしょう」 泰造は彼女の真似をして洋梨を指で押してみた。確かに堅かった。 「耳たぶくらいの柔らかさになったら食べ頃です。今の季節だったら、二日ほど置いておけば柔らかくなりますから、その時食べて下さい」 「おおきに」 泰造がもう一つの方も触っていると、「一つは奥さんの分のつもりなんですが」と彼女が小さな声で言った。 「ああ」 「キャットフードはまるこにやって下さい」 「うん」 彼女は足許でじゃれついている猫の前脚をつかんで、目の前に持ち上げた。 「まるこ、元気でね」 猫が地面を探すように後ろ脚を動かしたので、彼女は下に降ろし、スカートの尻を払うようにして立ち上がった。泰造も腰を上げた。 「いろいろとありがとうございました」 「いや、別に何も……」 「まるこのこと、お願いします」 「うん」 それでは失礼しますと言って離れていく彼女に向かって、「頑張ってな」と声を掛けた。彼女は振り返り、「はい」と大きく頷いた。 泰造は彼女の姿が見えなくなるまで、その場に立っていた。 マンションに帰り、洋梨を袋から出した。鼻を近づけると、甘い香りがした。その二つを食卓テーブルの上に置き、キャットフードの入った袋を買い置きのものと並べて床に置いた。 翌日、泰造は少し多めにキャットフードを持って、川べりに行った。しかし猫がいなかった。ガードレールを乗り越えて葦原に目をやったが姿が見えず、ベンチの周りにもいなかった。ひょっとしたら植え込みの中で寝ているのではないかと体を屈めて薄暗い中を覗いたが、いる気配がない。それで立ち上がりかけた時、かすかな鳴き声が聞こえてきた。やっぱりいるんやないか。泰造は再びしゃがんで暗がりを見た。鳴き声のしたほうに目を凝らすと、黒っぽい固まりが見えた。 「まるこか」 しかし鳴き声はもう聞こえない。 「まるこ、まるこ」泰造は袋を取り出し、手の中でクシャクシャと音をさせた。 「まるこ、餌やぞ」 それでも黒い固まりは動かなかった。泰造は腹這いになって上半身を植え込みの中にねじ込んだ。入り組んだ幹の間から腕を伸ばし、黒い固まりに触れた。猫の手触りだった。泰造は更に体をねじ込み、両手を猫の下に差し入れて、ゆっくりと引き出した。暖かい体温が伝わってくる。顔の近くまで肘を引いて猫を見ると、目を閉じてぐったりしている。 「まるこ、どうしたんや」 しかし猫は応えない。泰造は肘を使って植え込みの中から体を出した。そして一旦猫を芝生の上に置き、ジャージーの上着を脱いでその中にくるむと、それを抱え上げ、自転車のところへ急いだ。 前籠に慎重に入れ、泰造は自転車に乗った。平坦で飛ばせるところは急いでペダルを漕いだが、穴ぼこのところは速度を落とした。気ばかり焦って、うまく前に進めない気がした。 定食屋の数軒隣に動物病院があり、その前に自転車を止めて、ジャージーごと猫を抱えて中に入った。受付があり、そのカウンターに抱えたものを置いた。 「すぐに診てもらえまへんか」 受付の女性はびっくりしたようにこちらを見ている。泰造はその時初めて自分が汗びっしょりであることに気づいた。半袖の下着も濡れており、顎から汗が滴っていた。泰造は下着の肩で顎の汗を拭った。 「どうされました」受付の女性は体を引き気味にしながら、カウンターに置かれた猫に目をやった。 「この猫を診てほしいんですわ。ぐったりしてますやろ」 「何かお心当たりはありませんか」 「これ、野良猫ですねん。さっき餌やりに行ったら植え込みの中でぐったりしてて……」 「野良猫ですか」 「はあ」 「診察料けっこうかかりますけど、いいですか」 「構いません」 受付の女性はバインダーにはさまれた用紙に何か書き込むと、バインダーごと泰造に手渡した。 「そこにお名前と住所と電話番号をお書き下さい」 泰造は掌をジャージーのズボンで拭ってから、ボールペンをつかんで書き込んだ。手が震えて文字がぎくしゃくする。 バインダーを返すと、「そちらでしばらくお待ち下さい」と受付の女性は待合室を手で示した。泰造は猫をくるんだジャージーを抱えて、すぐ横の待合室に行った。泰造と同年配の女性が一人坐っていて、泰造の方をじろじろと見る。泰造はその女性から猫を隠すように背を向け、離れたところに坐った。腕の中で猫は目を閉じ、全く動かなかった。死んだのかと思って胸の辺りをじっと見ると、かすかに動いているのが分かって、泰造は小さく溜息をついた。 しばらくして、「中沢さん」と呼ぶ声が聞こえ、先程の女性が立って受付の横に入っていった。話し声と弱々しい犬の鳴き声が聞こえてきた。そして「ありがとうございました」という声がして、女性が大きめのバスケットを下げて出てきた。泰造の方を見てちょっと会釈するようにしてから受付の前に立った。 「結城さん」と中から声がした。泰造は猫を胸に抱えて中に入った。 青いユニフォームのような服を着た男性が椅子に腰掛けて、バインダーを見ていた。ふっくらとした顔に眼鏡を掛け、胸には聴診器をぶら下げている。 「さあ、どうしたのかな」泰造を見ると、獣医は立ち上がって腰の高さくらいの四角いテーブルの側に来た。 「ここに置いて下さい」 泰造は言われた通りテーブルの上にジャージーごと置いた。獣医は猫を取り上げて直接テーブルに置き、ジャージーを泰造に返した。猫は死んだようにじっとしている。獣医は猫の腹に聴診器を当ててから、掌で何回か押さえた。掌で押さえると、猫はぴくっと体を動かした。 「心臓の拍動が弱いし、内臓も腫れてますね。車にでもはねられたのかな」 あそこは車が通らないからバイクかと泰造は思った。 「治りますか」 「レントゲン撮った方がいいんですけど、どうします」 「何でもやって下さい。こいつが助かるためやったら、なんぼでもお金を払います」 「わかりました」と獣医はにこやかに言った。「しばらく待合室の方で待っててもらえますか」 泰造はジャージーの上着を持って診察室を出た。下着が湿っぽくて気持ちが悪かったが、肌寒くなってきたので上着を着た。 待合室で待っていると、妻の死んだ日のことが頭に浮かんできた。あの日昼過ぎに起きてビールを飲み、テレビを見ながら寝入ってしまった泰造は、電話の音で起こされた。出てみると、妻のパート先の社長からで、妻が倒れて病院に運ばれたという内容だった。タクシーで病院に駆けつけると、すでに手術が始まっており、終わってからも集中治療室に入ったままで、二度とそこから出てこなかった。泰造は看護婦から渡された深緑色のガウンを着てマスクをし、用意されたスリッパに履き替えて、集中治療室のベッドに横たわっている妻を見た。頭を包帯でぐるぐる巻きにされ、口の中に人工呼吸器の管を突っ込まれて眠っている妻の姿は全くの別人に見えた。主治医から、危険な状態だから身内に連絡した方がいいと言われたが、そんな身内がおらず、泰造は一人廊下の長椅子に腰を下ろして時間を過ごしたのだった。 「結城さん」呼ばれて泰造は診察室に入った。獣医は椅子に坐って、目の前のレントゲンフィルムを見ている。診察テーブルには楕円形の籠があり、その中にまるこが眠っていた。 「どうぞ」と獣医が前の椅子を手で示したので、泰造はそこに腰を下ろした。 「やっぱり車にはねられたみたいですね。ほら、ここ」と獣医は指で白く映った骨の一点を指し示した。しかし泰造にはどこが異常なのか全く分からなかった。 「腰骨の一部が欠けているでしょう」 「はあ」 「これはもう放っといて自然に治るのを待つしかありませんね。ギプスで固定する訳にもいきませんから。問題は、内臓の腫れです。結構危険な状態で、一晩様子を見なければ何とも言えませんね」 「今晩が山ということですか」 「まあ、そうなりますね」 泰造はレントゲンフィルムをもう一度見た。きれいな骨格だった。 「それでどうします。うちの方で一晩預かりましょうか」 「是非お願いします」 泰造は頭を下げた。 診察室を出る時、泰造はまるこに思わず「頑張れよ」と声を掛けた。獣医を見ると、にこやかな顔で頷いていた。 診察料は思った以上に高額で、手持ちの金では全く足らなかった。後払いでいいかどうかを尋ねると、それでいいと言うことだったので、泰造は礼を言って動物病院を出た。 洋菓子の配送中も、泰造は猫のことばかり考えていた。あの猫が死んでしまえば、すべてを失ってしまうような不安が時折強烈に湧いてきて、それを押さえ込むのに泰造は苦労した。深夜、いつもなら車も人も全く通らなくても必ず信号のある場所ではトラックを停めたが、この日は二度も信号無視をしてしまい、泰造は自分の頬を両手で叩いて気を引き締めた。 配送の仕事が終わり、薄暗い中、泰造は自転車に乗って動物病院の前まで行った。パイプのシャッターが降りている。どこにも明かりはついていない。泰造は自転車を降り、細いパイプをつかんで艶消しガラスの向こうを覗いた。しかし何も見えない。仕方なくまた自転車に乗り、マンションに帰った。 眠るつもりで万年床に横になったが、全く眠たくはなかった。体は疲れているのに目は冴えてしまう。泰造は起きあがって胡座をかき、時間の過ぎるのを待ったが、デジタル時計の数字は遅々として進まない。 泰造は立ち上がって妻の部屋の前まで行くと、襖に向かって両手を合わせた。しかし立って拝んでいると足が疲れてきて、泰造は食卓の椅子を引っ張ってきてそこに坐って手を合わせ続けた。 七時半を過ぎたところで我慢ができず、泰造は財布に紙幣を何枚か入れて部屋を出た。 病院はまだ閉まっており、シャッター横の壁に背中をつけて泰造はしゃがみ込んだ。朝の光が建物の間からちょうど泰造を照らした。通勤で通り過ぎる人がちらちらと泰造に目を向ける。 「こんなところで何してはるんですか」 顔を上げると、受付の女性が不思議そうに泰造を見ていた。泰造はあわてて立ち上がった。 「ここが開くのを待ってたんですわ」 「夕べのあの仔が心配なんですか」 「大丈夫でしょうか」 「さあ、先生に聞いてみないと分かりません」 彼女は鍵を差し込んでシャッターを開け、別の鍵でドアを開けた。泰造は彼女と一緒に中に入った。彼女は診察室に入り、すぐに待合室の照明が点いた。 「先生」と彼女の大きな声が響いた。「昨日の野良猫の人が来てはります」 しばらくして獣医が姿を見せた。ジャージー姿で眠そうな顔をしている。 「また、えらい早いですねえ」 「まるこ、どうなりました」泰造は勢い込んで尋ねた。 「まるこて、あの仔の名前?」 「助かりました?」 「あの仔なら大丈夫ですよ。やっぱり野良猫は生命力が強いということですかね」 体から力が抜けた。 「ありがとうございます」 泰造は深々と頭を下げた。 「まるこて、なかなかええ名前ですね」 診察室に入ると、奥から受付の女性が籠を抱えて出てきた。それを診療テーブルに置く。見ると、まるこは目を開けており、泰造は目の色が緑っぽいのを初めて知った。頭を撫でると、前脚をわずかに動かした。 まだ入院させておいた方がいいかどうか尋ねると、引き取ってもらっても大丈夫だということだったので、泰造はジャンパーを脱いでまるこをくるんだ。 スポイトを使った水薬の与え方を教えてもらい、泰造は診察料を払った。 外に出ると、泰造は前籠にジャンパーごとまるこを入れ、水薬とスポイトの入った紙袋も入れて、静かに自転車に跨った。 「元気になったら、どこへ行ってもええで。それまで家にいときや」と泰造はまるこに話し掛けた。 マンションに帰って階段をゆっくり上り部屋に入ると、泰造は腕に抱えていたまるこをテーブルに置いた。側の洋梨から強い香りがしている。 「お前はどの部屋が気に入るかな」 まるこは目を開け、口を動かしている。 「ここか、おれの部屋か、それともあそこか」 妻の部屋を指さした時、まるこが微かに鳴いた。 「そうか、あそこがええのか」 泰造はジャンパーごとまるこを抱え、妻の部屋の前に立ち、少しためらってから襖を開けた。 正面に枕飾りの小卓があり、写真の朝子がこちらを見ていた。泰造はひとつ深呼吸をしてから中に入り、部屋を見回した。カーテン越しに射し込む柔らかな光の中に、見慣れた鏡台や箪笥が浮かんでいた。鏡台の上には、化粧品の瓶や手鏡が乱雑に置かれている。 泰造はまるこを小卓の前に置き、カーテンを開けた。朝の光が射し込んでくる。 泰造はまるこの横に正座をし、鈴を鳴らして両手を合わせた。お前、猫を飼いたいて言うてたやろ、しばらくまるこがここにおるから遊んでやってや。 拝んでいるうちに、腹が減っていることに気づいた。泰造は立ち上がって台所に行った。テーブルの洋梨が目に止まり、指で押してみると、あの娘の言った耳たぶくらいの柔らかさになっているようだった。 泰造は包丁で二つとも皮をむき、皿に乗せて妻の部屋に戻った。その皿を小卓に置き、もう一度両手を合わせた。 あの娘がお前にもて言うてくれたんや、一緒に食べよか。泰造は一つを取って丸かじりした。普通の梨とは全く違う豊かな香りと甘さが広がった。 こんなにおいしいんやったら生きてる時に一緒に食べたらよかったなあと呟いた。ラ・フランスて、おれは知らんかったけど、お前は知ってたんか。泰造は写真の朝子を見た。しかし朝子は笑っているだけだ。 泰造は口に残ったかけらをまるこの口許に持っていった。まるこは鼻を近づけたが、すぐにそっぽを向いた。 そうか、お前はキャットフードのほうがええんか。笑いながら、泰造は再び洋梨を丸かじりした。
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