伊藤博文の勅語   なりた もとこ


  私の実家には古い小型のトランクがある。その中にはソウルから引揚げたときに持って帰ったごく小さな骨董品と、古い手紙や書類が入っている。父も母も、そのトランクを大切にしていた。子供の頃、トランクの中から出てくる、曽祖父が韓国貴族の友人から貰ったといういくつかの小さな円盤状の精巧な玉の彫り物や、小さな蝉を彫ったメノウや、手の中に隠れてしまうほど小さい李朝の化粧油壷などを見せてもらうのが好きだった。
 曽祖父は明治四十一年、京城第一高女の教頭に赴任した祖父と共に渡韓し、韓国皇帝、李王家の図書館の嘱託として、韓国皇室の歴史の編纂に当たっていたという。漢詩家で、韓国語は話せなかったが、漢詩を通じてたくさんの韓国人の友人がいたらしい。美しい小さな品々は、そういう友人たちを介して得たもののようだ。素子という私の名前は曽祖父の命名によるものだ。晒しも、染めもしていない生絹という意味であるという。書きにくい字なので、好きではないが、意味を聞くと、よい名前だと思う。
 そのトランクの書類入れのファイルの中に一枚の書き損じの紙がある。ソウルでは掛け軸に表装していたため、裏打ちの紙がごわごわしている。小さくたたんだ折り目が幾筋もついており、たたまれたままファイルのビニール袋の間に挟まっている。
「伊藤博文の書いた勅語の原稿だよ」と、小さい頃から父に聞かされていたが、その頃は、なんのことだかよくわからなかった。
「このことは人に話しちゃダメ。怖いことになるかもしれないよ」と、母はいい、何やら少し不気味でもあった。
 一九八二年のことだから、もう二十年近くになる。その年も教科書問題が、韓国や中国との関係を悪化させていた。歴史、社会の教科書中の侵略という文字を削れと教科書検定委員会が要求したのである。あれは進出であって侵略ではない。たしかそういう議論だったと思う。
 教科書問題が起きて、たまたま訪れた実家でも夕食の話題になっていた。父がいった。
「なんていったって、伊藤博文はあの勅語でだまして軍隊を解散させたのだからね」
「え、なんのこと?」
「ほら、あの勅語の原稿さ。おじいさんが伊藤博文の執事からもらったあの原稿にかいてあるんだよ。朝鮮の軍隊は近代化のために一旦解散して、兵隊には一時金をあげる。その後、近代化して再編するから、それまでしばらく待て。といってね。解散したその間に日韓合併して、日本の軍隊だけにしてしまったんだ。まあ、だましたんだね。韓国の皇帝の勅語なんだけど、伊藤博文が原稿を書いて、皇帝に読ませているんだから、あれはやっぱり侵略じゃろう」
「へえ、そんなことがかいてあるの?」
「あれは、おじいさんが伊藤博文の執事の国分象太郎という人に貰ったんだ。おじいさんは篆刻も上手だったから、国分さんに篆刻をしてあげた。そのお礼だったらしい。おじいさんが伊藤侯の書いたものをほしいといったら、反故籠から拾ってきてくれたそうだ」
 この話は何度か聞いたことがあった。しかし、文書の内容を話してもらったのは、初めてだった。
「京城では掛け軸に表装してあったわねえ」母も懐かしげに話す。
「引揚げのとき、見つかると行けないから、剥してね。別の掛け軸の芯に入れて帰ったのよ」
「内容が内容だからね。韓国の人達の恨みを買うだろう。持っていることが知れたらどんなことになるかもしれんと思って、誰にも言わなかったんだ。戦後はああいう時代だったからね」
「へえ、そんな内容だったなんて、私、知らなかったなあ」
 何度も見たことがあるにもかかわらず、私はそのときまで、「伊藤博文の勅語の原稿」の内容を一度も読んだことがなかった。京城ではという母の思い出話はいささか鬱陶しく、身をいれて聞く気にならなかったのだ。しかし、今は教科書問題の焦点にもなりかねない問題だ、と興味が湧いた。
「じゃあ、みせて」
 食事のあとで、母はトランクを出してきた。
 ごわごわでしわだらけの紙を広げ、改めて私は中身を読んだ。伊藤博文の筆跡は楷書で読みやすい。あちこち墨で線を引いて消し、書きなおしてある。丸印をつけてつながりをわかりやすくしてあるところもある。千円札の中の人物が、急に現実味を帯びて立ち現れた。伊藤博文はあの髭をしごきながら、推敲を重ねていたのだろうか。確かに父のいうような文章だ。

朕有司ニ命シテ兵制ノ改正シ専ラ士官養成ニ努メ他ハ一時之ヲ解散セシム其将校以下各其階級ニ随ヒ恩金ヲ優給シ
他日徴兵法ヲ発布シ鞏固ナル兵力ヲ具備セントス今茲ニ皇室侍衛ニ必要ナル者ヲ存シ其他ハ一時之カ解散ヲ命ズ而シテ其将校以下下士卒ニ至ル迄恩金ヲ支給シ以テ其労ニ報ユ汝将校下士卒等克ク朕カ意ヲ體シ愆ナキヲ期セヨ

 読めない漢字もある。父が読んでくれた。「愆」はアヤマチだそうだ。
「これは侵略だっていう証拠だねえ」
「まあ、そうだな」
 翌日、私は週刊朝日に電話をかけた。週刊朝日が教科書問題についての意見を募集していたのだ。電話を受けた人は、話を一通り聞くと、少々お待ち下さいといって、年配の人と代わった。編集長と名乗ったその人は記者を取材に行かせたいので、と、住所や電話番号を聞いた。まさか、取材にまで来るとは思っていなかったので、少々戸惑ったが、父に電話すると簡単に、いいよといってくれた。
 当日、父は糊の利いた久留米絣の浴衣に着替えていた。神戸からわざわざ兄も来た。妙に緊張している父がなんだかおかしい。可愛いような、恥ずかしいような気もする。カメラマンが勅語の写真や、父の写真を撮り、曽祖父の写真も持っていった。二時間ほどでインタビューは終った。
 二週間ほどたって週刊朝日に大きく載った。間違いなく伊藤博文の筆跡であった。朝鮮人歴史家、姜徳相氏の「韓国軍解体の勅命は、日本の圧力で書かれたものだということは明かだったが、その草稿までも日本側、それも伊藤統監自らが書いたということは重要な史実になります」というコメントも載っていた。
 この勅命による軍隊の解散後、一部の兵士は反乱を起こし、各地で「義兵」が組織された。その一つを組織した安重根は二年後、ハルピン駅頭で伊藤博文を銃殺したのだ。この小さな紙切れが、二つの国のどれだけ多くの人々に重い運命をもたらしたのだろうか。
 その後、日韓合併に関する本などを読むと、この勅語の草稿に言及されている個所を見ることがある。公表してよかったと思う。父はこの草稿を、韓国の大学か博物館に寄付したいと思っていたらしい。父の教え子のある大学の学長を通して話をすすめていたようだったが、その学長は急死され、父も亡くなった。いくつも折り目のついたその草稿は今も実家のトランクの中に入っている。





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