猫沼  あかね 直


「わたし知ってんのよ」
 薫のショートカットから柑橘系のムースの匂いがする。その匂いに釣られてつい言いたくないことを言ってしまいそうになる。
 獣医なら獣医らしく消毒液の匂いと動物の匂いだけにすればいいのに、と意地悪も言ってみたくなる。
「なにを」
 駅前の線路沿いにあるスイミングにわたしたちは通っている。夕暮れの時間、同年代の女達が夕飯の支度に忙しい時間に薫と誘い合わせてプールに行く。長く主婦だったわたしはいつもそのことに少しばかりの優越感と劣等感を持つ。
 だから、夕飯の買い物のついでにプールに寄るのだと言い訳をし、薫の午後の診察までの空き時間、夕方四時から五時まで、水曜日を選んで通っている。
 薫の剣持犬猫医院とプールは、高い塀で仕切られ、すぐ隣なのにぐるりとスイミングスクールの建物を一週しなければならない。
 薫は一人暮らしの獣医。けれど薫の別れた夫は未だに薫の誕生日に薔薇の花を届けているらしい。
 わたしは四十八。この春、一人息子が名古屋に就職し、一回り上の夫もかねてからの計画通り退職金を半分持って、日本一週の旅に出る。酒も飲まずタバコも吸わず、商社に定年まで生真面目に勤め上げた夫は、同じ律儀さでテントや食料を中古の四駆に積み、行ってしまった。
 あれから二ヶ月。季節は柔らかい日差しに包まれ、わたしは子猫のミーシャと暮らしている。
 夫の消息は旅先から送られる一枚の絵葉書だけだ。
「元気です。気温二十八度。雨。そちらは元気ですか」
 夫の字は一画一画に力が入っている。所が違っても時代が違っても同じ文面の葉書、それらを何度も眺めているうちに、「元気です」の「元」から二本の足が勝手に葉書の上を歩いたりしてくる。ミーシャも夫の匂いを葉書に見つけようと鼻を押しつけ爪で引っ掻いたりするから、夫の「元気です」は紙が毛羽だってよれよれになる。
 ミーシャを抱き上げる。
 息子からは手紙も電話もない。五月の連休も帰ってこなかった。 
 ずっと専業主婦で、夫と息子を待ち続けたわたしは、夜になっても帰らない二人をどうしたものかと思案する。厚ぼったい冬のセーターやコートを部屋の隅に押しやり掃除もせず料理も作らずぼんやりしている間に五月になった。家の外はさかったり、いがみあったりする雌猫や雄猫の声がする。天井が軋む。屋根の上には無数の生き物が乗っかかっているに違いない。スレートの瓦が屋根から滑り落ちる音がする。雑草の混じり合った芝生を突き刺し瓦の割れる音がする。家が少しずつ朽ち果てる音だ。
 夫の葉書を玄関から寝室まで消印の古い順に並べ、その上をミーシャと歩いて見る。夫の「元気です」がわたしの重さで悲鳴を上げる。集めた葉書を宙に放り投げて見る。パラパラと夫の「元気です」が床に落ちる。ミーシャは首を上げたり下げたり葉書を眼で追う。知りあった頃、結婚したばかりの頃、息子が生まれた頃、海だの山だのお寺だのが埃だらけの部屋に落ちる。
 その夫の字を今日薫の家で見た。白い封筒の剣持薫様と書かれていたあの字、曲線の少ない活字のような字は間違いなく夫の字だ。
 郵便受けからはみ出した定形外の茶色の封筒、その上の手紙は夫が薫に宛てたものだ。
 ……夫が……薫と……まさか。
 一回り上の夫は優しい人だった。
 望まれるまま結婚し子供が産まれた。喘息気味の三歳の息子をスイミングスクールに通わせているうちに同じ年頃の薫の息子と知り合い、家族ぐるみでつきあいが始まった。
 薫の夫がタイで中古車を売る会社を始めたのも、アジア情報に強い夫のアドバイスがキッカケだ。
 小学五年生の夏休み。スイミングスクールで行われた競技大会。父兄の部で出場した薫の力強いクロールを追うわたしの目がかすった。
 ……気候が彼を変えたのよ。どんどん戦闘的になって。
 薫はそんな風にタイに馴染んだ彼と別れる理由を報告し、納得できないと、泣きじゃくるわたしに夫は、いい関係を続ける為に別れるということもあるんだよ、と慰めた。
 手足ばかりひょろりと長い薫の息子とわたしの息子は、親達の思惑を知ってか知らずか、ビックリマンチョコ、自動販売機の消しゴム、ミニ四駆を長椅子の上に広げて夢中になって遊んでいた。
 それから十年。子供達は社会人になり、わたしは薫と同じような一人暮らしを始めている。
 ベージュのシャツのボタンを上から順に外すところを薫はじっと見つめている。わたしも見つめ返す。
 ……夫が手紙を送ったでしょう。
「……知ってるのよ」
「なんのこと?」
 くさがんむり、止め、はらい、薫の文字を空で書いてみる。
 草冠の薫は棘をたてわたしを攻撃しようとする。
「何を知ってんのよ」
「言ってもいいの」
「いいわよ」
 飛び散ろうとした棘が薫の字画に収まる。止め、はらい、はらい、薫の字がいびつに歪む。呼吸を整えて点を打つ。点。ぐいっと押さえて力を抜きそのまま宙に筆を運ぶ。
 わたしは薫の視線から逃れまいと、はだけた胸をそのままにする。薫は脱いだストッキングをくるりと丸めて隠す。水着に足を突っ込む。スカートの下に水着を重ねる。革のタイトスカートの鍵ホックを外し、ファスナーを下ろす。靴がスカートのヘムに絡まないように踵に注意しながら薫は服を脱ぐ。わたしも流行遅れのチノパンを脱ぐ。爪先の革がすり切れてそれを薫に見られるのが恥ずかしいので爪先にひっかけたまま靴をロッカーにしまう。素足になる。ショーツを脱ぐ。シャツの裾でお尻を隠しながら水着を着る。
 薫と夫の接点を表にして右左に分けていく。
 あの競技大会で優勝した薫を眩しそうに眺めていた夫。対抗リレーで夫と一緒に出場した薫。息子の水着の着替えを手伝い、お弁当や切符の用意、家族や他人の世話ばかりしていたわたし。
「ねえ。何を知ってるの?」
 薫はニコニコと聞く。秘密を共有するのは当然だといいたげだ。
 背中のブラのホックを外す。水着の肩ひもに腕を通し胸の谷間から手品のようにブラを取り出し、勢い良くシャツを脱ぐ。鞄から洗い立てのバスタオルと水帽を取り出す。
 脱いだシャツ、パンツをハンガーにかける。
 わざと荒っぽく「どいてよ」と薫の背を押してロッカーの扉を閉める。
「どうしたのよ。何怒っているのよ」
 薫の声がわたしの背中を打つ。かまわずロッカー室を後にする。
 薫には旅立つ前の夫との諍いのたびに何時間も電話できいてもらった。
……帰ってくるわよ。一緒に暮らした月日にかなうものはないわ。長い時間一緒に暮らしてきたのよ。
……一緒に暮らしただけよ。
……よそいきの顔でおしゃれして映画見て食事してお酒飲んでホテルに行く、そんな特別な関係じゃないのよ。もっと普段着の関係なのよ。夫婦なんでしょ。自信持ちなさいよ。
……夫婦だからって。
……だって。待っていたいのでしょう。
……待っていても帰ってこなかったら。
……しっかりしなさいよ。
 薫は次々と思いつきを楽しげに口にする。
……待ちながら仕事か習い事始めたらいいのよ。そうそう今度、海に行きましょう。海の底って圧倒的な力があるわよ。
……泳げないもの。
……ほら、昔、息子達が通っていたスイミングスクール。あそこね、子供の人数が減ったから、中高年が一番のお客様なのよ。だから、コーチはとても親切よ。流水健康法、ウォーキングコースなんて泳げなくてもいいから、のんびりと若いコーチ目当てに通っている人もいるわよ。
 コードレスの子機をうずくまって抱え、薫の声を聴いているうちに空洞だった躰が満たされていく。薫の声には不思議な力があった。

 授業は今日もやっぱり水中ウォークから始まる。コーチのあとについて黙々と歩く。足が躰の近くで、小さな渦を作りそれを抜いてまた進む。手を大きく振りながら、掻き分けるようにして進む。進むたびに水の抵抗が大きくなる。わたしはよけながら歩く。足をあげる。下ろす。ジャンプする。インストラクターの真似をして歩く。身体が重い。まるで他人のようだ。
 薫は八コースだ。マスターコースで自由遊泳を楽しんでいる。真っ直ぐに伸びた薫の足が水面を打つ。水飛沫が高く空中に舞い上がる。水を押しやり、薫の身体のうねりに合わせて波がわたしのコースまで押し寄せてくる。わたしはバランスを崩し思わず鼻から水を飲んでしまった。咽せかえって激しい咳をするわたしに
「ダイジョウブですか」と近寄って声をかけてくれたのは、タタミコーチだ。
「できるだけ大きな動作をして下さい。その方が水の抵抗が少ないのですよ」
背中をさすって、腕を支えてくれた。暖かな手だ。
「恥ずかしがらずに」と言い残してタタミコーチが先頭の集団に着く。浮く練習を始める。わたしはまだ水の中で眼を開けられない。息継ぎができないから二十五メートルを泳げない。
 とっくに投げ出してしまうところを我慢して通うのは、息子が今にも濡れた髪のまま現れる気がするからだ。半べそをかきながらあの扉の向こうにいる幼い息子。このプールにいると古いアルバムをめくっているような気になる。
 プールの水面から浮かんだり沈んだりするコーチの身体を見る。筋肉にさわってみたくなる。ふらりと側に寄っていく。他の人を押しのけてコーチの側に立つ。
 夫も息子も背が高いけれど細い人だった。手の指だけが大きく長かった。何か話す度に喉仏が上下してその対角線上に耳があって、耳の穴は明るいピンク色だった。
 夫の耳に指を突っ込んでは、「ぼあぼあって言ってみて」と遊んだ。夫の膝の上にわたしが乗ってわたしの膝に息子が乗って三人でぼあぼあぼあと言う。口を縦に開けて閉めて振動音が息子の身体から伝わる。持たれた背中から夫の胸板が震えているのを感じる。
「そのまま眼を瞑ってごらん」と夫は言う。夫の指がわたしの耳に栓をして息子が小さな手でわたしの口に蓋をする。
 ぼあぼあぼあ。身体中が耳になっていく。聞こえない音が聞こえてくる。耳の中の夫の指が暖かい。唇に触れる息子の手が柔らかい。わたしは息子を抱きしめて、夫の膝に丸くなる。夫、わたし、子供、わたしたちはひとつになって、ぼあぼあと同じ音を響かせる。
 コーチの耳が水泳帽からはみ出ている。ピンと立って上を向いている。
 手を伸ばして触れてみたくなる。
 ミーシャの耳より大きくてきれいだ。
 夫の耳の形に似ている。
 あの穴に指を入れてみたい。ぼあぼあぼあ、耳の粘膜の振動がわたしの指に伝わりとてもいい気持ちになるはずだ。
「……やってみてください」
 コーチがニコニコして立ちあがった。コーチの耳から水滴が落ちている。
 わたしは人差し指を差し出す。
 タタミコーチの声でわたしの耳が埋まっていく。わたしは目を瞑り身体中でコーチの声を聴こうとする。ぼあぼあと小さく呟いてみる。
「指の先の方。もっと遠くを見て」
 タタミコーチがわたしの指を一本ずつ伸ばしわたしの身体に添って回す。わたしはコーチのいいなりに動く。ゆっくり目を開けて指を見る。指の先のコーチの顔を見る。鼻の頭の先にも水滴がついている。黄色のスイミングキャップから強情そうな毛がはみ出ている。
「もっと……」
 タタミコーチの口真似をしてみる。
 わたしの指はタタミコーチの耳に触れようとする。
水面に漬けた顔を捻って指を一杯伸ばす。あの耳も柔らかく暖かいのに決まっている。
「どうかしたのですか」
 タタミコーチの心配そうな声にはっとして指を引っ込める。

「剣持さんの友人とかいう人。なんかヘンですね。病気じゃないですか」
タタミコーチの声が、シャワー室から 流れる水の音に混じって切れ切れに聞こえる。置き忘れたタオルを取りに戻る振りをして、耳をそばだてる。タタミコーチは夫よりセックスがうまいだろうか。筋肉で引き締まったお尻がわたしのぼんやりした頭の中で杭を打つように動く。水滴が流れる。性器が熱い。この中にコーチの太い長い指が入る。
「だいじょうぶ。落ち込んでいるだけよ。……ご主人も息子さんも家を出てひとりになったから。坂の上の一番大きなお屋敷に猫と暮らしているのよ」
 薫の声だ。薫がまた誰かの噂話しをしている。のんびりしていて午後6時の診察に間に合うのだろうか。
「別れたのですか」タタミコーチの低い声。
「……連絡が途絶えたから心配しているの。だから、おまじないみたいに、昔、赴任先から送られた古い絵葉書を玄関から一直線に寝室まで並べているんですって……」
「どこかで女の人と暮らしているのじゃないですか。男って居心地いいとこ見つけるの得意だから」
「そんなこと絶対ないわ……そんなことできる人じゃないのよ」
「あれっ。やけに肩を持つのですね。おかしいな」
「だって、とても不器用な人だったのよ」
「………」
「あっ……。家族ぐるみでつきあっていたから。良く知っているの」
「別れても誕生日に薔薇の花を贈る剣持さんのご主人と違うのですね」
「そうね。ふっふ。あの人はタイの若い女の子に捨てられ事業にも失敗したら戻ってくるわよ」
「待っているんですか」
「当たり前よ。夫婦だったのよ」
「へえ。わからないなあ」
「わからないわよ。他人にはね。夫婦は別れても他人にはなれないのよ。何をしても、彼だったらどうするだろう。どう言うだろう。とか考えるの。旅に出て美味しいもの食べたりするでしょう。彼は何食べているのだろうって、気にしたり。でもだからって。どうってことはない。それだけのこと。習慣みたいなんだけど」
「それも愛ですよ。妬けるなあ」
「生意気言って、本気にしたらどうするのよ」
「剣持さんなら受けて立ちますよ」
「冗談でしょう。子供には興味ないわよ」
 薫の声が段々媚びを含んで小さく丸くなる。イヤらしくなる。
 わたしは水着に覆われた胸をタオルで隠す。
 薫とタタミコーチの笑い声が低く聴こえる。
 シャワー室を横切りサウナ室に入る。ねっとりした熱気がすぐに身体の水分を奪っていく。上唇と下唇が糊でくっつけたように固まっていく。皮膚がパリパリ乾いている。呼吸するのが苦しくなる。 肩紐を引っ張る。股に水着が喰い込む。もっと引っ張る。直す振りをしてお尻の割れ目に添って指を這わす。
 頭が痛い。濡れた髪がざわざわと耳元で鳴る。薫とタタミコーチの笑い声が遠くなったり近くなったりして頭に突き刺してくる。その笑い声に合わせて身体をしならせる。水着が性器の柔らかい部分を押し開いていく。そこにシャワーの水を当てる。

 お疲れさま。
 さようなら。
 次のレッスンを受ける人達とすれ違い挨拶を交わす。薫に見つからないようにそっと帰る。
 スイミングスクールは二階建てでドームのように屋根が丸い。一階がプールで、二階がギャラリーだ。
 プールの入り口に剥げ欠けたヒマワリやパンダの無節制なイラストが描かれた送迎用のマイクロバスが二台置かれている。
 息子はこのバスに乗ってプールに通っていた。隆盛時代には町中の子供を乗せて走ったバスだ。
 学校と塾とプールを行き来するのに時間節約の為に、安全確保の為に、母親達がバスの送迎を交渉した。経費がかかると難色を示す経営者に「バス送迎の導入は格好の宣伝にもなる」と力説した。
 駅前にどんどんマンションが建ちならび息子が通う小学校は一学級分が毎期確実に増えていった。
 マンモス校解消の署名運動もした。マンション業者に市役所に県庁に学校を新設するように要請した。四十人学級実現を訴えた。みんな息子の為だ。
 わたしは泥がこびりついた車体を撫でる。
 あの時、本屋に「積み木くずし」が平積みされ、ヨットによるスパルタ教育の戸塚校長が逮捕され、公立中学校の窓ガラスが生徒達によって割られる事件があいついだ。駅前にはサラ金の看板が乱立し、凶悪犯罪の半分はサラ金がらみだったから、NHKの朝の連続ドラマ「おしん」に泣きながら、子供を何としてもいい学校、いい会社に、送り込みたいと思った。それが母親の責任だと信じていた。

 プールの建物を一巡して、剣持医院に着く。灯りは消えている。夫の手紙を探そうと裏口に回る。扉を押す。ノブを回す。鍵がかかっている。諦めて表に回る。
 剣持犬猫医院の看板に灯りが点いた。薫はもう帰っているのだろうか。
 来客用の駐車場に車が止まった。ぐったりしたシーバス犬を抱きかかえた人が診療所に入っていった。……もうすぐ診療が始まりますので、中でお待ち下さい、と薫じゃない若い声がする。扉を押して、診療所の中を覗き込む。明るい蛍光灯の下に座っている犬と人。犬の背をさすりながら人がぶつぶつ呟いている。犬は、心配しなくてもいい、というように鼻をこすり、その人の手を嘗めはじめた。
 ざらりとした舌のぶつぶつの赤い突起が指と指の間を行き来して涎で手のひらまでたちまちべとべとに濡れていく。
 受付の小さな窓が開いて、
「どうしました? 今日は」と声がした。わたしに向かっての質問らしい。視線があった。
「あら。ミーシャのお母さん」
 脱色した金色の髪。耳には小さなピアスが三つ並んでいる。張りつめた透明な皮膚。ピンクの長い爪。小さな顔の細い女の子。立ちあがるとやけに背が高くて白衣からはすらっとした足が惜しげもなく伸びている。「どうぞ入ってください」受付のドアから出てきてわざわざわたしの前にスリッパを並べた。
 白い太股が屈んだ時にちらっと見えた。血管が透き通って見えるような肌だった。
 礼儀正しいいい子でしょ。学生は勝手に休んで困るのだけど、演劇を勉強している子なの。頑張っている若い人といると楽しいでしょう。
 薫はこの子がとても気に入っている。だけどわたしはこの人形みたいな子は苦手だ。妙にものわかりのよさが癇にさわる。
「先生はまだ戻ってないのですけど……」と小さく囁くように言う。他の患者に聞こえないようにだろうか。それとも、どうして一緒じゃないのだ、と非難しているのだろうか。
「いえ。あっ。先に帰ってきたから。いえいいんです。別に用事ないんです」
 しどろもどろで弁解して扉を閉めて外に出る。
 剣持医院の看板に灯りがともった。
 あの家のどこかに夫の手紙がある。わたしの知らない夫の文字。元気ですか、以外の文字も書かれているのだろうか。わたしの知らない所にいる夫は、いったいいつ帰ってくるのだろう。
 耳に入った水を取ろうとケンケンしながら帰る。性器の奥に潜んだ生暖かい水が脈打つ。
 駅前はサラリーマンや学生で溢れている。紺のスーツ、黒の鞄、黒の靴、同じように疲れた顔。でもそこには、夫の顔も息子の顔も混じっていない。
 駅の南側は商店街が並ぶ。魚屋、八百屋、豆腐屋が軒を並べている。そこに主婦が群がっていせいのいい声が行き交う。
「おじさあん。こっちの方が先よ。あじ。鰺よ、三枚におろして」
 ハッポウスチロールに並べられた青い鯖、赤い蛸。なまこ。海からあげられたばかりの色とりどりの魚が並べられている。
「はい。まいど。皮はさっとあぶってぽん酢で食べてよ。料亭顔負けの鰺だよ」
「おにいさーん。あたしハマチよ。脂の乗っている所、片身ちょうだい」
「このアサリ、ちゃんと砂抜きしてる? 食べたらじゃりじゃりしてこの間酷い目にあったわよ。亭主は、こんなもの食べさすのか、と怒鳴って茶碗投げつけるし」
 この女たちには男がいる。この男にも女がいる。誰もが誰かの元に帰る。みんなの声がとても誇り高く聞こえる。わたしを責める声も聞こえてくる。
……夫が帰ってこない? 旨い物喰わせれば家に居着くのに。まずいものでも喰わせてるんじゃないの。
……息子が帰ってこない? 勉強、勉強って、どうせ、自分の子供だもの。大したものにはなりゃしないのにさ。頭叩いて、追い立てりゃ出ていくよ。
……退きなよ。ぐずくずと、じゃまなんだよ。
 はじき出され、わたしは大通りを渡る。赤々と光りの灯ったスーパーマーケットに行く。
 開け放された入り口。吸い込まれるような明るい店内。必要以上に冷やされた店内、必要以上の灯り、ショーケースの魚や肉はどれもこれも飾り物のように美しい。
 何もかもぴっちりとラップで包まれ同じ大きさに切り分けられ整然とケースに並べられている。重さや大きさはグラム、加工日、賞味期限が鮮度の度合い、バーコードに管理されている。
「ねえ。ママ。これ前は生きてたんだよね」
 振り向くと小さな女の子がスーツ姿の母親に話しかけている。黄色のスモックに桜の形をした名札。
「ねえ。生きて泳いでいたんだよね」
 尚も子供は話しかける。
 母親はそんな子供に、うんうんと返事して隣のケースに行く。置き去りにされたその子の前にしゃがみ込んで言う。
「そうよ。あなたに食べられる為に殺されたのよ」
 その子は、おずおずと後ずさりしながらスモックの裾を指で弄る。 黒い瞳が潤んで涙が膨れそうになっている。そのふっくらした甲を思い切り抓れば泣くだろうか。
「あなたの為にどんなにみんなが……」
わたしは近づき尚もその子の耳元で囁いた。
「みんなあなたの為なのよ」
わたしはその手の甲を撫でる。小さな手。指。爪。張りつめたつるつるの皮膚。ずっと昔、この子くらいの時だろうか。算数の問題を間違える度に息子の手を抓った。息子は溢れそうな涙を爪痕のついた甲で拭っていた。その息子の手を今度は撫でながら、みんなあなたの為なのよ、と言った。小さな息子は歯をくいしばって口から出る声を殺した。
わたしは立ちあがって、混み合う通路を見渡す。空っぽのカゴをぶらぶらさせて、牛乳売り場に行く。
 すれ違いざま、ちらっと探るような目つきで他人のカゴを見る。
 この人は今晩酢豚を作るのだろうか。みそ汁の具はあぶらげと豆腐みたいだ。ほうれん草はお浸しにするのだろう。酢の物が不足している、と、モズクをこっそりカゴに入れる。
 ミーシャの為にキャッツフードを選ぶ。牛乳を選ぶ。奥の方に置いている日付の新しいのを取り出す。
 レジで精算を済ます。横に筑前煮を作る人が並んだ。
 覗くとグリーンピースがカゴに入っていない。慌てて、缶詰の棚からグリーンピースを掴んでレジに戻る。
「筑前煮にはグリーンピース」と叫ぶ。
「彩りにグリーンピース、グリーンピース」と繰り返す。けれどわたしの声を無視して筑前煮の人が行ってしまったので隣の人に話しかける。
「筑前煮にグリーンピース……。息子が好きだったんですよ。ぷちっぷちって、これだけ摘んで、お箸でね。とても器用だったんですよ」
 レジの鼻にピアスした金髪頭の男の子がグリンピースを取りあげて、機械的にバーコードを読み上げる。
「二百三十円です」
 財布の百円玉がコロコロ動いて捕まらない。
 漸く支払い、表に出て筑前煮の人を追う。
 レンコン、蒟蒻、にんじん、里芋、透き通ったナイロンの袋。その中にグリーンピースも入れなければ。走って追いかける。わたしの袋もがさがさと音をたてる。
「息子は好きだったけれど、夫は筑前煮が嫌いで同じ材料で夫には肉じゃがを作ったのですよ、夫はプツプツ感が嫌いで面倒くさいのがイヤだったのですよ。でもね、それを長い間言わないのですよ。言ってくれなかったですよ。黙っていたのですよ。わたしたちは長い間一緒に暮らしてきたのに、いろんなことをいっぱい話してきたのに、大事なことは何も話してくれなかったのですよ。自分ひとり我慢しているみたいな難しい顔して、行ってしまったんですよ。六十なんですよ。それなのにとても頑丈な躰をしていて。優しくて。頭が良くて。わたしの料理がどこで食べるよりも一番おいしい、と言ってくれて。だからわたしも一生懸命毎日毎日買い物に行って、作って、洗って、片づけて、そんなことを繰り返して、それでも楽しかったんですよ。足音に耳を澄まし、もう帰ってくるんだ、もう帰ってくる、とわくわくして待っていたんですよ……。毎日、毎日」
 すれ違う人に話しかける。わたしの口から飛ぶ唾が先を急ぐその人の夏物の薄い紺のスーツにかかる。腕にかかった唾は小さなシミになって点々と残る。
 わたしは夫の好きなクリームチーズも牛肉も息子の好きなチョコナッツのアイスクリームも買い物していないことに気付く。夫は今日も帰らない。わたしは急に恥ずかしくなって、ごめんなさい、と謝り、後ろを振り返らず早足で黙って歩く。
 再び剣持医院の前を通る。
 夫が薫宛に送った手紙はこのコンクリートの建物に何重にも守られている。
 主婦なんて誰からも守られていない。家族の世話や食事の支度に明け暮れてあっという間に日が過ぎる。スーツ姿の男の人、女の人、勤め先から帰るこの人達は誰のために働いているのだろう。誰に守られ誰を守るのだろう。
 線路に沿って流れる川は真っ直ぐに北に伸びている。マンションが建ち並ぶ通りを抜けて北に向かって歩く。緩い坂道は段々と人通りが少なくなる。閑静な住宅。わたしの住む一画だ。沼を埋め立てて作った三十戸あまりの家は住む人と同様に年老い、町はしーんと静まりかえっている。外灯も少ないこの地域は遠くから見ると、暗い沈んだ沼地に見える。沼の草むらに住み着いた野良猫や近所の飼い猫も、死に場所はここの湿原地と決めていて、沼が埋め立てられ、住宅地になっても、年を取り、傷つけば、ひっそりとここにやってくるという。
父も母もこの町で産まれ死んだ。早死にした両親の年をわたしは今年越す。
 電柱の陰がすっと動いた。
「あのなあ。うちなあ。探してますねん」
 背がわたしの胸までしかない小さなおばあさんに呼び止められ立ち止まる。
「この辺にありましたやろ」
 上等のカーディガン、長いスカートはヘムの裾がほどけ白い糸が下がっている。左右違うソックス。大きな茶色の男物のサンダルを引きずるように履いている。
「ここに沼がありましたやろ。うちのおかあはん。猫捨ててこい、猫沼に捨ててこい、いいますねん。確か、この辺や、思うて来ましたんや。猫沼いいますねん。知りまへんか。……本当いうとうち死んでもかまいまへん。子猫の代わりにやったら死んでもかまいまへん。そんでもおかあはん。捨ててこい、子猫捨ててこいいいますねん。そやから、うち、ここに、この沼に放り込みますんや。」
おばあさんの目は光っている。
「見ておくれやす。可愛いですやろ」
おばあさんは、カーディガンのボタンを外す。引き千切るようにその下のブラウスのボタンも外す。乳房がむきだしになった。おばあさんはその乳房をシワだらけの手で撫でながら頬ずりをする。
「可愛いですやろ」
 ほらっ、とおばあさんの手がわたしの腕を掴もうとする。乳房を撫でていた手でわたしの胸を服の上から鷲掴みにしようとする。おばあさんの切り揃えた爪が薄暗い外灯の灯りに光った。わたしは小さな声をあげて駆けだした。
 キャッツフードの箱と缶詰のグリーンピース、牛乳パック、買い物袋がガサガサと音がして闇の中の淡い影が動く。こわごわ、振り返るとおばあさんは外灯の下にまだ立っている。はだけた胸は白く柔らかな生き物を抱いているように見えた。
 わたしは大きく息を吸い込む。草の匂い。土の匂い。木々の匂い。腐葉土の上に何か生き物が声を殺して見ている。闇に潜む無数の生き物の中を歩く。首筋を撫でる五月の風は湿気を含み、肩に掛けた鞄の中も湿っていく。濡れた水着。濡れたタオル。乾かしたはずの髪がまた湿っていく。沼だったこの地は奥深い所がいつもしっとり汗をかいている。
 足音のないものが、ひたひたとわたしをつけてくる。キラリと光る目。わたしの様子を窺っている目。行き止まりになった路地から外灯の物陰から植え込みの薄暗い緑から目が見える。
 家の回りのブロック塀に何匹もの猫がずらりと並んでいる。
 ぶち猫、キジ猫、黒猫、みな腰をでんと据えて、あくびをしたり、後ろ足で首をかいたりしている。
 嘲笑うかのようにしっぽをピンとあげて性器を剥き出す。
 収まっていた熱い想いに身体がまた火照ってくる。
 門扉を勢い良く開け閉めして追い払う。
 スレート瓦の一枚が屋根から滑り落ちて郵便ポストに当たって砕けた。欠片が芝生にずぶっと突き刺さった。これで二枚目だ。
 出がけに見たポストをもう一度確認する。郵便物は何も配達されていない。
 玄関の戸を開けるとミーシャが走ってきた。
 おいで。と手を差し出すとくにゃとなって抱かれる。暖かい。ミーシャの身体に頬ずりする。毛が鼻を刺激する。
 くしゃん。
 わたしの大きなくしゃみに驚いてミーシャの耳がぴくっと動く。毛が逆立つ。
 ミーシャを床に置く。しばらくわたしを見上げ気をつけの姿勢で待っていたが、ひょいと背を向けわたしの開けたドアの外を見つめる。がらんどうの家にガリガリと引っ掻く音が響く。外の雄猫がミーシャを狙っている。
 薫は……早い内に不妊手術しないと、猫だらけになるわよ。何の取り柄もない雑種なんか貰い手なんかいないのよ。産まれてもしかたないのよ。産むだけしか能がないから、ひどいのになると一年中発情して一年に三回も出産するのよ。おかまいなしなんだから、と言った。
 剣持医院のタイルの診療室だった。
 タイルの白い床から生臭い匂いがしていた。薫の白衣が汚れているように見えた。薫の長い指に血の匂いがしているように見えた。ミーシャは押さえつけられて、ニャーと力なく鳴いている。
……卵巣と子宮摘出手術、そんな大変なことじゃないのよ。当たり前なのよ。猫にも飼い主にもその方が都合がいいのよ。
薫はそう言った。
 わたしは、箒をもって立ちあがる。ぴったり窓ガラスに毛を擦り寄せている見知らぬ猫を「出て行け。お前なんか出て行け」と追い払う。窓ガラスを揺らす。窓ガラスの向こうは外の世界だ。牽制しあう雄猫が塀の上から家の中を窺っている。
 わたしの剣幕にミーシャはソファーの下に潜り込む。窓の外の雄猫はのっそと窓から門塀へと移動する。
 カーテンを閉める。
 キャッツフードをお皿に開ける。牛乳を別のお皿に入れる。
 ソファーの下を覗いてもミーシャは怯えて出てこない。
 電話が鳴った。
「寄ってくれたんだってね。今、診察終わって駅前にオープンした無国籍バー・ゼロにいるのよ。偶然なんだけど。タタミコーチも一緒よ」
 薫だった。
「出てこない?」
 薫の声は明るいからうっかり返事をしてしまいそうになる。夫の手紙のことも聞かなくてもいいような気になる。このまま知らない振りができれば。夫さえ薫に手紙を出さなければ。わたしが手紙を見つけなければ。
「タタミコーチのお父さんがあのプールの設立者なんだって。わたしたちってコーチが子供の時からプールですれ違っていたかもしれないのよ。それでね。応援団としてタタミコーチにも言っていたのよ。子供の数が減って、お子さま産業が成り立たなくなったのだから、大人相手に仕事しなさい、って。それでね、スイミングスクールが昔の隆盛を取り戻すのよ。ねー」
 ……わかってます。わかってます。地域の発信地になれというのでしょう。それはみんな言うことですよ。ボクが聞きたいのは具体案なんですよ。薫さん、話して下さいよ。
 電話口から聞こえてくるタタミコーチの声は妙に薫に挑戦的でプールの冷静な声とずいぶん違って聴こえる。それに剣持さんという呼び方がいつの間にか薫さんに代わっている。薫はこんな風にわたしの知らない間に誰かと親しくなっていく。それでわたしの知っている人が知らない人になっていく。
 夫のことはなんでも知っているはずだったのに。薫のせいで夫が遠ざかる。
 タタミコーチのピンク色の耳を思い浮かべる。夫の耳でも息子の耳でもないタタミコーチの耳。
「じゃあ。待っているわね」
 薫の晴れやかな声とツーツーという機械音。受話器をコトリと置くと部屋は静けさに包まれる。 
 窓の外は木立の間に細い月が浮かんで梢や枝を影絵のように黒ずませていた。カーテンの端を握り窓ガラスに頬を擦り寄せる。ひんやりした夜はガラス窓から肌へ忍んでくる。
 一回り年上の夫は、出張や単身赴先からこまめに絵葉書を送ってくれた。元気ですか、としか書かれていない文面に文句をいうと、困ったような顔で、元気だったらそれでいいんだよ、と笑った。
 窓の外に闇が映る。内にわたしの貌が浮かぶ。猫が屋根に登ったのか、天井の上の方からミシリミシリと音がする。
 畳はささくれ襖は破れている。ミーシャの仕業だ。葉書を拾う。掠れた万年筆の文字、青いインクは変色し紙は赤茶けている。みんな古いものばかりだ。夫は連絡を絶った。旅先でわたしの事など思い出しもしないということか。
 ベッドの上に拾い集めた絵葉書を重ねる。
 夫が全てだった。
 夫と知り合い結婚し子供が産まれた。笑ったり泣いたり怒ったりした二十四年。この家で暮らし同じものを三人で見た。育てた。そうではないのか。そのはずだ。この家の雑草を引き抜き、塀にペンキを塗り、花を植える。同じ庭に洗濯物を干す。食べ物を買い作る。洗う。片づける。同じ毎日の同じ日々を繰り返しているうちに、わたしはここの家と一緒に置いていかれたのだ。
 絵葉書を破る。
 この絵葉書一枚で引き換えたわたしの月日を破る。元気だったらそれでいい、と夫はわたしに言い、その優しい言葉でこの家に閉じこめたのだ。
 息子が子供らしい笑顔でわたしにまつわりついたのは、小学生までだ。中学に入って急に背が高くなった息子は無口になり、時たま哀れむような目でわたしを見た。
 今となっては話すことがないから口を聞かないのか、話したくないから口を聞かないのかよく分からない。中学、高校、と進学する度に息子はわたしを冷ややかに見たから、名古屋の大学に入った時は正直ほっとした。
 息子のことは夫よりもっとわからない。わかるのは、息子には学校があり、夫には会社があった、ということだ。
 電話がなった。のろのろと受話器を取り上げる。
「ねえ。来ないの。またくよくよ考えているのでしょ。男なんてみんないいかげんで自分のことしか考えてないのよ。本気になって怒ったり泣いたりする価値もないのよ」
 薫だ。乱暴なものの言い方は酔っている証拠だ。
……薫さん。ボクは決心しました。選手を育てますよ。オリンピックですよ。ボクもオヤジも果たせなかった夢を託します。
 タタミコーチの声も受話器から聞こえてくる。
……赤字なんでしょう。経営権さっさと譲り渡した方が楽なんじゃないの。個人の小さな夢なんて贅沢よ。全国展開のスーパーの傘下に入るって噂も聞いたわよ。利潤第一のスーパーが子供を教育するのよ。理想主義なんて勝つ訳ないわよ。
……薫さんこそ、儲かりもしない犬や猫の病院なぞ取り壊して、大手の不動産に売ったらどうですか。
……わかった。わかった。タタミくん。悪かったわ。力を合わせましょ。元育友会が全面協力するわ。
 薫はわたしに電話しながらわたしのことをそっちのけでタタミコーチと話している。
……ねえ。元会長。聞いている? 子供達の為にスイミングのバス運行させたでしょう。ひとクラス四十人定員実行させたでしょう。学校も作ったわよね。わたしたちって何でもできるのよね。
 わたしは電話を切る。
 それがどうしたというのだ。みんな前のことだ。息子のことを考え息子の為にやっただけだ。今となれば、あんな風に人前で話したことすらおぞましい。
 タタミコーチのピンク色の耳たぶの思い浮かべて考える。夫がわたしに触れなくなったのはいつからだったのだろうか。考えながらまた絵葉書を破る。ふたつに裂き、それを重ね、また裂く。「元気ですか」を跡形もないように引き裂く。
 まだ息子が産まれていなかった頃、長い快楽の長い夜。筋肉質な躰。日焼けした皮膚。夫は健康でわたしも健康だった。かすかに口を開き眠る夫。夫の心臓に耳を当て、その髪に触れ唇に触れた。眠り続ける年上の人が小さな子供のように思えて、この人を命掛けで守ろうと朝まで起きていたことがあった。いつからだったのだろうか。
 夫がわたしにレースやリボンをふんだんに使ったペティコートやキャミソール、おしゃれな下着を身につけさせ、眺めるばかりで触れなくなったのは。はにかみとも自嘲とも見えるけだるい笑顔を見せ、もうかんべんしてくれよ、と言った夫。
 いつからだったのだろう。
 バブル虚構が崩れ、夫の会社の大手の取引先も揺れ動き倒産に追い込まれた頃だったのだろうか。
 サハリンのコンスタンチンちゃんが全身八十%の火傷で入国手続きなしで札幌の病院に運び込まれた話をしていた頃だろうか。
 夫が上の空でわたしの話を聞き返事を惜しむようになったのは。湾岸危機でイラクのクエート侵攻の新聞記事にも興味なさそうに目を落とし、なんの感情も伴わない目で日本人初の宇宙飛行士秋山豊寛さんのテレビの画面を眺めていた夫。
 そのくせ、わたしがお風呂に入ってる時に決まって脱衣所の戸を「あっ。いたのか」と開けたりする。わたしの裸を覗き見ようとしていた。
 わたしに隠れて、手垢が染み付いているような古い浮世絵の蔵書を集めだした夫。
 廊下や玄関ですれ違う時に何気なく触れる夫の手や肩、夫の吐息に鳥肌が立つようになった。
 わたしは一日のうちに何度も手を洗い何度も掃除機をかけた。ぼんやりしているうちに、部屋中が細菌で冒されていく気がした。夫の下着はゴム手袋で摘んで洗濯機に入れて洗った。夫が使った箸は不潔で洗う気にもなれなかったので、割り箸に替えた。
 阪神大震災があった。サリンが地下鉄にばらまかれた。景気は低迷を続けて急成長を遂げた夫の会社も役員が交代し、いくつかの部門を縮小したようだった。
 ある夜、深夜帰宅した夫はわたしの寝室を覗いて言った。
「きみがこの家出ていく夢を見たよ。それでなんだか心配になって」
 寝入りばなを起こされて不機嫌なわたしに夫は尚も言葉を重ねる。
「ボクは定年になっていたんだろうな、仕事もなく、見送っていたもの……」
「……寂しそうだった?」
「そうみたいだった……けれど」
「けれど? 何?」
「それもしかたないかなって考えてた」
「………」
 わたしは言葉を飲み込む。
 主語のない会話はどちらかどちらか解りにくい。寂しいのは夫かわたしか、深夜に夫はわたしの声を聞いてわたしは夫の声を聞く。
 しかたない、と誰が考えているのだろう。考えてしかたないと誰が思うのか、わたしはふとんを引き寄せ、頭からすっぽり被ってもう一度眠る。
 うとうと楽しい夢の続きのまま目を開けると、薄闇の中に夫の顔があった。
 ネクタイを緩めだらしなくボタンを外しシャツをズボンから出してわたしのふとんの縁に座っていた。手を伸ばせば届く所にいてくれたのに気付かなかった。わたしは恥ずかしさで身震いがした。夫は言い訳を探すように頬が緩んでこれ以上優しくできない顔で見下ろしていた。額に刻まれたシワも深くなり、ずいぶん白髪も増えていた。わたしはそれすら腹立たしく、布団の上に畳んだあったガウンを掴み夫に投げつけた。夫を睨み付けた。
「……わかったよ。……そういうことなんだ」
 夫はたちまち堅い表情になり刺すような視線でわたしを一瞥すると部屋をでていった。 
 昔のように、わたしをベッドに引き込むことも、「寒いね」とか「眠れなくて」と無理矢理わたしの布団に入ることも今の夫はできない。
 わたしたちはまるで少年と少女のように相手の一挙一動で傷つく。わたしと夫の間には、性を絶って以来、いいようのない緊張感が漂い、それを埋めようとする会話がまたわたしたちを遠ざける。
 長く勤めた夫の最後の仕事はリストラの人員を選出することだったらしい。
 家には脅迫に近い電話が鳴り響いた。恨みや辛みを書き綴った手紙が家のポストに投げ込まれた。夫は額に皺を深く刻ませ、丁重に返事を書き、丁寧に電話で応対をしていた。
 今までより一時間も早く家を出て、深夜タクシーで帰る日が続いた。夫は疲れていた。
 夫が泣けばいいと思った。子供のようにわたしの膝で泣きじゃくればいいと思った。
 そしたら、わたしは頭を撫で髪を撫で頬を撫で夫の涙を拭ってあげるのに。夫を守ってあげるのに。
「定年になったら、ボクはこの家を出ていく」
 そんなことはありえないと思った。夫とわたしはいつも一緒だ。二人の間に性がなくとも、兄弟のように隣人のように、愛情で、あるいは共犯意識で、暮らせると信じていた。夫のワイシャツに口紅がついていようとだ。夫の躰から発せられる甘い匂いに吐き気を催しながらもだ。
「キミはこの家で今まで通り過ごせばいい。ここはキミの家だから。預金も置いていく。退職金も半分渡す。それで生活には困らないだろう」
 退職の日が近づいて、家にあらゆるものが持ち込まれた。抱えきれない程の花束であったり、眩い黄緑色のセーターであったり、スポーツメーカーの大きな図案がプリントされた派手なウィンドブレーカー、ぬいぐるみのケータイケース、華美な古伊万里の皿、およそ普段の夫の生活とは程遠いものがプレゼントと称して贈られてきた。真面目一方だと信じていた夫の華々しい交流関係だった。
 これは行きつけのスナックのママにもらったんだ。これはクラブのママ、事務所の女の子、喫茶店の女の子、定食屋の人、うどんやさん、ひとつひとつ指さしながら楽しそうに説明をする夫。その中の一人と特別な関係だと、打ち明けられた。
「怒らないのか」
「喜んであげたいわ」
「それじゃあ。こう言ってやろうか。キミがボクを拒絶したから他の女を抱いた……。キミは抱けなかったけれどこの手で幾人もの女を抱いた」
「………」
「……喜んであげたい、か。そういう女なんだ。キミは」
 機嫌良く話していた夫が一変する。拒絶したのが夫だったということが曖昧になっていく。夫の肌に触れたいと長い間思っていたことも嘘になっていく。夫はいつもこんな風に少しずつ、問題をすり替えていく。わたしは夫のいう【そういう女になる】わたしは部屋いっぱいに広げたプレゼントの山をつまらなさそうに見る。
「好きなの」
「………」
「好きなの? ねえ。好きなの?」
「ああ。そうだ。ああ。そうなんだよ」
 わたしは夫に飛びついた。夫の躰に躰を添わせ、かってこの躰が自分の一部分のように思った頃を感じようとした。拳で叩き夫の胸に住み着いていた誰かを追い出そうとした。
 プレゼントの山は見かけばかり飾った品のないものだ。これを渡した女を夫は抱いたというのか。
薄汚い、どれもこれも汚らしい。指先でつまみ上げ次々と投げた。古伊万里の艶やかな牡丹が壁に当たり大きな音をたてて砕けた。
「止めないか」夫がわたしの腕を掴む。ざらついたウールのスーツがちくりと肌をさした。
 
 結局、夫は出ていき、息子も名古屋で就職した。わたしはひとりだ。夫がくれた絵葉書を眺める。千切った所を伸ばしセロテープでくっつける。いびつになった夫の字、「元気です」がくっちゃくちゃになった。黒い点の塊にしか見えない。
 小さな鳴き声がする。
 産まれたての赤ん坊の泣き声だ。
 猫だろうか。猫がまた庭で子供を産んだのだろうか。ミーシャじゃない生い茂った雑草と芝生の間に隠れて住み着いている猫。その猫のどれかが子を孕んでいたのだろうか。
 泣き声は近くなってまるで自分の躰から聞こえてくるようだ。
 わたしは自分の腹を見下ろす。ぽってりした下半身がみるみる間に膨らみ子宮が充血して腫れ上がる。胸の動悸が早くなる。呼吸が段々と荒くなる。
わたしは息を吸う。大きく吸う。もっと大きく吸って酸素を腹に送り込む。皮膚が張り裂けそうに引っ張られ真ん丸になる。
わたしは息を吐く。ゆっくりゆっくり吐く。腹の中には自分の意志とは別の生き物がわたしの呼吸に合わせて同じように小さく息を吐いた。
 わたしは腹を撫で大きく息を吸い込む。びしゃぴしゃと子宮が伸びる。
 わたしはまた産むのだ。
わたしは渾身の力を込め息を吐く。腹を押す。力いっぱい押す。股の間から、ぬるりとしたものが産まれ落ちた。生臭い匂い。生温かな柔らかいもの。
 ふぎゃあ。ふぎゃあ。小さな声がどんどんわたしの躰に染み渡る。この声を聞けば夫はすぐに来てくれるだろう。わたしと夫の間に産まれたもの。それがまた命を持つ。わたしたちはまた育てていけるのだ。
 
 ビニールの小さなプール。息子が小さいとき遊んだプールだ。泣き叫んでどうしても水遊びできなかった息子。
 庭の花に水やりをしては、泥だらけの手で洗い上げた洗濯物を触り大好きなトーマスの白いTシャツが汚れた、と泣き出した息子。
 買ったばかりの傘と長靴で雨が降るのを庭で待っていた息子。車を洗う夫の手がそれてホースの水を浴びせられて泣いた息子。
 息子の泣き声がわたしの躰を埋めていく。家の外から中から泣き声が聞こえてくる。
 だけど声だけで息子は姿が見えない。
どこにいるの。
 こっち、こっち、という声がする。
 わたしはその声に従って、玄関を出て、表に出る。
 月がぽっかり浮かんでいた。
「この道をまっすぐ行けば、ケンモチクンに着くんだよ。おかあさんもおいでよ」息子の声がする。
 わたしは暗い道を歩く。道はいつの間にか一本の線路になってわたしは線路の上を歩く。息子の声から柑橘系の匂いがする。薫だ。
 夫と薫が一緒に歩いている。ぼんやりとしたふたつの影がわたしの目の前で揺れ動いている。薫が見知らぬ女の姿になったりしている。外灯と月の明かりに見え隠れしながら、笑ったりしている。わたしを振り返り、わたしを指さしながら、影が漂っている。
 線路の脇に影は立ち止まりそれからすっと消えた。樹木になったあじさいの葉が息苦しく生い茂って、呻くようにざわめいている。
 荒々しい夜の緑の葉の中で、鉄の線路が光っている。小さな笑い声が線路の向こうの暗闇から絶え間なく聴こえる。懐かしい匂いもする。目の前に沼がぽっかり口を開けていた。
……ねえ。昔、ここにね、狂った猫が飛び込んでいったよね。
 くすくすと笑う息子の声がする。
……そうだったね。
答えたのは夫だ。夫の声だ。夫も笑っている。
……なあんだ。みんなこんなところにいたの。
 ひとりになった、と思って損しちゃった。
……おかあさん。ひとりが怖いんだね。
……怖くないわよ。わたしはおかあさんなのに。
……だったら飛んでみなよ。
……ようし。見てなさいよ。すぐにそこに行くから。
 わたしの鼻の先で空気が微かに揺れて電車の匂いがした。


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