約束  益池 成和


 一度だけだったが、父が歌をうたっているのを耳にしたことがあった。もっとも、その行為を歌と呼べるものかどうか。歌詞もなく、音程さえもはっきりしない、言わば鼻歌とでも呼べばいいのだろうか。
 時期もはっきりしないが、ふと父のそばを通りかかったとき、フン、フン、フンとばかり、小声で、妙に楽しげな調子でうなっていたのである。へぇ、親父も歌をうたうのかと、驚いた覚えがある。
 七つ年下の母親のほうはカラオケが得意だった。四十を過ぎたあたりから一人で歌謡教室を見つけてきては通いはじめ、習いに行く先は変わっても、そんなような行為は、父が命を落とす原因となった下咽頭癌で入院する時期まで続いた。
 結婚をしなかったこともあって、結局私は四十五年間も父と同じ家に居座り、寝食を共にしたことになる。だが、いなくなられてみると自分の親でありながら、父がはたしてどういう人間だったのか案外に答えられない。
 歌もそのうちの一つである。はたして好きだったのかどうか、答えることが出来ない。記憶に残る限り、父が歌をうたっているところに居あわせたのは先に書いたその場限りのことであったから、得意でなかったことだけは確かだろうが。
 母と違って父は歌には興味を示さない人間だと勝手に判断していたところがあった。だから、日曜日の正午すぎになると、決まって居間のテレビがNHKの『のど自慢』を流しはじめていることに気づいたときには少なからず驚いた。あんな番組を見るのかと。
 早くから町の自治活動に携わっていた父は、ことに四十のなかばを過ぎたあたりから、癌という病を得る二、三年程前まで、自治活動のありとあらゆる役職を歴任して来ていた。また、そのような活動に携わりながらも、六十歳の誕生日まで大阪市内にあった子供服を扱う会社の社員でもあったから、休日はけっこう多忙だった。普段町には居ないのだから、当然そのような関係の活動をこなすのは休みの日に集中する訳で、昼食をとるとそそくさと家を出ていくということが多かった。
 だから父がNHKの『のど自慢』を見始めたのはいつ頃からだったのかは分からない。番組の方は一、二を競う長寿を保っているはずだから、案外若い頃から好んでいたのかも知れない。なんだまたのど自慢かよ、と思いだしたのはここ四、五年のことである。おそらくそれは、父が若い連中に役を譲らないといけないなどと妙に分別くさいことを言い出して、自ら町内会の仕事から距離を置き出した時期と重なるはずである。
 居間のテレビが『のど自慢』を流しはじめる度に、父のいる部屋から一部屋隔てた応接間で日曜の昼食をとる習慣のあった私は、ださいなぁ、とよく思ったものだ。もともと父の部屋のテレビは音量が大きめで、下咽頭癌の手術を受けて声帯を失ってからは、その傾向がますます顕著になっていた。拍手と、妙にたどたどしげな歌声や華やいだ笑い声が聞こえてくる度に、素人のカラオケ大会を見てどこが面白いんだと、内心あきれていたものであった。同じ時間帯、私は関西の民放が制作して流している若者向けの番組をずっと愛好していたから尚更だった。
 もっとも父が生きていたときにも、ごく稀に、例えばその時間にマラソン中継が入ったりして、チラリと『のど自慢』にチャンネルをあわしたこともあったが、たいていは一人か二人の歌を聴くだけで精一杯だった。カラオケ好きの母なら分からなくもなかったが、およそ歌には縁のなさそうな父が『のど自慢』を楽しんでいることが腑に落ちなかった。 
 そんな私が『のど自慢』の魅力に取り憑かれたのは、父が亡くなって少したってからのことである。
 直接の原因は、今まで日曜の昼になればあわせていた番組が楽しめなくなったからである。その番組は、次から次へと様々な企画をたてて流していたのだが、肝心の企画にネタ切れでも生じ始めたのだろうか、いつの頃からか番組の一時間を使い切ってクイズをやりだした。そこにはその番組らしい味付けもあるにはあったが、その日だけまるっきりのクイズ番組になってしまう。そしてどうしたことか、クイズを流す日がやたら多くなった。どうかすると二週か三週に一度はクイズの日になった。これが楽しめない。出演者が一喜一憂してきょうは俺が勝った、今度はあいつには負けないと大げさにはしゃぐのだが、クイズを好まない私には出ている者が騒げば騒ぐほど退屈してしまうのである。
 仕方なく正午から始まるNHKのニュースを何気なく見るようになった。そして、そのままNHKにチャンネルをあわせたままという日が多くなり、ふと気がつくと、父が生きていたときにはあんなにも、ださい、と決めつけていた番組の虜になっていた。
 四十五分間まるごと見てみると、結構面白い。単なる素人のカラオケ大会だと決めつけていたが、これが大きな間違いだったのである。
 若い保母さんたちが出て来て手作りの短い衣装をまとい、ミニモニの歌を皆で跳ねながら歌い上げる。かと思うと、九十歳のお年寄りが伴奏無視で、都はるみの歌をまるで詩吟か何かのようにうなりあげる。また、消防士と火消しの格好をした二人組が歌そっちのけで火の用心を訴えて引っ込んだかと思うと、何の変哲もない背広姿の男が、聞いたこともないその地方の歌をさかんに動き回って熱唱してから、自分の町の観光地の紹介をはじめたりする。時として歌い終わった後、ダンナを今募集中だとちゃっかり自分の宣伝をして引っ込む若い女性も出てくれば、さっきうたった歌は会場に来ているあの人のために心を込め熱唱したものですと、臆面もなく言い放って引っ込む輩まで出てくる。
 NHKの『のど自慢』は単なるカラオケ大会ではなく、いわば大人の学芸会だったのである。
 むろん歌の上手な人も出て来るが、下手は下手なりに十分楽しめる。むしろ下手な人ほど突飛な格好をして出てきたり、奇妙な踊りをおどり出したりして、次の人はどんなことをして歌うのだろうかと思うと、見るのが止められなくなるのであった。

 父が言葉を失ってから、私は父のしめていた席を代行するかたちで少しずつ町内会の仕事に携わるようになった。同じ町に住む誰かが死ねば香典も持っていけば、時として、隣組や同行という名目で式の手伝いにも出ていく。また、細々とではあるが、父が農業を維持してきたこともあり、農家の集まりである実行委員会や水利組合のことにも顔を突っ込まざるをえなくなった。
 父がありとあらゆる町内会の世話役を次から次へと引き受けていた頃、今にして思えばそれは父がもっとも活動的で、もしかすると男として一番面白かった時期ではなかったろうかと想像するのだが、しばしば私は母と一緒になり、勝手に役を引き受けてくる父を批判したものである。
 役を引き受ければ何かと出費が重なる。人の世話をして金をもうけるどころか出ていく方が多い。馬鹿じゃなかろうか、と言うのが母の取り方だった。
 が、母の不満は単に金銭の問題だけではなかった。むしろ役を引き受けることによって、自分の夫が毎日のように夜出歩くのが耐えられなかったのではないだろうか。たしかに父はその頃頻繁に出歩いていた。寄り合いだ、会合だと言いながら、毎日のように出て行っては夜遅くならなければ帰ってこない。勿論母親が出迎えたときには決まって赤ら顔である。日が改まらないうちに帰宅となればまだしも、時として日付が変わってしまうことも珍しくなく、そんな日はたいてい泥酔状態である。 
 若い頃には何度か母に手を挙げたこともあった父ではあったが、子供が成人してからはいたって温厚な男と言ってよかった。細かいことは余り言わなかったし、厳格な性格でもなかった。おそらく母にとってはしやすい夫ではなかったろうか。
 ところが酒に飲まれてしまうと若い頃の地が出てしまうのか、ひどくわがままで意固地な性格が顔を出した。私は何度か飲み屋の人の呼び出しで父を迎えに行ったことがある。たいていは夜の十一時を過ぎるとこっちは二階にあがって寝床に入っているから、いくら車で遠くても十分か十五分程度の所とはいえ不機嫌にならざるをえない。いい加減にしろよ! と思いながら、仕方なく呼び出しを受けた店の扉を開けてみると、家ではおよそ見たこともない、ふやけきってだらしない表情の父が店の女を相手に、いい調子で酒を酌み交わしていたりするのである。それだけならまだしも、どうかすると相手の女の肩に手を回して抱き寄せていたり、まともに歯の治療もしていない口で、女の耳に囁きかけていたりするのであった。
 遊びらしい遊びを知らずにいたその頃の私は、飲み屋からの深夜の電話は一種の恐怖だった。飲む男は誰でもそうかも知れないが、父はアルコールで気が大きくなると次から次へと店を渡り歩く癖があった。最初の一、二軒までなら他の人もどうにかつき合えるらしいのだが、勝手に勘定を済ませてしまって、付いてこいとばかりに一人でどんどん歩いていってしまうらしかった。つまり気が付くと一人取り残され、店の女に酌をさせては好き勝手を言いまくっているという有様なのであった。
 酒も飲まず、めったに出歩かなかった母には、父のそのような振る舞いが不快だったに違いない。家の家計のいっさいは父の手の中にあり、金を握って好き勝手していると母には映っていたはずだ。
 あの当時父のそのような行動を、私は母親と一緒になってよく責め立てたものである。毎日毎日、どうしてそんなにも出歩かなければならないのかと不平を言う母に、父の答えはたいてい沈黙だった。そのような会話がなされるのはほとんどが夕食をとる食卓でのことだったが、父は決まってなにも言わずに黙々と食事をとるということが多かった。むろん黙ったままでは母の不満が収まるはずもなく、ぐずぐずと同じ問いばかりが繰り返されると、よく父はこれも仕事のうちだ、と言うようなことを口にした。また、アルコールで正体をなくして這うようにして寝室に転がり込んだ夜など、夫の衣服を脱がしながら責め立てる母に向かい、俺は酒を飲んだってそれをすべて金にかえているんだ、ただ好きこのんで飲んで遊び回っているのと訳が違う、などというような言い訳の仕方をしていたものであった。
 さすがに方々の店で使った金のすべてが何らかのかたちで戻ってきたとは思わないものの、一見身勝手だととれる親父の言い分も、あの頃とちがい、多少飲み歩くことを覚えた今の私にしてみると、あながちそのすべてが嘘だとも言い切れない、と感じ取れるようになってきている。どうも会社員であり続けながら、町会長などの責務を全うするには、普段自由に自分が動けない分他の役員の人に代わってもらうしかなく、そのためにも皆で飲むという行為が必要だったのだろう。
 父はおそらく、自治会活動に携わることを一種の生き甲斐と感じ取っていたに違いない。そうでなければ会社員でありながらも、毎年のように役を引き受けていたことを頷くことが出来ない。
 母は父が役を引き受けてくる度に、露骨に嫌な顔をした。私も母とは違った意味で、結局役付きになって帰ってくる父が理解しかねた。こんな狭い村の中の世話役を引き受けてきて、なにが面白いのだろうかと。
 それで一度母と、村の仕事など誰にも出来るではないか、なぜ父ばかりがやらねばならないのかと、一緒になって責め立てたことがあった。例によって父は最初黙ったままで居たが、そのうちに一言、誰にでも出来ることではないと、断言したことがあった。私と母は近所の父と年格好が近い男の人の名前を次々と出してきては、この人でもあの人でも出来るではないかと言い張ったが、ついに父の答えは、誰でもいいと言うことではない、という一言でしかなかった。
 私は父のその言葉が承服出来なかった。狭い村の中の仕事など、その役職に就いてしまえば、誰でもこなせるものと実際その頃の私は思い込んでいた。
 だが、それは明らかな間違いだった。おそらく今の私なら母に加担するより、父の言葉に黙って頷いていたに違いない。
 この人にもあの人にも出来ると名前を挙げた何人かは、現在私が関係する農業関連の活動に今だ顔出している人たちのなかにいる。が、実際に付き合ってみると、父が断言したように、失礼ながらこの人には無理だろう、と思うことがしばしば出てくる。なるほどこうゆう事だったのかと、今更のように納得している次第である。

 父が死に、父がしていた様々なことを今の私はしなければならない立場になった。だからこそ過去に父が口にしていた気持ちや行動が、今になってようやく分かると言うことがよく起こる。人は悲しいことに実感として分かるには、その人がしめていた席に取って代わって座ることによってしか出来ないものらしい。
 父のたった一人の息子として生まれ育った私は、父の夢や期待の対象だったはずである。まだ中学生だった頃のことだが、私が夕食のテーブルにつくのに、先に座っていた父が、座ろうとする私をずっと目で追うのを知り、言いようのないたまらなさを感じ取ったことがあった。
 あのまなざしは本当にたまらなかった。言葉でどうなれとかどうしろとか決して言わなかった人だが、時として直截な言葉以上に私にはその思いが響いた。
 だからと言うのも妙な話ではあるが、私は父にはなにも約束しなかった。どういう人間になるとか、どういう風な生き方をするとかは一切口にしなかった。ただ単に自信がなかったからと言えなくもないのだが、父を目の前にして約束をすると言うことに、説明しがたい抵抗があったというのも事実である。
 あれは私が三十をいくつか過ぎた頃のことだったはずである。普段私に対しては直接にはなにも言わなくなっていた父が、珍しく生の感情をぶつけてきたことがあった。なぜ結婚しないのかと。
 恋愛と呼ぶにはあまりにもお粗末としか言わざるをえないのだが、その頃私は十五歳年下の女の子とひょんなことで知り合い、三年ほど親しくしていたのだが、私の煮え切らない態度が原因で、結局愛想を尽かされると言うことが起こっていた。父も彼女のことはよく知っていて、勝手な判断で、その子と一緒になるものと思い込んでいた節があった。
 当時はまだ未婚だった妹と応接間にいたとき、突然父が入ってきて、いつまで独り身を続けるつもりなのかと私に向かい訊いてきた。私はなにも答えなかった。返答のしようがなかったのである。父は世間体が悪いと言いだし、妹もまだ結婚してなかったこともあって、おまえ達二人の育て方を間違えた、先祖に対して申し訳が立たないと言い募った。そしていつ結婚するのかと、私をにらみ付けてなおも迫ってきた。私は押し黙るしかなかった。すると父は、親の言うことを聞けないのなら直ちに出て行け、と怒鳴り始めた。やっと身を固めると思っていた息子が、相手を取り逃がしたと知り逆上してしまったのだろう。中に入った妹がいなすようなことを口にしたが無駄だった。顔を真っ赤にして、どんなことがあっても言うことを聞かすと言う態度がありありと見て取れた。
 なおもどうするつもりかと迫る父に対し、平静さを失ってしまった私は大声で、すいません! と一言叫んでいた。その後の私は挑むような態度で、すいません! という言葉を連発し続け、ついには父の求めるものには何一つ答えないまま済ませてしまった。  
 おそらく父にとっては、私はなんと優柔不断な、なにを考えているのか分からぬ男として映っていたはずである。
 そんなような息子であった私が、たった一度だけちゃんとやるから、と口に出して父に約束したことがある。言った本人にも、なにを約束したかったかは分かってはいなかったが、とにかく私は父に約束をした。だがそのときの父は、頷くことも目を輝かすこともしてはくれなかった。すでに出来る状態でなかったのだから。
 全身を蝕んだ癌細胞のために、すでに二十日も前から鎮静化の処置が施され、薬で眠り続けるしかない状態にあったからだ。つまり私は、死ぬまで眠るしかないベッドの上の父に約束をしたに過ぎなかったのである。
 父に初めて約束らしい約束をしたその時、病室の窓からは、ネオンサインを点滅させた通天閣が遠くに見えていたのを鮮明に覚えている。


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