質屋の角を左に折れると、果物屋の明かりが目にはいる。途端に源造はそれまで耐えていた風の冷たさに、思わず身震いをした。
「味源さん、お客さんらしいけど、さっきからずっと待ってはんのや」
きょうの商いを終わり、裸電球の下で店じまいを始めていた果物屋は、行商から戻ってきた源造が自転車を降りるなり、声をかけてきた。
「オバン、また居てへんのかいな」
源造はつぶやくと、自転車を押して暗い通路を自分の店へ向かった。味源という屋号を掲げ、この公設市場の一角で豆腐屋を商う源造は、行商に出ているあいだは、近くに住む千代という老女に店番を頼んでいる。ところが、彼女は客が来ないとみると、勝手に店を閉めて帰ってしまったりするのだ。昔からの近所付き合いのよしみで、隠居の千代はほとんど無償で店を手伝ってくれているのだから、文句をつけるどころか源造にとっては、むしろ重宝な存在なのだが、勝手に店を閉めて帰られるのも困りものだった。
それにしても、いまごろ訪ねて来るのは誰かと、いぶかりながら近づいていった。相手も気づいたのか源造にむかって、通せんぼをするしぐさで両手をひろげた。
「源さん、えらいご無沙汰や」
「おう、達やんかい、そんなとこでつっ立ってんと、なかへ入ってくれてたらええのに」
相手は、かつて源造の店で豆腐作りを修行した今西達夫だった。
「久し振りやなぁ、それにしても何んどあったんかい。えらいパリッとした、なりをしとるやないか」
源造は店の真ん前に自転車を止めると、改めてネクタイに背広という、おおよそ豆腐屋らしからぬ装いの達夫を見ていった。
「組合の寄り合いがあってな、近くを通ったついでに、ちょっと覗いてみたちゅうわけやがな」
「それにしても、オバンは店をほったらかしといて、どんならんな」
源造は自転車の荷台から木箱をおろそうとかかえた途端、腰の辺りに激痛を感じて思わず顔をしかめた。見ていた達夫が慌てて横合いから手を添えた。
「達やん、一張羅の服が汚れるがな」
源造のいうのも構わずに、達夫はひとりで箱をかかえて店のなかへ持って入った。その木箱から、源造は売れ残った豆腐を、店先にある水槽に一丁ずつ丁寧に移した。
「ワテは、まだ居りまっせ」
そこへ源造が愚痴るのを聞きつけたのか、奥から噂をしていた千代が顔を出した。
「あら、珍しい、達夫ちゃんやないのん」
「おばちゃん、相変わらず元気そうやなぁ」
達夫も久し振りに千代を見て微笑んだ。千代は、達夫が源造のところへ見習いに来たときから知っていて、会うといまだにその頃のままの、ちゃん付けで呼ぶ。
「あんまり散らかってるよってに、奥の居間を片づけてましたんや。達夫ちゃんも、もっと大きな声で呼んでくれたらええのに、このごろ耳が遠なってかなんわ」
喋りながら千代は、売れ残りの豆腐を自ら持参の容器に一丁掬い上げて入れた。ついでに傍らの油揚げと、おからを器用な手つきで新聞紙にくるみ、手に提げた買い物袋に入れた。報酬を払わないかわりに、売れ残りの品物はいくらでも持っていけ、といわんばかりに源造も黙認をしていた。
「質屋の奥さんいうたら、湯豆腐はやっぱり味源さんの豆腐やなかったらあかんいうて、二丁も買うていきはったえ、あ、それから売り上げは、籠のなかに入れてあるし」
彼女はひとしきり喋り終えると、
「達夫ちゃん、久し振りやし、ゆっくりしていったって」
店先に立ている達夫に、声をかけて帰っていった。
「このあたりも、えらい変わったなぁ」
千代が居なくなると、達夫が人気のない通路を見やりながらいった。かつてはこの公設市場にも二十軒からの店舗が、狭い通路をはさんで賑わっていたのだ。
「変わる、いうようなもんと違うがな。駅のまわりにはごついスーパーがでけるし、負けんように商店街もハイカラに改装しよった。もう、このあたりには、ひとが寄りつかんわ」
「これも時代か、しゃないわのう、それにしても、しばらく来んうちにひどい寂れようやなぁ、まるで廃屋やないか」
達夫はあたりを見回し、しみじみといった。
「いまでは、うちと表の果物ン屋だけになってしもた。それでもまだ春ごろまでは四、五軒残ってたんやが、取り壊しが決まってからは、せんぐり店をたたんで出ていきよった」
源造が、先ほど豆腐を入れていた木箱を、土間の中央に据えた。それから、店の奥から紙パックに入った酒と湯飲み茶碗をふたつ持ってきて、テーブル代わりの木箱のうえに置いた。上張りが所々裂け、ガムテープの張り付けてある丸形の腰掛けを達夫にすすめ、自分は菜種油の空き缶のうえに、何枚かの新聞紙を敷いて腰をおろした。
「達やん、おまえが商店会の会長までやってると聞いたが、なかなか頑張っとるやないか」
源造は湯飲みの酒を、達夫に勧めながら目を細めた。ひとまわり年下で、たったひとりきりの弟子である達夫が、隣町において堅実に商売を営んでいるのは、七十三歳になる源造にしてみれば自慢であった。
「いやぁ、忙しいばっかりでしんどいこっちゃけどなぁ、こんど商工会の理事も仰せつかったんや」
話し終えると、達夫は湯飲みの酒をくちにして旨そうに舌をならし、大豆を煮る釜や型箱、黒褐色に光るダクトが覆いかぶさる油揚げ鍋など、ごたごたと置かれた店内を懐かしげに見まわした。
「見習いの住み込み坊主で来てから、かれこれ四十年以上になるわなぁ。俺がここまでこれたんは、源さんのお陰や」
達夫が話す思い出話に耳を傾けながら、源造は水槽に浮かぶ豆腐を掬い上げて鉢に入れ、互いの前に置くと醤油を垂らせた。
「おっ、これこれ」
達夫は、相好をくずして源造の手から受け取った割り箸をせっかちに割り、大きめな豆腐の固まりを頬張った。
「うまい、久し振りに味源の豆腐を食うなぁ。あのころと、味はちっとも変わっとらん」
「達やん、わしに世辞をいわんでもええがな」
大袈裟な褒め言葉に、源造はまんざらでもないといった顔つきで、達夫の湯飲みに酒をつぎたした。
「いま、あるのは、あのとき源さんが俺を一緒に連れて出てくれたおかげや」
「ハハハ、古い話や」
真面目くさった顔をして語る達夫に、源造は口元へ運んだ湯飲みを止めて笑った。
もとはといえば、源造が独立する少しまえに、見習いとしてそれまで居た店へやって来たのが達夫だった。ところが、どういうわけか達夫は、店主とは性が合わなかった。ちょっとしたトラブルが原因で、辞めるの、辞めさせるという両者のあいだに入って、源造は達夫に自分の店へ来ないかと、声をかけたのだった。それがよかったのか、独立開業した源造のところへ来てから、達夫はそれまでとは打って変わった真面目な仕事ぶりで腕をあげた。達夫はそれから五年ものあいだ、こんどは自分が暖簾分けで独立するまで、いまは源造が寝起きをしている、奥の居間に住み込んでいたのだ。
「まぁ、いろいろあったけど、ここもいつまで商売をしていられるやら」 「それで源さん、その話やけどウチへ来る決心は、もう、ついたんやろなぁ」
達夫がそういったとたんに、源造は目を伏せて黙り込んだ。
「もう、ここの取り潰しも、来年早々に始まるらしい。今日も会合で、その話が出てたわ」
「わしも今年いっぱいが、ええとこやろと、腹を決めてたとこや」
源造はぽつりといい、湯飲みの酒をくちへ運んだ。築後五十年以上になるこの公設市場は、二十年もまえから市街地区画整理の予定地になっていたが、その計画が近年具体化して、立ち退きを迫られているのだ。市側が移転を斡旋する、新しく建ったショッピングセンターなどは、源造の細々とした商いでは、とてもやっていける話ではなかった。子供もなく、三十年前に女房を急な病で失ってからは、源造はずっとひとりでこの豆腐屋をやってきたのだ。
見かねた達夫から、自分の経営する豆腐屋へ来いと、熱心に誘ってくれてはいたのだが、源造はいつも生返事を繰り返していた。 「考えたら、人生の大部分を、ここで商売してたんやなぁ」
しんみりとなった話に頷きながら、達夫は源造の湯飲みに酒を注いだ。
「源さん、ウチへ来るのに気ぃ使うことないで、こないいうたら何やけど、早う来てウチの暮らしに慣れるのも、ええかも知れん」
達夫は源造の気持ちをはばかってか、慎重に言葉を選んで続けた。
「このごろ、あっちゃこっちゃのスーパーにも得意が出来て、従業員もパートやアルバイトを含むと四十人余りの大所帯や」
「そら、えらい繁盛やないかい。達やんには商才があると、前々からわしは思うてたんや」
源造は、達夫の商売がうまくいっているのを、我がことみたいに喜んだ。
「民芸豆腐いう、キャッチフレーズが当たったんやなぁ。こんどデパートからも引き合いがあってな、いままでの状態では何かと手狭になってきたもんやから、思い切って工場を広げたんや」
「そらまた、威勢のええ話や」
達夫が工場と言ったのに源造は驚き、ますます感心をした。
「それでな源さん、これはまだいうてなかったけど、今年の春から店の二階でレストランを始めてるんや」
「レストランて、また、えらい畑違いなことを考えついたもんやなぁ」
「そう思うやろ、ところが違うのや。ヘルシーレストラン、つまりやな、メニューは全部豆腐が素材ちゅうわけや。近頃はそう言う店が結構うけているらしい」
「ほう……」
「まぁ、ウチも豆腐屋でもあるし、やってみようということになった。それに息子も乗り気でな、協力するいうよってに、店を開けてみたら、これがなかなか評判がようてなぁ」
達夫の話は、次第に熱がこもった。
「そんなわけやから、全部に手がまわらん。もういっぺん、源さんのちからを借りたい」
「達やんのためやったら協力は惜しまんけど、いまさらわしが役立つことて、あるのんかい」
源造は、空になった湯飲みに自ら酒を注ぎたすと、じっと達夫を見つめた。
「このたび、裕一が商売を継ぐいうて、勤めを辞めて戻ってくれたんや、まだまだ世間知らずやよってに、相談相手になってやってほしい」
「そうかぁ、裕一君が豆腐屋を継ぐ気になったか。よう、決心したもんやなぁ」
源造は、大学を出て会社勤めをしていた達夫の息子裕一が、稼業を継ぐ決心をしたことを感心した。
「じつをいうとな、これを機会に店の名称も変えたんや」
達夫は少し酒がまわり始めた赤い顔で、テレ笑いを浮かべながら一枚の名刺を差し出した。名刺を受け取った源造は、顔をうしろへ引き、思い切り腕を伸ばすと文字を読もうと目を細めた。達夫が自分のメガネをはずすと、中腰になり両手で源造の顔にメガネをかけてやった。
名刺には源造が暖簾分けをした、味達、の屋号に代わり、株式会社今西フーズ代表取締役今西達夫とあり、さらに本店、支店、工場、レストラン、いまにし、などと麗々しく書き込まれていた。
「たいしたもんやなぁ、こうなると達やんも事業家やないか」
はずしたメガネを哲夫に戻しながら、源造はさらに彼を称賛した。
「そうか、源さんがそう言うてくれたら俺も心強い。裕一もほんまの苦労を知らん。もういっぺんわしら親子にちから貸したってや」
「もう、わしが出る幕と違うがな。達やんも俺に負けん職人や、息子には親のおまえがちからになってやるのが一番やろ」
「いままで、好きなようにさせてきたからなぁ、いまさら親から学べいうても、どだい無理な話や。それに親子ではともすれば、なぁ、なぁになる。源さんがきてくれたら、いちばんええのや」
達夫の話に、源造は腕を組んだまま、目の前の湯飲みを睨んで黙りこくった。さきほど達夫からいわれるまでもなく、老朽化した市場の建物は、来年にも取り壊される予定で、すでに退去の約束期限は先月をもって過ぎてしまっている。店を閉めるのは致し方ないと、源造は自らを納得させていた。それでも、いま達夫からウチへこないかといわれると、つい、ハッキリとした返答をためらってしまうのだ。
「おおきに、けど、そのまえに岡山に居る甥に相談せな、何遍もこっちへこい、いうてくれてるもんやからなぁ」
「わかっとる、せやけど源さん、どうせならウチへ来てくれ、頼むわ」
達夫は両手で木箱の両側をつかみ、じっと源造の顔を見つめた。
「達やんがそう言うてくれるのは、有り難いことやと思てる。わしもほんまに喜んでるのや。けど、もうちょっと返事は待ってくれ」
「そうかぁ、わかったよってに、源さん、いろよい返事を聞かしたってや」
言葉を探しながらぼそぼそと話す源造に、達夫は表情を緩め、取りだしたタバコに火をつけると、天井にむけて旨そうに煙を吐いた。
にわかに、源造が激しく咳こんだ。達夫は驚いてタバコを捨て足で踏みつけながら、突っ伏さんばかりにして苦しむ源造の背中を懸命にさすった。
「たいしたことはない。そこの棚にあるやつを取ってくれ」
なおも苦しげな顔をあげていう源造に、達夫が急いで棚から濃茶色の液体が入ったペットボトルを持ってきた。達夫が蓋を取る間も、もどかしげに源造はボトルをひったくり、そのまま、くちもとへ持っていきラッパ飲みした。
「これ、さっきのオバンが煎じて持って来てくれるんやが、わりとよう効くんや」
ペットボトルからくちを離した源造は、胸のあたりをさすりながら言った。
「源さん、もう飲むのはここらでやめとこ、ちゃんと医者には行きよるんか」
「いつものことや、心配せんでもじきに治まる。このごろ歳の加減か、ちょっとしたはずみに、よう咳き込むことがあんのや」
源造はなおも気がかりな面持ちの達夫に、なんでもないとばかりに笑顔をつくり答えた。
「この豆腐貰うていくけどええやろ。ウチの連中に味源の豆腐を、食わせたるわ」
達夫はいうが早いか、自分で売れ残りの豆腐を、慎重な手つきでビニール袋に入れ始めた。
「源さんの寝る部屋も用意してあるし、何も心配いらん。身ひとつで来てくれたらええのや」
達夫は最後にそういい残すと、豆腐を入れたビニール袋を提げて帰っていった。
店の奥まった六畳一間の部屋から、源造が起き出て仕事につくのは、午前五時を少しまわったころだ。本来ならもっと早い時刻からの作業なのだが、僅かばかりの豆腐をつくるのには、このくらいからでもじゅうぶん間に合った。それでも一晩中水に浸けておいた大豆は、いまや源造の手には余るほど重く、ともすれば動作が鈍くなってしまい、かつてのように手際よく作業がはかどらないのが歯痒い。
一息ついたところで、雨の日以外は表へ出て、このところ、とみに痛みのひどくなっている腰を、徐々にゆっくりと伸ばす。そのあと、おもいきり外気を吸い込むのが習慣になっていた。そうすることが、一日の体調を維持するのによいと、源造は思ってもいた。
モルタルの外壁に沿って、側溝を覆う溝板の隙間からは、源造の店から流れ出る温水による湯気が、うっすらと立ちのぼっている。ところどころ溝板が失われたあたりは、溝に沿い白い帯状に湯気が湧き出ていた。野良犬の仕業か、袋からはみ出た生ゴミが散らかり、それに溝のふちには決まって糞までがある。異臭を放つそれらの汚物をさらえ、付近を清掃するのも彼の日課であった。
午前七時をまわって日が差し始めると、青果市場から果物屋が帰ってくる。市場の出入りくちを塞ぐかたちで、トラックを止めた果物屋は、目敏く源造を見つけて声をかけてきた。
「味源はん、ウチとこ、この月いっぱいで店を閉めることにしたんや」
予期はしていたものの、とっさの返答につまった。源造は果物屋の顔をじっと見つめ、水洟を啜り上げると僅かに二、三度首を上下にふり頷いた。
「しまいまで居残っとったけど、もう、ここらがキリやな」
果物屋は独りごとみたいに呟き、荷下ろしをするために、ふたたびトラックのそばへ引き返していった。
源造は店に戻ると、土間の丸椅子に腰をおろした。目の前にある湯飲み茶碗に、昨夜の飲み残した酒を注ぎ、ひと息に飲みほすと大きく溜息をついた。
豆腐の売り上げが、一日の日当にも及ばない日はざらで、当然にして大豆の仕入れ代金の捻出さえ、ままならない有様だ。そのうえ豆腐つくりの作業も、いまの源造には体力的にかなりきついものになってきている。さきほど、果物屋から店じまいを聞かされると、いよいよ腹を決めないかんな、と思った。
ここは、思い切って達夫の好意に、甘えるべきかも知れん。折りにつけ、甥がこいと言うてくれるなどと格好をつけていたものの、実際の甥は居るにはいるが、もう何年も往き来はない。寝場所まで用意をして、こいと言ってくれる達夫は、そんな源造の見栄を見抜いたうえでの思いやりなのか。足もとの地べたを、でかいアブラ虫がもぞもぞ這っていくのを、源造は身じろぎもせずに目で追った。
達夫が訪ねて来た日から、一ヶ月ばかりが経った十一月の末日、自らの商売を止める決心をした源造は、表の果物屋とおなじ日に合わせて店を閉めた。当日、果物屋は安価で商品の売り尽くしをおこなったために、珍しく店頭がざわついていたが、奥まった源造の店さきにまで足をのばす客は、ほとんど居なかった。店番を頼む千代が、両手に果物の包みをかかえてやってくると、源造は普段とかわらず、自転車の荷台に豆腐の入った箱を積みこんだ。尤も、腰を痛めてからは以前のようにはいかず、先に積んだ空の箱にあとから水と豆腐を入れた。
「気ぃつけて、いきなはれや、はい、これ」
千代の差し出す鈴を受け取り、ハンドルに引っかけると源造は最後の商いに出かけた。
いつも豆腐を買ってくれる家の近くでは、自転車を降りてひときわ大きく鈴を振り鳴らした。今日ばかりはどの家も、長年のご愛顧に礼を述べて、代金を受け取らずに豆腐を届けた。いくさきざきで顧客たちは、今日限りで味源の豆腐を味わえなくなるのを惜しがった。いまとなっては、それがせめてもの慰めとなった。
市場へ戻りつくと、表の果物屋はもう売り尽くしたとみえ、店頭には戸が立てられていて人影はなかった。明かりが消されて暗がりのなかを、源造は自転車を押して店に向かった。
「源さん、長い間ご苦労さんやったねぇ」
源造の帰りを待っていた千代が、いつになくしんみりとして声をかけた。
「そやそや、三和商会たらいうとこから、明日伺いますいうて電話があったけど」
「わかった」
源造は小さく頷き、はずした前掛けを土間の丸椅子のうえに置いた。電話は中古道具などの買い入れ業者からだった。廃業後の道具類を、引き取ってくれるところはないかと探してもみたが適当なところが見あたらず、とにかく見に来てくれと頼んでおいたのだった。
「ほんならワテはこれで帰りまっせ」
「そや、オバンに店番の礼をせなあかなんだがな」
「なにいうてんの、ワテの方こそ、勝手に暇つぶしをさせてもろてたんや」
手を横に振って帰りかける千代を引き止め、源造は店先の天井からつるした籠から、いくらかの小銭をさらえた。さらに胴巻きに手を差し入れ、三枚の千円札を取り出して千代に握らせようとした。
「そんな大層なモンやないがな、孫の菓子でも買うてやってんか」
千代はかたくなに断ったものの、源造が無理矢理に前掛けのぽけっとにねじ込むと、しぶしぶ「そんな気ぃ使わんでええのに」と源造を睨み付けた。それから、果物屋の売りつくしで買った蜜柑を袋から五つばかり取り出し、黙って油揚げなどを並べる陳列ケースの上に置いて帰っていった。
ひとりになった源造は、店の板戸を閉めたあと水槽の栓を抜いた。水槽からのホースを差し入れてある排水溝からは、いっきに水が溢れ出た。ゴボーという水が抜けきる音を耳にしながら居間までいき、上がりかまちに腰をおろした。
タバコに火をつけ、何気なくちゃぶ台の上を見ると、豆腐を入れた鉢が置かれてある。千代が気を利かせて置いていったのだろう。源造は隅に置かれた紙パックの酒に手を伸ばすと、傍らの茶碗についだ。
茶碗の酒をひとくちすすり、豆腐を指先で崩してくちへ運んだ。何もかけないままの豆腐は、くちのなかでほの甘く広がった。
居間で茶碗酒をやりながら、いつの間にか寝込んでしまったらしい。ふっと目覚めて時計に目をやると、午前五時半を過ぎている。慌てて土間へおり立ち明かりをつけて、大豆を浸けていないのに気付く。そうか、もう豆腐を作ることはないのか、源造はいつもなら大豆が浸けられているはずの、空桶の前に突っ立ってひとり苦笑した。
それでも気を取り直して、蛍光灯に鈍く光るステンレスの桶や、豆を擂り潰すグラインダー、薄鼠色に艶の出た煮釜、木綿の漉し布をかぶせた型箱、源造はそれら長年使い込んできた道具のひとつ、ひとつに、ゆっくりといとしむように手を触れてまわった。
午前の十時を過ぎたころ、千代が顔を見せた。
「お早うさん。なんとまぁ、豆腐も売らへんのに、もう店を開けたんかいな」
千代はいつもと変わらずに、板戸が開け放たれた店先に立って少しあきれた顔をした。
「えらい早うから、片づけはったんやなぁ」
仕事場がきれいに整頓され、表の通路に水まで撒いてあるのに、千代はふたたび驚いた顔をした。そうこうするうちに、表に車の止まる気配がして、三人の男が市場の通路を窺うように、見まわしながらやってきた。
「大将、もうこら、スクラップでんなぁ」
無遠慮に店のなかへ入り、道具類を一瞥した業者は、源造を振り向いて言った。買い取るどころか、本来なら処分代を請求するところだが、それは要らないから、引き取ってもいいと言った。
やむをえないとばかりに源造が頷くと、彼らは早速、土間に据え付けられたグラインダーや、鉄製の煮釜などを無造作に撤去し始めた。
「オバン、ちょっとタバコを買いにいってくるよってに頼むわ」
その作業を見守っていた源造は、いたたまれなくなって、千代に声をかけると表へ出ていった。
豆腐屋を廃業してから、一ヶ月が経った。正月までにこちらへ来いという達夫の誘いを断り、源造は誰も居なくなった市場のなかで、ひとりで正月を過ごした。
年が明けてから一週間が過ぎた日、源造は季節はずれの暖かさに、久方振りに市場の付近を散策した。ついでに近くの寺院へも立ち寄り、墓参をかねて亡妻の位牌を預けてきた。達夫のところへいくにも、まさか寮へ仏壇まで持ち込むのはと、ためらう気持ちがあった。
「達夫ちゃんから、明日の十時ごろに迎えにいくて、電話があったえ」
市場の入りくちに居た千代が、戻って来た源造の姿をを見るなり、待っていたように声をかけてきた。店を閉めてからというもの電話も取り払い、達夫との連絡は、もっぱら千代宅の呼び出しに頼っていた。その千代は、廃業してからも日に一度は顔を見せては、あれこれ話し込んでいくのだった。
「そうかぁ、いよいよ、ここを出なあかんのやなぁ」
「ほんまに淋しいことや、お互いに死ぬまで、ここで顔合わせて居られる思てたのになぁ」
千代はそういうと、さかんに目をしばたいた。
「店を始めたとき、初めて豆腐を買うてくれた客がオバンやったん、忘れてへんで」
「源さんも新婚で張り切ってたし、達夫ちゃんもまだ小僧さんで、可愛いモンやったしなぁ」
千代はそういうと思いに耽るかのように、しばらく黙り込んだ。
「女房が死んでからは、オバンにはなんやかやと、ほんまによう助けて貰たなぁ。なんぼ礼をいうても、いい尽くされへんくらいや」
「大層に言いないな、せやけど正直いうて、あのときはワテも可哀想で見てられへんかったんや。そのうち源さんも、再婚するやろと思てたんやけどなぁ」
「オバンがあんまりようしてくれたよってに、後がまを貰いそこねたんかも知れんなぁ」
思えば女房が亡くなってから、源造は以前にもまして千代の親身な世話に頼ってきた。千代が近所の人妻であることから、くちさがない連中の噂にのぼり、源造は市場の組合長から呼びつけられて、自重を求められたりしたことも、いまとなっては笑い話だが、懐かしく思い出される。
翌日、千代が早めにやって来て、荷造りなどを手伝ってくれた。達夫は約束通りの午前十時かっきりに、迎えにやってきた。 「お早う、源さん迎えにきたぜ」
達夫の声がすると源造は着がえを詰めたバッグをさげ、ひとつきりの家財であった古びた茶箪笥のうえから、亡妻の遺影を入れた写真立てを懐に忍ばせて出ていった。
「あとの戸締まりは、ワテがちゃんとしておきまっさかいに」
千代はそういうと、傍の陳列台に置いてあった紙包みを手に取り、源造に持たせた。
「咳止めの薬や、ちゃんと自分で煎じて飲まなあかんえ」
「おおきに、オバンには、世話になりっぱなしになってしもたなぁ」
千代に礼を述べ、哲夫のあとについて表まで出てきた源造が、市場の入りくちに止めてあった車に乗る際に、いま一度振り返ってみた。薄暗い通路の奥まった店さきで、千代がこちらを向いて佇み見送っていた。
「ほな、源さんいくで」
達夫が声をかけて車が走り出したとき、源造は自転車を店の前に置いたまま、しまい込むのを忘れていたことに気付いたが、そのまま腕をくんで前方を見つめた。
「源さん、これがウチの工場や」
それまで漠然と物思いに耽っていた源造は、達夫の声に我に返った。車から降り立った源造は、目の前に建つ豆腐屋とも思えぬ広壮な建物に戸惑い顔をした。植え込みの垣根に囲まれた事務所の前庭は、円形の花壇に整然と植えられた淡紅の葉牡丹が、ひときわ目をひいた。その横手には、何台かの保冷車が並んでいる。
戸惑い顔であたりを見まわす源造を、達夫は先にたって建物のなかへ案内をした。事務所へ入っていくと、ひとりで机に向かっていた若い女子職員が顔をあげて、カウンター越しに「お帰りなさい」と言って会釈をした。
「ちょっと、専務を呼んでくれ」
達夫は彼女にそういい付け、応接間へ源造を招じ入れた。応接間といっても、室内の一部を衝立で仕切り、なかに応接セットを据えただけで、外部の話し声や物音はつつぬけで聞こえた。工場内のスピーカーが、先ほどの事務員の声で専務を呼びだしている。
「ここで、ウチの全ての豆腐を作ってるんや。この敷地内に従業員寮もあるさかいに、あとで案内させるわ」
達夫はソファーに深々と体をしずめて足を組み、おもむろにタバコをくゆらせた。そんな達夫の姿は、いっぱしの事業家の貫禄と源造の目に映った。ほどなく、ドアの開く音と事務員との話し声がして、白衣姿の若い男が現れると源造にむかって会釈をし、達夫と並んで腰をおろした。
「裕一君かぁ、ええ若い衆になったんで見間違うがな」
「味源のおじさん、ご無沙汰していましたが、このたび、親父を手伝うことになりました。よろしくお願いします」
裕一は丁重に挨拶をして、ふたたび頭を下げた。
「わしが覚えてるのは、店へちょくちょく来てた、高校生くらいのときまでやなぁ。なんぼになる」
「三十五になります、あのころは親父の使いで味源の店へいくたびに、おじさんから小遣いを貰い、ほら、隣の店で売ってた、蒸かしたての玄米パンを買うのが楽しみでした」
裕一は後頭部に軽く右手をやりながら、少し恥じ入るように微笑んだ。源造は、そんなこともあったなぁ、と、まだおぼこかった裕一の詰め襟姿を思い出しながら、商人らしい彼の物腰柔らかな応対に好感を持った。
「いちおう専務いうことで、頑張ってくれてるんや」
ふたりのやり取りを聞いていた達夫が、横合いから改めて裕一の立場を紹介した。
「ま、それはともかくとして、俺はおもに本店にいってて、あんまりこっちには顔を出せん。ここは裕一に任せてあるから、また相談のひとつも乗ったってや」
「そら、わしで役立つことやったら、なんぼでも利用してくれたらええ。裕一君、これでもまだまだ現役のつもりやから、よろしゅうに頼むわ」
頭をさげる源造を、裕一はとんでもない、とばかりに、右手で軽く制しながら、工場の概要を話し始めた。
「ここの製造部門では、現在社員八名、パート社員十二名という体制で、それぞれローテーションを組んで稼働しております。別に営業兼務の配送係りのドライバーが五人居ます。ですが、おじさんには、まぁ、当面フリーな立場でやっていただければと、思っています」
源造には裕一のいうフリーの意味がわからなかったが、何でもやったるとの思いから、了解したという顔で頷いてみせた。
「おじさんの技術や経験をここで活かせるのは無理かも知れませんが、なにか質問がおありでしたらば、いってください」
「わしはただの豆腐屋や、豆腐つくりしか出来ん人間や。せめて、まわりに迷惑だけはかけんとこと、自分にいい聞かせているとこや」
裕一の問いかけに、源造は笑って答えた。
「これから、工場を案内します」
裕一は衝立越しに事務員に声をかけ、白衣と耳からうしろにかけてビラビラのついた同じ白色のキャップを持ってこさせた。
「これを着用するのが、工場内へ入るときの規則ですから」
裕一は白衣を差し出しながら、少し申し訳なさそうな顔をした。源造はいわれるままに白衣を羽織ると、裕一のあとについて工場にむかった。
「ここで、そこのブーツに履き替えてもらいます。」
事務所から直接工場内へ通じる、通用口のところまでくると、裕一が振り向いていった。
「源さん、俺はこれで本店の方へ帰るからな。まぁ、ぼちぼちやりぃな、そのうちに、おいおい環境にも慣れるやろ」
ふたりのあとから出てきた達夫が、白いゴムのブーツに履き替えている源造の背中を軽く叩いて激励した。源造はまかせておけとばかりに頷き、裕一のあとを追い工場内へ入っていった。
大きくとった窓と、数ある照明で明るい工場内はきれいに整頓が行き届いていた。これまで狭くて薄暗い店の土間で、豆腐つくりをしていた源造には、一見して場違いなところへ来た感じがしないでもなかった。そのうえ、豆腐屋の源造にさえ、見慣れない機械が整然と並んでいる。
「これから、本間さんと呼ばせて貰いますよ。おじさんでは、格好がつきませんから」
歩きながら、裕一が小声で囁いた。
「あたりまえやがな、わしも裕一君のことを、これから専務と呼ぶことにする」
「いや、僕は裕一でいいですよ」
「それこそ、皆のまえで格好がつかんやないか、わしが妙な目で見られるがな」
ふたりは、互いに顔を見合わせて笑い合った。
「みな若いし、それに女のひとが多いなぁ」
「平均年齢は二十五歳くらいです。だいたい、いまの時間は、パートがほとんどです」
源造は感心した表情で、ひとつひとつ裕一の説明に頷きながら、製造ラインを珍しげに眺めた。そのとき、工場内のスピーカーが専務に来客を告げた。裕一は近くにいた若い作業員に声をかけ、源造を紹介した。
「リーダーの山中君です。こちらはこのまえに話してた、本間源造さんや」
「本間です。よろしゅうに」
源造は、まだふっくらとした童顔の残る若者に、神妙に頭をさげた。
「あとから本間さんに、寮の部屋を案内してあげてくれ」
裕一は源造のことを山中に託し、事務所へ戻っていった。
リーダーの山中は、あまりにも年齢のかけ離れた源造に、どう対処していいのか戸惑いを隠さず、黙ってコンベヤーにのった製品の流れをチェックしているばかりで何も言わない。仕方なく、源造は自分から山中のそばへ寄っていき、話しかけた。
「あのう、わしは何をしたらええのかなぁ」
「ハァ……」
山中は、きょとんとした顔を源造にむけた。 「いや、専務からも、わしの仕事のことまでは、詳しい聞いてないもんで」
源造にそう言われて、山中はふたたび困ったという顔をした。とりあえず現場の説明をしておこうと思ったのか、目前の装置から説明を始めた。源造は頷きながら、パック詰めの豆腐が次々とコンベヤーに載って出てくる装置に、改めて感心をした。
「それで、豆腐はどこでつくってんのかいな」 「このラインすべてが、豆腐をつくる装置ですが」
「いや、わしのいうのは、豆乳から豆腐に固まるところをまだ見せて貰うてないんでなぁ」
山中は頷くとラインの一角を指し示し、そばへ歩み寄ると、源造が見えやすいように自分はうしろへ退いた。源造は背中をかがめて機械を覗き込んだ。
「ごらんの通り、あの販売パックのなかに豆乳と凝固剤を同時に注入して固めます。あとは自動的にフィルムが貼られ、コンベヤーにのって検査課程を通れば出荷です」
「そんなら人間の出番は、どこにもないちゅうわけか」
「人手に触れることがないので、衛生面では一応完璧だと思います」
源造は頷きながら、溜息をついた。
「本間さん、たかが豆腐で、そんな深刻な顔をせなあきませんか」
何気ないひとことに、源造は機械から目を離すと、山中をふりむいた。
「たかが豆腐、されど豆腐や。つまるところ豆腐は賤にして貴なりなんや」
「何です、それ」
源造の真剣な表情に、山中もつられたように真顔で聞き返した。
「豆腐は、わしらみたいな貧乏人にとって、手軽な食い物でもあればやな、一方では高級料亭の献立にもかかせん素材や、曰く、賤にして貴、ちゅうわけや」
「庶民も手軽に食べるし、高級料亭へ出入りする階層のひとも喜んで食べる、つまり共通の食べ物というわけですね」 「まぁ、そういうことや、豆腐といえども奥が深い、おろそかに思うてたらあかん」
「ええ話ですね、今度ミーティングの折りに皆に話してやります」
山中は、しきりに感心している様子だったが、次に寮の部屋を案内をしますと言って、源造を促してその場を離れた。
山中のあとについて工場の外へ出たところで、中庭の一角にある花壇を設えた植え込みのむこうに、クリーム色の二階建てが目についた。
「あれが社員寮です。お聞きになったか知れませんが、本間さんは、僕と相部屋ということになっていますが」
歩きながら山中は源造を振り返り、申し訳なさそうにいった。
「結構や、けどえらい立派な寮やなぁ。わしらが住み込みで見習いのころは、仕事場と壁ひとつのところで雑魚寝やった」
「ここも、一階は物置になっていますよ」
山中のあとから、建物の外壁に沿って取り付けられてある階段を上がりきると、通路に沿って片方にドアが並んでいる。
「全部で五部屋あるのですが、ここが僕と本間さんの部屋です」
山中はいいながら、ポケットから鍵を取り出すと、とっかかりのドアを開けた。なかへ入るとツーンと香料の匂いが鼻をつき、六畳ほどの部屋の隅にテレビと小さなテーブルがあった。若い男の部屋らしく、テーブルのうえには鏡や整髪料の容器、ドライヤーなどが所狭しと並んでいる。
「えらい、ええ匂いやなぁ」
源造は、部屋のなかを見まわしていった。敷きっぱなしの布団を丸め、壁際に押しつけていた山中が慌てて窓を開けた。
「すみません、気になりますか」
「ハハハ、むかしは枕がテカテカになるほど、みなポマードを塗りたくっていたもんや、べつに、どうちゅうことはない」
源造の笑いに引き込まれて、それまで緊張気味だった山中の顔に微笑が浮かんだ。
「それにしても、建物のまわりは花壇がおおいなぁ」
「取引先などから見学に来られたときに、イメージをよくするためですよ」
窓から顔をつきだしてあたりを眺める源造のそばへ、山中が寄ってきておなじように外を眺めていった。
源造は気づいて、ジャンパーの内ポケットから写真立てを取り出し、傍のテーブルの隅に置いた。それを見て、山中はちょっとばかり意外な顔をした。
「へー、本間さんもしゃれてますやんか、誰ですか」
「死んだ女房や、これだけは肌身離さずに持ち歩いている。というても、いまさら寮にまで持ち込まれて、むこうも吃驚してるやろけどなぁ」
ちいさな写真立てのなかで微笑む亡妻に目をやりながら、源造は胸の内で苦笑した。
チャイムが鳴り響き、山中は食堂へ案内するといい、ふたりは寮の部屋をあとにした。
工場とは別棟の社員食堂へいくと、すでに給食の受け取りカウンター付近は、昼食に来た従業員たちで、混雑をしていた。源造は山中にならってトレーにのった食事を受け取り、おなじテーブルについた。
「山中君、歳はいくつかいな」
「二十五です。高校を出てすぐ入社しました」
「そうか、二十五いうたら、わしが奉公先から暖簾分けされて店を持った歳や」
ときおり箸を休めては語る源造の思い出話に、山中は別段嫌な顔もせずに、小さく何度も頷いては聞き入った。
午前二時半、山中が起き上がり、出勤の支度をする気配に、源造は目覚めた。
「すんません、また起こしてしもて」
山中たち寮に居る者は、一週間交代で早番と遅番の勤務を繰り返していた。
「なんも気にせんでええがな。寝不足がたたるちゅうもんでもない」
気をつかう山中に、源造は格別気にするふうもない素振りでいった。山中は源造の思いを察したのか、それ以上は何も言わずに職場へ出かけていった。
それというのも、ここへ来てから、二ヶ月が経った。その間に源造の与えられた仕事とは、日がな箒と塵取りを持ち工場内や庭の清掃、花壇の水撒き、便所掃除などの雑役でしかなかった。当然ながら、豆腐の製造現場においては、源造を必要とする部署はどこにもなかった。
源造は朝の六時には工場の門を開け、前の道路から清掃を始めた。山中がそんなに早く出勤しなくても、というが、配送の車が出入りするころには、付近はたいがい源造によって綺麗に掃かれていた。
その日のこと、源造が片づけをしていて寮の一階部分にある倉庫のなかに、古い煮釜や型枠が埃を被っているのを見つけた。さっそく事務所へいき、専務の裕一に尋ねると、かつて、味達といっていたころの、達夫の店で使用していた道具類だとわかった。
「何度か処分をしかけたんですが、そのたびに親父が、自分の居るあいだは捨てるなと言い張るので、処分しきれずに置いています」
裕一はそういって苦笑した。
「達やん、いや、社長も一足飛びにいまの会社を築いたわけでもない。あれを見て商売を始めたころの、初心に戻るという気持ちもあるのやろ」
「ところで本間さん、まだ、本店へは一度も行かれてませんよね」
「むかしの店やったら知ってるが、新しいなってからは、いってないなぁ」
言われてみれば、ここへ来てから達夫とは、それほど顔を合わせて話し合うこともなかった。彼が所用で来た折りに様子を見がてら、ときたま源造のまえに姿を見せるくらいだった。
「一度気晴らしがてらに、本店へいってみてください。親父も喜ぶと思いますが、なんなら、いくついでがあるのでこれから僕が案内しましょか」
「せやなあ、いっぺんいってみたいけど、また折りをみて伺いますわ」
源造は裕一に送らせて何かと気を遣うよりも、山中に頼んでみようと思い、裕一の好意を辞退して事務所をあとにした。
そのあと、昼飯を食いながら、源造はさっそく本店へいく道筋を、山中に尋ねてみた。
「山中君、ここから本店は遠いのんか」
「そんなに遠くはないですが、明日でよければ、僕が送ってあげますけど」
山中は源造の思惑どおりに、本店まで送ることを快く引き受けてくれた。
翌日、正午で勤務あけの山中は、源造を本店へ送ってくれることになった。達夫に電話をかけ、これからいくことを伝えた。達夫は、着いたら会社直営のレストランで昼飯を食べさせるというので、ふたりとも昼食抜きで出かけることになった。
山中の運転する車は、十五分ばかり走ると、市の中心部に位置する商店街の、なかほどにある本店に着いた。周囲の街並みに一際目立つ四階建ての本店ビルは、一階が店舗になっていて、売り場の両脇に掲げられた、民芸豆腐の幟が目を引いた。店頭の女店員に案内を乞うと、しばらくして達夫が出てきた。
「おう、来たか。もう来るころやと待ってたとこや」
味達の屋号を染め込んだ半纏を着込んだ達夫は、大袈裟な素振りで源造の訪問を喜んだ。 「この山中君が送ってやろういうてなぁ。嫌がらんと、爺さんの相手をしてくれてる」
「そらご苦労さん、わたしからもよう頼むわ」
社長から直々にいわれて、山中は少しはにかんだように顔を赤らめた。
「昼飯はまだやろ。ヘルシーレストラン今西へようこそや」
達夫はおどけた調子でふたりを促し、さきに立って売り場の横手にある階段を上がっていった。
二階に上がると正面のドアのまえに料理サンプルが並んだ陳列ケースが置かれてあった。達夫について店内へ入ると、すかさずに背の高い男性店員が寄ってきた。
「どうぞ、お席にご案内します」
達夫からさきだって知らされていたのか、昼時とあって十卓ほどあるテーブルはおおかた塞がっているにもかかわらず、三人は見晴らしのよい窓際の席へと案内された。皆が席につくのを待って、例の店員は小脇にはさんだメニューをテーブルのうえに丁重に広げておいた。
「コースがええなぁ」
置かれたメニューには目を通さずに、達夫は注文をしたあと「ここの店長や」と傍らに立つ店員を紹介した。
「ごゆっくりと、おくつろぎください」
店長はにこやかに一礼をして立ち去ると、達夫は「よう来てくれたなぁ」と、ふたたび源造が訪れたことを喜んだ。
「君はここへは来たことは、あるのかな」
達夫が山中に声をかけた。
「いえ、初めてです」
大きな一枚ガラスの窓から、通りを眺めていた山中は、慌てて振り向いて答えた。
「そうか、ふたりとも、ここのメニューを充分に味おうてもらおう」
達夫は上機嫌だった。
そこへ料理が運ばれて来た。突き出しの小鉢に始まり、志野焼の角皿に田楽がふた串、ひろうすの煮物、あんかけ、白和と並び、おおぶり底深の鉢には、刻みネギに紅色のもみじ葉をあしらった冷や奴が、品よく料理全体のバランスを整えている。真ん中にコンロが置かれ、湯豆腐の鍋がかけられた。
「これ、みんな豆腐ですか、すごいなぁ」
続けて運ばれた、鍋に入れる豆腐や三つ葉にツミレなどを盛った大皿に目をやりながら、山中が声をあげた。 「そや、ぜんぶ君らのつくった豆腐や」
達夫は、しきりに感心する山中に微笑みかけた。そこへ、先ほどの店長が来て、達夫にメモ書きを渡した。それにチラと目を走らせた哲夫が気真面目な顔になった。
「申し訳ないが来客や、すまんが先にやっていてもらおか」
達夫はすまなさそうに断ると、急いで席を立ち、いってしまった。達夫が居なくなると、山中は緊張から解放されたのか、昼飯を食っていないこともあって、すぐに箸を持った。
「どうや、うまいか」 源造は熱燗の酒を楽しみながら、山中に問いかけた。
「結構いけてますよ。豆腐料理のコースて、どんなんや思てたけど」
「山中君、先にその冷や奴を、何もつけんと食べてみるのや」
「えっ、お豆腐だけを食べるんですか」
山中が不思議そうに源造の顔をみた。
「そや、うまい豆腐なら甘みとコクがくちのなかに広がる、それが豆腐の味ちゅうもんや」
「そうでも、やっぱり醤油かだし汁に浸けた方がうまいと思うけどなぁ」
「醤油ダレは素材がもともと豆腐とおなじ大豆や、相性がよいのはあたりまえや」
「しかし、この田楽はちょっとしたものですよ」
山中は田楽をくちに入れ、源造にも勧めた。
「田楽はほどよく焼けた味噌と、豆腐のかかわりが大事なところや、味噌が勝てば豆腐の味が消えることになる」
「へー、そんなもんかなぁ、でも湯豆腐はポン酢か、だし汁で決まりでしょう」
「うん、まず、だし汁だけの味をみてみるんやな」
山中は不思議そうな顔をして、源造の言うとおりに匙で掬っただし汁の味をみている。
「うん、濃いめのええ味ですよ」
「山中君、ええか、出し汁が旨すぎると本来の豆腐の味を殺してしまう。豆腐を薬味や調味料の味で食うのは惜しい」
「そんなら、一番の豆腐の食べ方は、どういう食べ方なんです」
「ほんまの味わい方は、豆腐のうえに生醤油を数滴落とす、それで充分や」
とりとめもない源造のうんちくを、嫌がりもせずに頷いてくれる山中をまえに、ましてや久方ぶりの昼酒のせいもあり、源造はよく喋った。
「ほれ、湯豆腐は煮えすぎたらあかん。浮き上がるまえに掬い上げるのがコツや」
「ふーん、豆腐いうても、奥が深いねんなぁ」
しきりに感心をする山中に微笑みかけながら、源造は久し振りの酒を堪能した。
もう、ほとんど料理を食べ終わったころ、達夫が戻ってきた。
「すまん、すまん、客がなかなか尻をあげよらんよってに」
達夫は詫びながら、源造の盃に酒をつぎ足した。
「本間さん、僕はそろそろ帰らんと勤務がありますから」
山中は腕時計に目をやりながらいった。夜半の出勤までに、睡眠をとらねばならないと山中がいうと、達夫は源造は自分が送るから、山中だけ先に帰るようにと源造を引き止めた。しかし、源造はまた来るからといって、きょうのところは山中と、ともに帰ることにした。久方に酒を飲み過ぎたのか、疲れを感じていたのだ。
倉庫のなかで見つけた、古い豆腐づくりの道具を洗っている源造のところへ、山中がやってきた。
「本間さん、何をするつもりですか」
「なに、これで豆腐をつくってみたろうかと思うてな」
「手づくりの豆腐ですか。おもしろそうやなぁ。僕にも教えてくださいよ」
「ま、持って死ねるもんやないしなぁ。わしの知ってることで、君の役に立つもんやったら、なんぼでも教えるがな」
そう答えたものの、実際には三日まえに本店の二階で豆腐料理を食べてから、なんとなく触発された思いで道具を整備していただけだった。それが、きょうびの若者にしては珍しいほど、素直に思える山中の言葉に、源造はひとつ本気で、豆腐をつくってみようかという気になった。その日のうちに、源造は裕一にその計画を話すと、それはいいことだと、その場で了解をしてくれた。
実行する日を一週間後と決め、工場で使用している大豆を用い、凝固剤だけは工場で用いる硫酸カルシウムなどの澄まし粉でなく、ニガリを使用することに源造はこだわった。
いよいよ豆腐つくりの当日は、勤務あけの山中や、他の従業員たちも応援をしてくれた。
「専務から、豆腐屋に勤めているなら、一度は見ておいて損はないといわれたもんやから」
彼らは言ったが、面白半分、興味半分であっても、体力がある連中が手伝ってくれたことに、源造は大いに助けられた。
前の晩から漬け込んだ大豆を五キロばかり配分してもらい、工場のグラインダーにかけて粉砕する。この工程までは一般の製品とおなじだ。
「そないに水を使うたら呉が薄まってしまう。グラインダーの回転をもうちょっと落とされへんのかなぁ」
源造が山中に問いかける。
「でも、この回転速度は普通ですよ」
「回転が速いと、それだけ熱を持つがな」
それを冷やすために大量の水を使うと、それだけ豆腐が水っぽくなる。
「でも、これは決められた回転数ですから、落とすとライン全体に影響します」
山中は源造の言うことの意味を理解したのかどうかわからないが、とても無理だという顔をした。
分けてもらった呉を、ボイラーならぬ煮釜で煮る作業も、山中たちには珍しいことだとみえ、みんなが釜を取り巻いて見入っている。源造は一応の手順を彼らに説明し、実際の作業は彼らにやらせた。理屈でなく、体で覚えるのが技を磨く一番の方法だと、源造は自らの体験から確信をしていた。
釜で煮た呉を漉し布で漉して豆乳と、おからにわける作業を、山中らは熱心に取り組んだ。
「本来は飲んでみて、コクのある豆乳でないとあかん。豆乳の濃さは、旨い豆腐に通じるのや」
源造の言葉に山中は大きく頷き、他の者も茶碗を順ぐりにまわして、豆乳の味見をしている。
いよいよ、豆腐つくりの山場である、豆乳にニガリを打つ作業になった。
「ニガリを打つときは真剣勝負や、これで豆腐の出来が決まる。ちょっとの油断も許されんところや」
豆乳を馴らす櫂の持ち方の、手本をやってみせる源造の手先を、山中は緊張の面持ちで見つめている。
「櫂でこういう具合に八の字を描いて流れを起こすようにしながら、実際に流れを起こしてしもたらあかん。流れにニガリを入れたらそこだけ凝固して全体に滑らかな豆腐にならん。ええか、流れを起こしながら、流れを起こしたらあかん、豆乳とニガリを打つ者が一体になって、あ、うん、の呼吸になるのが、こつなんや」
いつもとは違う、ちからの入った源造の説明に、彼らは真剣な面持ちで見入っていた。
豆乳が固まり始めるとおぼろになる、固まり切らないようにかきまぜながら、おぼろをひしゃくで汲み、布を敷いた型箱へ移し終えたところで、均一になるよう最後の仕上げを源造が山中に代わって行った。あとは型箱に重石をのせて余分な水を抜き終わったら、水中で適当な大きさに豆腐を切る作業で、豆腐づくりは完了するのだ。
「まぁ、最初でこんだけできたら上等や、本格的にやるなら、自分なりの豆腐がつくれるまでには十年はかかる」
源造は出来上がった豆腐をまえにして、久方振りに充実した気分になっていた。
半日がかりでこしらえた手づくり豆腐は、当日の昼食どきに食堂のメニューとして、冷や奴で添えられた。
「本間さん、思うんですけど、本店のレストランに手づくり豆腐をつくって、提供すればいいんじゃないかと」
源造と向かい同士の席で昼食を食べながら、山中がぽつりと言った。
「そら、ええ考えやと思うけど、会社が認めるやろかなぁ」
「レストランのメニューに、本当の手づくり豆腐を出せば、絶対に受けること間違いなしですよ」
源造は山中の意見に耳を傾けた。店の片隅に置き忘れたように、埃を被った石臼があった。源造が独立した折、いつかはじっくりと手間暇かけた豆腐づくりをしてやろうと、修業先の店から譲り受けて持ち込んだ代物だった。それを使って大豆を挽き、本格的な手づくりの豆腐をつくる。煮釜やグラインダーは廃業時に処分してきたが、もしまだ市場の建物が残っているなら、石臼はあのまま転がっているに違いない。できれば、型箱などもそのままであるなら、持ってくればなおのこと申し分ない。豆腐づくりのために工場の片隅を確保できれば、それは可能性がある。
「いっぺん専務に掛け合うてみよか。どんな返事が戻ってくるかわからんが」
「断然言ってみるべきですよ。会社だって妙案だと思うはずです」
山中の言葉に励まされ、源造はもう一度、ここで豆腐づくりをしてみようか、という気持ちがわいてきた。このまま掃除夫として甘んじて居るよりも、いま一度、腕によりをかけた仕事をやってみたい思いに、次第にとらわれた。それに、そうすることで、達夫親子に面倒をかけているという、負い目をぬぐうこともできる、源造は心を決めた。
性格的に思い立ったらじっとしていられず、源造は専務の裕一に話をするつもりで、昼食を終えるとさっそく事務所へ出かけた。ドアを開けると、意外にもそこに達夫が居た。
「用があって来てみたら、源さんが倉庫の古道具を引っ張り出して、豆腐をつくったいうから、へー、いうて吃驚してたところや」
源造の顔をみるなり、達夫はそういって笑った。
「倉庫で道具をみたもんやから、ちょっと、つくってみる気になってなぁ。それで、実はちょっと頼みごとがあって、ここへきたんや」
「また改まって何や、ともかくこっちで話を聞こか」
達夫は衝立で仕切られた応接室へ、源造を誘った。
「どや、体の具合は、というても豆腐づくりに精を出すくらいやから、案ずることもないわなぁ」
達夫は応接間のソファーに腰をおろすなり、源造に愛想をいった。
「達やん、ひとつ、わしに豆腐をつくらせてもらえんか」
「改めていわんでも豆腐やったら、もうつくってるやないか」
達夫は、なんだそんなことか、という顔をして笑った。
「いや、売り物の豆腐をつくろ思うんや。それも、あのレストランの目玉になるような、飛び切り上等のやつや」
「ほう、そらまた、えらいことを思いついたなぁ」
ふたりが話をはじめたところへ、衝立のあいだから裕一が顔をのぞかせた。
「本間さん、豆腐づくりご苦労さんでしたね。若いやつらにも、いい経験になったと思いますよ」
「おい、源さんがどえらいことを考えてるらしい。ちょっとここへ座って、話を聞いてあげぇや」
達夫に促されて裕一が入ってくると、そのあとから事務員が茶を運んで来た。
「ほう、また、何でしょう」
裕一は達夫と並んで腰をおろすと、源造の顔をみて問いかける。
「きょう豆腐をつくってみて、思たんやけど、あのレストランへ来る客が、唸るような豆腐をつくってみたいと、そんなことを考えてなぁ」
「そら結構やが、源さん、それでどんな豆腐をつくる気や」
達夫が、茶をすすりながら尋ねた。
「長いこと豆腐をつくってきたけど、最後に、わしの腕に縒りをかけた豆腐をつくってみれたらと思たんや。材料は吟味して大豆は栃木の、たちながは、か、できたら北海道産の十勝大豆、いずれも国産の最上級品を仕入れる。ニガリは、伊豆大島あたりの海水から取った最高の天然ニガリを使いたい。それに水や、これは山梨県は忍野八海あたりの清水が理想やが、いずれにしても名水と呼ばれる清水を使いたい」
「源さん、そりゃあ、飛び切りの豆腐ができるなぁ」
達夫はそういいつつ、うしろの背もたれに体をあずけて笑った。
「さすが、親父の師匠だけのことはありますね。いつまでも、そのような前向きに夢を持たれているのには、尊敬するに足ります」
「これは夢やおまへん、市場に残して来た石臼を運び込んだら、日に二十丁の豆腐をつくれる。それをレストランで、料理に使うてもらいます。それに、山中君ら若い人に、豆腐づくりを伝えるのも、いましかないと思んや」
身を乗り出して熱心に語る源造の気迫に、達夫と裕一は、互いに顔を見合わせた。
「一日に二十丁ですか」
「グラインダーを使わずに、臼で挽くと大体二時間はかかる。一回に四キロの大豆を挽いて十丁の豆腐ができる。日に二回挽くとして二十丁、挽くだけでも四時間は優にかかる。二十丁の豆腐に六時間はかかる勘定や」
裕一の問いに、源造はなおも熱っぽく説明を続け、話し終えると反応を確かめるかのように、ふたりの顔を見比べた。
達夫も裕一も黙ったままで、しばらく沈黙が続いた。やがて、達夫がくちをひらいた。
「源さんだけやない、豆腐屋なら誰しもがそういう手間暇かけた、ええ豆腐をつくりたいと思うてるのや。けどな、知っての通り豆腐は安価が常識の商品、できるだけ豆乳を薄めて、一丁でもようけの豆腐をつくらな儲けがないのが現状や。源さんのいう豆腐やったら、一丁千円以上で売っても、引き合わんことになるがな」
達夫はそういって、苦笑した。
「本間さんのおっしゃる、構想の壮大さには感銘しました。ですが親父のいう通り、実際に一円二円の儲けに、会社は血眼になっている有様です。どうです、もう少し実現可能なところで考えられたら」
裕一は言葉を選びながら、それでも達夫と源造を取りなすかたちで、にこやかに話しかけた。いわれれば、まさにその通りで、源造は豆腐業界の厳しい現状を、百も承知しているはずであるのに、久し振りに豆腐をつくり、そのはずみで調子にのりすぎた。そう気付くと、専務に掛け合うなどと、勇み立ったことを、年甲斐もなく軽率であったと悔やんだ。
「達やん、専務、わしの考えが軽薄やったようや。しょうもないことに、時間を取らせてしもたなぁ、すまん」
源造は背中をまるめて、ふたりに詫びた。
「いまは、そう言う情熱を持つ人間が少のうなっとるで。源さんの気概は、俺を含めて皆には、ええ刺激になるわな」
初めの勢いも失せて消沈する源造に、達夫がいたわるように語りかけた。
翌朝、普段と変わらず源造が工場の門付近を箒で掃いているところへ、裕一が出勤してきた。
「専務、昨日は、えらいすまんことでした」
「本間さん、僕も親父も何とも思っていませんよ。本間さんの豆腐にかけられる情熱には、むしろ僕の方が、感ずるところが大いにありましたよ」
車から降りた裕一は、昨日の一件を改めて詫びる源造に、いつもの穏やかさで語りかけた。
「本間さん、あまり肩を張らずに、もっと気楽に気持ちを持たれたらどうですか。こういっては何ですが、親父は常々、あなたの葬式は自分が出すといっています。それと会社の社章というのを、ご存じでしょう。配送トラックの、横っ腹にも描いてあるやつです。名称は変わっても、マークだけは、丸で囲った、味達、の屋号なんです。親父は本間さんの店から、暖簾分けをしてもらったときが会社創立の原点だと、いまだにそれが口癖です」
「そら光栄やけど、達やんは大袈裟すぎる。けど考えたら、一日箒を持ってウロウロしてまわってるだけで、飯と寝るとこの心配がいらんのは、感謝せないかんことやろけどなぁ」
源造はそういって、くちをつぐんだ。
「本間さん、ここで味源の豆腐をつくられたらどうです。そんな高級豆腐でなくても、手づくりの豆腐をレストランへ提供するのは、可能だと思いますけど」
「専務、ほんまでっか」
「あのあと、実は親父とも話し合ったのです。親父も、あのことで本間さんが酷く落胆しないかと気を遣っていました。ただ、やらないかん、いうことで無理をして、本間さん自身の負担にならないように頼みます。もし、それで体調を崩されたりしますと、僕が親父から叱られますから」
「おおきに、会社に迷惑は、絶対にかけしまへん」
源造は裕一に、深々と頭をさげたが、胸のうちは晴れやかだった。
事務所から戻ってくると、源造は早速、もとの市場がどうなっているか、様子を見にいってみようと思い立った。工場の製造ラインと別にやれば、少しは理想に近い豆腐がつくれるやろ。ここへ来てからは、一度も様子を見に帰ったことはないものの、もしかして建物が取り壊されていなかったら、残してきた道具類はまだあのままあるやも知れん。
昼食時に食堂へいくと、山中はすでに来ていた。源造はいつもそうであるように、彼と向かい合わせの席にかけた。
「専務はオーケーしてくれた。そんで昼からでも、いっぺん市場へ戻って石臼があるか見てこ思うんや」
「それなら、僕が車で運びます。何なら勤務あけの連中にも声をかけて、手伝わせましょか」
きのうの豆腐づくりが、よほど興味深かったとみえ、山中は大乗り気で快く引き受けてくれた。
昼食をすませるとすぐに、味源の店があった市場へ出かけることになった。石臼を積み込むのに人手がいると、山中の呼びかけに、ふたりの若手社員も同行してくれることになった。
会社の小型トラックに乗り込み、三十分ばかりを揺れるうち、フロントガラスのむこうに、源造が見慣れた町並みや辻が現れては後方へと流れた。この界隈は、かつて自転車を漕ぎ、鈴を鳴らして豆腐を売り歩いた道筋だ。
「本間さんから聞いたのは、だいたいこのあたりと思いますが、まだ先へいきますか」
隣で運転をする山中が、不意に問うた。 「えーと、あっ、あれや、あの質屋の角を右へ曲がったらじきや」
フッと、つかの間の感慨に耽っていた源造は、我に返り身を乗り出して前方を見つめた。角を曲がればすぐに、市場の建物が見えるはずだった。
しばらくいって、源造は山中にトラックを止めさせると、ひとりで先に降り立った。くすんだモルタルの壁に、色あせた看板がへばりつく市場の建物は、すでに跡形もなかった。かわりに、あたりの風景を一変させて、まわりをフェンスに囲まれた更地が広がっていた。源造はフェンスに手をかけたまま、更地を見つめて佇んだ。
「ここに、わしが店を出してた、市場があったんや」
続いてトッラクから降りてきた山中とふたりの若者に、源造はぼそりと言った。彼らは黙ったまま、おなじように茶褐色の土肌にところどころ、雑草が生えかけた更地を見つめた。
「味源さん」
呼び声にふりむくと、千代が小走りにこちらへやって来る。
「やっぱり味源さんやったんか。ひょっとしたら、様子を見に戻ってくるかと思て、間があるたびにここへ見にきてたんや」
走ったのが応えたのか、千代はそばまで来て、苦しげに胸に手をあて、呼吸を整えながら喋り始めた。
「まるで味源さんが出るのを待ってたみたいに、年が明けたら早々に取り壊しが始まったんや」
源造は黙って頷いた。 「ちょっと、にいちゃんら、ワテと一緒にきてや」
千代は傍に立っている山中ら三人に声をかけ、どこへいくのか三人をともない、いってしまった。
置きっぱなしにして出た石臼や、豆腐づくりの小道具類などは、取り壊しの折りに破棄されてしまったのだろう。こうなるのがわかっていたら、グラインダーを処分するのではなかったと、早まったことを心で愚痴た。
聞き慣れた鈴の音がして、ふりむいた源造は目を見張った。山中が自転車にまたがり、こちらへやって来る。あとに千代と、ふたりの若者の姿が続く。ハンドルに引っかけられた鈴が、自転車の振動で鳴っている。
「もしかして、味源さんが取りに戻って来るかも知れんから思て、取り壊しに来たひとに頼んで、ワテの家まで運んで貰てたんや」
千代は木箱を積んだ自転車を指して、少しばかり得意そうな顔をして言った。
三人は興味深げに、太いタイヤをつけた運搬用の自転車を代わる代わる乗りまわし、片手で鈴を振り鳴らした。ともすれば幅広のハンドルをとられそうになって、そのたびに面白げに笑い声をたて、源造のまえをいったり来たりして、はしゃいでいる。
「そんな腰つきでは、あくかいなぁ、味源さんは二十丁から、箱に豆腐を入れてまわってはったんやえ」
あまりのおぼつかなさに、千代が山中たちを、見かねて叱咤した。源造はそんな様子を、何か遠いところの光景でも見ている思いで眺めてた。
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