髪切り あかね 直


「今晩何時くらいに帰る?」
 朝七時。コーヒーの香りはダイニング中に溢れていた。中学生になった娘の亜耶はまだ寝ている。寝起きの悪い夫、サトルはカップを手に朝からぼんやりしている。この家で元気のいいのはわたしだけだ。
 開け放したリビングの大きな窓から蝉の鳴き声が聞こえる。今日も気持ちのいい日になるみたいだ。
「早く帰れるのだったら亜耶と話してみたら」
 パリッと焼き上げたトーストを噛りもう一度尋ねる。香ばしい匂いが口の中に広がる。娘の亜耶はもう一週間学校を休んでいる。
「ねえ」
「う、うん」
 生返事をしてサトルはカップを置く。聞いているよ、と言うふうにわたしを見る。それから壁の時計に視線を移し慌ててフォークを掴み黄身を突き刺す。張りつめていた膨らみが萎んでとろりと黄身が皿に流れる。黄色く染まったキャベツをぐしゃぐちゃと口に放り込む。コーヒーを飲む。押し込むようにパンを、目玉焼きを、食べる。唇の形がくっきりと去年二回目の結婚記念日に買った白いカップに残る。サトルは急に思いついたように言う。
「あのさあ。高知に取材なんだ」
 サトルがふらりと出かけるのはいつものことだけど今日に限っては腹立たしい。亜耶の事、どうするつもりだろう。
「聞いてなかったわよ。そんなこと」
「いわなかったかな」
「聞いてないわ。……いつから」
「えーと。今日。事務所に行って仕事片づけてから」
「いつまで」
「二、三日。今日は金曜だから。日曜の朝になるかな。いや、もっとか」
「どこに泊まるの」
「……県道沿いの何処か」
「誰と」
「ひとり」
 わたしから目をそらし、がぶりとコーヒーを飲む。口の両端から褐色の液体がこぼれ、それを拳で拭う。サトルは具合が悪いと主語も述語も省く。名詞だけの会話は仲良しのホームドラマみたいだ。
「……ずっとひとり?」
「いいかげんにしてくれよ。何を疑っているんだよ。ひとりだよ。……同窓会の案内来てただろう。市役所に勤めている奴が……炭……土佐備長炭てっいうんだけど、それを特産物として広めたいって……だから炭焼き小屋の一日をベースに津呂から県道27号線沿いと海を撮って……ついでに墓参りもすませようかと」
 確かにこの日曜日に開催される同窓会の案内状が届いていた。
 だけどどうして今日なんだろう。今出かけるのだろう。父親を幼い時に亡くし、二年前、病気がちの母親も亡くなった。亜耶はサトルにとって唯一、自分の血が繋がる肉親なのに。娘なのに。自分だけ仕事に逃げて……逃げる? サトルがここから逃げようとしている?
「嘘でしょ」
「な、なんでだよ」
「わかるもの。嘘つくと目が紅くなるもの」
「ち、ち、違うよ。ほら。何でもないよ」
 サトルはカップをテーブルに置くと目をゴシゴシこする。
「やっぱり嘘をついている」
 嘘つきのウサギの目。吃るのも嘘をついている証拠だ。
「ホームページなんてパソコン持っていれば誰でも作れるから、仕事貰えそうだったら何処にでもいかなくちゃ」
 溜息のような深呼吸をひとつして、ゆっくり話し出す。
「……何度も言うようだけどエリカさんとは何でもない。大体、亜耶は子供のくせに異常なんだよ。事務所にまで偵察に来たり……。仕事のパートナーなんだよ。彼女は。彼女が前に勤めていた関連会社から仕事もらって、事務所や経費も彼女が負担して、共同なんて言いながら、彼女は社長だよ。『オフ椅子A』の代表だよ。そりゃあ。……普通の人より神経が鋭敏な所があるから誤解招くかもしれないけれど、一銭も出資していないオレの立場も考えて欲しいよ。彼女と一緒に仕事始めて二年。少しずつ先が見えかけているんだ。つまらない想像するなよ」
 日常のリアルな写真、現地に密着したサトルの丁寧な仕事は好評で雑誌や新聞で取り上げられたりするが、万年赤字経営で、中学生になる娘の学費も三人の生活費もみんなわたしの収入で賄っている。
「……亜耶のこと、心配することないよ。放っておけばそのうち学校にいくさ。知らん顔していればいいよ」
「そんな訳にはいかない。責任があるもの」
「どうしてさ。もしかしたら無責任の方が子供にとって居心地いいかも知れないんだぜ」
 サトルの声はほろ苦い低音でコーヒーの匂いがする。サトルの形のいい鼻から眼鏡がずり落ちる。
「大体子供が産まれるってアクシデントなんだよ。親は子供を選べないし子供も親を選べない。自分が産まれたことで精一杯の子供は、自分以外の人間のこといちいち考えている暇もないから親の愛情なんてものは子供にとっては不自由なものさ。親の一方通行の愛情はいつかお互いの恨みになって……そうだな。寝る場所をみつけてやる、くらいのことでちょうどいいんだよ。大体それくらいしか親にはできないんだよ。……だから、亜耶に責任感じるのは無駄だよ」
「そんなの理屈だわ」
「いいか。ミヤコ。考えてもみてごらんよ。結婚して子供が産まれる、ってみんなやっているんだよ。何十年も何百年も。理屈だけでやっていられないよ。無理することは何もないんだよ。母親になったり父親になったりすることに、特別な愛情とか責任ということは必要ないよ。そうでなくても子供は親の自由を束縛していくんだよ。親が骨身を削っても子供は満足しないのにさ」
 亜耶のことだろうか。それとも自分のことなんだろうか。サトルは母との長い二人暮らしが気づまりだったという。それで高校を卒業すると逃げるように故郷を出てバイトと奨学金で大学を卒業したらしい。わたしが知り合ったのもその怪しげな仕事の関係だ。
「ミヤコはいい母親だ。だけどね。どんなに頑張ってもミヤコは亜耶じゃないんだし、亜耶もミヤコじゃない。だから、自分が一番楽なように好き勝手しないと一緒に暮らすなんてできっこないよ」
 ずり落ちた眼鏡を外し目頭を指で摘む。瞑った目、長い睫、彫りの深い顔立ち。サトルは三十四。わたしは四十二。八歳も年上だからいいたい文句の半分は朝のコーヒーと一緒に飲み干した。
 七時二十分。
 二階に上がりサトルの着替えを手伝う。ダークグレーのスーツと白いYシャツ、少し派手なブランドもののネクタイを手渡し、それから整理ダンスの引きだしを忙しく開けたり閉めたりして、新品の下着や靴下、クリーニングから戻ってきたチノパン、シャツを二台のカメラの横に押し込む。カバンのファスナーを閉める。荷造りを終えるとサトルを送り出す踏ん切りがつく。
 サトルの脱ぎ捨てたパジャマに昨夜のわたしの匂いがする。くるくる丸め隠すように手に持つ。照れ隠しの為に言いたくないことを言う。
「本当にエリカさんと一緒じゃないでしょね」
「まだそんなこと言っている。ミヤコがここにいるのに」
 サトルがわたしを引き寄せ、額にキスをした。だからわたしは物分かりのいい妻の顔になる。亜耶の母親にもなる。
「わかったわ。いってらっしゃい」
 財布から旅費として三万、それから何枚かの一万札を余分に取り出し渡す。
「あっ。助かる」
 鼻にまでシワを寄せた満面の笑顔は子供のようだ。そのくしゃくしゃの顔のまま、「じゃあ」と荷物を持ってすばやく階段を下りていく。玄関横の亜耶の部屋を慌ただしくノックする音、玄関のドアを開ける音、カシャ、閉める音、順に聞こえる音。音だけのサトルを身体中で受け止めるように聴く。ベッドの端に腰を下ろし額に手をやる。その手をもう片方の手で押さえる。サトルの生暖かい唇が額に残って、そこにすぅーすぅと風が通る。
 いつもと一緒の朝だ。と声に出してまとわりついたサトルの音を振り解き立ちあがった。  シーツの歪みを正す。枕カバーを外す。
 ずれた枕の下からサトルのケータイ電話が覗いた。電源を入れても充電されていないのか画面は暗いままだ。悪い予感がする。サイドテーブルの引き出しを開けて探す。サトルの何かを見つけようとする。ボールペン、鉛筆、消しゴム、糊、封筒、便箋、セロテープ、メモ用紙、みんなわたしが選んだものだ。サイドテーブルの隣の鏡台、その上の化粧水の透明な瓶の横にサトル名義のクレジットカードと銀行のキャシュカードが並べられていた。 『何かあったら困るでしょう。持っていれば安心だから』と旅先のサトルが心配で作らせたカード。化粧水の瓶と瓶の間に丸めた小さな紙があった。手の平で伸ばす。『ごめん』と書かれたボールペンの字。サトルの字だ。わざと置いていった気がする。心臓が早鐘のように鳴る。
 六畳二部屋、間仕切りを取り払ったわたしたちの寝室。東の大きな窓からバス停に向かって歩くサトルの後ろ姿が見えた。栗色の柔らかそうな髪が光っている。さっきまでここに一緒にいたのに、もうあんなに先を急いで歩いている。  サトルを引き戻さなければならない。呼べば聞こえるだろう。窓から身をのりだして手を振る。 「さーとーるー」左手でケータイを振り回す。
 サトルは立ち止まらない。代わりに真向かい家のご主人が鞄を持ち直し、ギョツとしたように振り返って声の主を探す。恥ずかしくなってカーテンの陰に隠れる。サトルの後ろ姿は益々小さくなっていく。けれど頑丈そうな肩が右に左に規則正しく揺れ、合わせて鞄も動いているのがまだ見える。サトルのズボンの裾が足首にまとわりついている。歩くたびに右に左にうるさそうだ。
 窓辺にもたれてサトルを見つめる。わたしはあのスーツの下の熱い身体も手に持っている鞄の中身も知っている。古い邸とマンションに挟まれた静かな坂道を登る足もだ。
 段々と小さくなるサトルの背中に夏の眩い光りが急に射し込んで、思わず眼をそらした瞬間、坂道の上にいたサトルの姿は黒い点になって消えた。
 窓のカーテンを閉めても部屋に残った光りはチカチカ眩い。 
 昨日までサトルが読んでいた推理小説、カメラ雑誌、使っていたパソコン。開けぱっなしのサトルのクローゼット。
 スーツなんていらない、と言うサトルを連れ回し、休みの度にサトルの服を買い食事に出かけた。どの服にも想い出が詰まっている。眼を閉じてクローゼットを閉める。シーツを乱暴に引き剥がす。その上に枕を放り投げる。
 時計を見る。七時半。額に片方の手をあてたまま階段を下りる。サトルのパジャマを洗濯機に放り込み、昨日のシーツと一緒に洗う。乾燥機もセットする。リビングの方で電話の呼びだし音が鳴っている。近頃イヤな電話が多い。出たくないけれどサトルかもしれない。ケータイの忘れ物に気づいたのかもしれない。カードを置いてきたことを後悔しているのかもしれない。そうに決まっている。走るようにリビングに戻って受話器を取る。
「もしもし」
「………」
「もしもし」
 ぷっつ、と切れる。まただ。サトルが出かける七時半にかかってわたしが取ると必ず切れる。電話はあの女、同じ事務所のエリカさんかも知れない。サトルのケータイに電話しないのはわたしへの挑戦だろうか。結婚して暫く眠っていたサトルの浮気虫が再び動きだそうとしている。それが亜耶の学校に行かない理由だ。
 テーブルのお皿とカップを流しに運び水道の蛇口を捻る。サトルの飲んだカップには口の形に卵の黄身がべっとりついている。クレンジングで擦っても中々とれない。水をじゃあじゃあ流しながらカップの汚れと格闘する。
 だけど、ふっと気が変わり、ごみ箱に汚れたカップを投げ捨てる。
 亜耶はまだ起きてこない。今日も学校に行かないつもりだろうか。せっかく入れた中学なのに。もうすぐ期末テストも始まるだろうに。
 ……パパは出張です。夕飯は二人きりで食べましょう。
 走り書きしたメモを破る。亜耶がわたしの作ったものを食べなくなって一週間経つ。夜中にごそごそキッチンで音がするから昼夜逆転しているのだろう。締め切った亜耶の部屋に耳を押し当てて、ドア越しに注意したり叱ったりしながら、それ以上どうすることもできず毎朝テーブルに食パンとカップラーメンを置く。
 白いテーブルに合わせた椅子が三個。リビングの扉は蝶番が緩んで閉まりにくい。オフホワイトの扉に魅かれこの建て売りを購入したのに、それが壊れそうだ。無理矢理閉める。ギイギキリと引きずるような音が家中に響く。
「亜耶ちゃん。行ってくるわね。お休みするのなら連絡してね」
 耳を澄ましても玄関脇の亜耶の部屋は物音ひとつしないから、諦めて裏口から外に出る。空を仰ぐと、わたしの小さな家の青い屋根が夏の陽射しに照らされキラキラ光っていた。一週間前に亜耶が大暴れして壊した椅子が庭の隅に放ってある。椅子の足は『く』の字に曲がり無惨な姿だがその下の金具だけは平和そうに輝いている。
 ……八時。
 住宅のあちらこちらから、いってきまあす、おはようございます、と声がする。チェックのスカート、白いブラウス、赤茶の細いリボン、亜耶の通う中学の制服を着た子と何人もすれ違う。亜耶もほんの一週間前までこの仲間だったのに。鍵を閉める。カツンコツン、ヒールの音がアスファルトに響く。カツコツ、カッコッ、段々急ぎ足になる。バス停留所まで十分。駅まで十分。身体が汗ばんでくる。
 サトルとは十四年前のメーカー主催のヘアコンクールの打ち上げパーティで知り合った。その時二十八のわたしはカットの部門で優勝し、審査員だった四十過ぎの美容師が意味ありげに専属モデルよ、と紹介したのがサトルだった。自分の失った年を埋めるつもり、と公言して二十歳の学生だったサトルにしなだれかかっていたが、次のパーテイではその役目は別の男の子に変わった。
 学校を卒業したサトルは、就職した旅行会社をいつの間にか辞め、広告会社に入って辞め、OA機器を扱う会社に入る。「花火の音聴こえる?」と旅先から電話で聴かせてくれたり、意外に達者な墨字で、元気ですか、と送ってくれた葉書の文字が、彼の悪い噂を水に流せる力をもっていたから、「どうしよう。ミヤコさん。大変なんだよ」と泣きつかれる度に「頼む相手が違うわよ」と言いながら預金をおろした。三十歳でサロン・ブレスを開店したわたしは普通のOLの何倍もの収入があったからだ。それでも学園前の小さな住居を手に入れたのを機に、十二年振りに、全部返して欲しいと催促すると、サトルは突然、結婚しようと言い出した。
「結婚と引き換えに借金を帳消しにするつもりじゃない。『あいつはミヤコさんと結婚して変わったなあ』って言われるように一生懸命働く。……ボクも三十二だから、独立して事務所持とうと思うんだ。一緒にやろうと言ってくれる人がいて……。これからはお金のことで心配かけない」
「その事務所を持つ人とも噂があるわよ」
「ミヤコさんに見てもらいたいんだよ。二十歳の時からずっと、き、き、決めていたんだよ」 少し吃っては呼吸を整え、頬を赤らめたサトルは知り合った頃の大人になりきっていない少年のように見える。
 四十で初めて聞くプロポーズだった。男の人と出会う機会もなかったから、レンアイ経験もない。唯一のつきあいがサトルだった。
 早々と家庭に入り、明日は参観日なの、とすっかり母親の顔になった友人がカットに訪れる、それが羨ましくないといえば嘘になるが、増え続ける通帳の数字は何よりの支えになり、とうとう家も買う。 しかしせっかく買った庭付きの家は一人で住むには広すぎ、詮索好きな近所の人の眼に息が苦しくなって、ごみ当番、掃除当番、果ては隣の家に回覧板を置くことさえもすぐに苦痛になった。 『結婚していない者はここに棲むべからず』ひょっとしたらそんな自治会の管理規則があるのかも知れない。この家を誰かに貸し、独り身らしくマンションに引っ越そうと、不動産屋に相談した。
 夫を見つけた、と不動産屋に報告しよう。近所の人には出張していた夫が戻ったと言えばいい。表札はあのまま、「西理」を使おう。サトルが西理に変わり武田悟はペンネームで。戸籍上の紙切れで簡単に家族になれるのだ。 だけど、サトルと一緒に学園の家に住めば何もかも解決する。
 いいわ、と即答すると、サトルはまた眉を曇らして言う。
「隠してた訳じゃないけど。……ボクと結婚するとおまけのように小学五年の娘もついてくるけど」
 あの青い屋根の家に子供を迎える。ますます悪くない話だ。小学生なら手がかからないし、わたしの年ではそれくらいの子供がいても不思議ではない。それでその子がチェックのスカートが可愛い制服、偏差値が高いと噂されているあの学園中学部に通えば、近所でも鼻が高い。夫と子供、家族ができればもう違和感を覚えずあそこに棲める。はやる気持ちを抑え、できるだけぶっきらぼうに言う。
「子供部屋くらいは用意できるけど、頭はいいんでしょうね。」
「良すぎて持て余し気味だよ。まったく誰に似たのか」
 吐き捨てるように言ったサトルのコトバは、一週間後の月曜日の午後、学校帰りの娘と会って納得した。 「ふうん。あんたがニシリさんなの」
 デパートの喫茶店で向き合った亜耶は、プリンアラモードをスプーンの背でぐちゃぐちゃに潰す。不味そうに口に運ぶ娘は十歳になったばかりの生意気盛り。値踏みするようにジロジロとわたしとサトルを見比べる。不仲な両親の間を行き来して、どうやら誰も礼儀をこの子に教えなかったようだ。
「パパの新しい彼女なのね。でも一カ月もすればパパは飽きてあんたのこと捨てるわよ」
「亜耶」サトルは鋭い声で娘の言葉を制する。
「だって。ブスだもの」
 見る見る間にわたしの頬が赤くなる。
 美容師だと言えば、人は呆れたようにわたしを上から下まで見て、それから優越感の交じった哀れむ視線になる。
 低い鼻、腫れぼったい目。ニキビ跡が目立つ肌。太い足。大きなオシリ。太い腕。短い指。だけど、わたしは醜くない。わたしは年収一千万を超すサロン・ブレスの店長だ。子供相手にでも胸を張りたくなる。ブスと言われ続けたわたしが人をきれいにする仕事をしている。わたしが手にする報酬はわたしの美しさの証なのだ。
「この人はパパが好きな人じゃない」
 亜耶の小さな手が興奮でぶるぶる震えている。
「わたし。本当のママみたいにきれいな人がいい」
「何を言うんだ。謝りなさい。ミヤコさんに」
「パパの嘘つき」
 ぱちんと小気味よい音がしてサトルは娘の頬を打った。亜耶はぽかんと父親を見つめそれから大声で泣きだした。シーンと静まり返った喫茶店。店中の人が息をひそめ見つめる。端正な顔立ちのサトルと亜耶。そして二人と似つかないわたし。みんなが聞き耳をたてている。
「パパは……」
 サトルは亜耶の頭を撫でながら囁く。
「……ミヤコさんと結婚したいんだ」
「いや。いや。いや。こんな人、ただのオバサンだ。わたしのママじゃない」
 亜耶はひっくひっくと泣きじゃくりながら言う。唇を噛んで上目遣いにわたしを睨む。
「絶対ママと呼ばないもん。ママと呼んでもすぐにいなくなるもん。だからもう言わない。言わないもん」
「いいわよ。わたしはサトルと結婚するのだし、あなたの母親になりたい訳じゃないから。でもわたしの家に来たら、誰にも邪魔されないあなただけの部屋があるのになあ」
「どんなの」
「白い壁。青い屋根。春になればパンジーが咲くわ。そうね、あなたの部屋は玄関の横だからすぐ外に出られるわよ。窓から道が見えるわ。道はバス停まで坂になっているからお日様はまるで道のてっぺんについているみたいよ。学校は坂道を登った処。あなたの部屋の窓を開ければ朝七時半から八時半まで制服を着た子が一列に並んで歩いているのが見えるから寝坊なんてしていられないわよ。チェックのスカートの私立登大路学園、制服のない公立中学、小学校、学園前だから朝はとても賑やかよ」
「ふうん」睨み付けていた亜耶の瞳がきらっと輝く。
「お友達もお泊まりできるわ」畳みかけるようにいうと、 「いないもん」亜耶はまたそっぽを向いて元の不機嫌な顔になる。
「お前はママの所に帰れ」もっと不機嫌な声でサトルが言う。
「いや。アヤはどこにも行かない。あすこに、カタヤマ荘にひとりでいる。そうするもん。ここを左に曲がってそれから右に曲がって、広場があって」
 デパートの窓に向かって亜耶はスプーンを振り回す。
「カタヤマ荘があるの。産まれるずっと前からだよ。学校から帰ってその部屋で寝っ転がって窓ガラスに逆さまになったカタカナを読んでいるうちにピンクレッスンというネオンの字がぐるぐる回って、それからパパが帰って、ママが帰って、ご飯食べて、みんなでお風呂に入ってパパがでたらめの歌を歌ってママを笑わせて」 亜耶はそこで言葉を切って言う。
「……ママはいつも怒っていたよね。ねー」 サトルは窓の外を不機嫌そうに見ている。カタヤマ荘がその窓から見えるのだろうか。わたしも眼をこらしてみる。 亜耶が産まれる以前からのサトルとの長いつきあいは、サトルが昔、結婚していたことも、子供がいることも知らされなかった。
 最初サトルを紹介してくれた先輩の美容師は何を知っていたのだろうか。カタヤマ荘で始めたサトルの結婚生活はどんな暮らしなのだろう。どんな形で終わりを告げたのか。知りたい。
「カタヤマ荘に最初帰らなくなったのはママ、いつものように仕事に出かけて。パパより好きな人ができたって……」
「………」
「だけどあそこがわたしの場所だもん。カタヤマ荘にいるもん」 一戸建ちの庭のある家、わたしの家、二十二年ひたすら働いて手に入れた学園前の家。カーテンの隙間から見える薄暗い外灯はわたしを見張っている人の目のように感じた。夜遅く仕事から帰って、灯りをつけても消してもあの家にひとりでいることが落ち着かなかった 。
 サトルと結婚し亜耶を引き取り、がらんとした部屋に二人の荷物が増えていけばどんなに楽しいだろうか。
 サトルは居心地悪そうに冷たい表情でまだ外を見ている。
 デパートの窓から見える道は夕暮れで、ぼんやりした町の匂いは焼きたてのバターロールの匂いがして柔らかな栗色の髪を連想させる。サトルと知り合う前にわたしが何を考え何をしていたのか思い出すのが段々困難になる。髪を切っていたことのほかに何もしていない気がする。
 ガラス玉みたいに光るフルーツが入ったピラピラしたクレープを食べる。イチゴの甘酸っぱい味が口中に広がる。話題を変えて中学受験をほのめかす。
「亜耶ちやんは、サトル、ううんパパに似て頭はいいんだから、受験してみたら」
「パパは根無し草なんだから似たらダメってママいってたよ」
「……イヤなコトバ」
「パパになんか似たくないもの。わたしはわたしだもの」
「わたし、わたしって、わたしって何? 宿題忘れたり、遅刻したり、友達に意地悪したり、わざと嫌われるようなことばかりしているのがわたしなの。……サトルは魅力的よ。少なくともあなたよりは、ずっとね」
 つい、サトルから聞かされていた亜耶の学校生活を咎めてしまう。亜耶は唇噛んで下を向く。うつむいてぼそぼそ話し出す。
「パパがつきあっていた女の人は、みんな親切で優しくて……、でも、パパが根無し草だと知ると、みんな怒ってどこかに行ってしまう、どんなにわたしと仲良ししてもだよ……パパとわたしは違うのに……」
 亜耶はまたメソメソと泣き出し、サトルは口をへの字に曲げて本当に苦そうにコーヒーを飲んでいた。  しかし結局その春休みに亜耶も引っ越しを終え、ささやかなパーティを結婚式を兼ねた披露宴にした。 子供を引き取ってまで結婚したかったの? 美談ね、 子供を盾にとって結婚を迫ったのでしょう、 そうでなければ、あんな若いハンサムな人と、 口の悪い友人がサトルに聞こえがしに話す。 十二年間ボクはミヤコさんにふさわしい男になることだけを考えてきたんです。とまるで芝居の台詞のような気障な言葉を平然と口にして、くしゃくしゃと子供のようにわたしを見てサトルは笑った。わたしは幸せだった。
 転校したくないと、元の学校に半時間かけて亜耶は通う。場所を変わるということにはこだわったけれど、武田亜耶から西理亜耶に変わることは、すんなり承諾した。 「学年の途中で名字が変わって動揺しているのでしょうけど」好奇心丸出しでわたしの顔を見つめ、学校に呼び出され担任に注意を受ける。三者懇談の連絡用紙を教師の目の前で丸めて捨てたらしい。
 連れだって放課後の教室を出る。誰も亜耶に声をかけない。よそよそしい雰囲気は、引っ越した当初の学園前の町の人に似ている。クラスの仲間に馴染めないのは攻撃的な亜耶の性格が災いしているのだろう。バカと落書きされた下駄箱の扉を亜耶はわたしから隠すように急いで開ける。逆さにしたスニーカーからじゃりじゃりと小石が落ちる。俯いて靴を履く亜耶の背中に登大路学園の受験を勧める。校門から駅まで真っ直ぐ続く坂道を二人で歩く。
「見返してやりなさいよ」と中学受験の話をする。亜耶は、「誰を」と気のない声でぼんやり問い返す。それには答えず亜耶の艶やかな黒髪に目をやる。肩にかかるボブカットが重そうだ。指を髪の間に潜らせる。思いがけないほど白い地肌が汗をかいて湿っていた。毛先は右や左にピンピンはねている。流れに逆らってカットしているのだ。埃っぽい日向の匂いがする。
「十時に焼き上がるクロワッサンと同じ匂い」
「ニシリさんって。ときたまバカになるみたい。訳がわからなくなるもの」
「あのね。わたしの店は一階がパンやさんなの。だから焼き上げるパンの匂いで時間がわかるの。十時はわたしの店の開店時間。幸福な緊張感をそそる匂い、それが漂っているということ。亜耶ちゃんの髪も」
「……怒っていないの」
「どうして」
「……だって先生に怒られたじやない」
「あのね。家族ってどんなことしても味方なのよ。助け合うのよ」
「ふうん。……悪いコトしても助けてくれるの。それですごく頑丈な牢屋にいれられたらどうするの」 「うちの子は悪くない、と店で一番良く切れるハサミを持って助けに行くわ」
「火を噴く怪獣に食べられても」
「ハサミでそのお腹を」
 並んで歩く亜耶のお腹をちょきの形をした指でくすぐる。亜耶の水玉のワンピースがふわっと円を描く。黒と白の水玉のワンピースはバービー人形とお揃いで作った。裁断してミシンをかける。一枚の平坦な布地が、切ることで立体的なものになる、それを着せる。亜耶はわたしの歩く作品になる。初めて会ってから三ヶ月。驚く程背が伸びた。服も瞬く間に小さくなる。まだ新品の上靴を担任の手紙と一緒におずおずと差し出し、別に買わなくてもいいよ、踵を踏んで歩いてたから、タンニンが口うるさいだけなんだから、真っ赤な顔で何度も亜耶は弁解した。まるで大きくなるのが悪いことのように。
 二年後、亜耶は登大路学園中学部に合格し、わたしの家の小さな花壇にも花が咲き、結婚して二回目の春が訪れた。紺のブレザーとチェックのスカート、紺のハイソックス、新しい制服を着た亜耶。庭先で亜耶の髪を切る。次にサトルの髪を切る。亜耶の黒い髪とサトルの茶色の髪が広げたビニールの上に散らばる。
「まったくこれではご近所にいい見せ物だわ」店に行くのを嫌がるふたりは庭に椅子を二つ持ち出して並ぶ。髪の色、細さ太さ、二つの頭の似ているところ似ていないところを切り落とす。
 いいお天気ですわね、近所の人が微笑みながら声をかけていく。
 お嬢さんの制服良くお似合いだわ。
 ありがとうございます、いつまでも子供で、と決まり切った会話を交わす。
 サトルがついでに、サロン・ブレスのホームページを更新するからと、デジカメのビデオで自動撮影をする。髪を切る瞬間も動く映像で見せるらしい。
「目に毛がついている。ほら」とサトルが指を突き出し亜耶の目尻にさわる。目を瞑る。長い睫。白い透明な皮膚。亜耶の髪とサトルの髪、切り落とした髪は、四月の風に踊らされビニールのシートの上を撫で門のところで、くるくる舞っていた。  カツコツカツコツ。石畳の道は駅まで幅広く整備され洒落た門からひらりとスーツ姿の人が出てくる。白いブラウスの学生が、もうすでに汗だくの小学生がカタカタとランドセルを鳴らして出てくる。前を歩く人、後ろを歩く人、バスに乗る人、降りる人、通勤通学途上の足音が町中から湧いてくる。
 家から電車のひと駅向こう、ここがわたしの職場だ。三週間に一度カットに来てくださる、幸せそうな若奥様ばかりを常連客に持つわたしの美容室。
 煉瓦づくり洒落たビルの二階で営業して十二年。街路樹の上の方で蝉の鳴き声がする。青い空。一階のパン屋から焼き立ての香ばしい匂いがする。パン屋の店内には喫茶コーナーがあって早朝の六時から開いている。亜耶は蓬パンが好きだ。帰りにあの店で蓬パンを買おう。少しは亜耶の気が紛れるかもしれない。
 階段を登って扉を開けると一斉に鼻をくすぐるシャンプーやリンスの匂い。
「チーフ。おはようございます」
 九時。みんなが元気よくわたしに挨拶する。
「おはよう」
 挨拶と笑顔は接客の基本だ。わたしも明るい声で答える。お客は大抵カルテを見なくても名前はわかる。それでも一日に何人かは知らない人がやってくる。
「いらっしゃいませ」
 研修生の牧ちゃんの元気な声に迎えられたその客も初めての人だ。肩までのまっすぐな髪、眼鏡をかけて背の高いほっそりした人。きれいな人だ。三十くらいだろう。
「今日はどうなさいますか」
 牧ちゃんの質問には答えずぐるりと店内を見渡している。わたしと視線が合う。絡まるように見つめてくる。どこで会った人なんだろう。素早くその客をチェックする。
 ミュールの爪先は不安定で足の指も汚れ、細いジーンズは一昔前に流行ったブランドもの、華奢な身体にお腹だけ緊張感がなく膨らみ色落ちしたTシャツ、時計はロレックス。依存性の高いだらしない人と結論づける。
「ニシリって方にお願いしたいのですが」その客は言う。
「はい。チーフですね」牧ちゃんは鏡の中のわたしに目だけで合図を送り、わたしも軽くうなずく。
「お荷物お預かりします」牧ちゃんが言う。
「あっ。でもこれだけ持ってます」その客はバッグからケータイを取り出しお守りのように手に握り締めた。
 十時半。比較的、客足のすいた朝だった。明るい陽射しがガラス窓いっぱい差し込めている。夏の光りを浴びて窓の外の街路樹もキラキラ輝いている。
 わたしは、常連の山本さんのカラーリングを終えて、キャンプを被せる。スチームのスイッチを十に合わす。
「宜しければ。これでも」
 と婦人画報を山本さんに渡す。グラビアは夏の軽井沢だ。緑に包まれたプリンスホテルが写っている。山本さんは欠伸をしながら本を手にする。お客がどんな職業か何歳くらいか、推し量りながら、渡す雑誌を決め、どの記事に注目しているかで今後の話題も決める。カット、パーマ、ブローの出来映えは技術者の腕に左右するが、双方の納得のいく髪型に仕上げる最終的なコツは会話だ。わたしと山本さんはとてもいい関係だ。
「あら。去年ここに泊まったのよ。軽井沢も新幹線が走るようになって近くなったのはいいけどまるで繁華街なのよ」
「軽井沢って憧れでしたけどそんなに賑やかなんですか」
 客の自尊心をくすぐりあくまでも下手に話しを進める。少しでも客の口を開かす。客の口は財布の口だ。
「そうよね。不便とか遠いというマイナス要因も魅力のひとつよね。駅から見えるのよ。プリンスホテルが」
 相槌を打ちながら席を離れるタイミングを量る。研究生の二見さんに次の指示を与え山本さんのカルテを見る。
 十時三十五分。
「それでは軽く流させていただきます。こちらのシャンプーのお席にどうぞ」
 わたしを指名したその客を、牧ちゃんはリラクシングクリアシャンプー台に案内をする。
「倒します」
 液状の水流洗浄、キューティクルを痛めない最新設備。軽くといっても牧ちゃんは丁寧に髪の一筋一筋にお湯を送り込む。毛先から根元まで充分に水を膨らましてシャンプー液を泡立て洗い上げていく。牧ちゃんは教えたことをひとつひとつ忠実にこなすわたしの優秀な生徒だ。
「お疲れ様でした。こちらにどうぞ」
 濡れた髪をタオルに包んで移動させる。
「チーフ。お願いいたします」
 牧ちゃんはお客に一礼をしてまた別の客にかかる。
 十時五十分。
 初めての客は固定客になる可能性もあるので緊張する。わたしは少しあらたまった顔で挨拶する。
「いらっしゃいませ。ニシリです」
 その客の真後ろに立つ。ビニールのシートで首から下を覆われ、目、鼻、口、顔の部品だけになった客は刺すような視線で鏡の中のわたしを見る。
「ニシリさん?」
「はい」
 わたしは柔らかく微笑み返事する。誰かの紹介なのかもしれない。先月からお友達キャンペーンで五百円の割引券を発行しているからその関係からかもしれない。美容室は一にも二にも口込みだ。
「わたし斎藤。斎藤エリカ。亜耶ちゃんから聞いていませんか」
 ……エリカ……エリカ。この人がサイトウエリカ。
二年前に独立したサトルのパートナー。元はサトルがパソコンのメンテナンスしている会社の人、リストラにあった彼女が事務所や資金面を負担しサトルが技術を提携している。
 一週間前、亜耶は事務所で二人の抱き合っている姿を見てしまったらしい。次の日校門の前でエリカさんは、亜耶ちゃん、と呼んで、近づいてきたそうだ。
 亜耶は帰ってきたサトルに半狂乱で椅子を振り上げリビングの扉に向かって投げた。
「パパのバカ」
 泣きじゃくりながら自分の部屋に入ってしまった。扉を叩いても強く押しても突っかえ棒でもしているのかびくっともしない。  学校を休み、わたしが作ったものを食べなくなった。サトルと結婚して二年。漸くうまくいきかけた三人の親子関係をこのエリカという人が壊す。
 激しく脈打つ動悸を気づかれないように、笑顔を絶やさないように、深呼吸をする。
 十時五十二分。
「今日はどのようにさせて頂きましょう」
「短く切って下さい」
「首筋が見えるくらいですか」
 わたしはエリカさんの首を後ろから撫でていく。髪に隠された首は思いがけない白さと細さだった。
「マッサージ始めます」
「あのう。わたし妊娠してます」
 脈絡もなく話すエリカさんの声は耳鳴りになって聞こえ辛い。
「悟くんの子供です。亜耶ちゃんには話したんですけど」
 この女は何をいっているのだろう。
 わたしは女のぷっくりした柔らかな喉、それを守る筋肉と皮膚をゆっくり締め付けていく。耳の下のリンパ線を人差指で押さえ親指は顎の骨を確かめ、そうして首はわたしの片手に納まっていく。くぎっくぎっと身体の内部の音が眩い光りのように感じる。首と耳は繋がっているのだ。
 ……さあ。 大きく腕を振りましょう
  間抜けな声はビデオのエグザスだ。金髪の体格のいい人が大きな声を張り上げ画面いっぱいに動き回っている。鏡の後ろから聞こえるNHK体操のような元気な声が耳の表面を掠めていく。
「わたし産みます。亜耶ちゃんも分かってくれました」
 女はうっとりした目をして何が可笑しいのか、ふっふっと笑う。
「髪を切っている間にケータイが鳴ったら、わたしを呼んでる音がすれば、わたしはすぐに飛び出していきます。カーラーを巻いたまま、ケープを着けたまま、新幹線にも乗ることができます。福岡でも、東京にでも、逢いたいと言ってくれたなら、飛んでいきます。わたしと悟くんはいつも一緒です」
 女は勝ち誇ったように鏡の中のわたしに言う。わたしは聞くまいとする。わたしの手が女の首と顔を引き離すように力を加える。耳を押さえ、目を押さえ、首筋からこめかみを、親指と小指でぐいっと押さえる。女は目を瞑ったままだ。  サトルの旅行はこの女と同伴なのか。高知には同窓会で、仕事だと、ひとりだと、亜耶の誤解だと、言ったではないか。どうして亜耶は何も相談してくれないのだ。
 わたしはもっと強く首を押さえる。
 十一時十分。
「い、た、痛いです」
 女は苦しそうに顔を歪めてわたしを見る。わたしの手は探るように女の首の芯を押さえる。女の喉はわたしの掌にある。首と目の筋肉も繋がっているようだ。のぞけるように伸びる女の首。閉じる目蓋。首と背骨も一本の軸のように繋がっている。
 わたしはサロン・ブレスの店長だ。大抵のことは髪を切っている間に終わってしまう。
 わたしはハサミを持つ。先端が鋭く光る。親指と人差指を開く。シャキと金属的な小気味いい音がする。女が目を開ける。ハサミを女の頭上で振りかざす。刃の光りが垂直に反射する。刃と髪が交差する。重なる。首にかかる髪の毛がハラリと切り落とされる。床に髪が落ちる。シャキシャキとリズミカルにハサミが動く。女の細いけれど強情そうな髪が次々と刃物と交差する。コームで梳く。切り揃える。髪が落ちる。真っ直ぐな毛、縮れた毛、長い毛、短い毛、蛍光灯の光りに当たり、ケラケラと笑うように落ちる。磨き込まれたフローリングの床にふてぶてしく散らばる毛。髪。その髪が薄汚く床を覆う。
 十一時四十五分。
 牧ちゃんが塵取りとホウキを持って女の椅子に近づいてくる。片隅に寄せられていく残骸、醜いもの、美しかったもの、そのどれもが捨てられる。ドライヤーの熱風が耳元で渦になる。毛先を引っ張る。離す。引っ張る。離す。
 この髪もサトルが撫でたのだろうか。この首も触ったのだろうか。この肩、ここにサトルの唇をあてたというのだろうか。ケープの下で緩やかに膨らみを見せる胸、それをサトルは掴んで愛撫を繰り返し、この女はサトルの指に導かれ歓喜の声を上げ続けただろう。
 耳を澄ませば今この女の手の中で呼び出し音が響いているかもしれない。サトルから逢いたいと言う電話が、そうだ、今、鳴っているかもしれない。鳴っているに違いない。
 ……さあ、深く息を吸い込んで深呼吸をしましょう。……これで今日の体操は終わります。それでは肩の力を抜いて今日も一日頑張ってください。……とアナウンサーが言う。
 窓の外の蝉がジージーと羽音をふるわせて鳴く。
 十一五十分。
  蝉の鳴き声は一層大きくなった。
 十一時五十三分。
「すみません。テレビ止めて頂けませんか。近頃眼がチカチカして」山本さんの声。
「あっ。わかりました」二見さんがリモコンのスイッチを持って止める。
 急に静かになった鏡の中にわたしがいる。
 剥げかかったファンデーションにシミが目立つ顔。滲んだ口紅。鼻がてかてか光って鏡のなかのわたしがわたしを見つめている。ハサミを置いて両手を固く組む。爪が皮膚に食い込む。額にシワが寄る。わたしはそれでも美しい。わたしはサロン・ブレスの店長だ。
 大きな鏡に映る女とわたし。女は微笑んでわたしを見る。わたしもゆっくり微笑み返す。  牧ちゃんとお客さまが突然弾けるように笑いだしている。
「前髪どうしましょう」二見さんが一番のお客さまの髪に霧吹きをあてながら聞いている。
「一番きれいに見えるように。当たり前でしょ。」どの人も幸せなそうな顔で鏡と向き合っている。  十一時五十八分。
「いかがでしょうか」女は軽くなった頭を揺すった。短く切り揃えた女の髪がシャリシャリ音をたてる。ダイヤを散りばめた女の時計がケープの裾から覗く。 「ありがとう。ニシリさんに逢えて良かったです」
 十二時。
 女のケープを外す。
 お疲れ様でした。みんなが一斉に声を合わせる。
 立ち上がった女のケータイが膝の上から滑り落ちた。着信を伝える青い光りが点滅している。ケータイは床の上でブルブルと震え、生き物のように這いずり始める。
 窓を見ると二匹の蝉が空に向かって羽を大きく広げ飛び立つところだった。  



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