鳥の舞  奥野 忠昭


 湯上は、私と同じ四十九歳だというのに、若くして死んだ。酒を飲みすぎたのかもしれない。脳の血管がやられ、十ヶ月もの間闘病したにもかかわらず一昨日逝った。
 彼とは深い付き合いはなかった。ただしばらくの間、小西カメラマンが開いている写真教室でいっしょにアシスタントをやっていただけだ。私も彼もその教室の卒業生だった。
 先生は教室をいくつも持っていて、また本業もあるので、月に一度ぐらいしか現れない。あとはアシスタントの私たちが担当していたのだが、持たされるクラスが違っていたのでいっしょに仕事したという経験はない。だから、彼との思い出はほとんどなく、そのため、親しい者を失ったという悲しみはない。
 しかし、寝棺の中の彼の顔を見た途端、いいしれない衝撃が走った。白い頬と縮んでしまった顔。あんなに大きかった彼の顔がこんないも小さくなるものか。
 もちろん、これまでにも何度も葬儀には参加したことがある。つい最近も従兄のつれあいが亡くなったので葬儀に出席し、最期のお別れにと棺の中に花を入れた。彼女の顔も先程の湯上の顔に似ていた。死人の顔はみんな同じようなものになるのかもしれない。
 しかし、感じたことは彼女のときとはまったく違っていた。彼女のときは、見た瞬間は哀れさを感じたものの、ものの十分もすれば完全に忘れた。ところが、今は、閉じられた瞳のかすかな膨らみが忘れられない。その裏側に何だか涙が溜まっていたような気がした。それに、彼は私に何か言いたげだった。お前もうかうかしているとこうなるぞ。いや、ここに横たわっているのは実はお前なのだぞと言うように。
 怖ろしかった。あわてて彼の顔から目をそらせた。だが、葬儀が終わってからも、その顔付きは消えない。彼のろうのような透明な肌と白い唇がちらつく。
 私はそれを振り払うようにして狭い道を足早に歩く。
 帰りに乗る私鉄の駅は葬儀場からはかなり離れているのだが、葬儀場は病院とはそれほど離れてはいず、一度、写真教室の手伝いをしていた男に連れられて、彼の入院していた病院にお見舞いに行ったとき、帰り、彼が近道だと言って、今歩いているこの道とその周りの街の一角を紹介してくれた。私は、この道と街、といっても、区画整理のため、ほとんどが廃屋とフェンスに囲まれた荒れ地になっているのだが、とても気に入って、二度ばかり、カメラを持ってうろついたことがある。しかし、結局いい写真は一枚も撮れず、がっかりしたことがあるが、それでも、また来てみたいとずっと思っていた。都市の再開発のため、かなり広い地域が立ち退きを迫られ、すでに八〇パーセントがそれに応じているようだ。道端の多くの家には人が住んでいる気配はない。また、広い庭や家を壊した跡には草がぼうぼうと生い茂っていて、その中を両側からフェンスに囲まれた道が曲がりくねりながらつづいている。
 居酒屋とパチンコ屋の間の路地を入ってしばらく歩くとこの地区に入る。この道は確か以前通った道だと思うのだが、どこも同じようなものなのではっきりとはわからない。ただ、私の勘によれば間違いなくこの道である。  私の横には、葬儀に参加していた江口加江が歩いている。いっしょに帰ろうと誘い、いい近道があるからそこを通って帰ろうと言ってこの道に誘った。彼女は何も言わず素直についてきた。
 彼女はもともと私の教室にいたのだが、仕事の関係で私がアシスタントをやめざるをえなくなり、湯上の教室へ移った。あれからすでに数年が経つ。その間に彼とどのような関係になったのかはわからない。ただ、彼女は、あれ以来、ずっと彼の教室にいたし、彼を尊敬していることは確かだ。
「今日は平日だというのに、写真の仲間はたくさん来ていたね」
 ちらっと彼女の方を向きながら声をかけた。しかし、ただ微かに頷くだけで相変わらず何も言わない。相当なショックだったようだ。
 私もお通夜だけですまそうかと思っていたのだが、それではどうしても心が落ち着かなかった。それに、昨夜、その席で江口加江に会い、明日の葬儀に出席するのかと尋ねてみたら、そんなこと当たり前ではないのかといった顔付で、ええと答えた。そのことが今日の葬儀に出席した主な理由だ。
「彼は人気があったからな。家族以外のひとであんなに泣いているひとをたくさん見たのは初めてだったよ」
 江口加江も葬儀の間中ずっと泣いていた。 「それに小西先生の弔辞もよかったしな」
 何を言っても彼女はただ頷くだけで、ものを言わない。彼女の中ではまだ葬儀が終わっていないのかもしれない。仕方がないのでしばらくは黙っていた。
 日差しはかなりきつい。まだ夏にはかなりあると思うのだが、光線の角度は鋭く針のように刺してくる。汗は頬や首筋から噴き上がってくる。
 暑い中を黙って歩いていると、どういうわけか、ふっと、高校時代のことが思い浮かんできた。あのときも、このようにかなり暑かった。
 あれは、学校からの帰宅途中、駅から家までの間だったと思う。それはかなりの道のりで、峠をひとつ越えなければならなかった。その峠道の登り切ったところで、私の前、十メートルほど先を、自転車を押しながら、ひとりの高校生が歩いていた。白い夏の学生服をきちっと着けていて、黒い学生帽も被っていた。徽章などはわからないのに、あれはきっとM高校に違いないと思った。M高校は私が住んでいた辺りでは最も優秀な学校とされ、トップクラスの国立大学へ何人も卒業生を送り込んでいた。
 私はその高校の学生がいると決して彼らの前には出て行けなかった。彼らは私を見れば、きっと、何だ、工業高校のあほがいると思うだろうと思っていたからだ。
 私は、あわてて自分の帽子を脱ぎ、ポケットにねじ込んだ。彼が後ろを振り向けば私の徽章が丸見えである。 彼の横に、これも制服をきちっと着込んだ女子高生が歩いていた。白いストッキング、ひだのある紺のスカート、白い半袖の上着。上着は少し短めでスカートとの間から、歩くたびに微かに白い下着が見えた。上着は水兵服といわれるもので、後ろの首の辺りから長方形の布がゆれている。その布には、紺の線が二本入っていた。それは明らかにM高校のものだった。
 女子高生も自転車を押していた。彼らは親しげにただ喋りあっているだけだった。だが、彼らの背中から陽炎がでていた。特に女子高生の素肌の腕が自転車のハンドルを動かすためにときどき動くのだが、その瞬間、肌が異様な輝きを放ち、私の目を射った。それらがまるで命のエキスのように思えた。  私の頭は白くなり、くらっとよろめいて、一歩も歩けなくなった。
 横の土手の方に行き、それに身体をもたせかけ、自分もあんなふうに女子学生といっしょに歩けたらどんなにいいだろうと思いながら、彼らがまったく見えなくなるまで身を横たえて彼らを見送っていた。
 あの光景がよほど強烈な印象を与えたに違いない。もう三十年以上も前のことなのにあの光景を何度も思い出す。同じ高校生なのに、なぜ、自分には話をする女子高生さえいなくて、あいつにはいるのか、どうして、工業高校には女子高生も、女の先生さえいなくてあいつの高校にはいるのか。どこが、自分とあいつらと違うのか。そんなことを考えていたことを今でも覚えている。
 今、誰か、私たちが歩んでいるのを見て、あのとき私が感じたと同じようなうらやましさを感じるやつがいるだろうか。もし、湯上が私らを見たらどうだろうか。
 何という不謹慎なことを。自分でも驚いた。しかし、一瞬快感が走ったことも確かだ。  陽は容赦なく降ってくる。まだ、梅雨も来ていないのに真夏に近い暑さだ。長袖のワイシャツ、厚い礼服、その下の肌からじっとりと汗が滲んでくる。何だか、それが降ってくる太陽と競い合っているように思える。体の中にもうひとつの太陽があってそこから暑さが放たれてくる。
 江口さんのほうを見る。彼女もまた手を少しかざして陽をよけている。  前の妻もときどきこんなふうな格好をしたことを思い出す。あいつは今新しい亭主とうまくやっているのだろうか。
「ああ、暑い」
 江口さんは初めてはっきりした声を出した。
 立ち止まって着ていた黒い上着を脱いで手に持った。下にもう一枚シャツのような白い上着を着けていたが、それはほとんど袖がなく、白い腕が新しいミルクのように柔らかく出ていた。その腕に、近くの木々の新緑が映っている。
 道からも熱気が反射してくる。道の両脇には軒の低い家が建ち並んでいたり、金網が張りめぐらされていて、その向こうは広い空き地になっている。空き地には背の高いエノコロ草がさかんに生えている。
 道に段ボールで作った囲いがあり、ホームレスがひとりこちらを見ている。この道を歩きだして初めて会った人である。
 ホームレスを見た途端、腕時計に目をやった。無意識にそうした。
 三時を少しまわっていた。まだまだ時間がたっぷりある。会議は六時からだ。最近の市民病院の経営の実態と改善の要望事項を市長や行政の幹部に説明する会議だ。しかし、それは名目で、後の宴会が主な目的である。もちろん、官官接待ということで最近は批判が厳しいので会費は徴収され、会も質素になっているが、それでも、いくらかの金はどこかから工面されてくる。病院の庶務課長をやっている私には直接関係することはないが、院長から課長級はみんな出席するよう言われていて、出席しなければ何を言われるかわからない。
 広い広場が前方に見えた。広場といっても廃墟だ。大きな工場跡か、それとも、市場の跡のようだった。ひび割れているコンクリートの床は広がっていて、それは、白っぽく大理石のような艶やかさをところどころに残しているが、そのひび割れた隙間からエノコロ草や名もしらない多くの雑草が隠れている狙撃兵のように立っている。途中には塀のような壁が長くこちらを向いているが、それはいったい何の跡なのかわからない。まるで打ち捨てられた古代遺跡のような壁と床。それらが、新しい緑色のペンキの塗られた金網で囲われていて、陽の匂いが漂ってくる。
 ああ、この匂いは、少年時代、周りをスモモの木々で囲われていた広いサツマイモ畑でトンボ取りをしたときに嗅いだ匂いだ。  そう思うと、そのときのようすがまたありありと目の前に浮かんできた。
 熱っぽい葉から出される生気だけが満ちているサツマイモ畑。人は誰もいないのに、にぎやかな感じがした。大きなやんまが群れていて、おとりのひもの先のトンボに迫ってくるやんまの胴が空色に輝いていた。私は興奮していた。ボッ、ボッ、糸の先のおとりのトンボをまわす。やんまがおとりのトンボにくらいつく。そっと芋の葉の上に糸を降ろす。やんまもそこに降りてくる。素早く両手を上に被せる。やんまの羽根が無限の速さで震える。それが小さな掌に伝わる。
 あの感触がたまらなかった。じかに、命の震えを手に感じとっているといった感じだ。あたりの植物の生気までそこに集まっているような。
 そっと、辺りを見回す。トンボがいないか探す。何もいない。虫いっぴき見えない。ただ、江口さんの匂いが微かに漂ってくる。髪の毛の匂いか、それとも化粧品の匂いか。
 彼女の顔が近くにある。驚いて彼女から少し離れる。
「静かね」
 この街に入ってから、二度目の声だ。ようやく落ち着いたのかもしれない。普段の声に変わっている。
「わたし、こんなところ大好き」
 彼女は何度もあたりを見回しながら歩いていた。私との距離はほとんどない。しかし、彼女は何を考え、どんな思いでいるのかまったくわからない。
「よかった、一度、誰かにここを見せたかったんだ」
 私は陽気な声を出した。悪かったかなと思った。彼女はまだそんな気分ではないだろう。でも、正直、彼女ならここが好きに違いないと思っていた。
「街の真ん中にこんなところがあるなんてね」
「ほんと、信じられない」
 噴き上がってくる汗でますます身体がじめつく。喪服の上着を脱いで腕にかけた。ちょうど風が吹いてきた。  また、しばらく黙って歩いた。
 江口さんは白いハンカチで何度も額を拭った。額は拭われるごとに美しくなった。今まであった濁りがなくなり、純粋なクリーム色になっていく。うっすらと油が滲み、それが四十半ばの肌を若々しくした。 「ああ、あれ、見て」  突然、彼女は指さした。見ると、かなり離れたところで、鳩よりも少し小さい鳥が舞っていた。目を凝らしてみると白い胴に羽の先だけが黒い。それらが二羽、戯れあっている。微かに鳴き声が聞こえてくる。キキーキキー。ああ、あれはケリという鳥だ。最近よく家の近くにも来ている。
「鳥の声を聴くなんて、久しぶり」
 江口さんは初めて弾んだ声を出した。
 そう言えば、長い間、鳥の声を聴いたことがなかった。ときどき、ターミナルで拡声器から鳥の声が流されてくるのは聴いた。あれは聴くごとに腹が立った。そんな誤魔化しで、われわれが満足するとでも思っているのか。何だか人を馬鹿にしているような気がして仕方がなかった。しかし、本当の声は、たとえカラスの声でもいい。それが命の声として受けとめられる。
「育ったのは田舎?」
 尋ねてみた。
「田舎じゃなかったけれど、森や林や田圃がまだたくさん残っていたわ」
「川遊びなんかは」
「近くにね、大きな川があって、いっぱい泳いだ」
「それじゃ、泳ぎは上手なのだ。いいね」
 私の家の近くには川も池もなかった。だから泳ぎはまったくだめだった。
「娘時分も泳いでいたの、それで、背中にいっぱい染みができてしまって。でも、それは、嫌じゃないわ。私にもそんな時代があったんだっていう証拠になるもの」
 先程の鳥が近づいてきた。声が大きくなり、はっきりとそれはケリだとわかった。囲いの中の廃墟の上を楽しげに舞っていた。あるときはコンクリートに触れるほどに、あるときは空高く。
 湯上も泳げなかったことをふと思い出した。あいつも山奥育ちで泳ぐところがなかったのだろう。ずっと以前、まだ、私たちが小西先生の教室の生徒だったころ、観光もかねて海辺に撮影旅行に行ったことがあった。それで、日中は撮影には適さないのでみんな海水浴に出かけていった。だが、私と湯上だけは民宿に残ってくだらないテレビを見ていた。お互い恥ずかしくて口も聞けなかった。
 キキーキキーとケリは再びやかましく鳴いた。
「つがいかしら」
 江口さんは尋ねた。
「恋人どうしさ」
「どうして」
「ただなんとなく」
「へえー」
 江口さんはしばらく放心したように鳥たちのじゃれあいを眺めていた。
「そう言えば、あのひと、鳥が好きだったな」
 江口さんはぽつりっと、遠くに視線を流しながら言った。
「ええ、あのひとって」
 あのひとと聞いて驚いた。ぎくっとした。あのひととは湯上のことか。
「いつも双眼鏡を持っていてね、道を歩いていても突然立ち止まって鳥を見るの」
「湯上が?」
「湯上さん?……。まさか、昔の恋人よ」
 ほっとすると同時に、また別の嫉妬心が湧き起こった。
「恋人がいたのか」
「恋人といったって中学生のころよ」
「長く続いたの」
「いいえ、ほんの少しよ、転校して何処かへ行っちゃったもの」
「悲しかった?」
「それはもう。一週間ぐらい泣いていた。好きだったから、あの人。いつでも双眼鏡を持っていて、鳥を見に行かないかって誘ってくれるの」
「それから会っていないの」
「もちろんよ。何処へ行ったかもわからない」
「会いたい?」
 それには答えず、更に遠くを見つづける。
「今の旦那さんとは」
 変なところでへんなことを尋ねてしまった。江口さんは、しばらく間を置いてから言う。
「お見合いよ。会ってから三ヶ月で決めてしまったの。引っ込み思案だったし、男のひとから誰からも声をかけられなかったから。妹にいい人ができて結婚したがっていた。お医者さんでね。でも、姉がまだなのに、妹が先に結婚することは当時ではまだ許されていなかったから。家族全員が私が早くお嫁に行くことを望んでいたわ。それに、私、母からいつも言われていたの。あなたはかわいそうね、そんな顔じゃいいところにはお嫁に行けないわねって。そりゃ、身内のことでこんなこと言うのは何だけど、妹は美人だったから」
「………」
「誰でもよかったのよ。とにかく、早くお嫁に行きたかった。相手もそうだったみたいで、すぐにきまったわ」
「結婚なんて、千差万別さ。その後が大切なんだから」
 そう言えば、私も同じようなものだった。母一人子一人で育った私は、周りの人から、お前は結婚は難しいと言われていた。それで、母が気に入って連れてきた女とほとんど何の考えもなしに結婚した。それでも、よく持った。十年間結婚していたんだから。よほど、彼女が忍耐力のある人間だったに違いない。彼女を尊敬する。あのエゴイスチックな母と十年も一緒に暮らしてくれたんだから。
 いつの間にかケリがいなくなっていた。陽は相変わらず激しく降ってくる。喪服が重くなり、持っている手を変える。彼女も同じようなことをする。
 江口さんは歩くことをやめ、ケリの去った方をじっと眺めている。いくつもの金網に囲まれた空き地が連なっている。その向こうに蒼空がある。ケリはその中に吸い込まれていったのだ。
 江口さんは、今、双眼鏡を持った男の子を思い描いている。ただ並んで立っているだけで甘いときめきが全身を包んでしまう時間を。何の証拠もないのにそう確信した。ひょっとして、と思った。湯上がその男の子に似ていたかもしれない。もしそうなら、彼女はその男の子を二度失ったことになる。
 何を思い出しているのと尋ねてみたかったが、やめた。それが彼女だけの場所のように思えたから。
「鳥の声が聞けてよかったわ」
 江口さんは不意に声を上げ、再び歩きだした。
 道路の右側にはまだ人家らしい建物が残っている。木造建ての戦前にでも建てられたような二階建ての家。でも、それらはどれも古びていて少し傾きかけている。軒を並べて建っている数軒の家の端に、小さな看板が見え、碁会所とあった。その前まで来て、開かれている広い窓から中を覗くと、老人たちが数人碁を打っていた。どの老人も背筋を伸ばし、行儀よく座っていた。みんな静かで、ただ石を置くだけの音がした。それは澄んでいた。強く打つ人も、軽く打つ人もいて、音には強弱があった。しかし、どの音も混じりけのない、音そのものといった感じだ。耳の芯を心地よく打つ。それを聞いていると、どこかなつかしい感じが湧いてくる。心が落ち着く。不思議だ。自分もその中で碁を打っているような気分だ。もし、碁ができたら今すぐにでも彼らの中に入っていきたい。
 ずっと古びた家が連なっている。人の住んでいる気配はあるが、誰一人として外には出てこない。だが、しっとりとした懐かしい気配だ。いつか、どこかで感じたことのある安らぎの感じ。
 汗が出てくるが不思議に喉は渇かない。そういえば、とんぼ取りをしたときも、ずっと汗をかいていたのに水は飲まなかった。
「一度、あのひとと鳥を見に行って道に迷ったことがあったの。いくら歩いても森の外に出られないのよ。だんだん暗くなってくるし。でも、少しも怖くなかった。むしろこのまま外に出られなければいいと思ったぐらい。森の中が暗くなるのに周りが逆に明るくなっていくような、不思議な体験だったわ」
 そう言えば、我々もかなり歩いた。もうそろそろ人通りの激しい道路に出られてもいい。
「よほど、彼のことが好きだったんだね」
「ずっと、忘れていたのよ。ほんとよ、不思議だわ。今、急に彼のことが思い浮かんでくるの」
「今?」
「そう、今」
 私もまた、少年時代やあの自転車の男女のことを思い出したが、何か関係があるのだろうか。
 相変わらず、同じような風景が続く。左右ともに、フェンスに囲まれた広っぱが幾つも連なる。右側には、かなり向こうにビルの裏側の壁がそびえ立って、視界を遮断している。左側はさらに広っぱがずっと広がり、その向こうに高い崖があり、その上には人家の塀がこちらを向いている。崖は地滑りを防ぐためのコンクリートで覆われている。そこまでは、やはり、取り残された小さな建物や、荒れ地が広がっている。とにかく左右が古いビルの壁と崖に囲まれている。一方、前方はと言われれば、障害物はほとんどなく、荒れ果てた土地がずっとつづき、突然急な坂になって上っていき、その向こうはもう何も見えない。街は完全に消えている。
 ここはどういうところだろうか。言うなれば死んだ街。いや、むしろ澄んだ草いきれと陽だけがある生まれたての街。
 私は立ち止まる。あたりを見回す。確かに、前に見た風景とは違う。前にはもっと人間くさい匂いがあった。生活の匂いが漂っていた。道を間違えたのか。この辺りに左右に走る道路が横断していて、そこをたくさんの人が通っていた。ここをまっすぐに行けば、そこに出られるのだろうか。
 少し不安になり、あたりを念入りに見回すが、すべてが見知らぬ風景になっている。
 江口さんは立ち止まって、汗を拭く。
「ごめん、こんなに歩かせて」
「いいえ、暑いのもまた気持ちがいいわ」
 声が澄んでいて、久しぶりに女性の声を聞いた気がする。見知らぬ街を美しい女性と二人で歩いている。そう思うと、不安が甘さへと裏返る。緊張が走る。苦笑する。なんと言うことだと思う。しかし、気持ちはおさまらない。
「泳ぎたいわ、こんな日」
 江口さんは独り言のように言う。
「ええっ」
 突飛な考えなので驚く。
「あのひとと野鳥を見に行ったとき、こんなに暑かったの。それでちょうど川が近くにあってね、泳いだことがあったわ。あの人も泳ぎが上手でね。かっこよかったな」
 またもや遠くを見つめるような仕草をする。ふっと、水から上がったばかりの少女が思い浮かぶ。はち切れそうなももや足や胴。それらの上で水玉がいっぱいはじけている。
「もう何年になるかしら、泳がなくなって。上の子が登校拒否で家に引きこもるようになってからかな」
 そういえば、彼女の上の子供が家庭内暴力で困っていると聞かされたことがあった。誰からかわからないが確かにそう聞いた。彼女が困っているのに旦那さんはまったく協力しないと。それはもうかなり前のこと。でも、今でも、引きこもりが続いているのかもしれない。
「江口さんの泳いでいる姿、見たかったな」
 少し意識して陽気な声を出した。
「そうね、見せてやりたかったわ。今よりも、少しはましだったから」
「今でも美しいよ」
「思ってもいないくせに」
 彼女は初めて笑う。わずかだが江口さんが私に近づいたようだ。
 道の左側に新しい廃墟が現れた。ソテツの木が二本あり、その向こうに名前のわからない広葉樹が何本もあった。今まで、広場には雑草が生い茂り、蔦類が家を覆っていたのだが、こんなに緑色の木々のあるところは初めてだった。かなり大きな邸宅の跡のようだ。それとも大きな会社の事務所があったところなのだろうか。   以前、市役所に勤めていた友人から、土地の値段が急激に下がったとき、再開発地域の土地取得のために作られていた公団の土地の価格が依然高かったので、みんなこぞってそこに売ったという話を聞いたことがある。この邸宅の持ち主もそういう中のひとりだったのかもしれない。
 陽はまだまだ力を失ってはいない。それに、傾きがあるので陰影が鮮やかになり、光を受けている緑色の葉が真昼よりもいっそう濃くなる。葉群の中でみずみずさがざわめき、目の中へ緑色が流れ込んでくる。
 木々の命が裸で現れているようだと思う。いや、少し大げさだが、ずっと太古から続いている命の脈絡を直に見ているようだ。
 ふううと江口さんも吐息をつく。彼女もまたこの緑に心を奪われているのに違いない。
「あれ、何かしらね」
 江口さんの視線が木々の向こうに注がれている。目をこらすが、何を指しているのかわからない。
「そら、あれ」
 今度は指を添える。
 指の示す方向を見る。何か一メートルの高さのタイル張りの壁が何かを丸く囲うように広がっている。
「ね、見えるでしょ」
「何だろうね、あれ」
「見たいわ。ね、行きましょうよ、あそこへ」
「でも」
 私たちの目の前に高い金網のフェンスがあるのに気づく。行くと言ったって、と心の中で呟く。そこに行くにはこのフェンスを乗り越えなければならない。
「行きましょうよ、ね、あそこへ」
 江口さんが突然少女のようになる。高くてかわいい声が舞う。
 私はうれしくなる。
 それに、二人で何かすることができるなんて。それはまったくたわいないことなのにこころが浮き立つ。じっとタイルの壁を見る。そこが今までとは違った意味合いを持ってくる。何とかしなければ、と思う。
 とにかく、中に入れる工夫をしなければならない。こんなに広い囲いだ。どこかに必ず隙間があるはずだ。
「行こう、行こう」
 声が弾んでいることに驚く。うれしくってしかたがない。男ってこんなものだと自嘲する。男は単純だからとあざ笑った職場の女の顔がふっと思い浮かぶ。
 じっと金網を見回す。あちこち歩きまわるしかし、破れなどどこにもない。
「大丈夫よ、こんな塀ぐらい乗り越えられるわ」
 江口さんはさっさとかかとの低い靴を脱ぎ捨て、何のためらいもなく金網に飛びつく。手で上の枠を握ると、足先を金網にかけ、はい上がろうとする。私は、驚いて彼女の臀部や大腿を支える。やわらかな肉感がやや厚めの黒いスカートを通して掌に伝わってくる。力を入れると指先が肌の中へくいいる。彼女の温かさが掌を通って伝わってくる。
 彼女は身体を上の鉄枠と並行にねかせ、軽々と鉄枠をまたいだ。と思うと、ひらりっと向こう側に飛び降りた。見たところ一見ひ弱そうに見える彼女がこんなにも敏捷なところがあるとは。
「すごいね」
 脱ぎ捨てられた靴を向こう側に投げ入れながら言った。しかし、江口さんは当たり前のことをしたというふうに落ち着いている。  これは困ったことになったとも思った。自分は、はたしてこの塀を乗り越えられるだろうか。彼女の前で無様な姿をさらけだしてしまうのではないか。
 私も黒靴を脱いでフェンスの向こうに放り投げた。それでふっと身が軽くなった。ズボンの下をまくし上げると、両手を上の鉄の枠にしっかりとかけ、彼女がしたと同じように片足を金網にかけ、片足を鉄枠のところまで高く上げた。辛うじて枠にかかった。
 少年時代、学校の庭に松の木があり、そこによじ登ったことを思い出した。  まず、突き出ている枝に両手をかけると、両足を幹に這わせ、あるていど上に上がったところで片足をその枝にかけて、身体の重さを支えると、いっきに腕を縮め、さらに片足を向こうにずらせて枝をまたいだ。身体をねじると、身体が回転し、上に登れた。みんな慣れていたので敏捷だった。数秒でできた。あの、身体が回転する快感と、上に登って運動場を見下ろす快感が甦ってきた。
 彼女ほど敏捷ではなかったが、何とか向こう側に降りることができた。すごいすごいと江口さんが褒めてくれた。
 草原の中は、いっそう暑かった。今までの陽の熱気をすべて貯めているように思えるほどだ。雑草の中からむんむんとする暑さと草いきれが取り囲む。しかし、それは都会のアスファルトの路上で感じるものとはまた違う。夏の持っている純粋な暑さとでもいったすがすがしさを持っている。
 飛び降りたとき倒れたので、ズボンやシャツにどろや草がくっついている。江口さんはそれを手で払ってくれた。
 手がシャツの上を滑ると、布の厚さが消え、肌の上を直に優美でやわらかな掌が流れていく。そのことでいっそう身体が熱くなる。
 今度は私がポケットからハンカチを出し、肩のところに近づいている彼女の額の汗を拭う。江口さんはのけぞらず、私の手の動きに任せている。暑さは容赦なく降り注ぎ、首筋にも、腕にも、汗は噴き出している。私はそこにもハンカチを触れさせる。おそらくは乳房の間にも汗は流れつづけているであろう。
 このままだとそこにまで手を入れそうになるのであわてて手をひっこめる。 「ありがとう、ありがとう」  頃合いを見計らって歩き出す。木の植わっているところを目指し、ゆっくりと雑草だらけの庭を歩く。かき混ぜられた草いきれがいっそう強く匂ってくる。草の葉がズボンにあたり、心地よい。上からは陽、下からは照り返し、それらが遙か昔を甦らせる。 木立の並ぶ小さな林を過ぎると、コンクリートの前庭のようなところに出た。  そこには、噴水の廃墟があった。藍色の小さなタイルの厚い縁、真ん中には、小山があって、そこには石でできた男の裸体の彫像があった。頭は鳥たちの糞で真っ白になっていた。
 直径は十メートルはあるであろう大きな池があり、深さも一メートルはある。それが澄んだ美しい水で充ちている。こんなところに、底がはっきり見える透明な水があるとは、と思い、どこから水がきているのか探った。
 それはすぐにわかった。水に沈んでいる小山の裾のところの底が大きくかけていて、そこから水が湧き上がっている。まるで地下水が湧き出しているように水が出ている。きっと、小山の中央の噴水に水を送る管が破れていて、そこから水が漏れているのだ。きっと誰かが閉じられた元栓を再び開いたに違いない。ひょっとしてそれはこの家の元の主人かもしれない。この水槽をひからびさせておくことができなくて。
 底には緑色の水苔や水草が生えている。しかし、それもけっしてよどんだものではない。むしろ、水をさらに浄化しているようにさえ思える。 「きれいだわ、谷川みたい」  江口さんが言う。
 飲めるなあと思う。薪取りに行った山の中腹で、岩の割れ目から湧き出していた地下水を思い出す。あの、冷たくて、おいしかった水は、大人になってからは一度も味わったことはない。
 江口さんの動きは素早かった。私が水の美しさに見ほれているうちに、彼女は、するりと靴を脱ぎ、スカートを脱ぎ、シャツを脱ぎ、すねまでの黒いストッキングを脱ぎ、最後にブラジャーをはずした。薄桃色のパンティーがスリップの向こうにかすかに透けて見えた。彼女はスリップを水着代わりにして、噴水の池の縁に立った。西日が斜めから射し、青い空をバックに江口さんの身体がくっきりと浮きあがった。背はすっきりとし、まるで、白いドレスを着込んで舞台に現れた古代ローマの女優のようだった。
 唾をごくんと飲んだ。 江口さんは吸い込まれるように、音も立てずに水に入った。顔と髪の毛を上に上げ、すいすい魚のように泳いだ。池をゆっくりと一周すると、再び私の方に向き直った。
「気持ちいいわよ、泳ぎなさいよ」
 江口さんは挑発するように言った。私も無性に泳ぎたくなった。もちろんまだうまく泳げない。しかし、数年前から、夏休みには何度もプールに行き、とにかく五十メートルは辛うじて泳げるようにした。あれ以来、毎年真夏には、四、五回、プールに出かけている。
 江口さんの声を聞いた途端に暑さが身体の中で渦巻いた。今まで耐えていたものが急に外に出た。ようし、と思った。手に持っていた喪服をまず、コンクリートの路の上に置き、その上に、ネクタイ、シャツ、下着、ズボン、靴下と脱いだ。トランクスだけは穿いていた。江口さんは、笑顔でそれを見ていた。だが、恥ずかしくはなかった。すがすがしかった。ひんやりとした微風が股の間を吹き抜け、身体から汗が飛び去っていくのがわかった。風呂に入るようにして、タイルの縁をまたいだ。冷たい水が身体を覆う。しかし、射すようではない。瞬間、少し痛みを感じるほどだったが、すぐに冷たい快感に変わる。身体の中の汚いものがすべて清められているように思う。両手をつきだし、足をくの字に曲げ、それからまっすぐに身体を伸ばした。身体が棒のようになった。伸びやかな感じがする。地上では決して味わえない感じ。顔を水面につけ、伸びる限り身体を伸ばす。心まで伸びる。それから、両手をゆっくりと左右に開いた。身体が前へと進む。顎が少し上がった。
「いい気持ちでしょう」
 江口さんが近づいてきて、私と向かい合わせになった。顔が私の目の前にあり、こんなに近く彼女を見たことがなかった。小さな顔の中の丸い大きな瞳が若々しかった。黒い目の中に私が映っている。この女と私だけが今この空間にいる、そんな思いがした。彼女がいっそう近くなる。彼女の息が口に入るほどになった。お互いに、水を吹きあい、片手で、水をかけ合った。女がくるりと向きを変えた。やわらかな腕の付け根が私の腕の付け根にあたった。彼女の肌の感触が伝わった。
 江口さんは、クロールで泳ぎ出した。水が大きく波打った。池の端の壁にあたって高く跳ねた。それらが陽を受けて銀色に光った。江口さんは、いっそう高い波を立てて水と戯れた。私もこんなときがあった、こんなときがあったと言っているように。
「気持ちいいな、気持ちいいな」
 江口さんは、しばらくゆったりと泳いだ。それから、縁の方に行き、腕を壁の上に置き、さっと縁に上がった。西日の中に水がおもいっきり飛び散った。ぴたりと臀部に張り付いた布はまるで肌のようだった。その真ん中に割れ目の線が映っていた。江口さんは素早くこちらを向いて立っていた。スリップの裾からも激しく水が滴った。  乳房も透明な布の向こうにくっきりと見えた。それはほとんど素肌に近かった。いや、水の膜に覆われているぶん、肌はいっそう美しく、弾力に充ちていた。江口さんもそれを自覚しているのだろうか、自信に満ちてすっきりと立っていた。
   身体の線もすねのところまで布をまといつかせている脚も柔らかで、みずみずしい。こんなに清潔な裸体を今まで見たことがなかった。しかも、それがきつい陽の光を浴びながらところどころ鱗のように光っている。それは、先程見た緑色を溢れさせていた木々の葉っぱの初々しさと同じだった。
「うううう」
 と思わず声を挙げた。江口さんはその声を聞いて、笑った。軽くポーズをとり、柔らかく身体をくねらせた。そして、また、笑った。それから、再び身体をくねらせると庭の床におり、腰を曲げてスリップの裾を絞り上げて水を切った。先程脱いだシャツと上着、スカート、靴下のところへ行き、それを持つと、噴水プールの向こうに建っている二階建ての家の玄関のところに行き、扉を開いて中に入ってしまった。それは、素早かった。そこが、あたかも自分の家のように振るまった。
 私も、あわてて水から上がった。外に出ると、あたたかさと冷たさが同時に感じられた。水に濡れた肌に風が吹いた。心地よかった。汚いものが洗われていく感じだ。穿いていたトランクスは脱ぎ、脱いだ服の塊のところへ行き、礼服のポケットからハンカチを取り出して身体を拭いた。すぐにハンカチは水浸しになった。それを何度も絞り上げた。
 それから、再び噴水のプールの縁に行って座り、身体を陽に干した。水分が蒸発していくのがわかった。
 一糸もまとわず陽の中に身体を投げ出したことなどまったくなかった。自分が、周りの空気と一体になったように感じる。周りのもの、例えば陽のひかり、空気、木の匂い、草いきれ、そんなものがどんどん身体に入ってきて、あらゆるところで呼吸をしているようにさえ思う。生きているのが楽になった。
 しばらくそのような状態でいたのだが、彼女のことが気になるので、再び衣服のところに行き、シャツを着、トランクスなしでズボンを穿いた。しかし、ネクタイと靴下はポケットにしまい込み、靴を片手に下げ、濡れたトランクスをもう一方の手に持って西洋風の家に向かった。  家の壁は木片で覆われているが、ペンキが剥げ落ち、ところどころ、裏打ちの板が見えている。しかし、家はしっかりと建っている。
 玄関の近くまで行ったところで、開かれている扉の所から江口さんが再び現れた。江口さんは先程の喪服のスカートを穿き、ブラジャーも着け、上着も着けていた。先程とまったく違わない服装になっていたが、スリップとパンティーは片手に握っていて、ときどき水滴が落ちた。
「疲れたわ」
 にこやかに笑った。化粧はとれていたが頬の肌や眼の下は少し桃色がかり、水っぽく輝いていた。この地域に入り込み始めたときのあの疲れてくすんでいたものとは別人のようだった。
「少し休みたい」
 廃屋の左手を見ると、そこはテラスになっていて、長椅子が二つあった。近くの方のは板がいくつか剥がれていて座れそうになかったが、遠くの方のは、塗料が剥がれたり、反り返ったりしているものの、十分座れそうだった。それに、テラスの奥は家の影が落ちていて、西日が避けられた。
「あそこはどう」
 江口さんは満足そうに頷いた。彼女の方が先にそこへ向かった。
 影に入ると、今までよりもいっそうすがすがしくなった。ベンチの背の具合も掛け心地もぴったりだった。背の高さは頭のところまであり、身体全体をゆったりともたせかけられた。目の前にコンクリートの庭が広がり、その向こうに芝生が広がり、さらにその向こうに樫やその他の木々がたくさん植わっている林があって、視界を遮っていた。右手の方は家の一部がかなり突き出ていて、閉められた窓と薄くはげた塗料の壁、スレート葺きの屋根がこちらの家の影を映して静かに建っている。
   脚を前に投げ出し、二人並んで座った。背がかなり傾いているので、前方のものよりも空が目の前にあった。
「先日の小西先生の研究会、こなかったでしょう」
 江口さんは突然言った。
「ああ、仕事が忙しくって、一枚も作品ができなかったから」
「作品ができなくったって、みんなの作品を見るためだけにでも来られたらいいのに」
「いいや、それがね、行くと精神状態が悪くなって」
「そうね、その気持ちわかるけど、……」
 私は、小西先生の会を辞めようと思っている。自分の才能もわかった。美的センスもカメラ技術を巧みに使う器用さもない。小西先生はときどき褒めてくれ、ときにはカメラ雑誌の公募に入選することもある。しかし、そんなのはほとんど偶然に過ぎない。たまたまいい被写体に巡り会えただけだ。下手な人間でもときには麻雀に勝つときだってある。そのようなものだ。いっとき、仕事を辞めてプロのカメラマンになろうかなどと考えたこともあるが、写真を撮れば撮るほど、自分の力はわかった。それがわかるにしたがって、写真への情熱も薄れていった。その点、湯上はどうだったのだろう。湯上は勤めていた市役所も辞め、アルバイトで少しの金を稼ぎ、あとは奥さんの収入に頼る生活に切り替えた。彼はカメラにすべてをかけた。しかし、彼もまたここ数年らい元気がなかった。作品にも生彩がなくなり、カメラへの情熱も衰えていたように思う。彼はそれを生徒を教えることで救っているふうなところがあった。生徒を教えることは麻薬だ。教えることを止めてみればそれがよくわかる。きっと、私以上に彼は自分の能力の限界を悟っていたに違いない。
 しかし、不思議なことだ。いつもなら、そんなことを考えると、一気に憂鬱になるのだが、今日は違う。  陽が相変わらず数メートル先の芝生にも、名のわからない木々の葉っぱにも降り注いでいたが、影の中でじっとしているためか少し身体が冷えてきた。江口さんも同じように感じたのか、身体を私の方に寄せてきた。
「少し、寒い」
 彼女が言い、私と彼女との間にあったわずかな隙間をなくした。彼女の動きを敏感に感じ取った長椅子は少し前後にゆれた。黒いウール地のスカートも膝もとでゆれた。もちろんころよい肉付きの脚には黒っぽいストッキングが着けられているのだが、それらがまるで素足のように生き生きとしていた。また、そのひざからおなかの辺に向かってスカートのくぼみが流れていて、そこに彼女の豊かなももがあることを主張していたので、彼女の隠されているところを想像した。そう、彼女は下穿きを着けていないはずだ。ウールの下にじかに彼女の性器が横たわっているはずだ。パンティーの境目などのないなめらかな布とそこにあるやわらかな草むらを思い浮かべた。だが、それは、緑色に燃え、花が咲く直前の若草の感じだった。
「こんなところを湯上に見られたら、彼、おこるだろうな」
 寝棺の中の彼の顔がふっと目の前をかすめ、そんなことを呟いてしまった。江口さんは驚いたように私を見た。
「ええ、なんで。湯上さん、私を見るとすぐ、お前は坂口が好きなんだろう。坂口が教室を辞めたんでがっかりしているんだろうといつも言っていた」
「へえ、それは君を確かめたかっただけだよ。『私は湯上さんが好き』と言って欲しかっただけだ」
 いや、ひょっとっして彼は本当は「おれはお前が好きなんだ」と言いたかったのではないか。そうに違いない。それは、今、思いついた作り話なのに、そう思うと、そうに違いないと思えてくる。彼はそれが言いたくてしかたがなかったのにとうとう言わずに死んだ。
「そんなことないわ。彼、夫のいる人には決して近づかなかったもの」
「うそだよ、彼だって男だから」
「でも、そんなこと一度もなかった」
 そうかもしれないと思った。彼は私とは違うのだ。少し肉付きのいい女を見るとその女とのセックスを思い描いてしまう自分とは違うのだ。
 江口さんは悲しそうな、辛そうな顔をした。
 しまったことをした。彼のことなど思い出させるべきではなかった。 しばらく無言で前を向いたままいた。彼女の右腕と右太股が私の肌にぴったりとくっついてきた。ふくよかでやわらかな真綿のような温かさが伝わった。心地よかった。彼女と抱擁し、彼女の肌に包まれている自分を想像した。
 周りが少し騒がしくなる。空気の揺れが起こる。上を見る。澄んだ蒼空はすでに真昼の力は失っている。暮れ方に近い柔らかさが広がっている。その中に突然小鳥の群が現れた。はじめは、こうもりの群かと思ったが、それにしてはまだ明るすぎる。
 お互いにじゃれあって大きく上下する小鳥もいる。羽を適度にはばたかせ、空中でじっとしている鳥もいる。そんな鳥が二羽、三羽、お互いに向き合っている。何かおしゃべりをしているようだ。あるものはS字型に飛び、あるものはO字型に飛ぶ。あるものは交差し、あるものは急激に向きを変える。
 何十羽という鳥の舞踏会、鳥の祭り。空ははね回る子どもたちの遊園地以上の騒ぎになる。鳥たちは光を蹴散らし、蒼空を蹴散らす。どんどん鳥の数が増えてくる。
「凄いわね。ツバメかしら、すずめかしら」
「いろいろさ」
 先程見つけたケリのつがいもそこにいるように見えた。あまりにたくさんの鳥が舞っているので確かめることはできなかった。 鳥たちの踊りはなかなか終わらない。私たちは黙って彼らの様子を見ていた。じっと空を見上げていると自分たちもその中にいるような気がした。江口さんと私が空を飛びながら踊っている。ふっと下界を見下ろすとそこに湯上が座っていて私たちをつまらなそうに眺めている。その顔は寝棺の中で見た顔だ。 「ああっ」  突然声を出してしまった。
「どうしたの」
 江口さんは怪訝な顔をして、私を見た。
「いや、何でもない」
 あわててうち消した。
「そろそろ帰りましょうか」
 江口さんは立ち上がった。私もそれに続いた。今からでも会議に間に合うかなと思った。だが、そんなことはもうどうでもいいような気がした。
「えいい」
 今度は突然江口さんが大きな声を上げた。持っていたスリップを屋根めがけて放り投げたのだ。白い布は塊となって薄汚れたスレートの屋根に向かい、落ちるとき落下傘のようにひらりと広がった。まるで屋根と抱擁するような感じだ。つづいてパンティーをボールのように握ると、さらにいっそう遠くの方へ投げた。それは一瞬だが白鷺が飛ぶように羽ばたいた。私も思わず持っていた自分のトランクスを思い切り力を込めてそれに向けて投げた。しかし、それは遠くへは飛ばず、辛うじて樋のところに引っかかって垂れた。江口さんのパンティーはスレートの屋根の上に干し烏賊のように張り付いていた。江口さんは手をたたいて笑った。私も大声を出して笑った。  二人はベンチを離れ、もと来た道のほうへ歩きだした。私たちは肩をくっつけて歩いた。
「何とか、カメラはつづけなさいね」
 江口さんは言った。それはやわらかな体温を包み、澄んだ夕暮れの気配を心の中へ届けた。
「ああ」
 と私は返事をした。



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