ひとりの墓参り  泉 りょう


 ゴールデンウィークの一日、墓参りに出かけた。その日は亡母の、生きていれば七十四回目の誕生日だった。夫は午後から職場に休日出勤した。来年大学受験を控えた息子は予備校に行った。頼みの綱の妹も「ごめん、もう行ってきた」とつれない返事だった。しかたなくまた今回もひとりで行くことになった。
 ひとりで墓参りはあまりしたくなかった。その理由の元をたどれば、高校生の頃にさかのぼる。学校の帰りに気まぐれに墓に参ったことがあった。それを祖母に告げると、「ひとりでお墓なんかに行ったらあきません」とひどく真剣な顔で言われた。祖母によると、ひとりのときは迷っている霊に取り憑かれやすい、のだそうだ。けれどそういう祖母は毎朝、たったひとりの墓参を欠かしたことはなかった。その頃、墓にはわたしが生まれる前に亡くなった祖父が眠るだけだったが、今は母についで父、そして昨年九十七で亡くなった祖母が眠っている。
 父が亡くなった時、わたしの身の回りに変事が続いた。法事の度に、数珠の糸が切れたり、真珠のネックレスの玉が飛んだりした。僧は「単なる偶然が重なっただけです。大丈夫、お父さんは往生しておられますよ」と科学者のごとく冷厳な口調で、迷える衆生をたしなめた。
 あれは昨年、祖母が亡くなって間なしの出来事だったと思う。やはりひとりで墓参した時だった。この、町共用の墓地には井戸がある。いまどき大阪市内に井戸は珍しく、わたしの子どもや妹の子どもが幼い頃は、ポンプで水を汲み出す役目を賑やかに競ったものだった。今じゃ誰もついて来もしない。などと思いつつポンプを押し、バケツに水を汲んだ。そばに水道の蛇口もあるのだけれど、ここに来るとやっぱりポンプなのだ。ひしゃくとブラシを持って墓を洗う。ろうそくを点し、線香に火を移す。不器用なわたしはろうそくに点した火をすぐに消してしまう。なかなか線香に火を移すことができない。苦労してつけたと思えば、ぼうぼうに燃えさせて、火傷しそうになる。いつだったか、見かねた父が替わってくれたっけ。だいたいが、万事において器用な妹の主導でことが進んでいたのだ。
 その時も苦労して火をつけた線香を、墓地の入り口近くの、閻魔さん、観音さん、お地蔵さんに振り分けて立てて、それぞれに大急ぎで手を合わせて廻り、わが一族の墓に戻って来たところだった。目を閉じて手を合わせていると、なにやらがたがたと音がした。風もないのにと、不審に思って目を開けてみると、閻魔堂の板塀が、音をたてて揺れているのだった。背筋を冷たいものが走った。近くに来ていると思った。懐かしい父、母、祖母ではあるけれど、こんなふうな再会はしたくない。わたしは大慌てで墓地を飛び出した。
 そんなこんなで、ひとりで墓地へ行くのはいやだった。でも亡き人々の折々の記念の日には、墓参しないと落ち着かなかった。
 阿倍野で墓前に供える花を求めた。花屋の店頭は、近付いた母の日のために、ピンクやブルーの薄紙に包まれたキャンディのようなブーケが、いっぱいに並んでいた。お母さんはきっとこっちの方が似合うな、とちらっと思ったけれど、結局いつもの墓花にした。
上町台地を南下する路面電車に乗る。敷石を置いただけの停車場に降り立った時、一〇メートルほど向こうの信号が青だった。左右を確かめてすばやく横断した。見るとその信号のある横断歩道を自転車に乗った警官がふたり、こちらに渡り終えたところだった。ふたりは同時にわたしをじろりと見た。横断歩道でないところを渡ったことを咎められるのかと、一瞬緊張して、手にした墓花を握り締めた。ふたりは何も言わず、わたしの前を行った。どこかで曲がるだろうという予想に反して、二台の自転車はまっすぐに行き、わたしはその後をついて行くような恰好で、墓地の前まで行った。自転車はそこで止まった。スタンドを立てながら、警官は振り返ってわたしを待っているように見えた。
「なにかあったのですか?」
 わたしは先に問うた。
 待ってましたとばかりに、警官はにこにこしながら、
「いや、ここにねえ浮浪者が住み着いていたんですよ。この閻魔堂の奥でね、寝起きしていたんですよ」
 警官が指差すほうをこわごわ覗いてみる。閻魔さんは暗闇に目を剥き出しこちらを睨んでいる。いつもと同じ、恐ろしげな像だ。いつもは線香を供えると逃げるようにその場を離れるのが常であったのが、がまんしてしばらく目を凝らしてみる。確かに、閻魔さんの背後には人ひとりが横になれるくらいの空間があり、そこにふとんのような枕のようなぼろ布が積み重ねられてあるのが見えた。
「よりによって墓地とはなあ」
「まあ、この祠で雨風は防げるわなあ」
「お供え物もあるしな」
 ふたりの警官は、のんきに会話を交わしながら、わたしに向き直ると、
「悪さはせんと思いますが、いちおう署の方で保護しました」
 と言う。
 わたしは頷いてその場を離れ、井戸に水を汲みに行った。
 井戸のそばの墓を洗っていた年配の婦人が話し掛けてきた。彼岸でもないのでほかに墓参の人は見当たらない。
「聞かはりました?」
「浮浪者のことですか?」
 そうそう、と大きく頷きながら、「わたし一度、その浮浪者がこの井戸で洗濯しているとこに出くわしましたんですの。こっちまで臭って来ましたんよ」
 顔を顰め、鼻の前で手をひらひらさせて、煽ぐしぐさをした。
 ポンプのそばに洗剤の赤い紙パックが置かれてあるのが目に入った。いったいいつからあったのだろう。察したように婦人が言った。
「二年ですよ、二年。もう二年も前からあそこに住み着いてたんですって」
 二年と聞いて、あっと声をあげそうになった。
 そうか、あの時の音……。そうだったのか。
 線香に火を点す作業にもだいぶ慣れた。お参りを済ませたわたしは、毎月ひとりで泉南から来ているというその婦人と別れ、墓地を後にした。
 西陽が強くなっていた。バッグの中から折りたたみのパラソルを出して広げた。帰りは地下鉄にしようと思った。歩きながら、ひとりでに笑いがこみ上げてきた。そうか、そうだったのか……。恐ろしげな閻魔さまの顔が、なにやらちょっととぼけて、愛らしいような表情になった気がした。
 ふるさとだった町へ続く坂道を、沈みかけた太陽に向かって、パラソルを回しながら下っていった。



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