電話の音に目覚めた。一向に鳴りやまぬ気配に起き上がると、頭の芯がずきんとした。夕べ勤めからの帰りに駅前近くの居酒屋へ立ち寄ったところ、久し振りに宗方さんの晋一君に会った。彼とは幼馴染みといった間柄で、お互い同じ駅で毎日電車を乗り降りしているのに時間帯が違うこともあってか、滅多に会う事はないものだから盛りあがりつい度をこしてしまった。そんなわけで昨夜の深酒がまだ尾を引いていて、重い気分のままダイニングキッチンを覗くと、ベランダのガラス戸の向こうに洗濯物を干している女房の姿があった。当然電話のベルが聞こえぬはずはないのにと、苦々しい思いで急いたはずみに片方だけスリッパをひっかけたまま、隅のキャビネットの上におかれた電話機に歩み寄り受話器を取り上げた。
電話は母親からで相談ごとがあるので、夕方勤めの帰りにでも母親のところへ立ち寄ってくれないかというものだった。あまり気乗りはしなかったものの、一応了解の返事をしておいた。どうせまた義父との諍い事に違いない。このところ度々ある母親からの電話は、殆どその類だった。しかし、今朝みたいに実家まで呼びつけるのは初めてだ。
今年七十五歳になる俺の母親茂子は、都心から電車で二十分ばかり離れた郊外にある分譲団地に連れ合いの正造とふたりで暮らしている。八十三歳になる正造は俺には継父の関係だが、おたがいに再婚して五十年近くにもなろうかというのに、いまだに諍いを起こしている。つい一週間ばかりまえにも母親は俺の居ない間にやって来て、女房に散々義父の事をぼやいて帰ったらしい。その原因は、大方が些細なことばかりで、誰かに愚痴を聞かせて鬱憤を晴らせば気がすむみたいだ。
「この前お義父さんと揉めたばかりやから、こんどはお義姉さんと何かあったんやろか」
朝食の支度をしている女房が、こちらを見ずに尋ねた。淑子義姉さんは俺の兄嫁だが、母親とはどうしてか気が合わないみたいだ。だからと言っていつもの諍いだとわかっているくせに、あえて義姉さんとの諍いに結びつける女房の決めつけにも少々憮然とする。
「いつものことやろ。帰りに来てくれ言うてるから寄ってみるわ。どうせ愚痴のひとつも聞いたったら気がすむんや」
そう言い残して洗面所にむかう。いつもは聞き流す女房の言い方が、今朝はいやにひっかかる。
三DKの市営住宅の我が家は、洗面所から五、六歩も歩けば玄関へ突き当たる。ドアの新聞受けから朝刊を抜き取るとふたたびダイニングへ行き、テーブルにむかい腰をおろした。
パンの焼けた匂いとコーヒーの香りが混ざりあった朝の食卓の雰囲気は、慌ただしいなかにも家庭の安らぎに似たものがあって好きだ。ひろげた朝刊に目をやりながら片方の手で持ったコーヒーカップをくちもとに運ぶ。
「お義母さんのためにあなたの部屋を空けてあげたら。来られるたびに気を遣われるから見ていて気の毒に思うわ」
女房が唐突に言った。部屋をあけて俺の居場所をどこにしろというのか。どうもここ半年ほどというもの、女房の蕗子はたびたびわけもなく挑戦的になったり、感情を顕わにするようになった。そういうとき自分では気付いていないらしいが、決まって顔を左右に小さく小刻みに振る症状が現れる。本人も体の変調が気になってか医者に診て貰ったらしいが、原因はよく分からないと言うばかりだ。俺は女房もそろそろ更年期障害が現れているのではと思っている。それなら多少情緒不安定な物言いも我慢してやらねばと思うが、朝っぱらからやられるとこちらも不機嫌にならざるをえない。
「おかんの部屋やて、この家にそんな余裕はないやろ。狭い分だけ家賃の安い市営住宅に居るんやからしゃないがな」
女房から俺の母親のことを持ち出されると、なでか苛ついた。
「あなたの収入が低すぎるからいつまでも居れるんやろ。普通なら夫婦で働いてたら、所得基準オーバーでとっくに退去勧告されてるところやんか」
「由美は遅いやないか。まだ寝てんのか」
起き抜けから女房の嫌みは聞きたくもない。唐突に娘の事を言い、話題を変えようと試みたが、相手はそんな俺のてだてなど無視をしたままだ。
「お義母さんも気の毒やわ。お義父さんは何かいうと俊郎義兄さんばっかりやし、肝心のあんたはこんなんやろ。聞いてて私が腹立つねん」
さも母親に同情するかにみせて、女房の言うのは俺への愚痴だ。聞かぬふりをして朝刊から目を離さない。まったく、何だかんだと言って来ては世話をやかすのは、こちらの身内ばかりだ。もっとも女房は養女で、生家は遠く北海道だという。まだ物心のつくかつかないかの頃に、生家の遠縁にあたる養父に貰われて来たらしい。彼女が六歳の時にその養父は亡くなり、養母はその後別の男を家に引き入れたりして、家庭に居所をなくした女房は、社会へ出るとすぐに家を飛び出して自活をはじめたとのことだ。幼くして己を養女に出した実親を訪ねる事もなく、義理の養母にも醒めた思いしか持たない可愛そうなやつだ。養母との往き来は俺の知る限り皆無で、養家について語ることもなく、女房に対する俺の負い目はふくらむばかりだ。
従業員二十人たらずの鉄工所に勤めるフライス工の俺は、常にお釈迦を出さないための集中力と緊張感を強いられる。それに油断をすれば大怪我をしかねない作業ゆえに、家を出る時はいつも爽快な気持ちで出勤することを心がけている。にもかかわらず、今朝は爽快どころか気分が冴えないことおびただしかった。
「寄り道せんと、真っ直ぐお義母さんのところへ行きや」
玄関までついて来た女房はそう言って念を押すと、生ゴミの入ったビニール袋をずいと差し出した。何時もの事ながら「ああ」と生返事でゴミの袋を受け取り表に出た。我が家は六階だからいつもは利用するエレベーターも、生ゴミ収集の日は乗らずに階段を下りる。なにせこの日ばかりは、最上階の十二階から降りてくるエレベーターはゴミ袋をさげた男たちでふくらんでしまっているうえに、狭い空間に生ゴミの臭いが充満してたまったものではない。
団地敷地内の一角にあるゴミ集積場までくると、ゴミ袋を持った右腕をおもいきり後ろに引いて反動をつけ、ゴミ袋のやまをめがけて見事なシュートをきめた、と思ったときであった。
「もし、小谷さんのご主人、そんな乱暴な置き方は困ります。袋が破けて中身がこぼれますからもっと丁寧に置いてください」
いきなり叱られ振り向くと、厳しい眼差しでこちらを睨み付けている数人の主婦と目が合った。近頃ゴミ出しのマナーが悪いとかで、監視をしていた自治会の役員らだ。それでなくても口うるさい連中に名指しで見咎められて、気持ちは落ち込む一方だ。
夕方引けてから重い足取りで工場の門を出た。その原因は今朝の朝礼で工場長の言った事だ。早い将来に従業員数をいまの半分に減らす方針で、場合によっては指名解雇もやむを得ない、との事だ。五年前の阪神大震災を境に、阪神間にあった親会社の企業が、地方に移転してしまってからというもの極端に仕事が減ってしまった。さらに設備の古さなどがわざわいして、新規の得意先の開拓もほとんど絶望的な状況らしい。旧型の汎用機しか使えなくて、すでに職場の隅へ追いやられている者としては、考えるだけでも気が滅入ってしまう。ショルダーバッグのなかの携帯電話が鳴り思考が中断された。
「今から急に会議があって遅うなるんや。できたらお義母さんところで晩御飯頂いてきて」
電話は女房からだった。大手の生保会社に勤める女房は、職場から電話をしているとみえ、えらく早口で喋った。女房に了解の返事をして気を取り直し、すっかり葉桜になった街路樹の桜並木の下を電車の駅に向かって歩いた。
親の家へ行くのは久し振りだった。途中で電車を乗り換えて辿り着いた駅から、さらにバスに十分ばかり揺られて両親の住む団地に着いた。
五階建て分譲団地の建ち並ぶ一帯は、建って間もないこの団地へ越して来た八歳の当時と少しも変わらない。
ところどころ電球が切れたままで、まばらに外灯の点る道は四月末なのに肌寒さを感じる。やがて色褪せた側壁にB5の黒色の切り抜きの表示板が張り付いた棟のところへ来た。その棟の手前から一番近い、左端の階段を三階まで上ったところが目指す両親の住む家だ。
階段の上りくちに近づくといきなり数羽の鳩が飛び立ち、一瞬怯んだ。何台かの古びた自転車が置かれっぱなしにしてある階段脇のコンクリートの地面は、鳩の糞によりすでに黒褐色に変色してしまっている。それにしてもしばらく来ないうちに、この鳩の増えようは異常だ。
バスを降りてからここへ来るまでに、建物を掠めて群舞するおびただしい鳩の群れを目撃した。それにひきかえ不思議なくらい人に会わなかった。子供のころかつて遊びまわっていたこの界隈は、何時の間にか鳩に席捲されているみたいだ。
大沢正造と表札のあるドアの前に立ち、いまから両親の諍い事の仲裁をするのかと思うと気が進まない。意を決してまるで法廷に臨む裁判官みたいに気負った思いで、咳払いをひとつしてチャイムボタンを押した。
ドアのむこうにドアチェーンを外す気配がして、開けられたドアからカレーの強い匂いと一緒に母親が顔をのぞかせると、とたんに空腹を感じた。
「来たんかあ。早よ入り」母親はいそいそと俺を招じ入れた。予想していたより元気そうなのに、ひとまず安心をした。
「私の方から出かけよ思うたんやが、蕗子さんにいらん心配かけてもいかんし、考え直して進にここまで来て貰う事にしたんや」
「遠慮しないな。蕗子にそんな気を遣わんでもええねんや」
久しぶりに親元に戻った安堵感に似た思いに、カレーの匂いが混ざりあった家の中を鼻をひくつかせながらダイニングキッチンまで行くと、カレーのいい匂いがさらに充満していて、空腹感は極限に達した。
「おとんは、居らんのか」
まめに体を動かせて食卓の準備をする母親に、義父の姿が見あたらないのを不審に思って尋ねた。
「あのひとなら。俊郎さんのところへ行ってるんやろ」
カレーを盛った皿をテーブルに並べていた母親は、他人事みたいな顔をして言った。俊郎は俺の義兄で、女房が何かと言うと対抗したがる淑子義姉さんは俊郎の嫁だ。てっきり義父との諍いだと思い込み、早とちりをしたらしい。
「昭夫が車を買うたんやて。それで迎えに来て、俄に出かけたんや」と言ったあとで「どうせあのひとが買うてやったんやろ」と投げた言い方をした。
母親の言うのもわからないでもなかった。これまでにも俊郎のひとり息子昭夫に対する義父の可愛がりようは傍目にも濃いものがあり、他の孫たちに対する時と比べてかなり目に付く節もあったからだ。
「おかん。なんも言うてへんのに、なんでカレーができてるんや」
「蕗子さんからお昼に電話があったんや。今晩遅なるから進が来たらご飯たべさしてやって言うて。それより私のカレー久しぶりやろ。ようけ作ったからおかわりをして食べや」
母親は嬉しそうに言いながら、ビールの栓をぬき俺の持つグラスに注いだ。女房は俺よりも先に母親に直接電話をして頼んでいたのかと、少し複雑な気になる。そんな思いを吹っ切るつもりでいっきに飲み干すとよく冷えたビールがはらわたに沁み、母親が継ぎ足してくれるままにたて続けにグラスをあけた。
「おかんはなぜ、俊兄いのところには行かなかったんや」
義父と母親は以前からどこへ行くにもたいがい別々で、俺の家へ来るのであっても、連れだって出かけて来るという事は希だった。どちらかといえば義父は俊郎のところへはよく行っているようだが、俺のところには来ない。反対に母親は何かといえば俺のところに顔を出しに来るが俊郎のところへは滅多に行かないらしい。しかしながら、高齢になってまでそんな別々に行動しなくてもいいのにと思えた。
「あのひとは昔から自分のことしか考えないひとやから、一緒に居ない方が気を遣わなくて私も楽なんや」
母親は自分は食べないで、話しながら俺が食べるのを眺めている。
「長いこと夫婦をやってきたんやろな。少々のことはおかんも押さえなあ」
「わたしゃ進には本当に悪いと思うているんや。あのまま再婚などせなんだらよかったんや」
また母親のいつもの愚痴が始まった。二十三の歳に丹波の旧家であった小谷家に嫁いだ母親は、そのわずか一年にも満たないうちに夫を肺結核で亡くした。跡取りのひとり息子だった夫の死を境に婚家は急坂を転がるごとくに没落して、昭和三十年代の始めに九十三歳まで生きた祖母が死に、僅かに残っていた家財も競売にかけられ小谷家は消滅した。
ところが夫の死亡時にすでに身ごもっていた母親は、七ヶ月の身重で実家に戻って俺を生んだ。その後は村役場に勤めたりしていたとの事だが、実家に出入りしていた祖父の知人の紹介で、三歳になった俺を連れて義父である大沢正造と再婚をしたということだ。
相手にも俺より六歳年上の俊郎がいた。つまり母親と義父はお互い連れ子どうしで再婚したのだ。俺にしてみれば、いきなり父と兄ができたわけだ。もっとも俺自身の小谷姓は母親の最初の婚家の姓で、家系の廃絶を忍びないとする当時の関係者の配慮でたったひとり残った遺児の俺が、現存しない小谷家の跡目を戸籍上相続したのだ。したがって母親が義父大沢正造と再婚したときも連れ子の俺は入籍せず、ひとり小谷姓のままおかれた。
このことの顛末は今は亡くなった母方の祖母より、幼いころからことあるごと物語でも語るふうに話して聞かされたものだから、いまでも想像で状況が目に浮かぶほど記憶は鮮やかだ。ところが小谷家にはいい思い出はないと、これまであまり当時を語らなかった母親が近頃になってから、そんな過去を愚痴をまじえて往々にして振り返るようになった。
「進の生まれた年の春も、こんな季節はずれの寒い日が続いていたんや」
母親は遠い昔を偲ぶ表情をした。そういえば自分の誕生日が三日後であることに改めて気付いた。途中で便所に立ち、用をたしながら、いよいよ五十の大台を越えるのかと、わけもなく焦燥感にとらわれた。何気なく壁に目をやると、子供のときの落書きが未だに薄く残っているのも、妙に懐かしい。
食事の途中に便所に立つなど、自宅でなら「行儀が悪い」と女房や娘から非難されるところだが、ここではその気遣いをすることもなかった。悠々として戻ると、ふたたび食事を続けた。
「おかん、カレーのお代わり、あ、それから卵も割ってや」
矢継ぎ早にあれこれ言いつける俺に母親は「もう、この子はせわしいんやから」と呆れた顔をしながらも、いそいそと立ち動いた。
「おかん、まだかあ。それから辣韮か福神漬けはないんか」
「もう、いま持って行くから黙って待ってなさい」
小気味よく叱られながら、俺は母親に甘える心地よさに浸った。
「あのひとは俊郎さんだけが自分の子や思うてるのや。昇ができてからもずっとそうやった」
二杯目のカレーを食べ始めると、母親はまた義父のことを愚痴り出した。どうしてもまた、この愚痴を聞いてやらんことには、すまされないようだ。
「昇は再婚した最初の子で、しかも予定より一ヶ月も早い出産やったいうのに、あのひとは居なかったんや。近所のひとに産婆さんを迎えに走ってもらうし、お産の用意はしてもらうで、もう大変やった」
「昇もおかんには、感謝しているがな」
昇は、てて親違いの五つ年下の弟だ。べつに生まれてくる子に責任があるわけではないし、これらの事を昇が知っているのかどうかはともかく、適当に相槌をうった。
「あの時は私も本当に心細うて、もしもの事があったら困るから家に居てくれるようにと、産婆さんからもあのひとは言われていたんや。それでも休暇が取れないとか、ぬけられないとか言って仕事へ行ってしまった。あのひとが一度だって私のことや家のことを本気で心配してくれたことはないんや」
母親はそこまで言って突然涙ぐみ絶句した。いまさらにそんな遠い昔話をして感情を昂ぶらす母親には当惑したものの、実際に義父の正造は仕事だけが生き甲斐みたいな男だった。唯一たばこを吸う以外は酒もほんの少々、それも付き合い酒ていどで殆どたしなまない。趣味といえば職場の同好会で謡曲を少しやったというが、カネがかかるとすぐに辞めたらしい。
自分が冗談や馬鹿話を言わないかわりに傍からの冗談も受け付けないタイプで、義父が帰ってくると子供心にひどく緊張を強いられたものだった。中卒で義父の勤める造船所の養成工採用試験を受けたものの、あっけなく撥ねられた。義父は「ここまで、あかんたれやとは思わなんだ」と俺を見て嘆息をした。やむなく、住み込みの見習い工で鉄工所に勤めだした。当時、まわりから勧められた溶接工にならずに機械工の道を選んだのも、多分に溶接工の義父に対する、そうした反発めいた気持ちが影響していたように思う。
「仕方がないやろ。あの時代の男たちは皆そうなんや。家庭を顧みずに仕事ひとすじの、そんな気概のある男がよしとされたんや。時代や。時代……」
母親が納得するはずもないことをしたり顔で言いながら、二皿目のカレーをたいらげた。
「久しぶりでおかんのカレーを食うたなあ。なんちゅうても俺にはやっぱりおかんのカレーが一番や。カレーを食ったあ、という気になるなあ」
これはお世辞でなく本当の気持ちだ。当時は細切れの肉などが入っていようものなら上等の部類で、兄弟が肉の取り合いをしたものだった。それが今だに懐かしくて、俺にはカレーといえば母親の作るカレーを越えるものはなかった。
「進はカレーが好きな子やったねえ。遠くへ遊びに行っていてもカレーを作ると匂いを嗅ぎ付けたように早う帰ってきたもんや」
言いながら母親は嬉しそうに笑った。今日ここに来てから始めて見せた、母親の嬉しげな笑顔だった。
「うかうかしてたら食いはぐれて肉なしカレーになっていたからな。兄弟のなかで俺が一ばん鈍くさかったしなあ」
母親の笑顔に気をよくしながらスプーンを箸に持ち帰ると、大粒の辣韮を入れた小鉢を手前に引き寄せた。
「進、やめなさい。そんな行儀の悪いこと」
いきなり俺を睨み付けて、母親が厳しく叱った。思わず手を引っ込め、その剣幕に少し驚いて母親を見返した。
「蕗子さんがいつも嘆いてはるわ。あんたのそいう品のないところが嫌やでたまらんのやて」
「………」
「そんな行儀の悪い育て方は、してへんのになあ。どこで覚えたんやろ」
母親は自らの責任みたいに顔を曇らせた。
「蕗子か、ありゃあ病気や」
飯を食うのにも気取るほどの柄でもあるまいに、笑いながらポケットからたばこを取り出したものの、中味が空っぽであることに気付いた。箱を捻ってテーブルのうえに投げ出したのを見て、母親は椅子から立ちあがり食器棚の小引出しからたばこを取り出して目のまえにおいた。
「なんやおかん。えらい気がきくなあ」
「小さい頃から進には、ほんまに何にも買うてやれなんださかいなあ」
母親は急にしんみりとなり、まじまじと俺の顔を見つめた。
溶接工として造船所に勤めていた義父は、給料袋など母親に渡すこともなく家計の一切を自分が取り仕切っていたようだ。夕食のおかず代さえ、義父は毎朝その日の分だけ母に渡してから、出勤するのが常だったらしい。しかし子供の学用品を買う金まではおいて行かなかったとみえて、消しゴムや鉛筆ノートなど買って貰うたびに、義父に言うなと母親から口止めされたものだ。せがんで二十四色のクレヨンを買って貰った時など、家の中では絶対見せるなと固く言い渡され、子供ながらもなにか後ろめたさを感じてしまったくらいだ。それでも俊郎や昇らはちゃんと自己申告をして義父からそのつど買って貰っていたのに、俺が義父に何かを買ってくれなどとねだることは一度もなかった。どうもそんな頃からなんとなく、継子である自分の領分を心得ていたみたいだ。
「もう、いまさらそんな古い話ええがな」
それよりカレーに気をとられ、朝の電話で呼びつけられた話の内容をまだ聞いていなかったのに気付いた。そのことを問いただすと、
「それが進、あのひとがとんでもない事を言いだしたんや」
母親は険しい顔つきをして俺を見た。やはり義父との諍いか。どっちみち片方の相手がいないのだから、これも一方的に母親の愚痴を聞くことになるのはわかっていたが、後で女房に報告するうえでも一応聞いておかねばなるまいと思った。
母親の言うとんでもない話とは、これまで俊郎のところで祀っていた仏壇を実家へ持って来て祀るというものだった。問題の仏壇は義父の先妻の位牌を安置していて、義兄の俊郎が家を出る時に自ら持って出たものだ。俊郎にすれば実母の位牌なのだから、それは当然の事としてこれまで祀ってきたはずだ。なのに何故にいまさらと、すぐには理解できなかった。
「なんでまた今頃、そんな話が出てくるんや」
「それが、なんや宗旨を変えたんやて」
「なんやそれ」すぐには要領を得ず、目をむいて聞き返した。
「ともかく、俊郎さんが次の日曜日に運んで来るんやと」
言いながら母親は腹立たしげに傍の四つ折りにした夕刊を手に取って、テーブルのうえを這う小さな蜘蛛を叩きつぶした。
「淑子さんがまえから真のみち教を信心してはったん知ってるやろ。そんでこのたび俊郎さんも昭夫も一家で入信したんやと」
母親はすべて淑子義姉さんが悪いとばかりに言い、肩を落として大きな溜息をついた。なるほど俊郎は兄弟のなかでも一番の恐妻家であったから、義姉さんの言いなりになるのは無理もないと頷けた。
「義姉さんが、真のみち教の隠れ信者やったんは知ってたけど、しかしそれやったらそれで真のみち教で祀ったらええのと違うんか」
宗旨を変えるのは勝手だが、それなら俊郎の実母の霊も真のみち教のやり方で祀ればいいので、何も難しく考えるほどの事ではない。
「それが向こうは神さんやから、お仏壇は祀れないんやと」
「なにも仏壇にこだわらんでも、真のみち教のやり方で祀ったらええやないか」
「あの人が家の宗旨以外で祀るのは絶対にあかんて言うもんやから、また、この家に持って来て祀ることになったらしいんや」
母親の言う話の内容がようやく判ってきた。すると余計にそんなつまらない事で、目くじらをたてている母親が可笑しかった。
「おとんがそう言うんやったら、またここでお仏壇を祀ったらええのとちがうんか。なにも揉めることはないがな」
「そう言うけどわたしは嫌やからね。あのひとの先妻の位牌を、なんで今更またわたしがお守りをせなあかんの」
母親は吃驚するくらいの大きな声を出した。俊郎が所帯を持って家を出るまでは、ここで祀っていたではないか。そんなに意固地になるほどの問題でもないやろ。母親がこうまで拘る理由が、今ひとつ解せなかった。
「ずっと今まであのひとの思う通りにしてきたんや。せやけどこれからはもう、あのひとの言うままにならんとこて決めたんや」
母親がこんな事を言い出すのは始めてだ。その思いつめた表情を見てさらに困惑した。
「そらおとんの先妻かもしれんけどな。たかが位牌やろ。おかん、まさか位牌にやきもち妬いてんのと違うやろなあ」
「進、あほな事を言いな。妬きもち妬くどころか、あのひとにはもう愛想がつきてるのや」
母親は真剣に腹を立てて怒っているみたいだ。そんな母親をなだめる術もなし、次第に激しさを増す愚痴をこれ以上聞くのはかなわないと思った。
「おかん、このはなし俺にまかせてや。俊兄ぃといっぺん話をするわ。それに昇の意見も聞いてみる」
機を見計らって今日のところはひとまず退散するつもりで、時計を見ながら半分腰を浮かせた。
「俊郎さんに言うてもあかん。あそこは淑子さんの言いなりやから」
母親もまたつられて立ちあがりかけたものの、なおも憤懣やるかたないとばかりに俺の顔をにらみつける。
「まあそないに怒りな、とにかく今日のところは帰るわ。それに俊兄ぃの家庭のことをそないにガミガミ言いないな。角が立つやろ」
「なに言うてんのや。もう角が立ってるがな」
「そんな喧嘩ごしになったらいかん。落ち着いて話し合うたらええのや」
玄関で靴を履き終ると、見送って出てきた母親に向いて諭した。
「進、おまえはそんなんやからあかんのや。今度の日曜日に俊郎さんが運んで来る言うてるのに、まあまあで落ち着いてる場合かいな」
「わ、わかった。おかん、そないにいきり立たんでも、なんとか前向きにええ方法を研究してみるがな」
最後はどこかのお役人みたいなことを言い、母親の剣幕に押し出されるようにドアを開けて表に出た。しかしなんで俊郎も今になってそんなことを言い出したのか。階段を下りながらその真意をはかりかねた。彼が一度家から持ち出した実母の位牌を、母親が再び家に祀るのを拒む気持ちも思えばわからないでもない。再婚の母親にとって亭主の先妻の位牌など、何のかかわりもない。そのうえ仏花や供物とか線香を供えなければならないのは、煩わしいこと以外のなにものでもないはずだ。
それに以前はおとうさんと呼んでいた義父の事を、なぜか母親はあのひとと言っていたが、そんな他人行儀な呼び方をいつからするようになったのだろうか。
闇を増長するかにやたら生茂った木立の影が黒々と覆い被さる団地内の通路を、バス停に向かってあれこれ思案を巡らせながら歩いた。いきなり目前を車のライトがよぎり、タクシーが行くてを塞ぐかたちで止まった。近づくと開いた後部席のドアから片足だけを地面に降ろし、車内灯に照らされた料金を払っている横顔に見覚えがあった。
同じB5棟に住む宗方さん方の晋一君だった。タクシーを降り立った晋一君は、俺に気付くと発進しかけたタクシーを慌てて止めた。
「もう最終のバスは行った後でっせ。たった今すれ違うたばっかりでんがな。これに乗って行きなはれや」
挨拶もそこそこに晋一君は、今降りたばかりのタクシーに俺を押し込んだ。酒の臭いがして、いいご機嫌らしかった。晋一君はたしか俺とおなじ町に住んでいると聞いていたから、彼もまた親元を訪ねて来たにちがいない。しかしそんな話を交わす間もなく動き出したタクシーの中から彼に手を振ったあと、腕時計を見るとまだ十時を過ぎたところだった。以前はもっと遅くまでバスはあった筈だ。
「春から最終バスの時間が、三十分早ようなりよりましてなあ」
こちらの思いを察したのか、初老の運転手が前を見つめたまま言った。
「こんな早ようにバスがのうなったら不便やなあ」
黙っているのも相手に悪いと思い、相槌をうったが、それも上の空だ。
仏壇の件で母親に任せとけと啖呵を切った手前、とにかく義兄の俊郎に事の真意を問いただす必要があると思った。がら空きの都心へ向かう電車に乗ってからも、その事についてあれこれと思案をめぐらせていると、いきなり携帯電話が鳴った。
「進ちゃんか。昇や。俊兄ぃがあほなことを言うてるらしいなあ」
慌てて電話機を取りだし耳にあてるや、昇のえらく興奮した声が飛び込んできた。
「久しぶりやないか。どないしてるねん」
弟の昇と言葉を交わすのもいつ以来からか、すぐには思い出せない。
「いまさら宗旨替えやと。俊兄ぃもどないかしてるで」
昇は俺の月並みな挨拶など無視して、一方的にまくしたてた。どうも話しぶりからして酒も入っているようだ。何気なく視線を変えると、こちらを見つめている車掌と目が合った。発車して間もなく、まわりの迷惑になるからと車内での携帯電話を規制するアナウンスがあったばかりだ。まわりどころか今この車両には俺と、ずっと離れた向かい側のシートで眠りこけている中年男と車掌氏の三人きりだ。降車駅における出口までの距離を考え、最後尾の車両に乗ったのが禍いした。
いま電車の中だからあとからかけ直す、と言って携帯を切ったものの、じっとこちらを見つづける車掌氏を大いに意識してしまう。それにしてもえらい話が先走っとるやないか。先ほどの昇の話ぶりを反芻しながら腕組をして考えこんでしまった。ふとまだこちらを見続ける車掌の視線を感じ、傍から見ればそんなに自分は胡散臭く見えるのかと、次第に気になり始めた。他の車両へ移る気になりかけたがそれも不自然で、ひたすら電車が目的地に着くのを待った。
駅の改札口を出たところで歩きながら、昇にさきほど中断した電話の続きをかけた。ふたたび電話に出た昇は、母親から例の仏壇の一件で電話がかかって来たと言い、母親が怒るのはもっともだと俊郎を非難した。母親は腹立ち紛れに昇にも電話をして、憤懣をぶちまけたのだろう。
「明日にでも話をしに行ってみるつもりやが、俺も俊兄ぃの真意がようわからんのや」
俺の意向を伝えると昇は是非ともそうすべきだと言い「話をつけるのは進ちゃんしかおらんよってに」と妙なところで相手を持ち上げた。
「どうなってもウチは関係ないからな。ちゃんと兄さんらが居てはるのに末っ子のあんたが関わることはない。嫁はんがそう言いよるんや」
結局のところ昇は、この問題には一切関わらないということを宣言しただけで電話を切った。
人影も途絶えた通りを歩きながら、こんなくだらん事で引き回されるのはどう考えても馬鹿げている。道端の自販機が目に付き、ビールでも飲まなければやり切れないと近寄った。電車の切符を買ったために小銭を切らし、財布から千円札を取り出そうと見ると、あと一枚だけ財布の底に縮まっていた。近頃は残業がないどころか反対に休みが増え、小遣いもケチらねばならない。自販機のまえに立って余計なことまで考え、気分はますますブルーになる。
いきなり自販機の陰に人の気配を感じ、ぎょっとする。目を凝らすと若い男女が抱き合っていて、ビールの転がり出る衝撃音にもまるで頓着なしで塑像のように動かない。「馬鹿たれが」通りすぎてからそう吐き捨てることで、僅かに鬱憤を晴らした。
しかし歩くうちにまたあれこれ考えてしまう。職場の年配者にでも相談をしてみるかと思ったが、所詮こんな話を他人に相談してどうなるものでもない事だ。むしろ家の恥を外に曝すことになるだけだ。そのうち先ほどの電話で、昇の言った事を思い出しひっかかった。関係ないとはどういうことや。昇こそが正造と母茂子との両方の血を引く大沢家の全うな血筋やないか。できることなら、こっちも傍観者の立場でありたい。飲み干したビールの空缶を通りがかりの生垣越しに投げ入れ、バッグから携帯電話を取り出しふたたび昇にかけてみた。数回呼び出しているのに一向に応答がないので、諦めかけた寸前のところで昇の嫁が出た。
「さっき、やすみましたとこなんですよ」
昇の嫁はこんな時刻にと、言わんばかりに愛想のない言い方をした。電車を降りたところで電話をしてから、まだ十分ぐらいしか経っていないと思えるのにもう寝たのか。しょうのない奴だ。
「このあいだお義兄さんの家の近くまで行きましたんよ。コーチの具合が悪くてお見舞いに伺ったんやけど、そちらへ行くのは久し振りやったわ」
昇の嫁は聞きもしないのに、自分の事になると始めとはうって変わって饒舌になった。なんでも通っているスイミングスクールのコーチが、このあたりに住んでいるらしかった。そんなこと俺の知った事か。こんどはこっちが「おやすみ」とぶっきらぼうにあしらって電話を切った。
昇の奴は起きていたに違いない。どうせあの嫁がこの件に関わらせないため、あえて電話に出さなかったのだろう。この話を昇に言っても、無駄だと悟った。
俊郎にしろ、昇にしろ、みな嫁に首根っこを押さえられている。亭主も情けないが、嫁も嫁だ。こうしてみると自分の女房が一番まともに思えてきて、家の明かりがにわかに恋しい気分になり家路を急いだ。
市営団地の我が家に帰り着いたときには、何か家族をまとめる大役を背負っている心境だった。そのぶん、兄弟のなかでは自分が一番しっかり者に思えてきて、俺も捨てたモンではないと妙に自信が湧いた。その気分に後押しをされるかたちで、いま戻ったとばかりに玄関のチャイムを五回ばかり続けて鳴らす。三分の一ほどドアが開けられ、女房が仏頂面をのぞかせた。
「もう、うるさいなあ。自分で開けて入ったらええやんか」
女房は近所の手前か声を殺して俺を睨みつけると、踵を返してダイニングへ向かった。亭主が戻ってきたのに(お帰りなさい)ぐらい言ったらどうだ。女房の態度に内心ムっとしながらも、黙ってなかへ入った。
ダイニングのテーブルの上には、ノートや保険のパンフレットが開かれたままにあり、その傍に封が切られた駄菓子の袋とお茶の入った飲みかけの湯飲みが置かれていた。つい今しがたまで、ここで女房が持ち帰った仕事をしていた様子がうかがえた。
「とにかく風呂に入る」と俺は立ったままで言い、女房はまだ不機嫌な顔のまま頷き湯加減を見に浴室へ向かった。その後姿を目で追い、着ているのがいつものパジャマでなく夏物なのかえらく薄てのネグリジェなのに気付いた。「いつでも入れるから」と言って部屋に戻って来た女房と入れ替わりに浴室に向かいつつ、薄手の布地を透して曲線が露わになった尻に目がいった。こうして見れば女房もまだまだ捨てたもんやないなあ。と、久し振りにその尻にそそられた。
風呂場に行き浴槽につかると、さすがにホッとした。しかし母親の言った仏壇の件と、そのために明日俊郎宅へ出向き話をするつもりである事を女房に伝えるのは気が進まなかった。女房の精神状態が安定していれば問題ないが、少しでも不安定であったりするとヒステリー症状を起こして手がつけられなくなる。さきほどまでの自信が急速に萎えて、話すのはその場の状況によりけりだと腹を決めた。
風呂で汗をかいたせいか喉が乾きビールでも飲もうとダイニングへ行くと、女房が流しに立って薬を飲んでいた。その後ろ姿を見てまたも高揚し、そばへ寄って行き尻に手を伸ばした。
「何してんのん。由美が起きてるんやで」
女房は怖い顔をしてこちらの手を払いのけ、水の入ったコップを持ったままさっと離れて自分がかけていた椅子に腰を下ろした。なんとも言えない間の悪さに女房の前にある駄菓子の袋に手をさし伸ばすと、女房は素早く菓子の袋を取り上げた。宙に泳ぐこっちの手を意地悪く横目で睨みつつ、輪ゴムで袋の口を絞ると戸棚に片付けてしまった。ますます格好がつかなくなってしまい、一旦その場を取り繕うつもりでさして用事もないのに玄関わきまで行き、由美の部屋の襖を開けてみた。電話に夢中で話し込んでいた娘はいきなり部屋を覗いた俺を、女房より怖い顔をして睨みつけた。
娘の強面に気押されして、何も言わずに慌てて襖を閉めた。立ち去ろうとする背後から「襖を開けるまえに、声ぐらいかけてや」由美の金切り声が飛んだ。
ダイニングにもどり、冷蔵庫から缶ビールを取り出すと女房の向かい側の椅子におもむろに腰をおろした。女房はそんな俺をまるで無視した態度で書類に目を通している。
「どうや、仕事の方は忙しいんか」
雰囲気を変えようと俺は、女房の勤め先の様子を訊ねた。長年勤めた遠方の支部から、今度この地域にある同じ保険会社の支部へ転属になると聞いていた。更年期で身体の調子が悪いのに無理をするなと、ねぎらうつもりだった。
「そら初めてのところやから大変よ。あ、それから私の体の具合を気遣ってこちらの支部に移れるように、尽力してくれた本社の部長に何かお礼をしょう思てるんやけど、あのぐらいの男性ってどんな物を喜ぶのやろ」
「そんなもん相手によりけりや。若い女から貰うのと、苔の生えたおばはんから貰うのとでは全然値打ちが違うがな」
せっかく気遣ってやっているのに、何をジャラジャラした事を言うてるのかと、女房の気持ちに水を差すつもりであえて言ってやった。
「おばはんで悪かったはねえ。あんたなんかに聞いたんが間違うてたわ。とにかく来週の金曜日は歓送会で帰りは遅いから」
女房は醒めた顔で言い、プルトップを引き上げたばかりの缶ビールを俺の手から引ったくり、そのままぐいと豪快に飲み干した。
結婚するまえから保険会社に勤めていた女房は、子供が産まれたのを機に、時間的な自由がきく外交員に自ら願い出て転属になったのだった。育児面においても兼業主婦としてもそれは最良の決断であったのだが、がんらい社交的で人怖じしない彼女の性格は保険の勧誘にもその能力をいかんなく発揮した。外交員になって五年目には、女房の収入は俺の給料を越えてしまった。収入の逆転は即たがいの家庭内における力関係の逆転となり、それは修復しがたい現実のまま今に至っているのだ。
「俊郎義兄さんところのお仏壇を、あんたどうするつもりなん」
まだその話もしていないのに、なぜ知っているのか。予期しないことに、答えるにも言葉が出てこない。
「あんた、お義母さんに任せとけと言って帰ったらしいけど、どんな解決をするつもりやのん」
機先を制された格好の俺に、女房はさらに突っ込みを入れてくる。
「なんでその事を知ってるんや」
「なんでそんなに吃驚するのん。私には隠す話なん」
「………」
「お義母さんから電話があったんよ。あんたが今帰ったとこや言うて」
腑におちないまま黙り込む俺に、女房は平然として母親から電話のあった事を告げた。何だ、そういう事かと納得しかけたが、自分が行って話をしているのになぜ母親が女房にわざわざ電話をかけるのかと、内心面白くなかった。
「あんた、お義兄さんに話をつけるから任せとけ言うたんやて」
女房は表情を変えず、再びおなじ事を言って問いつめた。女房の挑発にのるまいとしながらもムッとした。
「それがどうした言うのや。俺が俊兄ぃと話し合うのが悪いんか」
いかん、女房の方から話の内容を先回りして持ち出されたためにすっかり調子が狂い、難なく相手のペースにはまってしまっている。
「誰もええとか悪いとかの話をしてるんと違うやろ。任せとけ言うほど、あんた自信を持ってお義兄さんとこを説得できるのんかいな」
「話の筋は向こうが外れてるのや。信仰を変えるから親の位牌を祀れんやなんて、熱病に冒されてんのや。冷静に話したら判るこっちゃ」
女房のひとをなめた言ぐさが余計に癪にさわった。義兄の俊郎とは昔からよく気が合ったし、昇よりもどちらかといえば親近感があった。そんなところから、話し合えばなんとかなるだろうという期待感もある。義理の仲でも兄弟としてのゆるぎない肉親の情だ。それに水を差すようなことを言う女房の顔を逆に睨み返した。
「あんたなあ。なんか勘違いをしているんと違う。事の起こりはお義姉さんやねんで。まえに保険を勧めた事があるんや。そしたら加入の条件として、淑子義姉さんは逆に入信を誘いかけはったことがあったんや」
女房はこちらの憤然とした様子など、頓着するふうもない。そういえばいつぞや保険の勧誘で俊郎宅の近くまで行き、ついでに立ち寄って保険の加入を勧めると淑子義姉さんから逆に真のみち教への入信を勧められたと、女房が憤慨していたのを別段気にもかけずに聞き流した覚えがある。
「私はあんたと違うて曖昧なこと言わへん。その場でハッキリ断ってしまう。もちろん保険の方もそれっきりやったけど。それからは会うても真のみち教の話は絶対しやはらへん」
たしかに女房は物事を躊躇することなく決断し、かつ実行するタイプだ。その明瞭過ぎる性格は時に相手の感情を害しないかと気を遣うくらいだ。しかし一方ではそんな性格を羨む気もある。俺なら義理や今後の付き合いを考えて、何とか相手の気を悪くさせないで断ろうと腐心することだろう。
「あそこは淑子義姉さんの言いなりや。お義兄さんがちゃんとしてはったら、こんなアホな話は出てけへんわ」
俺の身内の事を言いたい放題の女房に対して、返す言葉がなかった。女房の言った事は、みな周知の事だ。しかしこうあけすけに言われると、なぜか反発心がわいて腹が立った。
「まあ、それはそうやとしても、あんまり責めたったら俊兄ぃがかわいそうやないか」
俺はつとめて冷静に言った。淑子義姉さんはたしか俊郎と結婚する以前から真のみち教団の信者であって、婚家の宗教と違う事も承知のうえだったから自らの信仰のことをくちにする事もなかった。それが子育てを終えたころからは、とみに熱心に教団の活動に身を入れ始めていたらしい。あいつは熱中するタイプやから亭主の俺もほったらかしや。と俊郎がこぼしていたのを何時ぞや耳にしたことがあった。今回の問題が俊郎の意思でないのは自明のことだ。強いて言えばそんな義姉さんに押し切られて、俊郎も同意をせざるを得なかったというところだろう。
「お義母さんが心配をしてはるんや。進は人がええからなんでも安請け合いをして、終いにはまわりから巧いこと利用されてしまうのや。言うて」
女房の話は一転、俺への批判になってきた。
「もしかしてあんた、淑子義姉さんを説得するとか言うのと違うやろなあ。簡単に丸め込まれてしまうのが落ちやで」
「俊兄ぃが自分で祀る言うて持って出た位牌や。なんぼ義姉さんの尻にしかれとるいうても、それはないやろ」
事実女房の指摘は的を射ていて、初めからそんな考えなど毛頭なかった。俊郎にとっては継母になる俺の母親のもとにあるよりは自分で祀ろうと、義父のもとから実母の位牌を持って出たものだと解釈していた。したがって今さらそんな勝手は言えないのではないか。実はその点を話し合いのなかで突いていけば、俊郎もごり押しはできないだろう。俺はそう思っているのだ。
「それはないやろ言うても、次の日曜日にお義母さんところへ持って来るいう話は具体的やんか。あと三日しかないのにどうするのん」
どうするもこうするも話をしてみなければそんなもの判るか。追及の手を一向に緩めようとしない女房に、また癇癪が起きそうになった。
「ここで二人が議論をしててもどうなるわけでもないやろ。もう寝ようや」
俺は、わざと大あくびをして立ちあがった。この場は取り敢えず引き下がる事に決めて、女房を残したままダイニングを出て部屋に向かった。ダイニングキッチンに一番近い女房の寝る六畳の間の向こう隣りが由美の部屋であり、廊下をはさんでその真向かいの四畳半が一応俺の居室というか寝る所だった。夜はどの部屋も家族それぞれの寝場所になった。
相手を逃げ場のないところにまでとことん追い詰めてしまう、女房のあの性格にも困ったものだ。もう開き直るしかない相手から、逆に噛み付かれるまで追及の手を緩めない。自ら敷いた布団にもぐり込んだあとも、寝付かれないまま女房に対するうっぷんを胸のなかで非難することで密かに溜飲を下げた。
翌日の夕方、勤め先から直接義兄の俊郎宅へ向かった。その前に電話で所在を確認してからと思ったが、不意打ちで機先を制した方が話をつけやすいと一応作戦を立てたつもりで何の連絡もせずに、折からラッシュ時で満員の電車に乗り込んだ。
N駅に降り立つのは久し振りだった。駅のはずれからだらだらと古い家々の生け垣伝いに道を十五分ばかりたどると、いきなり視界が一変して三十年ほど前にはまだ丘陵だったところをを切り開いて造成されたニュータウンのなかに俊郎の家があった。途中酒屋でパッケージされた缶ビールを買い、手に提げて歩いたが結構重くて何度も両方の手に持ち替えた。思い付きの手土産のつもりだったが、他のものにすればと後悔しつつ坂を登った。おかげで着いたときに痺れて強張ったままの指は、門柱のチャイムを押すだけでも痛んだ。
インターホン越しに「進や」と伝えると、玄関に現れた淑子義姉さんは突然に訪れた俺に驚いた様子だったが、すぐに笑顔を作り愛想よくなかへ招じ入れた。俺は義姉さんに缶ビールのパッケージを差し出しすと「わざわざ買ってこんでも」と目をまるめ「上がり、上がり」と急かして先に立って奥に向かった。言われるままに彼女のあとについてあがり込み、洋室の真ん中にデンと居座った応接セットのソファーに腰を下ろした。すぐそばの床の上に、無造作に置かれた問題の仏壇が目についた。安置場所を失い扉の閉じられた仏壇を横目で睨んでいるところへ、義姉さんがビールとグラスを載せた盆を持って部屋に入って来た。
「義姉さん、もうそんな構わんといて、すぐ帰るよってに」
俺は遠慮して言ったが、淑子義姉さんは「何よ、久し振りやのに」と俺が訪れた事を大層喜んでいる素振りだ。
「昇さんなんかうちにはもう何年も顔を見せた事ないのに、こうして来てくれるのは進さんだけや。ゆっくりしていって」
淑子義姉さんは愛想を言いながら台所と応接間を往復して、チーズやら炒り卵など急ごしらえのつまみをテーブルの上にならべた。
「義姉さん俊兄ぃの仕事の方はどないや。調子ええのんか」
俊郎が見えないのは、まだ仕事から帰っていないのだと思い尋ねてみた。大工職人で棟梁をしていた俊郎は、バブル期の頃には職人を何人も抱えた請負稼業でたいそう儲けていたみたいで、この家もその頃建てたものだ。ひところは大型の外車など乗り回したりして羽振りもよかったが、ここ何年間かはひとり親方で細々とやっていると聞いていた。
「それが今日は昭夫の車が来たんで、横に乗って出かけたんよ。近頃は仕事に行くより家に居る日の方が多いねんからもう嫌になるわ」
俊郎より一歳年上で姉さん女房の義姉は、遅そがけにもうけた一人息子のことをちょっとばかり自慢気に言い、我が亭主の事になるとくちを尖らせ不服そうな顔をして俺の傍らへ来て腰をおろした。職人気質で寡黙な俊郎とはうらはらに、淑子義姉さんは快活でひとあたりがよかった。いまこうして久し振りに逢っても、五十七歳という歳より大分若く見える。心なしにこちらへ体を寄せ掛ける仕草は艶っぽく、俺はなんだか雰囲気的に落ち着かない。
「おとんが来てたらしいなあ」
「実はお義父さんを送りかたがた出かけたんよ。もう少し早ければ会えたのに」
べつに義父の事はどうでもいいのだが、肝心の俊郎が居なければ話を切り出しにくい。彼女はこちらが訊ねるまで義父が来ていたことさえも言わなかったが、ましてや昭夫の車は義父から買って貰ったなどとおくびにも出さない。どうしたものかと思案しつつ、俺は注がれたビールを飲み干した。
「それより進さんところはどう。忙しいのん」
「ご多分にもれずどん底や。なんとか工場がつぶれんと、持ちこたえてくれたらええねんけどなあ」
ビールを注ぎながらこちらの様子を訊ねる義姉に、わざと苦々しく大袈裟ぶった言い方をしたが真実だった。
「久し振りや。義姉さんもどう」
ビールを勧めると彼女は立ちあがって台所に行き、ビールとグラスをもって来て先っきよりさらに俺に密着して座った。思い過ごしか義姉の一見挑発めいた仕草に、一瞬たじろいでしまう。
「ねえ、進さん。困ってるんよ。こんど俊郎さんのお義母さんの霊も、うちが真のみち教で正式にお祀りをします。と言ったんやけど、お義父さんはどうしてもお仏壇を祀りたいらしいの」
彼女は手にしたグラスをかたむけ俺の注ぐビールを受けながら、逆に相談を持ちかけてきた。俺は話のとっかかりを模索していたにも関わらず、いざ相手の方から先に切り出されてしまうと却って慌ててしまう。何とか義父の生きている間は宗旨変えなどせずに、今のまま仏壇を祀るように説得を試みるつもりだったのに。それが肝心の俊郎は居らずに、のっけから淑子義姉さんでは話のもっていきようもない。やはり来るまえに電話で義兄の所在を確認しておくべきだったと悔やまれた。
「実は義姉さん。今日来たんはその事やねん。おとんとおかんのふたりが、えらい揉めとるんやがな」
義父と母親の間に立って腐心している事を伝えたく、ことさら困り切った言い方をする俺。
「ごめんねえ、何かあるたびに進さんにはいつも間に入って貰って。うちのひとはあんなんやからほんま頼りにならんのよ。進さんが居てくれるから、うちもここまで辛抱してこれたんやわ。きっと」
彼女はそう言って感慨深げな顔をして俺を見つめた。実際のところ思い起こせば俊郎が結婚する折も、淑子義姉さんと一緒になるのを頑強に反対する義父を説き伏せたのは俊郎ではなくこの俺であった。今もってなぜあんなに義父が淑子義姉さんとの結婚に反対したのか。またこの俺がなぜ俊郎たちのために一肌脱いだのかはともかく、ふたりはあのとき両手をつかんばかりにして義弟の俺に感謝したものだった。
「義姉さん。なんで今頃になって真のみち教で祀らなあかんのや。それに自分が祀る言うて仏壇を持ち出したんは俊兄ぃの方やで」
「問題はそこなんよ。祀るのが嫌や言うてるのと違うけど、そう思われても仕方ないわねえ」
彼女はもっともだという顔で頷き、足を組むと背もたれに体を預け溜息をついた。
「問題は、おかんがえらい怒ってるんや。どうしようもない」
「お義母さんが気を悪くしはるのもようわかるわ。旦那の先妻の位牌に毎日お花の水を換えたり、お茶やお線香をお供えするなんて、うちがその立場なら絶対に拒否すると思う」
彼女は喋りながら盛んにビールを勧め、俺のグラスに注ぎ足した。
「あさって、俊兄ぃが向こうへ仏壇を持って行くらしいけど、そんないきなりやなしにもうちょっと間をおかれへんのかいな」
俺は足を組んでいる淑子義姉さんのスカートの裾が捲れて、わずかに露わになった太股から慌てて目を逸らせた。
「これまでうちがひとり真のみち教に帰依してたんやけど、今度うちのひとも昭夫も家族皆が入信したんよ。それで真のみち教の祭壇と、宗旨の違う仏壇をいっしょに祀るわけにいかないのよ」
足を組替えた義姉の両太股は、さらに見よがしに剥き出しになった。俺はそんな目の前の面はゆさに、なんとも気持ちが落ち着かない。
「何とかならんのかなあ。俺もおかんに散々愚痴られるわ。そのあおりで女房にまで責められるわ。えらいとばっちり受けてんのや」
建て続けに飲み干したビールがまわってきたらしい。話をつけに来たという使命感が、ともすればどうでもよいような気持ちになる。
「蕗子さんは元気なの」
急に話を変えた彼女の目線が俺の足もとに向けられているのに気付き、見れば片方の靴下の親指の先に小さな穴が空いていて、そこから小豆粒ほどの皮膚が覗いていた。気づかずに履いていたものの、気づいたあとのきまりの悪さはどうしようもない。
「なんやいつもぐたぐた言うてるけど、更年期障害や思て諦めてるのや。時期が過ぎるまでしょうがないわ」
「うちなんか景気がいい時は雇い人が十人から居てそれはそれで大変やったけど、ひまになったら今度は資金繰りに四苦八苦や。更年期なんて気付かないうちに何時の間にか通り過ぎたみたいや」
彼女は竹輪の穴にチーズを挿し込んだつまみを手に取り、俺のくちに押し込み笑った。
「そ、そら義姉さんと、うちの奴と、比べられるかいな。義姉さんとでは、もともとデキが違うがな」
俺はいきなり押し込まれた竹輪に、口ごもりながら義姉さんをもちあげた。ことさら若作りなわけでもないのに実際の年齢を感じさせないのは、一見男好きのする顔立ちだった若い頃の名残だろう。
そう思うには訳があった。俊郎の婚約者として現れた彼女は、俺にとって衝撃的だった。あの頃熱狂的なフアンだった日活ロマンポルノの某女優に顔立ちがあまりにも似ていて、俺はひどく俊郎に嫉妬心を持ったものだ。義父がなぜかこの結婚に難色を示したとき、俺が懸命に義父を口説いたのは、彼女に俺の近くに居て欲しいと思う願望からだったに他ならない。当時の俺はそうすることで、彼女に対する想いを密かに胸のうちで燃やした。しかしそんな想いもやがて、(若い根っこの会)を通じて知り合った女房の蕗子と結婚することで断ち切られた。義姉に対しての理不尽な片思いは、次第に罪悪感や自己嫌悪に自身を苛まされることになり、職場の仲間を通じて関わりを持った(若い根っこの会)の活動に加わる事で、自らを浄化しようと努力したのだった。
「うまくいってるの、蕗子さんとは」
不意に彼女が訊ね、振り向くと焦点が合わないほどその顔が近かった。まるでこちらを誘惑するかに思える彼女のふるまいに、俺は困惑し、頬に感じる彼女の息づかいに思わず狼狽えて落ち着きをなくした。
俺は今にも俊郎たちが帰って来るんではないかと気になり始め、もしいま帰って来られると、状況としてまずい。俊郎からどんな叱責を受けようと弁解の余地はなくなる。それに女房の耳に入るような事になれば、万事休すだ。この場は一刻も早く立ち去るにこしたことはない、と焦りが生じた。
「義姉さん悪いけどこれで帰りますわ。えらいご馳走になってしもてすんまへん」
俺は決心すると腰をあげた。それからまだ座ったままで見上げている彼女に頭を下げ、足早に玄関に向かった。慌ただしく上履きの音をたてて、後から義姉さんが追って出て来る。
「そんなに慌てて帰らんでも。もう帰って来るはずやけど、そや携帯に電話してみるわ」
「仏壇の件はもういっぺん俊兄ぃとふたりで考えて、よう話し合うてや」
こうなると義姉を説得するなどあらばこそ、俺は慌しく靴を履きながら答えた。俊郎が戻るまでにここを去らねばと、気持ちが焦るばかりだ。
「昭夫にも長いこと逢てへんやろ。もう二十二になったんよ。背も高こうなってるさかいに、進さん吃驚するでえ」
もうそんなことどうでもええやろ。落ち着き払った義姉さんの態度に反して、取り乱している自分が救いようのない馬鹿に思えた。一体ここへ何しに来たのか、このまま引き下がったのではまるで格好がつかないではないか。脳裏に母親と女房の顔がよぎり、実家への仏壇の運び込みだけは、どうにかして思い留まらせねばと、ふたたび思いをあらたにする。
「義姉さん、真のみち教のことはようわからんけど、仏壇は絶対に祀られへんのか」
「そんな曖昧な信仰は駄目なんよ、真のみち教は。でもそんな気持ちがあるんやったら、いっそのこと進さんがお仏壇を祀ってくれたらええのに」
「俺が……」思わず問い返すと「誰が仏壇を祀らなあかんなんて、決まってるわけやないやろ。進さんところなんか丁度ええのと違うかなあ」僅かに微笑みをうかべながらも彼女の視線が俺を射すくめる。意表をつかれ、咄嗟に言葉が出ない。これ以上の問答はさらに相手の手の内にはまり込みそうで、やばいと思った。
「明日早いから今日のところは帰りますわ。俊兄ぃによろしく言うといて」
そう言い残すと俺は玄関のドアを押し開けた。考えもしない事を言う相手のくちの巧さに、逆に説得でもされかねない。一刻も早く退散するにこしたことはない。
「以前から私らが困った時、いつも進さんに助けられてるわねえ。ほんま感謝するわ。それから蕗子さんにもよろしくね」
「ああ、蕗子もご無沙汰ばかりして申し訳ない。一度また義姉さんにも会いたい言うているんや」
最後に口から出任せを言って玄関の敷居を跨いだ。表に出てから振り向くと、義姉は微笑みを崩さずに立っている。それを振り払わんばかりに戸を閉めたあと、なにが感謝するわ、やと義姉の言った事を真似して毒づき、競歩なみの早足で玄関先から遠のいた。
駅に来てみれば、ホームの時計はまだ九時前だった。とてもこの時間に帰る気になどなれず、勤め先近くの駅前にある行きつけの居酒屋へ行くつもりで降車駅で降りずに乗り越した。
月末で給料が出ているせいか、店は繁盛していた。やっと空いている席を見付け、肩をすぼめながら腰をおろした。とにかくビールを注文して、一服吸おうとたばこに火を点けたとたん、それまでカウンターに伏して軽い鼾をかいていた客がむっくりと顔を上げるやいきなり「どうせえ言うねん」と叫んだ。その顔に見覚えがあった。
「酔うてまんねや、なんや来たときから荒れてはったさかい」
マスターが慌てて周囲の客にことわりをいった。言ったはずの当人は再びカウンターに突っ伏してしまった。その客の横顔を見て俺は驚いた。見覚えがあるもなにも、宗方の晋一君ではないか。それまで滅多に会わなかったものが、会い出すと道がついたように良く会うものだ。
「晋一君、大丈夫か」俺は声をかけながら背中をさすってやった。晋一君の勤め先は俺の勤める工場からさほど遠くはなく、しかもおなじ鉄材を加工する機械工だ。ただ彼は、勤めるのが有名な大企業であることだ。社長以下総勢二十名の町工場に勤める俺とは境遇が違いすぎるが、それでも同業種というのは親しみがあって、付き合いがなくても七歳年下の彼に親しみが持てた。
そのうち晋一君は吐き気を催したのか片手でくちを押さえて立ち上がると、表へ飛び出した。俺も慌てて彼の後を追って出た。晋一君は店を出たところにある電柱に、片手をついてもたれ掛かり激しく嘔吐した。しまいに吐くものがなくなり、胃液だけを苦しげに吐いた。俺はただ背中をさすりながら「大丈夫か」を連発するよりなす術がない。
嘔吐が止んだところで彼をふたたび店のなかに連れ戻り、マスターに断ってバケツに水を貰い路面の吐瀉物を洗い流した。こうなったら乗りかかった船だ。晋一君を家まで送るしかない。マスターが彼の勘定はまた後日にするというので、俺は注文したビールも飲みきらないで、晋一君を連れて店を出るはめになった。
彼は俺に寄りかかって歩きながら何度も「すんまへん、申し訳ない」を繰り返し、しまいには声をあげて泣き出した。こいつ泣き上戸やったんかと思いつつ駅まで辿り着いたとたんに、晋一君はそれまでの酔態が嘘みたいに正気に戻った。せめて電車を降りるところまで送ると言う俺に「大丈夫です。小谷さん迷惑をかけました」と蒼白な顔で頭を下げ、呆気に取られて見送る俺を尻目に、やって来た電車にさっさと乗り込んでいった。しかし彼が大沢と言わずに小谷と、俺の姓を正確に覚えていてくれた事にあとから気をよくした。
飲み屋で晋一君と出会ったものの、こちらは酔うどころではなかった。もう、飲み直す気も失せてしまい、家に帰るしかない。義兄宅での話の結果を、女房にどう伝えたものか考えただけでも足が重くなる。それに明後日の日曜日には、俊郎が親元へ仏壇を運び込むだろう。母親に対してあれだけの啖呵を切っておいて、いまさら駄目だったとはとても言えない。家路をたどりながら足取りは重かった。
我が家のある市営団地の建物の影が見えて来たところで、足が前に進まなくなった。通り合わせた傍のコンビニへ立ち寄り缶ビールを買い、気持ちを落ち着かせるつもりで団地内まで来て植え込みのなかにあるベンチに腰をかけた。見上げると六階の自宅のベランダ越しに、部屋の明かりが目についた。プルトップを引き上げて缶ビールを一気に喉へ流し込むと、げっぷと共にやり切れなさも込み上げた。
通りかかった団地住人らしきが、不審気に木立の闇を透かしながら通りすぎた。夜遅くこんなところにいて妙に思われてもまずい。気の進まないままに腰を上げた。
エレベーターに乗り込み、6Fのボタンを押して腹を決めた。とにかく今夜は女房に酔ったふりをして、話をせずに寝てしまう事だ。ドアのまえに立ちインターホンをちょこっと一回押し、自分でドアを開けてそのままダイニングまで直進すると、案の定女房が書類などを広げたテーブルに肘をついたままの姿勢でテレビに見入っていた。
「えらい遅いやないの。何をしてたん」
女房がテレビから目をそらし、目の前の書類を閉じてジロリと睨み上げる。
「今日は酔うてるんや。話は明日にしてくれ」
俺は精一杯酔っ払いを演じているつもりで、わざと荒っぽく椅子を引いて腰をおろした。
「あんたお義兄さんところへ話し合いに行って来たんと違うの。そんな酔っ払うほど誰と飲んだん」
女房がじわりと追求を始め、椅子にかけたのはまずかったかと悔やんだ。
「誰とて一人でやがな。ところがそこで宗方さんの晋一君に会うてなあ。ほれ宗方さん知ってるやろ。おかんとこの同じ棟に住んでいやはる人やがな。あそこの息子や。悩みでもあるのか、なんや悪酔いしてはってなあ」
言い訳をしたいばかりが先に立ち、余計な事まで喋ってしまう。
「あんた、目的は飲みに行くことやったんかいな。人の心配より自分はなんやのん」
「ち、違う。偶然やがな。ほんま偶然やねん」
女房の追求のまえに今度はしどろもどろになってしまい、まるで刑事の取り調べを受けるこそ泥といった案配だ。
「あんた、ご飯は」
一転して急に優しい女房の問いかけに、一度に張りつめていた気持ちがほぐれ、にわかに空腹を感じた。そう言えば今夜は米粒を全然喰っていない。
「せやなあ。ちょっと食おうか」頷くのと同時に女房は立ち上がり、手早く食事の用意を始めた。目の前に出された胡瓜と茄子の浅漬けに、思わずジンとしてやはり女房だとちょっと感激する。女房はそんな俺の気持ちなど意に解するふうもなく、丼茶碗に盛った飯にお茶漬けの素を振りかけ、それに急須の茶を注ぐと「どうぞ」と言って俺の前に置いた。
「酔い覚めには、お茶漬けがあっさりしててええから」
女房の言葉に黙って頷き箸を手にやおら丼茶碗をのぞけば、縁に練り山葵の塊が擦り付けてあった。これはやばい、避けようとして逆に箸先が触れ全部の塊を飯のなかに混ぜてしまった。しまったと思ったが何食わぬ顔で面倒臭いとばかりに丼を持ち、醤油に浸した茄子の浅漬けとともに豪快に掻き込んだ。うまい、と思った瞬間に鼻から脳天にかけて、息が詰まるくらいに辛味の刺激が突き抜ける。
「それでお義兄さんとは、どう云う話になったん」
「む、向こうにも……、事情があるよってになあ」
馬鹿、ひとが涙をうかべて山葵の辛さに耐えているのに、いきなり話をもとに戻すな。くちには出さなかったが、腹の中で女房を罵倒した。
「なに言うてんの。事情はどこにもあるやんか。お仏壇をお義母さんところへ持ち込む話はどうなったの。て、訊いてるんや」
「いや、それがや、考えたらおとんのところで祀るのが一番理にかなっとるのと違うか。つまるとこ仏さんはおとんの前妻やからなあ」
事実、俺にはなんとか母親を説得して俊郎宅の仏壇は元通り親元で引き取らせる以外には、今のところ解決策はうかばない。
「それやったら、ちっとも変わってないやないの。ええ歳して子供の使いやあらへんで、あんた何のために話に行ったんや。お義母さんは絶対に嫌や言うてはるんよ」
俺は返答に窮しては茶漬けを掻き込み、またしても何秒間かの強烈な刺激に耐えた。
「お義母さんには自分に任せとけとか大きな事言うて、あんたお義姉さんからええように言いくるめられて来たんと違うの」
女房が突っこんでくるたんびに俺は茶漬けを頬張り、激辛の苦痛に耐えた。これではまるで拷問ではないか。今夜のところは酔って帰ったふりをして寝てしまうつもりが、タイミングを外したばかりに女房に捕まり、その追求の餌食になるという最悪の構図になった。
「いや、そんな事はない。義姉さんは賢い人や。俊兄ぃをさておいて、出しゃばったりしやはらへん」
「へー、えらいお義姉さんの肩を持つんやなあ。ことの起こりはお義姉さんやねんで。せやなかったら、こんな問題はおきてへんのや」
まったくその通りだ。しかしそれに頷けば、今の俺の立場はどうしようもなくなる。それに女房のいうとおりに、淑子義姉さんひとりを悪者にしたからといって万事がうまくいくとは到底思えない。
女房が「あんた、お義姉さんと何かあるのん」と言って俺を見据えた時には「考えてものを言え」と怒りを顕わに打ち消した。が、一方では簡単に言いくるめられて来た自分の不甲斐なさが、腹立たしくも恨めしい。
「親子兄弟の仲でお互いが言い合ってたら喧嘩しかないやろ。そうなったら世間的にも、格好悪いやないか。何とかええ解決方法を俺は探ってるのや」
女房の挑発にのって理詰めで追求されるのは得策でないと、努めて冷静さを装って話した。
「ちょっと、そういう品のない仕草は止めてよっ」
胡瓜と茄子の浅漬けが盛られた漬け物鉢を手元に引き寄せかけていた俺は、女房の金切り声に吃驚して手を引っ込めた。
「何べん言ってもその癖を直そうとせんのやから、もう苛々するわ。お箸でお皿や鉢を引っかけて引き寄せるのは絶対に嫌やから」
そんな些細なことで目くじら立てることでもないと思うが、情緒不安定気味な女房の症状を思いやり、無言で胡瓜を一切れくちに入れた。きゅうりは噛むと歯触りのいい音をたてたが奥歯にしみた。
「バリバリ音をたてないでよ。もう、下品なんやから。育ちがわかるわ」
箸の上げ下ろしまで些細に揚げ足を取り毒づく女房には困憊したが、もうやり合う気にもなれなかった。ここは三十六計を決め込んで先に寝るに限ると思ったが、このまま引き下がるのも亭主の沽券にかかわる気がした。
「下品で育ちが悪うてごめんな。文句があったらあの母親にいうてくれ。第一そんなしょうもない男やったら放らんかい」
「そんな啖呵切るまえに、あんたが出ていったらどうなん。私かて別れたいけど、行動に移さへんのはお義母さんがデキたひとやからや」
女房は勢いよく立ち上がった俺をジロリと見上げて、動じるふうもなかった。半端な開き直りをしたことをすぐに後悔した。
「夫としてのあんたはとうに見限ってるわ。せやけどお義母さんは実の母親を知らん私には、母親代わりに頼れる存在なんや。始めて親のぬくもりみたいなものを感じさせてくれはったお義母さんを、私は大好きなんや」
自分の母親がそんな立派な母親などとはゆめゆめ思ったこともなかったが、女房が初めて俺の身内を評価したのだ。
「お義母さんの控えめで、それでいてすごく思いやりのあるところが好きなんよ」
女房はなにか勘違いをしている。そんなに思いやりのある母親だったら、たかが義父の先妻の位牌を祀った仏壇の引き取りをあんなに拒んだりするものか。
「あの子の性格には困ったもんや。けどああなったんも再婚した自分の責任やろと、お義母さんはたびたび悔やんではったわ。あんた、ほんまに親不幸モンやで」
何を言いやがる。あのおかんが、女房に息子の悪口などを言うわけがない。出鱈目を言うなとばかりに女房を睨みつけた。
「あんた、私と結婚してから何回勤め先を変えたんよ。倒産が三回、喧嘩して居づらくなって辞めたというのが四回、諍いが原因で首になったのが一回、都合七回よ。一番長続きしている今の工場でも、五年そこそこやんか」
まったく、くだらん事に記憶のいい女だ。それを突かれると、俺としてはぐうの音もでない。かつては、熟練の職人を自負していて、今日やめても明日は雇ってくれる所があまたあると自信にあふれていたものだった。そんなことが通用しなくなって久しいが、現在の工場に就職した折り女房に対して、歳も歳だし定年まで腰を落ち着けて勤め上げると宣言をした憶えがある。なのに、いまの勤め先もいつまで持つかわからないなどと、とても言えた事ではない。腹が立ったが反論するべき理屈も言葉もなかった。
「おい、由美に聞こえるやろ。しょうもない事を言うな」
形勢不利とみて捨てぜりふじみた言葉を残し、寝間に撤退するべく立ち上がった。
「そら娘にも恥ずかしいやろ、父親としてほんまに頼りなさすぎるもんなあ」
女房はめいっぱい皮肉を言って、俺の茶漬けを食った後の片づけを始めた。頼りない父親でわるかったな、おまえらが勝手にそう決めつけてるんやないか。なにかと云うとひとをを小馬鹿にしやがって、女房と娘がともに俺をそんなふうにしか見ていない事に腹が立った。
「俺をなんやと思うてるねん。由美が父親を無視するのは母親の影響や」
「そうやって何かにつけて責任転嫁すんのよあんたは、一度でもええから由美から頼もしいと思われる父親になる努力をしてみたら。まあ無理やと思うけど」
「おまえがそいう教育をしてきたんやないか。俺をいつもないがしろにするおまえを見ているよってに、由美は父親に対する態度がなっとらん」
俺は女房のそばまで歩み寄り、拳でテーブルを叩いて日頃の鬱憤をぶちまけた。女房はそれを無視して憎たらしいくらいに落ち着き払って手元の薬袋から数種類の錠剤を取り出し、手元のコップに汲んで来てあった水とともに飲み込んだ。
「あんたが勤め先を変える度にお義母さんが嫁の私に手をついて、あんたには苦労をかけるけど、どうか辛抱してやってくれと涙を流して頼まれるのよ。そんなお義母さんを見てるとすごくかわいそうに思えてきて、何も言えんかったわ……」
薬を飲み終えると女房は話を続けた。それも俺が初めて耳にする事だ。たしかに町工場を流れ歩くと、勤めを辞めたからといって退職金が入るわけでもなければ、失業保険さえかけていない事だってままあった。なかには勤めても二、三ヶ月で退職をして受給資格のない場合もあったが、女房も働いているから生活費にことかくほど逼迫していたとは思えない。大体からして亭主の母親がなんで嫁に泣きながら頭を下げないかんのや。母親をダシにしやがって許さん。母親の名誉のためにも、聞き捨てにできない。
「あんた、お義母さんに感謝すべきやよ。あのお義母さんが居なかったら、私はとうに家を出ているところや」
ふたこと目には別れるだの家出をするだの、それしか言うことはないのか。俺は心中の憤りとはうらはらに女房の容赦のない一撃を受け、拳でテーブルを叩いた先ほどの勢いはあえなく失せる。
「あのお義母さんのためにも、俊郎義兄さんが仏壇を運び込むのは断固として阻止しなければ。あんたわかっているの。立ってないで座りなさいよ」
まるで何処かの住民運動の闘士みたいに勢いづいて檄を飛ばす女房の気迫に押されて、命ぜられるままに椅子を引き再び腰をおろした。
「家庭を顧みる事のなかったお義父さんと義理の子の俊郎義兄さんの間に挟まれ、黙々と尽くしてこられたんよ。そんなお義母さんの気持ちも考えずに、自分らの都合で母親の位牌を押しつけるお義兄さんも、その言いなりになるお義父さんも勝手過ぎると思わへんの」
女房は雄弁だった。こうなると彼女は、唯一に頼もしい俺の母親の味方であるのだ。俺は女房に感謝をしなければならない事になるが、気持ちは複雑だ。
「母親にとって俊兄ぃが継子なら、おとんにとっては俺も継子や。どちらも連れ子同士の再婚やからそれはお互い様と違うか」
「違うわ。子育てはお義母さん一人でされたんよ。自分の連れ子のことでは遠慮し、一方ではお義父さんの連れ子である俊郎さんに気を遣い、昇さんまで生んで育ててこられたんよ」
女房がこんなにも熱っぽく真剣に、俺の母親の事について語るのを聞くのは初めてだ。まあ、自分の母親と我が女房とが親密なのは大いに結構なことなのだが、仏壇の一件で確固たる方策のない俺にとっては手放しで喜ぶ状況ではない。
「あんた、やっぱりお義姉さんにはっきり言うべきやったんよ。あそこは何事もお義姉さんの意志で決まるんやから」
またも最初の話の蒸し返しだ。女房は義姉さんのことになると敵意をむき出しにする。性が合わないと云えばそれまでだが、穏やかに話すことを知らない。
「そう言うけど、俊兄ぃを飛び越えて義姉さんに話をつけられるか。それに諍いをするほどの事でもないやろ」
「なにを言うてんの。そんな頼りないことを言うてるから嘗められるんや。昇さんにも話して、ふたりで談判に行ったらええのや」
俺は話しているうちに何だか馬鹿馬鹿しく思えてきた。俊郎が一度持ち出した仏壇かもしれんが、それをかたくなに拒絶する母親も大人げない。いくら義父の先妻の位牌だろうと、身内の仏には違いないやないか。それならいっその事、義姉さんが言ったように俺の家で預かれば押し付け合いせずとも、万事まるく収まるやないか。幸いうちには俺の実父と小谷家の先祖の位牌を祀った仏壇がある。団地サイズの小さな仏壇ではあるが、そのなかの端っこに問題の位牌をちょこっと置けば済むことではないか。唯一の解決案に思えた。
「昇に言っても無駄や。あいつは初めから、自分には関係ない事やと逃げてる」
「そんな、冷たいなあ。あんたら兄弟は」
女房は言いながら立ち上がって冷蔵庫から麦茶のペットボトルを取り出し、先ほど薬を飲んだ時のコップに並々と注ぐとグッと半分ばかり旨そうに飲み干した。
「そら俺もあいつみたいに知らん顔をしとりたい。けどあの歳にもなって親が諍いを起こしてると、放っとかれへん。まあ、両方とも子供じみてはいるけど」
「ようそんな呑気なこと言うてるわ。お義母さんは本気で怒ってはるんよ。あんたそんなんわからへんの」
そう言って俺を見る女房の目つきが、いかにも蔑んでいるようでムッとしたがここが肝心とこらえた。自分の発案を女房に納得させねば、気を静めようと女房の半分飲んだ麦茶に手を伸ばした。
「それ私の煎じ薬や。飲みたかったら水を飲んだら」
伸ばした手を慌てて引っ込め、女房の言うままにコップに注いだなまぬるい水道水でくちを湿らせたあと再び椅子に掛けた。それから、今しも大英断を下ろさんとする亭主の威厳をたたえたつもりで、おごそかにくちを開いた。
「それで考えたんやけどな、俊兄ぃにしてみればおとんは自分の言いなりになると思てるし、おとんもまたその通りやろ。ところがおかんがあの調子や。そこで折衷案として、仏さんを一旦うちで預かるというのはどうやろ」
俺は苦渋の選択だと言わんばかりに、女房の顔を見た。俺の寝起きしている四畳半の間の片隅にある仏壇のなかに、位牌がひとつ増えたからとてなんのこともあるまい。何よりもそうする事で、万事がうまく収まるわけだ。何も難しく考え思い悩むことではなかった。
「あんたほんまにノー天気やなあ。お義母さんの言いはるのがよう判るわ。あの子はお人好しでも上に馬鹿が付く言うて」
女房のやつ、腹のなかで同意していても一応は反対してみせるこの負けん気の強さには困ったものだが、相手が白旗揚げやすいように何でも聴いてやろうやないか。ここはひとつ鷹揚に構えた。
「あんたなあ、考えてみい、俊郎義兄さんのお母さんのお位牌やで。そんな血の繋がりもない仏さん、ウチに何の関係もないやんか。それを何であんたが預かる気になるのん」
女房はひどく呆れた顔をして見せた。義理の仲でも家族やないか。そいうものの考えやから世の中殺伐として、自己中心型の人間が増えるのや。俺はその程度の意識しか持たない女房を、憐憫の思いで見つめた。
「あんな、仏壇にひとつ位牌が増えたからいうて、どれだけの負担がかかるんや。毎日お花の水を換え、お茶をお供えするだけで心が豊かになるし、それで皆が仲良ういったらそれこそ仏の功徳やろ」
「あんたは心が豊かになってええか知らんけど、そんな仏さんの守り、私はお断りやからね」
俺の余裕ある話し方がかえって負けん気を刺激したのか、女房は目を釣り上げんばかりに俺を睨み付けて我を張った。
「あんたそこまで言うのは何かあるの。考えてみい。あんたの父親と義兄さんの実母の位牌が、おなじ仏壇のなかに並ぶんやで。そんなことよう考えられるなあ」
何かあるのて何や、そんな目をして見るな。俺は早く女房を説き伏せねばと焦った。
「俺は親子兄弟が仲良くいけばそれでええと思うだけや。それ以外には何もない。変な詮索をするな」
「あんた、お義父さんにどれだけの事をして貰ろたん。お義兄さんや昇さんはそれなりの事をして貰ってはるんよ」
何をして貰ろたかやて、妙な事を言う奴だ。義理の間柄でも義父には育ててもろた恩がある。それで充分やないか。その親子の結び付きに水を差すような事を言うとは、女房といえども口が過ぎる。
「血が繋がってもいない俺を、こうしてちゃんと育ててくれたんや。おとんには恩を感じている」
いまさら何を言い出すのかと思ったら、むかし若い根っこの会の活動を通じて知り合った頃に、互いの生い立ちを語り合い充分承知していることやないか。それに仏壇を引き取る事と、一体どんな関係があるのか。女房につられて無駄話をしているよりも、肝心の話に決着をつけねばならなかった。
しかし俺のそんな思惑をよそに、女房は「ちょっと待ってて」と言ってダイニングを出て行った。何をしに行ったのか知らないが、あとに残された俺は先程から尿意を催していて便所に立った。
淑子義姉さんはもう俺や母親に何ら気がねする事なく、明後日の日曜日には堂々と俊郎に仏壇を実家へ運び込ませるだろう。明日は土曜日で工場は休みだ。朝からもう一度母親を説得しに実家へ行かねばなるまい。そのまえに、なんとか俺の提案を女房が納得してくれないものか。アルコールの残臭を含んで立ち昇る小便の臭いに顔をそむけながら、俺はあれこれ思案をめぐらせた。
ふたたびダイニングに戻ると、女房はすでにテーブルに向かって掛けていた。俺が椅子に掛けるのを待って、一冊の大学ノートを広げて見せた。
「お義母さんの日記帳よ。読んでみたら」
何かの染みで所々が黄色く変色したノートに鉛筆で書かれた文字は、まぎれもない母親のものだ。鉛筆がうすいうえにくずし文字で書かれていて、読み辛いことこのうえない。俺には外国語なみに難解だ。言われるままに手に取り、パラパラとめくりかけると「ここやんか」と女房が横から指さした。
昇の頭金を出してやったらしい。と一行だけ書いてあり昭和六十年三月十二日の日付が記してある。箇条書きで長くて二、三行だから、一冊のノートで数年分は書けるだろうと思えた。
「ふーん、おかんが日記をつけていたとはなあ」
「感心してんと、あんたそれを読んで何も思わへんの」
母親が日記をつけていたことを感心する俺に、女房は身を乗り出して言った。
「それは昇さんが結婚しはった時に、お義父さんがマンション購入の頭金を出したげはったいうことなんよ」
「ふーん。そらあの頃の昇にそんな甲斐性はなかったやろから、考えられる事や。けど、いまさらそんな古い話をして何になるんや」
まったく、他人の日記帳を覗いて過去の出来事に興味を持つ。女房の野次馬趣味にも困ったものだ。待てよ、どうしていきなり日記帳が出てくるのか。それに母親の日記帳を、なぜ女房が持っているのや、おかしいやないかと問いただす俺に、
「お義母さんがこのまえに持ってきて、忘れて行きはったんや。悪い思うたけどちょっと拾い読みしてんや。それで判ったんやけど、お義母さんが先妻さんのお位牌を祀る仏壇の引き取りを拒みはるのは、それなりの訳があるんよ」
女房は待ってたとばかりに勢い付いて答えた。そして俺の手から日記帳をふたたび自分の手に取り戻すと、さらにページを繰って目の前に広げた部分を指し示した。
「ここにはお義兄さんが商売を始めはった時も、その資金をお義父さんが出しはったらしいわ」
俺の顔を老眼鏡越しの上目遣いに見て、女房はさらに続ける。
「それにこれには書いてないけど、昭夫君が免許を取ったとか言ってねだられて、お義父さんが車を買ってあげたんやて」
最後は腹立たしげに言い捨て、女房は日記帳を閉じた。
淑子義姉さんが昭夫の新車が来たので、俊郎も試乗に出かけていると言っていたが、母親の言う通り車の購入資金はやはり義父から出ていたのか。道理で義父を招いて上手をするわけだ。女房の話を聞き、それらが納得できた。
「昭夫君には車まで買ってやっても、由美には今までお義父さんから何ひとつして貰ってないわ。誕生祝いも入学祝いもお義母さんからばかりよ。あんただってそうや。今まで何をして貰ったのよ。他の兄弟はみんな持ち家やないの。それぞれ自分の甲斐性でしたんなら、うちは甲斐性がなかったとあきらめるわよ」
女房は堰を切ったように一気に喋り、見ると目元を赤くして涙までためている。俺は女房の興奮した様子に困惑した。仏壇の話がとんでもない方向へ脱線している。よそはよそやないか。女はこれだから困る。せっかく女房を説得して仏壇をこちらで預かろうとしているのに、こんな日記帳まで持ち歩く母親にも困ったものだ。
「何もして貰てへん言うけど、あの時代はおとんも食うていくのが精一杯で、そんな余裕はなかったんや」
「そう言うけど、俊郎義兄さんから資金繰りに困ると度々泣きつかれては、そのつどお金を出してはったそうよ。お母さんの話だと、お義父さんは義兄さんには一番お金を出してはるんやて。昭夫君の車もそうやんか。義理の仲やいうだけで何十年親子でいてても、お義父さんからしたらあんたは他人なんや」
いかん、女房の顔が激しく左右に振れだした。まずい状況だ。
「おとんもこの頃は、段々と気が弱なっとるからな。最後は俊兄ぃに見て貰おうと考えてるのやろ。それに孫は実の子より可愛い云うからな」
実際に義父は再婚してから出来た昇に比べ、連れ子の俊郎には特別な思いがあるようだった。俺には一種の近寄り難さを備えた義父だったが、俊郎や昇の前では世間並みの父親の顔だった。ただし俊郎の嫁である淑子義姉さんとは気が合わなかったようで、結婚した当初は度々俺にまで淑子義姉さんに対する愚痴をこぼしていた覚えがある。それでも俊郎の言う事には、多少無理をしてでも聞いてやっていたようだ。だが俺はそれを疑問に感じた事は一度もなかった。弟の昇が生まれる以前から義父は遠方の出張から戻った時も、俊郎だけには陰でそっと土産を手渡しているのを垣間見た事もあった。それら俊郎と義父との格別に緊密な関係は、目に見える見えないに関わらず他者の立ち入る領域ではないものと、幼児の時から俺の意識の底に焼き付けられていた。
それをことさら女房の言うように、比較してあれこれ言い出されると俺としては説明のしようがなく、ただ困惑してしまうばかりだ。
「昭夫君も孫ならうちの由美も孫やんか。お義母さんはそんなお義父さんのやり方に、ずっと我慢してきはったんや。今度のお仏壇の事もそうや。お義父さんとお義兄さんとで相談して、お義母さんには事前に一言もなかったんやて。今までみたいにあのひとたちの勝手にされる事を、お義母さんは初めて拒みはったんや」
女房はまるで母親の弁護人気取りで熱弁を振るい続け、一方の俺はおし黙ったままだ。
「お義母さんはお義兄さんや昇さんらに比べて、あんたの事をあの子はかわいそうやと、自分の責任みたいに何時も言うてはったんよ。この日記帳かて私らに読ませるために、忘れた振りしてわざと置いて行きはったんやろ」
「別に俺は自分がかわいそうやなんて思うてないけど。幼くして実の母親と死に別れ、継母のもとで育てねばならなかった俊兄ぃがおとんには不憫な子やったんやろ。気持ちはわかるはなあ」
俺は仏壇を引き取る件で、女房を説得することを半ば諦めた。こんな話の具合になっては朝まで話し合っても無駄だろう。まったく罪な日記帳ではある。母親の説得も難渋しそうで気が重い。俊郎のために何をしてやる気もないが、義姉さんからこの件でげたを預けられたかたちであることが胸につかえた。
「とにかくお義兄さんところがどうしても仏壇を運び込むんやったら、お義母さんは家を出る言うてはるからね」
「家を出る……。おかんもええ歳をして何を言うてるねん」
「お義母さんは本気よ」
笑い飛ばすふりをして潮時とばかりに立ち上がる俺に、女房は真剣な顔でそう言って見上げた。
まったく昔から言う通りだ。金銭がからむと親兄弟の間柄でも話は生臭さくなるなあ。女房の説得を諦め、寝室にしている四畳半の間に自ら布団をひき潜り込むと、明かりを消した暗闇のなかで一人思案にくれた。
資産といっても造船所の溶接工をしていただけの義父に、諍いになるほどの資産が普通ならあるわけもなかった。ところが若狭湾沿岸に原発が作られ、そこからの送電線の鉄塔が丹波にあった俺名義の持ち山に建つことになった。あったと過去形なのは、後日その山も人手に渡り現在はないからだ。三十年も前の事だから若かった俺はそんな事に無頓着で、補償交渉などはすべて義父が臨んだらしい。現地が良質の松茸山だったこともあって、当時にしてかなりの金額であったと聞いている。義父はそれを元手にして、ひょんな事から三重県の名張あたりに、当地出身の同僚の紹介で五百坪ほどの荒れ地を、捨て値同然で買っていたらしい。その当時母親はそうした義父の行為を非難したらしいが、進の資産を増やしてやるのだと義父は言い張り続けたそうだ。まだ造船所に勤めていた頃のことだ。ところが後にその場所が宅地に造成されることになり、想いもしない高値がついた。当時義父はしきりにに己の先見性を吹聴していたが、丁度バブル期にさしかかったこともあって、運良く時代の波に乗ったのだ。とにかく、そうして退職金の何倍かの金が転がり込んできたのは、間違いないところらしい。
推測でしか云えないのは、義父は自分の預金通帳などは母親にさえ一切見せなかったからだ。その点義父は徹底していて、誰もがその懐の収支など知るよしもなかった。ただひとり知っているとしたら、俊郎くらいだろうと思えた。実際のところ、俺にしても義父の管理する資産がいくら位あるのか知りたいのが本音だが、今はそんなことより仏壇をどうするかだ。こうなっては母親を何とかなだめるしか手だてはないが、それとて自信などあろうはずもない。今の俺は、まさに四面楚歌とでもいうべき状況だ。
翌日は土曜日で、朝から初夏を思わす陽気だった。女房は会社の上司の娘が嫁入りするとかで、休日にもかかわらず朝から入念に化粧をほどこし、お祝い事は午前中に行かなければと出かけた。ご苦労なことだ。一方俺は女房に言いつけられた生ゴミ出しと、当番制になっている階段の掃除をやり終えてから、九時をまわったころに実家へ向かった。駅まで来てから思い付き、売店で母親が好物の白餡入り今川焼きを買い込んだまではよかったが、電車を降りてから乗ったバスのなかでうかつにも寝込んでしまった。運転手に肩を揺すられるまで、終点についたことも知らずにいて慌てて降りたつ体たらくだ。昨夜寝床に入ってからあれこれ思いつめて、寝つかれなかったのが祟ったとしかいいようがない。どうも朝からこんな調子では先が心もとない。なんとしても母親を説得しなければ、そのためにも気を引き締めてかからねばと、自らに言い聞かせた。
額に滲む汗を拭いつつB5棟に向かって歩いて行くと、前方から小学生とおぼしき子供を両側に、父親らしき人が手をつないでこちらへ来る。なにか話ながら笑い合ったりしている。それが宗方さんの晋一君と気づいたのは、ほんのそばまで近づいてからであった。柄物のTシャツに綿の短パンというラフな装いで、しかも顔を伏せがちに子供に向けたままだから、ちょっと見には判らなかった。一瞬、昨夜の居酒屋における彼の酔態を思い浮かべたが、それらのことはもはや全然気になどしていないふうに、笑顔で会釈を交わすべく構えた。
ところが、彼は俺と顔を合わすのを避けるように、反対側の子供に顔をむけたままで通り過ぎたのだった。笑顔のもって行き場をなくした俺は、拍子抜けして晋一君親子の後ろ姿を見送るしかなかった。別に介抱をしてやった礼を求めるつもりなどないが、挨拶ぐらいはするのがふつう常識というものだろう。
それにしても嫌な奴と出会ったとばかりに顔をそむけたまま通り過ぎることはなかろうにと、なんとも嫌な気分になった。
不愉快な思いのまま、気付くと両親の住むB5棟のそばまで来ていた。階段を上りドアの前に立ってチャイムを押してみたが応答がない。機嫌の悪さもあってか苛立ち、続けて二、三度押した後にドアのノブに手をかけガチャガチャと引いてみた。
しばらくして内側のチェーンを外す音がしてドアが開けられ、義父が顔を見せた。
「進か。そんな所に突っ立っとらんと、入らんか」
義父は顔を見るなりつっけんどんに言い、挨拶を交わす余裕もなく背をむけてなかへ入って行った。そんな所もなにも、今ドアを開けたばかりやないか。義父の態度に憤慨しつつ靴を乱暴に脱げば、勢い余った片方が玄関の上がりかまちを越えて板の間へ跳ね上がり、慌てて手で拾い戻した。居れば必ず最初に顔を出すはずの母親の代わりに、義父が出てきたのは意外に思えたが、とにかくあとを追い奥の部屋へ行く。驚いたことに、母親が外出の装いをして、座敷の真ん中に座っていた。傍に大きなボストンバッグと紙製のショッピング袋が、並べて置かれている。ちょいと出には支度が大袈裟だ。
「おかん。そんな格好して、どこぞへ出かけるのんか」
「バアさんが家を出て行くんやと。進、おまえの母親やろ。何とか言うたれ」
母親の返事を待たずに、襖を開けっ放した隣りの部屋から義父が大きな声を出した。
「来るなり早速もめてるのんか。もう、かなわんなあ」
義父と母親双方に対して言ったものの、俺の母親には違いないが、そのまえにあんたの女房やろ。と、心中義父に鬱憤をつのらせる。
ともかくドアから顔を出した時の義父の機嫌の悪さは、朝っぱらからの母親との諍いのためだと知ったが、この雰囲気のなかで仏壇の件をどう切り出したものかとまたしても当惑した。
「おとん、俊兄ぃのところの仏壇やけど、どうしてもここへ持ってこなあかんのか。もともと俊兄ぃが自分から持ち出したもんやで」
母親の居る四畳半と、義父の座る居間の敷居をまたぐ格好で立ち、義父に問いかけた。意識したわけではないが、両者を調停するうえではこの位置が丁度真ん中でええ按配だった。
「進、あんたも俊郎さんがここにお仏壇を持って来る事に賛成したんやろ。今朝、淑子さんからそう言うて電話があったがな」
今度は義父に代わって、母親が驚くほど声高に言った。
「義姉さんから……」
反射的にそう反復したものの、あとの言葉に詰まった。「任せておけ」とばかりに大啖呵を切っておきながら、舌の根もかわかぬうちにこの体たらくだ。母親が非難めいて言うのも無理はない。しかし、俺はこの件で彼らのやりかたを認めたつもりはないから、義姉さんの余計な電話は傍迷惑なことだった。
「まあ、仏壇をどこで祀るかで、そないに拘ることもないとおもうがなあ」
出鼻を挫かれかけて、俺の意気込みも鈍りがちだ。それにしても母親が、いまもって仏壇の引き取りを頑なに拒むのが解せなかった。ところが、この他人事みたいな俺の呟きが母親をさらに激高させる結果になった。
「あんたらでお仏壇を守ったら。私はもう、ようついて行かんからね」
「おかん、ええ歳をして、何をしょうもない駄々こねてんねん」
これやから女は意地を張り出すと始末がわるい。俺は困ったものだと云わんばかりに考え込むふりをして、胸のポケットからたばこを取り出して火をつけた。義父の座っている傍まで行き、畳のうえに置かれた灰皿のまえにうんこ座りで屈んだ。そんな仕草の間合いにも折り合うべき知恵をしぼってみたが、これと言った名案は浮かびようもない。
「駄々やない。私は本気なんや。進、私はあんたの云うことは初めから当てにしてへん。どうせ俊郎さんや淑子さんに言いくるめられてくるのは判ってたんや」
俺に対する母親の言い方は、いつになくきつかった。
「バアさん、わしから五百万もむしり取りよったんや」
ぼそりと義父が言い、続けて「えげつないやっちゃあ」と染みぼくろだらけの顔を歪めた。
「そちらが遊びにつぎ込んだおカネや、子供らに出してやったおカネに比べたら、五百万なんて慰謝料にしたら少なすぎますよ」
義父はまだそないカネを持っているのかと感心したが、同時に母親が慰謝料と言ったのには、唖然としてしまった。それに無趣味のはずの義父が、いったい何にそんなカネをつぎ込んだのかも気になった。いずれにせよなんちゅう喧嘩やと思い、これでは母親の説得どころではない。それにしても、これまで頑なに財布を握ってきた義父が、今になってすんなり大金を母親に渡した事も驚きだった。
「おかん、そんな大金を、よう義父に出させたもんやなあ」
義父のそばから、こんどはまんまと大金をせしめた母親のもとへ移動して、そばにあぐらをかいて座り込む。
「アホかいな、このひとが出すわけないやろ。十五年ほど前に蕗子さんの勧めで、一括払いの貯蓄型の保険をかけてたんや。それが丁度満期になっただけの話や」
話しながら母親はつと立ち上がり、タンスの小引き出しから扇子を取り出して、せわしく顔をあおいだ。
「体裁のええ事をぬかしおって、蕗子とバアさんの仕組んだ企みに乗せられたんや」
義父が呻いた。
「便宜上、保険の名義も受け取りも私にしてたんや。このひとが本気で私に呉れるものか。満期になったので蕗子さんが気を利かして、私の方へお金が入るように計ってくれたんや」
義父の悲痛ともいえる呻きなど、母親は意に介していなかった。
「それで満期になった保険金を、おかんが受け取ったいうわけか」
義父にしてみれば思わぬ不覚というものだろう。それにもまして女房の蕗子までが一枚噛んでいるとは。策士策に溺るというわけか。ぼつねんとしてその場に座る義父に、心なし同情の気持ちがわいた。
「あたりまえの事や。もともと小谷家の資産をもとに小金を貯めたんやで。このひとが俊郎さんや昇にお金を出してやっていても、私は進にも同じにしてやって呉れとはいっぺんも言うた事がなかったんや。遠慮して遠慮して、子供のあんたにまで……かわいそうに遠慮させてきたんや」
母親は次第に高ぶってきて、言葉を詰まらし涙ぐんだ。
「もうそんな古いこと、言わんでもええがな。おとんには育てて貰うた恩を感じてるし、今さら何も思てへん」
事実、俺は母親が言うほどそれらの事柄を妬む気持ちもなかったし、これまでそのことで義父のことを、どうこう思ったりしたこともない。親子と云えども血の繋がりのないのはそういうものだと、子供の時から憎らしいくらいに達観していたように思う。だからたまに義父が俊郎と一緒に俺も遊びに連れて行くとか、何かを買ってくれる事があっても、戸惑いが先に立って気持ちとはうらはらに、素直に喜びを態度に表すことができなかったものだ。
義父にしてみれば、そんなところが子供らしくない可愛げのない奴と映っていたように思われる。それは多分に母親の云うところの、義理の関係における遠慮の表れであったに違いなかった。
まだ小学生の頃だったか、参考書を買うという俊郎と共に義父に連れられて書店へ行き、少年雑誌を買って貰ったことがある。家に帰ると母親は、俺の手にしている雑誌を見るなり「この子は俊郎ちゃんに比べ、幼稚やから」と何度も義父に言い訳をした。それを聞きながら、雑誌を買って貰ったことを酷く後悔したものだった。仏頂面をしている俺を見て義父は「いらんのなら捨ててしまえ」と怒鳴ったものだ。
あのとき、義父はひょっとして俺に当てつけながら、実は母親に対して怒っていたのではないのか。そんな母親の気を遣いすぎる遠慮に、かえって憤懣をつのらせていたのではないのか。
突然チャイムが鳴り、母親が待っていたかに「あ、来たわ」と言って立ち上がった。慌ただしく玄関へ出て行き、一言二言話す声がしたかと思うとすぐにまた戻って来た。
「進、タクシーが来たから荷物を持っておまえもついて来るんや」
母親は義父をまるで無視して、俺に命令した。
「おかん、ほんまに出て行く気なんか」
狼狽える俺に母親は「待たしているのに、さっさとせな」と急かして自分は手提げひとつを下げて玄関に向かった。義父はと見ると、憮然として同じ場所に座ったままだ。予期しない状況の急展開に、俺は思考が空回りした。
「おとん、どないするねん。落ち着いている場合やないやろ」
「ほっとけ、俊郎に言いつけたる。恩を忘れやがって」
俺に怒ってどうするのや。はよ行っておかんを引き止めなあかんやろ。気持ちが動転しながらも、なお動こうとしない義父に苛立った。
「進、早うせんかいな」
もう表に出ているのか母親の呼びつける声に急かされて、足もとのボストンバッグと紙袋を持ち玄関に向かった。来たときに下駄箱のうえに置いたままだった手土産の今川焼きに気付き、手に取ると再び居間にとって返し義父の前に置いた。座ったまま睨み上げる義父の視線に目を逸らせて、ふたたび母親を追って表に飛び出した。
すでに階段を下りかけていた母親は、俺の顔を見て「愚図い子やなあ」と叱った。それを聞き流して黙ったまま母親のあとに続くと、階段を下り切ったところでタクシーが横付で止まっている。
車の外に出て屈伸運動を行っていた運転手は、階段を下りてきたこちらの姿を見ると急いでドアを開け「お早うございます」と愛想よく迎えた。さらに俺の両手に提げた荷物に目をやると素早く後部のトランクを開け、手から受け取った荷物を手際よく積み込む。その何秒間かの間に、自分が立つ真上三階の窓を見上げた。思いこみでなければ、たしかに義父の影がガラス窓の向こうでこちらをじっと見下ろしている。
母親はさっさと先に乗り込み、シートに身を預けながら俺にも乗るように促した。躊躇している間もなく、取り合えず言われるままにタクシーに乗ることにした。それに母親がどこへ行こうとしているのか、見極めておく必要もあった。
タクシーが走り出すと母親は、最寄りの電車の駅まで運転手に行き先を告げた。
「おかん、これは一体どう云うつもりやねん」
早速、母親の真意を確かめずにはおれなかった。
「家を出るんやんか。あのひとにはもう充分つくしたもんなあ」
「おかん、なんぼなんでもいきなり無茶やで。おかんはそれでようても、おとんがかわいそうやがな」
戦後の混乱期を経て、高度経済成長期を必死で働いてきた腕のいい溶接工の老後としては、あまりにも理不尽過ぎるではないか。いくらなんでも、こんな行動に出る母親の態度を容認できかねた。
「なんもいきなりやあらへん。私はこれまでずっと我慢に我慢をかさねてきてたんや。あんたにはそんなことちっとも判ってないやろ」
母親は言いながらこっちの顔は見ずに、顔を前に突き出すようにして後方へと流れ去る風景を見つめたままだ。母親の苦労は、充分すぎるくらいに承知しているつもりだ。それを勘定に入れても家出というその行動は、どう考えても理解しがたい。
「おかん、家出をしてこれからどうするつもりや。これからの暮らしのことは考えているんか」
「進も、あのひとと考えることは変わらんねえ。あのひとの傍を離れて、私だけで食べていけるのか心配してるんやろ」
母親はそう言って初めてこちらに顔を向けた。目元が笑い、余裕さえ感じさせる母親の態度だ。
「けど実際におとんから五百万取ったとしても、そんなカネ使い始めたら二、三年もしたらパーやろ。おとんの年金で生活してて、おとんが死ぬのん待ってた方がええやろな」
義父から小金をせしめたから、多分に母親は気が大きくなっているのだろう。この先、二十年近くは生きるであろう母親を思うと、嘆息をついてシートに凭れた。
「偉そうに言うても、あんたは何も判ってへんのや。あのひとのお金を取ったんやない、本当やったら進、あんたの資産なんや。それが判ってるからあのひとは何も言われへんのや。それにこのお金は蕗子さんに渡すつもりや」
母親はこちらの表情をチラと見て言い、
「自分の食べるだけやったら私にも年金があるから、進に少し助けてもらうだけでええ」
母親はそう言うとくちをとじて、再び前方を睨んだ。思えば昇が中学生になった頃から、母親は石油会社に勤め始めた記憶がある。六十歳を過ぎてもそのままパートで勤めを続けたくらいだから、義父と再婚するまでや娘時代の勤め分をいれれば、ざっと二十五年以上は勤めている勘定になる。それにしても、そんなに強気になれるほどの年金額ではないだろうにと、俺は考え込んでしまった。
「おかん、おとんに見せしめでやっているんやったらもう充分や。引き返して戻ろうな」
思い付きでパフォーマンスをやらかしたに過ぎないのなら、と思い、母親に翻意をうながした。
「冗談と違うで進、私は本気やで」
母親は前を見つめたままで言い、その横顔がいつになく爽やかに見える。一体どこへ行くつもりなのか。問おうとしたらタクシーは丁度駅に着いた。
母親は黙って二枚買った切符の一枚を俺に渡し、先に立って改札を通り抜けて行った。両手にボストンバッグと紙袋を提げ、焦りながら自動改札機をすりぬけて後を追う。母親は後も見ずにどんどんと先を行き、追いつくとホームに差し込む日なたのなかで佇み、向かい側のホームで電車を待つ人々を眺めている。
「今から、あんたの家へ行くのや」
突然に母親が言ったが、そこえ電車が到着したために話は中断を余儀なくされて、母親についてあとから車内へ乗り込んだ。休日ながら都心へ向かう人で車内は混んでいて、どうにか母親を座らせるとその膝に紙袋を預け、まえに立ちはだかる格好でつり革を持った。これではとても会話どころではない。俺は漠然と車窓に流れる光景を眺め、母親は俺の股間のあたりに視線を止めたままだ。
あんたの家へ行くのや。母親が言った先ほどの言葉が、ひどく気になった。胸ポケットに入れた切符を取り出し確認すると、たしかにその料金だ。これは困ったことになるぞと思った。女房の顔がだぶり始めた。母親にこんな形でいきなり来られると、女房との一波乱は目に見えている。頭のなかはすでに分解し始めていた。
電車を降りてからも先に立って歩く母親は、遅れ気味にあとを追う俺を振り返り「タクシーで行こう」と声をかけ、タクシー乗り場へ向かった。駅から自宅までは徒歩で十分位だ。母親を歩かせるわけにもいかないから、俺はバスに乗ることしか頭になかった。それに両手に荷物を提げて歩くのも億劫ではあるが、この距離でタクシーは勿体ない。
「何をしているんや、早う乗らな」
躊躇している俺に母親はそう言い、ドアを開けて客待ちしているタクシーに乗り込んでしまった。あとを追って乗り込んだものの、運転手が気を利かせてトランクを開けてくれず、膝のうえにボストンバッグと紙袋を重ねた。窮屈な姿勢をとりながら何もそんなに急がなくても、そう思ったが、結局のところ気持ちが自宅へ帰るのを嫌がっているのだった。
「進、あんたとうに蕗子さんから放かされてるのを、私が間に入ってやったんやで。感謝せな」
不意に母親が言った。押しかけて来た母親の事を、どう女房に取りなせばいいのか。その事で頭がいっぱいなのにいきなり妙な話を切り出され、一瞬意味が判らずぽかんとした。
「蕗子さんはあんたと別れたい云うて、私に相談してくれはったんや。蕗子さんは私とは気がよう合うから、そんな悩みも遠慮せんとうち明けてくれるのや」
タクシーが急に曲がったために、母親は勢いよく俺の体に凭れかかり、俺は窓際に押しやられながら母親を支えた。
「蕗子が俺と別れたいて、ほんまにあいつが言いよったんか」
「もう大分まえから思い悩んでいたらしいんや。この頃はあんたと顔を合わすのも気が滅入るらしい。それで思い切って別れたい。いうてなあ」
嘘や、女房が本気で離婚を考えていたやて信じられん。たしかに諍い事はしょっちゅうだが、たいがい女房の一方的なヒステリーが原因だし、給料は振り込みだから否応なしに女房が握っている。夫婦生活だってもう一年近く疎遠だが、女房に無理矢理挑んだりしない。俺はそれらに甘んじているし、世間一般の夫婦もこれくらいになると総体に似たり寄ったりではないのかと思っている。
「進、私はあんたには親として、何もようしてやれなんだかわいそうな子や。せめて夫婦別れだけはさせたらあかん思うて」
母親は言い含める調子で話した。こんな話は格好悪くて、運転手にも聴かれたくない。ルームミラーを盗み見た。運転手は妙にくそ真面目な顔でハンドルを握っていたが、それが却って耳をそばだてているかに思えて黙ってしまった。
土曜日のためか団地内の植え込みの中や、広場には結構人影があった。両手に大きなボストンバッグと紙袋を提げた格好は、人目を気にして気持ちが引けた。子供たちの喚声が騒がしい広場を横切り、朝夕通り慣れた場所ながら目を伏せ、母親の背中に隠れるようにして歩く。
自宅の前まで来て手に提げたボストンバッグを一旦通路に置き、鍵を取り出そうとしたところが、後について来た母親は俺の前にまわると手提げから鍵を取り出し、手慣れた仕草でドアを開けた。
「蕗子さんから鍵を預かってるのや」
母親は俺を振り向いて微笑み、玄関に入ると自宅なみの気軽さで履き物を脱いで上がって行った。なかへ入ると母親は手提げをダイニングのテーブルの上に置き、一息つく間もなくガラス戸を開けてベランダに出た。呆気にとられて眺めるしかない俺を、気にかける様子もない。女房がスーパーの出店で買って来て並べてある幾つかの鉢植えの花に水をやりながら、時には屈んで何かを呟きつつ丹念に見入ったりしている。一体どうなっているのか。来るなり我が家の如く振る舞う母親に、合点がいかぬまま荷物をダイニングの床に置き、椅子にかけると所在なくテレビをつけて見入った。
ひとしきりベランダで鉢植えを見ていた母親は、再び入って来ると、いつもは女房の席である俺の向かい合わせの椅子にかけた。
「進、あんた蕗子さんと話し合うことてあるんか」
母親は俺の傍からリモコンを手に取りテレビを消すと、夫婦間のことを尋ねた。問い質す調子だった。
「仏壇のことなら、夕べも話し合うたがな」
だから話をしに行ったんやないか。それなのにまったくひとを無視して、ここへ乗り込んできたんはおかんの方やろ。これで女房が戻ってきたらまた悶着の種が増えることになって、想像するだけで胃が痛とうなる。母親の勝手気儘な行動が、半ば恨めしかった。
「仏壇のことはどうでもええんや。普段からいろんな相談ごととか、由美のこととか、そんな話はせえへんのかと聞いてるのや」
母親はそう言って俺の顔をじっと見た。仏壇の事はどうでもええやて、そもそも騒動の発端はおかんが仏壇の引き取りを拒んだからやないか。家出までしてきてそれはないやろ。あまりの身勝手さに呆れて言葉が出ない。
「蕗子さんが言うにはなあ、もうお互いが気持ちも通じ合わん。私ら夫婦はもう、終わってしまっている、いうことや」
「おかん、蕗子がどう言うたか知らんけど、必要な事はちゃんと話し合うてるがな」
会話がないとか、冷めたとか、女房の奴もよう言うもんや。二十年も経ったらどこの夫婦でもこんなもんやろ。そういう女房もたまにする話ときたら、保険の顧客であるどこそこの会社の課長がどうの、新入社員の誰々君は可愛いのと、仕事先の男どもの話題ばかりではないか。それに夫婦間の内情を、いちいち告げ口して母親を心配させるとは、女房のやり方に少なからず腹立ちをおぼえた。
「ご飯を食べる時、進がお箸で鉢を引き寄せる癖を見ただけでも、蕗子さんは鳥肌が立つくらい嫌なんやて。もう離婚するしかない思てるのや」
母親はため息をついて立ち、食器棚からカップと紅茶の入れ物を取り出した。紅茶のパックを入れたカップに、テーブルに備え付けの湯沸かしポットの湯を注ぎ、袋戸棚から角砂糖まで出して入れた。
あまりに勝手を知りすぎた母親の立ち居振る舞いからして、俺の留守に頻繁にここへ来ているのかも知れない。それにしてもたかが飯を食うときの癖を捉えて鳥肌が立つのどうのと、離婚にまで結びつけるとは短絡過ぎる。まともに取り合うのもばかばかしい気がした。
「おかん、蕗子がどんな話をしたか知らんがそんな些細なこと、大層に言うことやないがな。話し合うたら解決する問題や」
「その癖が嫌で、結婚してからずっとあんたに言い続けてきたんやと。けどな進、問題はそれだけと違うやろ。よう聞きや。そんな些細なこれまでの行いの積み立てが、蕗子さんをここまで追いつめたんやないのか」
母親は、有無を言わさぬ目つきで俺を諭した。
「おかん、俺が蕗子を追いつめたて、そらえらい誤解や。自慢やないけど、俺はあいつに自分の意見を押しつけた事もない。それどころかうちでは、家のきりもりは全部蕗子に任せてるのや」
女房の話だけを聞いて非難する母親に、黙っている訳にはいかなかった。俺自身は恐妻家とまでも思わないが、我が家において、全てを取り仕切るのはやはり女房なのだ。それからしても女房が俺に追いつめられたなどとは、考えられないことだ。
「ほんまに何も判ってへんのやなあ。そういう当たり障りのない、八方美人の優柔不断さが進の一番の欠点なんや。男は一本芯の通ったところがなかったらあかん。蕗子さんの言うのが判るわ」
よう言うてくれるわ。俺はただ女房の好きなようにすればいいと思い、干渉しなかっただけや。そういう女房も、俺の靴下に穴が空いていても知らん顔してるやないか。お互いそれを言い出すときりがない。母親が入れた紅茶をすすったが、あまり好きでないため旨くはなかった。
なんで母親から、夫婦の別れ話まで持ち出されないかんのや。問題は仏壇をどうするかと違うのか。話しているうちに、どっと疲れを感じた。それなら一体、どうしろというのか。
「しばらく別居したらええ。蕗子さんに家を出て行かれる前に、進、先にあんたが一旦家を出るのや」
いきなり何やねん。淡々と述べる母親の顔を、ただ吃驚して見つめた。なんで俺が家を出なあかんのや。それに女房がそこまで深刻に悩んでいるとはとても思えない。
「おかん、俺らを夫婦別れさせたいのか」
それが親の立場で言う事か。抗議の意味合いを込めて、強い調子で母親に言った。
「夫婦別れさせんように言うてるのや。進、よう考えてみいや。蕗子さんに出て行かれたら、もうその歳であと来てくれるひと居てないでえ。それに由美の事も考えたらな」
母親から由美の事を持ち出されると、妙に説得されるものがあった。お互いが別れてから再婚すれば、娘の由美はどちら側につこうと片方は義理の親という事になる。継母や継父とかは俺だけで充分や。娘には絶対にそんな境遇にさせてはならない。母親の一言が、改めて俺の父親としての自覚を呼び起こす。
「私はなあ、何も俊郎さんところのお仏壇を引き取るのが嫌やからとか、あのひとに愛想がつきたからとか、それだけで家を出るのと違う。これでもあんたを夫婦別れさせんようにと、一生懸命考えてのことや」
母親の意外な一言は、俺を神妙な気持ちにさせた。
「私がここへ来る代わりに、進、あんたが暫く向こうに行くのや」
「おかん、俺におとんと暮らせいうのか」
ふたたび、突拍子もない母親の言葉に戸惑う。
「そうや、いっときの別居には一番都合のよい方法やろ。何時でも戻って来れるし、往き来も出来る。いずれ又もとの鞘に収まるやろ」
説き伏せたと思ったのか、母親は安堵めいた微笑みを浮かべた。しかし俺は母親の言うことには半信半疑だった。そんな母親の思惑どおりに事が運ぶとも思えない。第一、女房が本気で別れたがっているとも思えない。時に情緒不安定に陥ったりするから、その時々で母親に何を喋っているとも知れない。が、それでも二十年間ともに暮らした夫婦の絆を信じたい。
玄関のドアが開く音がして、女房が帰ってきた。とたんに部屋の空気が騒立つ。ダイニングに入って来た女房は手に提げたスーパーのビニール袋をテーブルに置くや、ふたりを見て「ただいま」と言っただけで慌ただしく便所に駆け込んだ。時計を見るともう二時近くで、とっくに昼を過ている。
「お母さん、何か食べたん」
便所から出てきた女房は、一転してにこやかな顔で語りかける。母親がまだ何も食べてはいないと言うと「お腹空いたでしょう」と予期していたかに頷き「揚げたてのコロッケや」と袋から取り出した紙包みを、テーブルの上に広げた。「これ買うのんお店の前で行列やねん」と、女房は微笑みながら母親にはなしかける。
目の前にあるきつね色にふっくらと揚がった大きめのコロッケがいかにも旨そうに見え、にわかに空腹を感じたが、コロッケは二個しかない。たった二個などとケチくさい買い方をしやがって、腹の中で女房を非難したが、手を出すのを躊躇した。
「ちょっと、あんたにはこれ買うて来たったんや」
俺の物欲しげな顔を察してか、女房は別の小さな袋を取り出し俺に手渡した。なかを覗くとセロハンに包んだ握り飯が三個も入っている。なかのひとつは好物の焼き鱈子のにぎりやないか。ちゃんと亭主をたてて、好物の握り飯まで買ってくるとは。思わずジーンとなった。母親はあんなふうに言うけど、なんやかや言うても女房はちゃんと俺のことを愛してくれてるのや。見てみいな。おかか入りもあるし、もうなんや涙が出るわ。母親にこれ見よがしに握り飯を掴み、目の高さにまで持ってきてセロハンを剥がしにかかった。
「それ見切り品で、半額やったんや」
女房が悪びれる様子もなく言い、瞬間俺は固まってしまう。母親は笑いながら頷き、そのあと急に真顔になり、
「蕗子さん、進も賛成してくれたから、しばらくここでお世話になります」
そう言って女房に頭を下げた。一瞬からだ全体に緊張が走り、反射的に女房の顔を窺った。
「あっそうなん。それでお母さん、お義父さんの方は大丈夫なん」
「この子が行くから大丈夫や。あのひともちょっとは、不自由したらええのや」
ふたりの会話は、俺の全く予期しない穏やかな雰囲気だ。女房にしても驚くどころか、全部を承知しているふうだ。そういえば部屋に入って来たときにも、母親が来ているのに別段意外な顔もしなかった。
「あんた、当座の着替えを持って行きよ。他はそのつどにまた取りに来たらええから」
「ちょっと待ってくれ。そんな二重所帯したら俺はどうなるんや」
母親を引き取り四人所帯ならなんとか成り立つが、別所帯で義父まで養うのは俺と女房の所得を合わせても無駄が多過ぎる。
「心配せんかてお義父さんには年金があるし、いままで通りうちへ給料入れてくれてたらええねん」
女房が言った。あのなあ、どこにそんなアホな話がある。家から追い出された挙げ句に、ただ家族のために働くだけか。それはないやろ。考えたら、俺は体よくふたりにハメられてんのやないか。
「いまの進には、これが一番ええ方法なんや。辛抱せな」
俺を見る母親の目が、物わかりの悪い奴とばかりに叱りつけた。給料が振り込まれる預金口座は女房の手中にある。これでは手の出しようもなく、当面は泣き寝入りするしかない。
「俺の小遣いは、ちゃんとくれるんやろなあ」
どっちみちすぐにまた元に戻るやろ。こんなけったいな暮らしが続くはずがない。それでも小遣いだけは確保しておく必要がある。
「まあ、考えとくわ」
女房は憎たらしいほど平然としている。
「通勤が近うなったら、もうあの車はいらんやろ」
何か交換条件めいて嫌な気がしたが、せめてもの腹いせに女房が乗っている車ぐらいはこちらのものにしておかねばと思った。
「なに言うてるの。あんたあの車を乗り回す甲斐性あるんかいな」
母親を目の前において女房の当てつけがましい言いぐさに、亭主の立場などない。二年前にいまのクラウンに買い換えた時、女だてらにこんなごつい車に乗らんでもと茶化したのを覚えていて、その仕返しのつもりなのだろう。実際のところ俺には維持だけでも手にあまる代物で、あっけなく女房の軍門に降るしかなかい。
そのあと女房と母親はすでに約束していたのか、今夜、近くの市民ホールで行われる演歌歌手のリサイタルへ出かける話になった。手回しよく女房がチケットを手に入れていたとみえ、夜の部だから夕方早めに出かけて外で夕飯を食おうとか、女房も母親も機嫌よく喋っている。俺ひとりが無視された形で、ふたりの会話から弾き出されていた。
半分ふてくされて居座っていたものの、夕方近くになって女房と母親が出かけるのを機に、追い出される格好で義父のところへ向かった。
昼間に母親のところから提げて来たボストンバッグに、こんどは俺の着替えが詰まっていた。なんで俺が家から追い出されて、義父と暮らさないかんのか。元はといえば俊郎とこが、くだらん事を言い始めたからだ。あそこが厄いのもとやないか。歩きながら考えれば考えるほどに、理不尽なとばっちりをうけてしまった事が腹立たしかった。
翌朝、鳴り続ける枕元の電話に起こされ、未だ完全に眠りから覚めやらぬ意識のまま手探りで受話器を掴み取った。淑子義姉さんからだった。「進やけど」と自分の名を告げながら、掛け布団をはね除けあぐらをかいた。
「あら進さん、こんな朝早くからどうしたん」
義姉さんは電話口に俺が出たことをちょっと驚いて見せ、意外そうに訊ねた。昨日の母親の家出から、母親と女房から別居を言い渡され、今ここにいるまでの顛末をかいつまんで説明した。
「飯を食うときに、箸で総菜や漬け物の鉢を引き寄せる俺の癖が嫌で別れるのどうの言いやがって、もうアホくさて話にもならんわ」
「女は一旦嫌だと思ってしまうと、相手がくしゃみをしても鳥肌が立つくらい嫌やになるからねえ」
女房に対する憤懣をぶちまける俺に、義姉さんは同情するどころかまったく他人ごとみたいに言い「いま、うちのが昭夫とともに、仏壇をそちらへ持って出たから」と言った。こんな朝っぱらからと思いつつ、茶箪笥の上の置き時計に目をやれば、すでに十時を少しまわっている。
「義姉さんはどうして来ないんや。そのためにおかんが出ていったんやで。来ておとんに詫びへんのか」
彼女は俺の問いかけに、戸惑ったのか沈黙した。あんたらの勝手な都合で、こっちまでとばっちりを受けているのやないか。思わずそう言って悪態をついてやりたかったが、言うだけの度胸がなかった。
「いつも進さんには間に入ってもらってほんとに感謝してるんよ。そのうちかためてお返しするわ。きっと」
彼女は「きっと」を強調して電話を切った。何がきっとや、手に持つ受話器を睨み付けて腹の中で義姉さんに毒づいた。
枕元に電話機など置いた覚えはないが、ここが自分の家でないことを改めて認識して起きあがった。昨夜はなかば自棄っぱちで飲み、その証拠がダイニングへ行くとテーブルの上に並んでいた。三五〇ミリのビールの空き缶が六本ばかり、ベランダから差し込む日差しに白っぽく反射している。
先程から呻きに似た声が耳を煩わし、義父が謡を口ずさんでいるのだ。どうも便所のなかで、用を足しながら唸っているらしい。職場の同好会で覚えて以来、時々思い出したふうに口ずさむ義父の謡曲を耳にするのは久し振りだった。しかし、その喉から無理に絞り出す声はどうにかならないものか。朝からこんなものを聴かされて、母親はよくも我慢が出来たものだ。目覚めてからの気分の悪さもあって、不快感がつのり、それに尿意も催してきた。便所の前に立ちノックをするが唸り声は一向に止まない。数回ノックを繰り返したのち、耐えきれずにノブに手をかけるとドアを開けた。なんと義父は便座にかけたまま姿勢を正し、謡に没頭している。
「いい加減にしてや」と一声怒鳴り、ドアを閉めて義父の出てくるのを待った。便所から出てきた義父は「クソもゆっくりできんのか」と毒づいた。
長年連れ添った女房が家を出て行ったというのに、よくも呑気に謡など唸る気になれるもんだ。母親が言う義父の遊びとは、もしやこれなのか。こんなものにそんな大金をつぎこんだのか。
「進、腹が減った。朝飯はまだか」
便所から出てくると、ダイニングの椅子にかけている義父が言った。俺はあんたの世話をしに来たんと違う。とムッとする。
「おとん、おかんが出て行ったいうのに、ようそないに落ち着いて居られるなあ」
「出て行くの何のいうて、蕗子とふたりで示し合わせて一芝居打っとるつもりやろ。そのうち飽きてじきに戻って来よる」
俺の嫌みにも義父は背筋をややうしろへ反らせ、動じるふうもない。一見悠然とした態度は、女房子供ごときに振り回されるのを由としない、この年代の男たちに共通する虚勢に見える。
先ほど淑子義姉さんから電話があって、もうすぐ俊郎が仏壇を運んで来ると伝えると「そうか」と頷き、自分は耳が遠いから寝ているおまえの枕元へ電話機を置いておいたと言った。
「進、その前に朝メシや。朝はパンと牛乳でええ」
うるさい年寄りだ。台所のそこらを物色したがパンはおろか、冷蔵庫のなかには飲みかけのウーロン茶のボトルと缶ビール以外ほとんど何も入っていない。辛うじてあったパック入りのハムと卵は昨夜俺がビールのアテに食ってしまっていた。母親も少しは買いだめをしておけばいいのに、と腹の中で愚痴ってみる。
「おとん、何にもないから、ウーロン茶でも飲むか」
冷蔵庫から取り出したペットボトルのウーロン茶を、コップになみなみと注いだのを一息に飲み干し、義父にも勧めた。しかし義父は「朝はパンと牛乳や」と譲らない。
「買いに行ったるから、カネを出してや」
傍に立って目の前に掌を突き出すと、義父は一瞬呆気にとられた顔で俺を見上げ「馬鹿野郎」と怒鳴った。
「男がこせこせと、たかがパン代ぐらいをせびるな。ケツの穴が小さ過ぎる。そんなんやからおまえはいつまでたってもあかんのや」
義父は本気で腹を立てたのか、顔を赤くして目をむいた。
「そんな約束と違う。これからはおとんも生活費出してくれなあかんのや。おかんが出て行ったんは誰のせいやねん」
喧嘩は最初にしておかねば、とばかりにこっちも応酬した。義父は憮然として胴巻きからがまぐちを取り出し、百円硬貨を三枚ばかり俺の掌に落とした。それでは俺の分も買えないと言うと、先に出した三百円を取り上げ、代わりに千円札を出した。そのあと「昭夫が来るなら、ついでにコーラを買って来てやってくれ」と言い、残りの釣り銭をちゃんと返すようにも言い忘れなかった。
義父から渡された千円札を握りしめ、団地の外れにあるミニショップに向かった。この辺りにはコンビニもない。それでもずっと以前には小規模ながらマーケットもあったが、いまは八百屋とパン屋と兼ねあわせた店に、再来軒という昔からあるちっぽけな中華料理店があるのみだ。
それにしても、いつもああやって胴巻きに現金から通帳まで肌身離さずに持っていられたら、母親とても義父の財テクのほどを知ることは至難の事だったろう。歩きながら考えるほどにこれから先、義父との暮らしが思いやられた。
パンと牛乳の入った袋を提げ店を出て、再び団地内へ通じる道路を歩き始めた時、前方に奇妙な光景を目撃して思わず足を止めた。車椅子がこちらに向かって来る。車椅子には老人が乗せられているのだが、異常なのは押し手の姿が見えないのだ。この道は団地の敷地内まで乗り入れている路線バスが通る道で、高台にある団地の入口からは、駅前までなだらかな下りの坂が続く。その下りの勾配を押し手のいない車椅子だけが、ゆるゆるとこちらに向かって来る。
目の前の信じられない光景に戦慄した。車椅子は惰力がつき見た目より速く転がっている。五、六歩踏み出し叫びながら夢中で車椅子を受け止めた時、その後方で路面にうつ伏せに倒れている人影を見た。
叫び声に気付いたのか、パン屋のおばさんと店内に居た主婦らしき客が表に飛び出して来た。パン屋のおばさんは倒れている人に駆け寄り「おばあちゃん。おばあちゃん」と呼びかけながら抱き起こした。もうひとりは車椅子の老人に「おじいちゃん、大丈夫?」とのぞき込んで声をかけている。ふたりはこの老人たちを見知っているらしい。
道端に投げ捨てていたパンの袋を拾い上げると、あとはこのふたりに任せたとばかりにそこを離れようとした。その時、耳にした主婦の言葉に、改めて老人の顔を見直した。主婦は「宗方のおじいちゃん」と言ったのだ。パン屋のおばさんと主婦の話から、このふたりの老人が晋一君の両親だと知り絶句した。
晋一君の親父さんはたしか義父よりは五歳くらい若い筈で、子供の頃悪戯をしてはよく叱られたものだ。悪童たちには結構怖い存在でもあった。それが「おっちゃん、大沢の家の進や」何度も呼びかける俺の顔を見つめて表情がない。嘘やろ。かつてこの団地の自治会長まで務めていたあの親父さんが、二十年近く殆ど顔を合わせなかったものの、こんなにも早く老いるやなんて。
おばさんの方はよく覚えていてくれた。晋一君のお母さんは手作りのおやつを作るのが得意で、子供のころよく手作りの蒸し饅頭などを貰って食った記憶があった。
「進ちゃんかあ。長いこと見んかったら立派になって」
言われた俺が赤面してしまうことを、大層懐かしげに言った。パン屋に行くつもりが躓き、転んだ拍子に手が離れて車椅子だけが転がったらしい。
代金を受け取ったパン屋のおばさんが店に戻り、パンの袋を持ってきて宗方さんのおばさんに釣り銭と共に渡した。「おばあちゃん。危ないから車椅子を押して道路に出たらだめよ」と主婦が諭している。車椅子を押してやり団地内まで戻ったところで、もう少し散歩を続けると宗方さんのおばさんは言い、何度も礼を言って俺の持つ車椅子の把手を代わって持った。
背中をまるめて車椅子を押して行くおばさんの後ろ姿を眺めて、ああなったら親父さんは一刻も早く死んでやるべきや、と不謹慎な事を思ってしまう。
そのあと隣の6棟に住むというこの主婦から、宗方さんのおばさんは休日に親父さんを乗せた車椅子を押して、よく団地の敷地内を散歩させていると聞いた。晋一君の居るときでなければ、車椅子を階段から下ろせないためだとも言った。
さらに話すうちにこちらが晋一君を知っているとわかると、主婦は意外な事をくちにした。彼の奥さんが小学生の子供ふたりを置いて、半年もまえに家を出てしまったきりだというのだ。
「あのおばちゃんが子供の面倒も見てはり、もう大変よ。けどこの頃おじいちゃんの方は介護施設の車が時々送り迎えに来ているのを見かけるから、ショートステイに行ってはるみたい」
俺は言葉も出ず、ただ聞き入った。
「奥さんもだいぶ辛抱して頑張ってはったみたいやけど、疲れ切りはったんやろねえ」
主婦の喋りはとめどがなく、頃合いを見計らって退散した。
袋を放り投げた際に牛乳パックが破れたらしく袋の中はしみ出た牛乳で濡れていたため、帰りつくと義父に今しがたの出来事を話した。義父は宗方さんの親父さんはパーキンソン病で歩くこともままならない状態だと言い「あないに早う弱るとはなあ」としんみりと言った。そのあと晋一君の事を「あれも運のない男や」と呟くのには、思わずこっちがしんみり頷いた。
朝食を終えてそのままダイニングで朝刊に見入っていると、チャイムが鳴った。応対に出る暇もなく勝手にドアが開けられて、段ボールの箱を抱えた俊郎がずかずかと部屋に上がり込んで来た。そのあとからビニール袋を提げた昭夫がのそっと顔を見せた。俊郎は義父に仏壇の置き場所を訊ね、そのあとは息子の昭夫とふたりして座敷の茶箪笥を動かして場所をこしらえ出した。義父もダイニングから出て来て、あれこれとふたりに指図をした。小柄で機敏な俊郎に比べ、背が高くて大柄の昭夫は義姉さん似の甘い顔立ちだが、動作はふたりに似あわずおっとりとしている。彼らは階下に止めた車から、仏壇をふたりがかりで運び込み所定の場所に安置した。
「お寺さんに来てもろて、経をあげてもらうのがほんまやけど」
義父は言いながら、そのなかへ神妙な手つきで位牌を収めた。俊郎は持ってきた段ボール箱から供え物の菓子、仏花を取り出して供えた。三人はそれらの作業を自分たちだけで行い、はたで傍観する俺には手伝ってくれなどと一切言わなかった。彼らは血の繋がっていない俺には、関係のない事だと割り切っているのだろう。
すべてを終えて皆がダイニングに集まり椅子にかけると「丁度ええ時間や飯にしようや」俊郎は言いながら、昭夫が提げて来てテーブルの上に置いたビニール袋を開けた。
「来る途中に淑子が、進が来てる言うて電話をかけてきよってなあ。どうせ飯も食うてないやろ思うて、弁当を買うてきたんや」
俊郎は初めて面と向かって俺に話しかけた。義姉さんは俺に電話をかけてきたあと、すぐに俊郎の携帯電話にかけたのだろう。目の前の弁当にしても、きっと彼女の気配りに違いない。
義父が冷蔵庫からコーラを取り出して昭夫に渡してやり、続けて缶ビールを取り出して各自のまえに置いた。めいめいがそれを手に取り缶のプルトップを引き上げると、俊郎の音頭で「お疲れさん」と目の高さに缶を持ち上げた。俊郎は自分らのぶんまで弁当を買ってきていて、袋から取り出した弁当をそれぞれのまえに配った。
早速みんな弁当を広げて食い始めた。俺はつい一時間ばかり前に喰ったパンが、まだ胃に溜まっていて食欲が起こらない。義父を見ると談笑しつつ、おなじように弁当をつついている。歳のわりに食欲だけは旺盛だ。それにつけても俊郎が来るまでは椅子にかけたきり俺に命令するだけで動こうともしなかった義父が、いそいそとして彼らの世話を妬くのには開いた口が塞がらない。
「進、おまえのことを淑子が心配しとるんや。歳を考えな、あんまり無茶をしたらあかんど」
俊郎はテーブルの隅に置かれた、ビールの空き缶に目を走らせて言った。余計なお世話だと思ったが、飲まねば居れない心境にさせてんのは誰やねんと内心毒づきたくなる。俊郎は俺のことを義姉さんが、真実味のある男だと何時も褒めていると見え透いた世辞を言った。そのあと「たしかに俺もそう思う」と付け加えた。それに目をほそめて頷く義父は、この場で見る限りはまったくの好々爺だ。一方、俺はといえば無理に愛想笑いで応じるものの、俊郎のそんな煽てにも鼻白む思いだった。
こ一時間ばかりかけて会食を終え、俊郎親子は帰ると言い出した。外まで見送りに出ると、階段を下り立った道路脇に止めていたいかにも若者趣向といった型の車の運転席に昭夫が座り、俊郎は助手席に乗り込んだ。これが義父が孫の昭夫に買ってやった車かと、複雑な面持ちで眺めていると、
「まあ、おまえも苦労があるやろが、それもまた人生や」
俊郎が窓から顔をつき出し、励ましのつもりなのか何なのか、わけの判らぬ事を言った。そのあといきなり手を差し伸べて俺の手を握り「親父を頼む」と、神妙な顔でちからを込めた。
宗方さんの晋一君が訪れて来たのは、その日の夕方だった。俺の顔を見るなり彼は昼間の車椅子の一件で、母親が助けて頂いてと何度も頭を下げて礼を言った。それから「こんなもの失礼だと思いますが母親がどうしてもと言うので」と、なにかひどく決まり悪そうにして手に提げた包みを差し出した。おばさん手作りのバラ寿司だということだ。
これで晩飯はキープ出来たと内心快哉を叫んだ。玄関での立ち話も何ですからと、なかば強引とも思える誘いで恐縮する彼をダイニングまで案内した。
「しばらくこちらに、戻ってますよってに頼みます」
お茶代わりに出した缶ビールのプルトップを引き上げ、缶をお互いに軽く当て合った。
「皆ろくな嫁を貰いよらん。これも追い出されて来よったんや」
話し声に誘われたのか居間にいたはずの義父がいきなり顔を覗かせて言ったものだから、ふたりは飲みかけたビールを吹き出しかけた。ろくな嫁で悪かったなあ。そういうあんたも女房に見限られたんやろ。自分のことを棚にあげて言う義父を滑稽にも思ったが、晋一君は大層驚いたらしくて、
「えっ、進さんも」
俺の顔を見つめて絶句した。彼のこの一言が、たまに居酒屋で会うだけの疎遠だったお互いの垣根を取り払い、ともに遊んだ少年期の親密さを蘇らせた。
「恥ずかしながらそういうこっちゃ」
同病相憐れむの例えで、こうなればうち解けるのも早い。もっとも、彼の話は俺なんかよりもずっと壮絶だった。父親が倒れた三年まえに介護を老母に任せておけないと、それまで住んでいた都心近くの住居から、この団地に近い駅前の賃貸マンションに越して来たという。
彼の奥さんは毎日この団地まで通い、父親の介護と老母の手助けに買い物から病院の送り迎えなど、懸命にやってくれてたらしい。
「恨んだ事はない言うたら嘘になるけど、あいつには今でもすまんかったと思てるねん」
晋一君はそう言うと、手の甲で瞼を押さえた。いま彼を慰めるどんな言葉が俺にあるというのか。晋一君の顔を見るのが辛くなり視線をそらせれば、義父もまたしきりに目をしばたいていた。
「ごめんな、昨日迷惑かけたのに知らん顔をしてしもて。子供のまえやし、なんや格好悪うてなあ」
座がしんみりとしてしまったのを気遣ってか、晋一君はそう言って笑ったが、彼に合わせてすぐには笑えなかった。
翌日、勤めからの帰途いつもの経路で電車を降り、市営団地の建物を宵闇のなかに見るところまで来て、初めて今日から実家の方へ帰るのかと気付いた。うっかりしていたのに違いないが、ここまで来て踵を返すのも癪だとそのまま自宅に向かった。
ドアのまえに立ち、女房が出てきたらどう対応するかとちょっと気おくれした。だが、もともとここは俺の家だ。何も卑屈になることはないと勇気を奮い起こし、それでも女房が居ない事を祈る気持ちでチャイムを押した。
なかからドアを開けて顔を出したのは、案の定女房だった。いつもは帰りの遅い女房が、こんな時に限って居る。「あんた、帰って来たん」とさも案じていたふうな顔をしたため、ついホロリとして「おまえも元気そうやなあ」と、惚けたことを口走っていた。
「何か用なん」女房はそんな俺に、一転勝ち誇ったように突き放した言い方をした。亭主が自分の家に戻って来ているのに、それはないやろ。ムカッとしたが努めて気持ちを静め、
「あの、読みかけの本を忘れてたよってに」
とっさにお粗末な言い訳をすると、女房はあがれとも言わずに「ここで待ってて」と言い奥へ引っ込んだ。夕食の支度でもしていたのか前掛けで手を拭きながら母親が顔を出し「どうや」と言うから「どうもこうもないがな」としか応えられなかった。女房が机のうえに置きっぱなしにしておいた雑誌を持って来た。
「丁度ええわ。お母さん、野菜の天ぷらをお義父さんに持って帰ってもらいましょか」
女房が母親に言い、母親は頷くと再び奥へ引き込みしばらくして、スーパーの店名が刷り込まれたビニールの袋を提げて出て来た。
結局もうほとんど読んでしまっていた月刊雑誌と母親がくれた天ぷらの入った袋を提げて、本来は俺の自宅である筈の家をあとにして帰路についた。それにつけても女房の、あのよそよそしい応対はなんだ。上がりかまちに立ちはだかって、部屋へ上がらそうともしない。なんでこの俺が玄関払いをされなあかんのか。歩きながら腹立ちと情けなさとがシェークされた。
電車の駅まで来るには来たが、考えれば考えるほどにどうにも腹の虫がおさまらない。そのうち手に提げた天ぷらの袋にまで怒りがこみ上げてきて、くそっこんなもの。とばかりに目に付いたゴミ箱に袋ごとねじ込み僅かに溜飲をさげた。
自動改札機から一斉に吐き出されてくる人混みのなかに、娘の由美を見付けた。俺にはまったく気付かぬ様子で、まっすぐこちらへ向かって歩いて来る。目の前まで来たところで声をかけると「ワッ吃驚したわ。もう」と目を剥いて立ち止まった。父親の顔を見てそんなに驚く奴があるかと多少憤然としたものの、そういえばわが娘ながらじっくりとした会話は久しく交わした覚えがない。俄に父性に目覚めて一緒にメシでも食わないかと誘ってみると、今日はお祖母ちゃんの歓迎会だから駄目とつれない。急いで帰ってもどうせ野菜の天ぷらだぞ。と言いかけてよした。
「それより、こんど旅行に行く計画立ててバイトに励んでんやけど、目標にちょっとばかし距離があるねん。お父さん援助してや」
人の往来を気にするふうもなく、由美はものをねだる時にだけ見せる甘えた顔をむけた。その魂胆が判ってても叶えてやりたいのが親心だが、いま小遣いをねだられてもどうしようもない。それでも父親の体面をつくろうつもりでいくら足りないのか訊ねると、十万円もあればいいと事も無げに言う。「なにっ、十万…」思わず声高になり「何よ、驚きの声などあげて」と由美は顔をしかめて俺をたしなめた。月一万五千円の乏しい小遣い銭を女房の嫌みと引きかえにどうにかせしめている身には、声も大きくなろうというものだ。由美は学生仲間らとキューバへ行く予定だと言い「お母さんに言ったけど政情不安なところへは行くなと言って取り合ってくれないし、お父さんには言うだけ無駄やと思ったけど、ちょっと言ってみただけ」と端から期待などしていない口振りだ。
「母さんは外国の事情なんか、何にも判ってないんや。けど何でまた、キューバなんや」
せめて女房よりはものわかりのいい父親であらねばと、さりげなく訊ねてみた。するとサトウキビを刈りに行くのだと言う。サトウキビならキューバへ行かずとも、沖縄へ行っても刈れるやないか。と言うと「やっぱり夫婦やね。言うことも母さんと変わらんわ」としらけ切った顔をした。由美はこれ以上俺に話しても、無駄だと言いたげな顔をしてくちを噤んだが、思い出したように「父さん何で別居したん」と問うてきた。
「まっいいか。そんな事」返答に詰まる俺に背をむけると、由美はバイバイと掌をヒラヒラさせて行ってしまった。
ホームに立つと向かいのホームの屋根越しに、明滅する消費者金融の赤いネオンがやたら目立った。それに見とれているうちに、そうやこの手があったと気付いた。とたんに、仁丹を噛んだみたいなほろ苦いスキッと感が立ち上り、父親の威信を取り戻せるチャンスとばかりに、電車の到着を気にしながら由美の携帯に連絡を入れた。
電話に出た由美に、明日十万円と小遣いをやるからと伝えると一瞬間をおき、「いきなりどうしたん」とたいそう驚いたらしい声が返って来た。
「お父さんがお金持ってないのんはよう知ってるし、無理してまでしていらんから」
由美はそう言い、俺の応答を待たずにあっさりと電話を切った。せめてもの親心も娘には通じず、何とも複雑な思いだけがあとに残った。
沈んだ気持ちのまま電車を降り立った。バスは出たあとで、三十分待たなければ次のバスは来ないとわかった。閉店した向かいのスーパーの明かりが消えると、この駅前一帯は淋しいものだ。歩いても三キロあるなしの道のりだ。三十分もこんなところでバス待ちをする間に、大方に帰り着くだろうと歩く気になった。
人通りのない商店街の暗がりに、スナックや一杯飲み屋の行灯型看板の淡い光が目につくが、この辺りの店の様子がわからないので覗いてみる気は起こらない。ものの三分も行って商店街のはずれるあたりで、追い越しざまに白い乗用車が止まった。
「今晩は、よかったらお乗りになりませんかあ」
不審気に窺う俺にウインドーが下げられ、運転席の女が声をかけてきた。とっさに相手が判らず躊躇したものの、ルームライトの明かりによく見れば昨日の主婦ではないか。挨拶がわりに「すんまへんなあ」と声をかけて、渡りに船とばかりに助手席に乗り込んだ。
再び走り出してから主婦に、後ろからしかもこの暗がりでよく気付いたものだと感心すると、進学塾に通う子供を駅まで送っての帰りだと言う。電車を降りた俺が歩いて行くのを目撃して、子供を降ろしたあと追いかけて来たと言って笑った。塾はここから二つ都心寄りの駅前にあって、十一時前にまた迎えに行くのだそうだ。いずれにしても、夜道を歩かずに帰宅できるのは有り難い。
ハンドルを握る主婦は聞きもしないのに、またも宗方さん一家の話題を持ち出した。晋一君の奥さんはこの駅前付近を縄張りにうろつくチンピラの情婦になっていて、スナックのホステスとして店に出ているらしいと言った。
「こんな近くに居るのなら、そのうちまた亭主のもとに戻って来るかも」
商店街で見かけた何軒かのスナックの看板が目に浮かび、相槌をうつと「それはどうかなあ」と言って、主婦は小首をかしげた。
「ああいう連中と一緒になったら、相手に捨てられへん限り逃げられへんわ。けど思うより、案外せいせいしてるんと違う」
宗方家の一部始終を語る勢いの主婦の喋りに、ただもう黙って耳を傾けるばかりだ。
団地の敷地に入ったところまで来て、ここでいいから、と言うのをB5棟の階段下まで車を横付けにして送ってくれた。ガソリンスタンドの店員並に、車が角を曲がって見えなくなるまで長々と頭を下げたあと、気を取り直し階段を上って行った。
僅か三階までの階段を上るのにどっとくたびれが出て、大沢正造の表札を目にすると息が切れた。ドアのノブを握り手前に引くと、施錠をしていないドアはすっと開いた。
家のなかへ入ると義父の居間からテレビの音が漏れているが、取り合えずダイニングに直行した。冷蔵庫から缶ビールを取り出して椅子にドッカと腰を下ろし、プルトップを引き上げ一気飲みに近い飲み方で、ビールを流し込んでいるところに義父が顔を見せた。
「盗人みたいな真似をしやがって、飯はどうした」
ひとの顔を見るなりの、義父の小言にカチンときた。
「戸締まりをちゃんとしとかなあかんがな」
受け言葉を返しながら、義父の口振りからして、どうも俺がビールを勝手に飲んでいるのが気にくわないらしい。いくら何でもビールを飲んだくらいで、盗人呼ばわりは酷すぎる。それにこっちは義父の世話係と違う。俊郎らが来ればこまめに世話を焼くくせに、自分の食う飯ぐらい自分で作ったらどうや。俺の憤懣は高まる一方だ。
「別に帰りを待たんでも、勝手に食うたらええがな」
義父の顔を見ると余計にむかっ腹が立ち、視線を外し努めて見ないように言う。
「野菜の天ぷらはどうした。蕗子がおまえに持って帰らせたから言うて、電話をしてきよったぞ」
こういうときに限って余計なことをしやがってと、女房のお節介を腹立たしく思う。どうせ真っ直ぐに帰らずに寄り道をするに違いないと、例によって意地の悪い勘ぐりをしたに違いない。
「ああ、あれか、電車のなかに置き忘れてきた」
取り合うのも癪で、そっけなく答えた。
「ボケっとしくさって。おまえは子供のときから何でもええ加減や」
空腹を耐えていたせいか、義父は癇癪を起こしている。俺が目をそらせて喋るのが、ことさら気に障るらしい。
「人間、誰でもひとつぐらいは取り柄があるもんや。おまえはその歳になっても何もないやないか。親が腹を空かせとるのに放ったらかして、己だけビールを飲んどる」
義父の罵りはいささか子供じみているが、無視をしてたばこに火を点けた。顔を横に向けたまま煙を真っ直ぐに吐き出す。
「わしは俊郎もおまえも差をつけて育てた覚えはない。みな分け隔てのう育てて来た筈や。それを茂子もおまえもわかっとらん」
なんやて、ついでに母親まで引き合いに出して責めるな。俺を罵倒するのは我慢できるが、いまさらに母親を罵るのは許されへん。あんたの、その顔色ばかり見ていた子供の時といまは違うぞ。なめやがって、握りしめた両の拳が激情に震え、その感情を剥き出しに義父を睨みつけた。その形相にたじろいだのか、義父は何か言いかけてそのまま黙って背を向けダイニングから出ていった。
義父のあまりにあっけない退散に拍子抜けしたが、怒りは治まらず冷蔵庫から取り出した二缶目のビールのプルトップを、力任せに捻り引きちぎってしまった。
椅子にかけていたからよかったものの、立ったままで義父と対峙していたら躊躇することなく飛びかかり、鶏を絞めるより簡単にその息の根を止めていたに違いない。
人間一生に一度や二度は、本気で殺意を抱く瞬間があるものだと思った。二缶目のビールが空になるころには、そんな事を考えるくらいに冷静さを取り戻していた。
考えれば母親が俺を連れて義父のもとへ嫁いだ幼年期から、自分にとっての義父はずっと近寄り難い存在でしかなかった。それでも悪戯をしたり喧嘩をしても、義父から叱られるのは何時も俊郎の方が先に叱られていた記憶がある。当時の義父はそれなりに、再婚相手の連れ子にも気を遣っていたのだろう。しかし頑なに馴染もうとしない継子に、義父は困惑を深めていったのかも知れない。ついにその隔たりも縮めることなく、いまに至ってしまった。そう思うと何だか義父にすまなく思えて、次第に激昂したことを大人げなかったと悔いる気持ちがわいた。
しばらく経って部屋に引きこもったままの義父がどうしているか、様子を見に行ってみた。僅かに開いた襖の隙間から部屋のなかを窺うと、義父は掛け布団ごと三つに折りにたたんだ布団を背もたれに、足を投げ出して畳みの上に座り込んでいた。腕組みをしたまま天井を仰ぐような格好で居り、思考しているのか居眠りしているのかこちらからはわからない。そのうち気配に義父がこちらを向き「そんあところに突っ立ってんと入れ」と声をかけたために、照れ笑いで誤魔化しながら、思い切って襖を開けて部屋に入った。
「まあ、座れや」
義父は静かにそう言って俺が傍に座るのを待ち、サイドボードからどうせ貰い物に違いない洋酒のボトルとグラスを取り出し「飲むか」と言って畳の上に置いた。
「おとん、さっきはごめんな」
雰囲気の気まずさを追い払おうと、先程の態度を素直に詫びた。
「進、わしはおまえにすまんと思てる。小谷の家に最後に残った山も、わしが管理しながら手放してしもたんやからなあ」
さかんに目をしばたきつつ義父は、具合が悪そうに頭をかいた。僅かばかり残っていた小谷家の持つ松茸山の利権を、義父が手放したことは知っていた。しかし近年松茸そのものがあまり採れなくなった山の利権など、そう大した金額だとも思えなかった。それに一切の管理を義父に任していただけに、当時の俺はさして気にもとめなかった。むしろ義父が僅かでも蓄財を増やせば、母親も楽になれるくらいの考えだった。
「おとんに全部任してたんやから、何も思わんけどおかんが言うてた遊びに使うたて、何のことや」
このまえに母親の言っていた、大金をつぎ込むほどの義父の遊びに関心があった。義父は無言で大きなため息をつき、洋酒の栓を開けにかかった。見ていてそのぎこちない手つきに、俺が代わって開けてやった。二個のグラスにブランデーを注ぎ、義父と肩を並べて布団に凭れた。
「ナニ、ちょっと女に貢いでしもてなあ、考えたらアホなこっちゃ」
義父はそう言うと背を丸めて咳き込んだ。義父が女に狂うやなんて、まるで想像も出来ない意外さだ。
「飲み慣れんもんを、慌てて飲んだらあかんがな」
義父の背中をさすりながら、さらに話の先が聞きたかった。
「定年になる前やったなあ。付き合いで初めてアルサロへ連れて行かれてから、病みつきになってしもたんや。それまでそんな所は端から敬遠していたのに無理に誘われてなあ。それがきっかけでミイラ取りがミイラになってしもてからに、あんじょう通い詰めや」
義父は少し掠れた声で低く笑った。アルサロやなんて、なんと懐かしい響きの言葉か。興味津々で話の続きを促がした。
「通ううちに馴染みの女が出来た。五十近い年増やったけど、行くたんびに指名してやると喜びおってなあ。それからはふたりであちこちの温泉へ行ったりして、もう遊び惚けとったなあ」
義父は照れ隠しのつもりか、グラスの底に残るブランデーを一気に飲み干した。母親からも義父のそんな行状など、聞かされた事もなかったから意外を通り越し驚きだった。
「おかんには、バレへんかったんか」
「一年になろうかいう時にバレたがな。女の勘は鋭いよってになあ。もっとも、日ごろ風采のあがらん格好してたモンが、いきなり上から下まで衣装も靴も粋になるわ、香水の匂いはするわで、そらおかしい思いよるわなあ」
義父が半分照れながらも真面目くさった顔で吐露をするのが余計に可笑しく、この堅物の男が女に会うためにめかし込み、香水までつけて行くのを想像するだけで俺は声をあげて笑ってしまった。
「そら茂子の奴が怒るのなんの。汚らしい言うてわしの猿股を引き剥がして、股ぐらに赤チンを塗りたくりよるわ。もうえらい修羅場やった」
生真面目一本で爪に火を灯す類の蓄財だけが生き甲斐の、まるで守銭奴みたいに思っていた義父にもこんな踏み外した時があったとは。もう笑い過ぎて腹の皮が痛くなった。
「それまでがむしゃらに働くだけやったからなあ。定年をまえにふと思たんや。このまま歳を取っていくのではあまりにも芸がない。人生いっぺんくらいは羽目をはずしてもええんやないかと」
義父はそう言ってまた、深いため息をついた。
「それでつぎ込んだ金はなんぼくらいや」
笑いを堪えてくわえたたばこに火をつけ、義父に渡した。
「その歳まで遊ぶ金の使い方も知らなんだからなあ。遊ぶのと貢ぐのとで、あっというまにこのくらいは使てしもてた」
義父は右の掌を広げてかざして言ったあと、たばこを取りだして火を点け「魔がさしたんやなあ」と弱々しくつぶやいて、長々と煙を吐いた。
「一年で五百万かあ、結構ええ授業料払ろたんやなあ。おとん、それで後悔しとるんか」
「後悔はしとらん。これまでの人生で一番面白う思えたなあ、あの時は。進、わしはわしなりに思い残す事なしに死ねる気がする」
義父は今までの照れ臭そうな表情から、一転して神妙な顔つきになった。
無学で勤勉と節制のみを美徳と信じ、ひたすらそういう生き方をしてきた筈の義父にも、そんなドジな一面があったとは。話を聞くうちに、いままでにない親しみを義父に感じている自分に気付いた。こんな気持ちを持ったのは、三歳で義父に会ってから始めての事だ。まだ子供であった小谷家の跡目相続者である俺に代わり、僅かばかり残る資産を管理していた義父が増やしたカネやないか。例へ馬鹿げたことにカネを使おうと、俺に黙って俊郎や昇にくれてやるよりはずっと後味がよい。母親に五百万もの大金をすんなり取られたのも、そうした事への義父の詫びの思いなのかも知れない。
大方が白い無精ひげの顎をさすりながら何時もの小難しい表情に戻り、父親の威厳を保とうとする義父をいとおしく思った。
「腹減ったなあ。おとん、再来軒の出前でも頼もか」
頷いてシャツをまくり上げ、胴巻きから財布を取りだしかけた義父を、今日の勘定は俺が持つとばかりに押し止めた。
母親と入れ替わりに、義父と暮らし初めてから一週間が過ぎた。 義父は早朝から団地の周辺を散歩する以外は、ほとんど家から出歩かないようだ。そのため買い物も、否応なく俺の役目だ。この一週間は店屋物ですましたが、さすがに飽きがきた。朝刊の折り込みの束から、これまでは目もくれなかったスーパーのチラシを選り抜いた。そのなかで駅前スーパーのチラシに、九八円均一セールとあった。これに行かない手はない。義父に買い物代を請求して行くことにした。これからはなるべく家で飯を作るからと言うと、義父も店屋物には閉口していたとみえ、黙って胴巻きから五千円を出してくれた。
買い物に出かけるまえにしておかねばと、一週間分溜まった下着を洗濯機に放り込み回そうとしているところに、義父が自分の着替えた洗濯物を抱えて持って来た。ドカッと投げ出された股引や下着のやまを前にして、これも俺の役割かとため息が出た。
洗濯機を回している間に駐輪場に行き、以前に義父が使っていた埃だらけの自転車を引っ張り出し、油を注してぺしゃんこのタイヤに空気を入れると、何とか乗れる状態になった。
洗濯物を干し終えると、意気込んで食料の買い出しに出かけた。自転車は下り坂の路を快適に飛ばし、十分ほどで駅前に着いた。午前中だというのにスーパーの周りはすでに自転車で一杯だった。やっと自分の自転車を割り込ませる隙間を見付け、そこに止めかけていると背後から名前を呼ばれた。振り返ると晋一君だった。
「進さん、ここよりあっちの方が安いんや」
自転車にまたがったまま叫ぶ彼につられて訳のわからぬまま、ふたたび自転車にまたがりあとを追った。車や自転車で混む狭い踏切を渡って、駅の向こう側にあるスーパーへ向かっている。
目指すスーパーに着くと何やら店の前に人々が大勢並び、行列は駐車場から通りの歩道まで十五、六メートルほど繋がっている。晋一君は後ろを振り返りついて来いとばかりに目で合図をして列に加わり、そのまま彼の後について並んだ。若い男の店員が列に向かってハンドマイクで叫んでいる。十円玉を用意してくれとか言っている。前に居る晋一君が小銭入れを出すのを見て、同様にポケットを探りながら何が始まるのか背中越しに彼に訊ねた。
「タイムサービスでキャベツが一個十円なんや」
彼は安いだろうと言わんばかりに振り向いて言った。たしかに十円のキャベツは安いに違いないが、それを聞いたとたんに行列から逃げ出したくなった。気が付けばうしろにもすでに、五メートルばかりの列が続いておるではないか。主婦や老人たちの列に連なり、「今日はえらい多おますなあ」などと話しかけられるのに相槌をうちつつも、何か自嘲的な気分になりかける。
「こんなんもう限界や、何とかせな、どうにもならん」
晋一君が俺に聞かせるつもりか、前を向いたまま呟くのが聞こえた。
「わかるけど、再婚するのもなかなか難しい問題やろしなあ」
言葉が見つからずフケのういた彼の後頭部を見つめながら、黙っているのも悪いと思い、それなりの返答をした。
「こんな家庭状況でも、わかってくれてるひと居てるんやけどなあ。やっぱり迷てしまうんや」
晋一君は相変わらずまえを向いたままで言い、ふたりの会話を小耳にしたうしろに居る老人が「ふん、ふん」と小さく頷く。
「親父を施設に入れれたらなあ。再婚も考えられるんやけど」
俯き加減で続ける彼の言葉は、まわりをはばかってか聞き取りにくいほど小さくなる。どうやら惚れてる女が居るらしい
「そんなええ相手が居るのは結構な話やけど、親が再婚したから子供も幸せにとはいかんやろ」
彼の窮状を知るだけに水を差すような事は言いたくなかったが、そうした親の都合で精神的に戸惑う子供をたまらなく不憫に思った。
「このままやと仕事にも身が入らんわ、子供も放ったらかしやわ、どっちつかずのまま共倒れや」
彼はそう言ってくちを噤んだ。何を捨てても子供が一番やないかい。父親として強う生きたらんかい。俺ならそうするぞ。晋一君の洗い晒しのポロシャツの背中を睨みつけ、腹のなかでそう叱咤せずにはいられない。しかし一方では、所詮他人事だから言える事と思われそうで声にはならない。
折り悪く踏切待ちの渋滞にかかり停車したバスの窓から、一斉に乗客の眼差しが行列に向けられ思わず顔を伏せた。つま先に目を落としたまま、ズボンのポケットのなかで十円玉を握りしめた掌がじっとりと汗ばんだ。
買い物から戻って来てみると、宅配便が届いていた。箱の表には俺への宛名が書かれ、差出人は女房だった。買い物袋をダイニングの床に放り投げたまま、何を送って来たのか早速開けて見たら早々と夏物のTシャツやズボン、さらには靴下、ハンカチの類がきちっとたたまれて収まっている。なにかメッセージは入れていないかと探したが、なかった。まったく愛想のない奴だ。来週あたり何か口実をもうけて、一度家の様子を窺いに帰ろうと思っていた矢先だったのに。
女房からの一行のメッセージもなかった事に、僅かだが失望した。さらに疲労感までがわいて寝ていた部屋へ行き、敷きっぱなしの布団のうえに大の字に寝ころんだ。しばらくして気を取り直し、一応家に電話をして宅配便が届いたことを伝えておく気になった。それに母親が電話に出たら、少しは愚痴もこぼしてみたかった。腹這いのまま枕元の電話機に手をのばして受話器を取り上げ、ついでに傍らのタバコを取りだしてくわえ自宅の番号をプッシュした。しかし呼び出し音が止むと留守電がセットされていて、テープが回りだしたところで黙って受話器を置いた。母親までが外出をしているとは。何とも面白くない気分のまま、こんどは俊郎のところにかけてみた。呼び出し音を聞きながらいまの苦労ぶりを散々愚痴って俊郎を見に来させよう。それに義兄が来れば義父も喜ぶだろう。ひょっとしたら淑子義姉さんも共に来るかも知れない。
しかし、俊郎宅もまた留守電のテープがまわった。半ば意固地になってきて、一度義父の顔を見に来いと無理からも呼びつけてやろうと昇の家にかけて見たがここも不在だった。くそったれ、皆どこへ行ってしもたんや。ふてくされた思いになって受話器をおき、唾で吸い口の湿ってしまったタバコを灰皿に押しつける。
「進、飯はまだか。もうとうに昼を過ぎてるやないか」
ダイニングから義父の呼ぶ声がした。
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