「内緒なんですけど」とエリカさんは言った。エリカさんは日曜の大掃除のたびに、わたしの側に寄って囁く。この春、引っ越ししたばかりのわたしと子供達には親しい友人はいない。それでもA棟のエリカさんの良からぬ噂はB棟のわたしまで届く。このマンションの人はエリカさんによそよそしい。だからわたしも警戒、警戒と、言い聞かし少し離れて草をむしる。それに気づかないエリカさんはまた身体を擦り寄せてくる。一週間に一度のマンション内の大掃除は日曜の朝七時半から八時まで三十分間一斉におこなわれ、わたしとエリカさんはA棟とB棟の間にある小さな公園、そのフェンス回りの草引き係だ。エリカさんは草を指の先で弄ぶようにむしり、わたしは力一杯草を抜く。
「悟くんに触られると、鳥肌がたつんです」
エリカさんは草の先を摘むようにむしって呟く。小さな声なので、聞こえない振りをしてわたしは少し移動する。
背中にもぞもぞ今日も暑くなりそうな陽射しがあたり、公園の蝉が一斉に鳴きだした。七月が始まったばかりの朝だった。
「ひとりでパソコンの前で仕事しているでしょう。悟くんの足跡が聞こえ部屋に入ってくるんだなと、思うと動悸がしてそのうちに汗が出て指先までヌルヌルして……。だからって喧嘩している訳じゃないんですよ」
エリカさんと悟くんは企業から依頼されホームページを作る仕事をしているという。本当はもっと大きな会社に勤めていたのに、その頃もう結婚して、子供までいた悟くんと恋愛事件を起こし二人で辞めたそうだ。それがエリカさんの良からぬ噂のひとつだ。
「家が仕事場になって朝から晩まで二人きりになれたのは嬉しいけれど。段々息がつまって、……窒息死してしまいそうなんです」
二人で始めた会社はエリカさんが所有するこの3LDKのマンションで始め、そこに悟くんと一緒に住み、バイトのスタッフが通うことになったらしい。
住居を営業に使うのは管理規則に違反する、騒音、駐車、等共有スペースの消耗度合いが激しくなる、と注意されてもエリカさんも悟くんも気にする風でもない。きれいな顔して案外図太いのよ、とエリカさんが敬遠される二つ目の理由になる。
「電気代やガス代を二ヵ月遅れで払っていくんですよ。利息もつかないんだから払わなくてもいい、電話はすぐに停まるからしかたないけど、と悟くんはいうんですよ。……そのくせ、電灯の点けっぱなしや冷蔵庫の開け閉めに目くじらたてて」
わたしは俯いたまま身体を捩ってエリカさんからまた少し離れる。
コンクリートの壁は、アスファルトに覆われた地面に突き刺すように垂直に立つ。自転車置場、公園、植木、フェンス、その隙間に草が伸びる。わずかな雨水、わずかな土に、根を広げ伸び続ける草。わたしは地面にへばりついている草を抜く。丈夫なだけが取り柄の草を束にして思い切り引っ張る。捨てる。大地に跳ね返った太陽の熱は空に吸い込まれ戻っていく。暑い日だ。
「出会わなければ良かった。あの会社で課長になって部長になれる悟くんなのに……そう言ったら、好きなんだからしかたないって……」
のろけ話なのかとエリカさんの顔を見てしまう。むきたての卵のような小さな顔にショートヘア。エリカさんの短い髪が汗で首にへばりついている。
「お金がないってイヤですよね」
エリカさんは益々小さな声で相槌を求めるように囁くから、ふっふ、思わず笑ってしまう。わたしのことを貧乏と思っている。自分で切った不揃いな前髪、伸ばし放題の髪をゆるい三つ編みにして化粧気のない顔。夫のいないわたしはエリカさんと同じようにこのマンションでは異分子だった。
パタパタ、エリカさんの手が風を送る。細くて長い指だ。わたしも軍手を脱いで風を仰ぐ。エリカさんはため息をついて空を見上げる。わたしも一緒に見上げる。青い空だ。向日葵がひょろと一本、ベランダから伸び上がっていた。五階のベランダから、今年七歳になる娘、奈津子が手を振っているのが見える。
「お、か、あ、さ、あ、ん」
娘の声が真上から降ってくる。隣には眠そうに目を擦っている二番目の子供がいる。奈津子の足がベランダの柵からユラユラ揺れている。奈津子の声、二番目の息子タックンの声、産まれたばかりのジュンジュンの泣き声、みんなわたしを必要としている。わたしを呼んでいる。だから、わたしは知らず知らずのうちに誇らしげになる。
「ジュンジュン、起きて泣いてるよ」
「泣いてるよ」と娘の声と息子の声。声がふたつ重なって落ちてくる。茶色のアルミの手摺りにもたれ足だけをばたつかせている。まるであの子達の身体は宙に浮いて、今にも羽根が生え飛び立っていくみたいだ。
「おかああさあん」
奈津子の身体中のスイッチがオンになっていく。夏の光りは一点の迷いもなく娘と息子を照らす。
「ダメ。ダメだよ。落ちるじゃないの。奈津子。そんなとこから足出すの止めなさい。危ないわよ」
わたしも負けずと大声になる。
「はああい。あのねぇ。タックンがね。悪いんだよぅ。ポンキッキを見るからなんだよぅ」
奈津子は足を引っ込め、姿が見えなくなった。タックンを連れて部屋の中に入っていったのだろう。
「ちゃうもん。ちゃうもん」二番目の子供、タックンの声が五階建てのマンション中にキンキン響く。いちばん末の赤ん坊の泣き声も、小さな黄色の蒲団からはみだし、壁に床に反響しているだろう。今に誰かがうるさい、と怒り出すに違いない。だから関わらないでおこう、と決めたエリカさんにも媚びるように話しかける。
「ごめんなさいね。うるさくって」
幸福感を悟られないよう少し怒った声になる。
「ホントに言うこと聞かないんだから」
「いいんですか? 帰らなくても」
「もうすぐ終わるから」背中の太陽がじりじり暑くなって、シャツが汗でへばりついてくる。エリカさんの丸めた背中にも汗が大きなシミになっている。
「……それで」と話の接ぎ穂をエリカさんに向ける。
「……それでも悟くんのこと嫌いになれないのです。……好きなんです。……可笑しいでしょう」
ポツンとエリカさんは持て余すように声を放りだす。
「ううん」
思わず返事を返してしまった。太陽の光りが眩しい。わたしは、また少しエリカさんから離れる。
そうだった。わたしもあの男が好きだった。奈津子、タックン、ジュンジュン、子供達の父親だったあの男。それなのに、もうどこにもあの男はいない。
眠いと泣き、起きれば泣く。飲んで、食べて、ウンチを、げっぷを、オナラをする子供達。食事の用意、洗濯、寝る支度だけで一日が終わる。あの子たちが笑い続けてさえいれば幸せになれる。そのはずなのにいつも考えてしまうのはあの男のことだった。
高校を卒業し、田舎から出てきたわたしは寮のある比較的大きな会計事務所で働いていた。簿記、珠算、ワープロ、パソコンと、毎日覚えることが楽しい、そんな入社して三年の夢中の日だった。あの男と逢ったのは。
わたしの勤める事務所は総合ビルで、その駐車場で、背の高い男は、溢れるような笑顔で書類をもっていた。
男は広告会社のデザイナーでわたしの事務所でよく話題にのぼるあこがれの人だ。
丸めたポスターがわたしの足の下に落ちてきた。
「わりい。それここに乗せてくれよ」と前からの知り合いのように笑いかける。しゃがんで拾うわたしの指が、男の顎に当たった。男の首、喉がとても間近にある。髭痕が青々しい。汗が噴き出ている。慌てて指を引っ込めたから顎に薄い爪痕が残ったような気がした。
男は塞がった両腕の隙間から指だけを動かしてドアを開けようとしていた。長い指がきれいだった。チノパンにブルーのストライプのシャツを着て袖を肘のところまで捲き上げている。細い身体の割りには太い腕。銀行に行くのなら送ってあげる、と言われわたしはドキドキしながら男の車に乗る。
それから、誘われるまま日曜日にドライブに出かけ車の中で白いブラウスのホックを外されても抵抗しなかった。夢中で抱かれる。何もかも初めての経験ですぐに奈津子が身籠もり、それがきっかけでわたしたちは結婚した。盛大な結婚式、男の友人や男の会社の人達は華やかだった。気後れしてしまいそうなわたしは白いウェーデングの下でせり上がるような大きなお腹を撫でた。わたしたちは幸せになるはずだったのに。
「暑いですね」
エリカさんが立ち上がって汗をふく。エリカさんの汗が額から目、つぅーと唇に落ちる。首から胸の谷間につぅーと落ちる。視線があって、しかたなく、暑いわね、と目だけで答える。エリカさんの眼鏡は平凡な黒のフレームで、レンズに映っている瞳が、太陽の光線に反射して輝いていた。エリカさんの眼鏡のまわりから汗が吹き出している。軍手を脱いで、ずり落ちそうな眼鏡を人差指で持ち上げる。エリカさんの軍手は草の汁が滲んでイヤな匂いがした。土もこびりついて汚れている。綿百%、メリヤス編みの軍手は、肌によく馴染む。一ダースを輪ゴムにセットして売っているやつだ。石鹸をつけてゴシコシ擦ればまた元のように真っ白になる。漂白され柔軟剤を潜り抜けた軍手はマンション中のベランダに白く並び、風を受け一斉にはためく。一緒に並んで作業をし、同じ洗濯ものを干す。共通事項は親しさの証だ。だけどわたしはエリカさんと離れてひとりで草むしりをする。
男との最初の幻滅はトーストから始まる。
「ただの食パンにピーナッツバター塗って牛乳を飲む。それが一番だよ。朝には」そうして用意していると、起き出した男は、「焼いてくれよ」不機嫌そうに言う。
「牛乳? コーヒーだろう。ガキじゃあるまいし」
「ピーナッツバター? そんな甘いもの朝から食べられるか」バターを用意すれば、「何度言ったらいいのだ。トーストにバターを溶かせば手も何もかもベタベタになってもう一度洗面所で身仕度しなければいけない。そんなことも分からないのか」
また次の日には、「朝ご飯は和食だよ」と平然と言う。「そう言っているじゃないか。決まっているよ。炊き立ての白いご飯と味噌汁だ。出汁は昆布だよ。化学調味料なんかでオレを殺す気か」「辛い」と顔をしかめ「薄い」と不機嫌になる。
男は田舎の村会議員の息子で、いつもチヤホヤされ続けてきた。だけど一歩外に出ると、自分の父より偉い村長の息子がいる。都会の学校に入れば、自分よりも華やかな経歴を持つ頭のいい生徒が幾らでもいる。会社に入れば、若くて才能のある者が実に淡々と仕事をこなしていく。男は力の弱いものを、威圧しなければ自分の劣等感を克服できない。向き合う二人の関係において力のあるものが常に正しい。男はいつも不機嫌だった。
子供の父親だということ、夫だということ、男は自分の役目を維持する経費をお金に換算できない。そんな中で二番目の子供ができた。男が反対する中、まるで玩具を与えるように奈津子に、
「ほら、弟だよ。欲しいって言ったろう。大事にするんだよ」と言って乱暴に渡す。奈津子は白いベビー服に埋もれた赤ん坊を恐る恐る受け取ると
「お猿みたいだね、タックン、タックン言ってる。変な子だね」とわたしの顔を見て笑い、すとんとわたしの膝の上にタックンを抱えたまま座る。小さなお尻とわたしの太股が重なり緩やかに体温が伝わる。腕を小さな身体にまわし抱きしめる。タックンの小さな足が踏ん張るように伸びをする。奈津子の身体からゴム鞠のように弾む笑い声が発せられ、わたしの身体中に力が湧いてくる。
下の子が幼稚園にあがれば、わたしも働ける。男はきっと変わる。もう少し我慢すれば何もかもよくなる。
だけど給料日から一週間も経っているのに、相変わらず男はお金を入れない。新聞、ガス、電気、水道、溜まった公共料金の集金人のドアを叩く音に怯えていた。冷蔵庫の中も空っぽだ。食事の用意をしなければ男が怒る。買い物にいかねば。タックンの出産祝いを使い果たした後は奈津子の貯金箱しかない。ガチャとブタの貯金箱を持ち上げる。裏のゴムのパッキンを外す。お腹から百円玉が出てくる。折り畳んだ千円札がでてくる。
「奈っちゃんのお金で今日は買いものしようか?」
「うん。そうしよう。そうしよう。奈津子のお金。お金」「ほらこの白いのばっかり使うんだよ。奈っちゃんが、今日はおかあさんだからね」とブタの貯金箱からブタの財布に百円玉、十個入れる。ひとつふたつ、みっつ。
奈津子にお財布を持たす。
「タックンが寝ている間にね。お買い物行こう」とふたりで外に出る。奈津子はブタの財布を振り回して、
「あのね。今日は奈っちゃんがおかあさんでね。お買い物するの。奈っちゃんのお金でね」逢う人、逢う人に言う。通りを曲がった所で、奈津子の手を引っ張ってもう一度、よおく言い聞かせる。
「今日のお買い物はおかあさんと奈っちゃんの二人の秘密なんだよ。お金持ちだっていうこと知れたら、誰かに取られるでしょう。だから、ねっ。しっー。だよ」
「しっー」と奈津子は自分の口に指をたてる。しっー。と唾が人差指にからまってべとついている。
「そうだよ。しっー。なんだよ」
奈津子は時たま立ち止まって財布を確かめ「しっー」と自分の人差指をわたしの口にも持っていこうとする。スーパーに着いても、いつもと違って緊張して歩く。
「ブタさんとニワトリさんどっちにする?」
わたしはブタ肉と鶏肉のパックを見せて奈津子に聞く。
あと、じゃが芋と玉葱と人参と卵を買えば、カレーも親子丼もできる。キャベツがあれば野菜炒めもできる。
「じゃが芋さんと人参さんと玉葱さんは、カレーのお友達だから。買って欲しいなあ」
「いいよ。買おう。タックンのお菓子も、買ってあげるんだよね」とすっかりおかあさんになった奈津子は言う。
それからも何度も冷蔵庫の前でしょんぼりしているわたしに、奈津子は貯金箱を振りながら渡してくれた。わたしの味方は奈津子だけだった。
わたしはしゃがんで黙々と草を引っ張る。
驚くほど強情に土にしがみついて根を張っている雑草。茎、葉、花、実、みんな空へ向かっている。仰いでいる。わたしは茎を束ねて、掴み鎌で切り落とす。根を引き抜く。力一杯引く。ごぼっと土が盛り上がって思いがけなく小さな虫が蠢いていた。突然の光りは闇で暮らす虫の眼を見えなくする。湿って秘めやかな闇。土の奥深くに見えないところに伸び続けている草の根。それも引っ張る。とても重い。額から汗が流れ地面にぽとりと落ちる。わたしは思い出したくない雨の日のことを考える。
雨が降る日。窓に雫が落ちていく。流れていく。
ビーズを糸に通してネックレスを作る内職をしていた。一本通せば十円で六ばお豆腐が買える。赤、黄、青、の小さなビーズは、蛍光灯の下でキラキラ光って砂糖菓子のように見える。美味しそうなのでタックンが食べる。飲み込んでしまう。だから昼間はなかなか仕事がはかどらず納期に間に合わない。子供が寝静まってからテーブル一杯に広げて夢中になって刺していると、明け方に帰ってきた男が、
「なんだ、こんなもの。あてつけか」とテーブルをひっくり返した。乾かない洗濯もの。おしめを天井に鴨居にぶら下げているのも気に入らない。男はやっぱり不機嫌だった。男が再び出ていったあと、叩かれた頬を蹴られた腹を抱えてうずくまるわたしに「おかあさん」奈津子はわたしの顔を覗き込む。痛い、と眼だけで聞く。ううん、とわたしも眼だけで答える。それからあの子にしては小さな声でもう一度わたしの耳元に口を寄せて言う。
「タックン。ウンチしているよ。臭いよ」
だけどわたしは知らない振りをする。一日は、おしめを洗っている間に終わっていく。じっとり床から排水口の臭いがする。雨の湿気は部屋に籠もる。男がひっくり返したテーブル。部屋中に広がるビーズ。畳の上で場違いにキラキラ輝いている。わたしはビーズの上に大の字になって寝る。背中がチクリと痛い。手の平にも足にもビーズがくっつく。わたしの身体はどこもかしこも空しく光る。
「タックンのウンチ。タックンクンクン」
奈津子の歌に合わして、タックンのおしりがかわいく揺れる。奈津子がおしめを代えてくれたみたいだ。タックンは奈津子の後を追う。開けっぱなしのトイレのドアから奈津子の声がする。
「あのね。タックン。ウンチするときはこんなふうにね。うーんうーんっていうんだよ」
ミーンミーン蝉が鳴きだした。
公園の一番高い木の上で鳴いている。
ごくろうさまでした、本日お掃除終了しました、自治会長の声だ。集会所でチューペットを配っています。エリカさんが貰ってきます。と軍手を脱いで立ち上がった。わたしは刈り取った草や抜いた根っ子をゴミ袋に詰めて片づけをする。暑いですねえ、ええ、昨日より暑くなりそうですね、洗濯物がすぐに乾いて、これならシーツも洗えますわね、と出会う人みんなに愛想良い会話を交わしながら公園の斜め前にあるゴミ収集所に行く。
集会所、ゴミ置場、公園、自転車置場、駐車場等、毎週、順に、マンションの掃除をみんながするということは、子供たちの安全管理ともうひとつ別の意味もあるようだ、と自転車置場の方から聴こえる密やかな声にも耳を澄ます。
「山田さん。昨日ご主人を締め出したみたいね」
「大きな声で怒なりあっているのが聞こえて目をさましちゃった」
「知ってるわ。十二時すぎていたわよね」
「怒ったり喧嘩しているうちはまだいいわよ」
「ほら安藤さんとこなんか家庭内別居っていうの、もう二年間、口も聞いていないって言ってたわよ」
「浮気して二カ月も帰ってこない野口さんなんかサバサバしたと言ってるけれど、段々ヒスになって」
「まあ。お気の毒ね」
最初はなんだかんだと億劫がっていた日曜日の掃除も今ではそれなりにみんなが楽しみにしているのは、こんな情報交換で自分の幸福度を推し量れるからに違いない。だけどどの家もまだ幸せだ。ここに引っ越してくるまでのわたしたちの暮らしは牢獄だった。わたしは男から解放された。それなのにどうしてこんなに不安なのだろう。
「はい。貰ってきましたよ」
「ありがとう」
エリカさんから手渡されたチューペットは冷たくて気持ちがいい。
熱い掌で揉みほぐしているうちに、袋の中の氷が溶けていく。それを吸うのには少しばかりのコツがいる。氷菓子特有の甘ったるい匂いが鼻をくすぐる。タックンはこれが欲しくって、日曜の朝を楽しみにしている。
エリカさんもチューペットを頬にあてて言う。
「悟くんは良い人なんです。向こうの家族に養育費もきちんと渡し、月に二度の食事会の他にも、運動会、ピアノの発表会、スイミングの競技会、子供から電話かかってきたら、どんなに疲れていても、出かけるし、そうそう、これもバイトの女の子に聞いた話なんだけど、生命保険にもはいったらしいんです。受取人は子供」
「そんな人と一緒になって後悔しないの」
「そんなあ。悪いのはわたしですから。向こうの家族にできるだけのことをして、と勧めているのはわたしなんですよ」
どうしてそんな無理をしていい人になりたいのだろう。人の家庭を壊したつもりでその家族に振り回されて。
ときたま道ですれ違う悟くんは「こんにちわ」と挨拶しても、いつも誰だったかなと言う顔で眼鏡に手をやり、問いつめるような視線を浴びせる。いたたまれなくなって、B棟の柴田ですと言えば、『ああ』と子供のように顔をくちゃくちゃにして笑う。それが出会う度の儀式のようになる。何度も会っても顔を覚えない不愉快な人。挨拶だから誰か分からなくても同じように『こんにちわ』と言い返せばいいのに、自分の家の近くで会う普段着の女は近所の人に決まっているのに。自分こそ、眼鏡を外せば、そのまま、薄い眉も眼も鼻も口も取れてしまいそうな特徴のない顔のくせに。
エリカさんの無造作に着込んだTシャツがとても垢抜けて見える。お店で吊るして売っているように何の皺もないGパン。足が長いから切らなくてもいいのだろう。子供もいないから三十三でも大学生にみえる。こんなきれいな人ならやり直せるのに。男なんかあてにしなければいいのに。
「ねえ。柴田さん。子供って、何なんでしょうか」
ポツリとエリカさんが言う。
「わたし、妊娠したみたいなんです」
エリカさんの後ろから、蝉が鳴きだした。
一匹鳴けば、次の一匹と連鎖していく声。
じくじく汗が噴き出してきた。エリカさんから、わたしの回りから、足下から頭まで責め立てるように蝉の鳴き声が貼り付き始めた。
男は毎朝、何を着ていくかでとても迷う。月に必ず新しいスーツが、ブレザーが増えても男は満足できない。
男が出ていった後、2Kの部屋中に泥棒が入ったように物が散らかる。後片づけだけでお昼までかかる。
あの日、あの雨の降る日。いつもの朝。
奈津子は幼稚園に行き、二歳のタックンは奥の部屋で寝ていた。静かな朝の部屋だった。部屋は男の脱ぎ散らかした服で溢れていた。出勤したと思っていた男が帰ってきた。まず男は「汚い」といって殴った。
お給料もいれない、子供も可愛がらない、そいつが偉そうにいつも指図して家族中を怯えさす。子供たちの父親というだけでだ。この男は敵なのだ。
「なんだ。その眼は」
わたしは視線を反らせて掃除機をかける。
上着を脱いで、次々とタンスの引きだしを開け、何かを探す男。男の怒りは増長されていく。分かっている。お金を取りにきたのだ。奈津子の入学祝いをわたしの実家が送ったことを知って帰って来たのだ。
父はパチンコもお酒も煙草もせずに、奈津子の入学を楽しみにしていた。送ってくれた十万円。それが取られる。この訳の分からぬ男の為に奈津子の第一歩の幸せが壊れる。
「出せよ。困っている時、助けるのは夫婦として当たり前だろう。オレは金がいる」
黙っていると尚もしつっこく、
「お前はオレがどうなってもいいのか」と言う。
「すぐに返すじゃないか」と今度は猫撫で声になる。
わたしは愛されていない。わたしはこの男に愛されていないのだ。もうとっくに分かっていたのに、やっぱり認めるのは悲しい。
男の声に耳を貸すまいと、水道の蛇口を全開にする。タックンのパンツを洗う。石鹸をつけて洗う。タックンのズボンにアイスクリームの染みが残っている。ポットンと落ちて溶けていくアイスクリームにあの子はクスンクスンと泣き出した。昨日のことだ。奈津子が自分の分を、スプーンですくってタックンの口の中にいれてやっていた。奈津子のスカートにもアイスクリームが落ちている。
ふっと、見上げると男がいた。洗い物をしているわたしの真横にいた。迂闊だった。男の眼は光っている。
わたしは、奈津子のスカートを洗う。アイスクリームはオレンジ色で擦ってもなかなか落ちない。洗面所は水浸しになっていく。わたしの足下が濡れていく。
この男の眼に、わたしは醜い女で映る方がいい。パーマが伸びきった頭。カサカサした肌。ソバカスの浮いた鼻。体型の分からないトレーナー。ゴムの緩んだ靴下。足首まであるスカート。
近寄るな。それ以上一歩もだ。
近寄ればわたしは水をぶっかける。殺虫剤をまく。石鹸を投げる。シャンプーを。リンスを。
だけど、男の手が伸び、わたしのスカートの裾を掴む。引っぱる。わたしのパンティを膝までおろす。わたしを抱きかかえ、居間に連れていく。男はとても背が高いし力がある。
わたしの両足は男の足の指で固定される。男はわたしの足の上にしゃがみ自分のズボンのファスナーを引き下ろす。ぴったり密着した下半身は動かすこともできない。男はわたしの腰に手を回し、もう片一方の手で引き寄せた座蒲団を背中に入れる。男の生暖かい唇がわたしの顔に近づいてわたしは眼を反らす。ぐりっと男の身体が進入してくる。死ねばいい。こんな男は。
わたしの間から流れるヌルヌルしたものを男はティシュで軽くぬぐう。男は肩で荒い息をひとつし、弾みをつけるように起きる。洗面所で湯を出す音がする。それから戻ってきて熱いタオルでわたしを拭く。男の手は優しく身体に馴染む。わたしの太股の内側、その奥の方を濡れたタオルで丁寧に拭く。それから、そこに男はかがんでくちづけをする。男がつけた赤い後はそれから何日もわたしの太股の見えない箇所に残ることだろう。最初は薔薇のように黄土色に広がり、黄色になって段々薄くなる。それだけが唯一の男との関係かもしれない。
わたしがいる居間から、もうすっかり身仕度を整えた男が、何か言ったような気がしたのは、雨の音だったかもしれない。玄関から出るとき男が「じゃあ」と言ったのかもしれない。男は探し当てたお金を持っていった。
部屋に洗濯機の機械音だけが響いて句読点のない時間が流れていく。来年の春になれば子供は小学生と幼稚園になる。わたしはまだ三十だ。負けてはいけない。
わたしは素早く着替え外に出る。雨だった。男の後をつける。通りを出て、信号を渡って駅にでる。傘をさしながら走った。男は気づかない。素足で突っかけたサンダルはだらしなく雨で汚れ、水溜りで洗われる。
男は駅の階段を登っている。わたしも登る。
片足あげると、男の精液がでた。ぬるっとしたものが太股からサンダルのはみでた踵に伝わっていく。傘から滴る雨の雫もわたしのスカートを濡らしぐっしょり重い。定期で男は改札を通り、わたしは切符を買う。
男に気づかれないように、そればかりを注意してホームに出る。
雨のせいで電車が少し遅れているようだった。慌ただしいアナウンス。大勢の人。こんな中でも男の手はきれいだ。知り合ったあの時と同じだ。その手で傘をさしている。黒い傘だ。顔は傘に隠れて見えない。左手で鞄を持っている。男は真っ直ぐ立って順番を待っている。電車に乗り込む順を。
とても混雑している。ホームに溢れるくらいの学生と通勤客がいる。みんな傘をさして電車を待っている。男に近寄る。傘をさしたまま、そっと。傘と傘の雫でぐっしょり男の肩が濡れている。紺色の上着は黒のように見える。広い肩が重そうに雫を受けとめている。
ホームに電車がついた。乗り込もうと人の波が大きく揺れる。わたしは、男を、男の背中を、押す。
ぐいっ、と。
あの日の新聞は小さな切り抜きにしていつも財布にしまってある。
『プラットホームで転落死』列車がホームに入る直前に柴田俊也さん(三十八歳)が線路に転落し轢かれて即死。席をとろうと乗客が殺到し押されて転落したもよう。この駅ではマンション建設の為急速に乗客が増え、車両を増やすよう要望していた矢先の事故だった。と五行。
男は死んだ。お腹のあの男の子供、父親を知らない三番目の子供は迷うこともなく産んだ。タックンの腕のなかに赤ん坊をのせ、
「落とすんじゃないよ。可愛がって大きくしないとすぐ死んじゃうんだからね」と言う。
真中の子供、タックンが一番あの男に似ている。癖毛の栗色の髪。黒いまん丸の目。道行く誰もが振り返ってみるくらいかわいい子。いつも自分の思い通りになると信じてきた二歳の子、タックンは、血管でさえ透き通ってみえる自分より小さな無垢のものに何を思うのだろう。
思った通り男には借金があったが、労災も支給され、見舞い金、退職金、合わせると借金を精算しても三番目の子供が小学校を卒業するまでつましく暮らせば働かなくてもよさそうだ。男が死んでお金の心配はしなくなった。あの男は何の為に死に、わたしは何の為に生きていくのだろう。だけど、考えている間にも子供たちはどんどん育つ。毎日毎日確実に大きくなる。植物のように、空に伸びていく。わたしだけを慕う子供。
引っ越しする。古いけれど手入れが行き届いてゴミが落ちていない清潔なマンションを買う。棟と棟の間に小さな公園があって、自転車置場もある。奈津子にピンクの、タックンに黄色の自転車を買ってあげよう。タックンを幼稚園に送っていってジュンジュンと公園で日向ぼっこをしよう。奈津子はあの学校に通うのだ。南向きのベランダから学校も見える。隣の駅で起こった事故なんてここのマンションの人は誰も知らない。嫌われないように良い人になろう。誰にも心を開かなければ今度こそうまくいく。奈津子。タックン。男の最後の子供ジュンジュン。三人の母親として暮らしていこう。
「これからパン一緒に食べませんか?」エリカさんが聞く。早朝掃除の前に、七時に売り出す焼き立てのパンを商店街まで買いに行ったのだ、という。
香ばしいパンの袋をエリカさんに差し出され、誰とも親しくならないという警戒が揺らぐ。
「たくさん買ってきたんですよ。それなのに悟くんもう出かけてしまって、向こうの子供と海に。一緒に行こうと思ったんですけど。わたしノロマだから置いてけぼりになってしまいました。車が混むからって予定より早く出発したらしいです」
悟くんに騙されている。どうしてそれがわからないのだろう。事務所代わりに部屋を占領され利用されているだけなのに。
「そうね。お昼から出かけるから、今なら」
わたしとエリカさんは並んで歩く。
「……あのう。柴田さん。悟くんのこと、信じていいのかしら。結婚しようって。籍も入れようって」
やっぱりエリカさんはみんなの噂どおり籍が入っていない内縁の関係なのだ。結婚すれば幸せになれるのだろうか。向こうの奥さんは、向こうの子供はどうなるのだろう。結婚と言う言葉だけで誰の何が保障されるのだろう。
エリカさんはパンの袋を抱え幸せそうに微笑む。わたしたちは仲の良い友人みたいに一緒にB棟まで歩く。
すれ違う人にお早ようございます、お疲れさま、と声をかけていく。エリカさんに冷ややかな視線を浴びせるのは年配の主婦の木村さんだ。エリカさんと歩くわたしに咎めるような視線を送るのはお節介焼きの浅野さん。エリカさんは平和な家庭を脅かす悪い女なのだ。わたしは主人のいない可哀想な女なのだ。階段を登る。
エリカさんのサンダルがカツンコツン耳障りな音をたてる。
集合ポストの前にも四、五人の人がひそひそと話している。噂話はつきない。引っ越して、すぐこのマンションの人は、決まったように聞いた。
「ご主人はどちらにお勤め?」
「あなたは働いていらっしゃらないの?」
「何で亡くなられたの?」
その度に曖昧に笑ってきたけれど、エリカさんが聞いたら答えてあげようか。
『夫はホームから落ちて死んだ。夫がいなくても子供なんて一人で育てられる』そんな風に答えてみようか。
わたしの部屋は五階だ。五階の五一四号室。階段で縦に区分された部屋割りなので同じ階で階段を使うのは、向き合う二軒だけだ。前の人は引っ越したので、今はわたしの家だけその階段を利用している。近頃タックンは階段でよく遊ぶ。階段にミニカーを並べるから、危なくってしかたない。この前もその玩具を踏んで、危ゆく足を滑らしそうになった。階段にモノを置くのは止めなさい、この前も怒ったのに、今日は大丈夫だろうか。
エリカさんがミニカーにつまづいて、階段を落ちたら、間違いなく流産してしまうだろう。子供ができなかったエリカさんは悟くんと結婚しないのだろうか。そしたら悟くんはホッとするのだろうか。
わたしはぼんやりとエリカさんの背中を見つめる。白いシャツから細い腕が覗いて規則正しく揺れている。きれいな手、指。どこかでこんな手のきれいな人を見た。ずいぶん昔のような、つい最近のような、ああ、そうだ。あの男の手に似ている。細い指、華奢な手。
エリカさんは踵が高いサンダル、流行りのミュールを履いている。一段上がるたびに踵からミュールが脱げつま先に力が入る。エリカさんは振り返って、はやくおいで、というようにわたしを見る。わたしは微笑んでエリカさんの後を追う。エリカさんを見ていると段々優しい気持ちになってくる。
階段を上がるわたしたちの足音を聞いて、タックンが、近づいてくる。キャアキャアと笑いながら走ってきた。
それからエリカさんのパンの袋を見つけてタックンがぶらさがる。いきなり引っ張ったので、エリカさんはとても不安定になる。エリカさんの履いているサンダルのつま先だけが階段の縁に乗る。乗せた片足には体重はかかっていなかったので、エリカさんはわたしの腕を取る。タックンはエリカさんにもたれ、思わずエリカさんはタックンを抱きかかえ手摺を持つ。わたしはいきなり腕を掴まれ、次の片足は階段にかからず宙に浮く。慌ててもう片足を出す。やっぱりミニカーだ。踏みつけた。最初に落ちたのはチューペット。一階まで叩き付けられるように落ちていった。パン。パンの袋。それからわたしがゆっくり落ちた。まるで時間が止まったようだ。
わたしは動けない。
どうしたのだろう。何が起こったのだろう。
エリカさんが階段の上にいる。タックンを抱いている。二人とも無事だ。エリカさんのお腹の子もだ。良かった。
どうしたの? と奈津子が顔だした。奈津子の顔は光りが当たって良く見えない。けれど足はまた裸足だ。階段の上に奈津子が立っている。
『だめじゃない。裸足で』怒らなければいけない。この子は、本当にいくら言い聞かせても、右から左に抜けていく。奈津子のサンドレスの丈が短い。また身長が伸びたのだ。向日葵のプリント模様のスーパーで見つけたあの生地で新しいのを縫ってあげよう。今日は一緒に買い物にいって。あの子たちにゴハンを食べさせ、洗濯をして、忙しくなりそうだ。早く起きなければ。ああ。だけど眠い。奈津子が悲鳴をあげて階段を駆け降りてくる。あぶないわよ。落ちるわよ。ゆっくり。注意して。だめよ。大きな声を出すとあの男がまた怒るよ。おかあさんは大丈夫なんだから。心配しなくていいから。強いんだから。奈津子の声がどんどん遠くなる。火がついたように泣き出しているのはタックンだろうか。茶色の癖毛、澄んだ瞳、高い鼻。違う。あれはあの男だ。あの男が階段の上にいる。どうして、どうしてここにいるのだろう。ああ眠い。身体中で蝉の鳴き声がする。
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