ゴン  津木林 洋


 ゴンが隣の米屋のところに来たのは、私が高校生になったばかりの頃だった。その年、一カ月もたたない間に二度も路地裏から空き巣に入られて、主人があわててどこかから貰ってきたのだ。薄茶色の雑種の牡犬で、顔のあたりだけが白かった。私の家は母が美容院をやっており、滅多に留守にすることはなかったが、それでも隣に番犬が来たことで安心するところがあった。
 だが、ゴンはよく吠えた。番犬としては当然そうあるべきなのだが、誰彼構わず見境なく吠えるのである。ひょっとして飼い主にも吠えているのではないかと思えるほどだった。まだ子犬なので恐がっているのだろうと私も私の家族も思っていた。それに狭い路地裏に繋がれているのだから、ストレスも溜まるだろうと同情するところもあった。夜には主人が散歩に連れていくのだが、それだけでは足りなかったのだろう。
 子犬とはいえ、ゴンに吠えられるとどきっとした。私の家と米屋は棟続きで、その隣の家ともう一つで四戸一になっていた。私の家は一番端で、路地を挟んでまた四戸一の長屋が続いている。表は美容院の出入りになっているので、外に出るときは横の路地を通るのである。そのため路地裏を使うことは滅多にないのだが、風呂場のガスの火をつけに行くときなど、それが横の路地にあるにもかかわらず、足音とか気配で吠え立てた。顔を覗かせたりしたら、それこそ大変である。何事かと思うほど吠え続ける。主人が出てきて、こちらの顔を認めると、「お隣さんやないか」とゴンの頭を叩いた。それでもゴンは吠え続ける。
「すんませんなあ」と主人は恐縮した顔をする。吠えるほうが番犬としてよろしいやんなどとお愛想を言うことなど思いもしないほど恐縮するので、私は「いいえ」と言って顔を引っ込め、そそくさと家の中に戻る。
 二、三カ月もすれば顔を覚えるだろうという私たち家族の見込みは、見事に外れた。半年経っても一年経っても、来たときと同じように吠えるのである。
 結局、ゴンはバカ犬であるということになってしまった。そうなると不思議なもので、ゴンの吠える声に対して恐いという感じがしなくなってしまった。バカ犬がこちらを恐がっているというふうになって、逆に面白がるようになった。
 一階の便所の小窓から格子に顔を押しつけてゴンを驚かせるということを発見したのは、私だった。ちょうど窓の斜め下にゴンの犬小屋があり、不意に顔を覗かせると、ゴンはびっくりして後ずさりし尻餅をつく。しかし次の瞬間、鎖をちぎらんばかりに引っ張って吠え立てる。こちらが顔を引っ込め、再びわっと出すと、一瞬ひるんだように後ずさりして啼き止むが、また先ほど以上に吠える。何回やってもその度にひるむのである。あまりやっていると、主人が出てくるので適当なところで切り上げるが、試験勉強の後のストレス解消にはもってこいだった。
 二階の勉強部屋の窓も路地裏に面していたから、そこから顔を出せば、ゴンは吠えたが、便所の時ほど迫力はなかった。時には気づかないことがあり、こちらがウーとかいう声を出すと、ようやくそれに応えるといった具合だった。どうも高いところからは敵はやってこないと思っているようだった。
 私が高校生の間はずっとそんな調子で、大学に入って名古屋に下宿し、たまに帰ってきたときも、ゴンは私の顔を見て吠えた。もっとも大学三年、四年のときは、夏休みはアルバイトに明け暮れ、正月も母親にうるさく言われて元旦だけ帰るといったふうだったから、ゴンとは全くと言っていいほど顔を合わさなかった。家に帰ると両親とは必ず卒業後の進路の話になるから、家に帰りたくなかったのだ。自分が何をしたいのかわからないまま就職する気はなかったので、取り敢えず大学院に進むつもりでいたが、そのための勉強など一切していなかった。大学院に行けたら、それでいい、などと虫のいいことを考えていた。そのため両親に大学院に行くとは言えなかった。いや、言わなかった。もし言えば、そうか、そうかということになり、修士課程なら二年、博士課程ならもう二年面倒を見ようということになりかねない。それが嫌だった。
 それでも四年生になると、夏頃から就職の話が周りで起こってくる。私は理科系だったので、その当時は卒論担当の教授の許に、各企業から求人の依頼が集まってくるのだ。それを教授が学生の意向を聞いて割り振るのである。売り手市場なので、就職したいと思えば、どこかに就職できた。
 担当の教授が私に就職の希望を聞いてきたとき、私は進学する旨のことを述べた。教授はえっという顔をし、それからちょっと笑顔になって、そうか、それなら頑張りなさいと言った。あの笑顔はたぶん苦笑だったのだろう。私の成績は大学院に行くには程遠いものだったからだ。
 秋になって両親にも、これからどうするかを話さざるを得なくなり、進学するつもりだと言った。ただし、学費と生活費は奨学金その他で自分で何とかするから、大学卒業後は仕送りはいらないと宣言した。そうしておけば、大学院に行かなくても文句は言われないだろうという計算があったのだ。
 案の定大学院試験に落ち、形の上では浪人ということになったが、勉強など全くしなかった。家庭教師を二つ掛け持ちし、その合間にアルバイトに精を出した。
 父親が癌で倒れたのは、卒業して二年たったときだった。母親から電話を受けて、その日に私は大阪に帰った。家庭教師とアルバイト先には事情を説明して当分休ませてもらうことにした。母親は美容院をやっており、兄は市役所に勤めていて、父親の看病は暇な私が主に担当するということになってしまった。
 ゴンはすっかりおとなしくなっていた。久しぶりに路地裏を覗いたとき、寝そべった姿のままこちらをちらっと見るだけで、全く吠えなかった。便所の小窓から勢い込んで顔を突き出しても、気づかないのか知らん顔をしている。犬の年齢というのはわからないが、年老いているように見えた。皮膚病に罹っているのか、背中の所々が禿げているのでそのように見えるだけかもしれなかった。
 米屋の主人はもう一日中鎖に繋いでおくことはせず、夜には自由にさせていた。そのことを戻ってきた当初、私は知らなかった。
 母と病院での看病を替わって、家で夕食を摂った日のことだった。終わってテレビを見ていると、がりがりと何かが引き戸を引っ掻く音がし、開けるとゴンが入ってきたので私はびっくりした。
「お、来たか」と兄が言った。兄が近寄っていくと、ゴンは沓脱ぎのところで尻尾を振っている。兄はしゃがんでゴンの首を抱え、よしよしと頭や喉を乱暴に撫で回す。だが見ていると、ゴンはどうもうれしそうではない。かといって迷惑顔でもない。好きなようにさせておくといった風情だった。それがすむと、兄は近くにあったアルミボールを取り上げて、炊飯ジャーのところまで行き、蓋を開けた。その時ゴンは先ほど以上に尻尾を振り、沓脱ぎから身を乗り出して床に前脚をつけている。それを見咎めて兄がしっと言うと、ゴンはあわてて沓脱ぎに戻った。
 兄がボールにご飯をよそってゴンの側まで持っていくと、ゴンはますます尻尾を振り、首を伸ばしてボールの中身を見ようとする。兄が沓脱ぎのところにボールを置くと、ゴンはがつがつと食べ始めた。
 米屋の犬だからご飯が好きだというのは当たり前と言えば当たり前なのかもしれないが、その時は何とも奇妙な感じがした。
「ゴンて、ご飯が好きなんか」と私は兄に訊いた。
「そうや」
「何かかけてやったほうがええんとちゃうの、味噌汁とか何か」
「そんなんかけたら食べよれへん」
 二、三カ月前からちょくちょく来るようになって、ご飯をやると大喜びしたので、それ以来ずっとこうだと言う。
「お前はご主人の商売の手助けをしてんのか」と私はゴンに声を掛けた。
 ゴンはボールにこびりついたご飯粒を取ろうと前脚で引っ掻いていたが、そのうちボールがひっくり返ってしまった。ゴンは半球になったボールを二、三回前脚で動かしてから、首を上げてこちらを見た。催促しているような目である。
「もう終わり」そう言って、兄は引き戸を開けた。ゴンは兄を見上げ、それから外を見た。
「ゴン、アウト」兄が外を指さすと、ゴンはおとなしく出ていった。
「へえー、いつ仕込んだん」と私が言うと、兄は得意そうな顔をした。
 父の癌はS字結腸に出来ていて、開腹したが、手遅れで摘出することが不可能だった。それで腸の詰まった部分にバイパスを作って、取り敢えず消化した物が通るようにした。医者は半年から一年の命だと言った。父には癌であることは伏せて、慢性大腸炎による腸閉塞ということにした。一カ月入院して、十一月の半ばに退院した。
 父が帰ってくると、ゴンを家の中に入れることが難しくなった。父はきれい好きで、犬の毛が床に落ちるのを嫌がった。しかも台所である。不衛生であるし、くさい臭いがするのはもってのほかというわけである。夜、引き戸を引っ掻く音がしても、父がいると開けることが出来なかった。父が二階に上がって台所にいないと、ゴンを入れてやったが、ご飯をやるときも父が下りてこないか気をつけなければならなかった。それでも、たまに見つかることがあった。
「犬を入れたらいかんやないか」と父は怒鳴った。
 私も兄もあわててご飯の入ったアルミボールを取り上げ、引き戸を開けてゴンを外に追い出そうとする。しかしゴンは脚を突っ張って抵抗する。
「はよ、追い出さんか」父はいらいらした声を出す。仕方なくアルミボールを外に置いて、それにつられてゴンが出たところで引き戸を閉めた。
「もう二度とあの犬を入れたらあかん。何で入れるんや。隣の犬やないか」
 父の叱る声を兄と目を合わせながらやり過ごした。
 それからはゴンがやって来ると、どちらかがの階段の側に立って、父が下りてきそうになると、合図を送るということにした。
 父が翌年の四月に死ぬと、ゴンは誰に咎められることなく、堂々と勝手口から入ってきた。主人が鎖に繋ぐのを忘れていると、一日中入り浸っていることもあった。ゴンは受け口の犬で、沓脱ぎのところに寝そべり、十センチほど高くなった台所の床に前脚を交差させて乗せ、その上に顎を置く。そうやって少し下の歯を見せながら上目遣いに人を見るのである。
 従業員の女の人がゴンを見つけると、「おまえ、隣の番犬と違うんか」と頭を軽く叩いたりした。
 夜の九時頃には鎖を外されているので、引き戸を開けると、その音を聞きつけてゴンが路地を走ってくる。餌は毎日与えられているはずだが、必ずやって来た。開けるのを忘れたりすると、前脚の爪で戸をごりごりとこすった。意地悪く戸を少ししか開けないと、その間に鼻先を突っ込んでくる。沓脱ぎに入ると、まずお座りをさせる。それからおもむろに炊飯ジャーの蓋を開ける。そのときゴンを見ると、お座りなんかとうに止めて立ち上がり、尻尾を振っている。どうかすると、台所に上がっていることもある。そんなときは「お座り!」ときつく言うと、あわてて沓脱ぎに戻り、尻をつけたり浮かしたりしてお座りをする。アルミボールにご飯を入れ、もう一つのボールに水を入れて、ゴンの前に置く。きちんと下に置く前にゴンは口を突っ込んで食べ始め、あっと言う間に食べてしまう。こびりついたご飯が舌でも取れなくて、前足で引っ掻き、ボールをひっくり返してしまうのは、毎度のことだった。
 お預けを教えたのは、兄だった。ご飯の入ったボールを置くと同時にゴンの首を抱え、「お預け」と言う。これを何度か繰り返すと、一応お預けを覚えた。一応というのは、ほんの十秒くらいしか出来ないからだ。「お預け」と言うと、ゴンはボールのご飯と兄の顔をひんぱんに見比べ、ついにはだんだんと頭を下げていって、ご飯を食べてしまう。
 パンがあれば、ご飯の代わりにやったこともあった。パンをちぎって投げると、ゴンは飛びついて食べるのである。兄はよく台所の奥に投げ、ゴンがあわてて飛んでいって、木の床で滑って転ぶのを見て喜んだ。
 ゴンはでんぷん質のものなら何でも好物だったが、それでもご飯が一番で、パンをやったあとでも、ジャーの蓋を開けたりすると、すっと立ち上がった。
 もしご飯の残りもパンもなかったら、大変である。沓脱ぎに寝そべったまま動こうとしないのである。首輪を引っ張ってもだめで、尻を押すと引き戸のレールとか枠に脚を突っ張るようにして抵抗するのだ。反対に充分ご飯を与えると、戸を開けただけでゆっくりと出ていった。
 名古屋を引き払って、父の仕事を代わりにやっていた私は、結局それを継ぐことになった。仕事といっても、父は祖父の残してくれた三宮の土地に定年退職後小さな雑居ビルを建て、そこに水商売の店を入れて、家賃を集めていたのだ。父が病気になって、もうひとつの不法占拠で裁判中の土地にも雑居ビルを建てようと母が言い出して、その和解交渉や銀行との融資交渉、建築会社との交渉も、父の看病の合間に弁護士や税理士に教えられて私がやらざるを得なかった。
 父が死ぬと看病することもなくなり、ビルも建築工事が始まって、私のすることは家賃の集金くらいしかなくなってしまった。一日中ぼおっとしている私にさすがに堪忍袋の緒が切れたのか、母が「大の大人が何してるの。仕事でも探しなさい」と叱った。
 なるほどその通りだと私は思った。しかし何をしたいのかわからなかった。取り敢えず名古屋にいたときと同じようにアルバイトでも始めようかと求人雑誌を買ってきて、近くの惣菜工場に勤め始めた。
 そうしているうちに、今度は兄が市役所を辞め、英会話学校に通い始めた。英語を勉強するためにアメリカに留学するというのだった。どうももともとそういう希望があったが、父の生きている間は言い出せなかったらしい。
 私はあれと思った。いつの間にか立場が逆転していると感じたのだ。次男という立場だから、好きなようにやらせてもらうと思っていたのが、父の仕事を継ぎ、アルバイトといっても毎日仕事に行くという状態になっている。
 兄は半年間英会話学校に通ってから、アメリカに語学留学に行ってしまった。ゴンの相手は私一人がすることになった。
 お預けもパンのちぎり投げも受け継いだが、それ以上別の何かをさせようという気持ちにはなれなかった。それでも兄がよくやっていたようにゴンが入ってくると、首を抱え、喉とか頭を撫で回し、時には抱き上げて床に寝そべったりした。
 残業で夜遅く帰ってくると、家の前にゴンがおり、「ゴン!」と呼ぶと、一瞬こちらを見、それから弾かれるように駆けてきた。私の周囲を走り回り、体に前脚を掛けてくる。私はよしよしと頭を撫でてやり、一緒に家に入って、ご飯をやった。
 兄が帰ってきたのは、二年半後のことだった。何だかほおけたようになっており、急に環境が変わったせいかと私は思った。しかしゴンはまるで二年半の年月などなかったかのように、兄からご飯をもらい、パンに飛びつき、床の上でじゃれた。
 兄が帰る少し前に私は近くに中古マンションをローンで買って、家を出ていた。毎晩夕食を食べに家に行き、ゴンにご飯をやってからマンションに帰るという生活をしていたのが、ゴンのところだけ取られた恰好になった。
 兄もそのうち英語を生かした仕事に就くだろうと私も母も思っていたが、一カ月経っても二カ月経っても全くそんな素振りを見せなかった。私は兄の英語力を疑ったが、ときどきアメリカから留学時代の友達が来ているところを見ると、そうでもないかと思い直したりした。母は兄が結婚でもしたら住まわせるつもりなのか、近くの建売住宅を買って、私と同じように夜はそこへ寝に帰っていた。あるいはあまり一緒にいると兄の自立を妨げるとでも思っていたのだろうか。
 そんな状態が一年も続くと、さすがに母も心配になってきたらしい。私にどうしたものかと相談してきた。
「がつんと言うたら、ええやんか。僕に言うたみたいに」と私は答えた。
「それとなく言っても、はっきりしないのよ。何をしたいのか茂から訊いてみてくれない」
「お母さんにも言えへんこと、俺に言うわけないやろ」
「兄弟なんだから、少しは徹のこと心配したらどうなの」
「本人の自覚がなかったら、何を言うても無駄やと思うけど」
「そんなこと言わずに、一度訊いてみなさい」
 最後は命令口調だった。私は何だかおかしくなった。父の死後、私がぼんやりしていた頃、母と兄の間で同じようなやりとりがあったのではないかと思ったのだ。
 ある晩、二階で家賃の請求業務をしていて、喉が渇いたので下に降りていくと、テーブルに腰を掛けて兄がゴンにパンを投げ与えていた。ゴンは台所の奥に投げられたパンに飛びつこうとして、案の定木の床で滑って転び、壁に体をぶつけた。転んだままパンを食べると、今度は反対方向に投げられたパンに向かって突進する。また滑る。それを見て、兄が笑っていた。私はかちんときた。
「ちょっと話があるんやけど」と私は言った。兄がうん? というような顔で振り返った。
「いつになったら仕事すんの」
 兄は答えずに、またゴンのほうを見てパンを与え始めた。
「何とか言うたらどうやのん」
 それでもパンを与える手を止めない。私は沓脱ぎに下りて引き戸を開け、「ゴン、アウト」と大きな声を出した。ゴンは床の上に立ったまま、兄と私の顔を見比べている。
「ゴン、アウト」私はもう一度大声で言った。しかしゴンは二人の顔を見るだけで、動こうとはしない。私はますます腹が立ってきた。
「こっちが昼間働いて、夜は家賃の取り立てや検針やテナントからの文句で三宮まで何回も行ってるの、わかってるやろ。何にもする気がないんやったら、ちょっとは手伝うたらどうやのん」
 兄は俯いてパンをいじっている。
「何とか言えよ」
 私が大声で言うと、兄はパンをゴンに投げ、テーブルから降りて二階へ行ってしまった。私は溜息をついた。ゴンを見ると、パンを平らげてこちらを見ている。私は炊飯ジャーのところまで行き、蓋を開けた。ご飯がまだ残っている。ゴンは思い切り尻尾を振っており、「お座り」と言うと、その場で尻を降ろした。
「そこと違うやろ」と私はゴンの首輪をつかんで沓脱ぎに降ろした。そして二つのボールを取ると、ご飯と水を入れてゴンの前に置いた。ゴンは何も食べていないかのようにがつがつと食べた。時々水を舌でぴしゃぴしゃやり、残ったご飯粒を前足で引っ掻いて、ボールをひっくり返す。ついでに水の入ったボールまでひっくり返し、沓脱ぎが水浸しになった。それをゴンは舌でなめる。
「お前は気楽やなあ」思わず口から出た。
 ゴンはひっくり返ったボールを引っ掻いて、どうにもならないとわかると、こちらを見上げた。私は引き戸を開け、「ゴン、アウト」と言った。ゴンは一呼吸置いてから、ゆっくりと出ていった。
 それから一、二カ月経った頃、仕事が遅くなって八時少し前に家に行った。誰もおらず、私一人分の夕食だけが用意されていた。それを食べ終わった頃、路地を複数の足音がやって来た。引き戸が開き、兄と見知らぬ女性が入ってきた。若くてぽっちゃりとした感じである。
「来てたんか」と兄が言った。見知らぬ女性が頭を下げる。私もつられて小さくお辞儀をした。
「仕事が遅くなったもんやから」私は言い訳のように言った。
 二人は私の斜め横に腰を降ろした。三人がテレビを見る。私は間が持たず、立ち上がって食器を流しに片付けた。ついでに洗おうかと思ったが、そんなことをしたら話すのを拒否していると取られかねないので、私はテーブルに戻った。何か言えよと私は兄の顔を見た。兄はテレビを見て笑っている。こちらから何か訊くべきかとも思ったが、紹介するのが先だろうと私は頑なに黙っていた。彼女も時々こちらを見、それから兄に視線を向ける。
 テレビがコマーシャルに入ったところで、ようやく兄が「紹介しとくわ。これ、弟」と言った。
「どうも」と私は頭を下げた。
「この人、白石澄子さん」
「白石澄子です。どうぞよろしくお願いします」彼女はテーブルの端に指先をつけて、丁寧に頭を下げた。
「いいえ、こちらこそ」
 話はそれだけだった。もっと何か言えよと私は兄に対して思ったが、兄はテレビを見るだけだ。二人はどういう関係なんですかなんて、こちらから訊くのも変だろうと私はいらいらした。
 その時、引き戸をごりごりとこする音がした。
「お、来た来た」と兄が立ち上がった。兄が引き戸を開けると、ゴンが入ってきた。兄がいつものようにゴンの首を抱えて、喉を撫でる。彼女も側に寄って、ゴンの頭を撫でた。
「犬、飼ってたの?」と彼女が訊いた。
「いいや。これは隣の米屋の犬や」と兄が答えた。「毎晩家に来てご飯食べるんや」
「餌、もらってないの?」
「いや、もろてると思うけど、それでも来るんや」
「夜食?」
「夜食かあ。うまいこと言うなあ」
 兄は、面白いもん見せようかと言って食パンを一枚持って来、ちぎって台所の奥に投げた。ゴンはあわてて走っていき、滑りながらパンを口でくわえた。
「おもしろーい」彼女が手を叩いて喜んだ。兄は調子に乗って、反対側に投げた。ゴンがまた飛んでいく。
「ねえねえ、私にもやらせて」
 兄がパンを渡すと、彼女は「この犬、何て言う名前」と訊いた。
「ゴン」
「ほら、ゴン、夜食よ」と言いながら、彼女はパンをちぎって奥に投げた。ゴンは投げ手が代わっても、同じような勢いで走っていってパンを食べた。彼女はきゃっきゃとはしゃいだ。
 パンがなくなると、兄はボールにご飯と水を入れて沓脱ぎに置いた。ゴンは尻尾を振りながら、がつがつ喰い、例によってボールをひっくり返した。
「よく食べるわねえ」と彼女が言った。「夜食じゃないみたい」
「こいつはご飯が異常に好きなんや。ご飯さえあれば、後は何もいらんのや」
「お米屋さんの犬が、ご飯が大好きなんて、何だか可愛い」
 そう言って、彼女はゴンの頭を撫でた。兄も同じように撫でている。私は二人の姿を見て、ははん、この二人は結婚するんやなと思った。そう思うと、途端に自分が二人の邪魔をしているのではないかという気持ちになったが、いや待て、彼女はこのままこの家に泊まるのか、お袋はこのことを知っているのかと余計なことが頭に浮かんだ。
 しかしこっちが心配することでもなしと、私はゴンと一緒に家を出た。途中までゴンは私についてきたが、国道の信号のところで、「ゴン、ハウス」と手を振った。ゴンは素直に回れ右して帰っていった。
 何日か後に、私は母から兄と白石澄子さんのことを聞いた。美容院のお客さんの親戚の娘さんで、兄と二週間前に見合いをしたということだった。それならそうとひとこと言うといてくれたらよかったのにと私は思ったが、口では「それはよかったやん」と答えた。
「それで相談なんだけど……」と母が切り出した。何となく歯切れが悪い。
「何、相談て」
「徹の仕事のことなんだけど……」
 私はそれだけでぴんときた。私が父から継いだ仕事を兄に任せるということなんだろうと思ったのだ。
 果たして、母の言い出したのはそのことだった。
「ああ、ええよ」と私は答えた。実際、私は貸しビルの仕事にうんざりしていたのだ。
「そう。オーケーしてくれる? よかった」
 母はいくらかほっとした顔をした。
「ただし」と私は言った。中古マンションのローンは貸しビルの仕事から入るお金を当てにしているので、それがなくなるとマンションから出なければならなくなる。
 そのことを話すと、「ローンのお金なんか何とでもなります」と母は胸を張った。
 結局、私が家賃の請求業務だけを担当してローン分のお金を給料として出すということになった。
 二人の結婚を機に、母は二十二年間やってきた美容院を閉めることになった。
 その日は日曜日で、ささやかながら慰労をしようと寿司を取って、兄と白石澄子さんと私が台所で待ち構えていた。しかしシャッターの音が聞こえても、なかなか母が姿を見せなかった。店内に行くと、母が泣いていた。頭がすっぽり入るドライヤーや椅子、鏡などを触りながら、泣いていた。「ご苦労さま、ご苦労さま」と呟いているようだった。私が高校生の時にハンドドリルを使って直した洗髪用の椅子も撫で、私を認めると、「この椅子もお陰で最後まで持ったわ」と泣き笑いの表情を見せた。
 ひとしきり泣いてタオルで涙を拭うと、母はさっぱりとした表情になり、「泣くつもりなんかなかったんだけど、店の中を見回していたらなんか昔のことを思い出して」と笑った。
 店を始める時、清水の舞台から飛び降りるつもりで銀行から六十万の借金をして、それが返せるかと夜も寝られなかったらしい。開店した日、チラシをいくつかの新聞にかなり入れたのに、午前中は一人もお客が来なくて青くなったという。午後になって、美容材料を仕入れている会社の社長が様子を見に来て、手持ちぶさたにしている母や従業員にはっぱをかけた。
「そんな店の中で景気の悪い顔してじっとしてたら、あきまへん。みんなで外へ出て、お客さんを呼び込まな」
 社長は率先して表に出て、手を叩いてお客を呼び込み始めた。母も従業員もそれにつられるように表に出て、声を出した。ほどなくお客さんがやって来て、その日は夜の十時まで営業したという。
 みんなで寿司をつまんでいると、ゴリゴリと戸を引っ掻く音がする。開けると、ゴンが入ってきた。
「そう、お前も労ってくれるの。それじゃあ」と言って、母はボールに鮪の寿司をひとつ入れた。
「お母さん、そんなん食べへんて」と兄が言った。
「そうかしら」
 母は構わずボールをゴンの前に置く。ゴンは鼻で臭いを嗅いでいたが、結局食べようとはせず、顔を上げて私たちを見た。
「ほら、見てみいな。食べへんやろ。もったいないことしたなあ」兄が不満そうな声を出した。
「そう。ゴンは贅沢が嫌いなのね」
「お母さん、違う、違う」
 私は母に手を振った。白石澄子さんがぷっと吹き出した。
 ゴンにはジャーに残っていた黄色くなったご飯を与えた。喜んで食べ、ゆっくりと出ていった。
 店を取り壊して、兄たちの新居にすることになった。私は母の家のほうに夕食を食べに行くため、ゴンには会えなくなった。米屋の主人は白い小さな犬を新たに飼い、ゴンの世話をほとんどしなくなった。兄はゴンが来たら以前と同じようにご飯を与えるつもりだったが、家が改装されたせいか、やって来なくなったらしい。
 私がゴンを最後に見たのは、冬の夜中だった。兄の家で家賃の請求業務をして帰るとき、薄暗い横道にごみ箱をあさっている影があった。ゴンかもしれないと私は小さな声で、ゴンと呼んでみた。犬の影はごみ箱をあさるのをやめた。
「ゴン」私は大きな声を出した。犬はゆっくりとこちらにやって来た。やはりゴンだった。ゴンははあはあと舌を出しながら、私を見た。前よりもいっそう年老いて、苦しそうだった。私はしゃがんで、頭を撫でてやった。手許にご飯のないのが、残念だった。私はしばらくゴンと一緒にいてから、その場を離れた。かなり歩いてから振り返っても、ゴンはこちらを見ていた。
 それから一カ月ほどたって、「近頃ゴンを見かけないけど、どうしたんやろ」と兄に言うと、「病気で死んだらしい」と答えた。
「らしい」というのはどういうことか訊こうと思ったが、やめにした。「死んだらしい」ということは、「生きているかもしれない」ということだと私は思ったからだった。

 兄たちは長男が三歳になったとき、彼の喘息がよくなるかもしれないと、家を売り払って神戸に引っ越していった。隣の米屋は跡を継ぐ者がなく、店を閉めてしまった。母はしばらくの間どうしてもという馴染み客のために家で美容の仕事をしていたが、それも途切れると俳句とゴルフに精を出し始めた。
 阪神大震災の時、二日間兄と連絡が取れず、私は大いに焦った。母も留守で、もしかしたら兄の家に行っているのではないかと心配した。
 果たして母はちょうどその日兄の家に泊まりに行っており、激しい揺れに目を覚まし、家が倒壊するのを覚悟したと言う。幸い兄の家は神戸の西のはずれで倒壊を免れたが、三宮のビルは小さい方が全壊し、再建するのに三年掛かった。
 震災後、私は兄の家を見に行った。一見しただけでは、何の損傷も受けていないようだったが、兄の指摘で見てみると、土台が浮いていたり、壁と柱の間に隙間ができたりしていた。
 庭には、以前はいなかった犬が放し飼いにされていた。長男の喘息も治って、やっと飼えるようになったらしい。そこにゴンのことが頭にあったのかどうかは聞きそびれた。マックスという名前のゴールデンレトリバーの牡で、非常に人なつっこくて全く吠えない。私が近づいていくと、前脚を体に掛けて甘えてくる。あまりにも屈託がなさ過ぎて、私は少々持て余した。
 私はこの前の誕生日で五十歳になった。三十四の時に一つ年下の女性と結婚したが、二人で話し合って子供はつくらなかった。ときどき老後をどう過ごそうかという話になる。妻は私が先に死ぬことを前提に話をするので、苦笑するしかない。いくら話し合っても、最後には結局なるようにしかならないという気持ちになる。
 そんなとき、ふっとゴンのことが頭に甦ってくる。
「死んだらしい」ではなく、「生きているかもしれない」という終わり方。自分もそういうふうにはできないものかと。
 しかしすぐにそれは不遜な考え方かもしれないとも思う。どこが不遜なのかうまく説明できないが、それはゴンだからできた終わり方だと思うのだ。



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