湿った部屋の戦士達  あかね 直


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 「しばらく帰れないだろうな」
 長浜店準備室に出向辞令が出たのは五日前なのに、漸く弘子に言えたのはそれだけだった。夜食のお茶漬け、弘子が作ってくれた鮭の身をほぐしながらだったから、繁夫の声はぼそぼそと途切れる。
 引き継ぎ、送別会、と毎晩遅く帰り、弘子とゆっくり話すのは今しかないのに、それなのに、十一時を過ぎてもやっぱり何も切り出せない。
 今晩車を走らせれば、明朝八時から始まる会議には間に合う。明日からは寮で寝泊まりする。取り敢えずそうする。郊外の大型スーパー長浜店には家族用の社宅と単身用の寮が近くにある。そこに入る。寮に一人で入る。後は、はっきりと転勤辞令がでてから決める。だから、茨木のアパートはこのままに、荷物も置いたままにする。そう決めたはずなのに、まだ迷っている。
 弘子と一緒にいたい。だけど、長浜に行けば、ほんの気紛れで一緒に棲みはじめた弘子のことを忘れられるかもしれない。そしたら、誰かと結婚をして、子供が産まれ……その子を育てて家族を作り……いや、そんなことはできない。弘子と別れることはできない。
 取り壊しの噂に年々空室がめだつ古ぼけたアパート。靴を脱げばそれだけで一杯になる勝手口のような玄関、台所、四畳半、その奥の六畳。縦に並ぶ細い空間。
 一年余り一緒に暮らした弘子はこのまま茨木のアパートに居続けるだろうか。それとも別の男を探すだろうか。知り尽くしたはずの弘子の身体が妙に薄っぺらい紙のように感じ、首、肩、腕、胸、着古したTシャツのその下の体温まで繁夫は見つめようとする。
 他の男に抱かれている弘子を想像したら身体中にもぞもぞ虫が這い上がる気がして、長浜に行くのが億劫になる。いよいよ明日からだというのにまた仕事を辞めたくなる。

 この夏、繁夫の店ではストック場、商品の搬入搬出場の空調と電灯を切った。大幅な経費節減を言い渡されたからだ。クーラーも効かず明かりもない作業場、残業費カット、人手不足の上に週休二日制の導入、長期休暇制で益々一人の仕事量は増える。
 先日も、取り引き停止になったはずの雪印のチーズが一ケース入ってきた。雪印は牛乳の食中毒事件で全商品売り場から撤退中なのに大騒ぎになった。
 どうやら担当したパートの主婦が発注メールを暗い非常灯にかざして送った為に数字を押し間違えたらしい。幸い業者に引き取ってもらい返品できたが、納品されたチーズの箱を見て、その主婦は泣きだし逃げるように早退した。繁夫は慌てて引き留めたけれど、結局そのまま無断欠勤を重ね辞めてしまった。
 あれ以来、パートの人やバイトの学生の視線が冷たい。パート一人に責任取らせた、と噂が飛び交い、社員はいいね、長期休暇でも給料が引かれなくて、ボーナスが年間十カ月なんてと、嫌みを言われたりするが、本社で新規採用になるエリートと違い中途採用の繁夫は、パートタイマーと同じ一年契約の準社員扱いで病気にでもなればすぐ解雇になる。入社して五年、三十二歳の繁夫は便利な人材として十一月にオープンする新規店へ出向させられる。本社幹部の使い捨ての駒のようにだ。 (略)

 



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