オオクラ荘第一  若林 亨


 夜になっても気温の下がらない日が続いていた。夕方まで降っていた雨のせいで今夜は特に蒸し暑かった。新しいエアコンが付くまであと三日の辛抱だったが、引っ越してまだ一週間の慣れない環境に公一は柄にもなく神経を高ぶらせていた。上体を起こして柱にもたれていると少しは眠気がやってくるのだが、横になるととたんに頭がさえてしまうのだ。それは最初の夜からだった。はっきりとした理由は分からないが、暑さのせいだけではないような気がしている。
 この五軒長屋に決まるまで二か月以上もかかってしまった。もうすぐ三十歳になる失業中の男を快く受け入れてくれる家主がなかなか見つからず、捜しているうちにだんだん街中から離れて、とうとう一本の路線バスしか通らない山あいの小さな町に落ち着いた。バスで十五分ほど走ったJR駅前にあるスーパーマーケットだけが頼りの寂しいところだった。家賃が学生寮並に安いのは便所が未だ汲み取り式のままになっているためで、それさえ我慢すれば広さは十分だったしバイクに乗れば不便は感じないだろうと思った。勤めていた印刷工場が突然閉鎖になり、社宅を出なければならなくなって慌てていたのだ。
 南端の一番明るそうな一軒が空いていたのは良かったが、すぐそばの県道を大型トラックが通るたびにかなり揺れた。部屋の土壁が崩れ落ちそうなほど激しい時もあった。ある程度民家の集中しているところでも人影は少なく、夜になると鈍い街灯に照らされた田畑が海のように光って足元をすくってきた。慣れないと歩きにくいほどだった。
 水を飲もうと公一は立ち上がった。通りに面した台所の磨りガラスに影が映ったのはその時だった。
 午前二時。シルエットは髪の長い細身の女だった。あっという間に横切っていった。こんな時間にだれだろうとは思ったが、何ひとつ想像が膨らまないので残像もすぐに消えていった。
 強烈にのどが乾いていた。ゆっくりと冷蔵庫に近づいてひと息入れた。するとまた目の前が暗くなった。影は同じ方向からやってきた。
 等身大のシルエットは二メートルも離れていない表の道から焼きつくように公一の目に飛び込んできた。
 確かに女だ。服を着ていない。磨りガラスを通してでもはっきりとそれは分かった。薄い胸だった。しかし確かに女の胸だ。
 公一にもう眠気はやってこなかった。柱にもたれたまま、込み上げてくる欲望を自分で処理して明け方を迎えた。
(略)



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