今年の夏は記録的な猛暑の年であったらしい。そのうえ降雨量の少なさも、記録では六年振りとのことであった。各地の水不足が伝えられるなか、郷里の日吉ダム湖の干上がった映像が、何度かテレビ画面に映し出されるのを見た。
丹波高原のほぼ中央に位置し、ダム下流域の治水と京阪神地域の水不足を解消する水がめとして計画されたこの多目的ダムは、昭和三十六年にその計画が発表されてから、それにともなう様々の経緯を乗り越え、完成まで実に三十七年間の歳月を経て、平成十年に竣工運用が開始された。
しかし一方では緑の渓谷沿いに点在したふたつの集落が湖底に沈み、百五十四所帯四百九十九人の人々が先祖伝来の地を捨て、離村やむなきに至ったのである。そのありし日の故郷の断片を永久に留めようと、水没地区から移築した茅ぶきの民家がダム湖畔に建つ。
それらはダムの付帯施設として湖畔を巡るサイクリングロードの他に、山林を切り開いた広大な土地に、府民の森として野外活動を始めとする様々の施設が設けられている一郭にある。その(府民の森)オープンセレモニーの招待状が私のもとにも届いた。因みに自分は水没地区の出身でもなく、その地には連綿と続いた先祖の苔むした墓碑だけがただあるのみだ。それはともかく、ゴールデンウイーク中の一日を、私は招待状に案内されたダム湖畔に出かけた。
いつもは静かな山間も当日は多くの車列と人出で賑わい、二十九億三千万円の巨費を投じられた施設の開園式典は、地元選出の大物代議士先生らによるテープカットにより、盛大に執り行なわれたのである。
その日から三カ月がたち、私は墓参のために帰省した折ふたたびダム湖畔に立ち寄ってみた。夏休み中の日曜日にもかかわらず、施設の充実さとは裏腹に利用者はまばらで、たまに見かける人影も保全や清掃などの施設関係者ばかりが目につくのだった。
先述の茅ぶきの民家が並ぶ常設展示郷土資料館も、先人達の残した文化や風習など、古代から近代に至る歴史的に貴重な資料が展示してあるにもかかわらず、受付と事務の職員がいるほかはここも深閑としていた。肌寒いくらいに冷房の利いた館内を一人きりで見学して回ること約四十分、とうとう出口まで見学者らしき誰にも会うことはなかった。
いわずとも、地域活性化の期待を込めて作られたであろうこれらの施設を思うとき、なかなか思惑通りにいかない難しさを思った。都会と遠くの観光地との間にあっては、たんに通過地点にすぎなかったこの地域に遠来の人々を呼び込むためには、金をかけて施設を作れば人が来るだろうという発想の転換が必要とも思えた。ともあれ、山村と都市住民との交流の場として壮大な構想のもとに整備された施設の、さらなる利用者の増加を願わずにはいられなかった。
《消え行くものは悲しく哀れで/それが立派であればあるほど/何よりも寂しく惜しいものである。(中略)消え行く運命の部落と山河を/そういう眼を通して書き残したい。》
資料館に展示されていた水没地区の人々が編んだ文集のなかの、詩の一節が印象に残った。
創刊五十記念号以後、同人先輩諸姉兄のつちかわれてきた誌史に、最近新同人の参加が著しい「せる」だが、今号はストーリー作りの巧い上月さんの初登場である。
(林)
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