(略)
「別にだれかを待ってるんじゃないんです」
私はいまそんな風に目の前の男に話しかけている。始めて会った時と同じようになめらかに、そして安心して。握りしめていた百二十円の入場券を指につまんで見せた。
「大いなる気晴らしです。ちょっとやけくそみたいなものです」
「やけくそですか」
「そうです」
男が現れてからまだ五分もたっていないのにずいぶんと長く隣に座っているような気がしていた。
「女房には嘘をついて出てきたんです」
「嘘を」
「ええ。十日ほど無断欠勤を続けている同僚に会いに行くってね。なかなか連絡が取れなかったんだけど、昨日ようやく電話があって、あしたの朝六時にこのホームで会いたいと言ってきたから上司と一緒に行ってくる。そいつはここしばらく元気がなくて、みんなで心配してたんだって」
男は聞き終わると同時に後ろを振り返った。だれもいないのは分かっていたが、私も男に合わせて一回だけ振り返った。男は続ける。同じ方向に体をよじり、さっと後ろを気にかけてすぐ元へ戻す。それを二回、三回、四回と。これが男の習慣だった。何かを確かめているのではなく、体が勝手にそう動いてしまっているかのようだった。最初は不気味に感じたが、見慣れてしまえばどうということはなかった。しばらくすればおさまる。そこからまた話をすればいいだけのことだ。
二、三分ののち私は続けた。
「女房は言いましたよ。がんばってきてねって。そんなこと言われても嘘の中でなにをがんばればいいんでしょうね」
女房に嘘までついてどうしてこんな時間にこんなところへやってきたのか。自分でもうまく説明がつかない。ただいてもたってもいられなかったのだ。家も会社も私の居場所ではなくなっている。
(略)
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