編集後記

◆1999年12月31日(金)  あと数時間で1999年が終わる。
 炬燵に寝転んで「紅白歌合戦」を見ながら、モバイルPCのキーボードを叩いている。 今年はY2K問題があり、なんとなくせわしい年の暮れである。私の職場でもコンピュータ制御式の列車用表示器担当者2名が会社で待機している。今頃はきっとコンビニで買ってきた年越し蕎麦を食べながらテレビでも見ているのだろう。 1999年……「ノストラダムスの予言」ははずれたが、「リストラを発表すれば企業の株価があがる」という、なんとなく居心地の悪い年であった。 先日、テレビのスイッチをいれたとたん、白人の女性が私にこう言った。「あなたには、首を切る権利があるのです。」 「だから解雇を通知するとき、けっして同情するような素振りをみせてはいけません。」一瞬凍ってしまったが、それはNHKの特集番組のヒトコマで、人事担当者対象の講習会風景であったらしい。
 この人は身内の者が解雇されたときも、例えば亭主に対しても「あなたには首を切られる義務があるのです。」というのだろうか……すぐにチャンネルを変えたが、そんな思いがしばらくの間、頭から離れなかった。 最近「ミレニアム」という言葉をよく目や耳にする。日本語では「千年紀」と表記するそうである。2000年代は第3ミレニアムになる。しかし、<2000年>といっても、それは西暦の話で、和暦でいえば平成12年である。ちなみにインターネットで「イスラム暦」を検索したら、「西暦2000年1月1日」は「イスラム暦」では「1420年9月24日」にあたることが分かった。ついでに「チベット暦」を調べたら「2126年11月25日」ということであった。
 つまり西暦を採用している世界以外では、来年は世紀末でもなんでもない年ということになるわけである。 浜崎あゆみが「Boys&Girls」を歌いだした。     ”輝きだした 僕達を誰が止めることなど出来るだろう
     はばたきだした 彼達を誰に止める権利があったのだろう……”
 それにしても紅白の人選は、どういう基準で行われているのだろう。新聞紙上に並ぶ一群の歌手名から、私の能力では明快な分類ができない。想像力を全開し、やっとたどり着くことができた仮説は、日本の人口を男女別、年齢別に区分し、その比率按分でそれぞれの世代を代表する歌手を選出するというものであった。その結果、Jポップ、ロック、演歌、浪曲、クラッシックもどきetcという訳のわからない老若男女の集団が形成される。 たぶん考え過ぎだろう。実態はもっと単純な古来からの日本的規範、つまり「義理と人情」、NHKとプロダクションおよび歌手個人等との既得権が絡んだ微妙な力関係。
    ”輝きだした 私達ならいつか明日をつかむだろう
     はばたきだした 彼女達なら光る明日を見つけるだろう……”
  浜崎あゆみファンの少年は思う。「どうしてあゆが小林幸子と同じステージに立たなければいけないんだ。」 小林幸子と美川憲一の衣装合戦を見ると、毎年、これで冥土の土産ができたと呟くおばあちゃんは思う。「今の若い子の歌は、どれもこれも同じ、うるさいだけで何言ってんのかよう分からんわ。」
 誰もが少しづつ満足し、誰もが何となく不満をもつ……確立した価値観のない状況、中心のない揺れの中にいるような状況。
 私はある文章を思い出す。モバイルPCのプログラムをポケットワードからクイックパットに切り替える。それはランダムに書き込んだメモを管理するデーターベースである。その中にこんな一節がある。 『……ちょっと問題と思うのは、周りを見回したときに主流がないんですね。一方に主流があり、もう一方に個人的なものがあって、両方がせめぎ合って文学の流れはできていくはずなのに、ハッと気がつくとメーンストリームがない。それは、やはり寒々しい風景です。』 誰の言葉なのか記憶がない。 1999年……我々を取り巻く状況は、どこもかしこも希薄で不安定、どのジャンルを見ても一見個性的で選択肢が豊富にあるように見えるが、実はそこには本当の意味でのオリジナルはなかなかない。アンチテーゼを唱えるにも、何に向かって叫べばよいのかわからない。 主流がなく非主流が同時並行的に乱立する状況、その中から自分が気に入ったものを見つけ、組み合せ、巣箱に獲りいれる。そこで自分の居場所を見つけるには、やはり自分自身を対象化しなければならない。その手段のひとつが表現することなのであろうか。
 クイックパットの次ぎのページには、こう書かれていた。 『……文章というものを通してなら、……時代は変わっても、人間が本当に深いところで悩んだり迷ったりする部分は変わらないんです。……』 たぶん同じ思いで、今頃、中尾さんは「レストラン・フローリア」を、奥野さんは「カーニバルのけはい」の推敲に励んでいるのであろう。 (AI)




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