二〇二五年一月一日はいつもの過ごし方と違っていた。それは前の年の元日の午後に起きた能登半島の地震とその後の復興状況のこと、この先、起きるかもしれない南海トラフ巨大地震のことを考えていたことに起因する。
元日とは、いつだってこれから始まる一年がどんな年になるのかなと、おせち料理を食べ、お雑煮を食べ、正月用のTV番組を観ながらお屠蘇を頂く日だった。つまり元日には何も起きないと思い込み、誰もが無防備に過ごす日だったのだ。
能登半島地震が深く自分の心に根ざすことになったのにはもうひとつ理由があった。去年の五月中頃に旅に出た。上諏訪から塩尻で乗り換えた『しなの一号』はざっと見たところ三分の二くらいは席が埋まっていた。自由席なので通路側に腰をおろすと窓側に座っていた大学生くらいの男子が少し顔を歪めた気がした。そこから前の席を見てみると、反対の列にどちらも空席の場所があったのですぐ立ち上がり移動した。その場所に行ってみるとリュックを膝上にのせた高齢の女性が座っていた。小柄のため背凭れから頭が出ていなかったのだ。白いマスクをしていて、席の隅っこにスキーのストックのような杖が二本立てかけられていた。彼女はハイキングに行くみたいな恰好をしていたがそれにしては仲間が一緒にいる訳ではなかった。これから集合場所へ向かうのだろうと予想してどこへ行かれるのかと尋ねた。彼女から返ってきた答えは、これから金沢へ向かうのだと。能登半島地震で被災し輪島の家が半倒壊したので今は木曽福島に仮住まいしている。今回は管理を頼まれている親戚の家の点検に行くのが目的で自宅に行くのではないそうだ。彼女は十七年前の能登半島地震の時も被災した。復興のときにオール電化にしたのが今回は仇となり自宅に住めないのだと言った。最後に彼女が話してくれたのは、震災後、地元に被災した女性たちで作った復興に向けたグループのことだった。そのリーダーが「タカねえさん」とみなに呼ばれる九十七歳の最高齢の人だということ。彼女は「タカねえさん」から「あんだ、若いんだからしっかりね」と言われていることを明るく語ってくれた。電車は長野駅に着き、彼女はストックを両手にホームを歩く。わたしは連絡先を交換したい思いと、いや、このまま一期一会として別れるべきか悩んだ。そんなわたしに彼女から「またどこかで会いましょう」と手を振られた。
今年の一月一日は今号の四作の編集会議に向けて再度読み返しをした。小説を書くことは生きること、と言えば大袈裟なと言われるかもしれないが、作品からはそれが伝わるものばかりだった。 (西村)