編集後記

 編集後記

 歩きながら本を読んでいる人をたまに見かける。後ろ姿からでも分かるから不思議だ。スマホを見ているのではない。背中の曲がり具合がちょっと違う。首の垂れ方もちょっと違うように思う。
そこまでして何を読みたいのだろう。視線がぶれて気持ち悪くならないのだろうか。きっと活字中毒なのだ。いやいや活字中毒ならうれしいけれど、実情は日々忙しすぎて少しでも時間節約のために泣く泣くそうしているのかもしれない。だったら悲しい。
時間というやつはやっかいなものだ。時間がなければ何も進まないが、あったらあったで困ってしまうこともある。
時間がもったいないからといってぎりぎりまで家にいて、早足で駅に向かって定刻の電車に飛び乗ったものの、ちょっとでも早く目的地へ着きたいから途中で新快速に乗り換え、いざ目的地に着いてみたら早く着き過ぎていて中途半端に時間が余り、退屈しのぎをしなければならないはめに。
退屈は危険だ。退屈でも人は死ぬ。でも時間を余らせてどうするのだろう。スピード狂の現代はゆっくりのんびり生きていきたい人には苦難の時代でもある。
這えば立て、立てば歩めの親心
子どもの立ち上がりが遅いと気をもむ若いお母さんに「ゆっくりでええんやで」と年配の女性が声をかけていた。「言葉が遅いんです」と言う人には「早ようしゃべっても結局は一緒やで」と。
そういえば一分レースというものがあった。早さを競うのではなく、いかに一分に近づけてゴールするかというもの。ずいぶん前のことだが、地区の運動会ではある距離を一分かけて走るという種目があった。また中学のプールの時間には端から端までを一分で泳ぐというテストがあった。早くてもダメ、遅くてもダメ。おそらくみんな一分よりうんと早く着いてしまったに違いない。記憶があいまいだったので何人かの同級生に確かめてみたが、みんな知らないと言っていた。
小説を読んでいる途中で残りはどれくらいあるのかと確認することがある。退屈しているのだ。急いで読む必要もない。時間をかけてゆっくり読めばどんな作品もそれなりに味わいはあるものだ。急ぐことは自分を苦しめることにもなる。
せる116号。今回の三作品はけっして退屈しない。
(W)