わたしたちのグループでは、作品を載せる前に、書き手を交えて編集部だけの合評会を行い、それをもとにして書き手は再度作品を手直しするということになっている。だから、編集委員はどのような意見を提示するかけっこう難しい。それに、問題も生じる。
書き手の意図と編集委員のとらえ方との間に違いが生じる場合が多い。書きたいものを提示するための触媒的箇所が、編集委員の興味をひいたりする。むしろそれが中心だと考えたりする。
だったら、書き手が自分の意図を最初に提示しておけばいいと思うかも知れないが、そうはいかない。以前、そのようなひとがいたが、編集委員のすべてからひんしゅくをかった。というのは、それが読み手の自由を束縛し、素直な読みが出来ないばかりか、意図が優先され、具体的出来事が意図の絵解きになってしまう。読む気力さえ萎えてしまう。
作品にとって最重要なのは、具体的出来事の展開であり、それがあっての意図である。意図は読者がとらえるべきもので、書き手が最初にどうこう言うものではない。
ただし、このような場合はまだいい。書き手は、読み手の意見を聞き、書き直せばいい。
ところが、提示の作品に小説の規範とずれていると考えるところがあるのだが、それが作品を個性的にしているのかもしれないと思う場合がある。これを認めるべきかどうか悩むのである。委員の意見が対立する場合もある。そのための参考になる考えを最近読んだので、引用しておく。
「伝統を気楽に無効にすることは許されない……人類が長い歴史のなかで価値を与えてきた多くの洞察に対し気楽に一方的に無効を宣言することが許されるわけではなく……何が、正しいふるまい方であると世間ではみとめられているかを(しっかりと認識し)……規範に反するふるまいには周囲に同意を得られるような理由が必要である」(清水真木「感情とは何か」・ちくま新書)
これは創作に関して述べたものではないが、創作の場合にも言えることではないか。物語から発展して現代小説に行き着いたのであるが、その長い歴史の中で確立された小説の規範は、まずもってしっかり認識し、その上で、自分の表現したい内容が規範によって抑圧されると考える場合、それを読み手が納得できるように描くべきであろう。決して、単に新しがるために規範を無視すべきではない。規範からずれる場合「周囲に同意を得られるような理由」が必要であり、作品を読んだものが、そうせざるを得なかったことを納得するようなものでなくてはならないだろう。 (お)