事の始まりは今から三年前、二〇一四年五月のことだった。大阪文学学校宛に私へのメールが届いた。差出人は、名古屋にある森村記念館という私設の大和絵美術館の館長で、森村という人だった。「せる」八十八号に載った「画道遙かなり」をネットで読んで、いたく感動したので、出版する気がおありなら是非手伝わせて欲しいという内容だった。
その頃、七月締切の第二部「宇喜多一蕙」の追い込みに入っていたので、そのことを告げ、さらに、第三部の冷泉為恭を書く予定であること、出版に関しては第三部まで書き上げてから考えると返信した。
十一月に「宇喜多一蕙」の載った「せる」九十七号が出来上がり、早速森村記念館に送った。森村さんからは、面白く読みました、第三部の完成を心待ちにしております、という返事が届いた。
しかし、二年半ほどかかってほとんど這うようにしてゴールした「宇喜多一蕙」の後で、すぐに次に取り掛かる気力が湧いてこない。集めた資料をつらつらと眺めたり、リハビリと称して別の作品を書いたりした(現代物を書くのがこんなに楽だったとは!)。
森村さんには第三部を二〇一五年中には何とか書き上げたいとメールをしていたのだが、実際は三十枚くらいしか書けなかった。その年の十月には、進捗状況を尋ねるメールが来て、私は、来年の二〇一六年十一月に「せる」に発表する予定と返信した。完成予定を先送りすることに心苦しさはあったが、書けないものは仕方がない。
すると二〇一六年一月に、第一部と第二部だけでも先に出版させてもらえないだろうか、森村記念館開館三十周年記念の事業として企画したいというメールが届いた。私としては三部合わせて一つの作品という気持ちがあったのでためらいはあったが、今の執筆状況では到底二〇一六年中に脱稿しそうもない。三十周年記念事業ということなら、ということで私は申し出を受けた。
出版社を中日新聞社にしたと聞いたときには驚くと同時に不思議な因縁を感じた。私がそもそもこれらの復古大和絵師三人に興味を惹かれたのは四十数年前、『作家』という同人誌に載った作品がきっかけで、その作者は中日新聞出版局の局長も歴任した人なのだ。
六月に打ち合わせのために名古屋に行った。森村記念館は栄のど真ん中の、ちょっと奥まったところにあった。森村宜高さんは私よりいくつか年上の、白い顎髭を蓄えた温厚な人で、現役の大和絵画家である。作品を書くに当たって、川合玉堂の「日本画の描き方」を読んで勉強したが、現役の目から見たらおかしいところがあるのではないか。私は森村さんに尋ねてみたが、そういうところはないということだったのでほっとした。
遅れてやって来た中日新聞社出版局の担当者と話し合い、第一部、第二部をそれぞれ四六判の単行本として二〇〇〇部、口絵入りのソフトカバーにするということになった。私が不思議な因縁のことを話すと、担当者は、企画を通す有力な後押しになりますと喜んだ。
打ち合わせが済んで二ヵ月ほど経った頃、メールが届いて、出版費用が予想外にかさむので二作品を合本して一冊にし、A5版のハードカバーにしたいと言われた。A5版は大きいので小説を読むには不向きではないかと思ったが、スポンサーは森村さんなのですべてお任せすることにした。
題名の「とつげん・いっけい」は私の提案だが、それだけではキャッチとして弱いということで、担当者が「維新に先駆けた絵師」という副題を付けた。この副題は田中訥言と宇喜多一蕙にはふさわしいが、冷泉為恭にはおよそ似つかわしくない。為恭は、”維新に殺された絵師”なのだから。そういう意味では、二作品を先行したのはよかったのかもしれない。
表紙には訥言の「百花百草図屏風」を使い、それぞれの絵師の代表的な絵を口絵にし、三校のゲラ校正も済んで、本が出来上がったのが二〇一六年十月三十日だった。
その日は、名古屋市が毎年開催している「やっとかめ文化祭」の二日目にあたり、私もその中のイベントの一つとして、森村記念館で森村さんと復古大和絵についての対談をすることになっていた。予定ではもっと早く刊行して、それを読んだ人たちが参加してくれることを期待したのだが、遅れてしまい、当日サイン即売会をすることになった。
出来上がった本を見たとき、結構豪華な作りで、馬子にも衣装という言葉が浮かんだ。口絵も美しいので、中身もよく見える。四苦八苦しながら書いていたときは、まさかこんな本になるとは思ってもみなかったので、不思議な気持ちになった。
インターネットの力を改めて思い知らされたし、書き続けていれば誰かが読んでくれるのではと思える今回の出版だった。