(一)
一九八六年五月、佐久間周吾は子宮がんで母を亡くした。父も二年前に、脳溢血でこの世を去っていた。小学六年だった周吾は、JR三ノ宮駅近くで骨董品店を営む母の妹に引き取られることになった。
周吾は、叔母が好きではなかった。父の死後、仕事で家を空けがちな母を援助するため、叔母はたびたび堺のアパートにやってきた。両眼が離れた不気味な容姿で、いつも臙脂のブラウスに芥子色のスラックスと赤い靴下を履いていた。合鍵でドアを開けて部屋に入ってくるなり、叔母は周吾にキスをした。そんな叔母が待ち構える家に行くのは嫌だったが、母の葬儀に訪れたのが叔母と母の知人二人だけだったので、周吾には他の選択肢がなかったのだ。
叔母に連れられて店舗兼家屋にやってきた。築四十年ほどの二階建ての一軒家である。ここにくるのは初めてだった。表札には、叔母に店を残した祖父の名と、吉田粂子という叔母の名がならんでいた。醜い顔貌に引けめを感じてか、叔母は独身だった。二年前に三十歳くらいだと母がいっていたのを周吾は覚えていた。
家に入るなり、叔母は舌なめずりをしながら周吾を浴室に連れていった。湿った手で髪を撫でると、周吾の耳たぶをなめた。キスをしてきた日の思い出が蘇り、周吾は「イヤ」といって身をよじった。叔母は眉を吊り上げ、眼をむくと、両手で周吾の両肩をがっしりと掴んだ。思いの外、強い力に周吾はたじろいだ。
叔母はゆっくりと周吾の服を脱がしジーンズを下ろすと、足を片方ずつ上げさせて靴下も脱がせた。周吾は歯を食いしばる。靴下を鼻先で揺らすと、叔母は深呼吸をした。周吾の眼を凝視しながら、最後にブリーフを下ろした。白く小さなペニスが露わになる。周吾はさらに体を硬直させた。叔母の荒れた唇が、周吾の潤いのある唇に重なってきた。ボロぎれのような臭気を感じて、周吾は顔をしかめた。叔母の厚い舌が周吾の口の中に入ってきて、小さな舌をなめ回す。唇を離すと、舌をあごから首にかけて這わせ、そのまま右の乳首に唇をつけた。頭皮の脂のにおいが周吾の鼻先に漂う。
これが意味のあることなのか、周吾には理解できなかった。ただ黙って従うことが生きていくことの役に立つのだと信じて、周吾は固唾を飲んで堪えた。体中の血が脳に上っていくのが分かる。恐怖心で拒めないのもあった。周吾には長い時間に感じられた。
舌は乳首を離れ、周吾の腹をぐるりと一周なめると、いつしか勃起していたペニスを口に含んだ。周吾はすぐに射精した。初めての射精だった。全身が不思議な感覚に包まれていたが、恐れと不快感が周吾の脳のしわに深く浸透していった。
叔母はごくりと精液を飲み込むと、満足げな笑みを浮かべた。「よかったねぇ。おばちゃんもよかったよ」。そういいながら、叔母は周吾の体にシャワーをかけ、手のひらで丁寧に体の細部まで洗った。湯加減は少し熱めだった。タオルで周吾の体を拭きながら、叔母は離れた眼を緩めるのだった。
周吾の父も母も、周吾が幼い体を弄ばれていることを知らないと考えた途端、ふいに悲しさがこみ上げてきた。今日からこんな日々が続くのかと思うと、周吾の心は重く沈んだ。
周吾は近くの市立小学校に転入した。一人っ子特有の孤独が好きな性格から、クラスに溶け込むには時間がかかった。とりわけ、女子生徒とは、口を利くことさえできなくなっていた。
学校で給食を食べる以外は叔母が作るご飯を食べた。食べさせてもらっている負いめから、叔母の気分次第で夜に浴室で裸にされ、思うままに愛撫されたあと射精する生活を受け入れていた。自分というものはなかった。
叔母は、毎日深夜に、臙脂のブラウスと芥子色のスラックスと赤い靴下一式を洗濯し、夜中に干して、翌朝同じ服を着た。懇意な男がいる訳でもなく、月に三度全国に骨董品を買い付けにいくほかは、終戦直後、闇市にでまわったという美少年の全裸写真集を眺めながら、店でギリギリと音のする回転椅子に座って日がな一日を過ごしていた。
この家にきて初めての誕生日は、叔母が買い付けに出かけた日だった。周吾は一人部屋にこもっていた。天井のシミを眺めながら、二年前の誕生日の夜のことを思い出していた。
小学四年の一月十七日は、朝から小雨が降っていた。周吾の誕生日を祝うため、淡路島から冨吉じいと菊乃ばあが、フェリーと電車を乗りついでアパートまで遊びにきていた。
普段はアルコールを飲まない父が、その日はビールを二本あけた後に日本酒まで飲んだ。パンツ一枚で神輿をかつぐ真似をしたり、腹を抱えて大笑いしていた父は、周吾の成長のことや草野球チームの連敗記録のこと、母が掃除好きなことなどをしゃべり続けた。しかし、酔いがまわったのか、青ざめてくると、急に父は一升瓶を振りまわしだした。「あいつら、納期納期と畳みかけやがって。自動車会社は国の基幹産業という傘を被って、わしらぺいぺいを使い捨てのボロ雑巾や思てこき使いくさる。自分らを神や思とるんや」ため込んでいた会社への怨嗟をひと通りまき散らした後、矛先をかえて冨吉じいと菊乃ばあを脅迫的な言葉でまくしたてた。「お前ら土着農民は、朝から晩まで飽きもせんと草むしりと土いじりばかりしてやがる。それしか能がないんや。使う頭といやぁ鶏の首を絞める時どっちにひねるかってこと。減反があるんかないんか、枯草燃やす火が突風で家に燃え移らへんかてゆう爪垢ほどのことばっかしや。つまらん人間はみな、地獄へ連れていくど」
二人は父を無視していた。愛着ある自分たちの生活を反芻するように、母のだしたご飯を噛みしめていた。周吾は豹変した父よりも、父を黙殺してご飯を食べ続ける祖父母の姿に恐怖を感じた。その恐怖から、周吾はべそをかき始めた。母が周吾を隣室の寝床へ運ぶと、後ろ手に襖を閉めた。部屋は真っ暗だった。周吾は涙をこらえながら、暗い部屋で耳をそばだてて様子を窺った。ピシャッと定規が割れるような弾力のある音が響いた。「どないなってしもたん。このごろ、ずうっと黙り込んで。口開いた思たら、これや」母はそういった後、啜り泣いた。雨はやむことなく降っていた。父のこの夜の酔狂は、周吾の心に一筋の長く暗い影を落とした。
翌朝、周吾は玄関の扉が開く音を聞いて、眠い眼をこすりながら玄関口にでていった。靴箱の上の時計は六時前だった。扉が少し開いたままになっている。足許を見ると三本、三ツ矢サイダーの缶が置いてあり、「プレゼント」と書いたメモが敷いてあった。周吾はつっかけを履くと扉を開けて表通りにでた。父はバス停に向かう角を曲がるところだった。「お父さん」一度だけ叫んだ。角を曲がりかけた瞬間、父は周吾の方を向いた気がした。
その夜、父は帰ってこなかった。
次の日、島に戻った菊乃ばあから電話がかかってきた。父が本家で、脳溢血で倒れて亡くなったという知らせだった。母は受話器を持ったまま立ち尽くしていた。しばらくして受話器を置いた母は、周吾の方を向くと、口を押さえてその場に泣き崩れた。数分後、母は叔母に電話をかけ、「葬儀に出るから周吾を預かって」と頼んだ。周吾は一緒に行くと訴えたが、なぜか母は許さなかった。結局、周吾は父の葬儀に出なかった。
母が信頼できたのは、叔母だけだったのだ。
叔母から恥辱を受けた夜、周吾は布団の中で、叔母とは似ていない母のことを思い出した。眼を瞑ると、眼の下がどす黒い母の顔が現れた。周吾を抱え、一人残された母は、若さに任せ体を酷使して働いた。朝は八時前に周吾と一緒に家をでて、午後三時ごろに一度帰宅すると、夕飯の支度と掃除をして、五時に華美な服に着替えて再び家をでた。次の帰宅は朝刊の配達と同じ時刻だった。どんな仕事をしているかは一言も漏らさなかった。周吾は毎朝六時半に起き、布団で眠る化粧をしたままの母の寝顔を見つめた後、トースターに食パンを入れ、湯を沸かしてコーヒーをいれた。平日はそんな生活が続いた。土曜の母は一日中、深い眠りに落ちていた。日曜はアパートの近くにある印鑑製作所で日雇い作業をしていた。それだけは知っていた。
ある日、母と母方の墓参りにでかけた時、持参したマッチの先が湿っていて火が点かなかったことがあった。「もしここが真冬の雪山やったらどうすんの。これが点かんと死んでしまうんやで。死ぬ気で点けんと」と母は必死にマッチをすり続けた。先端の燐がボロボロとはがれ落ちた。そんなふうに自分を窮地に追い込んでいくような人だった。働くことをやめたら周吾を野垂れ死にさせてしまう。だから、周吾との時間を削っても無心で働いたのだ。そして、死んでしまった。
周吾は中学校に進学した。一年の二学期に入ったころ、叔母は離れた眼をむきながら、「毛も生えちまったしねぇ。むけたら終りさ」と周吾に囁いた。周吾はこの家から出たいと考えたが、一人で稼ぐこともできず、そのまま叔母と暮らし続けていた。家にいる間は、自分の部屋にこもって勉強に集中した。
周吾は県下でも有数の公立の進学高校に合格して通い始めた。叔母はどこで仕入れたのか、若い男が裸でベッドに横たわる写真集を眺めながら、回転いすをギシギシと鳴らしていた。大人になり始めた周吾には完全に興味をなくしていた。二年の終わり、不気味な顔を間近に寄せて叔母はいった。「こっから通える国立をめざしな。金は出してやる」
周吾は六甲中腹にある大学の教育学部を受験し、難なく合格し、なんとなく入学した。叔母に学費を頼りたくなかったのでサークルにも所属せず、親しい友人も作らないで、入学早々からバイトに明け暮れた。ライブハウスの店員、家庭教師、違法ビデオの販売員、新聞配達員をかけ持ちしながら、一年が過ぎていった。
二年の初春の月曜、ライブハウスの店員数名と徹夜で飲み明かした朝だった。彼らと別れて、六甲道駅前の喫茶店でもうろうとする意識の中、ゆで卵をかじっていると、向かいの席に一人の女の子が座ってきた。
「佐久間君よね。はじめまして。私は、くすみあきよ」というと学生手帳を見せてきた。楠見明代と書いてある。「楠を見あげて明るい時代を祈る人、って覚えて。教育学部の三回生よ。いつもあなたを見てた。何かに追われるみたいに息せききってバスに飛び乗る姿を見て、好きになったの。変でしょう。でもよろしく」明代は黒髪を後ろ手に括っていた。額は狭く、薄い眉が水平に伸びている分、黒目勝ちの垂れた眼が大きく見えた。黒い瞳も神秘的だが、頬のこけ方も彼女を特徴づけている印象的な部分だった。唇は薄く淡い桃色をしている。
呆気にとられた周吾は、照れ隠しに大きな欠伸を一つすると軽く頭を下げた。女の子から声を掛けられたのは、小学校三年以来だった。明代は、店員にミックスジュースを頼むと、「お子さまだから」と笑った。「佐久間君て一人っ子でしょう。あれだけ人を寄せ付けない雰囲気を醸しだせるなんて、一人っ子以外にいないもの。分かるわ、同じにおいを感じる」と自分も一人っ子であることを告白した。誕生日を尋ねられ、周吾が「一九七四年一月十七日」と答えると、「同じ早生まれね。私は、七三年の三月二十九日よ」と明代は眼元を緩めた。
「どこに住んでるの。ご両親と同居?」の問いに、周吾は「両親はもう死んでるんや。今は叔母と住んでる」と答えた。明代は申し訳なさそうに眼を伏せた。周吾は「気にせんといて」といって、コーヒーを一口飲むと、「君は」と尋ねた。「家は長田区。両親と住んでるの。父は本州四国連絡橋公団に勤めてる。明石海峡大橋の建設に携わっていたみたい。母は保険外交員なので出張が多くて、全国を飛びまわってるわ」と周吾の眼をじっと見つめた。
ミックスジュースが運ばれてきた。「生まれて初めて飲んだジュースがこれだったの。百貨店の屋上のレストランで。だからいまだにこればっかり頼んじゃうの」そういって勢いよく飲み干すと、「授業があるから、また」と周吾の伝票も持ってレジへ向かった。周吾は嵐が去ったような気分を味わった。明代は手を振りながら喫茶店を出ていった。閉ざしていた心に、あけ透けに入り込んでくる女性に初めて会った気がした。
その日から、明代は積極的に周吾に接触してくるようになった。学年が違うので同じ授業を受けることがなく、授業が終わると構内の喫茶室の決まった席で待ち合せるようになった。周吾はコーヒー、明代はミックスジュースを飲んだ。特別なことをするわけでもなく、二人でただ構内を歩いた。周吾がほとんど友達がいないことを告げると、「私もよ」と明代は目線を上げ、周吾の眼を見ながら微笑んだ。
明代は日本の古代史に興味があり、『日本と古事記』という本を愛読していた。父親の影響だという。「国生み神話に基づいて、家の神棚には、ひと房のぶどうと桃が三つ供えられているの」と明代はイキイキと語った。
「淡路島にある伊弉諾神宮に祀られてるイザナギさんが、イザナミという女の神様と一緒に淡路島を作ったの。島をミケツノクニと呼んでたヤマト朝廷が、原住民の海人族のいい伝えを借りて、古事記の冒頭に記した話、聞いたことある?」そういって右の頬を人差し指でさすった。
「天つ神っていう神様の団体から地上がドロドロなので固めて国を拵えろといわれて、矛を渡されるの。天の浮き橋からその矛でドロドロの地上をかきまわして、先から落ちた塩が積もってオノコロ島ができたの。絵島か成山か沼島のどれからしいんだけど、詳しくは分からないの」周吾はコーヒーをすすりながら耳を傾けていた。
「二人はオノコロ島に大黒柱を立てて、勝手に御殿を拵えたの。その柱を互いに左右からまわりあって出会ったところで、女のイザナミから契りを申しでて愛しあったの。なので、ヒルコとアワシマという不具の子供ができてしまうの。子供といっても島のことよ。それらは船で流してしまったわ。ヒルコの子孫がインド族を作ってそこから仏教が生まれて、アワシマの子孫がユダヤ族を作ってキリスト教が生まれたという説もあるんだけど。今度はイザナギさんから申しでて、最初に淡路の島ができたの」周吾は「淡路島に、爺ちゃんと婆ちゃんが住んでるはず。生きてたらだけど」と口を挟んだ。明代は「そうなの、奇遇ね」と微笑んだ。
「イザナミは四十も島を生むんだけど、最後の火の神様を生んだ時、大事なところが焼けて死んでしまったの。イザナギさんは、子供と引きかえにイザナミを亡くすのはつらいといって、イザナミの枕元で泣き崩れたわ。その後、比婆の山に穴を掘って埋めたの。埋めてから、子供の火の神の首を剣ではねて死者の国のヨミへイザナミに会いにいくの」明代はグラスにささったストローで氷をかき混ぜた。
「出迎えたイザナミに、イザナギさんは未練たらしく一緒に帰ろうと誘ったんだけど、イザナミはヨミのご飯を食べたので帰れないというの。それでもヨミの番人と議論してくるといって、イザナミは一度奥へ帰っていくの。絶対に中を覗かないでといって。でも待ちきれなかったイザナギさんは、ろうそくに火つけて中へ入ってしまったの」いつになったらぶどうと桃の話になるのかと、周吾は待っていた。
「そこには蛆が全身を這いまわるおぞましいイザナミの姿があったのよ。体の八箇所に雷神が生まれた汚らわしいイザナミに、恐れをなしたイザナギさんは逃げだしたの。醜い姿を見て恥をかかせたわねっていって、イザナミはヨモツシコメという手下の女たちに追いかけさせた。イザナギさんは頭に巻いていたカズラの冠を女たちに放り投げると、そこから山ぶどうが生えてきて、女たちはそれを食べたわけ。次にイザナミは雷神と千五百の軍人に追いかけさせるんだけど、イザナギさんは剣で戦って、何とか地上とヨミとの境まで逃げてきたの。すると足許に、桃の実が三つ生えていたので、拾って追っ手に投げると、みんな退散したんだって。イザナギさんは桃の実に、地上で人間が苦しんでいたら助けてやってくれと頼んだの。そこでぶどうと桃を三つ供えているというわけ」子供に絵本を読み聞かせるように話す明代は、クライマックスまであとひと息といった感じで続けた。
「最後に蛆まみれのイザナミ自身が追いかけてきて、イザナギさんは千人がかりでも動かせない岩を置いて道をふさいだの。そこで、もうお前は私の嫁ではないと三行半をつきつけたところ、怒ったイザナミは毎日千人の人間を絞め殺してやるって叫ぶの。そうしたらイザナギさんは一日に千五百の産院を作って、千五百人の人間を生ませようと告げて別れたんだって」
周吾には難しくて理解しがたかったが、興味あることを熱心に語る姿を見ながら、明代に興味が湧いてくるのがわかった。「いつか淡路島に旅行しましょう」といって明代はミックスジュースを飲み干した。
ある夜、周吾は、週末だけ手伝っている新長田駅近くのライブハウスに明代と顔をだした。
明代はカンパリソーダを飲みながら、「私もだけど、佐久間君も協調性がない上に自分勝手よね」といった。
「どこが」周吾は答えた。
「だって、バス停に向かう途中、構内を走りながら人にぶつかっても知らん顔だし、出発したバスを止めようとして乗車口のステップに飛び乗ったりするし」明代は熱っぽい。
「ノロノロと前を歩いてるやつが悪いんや。いっつも遅れて出発すんのに、あの時は定刻通りに出発したから止めたんや」周吾はこめかみを軽く押さえた。
明代はグラスに口をつけると、一口飲んで続けた。
「小さいころ、一人っ子って嫌じゃなかった? 友達はみんなだいたい兄弟がいたし、一人っ子っていうだけで過保護で協調性に欠けてて、人の意見を受け入れなくって、何かに対して立ち向かえない人間って決めつけられるんだもん。私、兄弟がいない寂しさより、一人っ子はダメだって思われてることの方が悲しかったな」
周吾は、明代の話に答えた。「たまたまうちの家には俺しか子供ができんかった、それだけやと思とった。ケーキの取りあいはなかったけど、もともとケーキを買うてもろた記憶もないし、ノートや鉛筆は、兄弟がいようがいまいが、どっちにしてもいるもんやしな」
明代を上眼づかいで見ながら、周吾はつけたした。「小学生のうちに親父もお袋も死んだから、おセンチな気分にひたってる場合やなかったしな」
周吾は一人っ子の宿命より、両親が若くして病死していることから、自分も早く死ぬのではないかという焦燥感や、叔母に生活を保護されていることの嫌悪感、そしてはやる独立心にさいなまれていた。
「私って甘やかされてるわね。お父さんもお母さんも、何ごとにも慌てないようにってハンカチもちり紙も、ランドセルや手さげの中に余分に入れてくれてたもん。おおらかな子になって欲しいって思ったんでしょうけど嫌だったな。だから嫌なことは顔にはださないって自覚しながらも、まっすぐに強く生きたいと思って生きてきたの」そういって恥ずかしそうに笑顔を見せた。
学内の誰にも冷やかされず、二人でいることを楽しめたのは、他者を寄せつけない一人っ子気質を互いに備えていたからかもしれなかった。
言葉にしなくても通じる特有の空気感を共有しあいながら、周吾は少しずつ明代に心を開いていった。
周吾は明代と会う時間を増やすために家庭教師をやめた。本来、違法ビデオの販売をやめるべきだが、日給のよさと十本売れば五百円の上乗せがあるためにやめなかった。
夏には二人で須磨の海水浴場に出かけた。日焼けを気にしてパラソルの下にばかりいる明代を引っ張りだし、周吾は砂浜に掘った穴に首だけだして埋めた。明代は眼に涙をいっぱいためて、頬をふくらませた。
家族連れや若者たちでごった返す海岸で、周吾は違法ビデオを買いにくる常連客を見かけた。男は妻と二人の娘と一緒だった。娘は小学校高学年と低学年くらいだ。そんな娘がいながら、同年代の少女が中年の男たちにいたぶられるビデオを買いにくる。そして平然と日常を送っているのだ。叔母の姿が重なった。
周吾は波打ち際に唾を吐くと、砂に埋もれて水しぶきを顔に浴びた明代を助けだした。明代の白い素肌に海水の玉が弾けて落ち、砂地に消えた。
秋が深まり、戸外の街路樹の葉も色づき始めていた。周吾は洗いざらしのGジャンの襟をたて、尼崎や新開地の路地裏で違法ビデオをさばいていた。やましさを隠して大枚をはたいていく男たちを見送りながら、周吾は自らの背後も探るようになった。警察への警戒もあったが、この姿を明代に知られたらと思うと、罪悪感が沸き起こった。いっそ叔母に学費を払わせて、大学生活を楽しめばいいのではないかと思う時もあった。
出会って初めての周吾の誕生日は、海の見えるフレンチレストランを明代が予約してくれた。コース料理とワインで二十歳になった日を祝った。女性と乾杯するのは初めてだった。周吾は緊張のため胸が高鳴っていた。テーブルにはステンドグラスの燭台が置いてあり、焔が小さく揺れていた。料理の最後に、誕生日用の特別なケーキが出てきた。明代の計らいに周吾の心は温まった。
二人はレストランを出た。明代はトレンチコートの下に白いセーターを着ていた。「それじゃあ、帰るね」と駅へ向かおうとする明代の手を捕まえて周吾は引き留めた。「もうちょっと、その辺を歩かへんか」門限を気にする明代を、周吾は海岸沿いの倉庫地帯へ強引に誘った。二十になった大人の気分と酔いが周吾を大胆にしていた。
一月の海風は冷たかった。明りのない倉庫地帯は暗い断崖のように見えた。波の音と岸壁に波がぶつかる音が混ざって響いている。陸には街灯りが輝き、海には街の反射光と船のライトが揺れていた。
「「明代の年に追いついても、三月にはまた先に年を取るしな。今日は対等でいられる」そういうと、周吾は積みあがったコンテナの陰で明代にキスをした。暗くて明代の表情は見えない。長い間唇を重ねていた。唇を離すと、セーターの上から右手でやわらかい胸のふくらみに触れた。明代の吐息が声とともに漏れた。潮の香りが風に流されて鼻先をかすめた。周吾は手間取りながら自分のジーンズとトランクスを膝までおろすと、寒さを気遣ってスカートの中の下着だけを脱がせようとした。下着は明代の膝に引っかかり、次いでかかとに引っかかって、脱がせるのに難航した。
周吾のペニスはすでにいきり勃っていた。しばらく明代の濡れた深淵をまさぐっていたが、やがてゆっくりとペニスを沈み込ませていった。下唇を噛みながら口元を手で押さえる仕草を見て、周吾は明代も初めてであることを知った。
激しく揺れた。明代の声がコンテナに響いた。腰を揺らしながら快感に押し潰されそうになった瞬間、周吾の脳裏に醜怪な顔が浮かんだ。浴室で周吾のペニスを舌先で転がす叔母の顔だ。忌避感が快感を押しのけて脳を支配した。悪寒が全身を包み込み、吐き気をもよおした。
周吾は生温かな深淵からペニスを抜くと、明代に背を向け、赤茶けたコンテナの方向に体を向けた。ペニスは空気の抜けた紙風船のようにしぼんでいた。
潮風が冷たく肌を撫でた。トランクスとジーンズを引きあげると、周吾は吐き気をこらえながら、ぐったりとしている明代の太ももを掌で摩った。明代は胸に手をあてたまま、黙って震えていた。
誕生日の夜の後も、明代と何度か肌を重ねたが、射精しようとすると、叔母が赤い舌を覗かせて襲いかかってきた。激しい動悸にみまわれ、意識が真っ白になった。
周吾は何度、明代に、叔母から受けた恥辱の日々について話そうか悩んだが、いいだすことはできなかった。
明代は、果てることのできない周吾の髪を撫で「いつか大丈夫」と微笑んだ。周吾は明代の頬を眺めるだけだった。いつになれば心の底から明代と結ばれるのか。愛情が深まれば深まるほど、焦りは募るばかりだった。
明代は四月で四年生になった。美しい瞳が人事担当者の心を射貫いたのか、教育学とは無縁の地方銀行から早々と内定をもらっていた。
時間にゆとりのできた明代は、周吾の授業の合間の時間に合わせて大学にやってくると、構内の喫茶室で待ち合せた。ミックスジュースのグラスにささったストローで氷をかき混ぜながら、明代は明石海峡大橋の建設に携わる父親から聞いたという橋について話してくれた。
「着工は昭和六十一年、私が中学一年の時。最大水深一一〇m、潮流速毎秒四・五㎞の海峡で工事が始まったの。海底の岩盤を掘れるのは、二ノットの弱潮になる三、四時間だけだったんだって。漁師さんたちに、いつ仕事してるんですかって嫌味いわれたって。海底掘りが終わると、四隻の船で主塔の土台になるケーソンっていう大きな筒を埋めるの。その中に水中でも分離しないコンクリを流し込んで固めるんだって」バイトで徹夜明けだった周吾は、コーヒーを飲んで眠気と闘いながら、黒くて美しい眼を見つめていた。黒い瞳を揺らしながら、明代は楽しげに続けた。「明石側、淡路島側の両方に作る橋の起点になる大きな躯体、アンカレイジっていうんだけど、それらの地盤が完成した祝いに、地下六三・五mの底面でソフトボール大会をしたんだって。お父さん、審判だったらしいの。空はこんなに広いものなのに、中から見たら四角に区切られてて、小さかったって、そればっかりいってたわ」
周吾はいつしかシートにもたれて眠っていた。明代は授業が始まる直前まで周吾を起こさなかった。「なんでいっつもギリギリまで起こしてくれへんのや」と周吾がふくれて聞くと、「あなたの慌てる様子が見たいからよ」と明代は笑って答えるのだった。
周吾はバイトの合間に明代に会い、映画や買い物につきあった。両親のいない時に彼女の家を訪れ、彼女の好きな音楽を聴いた。そうして大学三年は過ぎていった。
一九九五年一月十七日。二十一回めの誕生日の深夜、周吾は何度も眼を開けた。長い夜だった。
明け方、うつらうつらし始めた時、地鳴りのような轟音が響いたと思うと、一階の店舗にショベルカーが突っ込み、真下から二階の床を突きあげる感覚が周吾を襲った。その後、家屋全体がねじれるように揺さぶられ、細長い洋服ダンスが周吾の上に倒れてきた。隣室から「うでがぁぁぁぁ」という叔母の絶叫が聞こえた。嵐の海原で高波の随に漂う小舟のように、板張りの床は大きくうねり、階下では売り物が砕ける音が鳴り響いた。天井が眼の前に迫ったと思うと、すぐにふうっと引き離された。床が抜けたのだ。おかげで洋服ダンスの重みからは逃れられた。メリメリという衝撃があって、四方を囲む壁全体が屋根の重みに耐えかねて崩落してきた。混凝土の破片が降り注いできて、頭から暗幕をかけられたように周吾の意識は途絶えた。
小さな振動で眼を醒ました。周吾は路上に横たわっていた。ゆっくりと頭をもたげると胸部に激痛が走った。深緑色の服を着た男たちの一人が駆け寄ってきて「大丈夫か」と叫んだ。小さく頷くと、違和感を覚えて額に手をやった。包帯が巻いてある。地震があったことは分かっていたが、思考がついていかなかった。寝間着姿の叔母は左腕を三角巾で吊っていたが、生きていた。両眼をむいてほくそ笑んでいる。
夕闇の帳がおりたように空は暗く乾いていた。眼が痛くて周吾は瞬きをしたが、涙はでない。誰が履かせてくれたのか、素足は見たことのない靴におさまっていた。窮屈だった。
周吾は立ちあがると、眩む意識の中で方角を確かめた。背後で名前を呼ぶ声が聞こえたが振り返らず、明代が住む長田の町を目指した。立ち込めた埃の幕とガスの臭いが行く手をおおっていた。踏みだすたびに思いがけないところが痛む。四階部分が崩れ、それ以上の階が傾いて道路に迫りだしているビルが見え、方々で非常ベルが鳴り響いている。アスファルトがめくれた路面には瓦礫が散らばっていた。
ダウンジャケットを着た男たちが、新幹線が横転し高速道路の高架が根こそぎ倒れていると語りあっていた。デマではないかと周吾は思った。しかし、遠くであずき色の列車が脱線し、中央の車両が高架から落下しているのを見ると、あながち嘘ではない気がした。着の身着のままでテントや旅行かばんを抱えた人たちが、火焔が迫る方角を背に怒鳴りあっていた。新聞社かテレビ局のヘリコプターが上空を旋回している。鎮めたい心を逆撫でるプロペラの音が瓦礫をなめた。遠くの空が赤かった。
靴ずれで痛むかかとを休めようと、周吾は高い建物を避けて路傍に横たわった。地震が起きてからどのくらい経つのか、これからどうなるのか、ぼんやりした意識の中で考えた。じっとしていても周期的に痛みが顔を覗かせる。どれくらいそうしていただろう。時間のない世界にいた。破裂した水道管から噴きだす水で腕の傷を洗う中年男の姿が見えた。どこへ向かおうとしていたのか、次第に思いだしてきた。
周吾は足を引きずりながら歩きだした。重苦しい空気が見慣れた景色をおおっている。しばらくして余震で地面が揺れたので、周吾はその場に体を屈めた。
少女が泣きながら歩いていた。靴を履いていない。周吾は履いている靴を譲ってやることさえできない非力を悔やんだ。少女はゆっくりとビルの陰の方に歩いていった。周吾は煙がわだかまるその方向を見つめた。少女はその場にしゃがみこむと、汚れたパジャマのズボンと一緒にパンツをおろして小尿を始めた。周吾は視線を逸らした。その瞬間、「きゃっ」という悲鳴が聞こえた。周吾が視線を戻すと、ビルの奥からリュックを背負った男が現れて、背後から少女に抱きついた。ふいをつかれた少女は仰向けに押し倒された。周吾は全身を貫く痛みに耐えながら力を振り絞って、ビルの陰でうごめく男に近づいた。荒い息づかいの男のリュックを背後から引っ張ると、男はズボンをおろしかけた姿のまま後ろに転がった。周吾は倒れた男の胸ぐらをぐいと掴み、右の頬めがけて一発、拳を振りおろした。額と肘に激痛が走る。男は地面に溜まった少女の尿に顔をつっこんだ。濡れた顔に蹴りを入れる。木の枝が折れたような音がして、地面に血が広がった。
少女は震えながらパジャマのズボンをあげると、よろよろと起きあがった。周吾は地面に倒れて動かない男の足から靴を剥ぎとると、少女の鼻先に差しだした。煤けた顔に二本の筋を残した少女は、黙って首を横に振った。周吾は男の顔に靴を投げつけた。
再び少女はふらふらと歩きだした。周吾は額に手を当てながら、少女の行方を見守っていたが、しばらくして歩き始めた。建物を焼く黒煙の中から、灰か雪か分からないものが舞っていた。大地が小さく振動している。どこへ向かうのか、車道に車やトラックやバイクの長い列が続いていて、周吾と年のかわらない青年が数人、交通整理をしていた。
瓦礫の下の僅かなすき間に顔を寄せ、「大丈夫かぁ」と声をかけている人がいる。柱に『お爺ちゃんがこの下にいます』という紙が針金で巻いてあった。声をかける人と紙をフレームにおさめようと、腕章を巻いたカメラマンがレンズを向けた。近くにいた髪のちぢれた中年女性が「人でなし!」と叫んだ。「これが仕事なんです」とカメラマンはいい放った。
たどり着いた長田の町は焦土と化していた。愛着のない町でも壊滅的な荒野を眺めれば胸に迫ってこないわけはない。明代の家がどこなのか、全く分からなかった。レスキュー隊や自衛隊の隊員が救助活動に取り組んでいた。周吾は地面に鼻を付け手がかりを探した。割れたコンビニの看板、根元からえぐれた郵便ポスト、電柱の下から見える動物の屍骸、全てに灰がまぶされている。靴底が焼けてゴムの焦げた臭いがした。周吾は足を引きずりながら歩き続けた。
ようやく見慣れた砂利敷きの駐車場を見つけた。借り主の名前が書かれた立て看板と車が数台残っている。その斜め前に明代の家があるはずだったが、燃え落ちた材木の集積があるだけだった。駐車場にはブルーシートがかかったモノが二つ横たわっていて、数人の男たちが取り囲んでいた。
周吾は濃紺のベンチコートを着た男に、一か八か、楠見家の状況を尋ねてみた。男はシートに眼をやると、「たぶん、ご主人とお嬢ちゃんや。静岡に出張中の奥さんから、うちに連絡が入ったから。あの火では助からんわ。ご主人は真っ黒やったし、明代ちゃんは……」と答えた。
周吾はおもむろにシートを捲った。全身が炭化した屍体だった。「何するんじゃ。誰や、お前は」男が周吾の腕を掴んだ。激痛にぐわっとうめき声をあげると、周吾は地面に膝をついた。砂利が膝に食い込んだ。男はすかさずシートをもとに戻した。誰かが「あんまり手荒な真似はすんなよ」と男に声をかけた後「あんたはいったい」と周吾に尋ねてきた。周吾は声を絞りだした。
「あ……あきよの、楠見明代の恋人です」
男たちは膝をつく周吾を取り囲んだまま黙り込んだ。しばらくして、濃紺のベンチコートを羽織った男が「あっちが、明代ちゃんや」ともう一つのシートを指した。
周吾はゆっくりと立ちあがると、男が指したシートの方へ歩み寄った。端の焦げたシートを捲ると、体の右半分がケロイド状にただれた人が横たわっていた。煤で黒ずんではいたが、左半分はまだ明代だということが認められた。周吾は軽く揺すってみた。夢の上に夢が上塗りされていくようだった。自分は誰をも助けられる人間ではない。周吾はただれた肌を頭から順に指先で摩っていった。全身の痛みよりも、声にだせない胸の痛みが指先の神経を伝って脳を支配した。息ができなかった。
辺りは薄暗くなり始めていた。
「で、どうするんや」肌をなぞり終えた周吾に、濃紺のベンチコートを羽織った男が尋ねてきた。
「明代のお母さんが戻るまで、ここにいます」
何人かの男たちが周吾のために、倒壊した家屋から木切れを集めてきて火をおこしてくれた。ある人は寝袋と毛布を、ある人はおにぎりを運んできた。
日が沈み、辺りに寒さがじんわりとたたずみ始めた。息が白い。周吾は毛布にくるまり、焚き火の焔の中で揺れている明代の横顔を眺めていた。周吾の眼から涙がこぼれた。明代の亡骸に被さると、周吾は声をあげて泣き伏した。
泣き疲れて顔をあげると、明代の敷地の二軒隣の崩れた家の庭に、毛皮のコートを頭から被り、震えている老夫婦の姿があった。焼けた外車の上に座っている。焦げついた風に乗って、老夫婦の方から下痢便の臭気が漂ってきた。生きているだけましだ。周吾は心の中で呟いた。
夜が明けた。燃え落ちずに立っている電信柱たちは、何かの目じるしのようだった。依然いたるところに煙が立ちのぼり、視界をふさいでいた。
「これ食え」昨日、寝袋を貸してくれた男が、炊きだしの汁物を持ってきてくれた。周吾は礼をいうと、熱い汁をすすった。熱さで口腔の薄皮がむけたが、体に温もりが蘇った。
「うちも七十八の婆さん、柱の下敷きんなって身動きできんまんま燃えてしもた。もっと生きられたやろうに。神さん、怒らせたんやろか」男は飛びでた腹を掻きながら白い息を吐いた。その時、淡いベージュのハーフコートに身を包んだ五十過ぎの女性が、足許をふらつかせながら周吾と男の方に歩いてきた。
「楠見さん」男は煤だらけで放心したように歩いてくる女性に声をかけた。女性は顔じゅう涙に濡らしながら、ブルーシートに駆け寄ってきた。「あきよぉ、あなたぁ」
どこからともなく男たちが集まってきた。今日は彼らの妻たちも何人か顔をだしていた。彼女たちは明代の母の慟哭する姿を遠巻きに眺めながら涙を浮かべていた。明代の母の瞳には周吾の姿は映っていないようだった。
「楠見さん、この若い衆、明代ちゃんの彼氏やって。三ノ宮から歩いてきたんやと。昨日からずうっと明代ちゃんの横につき添って、守しとったんやで」昨日と同じ濃紺のベンチコートを羽織った男がいった。明代の母はうつむいたままだった。
「なぁ、くす……」男がもう一度声をかけようとした時「さんに……」と明代の母のか細い声が聞こえた。「三人で、いさせて。おねがい」今度はきっぱりといいきった。
周吾は近くにいた男に紙とボールペンはないかと尋ねた。男は一度どこかへ姿を消したが、数分後にダンボールの切れ端と油性ペンを持って戻ってきた。礼をいって受け取ると、周吾は大学の就職課の電話番号と氏名の下に《明代の墓ができたら連絡ください》と書いた。そして、うずくまって泣いている明代の母の足許に置いた。
周吾は駐車場を後にすると、ふらふらと黒い荒野をさまよった。数歩歩くと息がきれ、長い時間休まなければならなかった。ライブハウスがある新長田の駅前までたどり着いたが、ビルは倒壊し、地下は瓦礫に埋もれて跡形もなかった。痛む体を引きずって東へと歩いた。手の甲が白く粉をふき、指の神経が壊れているようだった。小学校にならんで炊きだしをもらい、体を休めた。設置された仮設電話で家族に連絡を取ろうとする人々や水タンク車がある仮設給水所にバケツややかんを持ってならぶ人々の姿が見えた。
しばらくして周吾はまた歩きだした。国道沿いの病院はケガ人で溢れ返り、外で治療を受ける人たちが壁際や道路に横たわっていた。周吾は埃っぽい空を見あげた。黒い空に太陽と月が同時にのぼっている錯覚を起こした。
二階部を地面に叩きつけた家屋から空へ巻きあがる焔があった。焔は暖色をはらんでのびあがり、形あるものを喰い潰していた。渦巻く火焔の怪物を周吾は呆然と見つめていた。近づくと暖かかった。この怪物の集合体が罪なき人々を焼き尽くしたのだ。
眼の前の焔の中に、焚き火を透かして揺れていた明代の姿が浮かんだと思うと、純白のその顔は周吾に優しく微笑みかけた。黒く澄んだ瞳とこけた頬。懐かしい声がどこからともなく周吾を呼んでいる気がした。昨晩、感覚のない指でなぞったように、首、鎖骨、乳房、腹、腰、太もも、膝、足首、指へと視線をなぞった。眼の前の明代は美しかった。
ふいに明代の右手が胸元に持ちあがり、一本一本の指が焔の中へと誘うように動きだした。周吾は業火へ歩み寄った。顔にかかる熱気は灼けるようなのに、明代の瞳、頬、声、それらは凍ってゆく。
誰かが周吾の上着の襟元を引っ張った。「わかる。わかるけど、あかん」頭の禿げた中年の男だった。男はそれだけいうと、焦げ穴のあいた白いセーターの腕を摩りながら去っていった。
周吾は、アーケードが落ちたセンター街を抜けて、叔母の家があった場所まで戻ってきた。何日経ったのか、幾度かの夜と朝を超えた。叔母は家の前にテントを張って周吾の帰りを待っていた。テントの中で膝を抱え、身構えたまま動かない叔母を見て、周吾は声をあげて笑った。包帯で吊った左腕を右手で抱えながら立ち上がると、叔母はよろめく足取りで周吾の方に歩いてきた。一度、厳しい眼つきで離れた両眼を向いたが、すぐに表情は緩み、その両眼から涙が溢れだした。そして、ふらふらとどこかへ歩いていった。
その夜、テントを透かして入ってくる淡い月光を背に眠りかけていた周吾は、誰かがテントに入ってくる気配で眼を醒ました。しばらく衣ずれの音がしていたが、やがて動作と音が止まり、影だけが立ち尽くした。上体を起こして振り返ると、左腕を吊った全裸の女が立っていた。腹や腰に肉のたるみはない。唇が赤く見えている。小ぶりの乳房には真っ黒な乳首があり、下腹の茂みは濃い影に溶けていた。
明代は死に、叔母は生きている。最大の不公平であり、最悪の偶然だった。
叔母が右手で髪をかきあげた瞬間、周吾は四十を過ぎたばかりの女に手をのばした。赤い唇から漏れるあえぎに背を押され地面に押し倒すと、指が乾いた肌をまさぐった。「あっ」といううめきとともに下肢を開くと、周吾は熟れそぼった裂けめを指で穿った。周吾は唇の端から涎を垂らす、ぶざまな女の頬を一発張った。女は猫のような声で泣いた。周吾はゆっくりと服を脱いだ。何度も舌先でなぞられたペニスは大人になっていた。周吾は濡れた裂けめに荒々しくペニスを挿入すると、何度も何度も腰を動かした。全身に激痛が走ったがやめなかった。テントの外で靴音と話し声が聞こえた。周吾は体から湯気をあげながらやせた体をくねらせると、温かな裂けめの中で白い恨みを暴発した。
翌朝、離れた眼は濡れていた。叔母は通帳とカードを周吾に手渡すと「姉さんから託された義務は終わったんよ」といい、震える手で通帳の金額の下に暗証番号を書き込んだ。
叔母のもとを離れた周吾は、通帳にあった僅かな金を使いきると、住み込みでヘルスの受付のバイトを始めた。
日替わりで訪れる男たちの澄ました顔を見ながら、コースの案内をし、札を受け取り、釣りを渡した。
「楠見明代は須磨の飯村霊園に眠っています」震災一年後の春、周吾は大学の就職課の事務所で、明代の母親からの伝言メモを受け取った。一年経って踏ん切りがついたのだろうか。いや、母親が娘の死を簡単に受け入れられるはずがないことは、周吾にも十分に分かっていた。その日から、周吾は大学に行かなくなった。
肉欲と金欲のるつぼに身を置きながら、周吾は時折、夢を見た。明代と子供の三人で観覧車に乗っていた。ほかのゴンドラには誰もおらず、周吾たちのゴンドラだけが何周もまわっていた。眼下に広がる大地を見晴るかすと、一面焦土だった。黒い町なみが、復興を待つ感情を無視してへばりついている。ふいに隣の席を見ると、寄り添っていた明代と子供の姿はなく、座席に細かな灰が積もっていた。
そこでいつも店長に体を揺すられて眼醒めるのだった。
ある夏の昼下がり、三ノ宮にある中山手教会の跡地にふらりと迷い込んだ時、周吾は脂っぽい髪が地面までのびた、カーキ色の長袖シャツに同系色のオーバーオールをはいた子供の手をひく叔母の姿を見た。叔母は以前と変わらず、臙脂のブラウスに芥子色のスラックスと赤い靴下をはいていた。ふいに振り向いた叔母と眼があった。両眼の離れた顔は、年月の経過以上に老け込んで見えた。叔母は美少年の全裸写真集を眺めていた時のように小さく口角をあげると、子供の耳元に口を寄せて何かをいい含めた。三、四歳と思われる幼子は、周吾の方に顔を向けると、眼をおおった前髪を指でかきわけた。ギョロリとむいた黄色い眼が周吾を見すえている。男の子のように見えた。どこかで見たことのある顔だちだった。陰うつな表情に誰かの面影を忍ばせている。眼の離れた白く面長の醜い幼顔。周吾は顔をそむけた。
もう一度、叔母と幼子がいた場所に眼を向けたが、そこに二人の姿はなく、忙しなくゆき過ぎる人なみに砂埃が舞っているだけだった。周吾と別れた後、誰かと結婚して生んだ子供だろうか。それとも、欲望を満たすために震災孤児でも引き取ったのだろうか。いや、眼の前の叔母も子供も幻だったのかもしれなかった。
ヘルスの受付のバイトは五年続けたが、嫌気がさしてやめた。その後、貯めた金を切りくずしながら生きた。
高速道路の高架下や公園で野宿し、あいりんのドヤを転々としながら、ユースホステル代わりに泊まっている他国の同年代の若者に日本語を教えて小銭を稼いだ。そうするうちにやがて働く意欲は失せていた。
路頭で出会ったこの世の底辺に定住しているホームレスたちに誘われるまま、ブルーシートのテントに泊めてもらうようになった。彼らは優しかった。アルミ缶の回収ぐらいしか仕事がなく、日銭を稼ぐのもやっとであるのに、周吾の分まで食事を用意してくれた。そうして年月だけがだらだらと過ぎていった。
しかし、協調性に欠け、孤独を愛する性格がふいに頭をもたげると、周吾は何かに追われるように、その場を離れた。野宿をしながら一人夜空を見ていると、死んだ人たちの顔が浮かんでは消えていった。
生きていても仕方がない。周吾は思った。
二〇〇五年三月三十一日。風のない穏やかな日の午後七時ごろだ。周吾は飯村霊園を初めて訪れた。放浪の果てにたどり着いた場所が、明代の墓だった。死ぬにふさわしい場所、そう思った。バッグにはTシャツ、トランクス、靴下、カッターナイフだけが入っていた。所持金は一万円をきっていた。Tシャツの上にブルゾンを羽織り、はいたジーンズの膝は破れていた。後ろ髪は肩までのび、前髪は眼を隠している。
須磨駅から海岸を背に、住宅街を抜けて三十分ほど山手に入ったところに霊園はあった。すでに辺りは暗く全体は見わたせなかったが、広い墓地でないのは分かった。盆と彼岸以外、誰も訪れそうにない敷地内は雑草がのび放題だった。泥まみれの花瓶には腐った仏花が首を垂れている。山手の寂しい墓所に夫と娘の骨を埋めなければならなかった明代の母親に、周吾は憐憫を抱いた。
月の光を浴びて、背の低い墓標群は互いの石面に黒く濃密な影を横たえあっている。肌寒い夜気は、死者の骨の表面を連想させた。周吾は明代の墓を探した。のぼってきた歩道から霊園の敷地内に入ってすぐの場所に、白文字で《楠見家之墓》と彫られた墓を見つけた。最近訪れた人があるらしく、陶磁製の花瓶には生き生きとした菊がさしてある。
周吾は墓前に胡座をかいた。ここに明代が眠っている。バッグからカッターナイフを取りだすと、刃をだして足許に置いた。眼を閉じる。コンテナの陰に隠れて明代の太ももを掌で摩った夜を思いだした。明代の肌はきめ細かでみずみずしかった。生きている実感があった。澄みきった眼差しが深緑に眩しく光り、周吾の瞳を射抜いた。唇から漏れた声も白い吐息も、周吾の頬に鮮やかに蘇る。
周吾はカッターナイフを手に取った。月の光を反射させる刃先が小さくしなった気がした。今から明代のもとに旅立てることへの祝福なのか、それとも旅立ちを引きとめようとする抵抗なのか、周吾には分からなかった。
刃先を左手首の、手のひらから十五㎝の辺りに押しあて、右斜め下に引いた。刃先のあとを赤黒い絵の具のようなものが流れた。刃をさらに肌の上に滑らせると、間欠泉が噴きだすように、赤がしぶきをあげて周吾の顔にかかった。周吾は地面に頭をつけて横になった。明代を探して神戸の街をさ迷った十年前、ビルの陰で体を休めた時のようだ。あの時は全身を襲う激痛に顔をゆがめたが、今は血が流れていても痛みは感じない。安らかだった。
墓石が水飴のように揺れ始め、白い彫り文字が消え、眼の前の景色が墨の壁のように真っ黒になっていった。
墓石の裏でザザッと物音がした。周吾は音のする場所を覗き込もうと、左から墓をまわり込んだ。墓石の側面を一瞥すると、そこには明代の名が彫ってあった。
突然、暗がりから何かが周吾めがけて突進してきた。黒い塊は周吾のみぞおちに頭突きを食らわした。足許のバッグもろとも吹っ飛び、尻もちをついた。バッグの中身が散らばる。
周吾の眼の前に小柄な男の子の姿があった。脂じみた髪は周吾より長く、顔面をおおっている。また後ろ髪は地面に引きずっていた。カーキ色の長袖シャツに同系色のオーバーオールを履いたその子の右手には、木箱が握られていた。
周吾は起きあがると、墓の骨壷がおさめられている辺りを見た。石のふたがずり落ちている。男の子は木箱の中に手を入れると何かをつかみだし、口に入れた。周吾は右足を一歩前にだした。男の子はびくっと体をこわばらせ、木箱を投げる構えをみせた。細い腕だった。角度を変えた顔に月光が差し、前髪のすき間から黄色い眼の動きが見えた。
「ギュエエエ」奇声とともに振りかぶると、周吾めがけて木箱を投げた。木箱はよけた周吾の左耳をかすめ、後ろの墓石にあたって砕けた。木箱に入っていた壷が地面に落ちて割れ、粉塵が宙に舞った。
ヘルスの受付で見た夢にでてきた観覧車のシートに積もっていた灰と同じものだと周吾には思えた。
お前は誰や。明代と明代との間に儲けるはずやった子供の遺灰をまき散らしやがって。
周吾の眼は血走り、怒りが沸きあがってきた。やがて憤怒が沸点に達した瞬間、周吾は足許に転がっていた角のない石を右手につかんだ。握る手に力を込めた。
男の子は逃げずに立ち尽くしている。男の子の履物が小便で濡れるのが分かったが、臭いはしなかった。
今度は声をあげず、腰をかがめると、頭を突きだして小動物のように突進してきた。向かい風に前髪がめくれた。叔母に生き写しの、眼の離れた形相。白く面長な幼顔が、カッと眼を見開いた。周吾は渾身の力を込めて突き進んでくる子供の頭蓋に石を振りおろした。どりっ。血が飛び散った。男の子が膝をつく。幼かった周吾をもてあそんだ叔母の応報。
ガシッ、ガシッ。何度も何度も石を打ちつけた。
周吾は足許に石を投げ捨てた。そして、卒塔婆をたてるためのスコップで墓石の裏の小さな空き地に穴を掘り始めた。死を求めて訪れた明代の墓前で人を殺めた。土は湿気を含んでやわらかく、穴は疲労に比例して大きくなった。俯せに倒れた肉体はぴくりとも動かなかった。
周吾は時々手を休め、髪を持ちあげて死者の顔を見た。血糊がかたまった顔は蒼白く月光に照らされて美しかった。手のひらに眼をやると血豆ができていた。周吾は再びスコップを握り直す。月が刻々と居場所を変え、敷地を囲む林を色濃くしていく。スコップが地面に突き刺さる音が断続的に空へ吸い込まれる。
人の体は土の塵に霊魂が宿って造形され、死ねば土に還るべし。風に散り、土に還れなかった明代の灰は成仏できずに、どこかをさまようことになったのではないだろうか。
夜が明け始める前に、柴犬が入るほどの穴が掘れた。周吾は屍体を引きずり、穴の中へ放り投げた。屍体は仰向けで横たわった。血糊のついた髪がめくれ、顔がはっきりと見えた。口が大きくあいている。胸で両腕を組んだ姿勢のまま硬直した小さな体は、穴のへりに両足を投げだした格好になった。周吾は何度か嘔吐いた。
突然、男の子の眼が開いた。黄濁した瞳がギョロギョロと動きだし、周吾の姿をとらえた。
「パパァ」男の子は叫んだ。周吾は愕然とした。あの夏の日、中山手教会の跡地で見かけた叔母とその手に引かれていた男の子。叔母が結婚相手との間にもうけた子供、引き取った身寄りのない震災孤児、いやその存在自体が幻影だったと思っていた子が……。あの夜、復讐心からテントの中で叔母を犯した代償に生まれたのが、お前なのか!
全てをこの穴に封じ込めなければならない。周吾は両膝から下の骨をスコップでたたき折ると、穴からはみでないようにして、周囲に盛りあがった湿った土を急いで被せた。幾つもの死者たちの眼が周吾の行為の一部始終を見つめていた。周吾は必死で土を被せた。どれだけ被せても穴は埋まらなかった。
眼を見開いたままの男の子は、「マ・マ・を・ゆ・る・し・て・あ・げ・て」というと、静かに眼を閉じた。
何かが周吾の頬をなめているのが分かった。その後、小さく二、三度吠える声を聞いた。
おぼろげな意識のまま、ゆっくりと眼を開けると、眼の前には見覚えのある墓石があった。現実を理解すると同時に、体のどこかに激しい痛みが走った。眼だけを動かして痛みの脈動を感じる部分を見ると、赤い血溜まりが広がっていた。その血を、白い子犬がなめていた。口元が赤く染まっている。周吾は呼吸をする間隔が短くなっている気がした。再び意識が途切れそうになった時「ピース、ダメじゃない、血なんかなめちゃ。大丈夫ですか! 今、救急車呼びましたからね。しっかりしてください」と声がした。女の子の声のようだった。
周吾は力を振り絞って「む、すこは?」と尋ねると、眼だけで声の主を確認した。薄い膜がかかっていて顔の輪郭しか分からない。遠のく意識の中、幾つかの足音が墓地の中に入ってくるのが分かった。
眼を開けたのはベッドの上だった。ベッドのそばに、濃紺のスーツを着た五十前後の男と、白いブラウスを着た中学生くらいの女の子が丸椅子に腰かけていた。「看護師さんを呼んできます」といって女の子は白いドアを開けてでていった。看護師という言葉と腕にぶらさがった点滴の管を見て、周吾は病院にいることに気づいた。
病室に残った、鼻のてっぺんに大きなホクロがある男は、警察手帳を見せて名乗ると「まず君の名前と住所と電話番号を」と質問をしてきた。周吾は名前の後に住所不定、無職と続けた。ノック式ボールペンをかじりながら眉根を寄せた刑事は、周吾のバッグを眼の高さにかかげ「調べさせてもらったが、衣類と預金通帳、それに写真一枚しかなかった。あってるかな。ああ、もう一つ忘れてた。君がその、手首を傷つけたカッターナイフと」と語った。黙り込む周吾に刑事は「君が倒れていた墓の家とはどんな関係があるのかな。まぁ、調べればすぐに分かることだが」と続けた。すでに明代の母のところへは連絡が入っているだろう。知られて不都合な関係などなかった。
「君には息子がいるのかい」その言葉に周吾の顔はこわばった。周吾の狼狽には気づかない様子で、刑事は「うわ言で息子が穴にとかいってたからね」と表情を取り繕った。
病室の扉が開いた。医師と看護師が入ってきた。その後を女の子が俯きながらついてきた。周吾は医師に今、何時かと尋ねた。八時四十五分との答えだった。「じゃあ、四月一日の朝ですね」と尋ね返すと、医師は聴診器をあてながら「夜だよ。まだ三月三十一日」と笑った。
だから生きているのか。では、夜を徹して穴を掘り続けたのはいったい。周吾は点滴の刺さる右手の手のひらを見た。血豆一つなかった。周吾は混乱した。刑事は続けて二、三質問をしたが、医師から安静にさせるよう注意を受けたため、「明日またくる」といい残して帰っていった。
医師たちも姿を消した後、女の子だけが残った。髪を肩口で軽くカールした利発そうな顔をしていた。
「救急車、呼んでくれたんやって。悪かったな」痛み止めの副作用か、眠けを振り払いながら語りかけた。
「最初にピースが、うちの犬が見つけたんです。……。あのう、どうしてあのお墓の前で……」女の子は口をつぐんだ。周吾は大きく深呼吸をすると、言葉をついだ。
「、恋人の墓なんや。神戸の震災で亡くなったん。それからぶらぶらと道を外した生活してたんやけど、生きてることが侘びしなって墓に行き着いたんや」そういうと「もう遅いから帰りや、ほんまにありがとう」と声をかけた。
すると女の子は突然、ブラウスの左の袖をまくると、枯れ枝のような手首を周吾に見せた。そこにはケロイドのような線状の痕が幾すじも走っていた。周吾の左手首にも恐らく同じ傷痕が残るだろう。
「わたしも何回も死のうって思ったんだけど、どうしてもできなくって」女の子の頬に涙がこぼれた。周吾は点滴に眼を移すと、定期的に落ちるしずくを見つめた。
「あの地震で両親も二つ年上の兄も、みんな死にました。わたしたち、二段ベッドで寝てたんだけど、兄はわたしが寝ていた上のベッドの下敷きになって……。狭いすき間をすり抜けてどうにかして表へでると、泣きながらひとり、闇の町をさ迷い歩きました。靴も履かずに。何不自由なく暮らしてきた五歳のわたしが、何も知らない世界に放りだされて、いったい何ができるでしょう」
女の子はスカートのポケットからハンカチをだすと涙を拭いた。
「でも、今考えると、わたしと同じような子供はたくさんいたんですよね。須磨に住んでいた叔母が、避難所でボランティアの人に世話をしてもらっていたわたしを見つけてくれて、ここまで育ててくれたんです。感謝しています。でも、時々、家族のことを思いだすと、わたしも連れていってほしいと思ってしまって、お墓の前で……」女の子は笑顔を作ると、「安静にしてください」といってドアの前まで歩いていった。病室をでる時に女の子は「あなたに助けられたような気がします」といい残して病室を後にした。
周吾は右腕をのばして、刑事が置いていったバッグを取り、写真を探した。心あたりがなかったが、下着の上に無造作に乗っていた写真を手に取った。バッグの底板の下にでも挟まっていたのかもしれない。冨吉じい、菊乃ばあ、父、母に抱かれた周吾が写った赤茶けた写真。母が死に際に周吾に手渡したものだった。
父が死んだ前日以来、冨吉じいと菊乃ばあには会っていなかった。淡路島は近くて遠い島だった。明代と旅しようと約束した島。周吾は初めて孤独感に体が震えた。
まだ帰る場所がある。
翌朝早く、周吾は病院を抜けだすと、彼らにすがる思いで高速バスに乗った。バスの中で、周吾は左手首に巻かれた包帯を見つめた。痛み止めの薬がきれたのだろう、傷口がうずき始めた。痛みを堪えるように眼を瞑った。
瞼の裏に地面が浮かんだ。そこから一本、手が這いだしてきた。細い両腕に力を込めて地中から這いあがってきたそいつは、離れた両眼をギョロリとむいた。手のひらが熱く腫れ、血豆ができ、皮がめくれ、指紋が削れてゆく。意識と感覚が昨夜の戦慄を蘇らせた。
周吾は眼を開けた。一九九八年に開通した全長三九一一mを誇る明石海峡大橋の真上だった。車窓から、父も母も見ることのなかった光景を眺めた。海では漁船やタンカーが進んでいる。灰色の煙と霧つぶのような波が航跡を残し、海峡は視野にあまりある風景を映していた。
橋を渡り切ると、そこは幼少のころに何度か訪れたことのある記憶の島である。淡路島にやってきたのは、二〇〇五年四月一日の朝だった。
(二) 四月
※ 一日 金曜日
周吾は高速バスをおり、おぼろげな記憶をたどって田んぼの畦道を歩き始めた。しばらく歩いていると、手首の痛みに耐えかねて道端の石に腰かけた。
体を休めうなだれていると、一台の軽トラックが止まった。「どこへ行くんや」と誰かが声を掛けてきた。周吾は声のする方に顔を向けた。運転席から顔を覗かせた男は、錆びた鍬色に日焼けし、丹念に整えた角刈りがいかつかった。細い眼の上に太い眉が張り付き、島の特産品である玉葱を思わせる広い鼻梁を蓄えている。周吾は痛みを堪えながら「上河合の佐久間冨吉の家へ。孫です」と掠れた声で応じた。「菊乃の婆ちゃん家やな。送ったろ」というと助手席の荷物を荷台に移して席を空けてくれた。助手席に座った周吾の額には冷汗が滲んでいた。不審そうな眼で周吾を眺めた男は、何もいわずに細い畦道を運転していった。
やがて軽トラックは、見覚えのある急な蛇行坂をのぼっていった。祖父母の家は高台にあった。市道から敷地へと続く車一台しか通れないこの蛇行坂は、昔からくだりは膝の関節を圧迫し、のぼりは心臓の鼓動を早める難所だった。
敷地内に入ると、幼いころに見たことのある門屋と本家が見えてきた。周吾の胸に懐かしさがこみあげてきた。
本家の隣の以前は牛舎だった場所に、新しい平屋が建っているのがすぐに分かった。その前で屈んでいる老婆の姿が見えた。背は大きく曲がり、久留米絣の花模様のモンペがずり落ちて尻が半分見えている。車のブレーキ音を聞きつけてか、老婆はゆっくり立ち上がると軽トラックの方に振り向いた。
「誰で?」麦わら帽子を被り、両腕には日光と虫をよけるための手甲という長手袋をはめている。鎌を握った右手をかざしながら、老婆は軽トラックの方に声を掛けた。周吾は一眼見て、菊乃ばあだと分かった。
「わしや。勇や」男が大声で応じると、菊乃ばあは「勇ちゃんけえ、どないしたん」と微笑みながら腰を屈めた姿勢で歩いてきた。周吾は助手席をおりると、菊乃ばあの近くに歩み寄った。「孫さんが遊びにきたんやと。道に迷とったさけ、乗せてきたんや。今から仕事やから、もう行くで」というと、砂埃を上げて軽トラックを走らせていった。
約二十年ぶりの再会だった。菊乃ばあは歳月のぶん年老いていて、背中が完全に丸まっていた。
「周吾や。隆の息子や。覚えてるか」
菊乃ばあは黙っていた。父が死んだ前日の周吾の誕生日、冨吉じいと菊乃ばあが父を黙殺していた夜の恐怖が蘇った。周吾は左手首の痛みを気にしながら、もう一度、大きな声で同じセリフを口にした。「へえ、ようきたわれ。元気やったけ」といって破顔すると、周吾を新家に迎え入れた。
玄関には長靴や靴、サンダルなどが並んでいた。違和感を覚えてよく見ると、全て左右逆に並べてある。痛みによる錯覚かと思ったが、触っても間違いなく逆だった。
「ばあちゃん、いくつになった?」
「八十五か六よ。もう忘れら。何でも忘れてしまうわれ」
「昔は本家と門屋しかなかったよなあ」と続けて尋ねると、「シカは鳴かなよ」という返事が返ってきた。菊乃ばあが耳が遠いことに気づいて、もう一度同じことを繰り返した。
「二年前に勇ちゃんが建ててくれたん。それまで勇ちゃんが門屋に拵えてくれた部屋に八年、住んどったわれ」菊乃ばあは、廊下の壁に手を添えながら直進していく。その先に台所があった。周吾は後をついていきながら、勇さんは大工なのだと知った。
「本家は前の地震でめげとるさけ、入ったらあかなていわれとるんよ。壊すゆうさけ、やめてかて市の人にお願いしたわれ。兄やん、茶飲むけ」菊乃ばあは、シンクの脇にある食器の水切りカゴまで歩くと、手探りで何かを探した。やがて急須を探り当てると、「お茶の葉、お茶の葉」といいながら、食器棚に顔を近づけて茶葉入りの缶を探していた。
缶を手にシンクに戻る菊乃ばあの前に周吾は立ってみた。「こりゃなんよ」といいながら、菊乃ばあは周吾の体を肩口から触り始めた。「兄やんけ」と笑う菊乃ばあの左眼の前に人差し指を突き付けたが微動だにしない。一方の右眼の前に指を突き付けると僅かに瞬きをした。
菊乃ばあは急須に茶葉を入れると、魔法瓶に入った湯を注いだ。周吾は菊乃ばあが茶を入れる間に薬箱を探した。痛み止めの薬が欲しかった。台所の隣が菊乃ばあの寝室になっていた。窓際にベッドが据え置いてある。押入れを開けて探してみた。周吾はたくさんの薬が入ったプラスチック収納ケースを見つけた。どの薬袋にも「風間医院」と書いてあるが、何の薬かは分からなかった。薬袋の間に市販の頭痛薬を見つけると、三錠ほど抜き取った。
「お茶入れたで。飲まんかよ」菊乃ばあの呼ぶ声に振り向いた周吾は、ちらりと隣の和室を見て、新家が二DKの平屋であることを認識した。
台所に戻った周吾に菊乃ばあは、茶の入った湯呑みを手渡した。周吾はお茶で頭痛薬を飲み込んだ。よく見ると、菊乃ばあの右手の人差し指が極端に短かった。「人差し指、どないしたんや」周吾は幼いころに会った時からそうだったか、思いだしながら尋ねた。「籾殻が詰まった脱穀機に手ぇ突っ込んだら、突然機械が動きだしてよ、弾け飛んだんよ。鉄のお婆さん、お姑はんよ。いらん指やさけのうなったんや、これでわしのうしろ指、させんようなったわゆうて指蹴っ飛ばしたわれ」いい渋るよりも、物問いたげな表情で菊乃ばあは語った。
「ところで、冨吉じいはどこにいるんや」茶を飲みながら、周吾は菊乃ばあに尋ねた。「お爺さんは何年も前に死んでしもたわれ。がんよ」そういうと菊乃ばあは腰と両腕を後ろへ突きだす姿勢で歩きだすと、ベッドの下から菓子の缶を取りだしてきた。「写真があらよ。見てか」
周吾は缶の中から一枚の写真を見つけた。ふくよかな菊乃ばあと、白髪の老爺がならんで写っている。左肩に比べ、肩幅をえぐられて右腕がぶらさがる老爺の姿に、すぐにはそれが冨吉じいとは気づかなかった。
その写真を見ていると、ふいに小学二年の遠足でサファリパークにいった時、眼の前で飼育員が虎に咬み殺された事故を思いだした。悲鳴に興奮した虎は爪で飼育員の眼玉をえぐると、牙をむいて肩にむしゃぶりついた。骨がむきだしになった腕が、皮一枚で肩甲骨にぶらさがっていた。泣きわめく同級生の中にあって、周吾だけは痙攣する飼育員を好奇に満ちた眼で眺めていた。
冨吉じいは、舗装前のぬかるんだ蛇行坂を、肥担桶をかついで一日に何往復もした人だと幼いころによく聞かされた。戦時中、脊髄を損傷しながら満州から帰還できたのも強靭な生命力のなせる技だった。冨吉じいは村で唯一、両肩に米俵を担ぐことができた怪力の持ち主だったと、父は幼い周吾によく自慢していた。
「じゃあ、一人で住んでるんか」声が小さかったのか、菊乃ばあは答えない。「ずっと一人やったんやな。……。しばらく、俺をここに住まわせてくれへんか」と周吾は大声で頼んだ。「ほんまけ。一緒におってくれるんけ」菊乃ばあは眼元を緩め、白い歯を見せた。八十六にしてはしわの少ない艶やかな顔だった。
「兄やん、何か食べたけ」その言葉と痛みが少し治まったことで、周吾は急にお腹が空いてきた。朝炊いたというので炊飯器を覗くと、ご飯が釜に半分残っていた。昼に食べようと残しておいたのだろう。ためらったが空腹には勝てず、周吾は茶碗に移して食べた。うまく洗えていないのか、米には小石が混ざっていたが、ありがたかった。
戸外の竹やぶでは鶯がみずみずしい声で鳴いていた。空腹が満たされると、急激な睡魔に襲われた。周吾は仏壇が置かれた十畳の和室で横になることにした。
誰かの声で周吾は目を醒ました。
「ばあちゃん、お孫さんが遊びにきたんやって。勇ちゃんから聞いたで。お孫さん、いたんやね。隆君のお子さんか。そらよかったなあ」和室の扉が開いていて、玄関で七十歳近い小柄な男性が、菊乃ばあと話す姿が見えた。周吾は静かに体を起こすと、玄関に歩いていった。
「兄やん、起きたんけ。玉井はんが様子見にきてくれたわれ」菊乃ばあが顔だけ周吾の方に向けた。
「玉井いいます。昔っからこの辺に住んどるもんや。大したもんやあらへん。お婆ちゃんが一人で住んどるさけ、時々顔を見にきてるだけや。お米や野菜も採れた分から、ちょっとだけお裾分けしとるんや」頭の禿げあがった人のよさそうなこの男性が、地元の名士であることはすぐにわかった。叔母のもとをたびたび訪れた名士も、似た物いいをしていた。玉井さんは、菊乃ばあが聞きやすい音の高さと早さを理解しているようで、聞き返すことがなかった。
「あんなにぎょおさんもろてもなぁ、一人で食べきれんわれ。押入れに残っとらよ。わてを殺す気かのぅ」と菊乃ばあは贅沢な愚痴をこぼした。周吾は押入れを探った時、一升瓶数本に入った米を見たのを思いだした。昨年もらった古米なのだろう。
「手首、ケガしてるんかい。今度、お婆ちゃんの往診日に、風間先生に診てもらえばええわ」と玉井さんは小さく頷くと、「ところで、いつごろまでいるんかな。仕事は?」と続けざまに質問をしてきた。一瞬、玉井さんが鋭い眼つきになった気がした。「今は仕事やめとら。ちぃと間ここで一緒に住むわれ。隆ん代わりよ」菊乃ばあがすかさず答えた。「そうかいね」玉井さんは笑顔になると、菊乃ばあの一週間のスケジュールを説明してくれた。
月、木、土、日曜日はヘルパーの沢野さんがやってくること、火曜日は半日の介護施設『ゆうあい苑』へ行くこと、水曜日は国の補助金で運営されている高齢者専用の弁当が配達されること、金曜日は終日自由で、第二金曜だけ風間医院から往診がくるという。「何か困ったことがあったら遠慮せんと何でもいうてや。私でもええし、里谷組の勇ちゃん、今朝、あんたをここへ運んできた男でもええ。佐久間家とは長いお付き合いやさけ」というと、玉井さんはいくつかの総菜のパックを置いて帰っていった。
周吾は、この地に住むには、善かれ悪しかれ、父の名が役に立つことと、噂はすぐに広まることを悟った。
夕方になって少し気温が下がってきた。周吾は再び市販の頭痛薬を飲むと、外に出てみた。夕焼けで空が淡いピンク色に染まっている。高みにある畑に歩いていった。そこからは、新家と、その隣の全体を東側に傾けた築百年を超す本家、中庭をはさんで本家から南側に敷石六、七歩の距離に建つ門屋が一望できた。本家は十年前の震災で住居の役割を終えていた。門屋まで歩くと簡易部屋らしき空間があった。震災後、里谷組の勇さんが即席で作った部屋には農機具や按摩機などが詰め込まれ、埃を被っていた。その脇には使えそうな自転車が置いてある。
新家に戻ると、周吾は菊乃ばあが新たに炊いたご飯と一緒に総菜を食べた。食事の終わりに、菊乃ばあは茶碗のへりにへばりついたご飯つぶをこそげ落とすため、茶碗に茶を注いだ。箸でご飯つぶをこそげると、茶碗の底に米つぶのたまった茶を飲み干した。テーブルに置いた茶碗には、ふやけたご飯つぶが二、三へばりついたままだった。
この地で菊乃ばあとの生活に慣れることが先決だと周吾は心に決めた。
「暑い暑い、風呂沸いたかいな」隣室でベッドに腰かけていた菊乃ばあが独りごちた。肌寒かったため窓を閉めたのがまずかったのかと、周吾は窓を開けた。脱衣所へ歩いていった菊乃ばあは、蝉が脱皮するように肌着とブラウス、、パンツとモンペを重ねて脱ぐと、ネックレスをゴム長靴のへりにかけて浴室へ入っていった。細長い洋梨に似た乳は床に引っ張られ、臀部の皮膚はろうのようにぐてりと垂れていた。子供だった父が厠の陰から飛びだし、驚いた菊乃ばあが腸捻転を起こして手術したと聞いたことがあった縫合痕も、ぶ厚い脂肪の層に埋もれていた。下腹の毛はほとんど抜け落ちていた。右のふくら脛には血管を芋虫が這うような隆起がいくつもあった。凝固した血液が静脈の毛細血管をふさいでできる静脈瘤だった。
「お先ぃよ。兄やんも入れよ」湯船からあがりながら、菊乃ばあは痰が絡んだ声でいった。衣類をひと抱えに寝室へ戻ると、裸のままベッドに座った。
周吾も風呂に入った。ここは安全な浴室だった。この十年間で心の底から安堵できる風呂に入ったのは初めてだった。右腕が湯に浸からないよう腕を上げて入った。
湯船に浸かりながら思った。二十年近くも顔を見ていなかった三十一になる孫が突然やってきて、半ば強制的に住まわせてくれと申しでたことを菊乃ばあはどう思っているのだろうか、と。しかし、周吾の孤独を見透かすように微笑んだ顔が答えを物語っている気がした。
風呂からあがると、菊乃ばあが肌着の上に藍色の浴衣を羽織るところだった。その後、台所の冷蔵庫までゆっくりと歩いていくと、中から二百mLの牛乳パックを取りだした。先の短い人差し指で器用に開けると、牛乳を飲み干した。それから巧みに舌を使って義歯をはずすと、牛乳パックの中に入れた。周吾は菊乃ばあが入れ歯であることを知った。ベッドまで戻った菊乃ばあは、牛乳パックを枕元に置いた。
周吾は歯を磨くために洗面所に行くと、洗面台の脇の尿瓶に気づいた。菊乃ばあが自分でトイレに行く姿を見ていたので、何に使うのか不思議だった。
洗面台の横にある小窓から心地よい風が入り込んでくる。その下にかかったカレンダーに眼を移した。「四月一日金曜日か」と呟くと、周吾は玉井さんから聞いた菊乃ばあの一週間のスケジュールを書き込んでいった。明日は土曜日なので、ヘルパーの沢野さんがくる日だ。包帯と消毒液を買ってきてもらおうと思った。
周吾は歯を磨くと、玄関から外へ出た。真っ暗な敷地を月明かりが照らしていた。昨夜の明代の墓を照らしていた月と同じものがのぼっている。撲殺して埋めた子供が幻であってほしいと願った。周吾は大きく深呼吸をした。どこかで野犬か飼い犬の鳴く声が響いている。
和室に戻ると、襖越しに隣室の菊乃ばあが見えた。胸まで布団を被り、すでに寝息を立てていた。周吾がいることで安心したのかもしれない。周吾は布団を敷いて横になると、昼寝をしたにもかかわらず、すぐに深い眠りに落ちた。
※ 二日 土曜日
朝、人の気配で周吾は眼醒めた。音のする洗面台へ向かうと、菊乃ばあが歯ブラシで義歯を磨いていた。どうやら菊乃ばあの朝は、義歯を洗浄することから始まるようだった。
「おはよう」周吾が声を掛けると「わぁ」と驚いて、菊乃ばあは洗面台に義歯と歯ブラシを落とした。頭のなかで何かを思案していたか、周吾の存在を思いだしたのか「よう寝れたけ」と応じると、義歯と歯ブラシを拾って再び磨き始めた。
「明日、日曜やで、ホリテンドの日よ。覚えとってか」というと、菊乃ばあは義歯を水で洗い流した。「ホリテンドの日って何や」と聞き返すと、菊乃ばあは洗面台の棚から箱を取りだして周吾に手渡した。「入れ歯洗浄ポリデント」と書いてある。「その尿取りのビンに水入れて、それを放り込んでから、入れ歯を浸けておくんよ」というと安堵の表情を見せた。菊乃ばあは義歯を装着した。歯茎におさまった義歯は白く光っていた。
菊乃ばあは台所にくると、ボウルの中へ米を入れた。ボタンを押すと一合の米が落ちる米びつがあった。誰かが買ってきたのだろう。菊乃ばあは米を洗い始めた。米がジャラジャラとシンクにこぼれる音がする。その後、釜に米を移すと、水を入れ、手首のどの辺りかを測りながら水を足していった。そして、ふたを閉めると炊飯のボタンを押した。本当に眼が見えていないのか、周吾には疑わしく思えた。
周吾の思いとは裏腹に、「暗いわぁ。まんで見えらん」というと、菊乃ばあは寝室へ歩いていき、何かを探し始めた。「何を探してるんや」と周吾が尋ねると「目薬よ」と答えた。周吾はベッドの周辺をくまなく探したが見つからなかった。押入れを開けて収納ケースを探すと、一番下の箱にたくさんの点眼薬を発見した。菊乃ばあに伝えると「あったあった」と目当ての物を見つけた満足感に浸った。両眼に点眼すると、天井を見あげたまま、しばらく正座していた。
やがて炊飯器のタイマーが鳴った。ご飯が炊けると知らせる製品らしい。「神さんのお供え、こっしゃえよか」と両腕をついて上半身を支える姿勢で立ちあがった。菊乃ばあはのびをして換気扇脇の神棚の皿を取った。皿は昨日の朝から置きっ放しで、かたくなったご飯がこびりついていた。指で米つぶをはがすと、プリンの空容器に入れた。ふたを開けた炊飯器から湯気がたちのぼる。菊乃ばあは皿にご飯を僅かよそうと、再びのびをして神棚へ置き「火の神さん、どうぞおあがり」と手を合わせた。
続いて和室に向かった。仏壇から三枚の皿を取ると、二枚を左手、一枚を右手に乗せて台所に戻ってきた。それにもご飯をよそうと、バランスを保ちながら仏壇に供えた。そのまま毛羽だつ座布団に座ると、「ご先祖さん、どうぞおあがり」と手を合わせた。おりんを二度鳴らし、真言の経を唱え始めた。おりんを叩く棒で痃癖のツボをグリグリと押さえている。
読経を終え、台所に戻った菊乃ばあに「あんな長いお経をよう覚えてんなあ」と大声で聞くと、短い指を擦りながら「こん家に嫁いだ日から、鉄のお婆さんに叩き込まれたさけ、忘れよ思ても忘れられん」と呟いた。
周吾が部屋を掃除していると、縁側から敷地内の砂利道を赤いアルトがきたのが見えた。運転席の窓に日よけのシートが貼ってある。車は新家の前に止まると、小柄で少しぽっちゃりとした女性がおりてきた。車に乗っているのに帽子を被り、長袖の上に手甲までしている。日焼けを完全に防御しようと努めているように見えた。
周吾は玄関口に出ていった。汗まみれの女性は怪訝そうな面持ちで周吾を見ると「沢野です」と頭を下げてきた。「佐久間周吾です。菊乃ばあの孫です。しばらく一緒に住むことになりました。よろしくお願いします」と挨拶をすると、沢野さんの眉間のしわが緩んだ。二人で菊乃ばあのいる台所まで歩いた。沢野さんは五十代半ばに見えた。
八朔を頬に詰めたようにふくらんだ丸顔の中、その果肉を吸い込んだように眼と口を鼻に寄せて「お婆ちゃん、お孫さんが来てくれてよかったわねえ。ほんとにこれで安心やわぁ」と微笑んだ。しかし、早口過ぎて聞き取れないらしく、菊乃ばあは何度も聞き返した。本当に耳の悪い人を相手にしたヘルパーなのだろうかと、周吾は不信感を抱いた。
沢野さんは、周吾がここへきたいきさつを取り立てて聞こうとはしなかった。それはありがたかった。人の話を聞くよりも、自分のことを話すのが好きなようである。趣味がエステで、月に何度か神戸にあるサロンに通っていることや、孫の悟ちゃんに「お婆ちゃんのお肌ツルツル」といわれるのが何より幸せであることなどを話した。
うなじのほつれ毛をかきあげながら流し台の下を覗き込んだ沢野さんは、「あれぇ、しょう油が切れてるわ。これじゃあ何も作れないわねえ」と落胆した調子でいった。「明日、買ってくるわね」と作り笑いを浮かべると、その後、野菜たっぷりのみそ汁を作った。帰り際、周吾は「ついでに包帯と傷に塗るイソジンを買ってきてくれませんか。お金は明日払います」と頼んだ。沢野さんは、手帳に何か書き込んだ後「分かりました」と威勢よく答えた。眼尻のしわが菊乃ばあよりも深く見えた。
沢野さんは、近くのスーパーや市役所、図書館などの場所も地図で教えてくれた。さらに菊乃ばあが夕食後にプリンを食べるのが好きだということも付け加えた。
周吾は菊乃ばあと一緒にアルトを見送った。
裏庭を囲う竹林の奥から、子供の笑い声と犬の鳴き声が聞こえてきた。「近くに家があるんか」周吾は菊乃ばあに尋ねた。「こっから六百mぐらい離れた林ん中に、佐久間ん家の分家があら。繁男のお爺さんの代に仲悪うなってから、今も絶縁しとるわれ」と菊乃ばあはうなだれた。繁男じいは、周吾の曽祖父だ。今は繁男じいの弟の息子の代になっていると菊乃ばあは続けた。
周吾は再び頭痛薬を飲むと、夕飯の食材を買うのと、町の様子を知るために、自転車で出かけた。食料代として菊乃ばあは三千円を周吾に渡してくれた。
スーパーで野菜やプリンを買い、古本屋で明代が愛読していた『日本と古事記』を偶然見つけ、購入して帰ってきた。
新家の玄関から菊乃ばあが出てきた。麦わら帽子を被り手甲をはめている。鎌を握った左手を外壁に添えながら、玄関先のなだらかなスロープをおりてきた。すぐ前の畑にしゃがみこむと「やんだにチミキリ草がはえよら。じっきよ」とポピーの茎間に顔をだす雑草を刈り始めた。九本の指先の感触で茎と雑草を識別している。菊乃ばあは周吾に気づくと、「お帰りよ。兄やん、今日、墓へ参ってくれんけ。遠田のおっさんの命日やの」と菊乃ばあは門屋の辺りに顔を向けて叫んだ。「前に沢野はんに頼んだら、よその家の墓は参ったらあかなて躾けられてきたのよゆうて断られたわれ」と嘆いた。周吾は万全の日よけ対策をとる沢野さんを見て、体のよい断りの理由に納得した。「昼ご飯食べたら行こか」と答えると、「へぇ」と菊乃ばあは嬉しそうに返事をした。
昼食はにゅう麺ですませた。周吾は汁を作るため、流し台を開けて調味料の中から「出汁の素」を探していると、奥から新しいしょう油のボトルが二本出てきた。沢野さんはどこを見ていたのだろうと首を傾げた。
鍋と椀を洗っていると、寝室の入口で菊乃ばあは下着一枚になり始めた。「ヌードショーか」周吾は蛇口を閉めて声をかけた。「なぁ、どうしょうか、水色の服探さにゃあ。墓へ参んのに、いっちょらいに着替えな。そんで池にはえとるシキビ切ってこにゃあ。まんで眼ぇ見えらんさけ弱らぁ」と菊乃ばあは悲しげな表情を見せた。
周吾も墓に出かけるため着替えの服がないか押入れを探っていると、偶然、菊乃ばあの水色の服を見つけた。「これか?」と菊乃ばあの眼の前にかざすと、右眼を近づけて「これよ。ありがとよ」と笑った。
菊乃ばあはもう一度、「池にはえとるシキビも切ってこにゃあ」と続けた。周吾は靴箱の上に置いてあった剪定ばさみを手に外に出ると、門屋の裏手にある古池までやってきた。池は五反ほどの畑に囲まれていた。畑や池を囲む畦には雑草が伸びている。どれがシキビか分からなかったので、よく墓前に供えてありそうな葉を二種類切って新家に持ち帰った。菊乃ばあに見せると、濃い緑色の葉の方を指さして、にんまりと笑った。
周吾が仏壇でろうそくと線香とライターを探していると、門屋の方で物音がした。しばらくするとシルバーカーの車輪が、土の上でキルキルと音を立てるのが聞こえた。和室の窓から敷地内の砂利道をシルバーカーを押して歩く菊乃ばあの姿が見えた。周吾は急いで袋に墓参用具を詰め込むと、菊乃ばあの後を追った。
大股で数十歩歩くとすぐに距離は縮まった。砂利を蹴る足音に気づいて振り向いた菊乃ばあの額には、雨の日に傘を入れるビニール袋が巻きついていた。「何や、傘袋なんか巻いて」「えぇっ」と聞き返す菊乃ばあに、もう一度同じ言葉を投げかける。「前髪が垂れてうっとうしいんよ。麦わらがのおてよ、転がっとるもん拾ただけよ。そうけ、傘入れる袋けぇ」といって笑うと、にゅう麺に混ぜたきざみ葱がついた義歯を見せた。
古池の脇を通りながら、周吾は何でこんなところに池があるんや」と菊乃ばあに尋ねると、「昔、冨吉のお爺さんが、高台にある水田に水を入れるのに麓ん川から水を引いて、ここに溜めとったんよ」と答えた。
墓地は、高台にある家よりもさらに蛇行坂をのぼった高地にあった。坂道をしっかりした足取りでのぼる姿と額から流れ落ちる汗に、周吾は、菊乃ばあが永遠に生きるのではないかという錯覚を覚えた。菊乃ばあが押すシルバーカーの車輪は不ぞろいに四方を向き、時折砂利を食んで止まった。
蛇行坂をしばらく進むと、左手が崖になり、真下に青い水田が広がる。水田と大きなため池と竹林をへだてた先に、本家と門屋が小さく見えた。
「険しい道やのに、よう落ちんと歩けんなぁ」と周吾は大声でいった。「体が覚えとら。冨吉のお爺さん死ぬ前から、繁男のお爺さんや鉄のお婆さんの墓、参っとったさけ。ずうっと前に、迷てこの道入った学生がよ、自動車ごと田んぼへ落っこちたゆうぜ。慣れらん道はどこも危ないわれ」立ち止まって腰をのばすと菊乃ばあは腰骨を叩いた。
しばらくして突然右にシルバーカーと体を向けた菊乃ばあは、雑草をかき分けて粘土質のなだらかな坂をのぼり始めた。坂が途切れた瞬間、周吾の眼に薄墨色の墓石が飛び込んできた。周吾は急に激しい動悸を覚えた。幼いころは鬱蒼としていた墓地も今は手入れがいき届いて整然としている。小鳥のさえずりがやかましかったが、地を這う静寂は地面にできた二人の影を包んでいた。
菊乃ばあは水源を井戸に頼っている蛇口をひねると、バケツに水を張り始めた。「こん水はソロソロしかでよらん」荒い息づかいで呟くと、体を小刻みに動かして半回転した。佐久間家の墓の枯れた花を抜き、足許に腐った水を捨てた。悪臭が拡散しても気にもとめず、菊乃ばあはバケツの底に溜まった少量の水を杓ですくうと、慣れた手つきで花瓶を洗った。
「土葬やさかい、会おうと思たらいつでも会えら」菊乃ばあは手を合わせて拝み始めた。土葬という言葉を聞いて、周吾は墓の裏側を覗き込み、穴が掘られた跡がないか見て回った。明代が眠る墓地ではないため、そんなことがあるはずがないと分かっていたが、探さずにはいられなかった。
長い読経が続く。蛇口からでる水は、バケツから溢れて地面に濃いしみを作っていた。
読経を終えた菊乃ばあが話し始めた。「これがご先祖はんの墓。……、隆ん骨は……、どこにあるんか知らな。ご先祖はんとは同じ墓には埋めれんゆうて、お爺さんがどっかへ焼きにいったさけ」周吾は冨吉じいと菊乃ばあを罵った父の酔態を思いだすと、仕方がないと感じた。「ここが本尊の六地蔵さん。水、かけたげてか」五十㎝ほどの六枚の石板に、人らしい形が浮かびあがっている。仏教の庇護への感謝を第一義と考える菊乃ばあは、水をだし放していることは忘れても、祈ることは忘れなかった。周吾は水を止め満杯のバケツを六地蔵の前まで運ぶと、一体ずつに水をかけた。佐久間家の墓前を整え終えると、菊乃ばあは一際奥まった場所にある苔蒸した石塊の前にやってきた。
「遠田のおっさんの墓。冨吉お爺さんの弟。今日が命日。これがヤクザもんでな、十五で家飛びだして、志筑や洲本のかふえに顔だしては、でどこんあやしい銭振りまわして遊び惚けよった。姫飼いばっかりしくさって。何かと警察ん世話なっとったわれ。あら、鉄のお婆さんの血引いたんやなぁ。転げた指、蹴っ飛ばすくらい気性ん荒い婆さんやったさかい。下ん妹二人も恐がって、すぐ嫁にでたわれ」花のない花瓶に水を注ぎながら悄然と続けた。「かふえのおなごと契って洲本でちぃと住んどったわよ。ある晩、刀持ってお爺さんに借金の保証人になれゆうてきてよ、断ったら怖ぞ気る顔で、ぶった切ったるていきりよったわれ。何でも我がが力握らなあかん性分やったさけ。和解せんまま、お爺さん死んでしもたで。たんまにふらっときて草刈ったりしよったわよ。お爺さん死んだ次ん年にしんぞマヒで死んだわれ」
蒸し暑い夏の夜、こわい話をねだる周吾に、父は「佐久間家は女より男の方が先に死ぬ血筋なんや」と声をひそめた。繁男じいの三代前の家主が近所に住んでいた女郎をもてあそんだ挙げ句に捨てた過去があり、女郎が近くの蓮池で男を恨みながら入水自殺して以来、佐久間家の男系の短命が始まったと続けた。それ以前のことは知らないが、繁男じい、繁男じいの弟、冨吉じい、遠田のおっさん、そして父と、みんな妻より先に死んでいる。今思えば、女郎の意味さえ分からない幼い息子に、真顔でそんな話をする父は、やはり神経が壊れていたのだ。
そんなことを思いだしながら石塊に水をかけていると、ぐらりと地面が揺れた。菊乃ばあは周吾の腕につかまった。周吾は一瞬、背中をショベルカーで突きあげられた感覚に襲われた。小鳥が飛び立ち、木の枝がバキバキと音をたてた。地蔵が弧を描いて揺れ、花瓶が上下に跳ねた。菊乃ばあの右の瞼が瞬きを繰り返していた。揺れはすぐにやんだ。
周吾はバケツの底に残った水を全て石塊にかけると、つかまっている菊乃ばあの腕を引っ張って「帰ろか」と叫んだ。
シルバーカーは腐葉が積もった坂の途中まで滑り落ちて倒れていた。
三日 日曜日
翌朝も、沢野さんは紫外線完全防備のスタイルでやってきた。「お婆ちゃん、昨日はしょう油がなかったから持ってきたわよ。百貨店で買った高価な商品なの」と帽子を取りながら語る沢野さんに、周吾は二本のしょう油のボトルを見せた。「流し台の下って暗いから奥がよく見えないのよねえ。気をつけますわ」と顔を引き攣らせると、持参したボトルをそそくさとかばんにしまい込んだ。「そうそう、お孫さんに頼まれてた眼帯とエタノール、うっかりして忘れちゃったの。ごめんなさい」と謝った。包帯とイソジンが、眼帯とエタノールに変わっている。昨日とったメモは何だったのかと周吾は、沢野さんへの不信感が大きくなった。
沢野さんは菊乃ばあの洗濯物を洗うため、洗濯機をセットした。周吾は洗濯機の使い方を教わった。その後、沢野さんは小松菜とあげの煮物を作り始めた。
「これ、買うてきてくれんけ」菊乃ばあは《フジパンのネオバターレーズンパン》の包装袋を沢野さんに見せた。好物らしい。名誉挽回と沢野さんは包装袋をかばんにしまうと「明日買ってきますから。お孫さんの眼帯とエタノールも」と意気揚々と答えた。「俺のはもう買ったから結構です」と周吾は嘘をついた。頭痛薬が効いたのか、痛みは薄れていた。
一品を作り終えると、シンクを磨くスポンジで茶碗を洗いながら、沢野さんは「何かすることありません?」と菊乃ばあに聞こえないほどの声で囁いた。小松菜とあげの煮物がテーブルに置いてあるが、まな板や鍋はどれも洗われていない。部屋の掃除も洗濯物を干してもいないのに、部屋をうろつき始めた。足許に物を置くことを嫌って何でも小まめに隅へ寄せる菊乃ばあよりも、沢野さんの方が盲目だと周吾は思った。
車に乗り込みながら、沢野さんは「お婆ちゃんのこと、あまりやり過ぎちゃだめよ。自分でできなくなるから」と周吾に口添えした。周吾は頭を下げた。
沢野さんが帰り、周吾と菊乃ばあが昼食を食べ終えたころ、玉井さんがふらりとやってきた。ちょうど菊乃ばあが茶碗に茶を注ぎ、こそげたご飯つぶを飲み干した時だった。竹やぶの鶯の鳴き声は日増しに艶を増していた。
菊乃ばあは「お茶を出さにゃあ」と呟いた。周吾は急須の茶葉を変えてお湯を注ぐと、湯呑みに茶を入れて玉井さんに出した。玉井さんは禿げた頭を撫でながら「どうも」と会釈した。「昨日、地震がありましたなあ。大丈夫でしたか。本家にはあまり近づかん方がええ」と心配する言葉をかけた後「お婆ちゃんとの生活には慣れたかな」と周吾に顔を向けた。
「江戸初期、この島で『笑痛病』という病が蔓延して、全身を走る激痛にのたうちながらも笑ってしまう奇病に多くの島民が悩まされたことがあったんや。原因が分からんかったこの病も、伊弉諾神宮の大楠にぶどうと桃を供えて、島民総出で夜通し大木の周りをまわり続ける厄払神事を行ったところ治まったといういい伝えがあるんや」と玉井さんは茶をすすりながら語った。「天つ神たちが悪行を尽くす人間を処罰し、退屈に時間を潰すイザナギとイザナミの子孫に世直しの習練をさせるというんや。十年前の地震も同じなんとちゃうかなあ。贅を尽くす生活に浸る個人主義的な現代人に試練を与えて、昔の村人が助け合って生きたみたいに、もう一度、協力し合う心を持たせようと、神々が結束したんかもしれん」
玉井さんの漏らした仮説を聞いて、そんなことで多くの罪もない人が、明代が死んだのかと思うと、怒りがこみあげてきた。
周吾の険しい表情から何かを察したのか、玉井さんは、「いや、罪もない人が亡くなることがあってはいかん。それはつらく悲しいことやからね」と付け加えた。
周吾は明代と初めて会った日に「楠を見あげて明るい時代を祈る人、って覚えて」といった明代の表情を思い浮かべた。十年経っても忘れられない自分が嫌だった。
「婆ちゃんも孫さんがいてくれて安心やなあ。一人やよってに、ガスが点かへんだの、本家で赤い火が見えるだのゆうて、里谷の勇ちゃんや沢野はんを呼んどったさけな。周りのもんも大変やったわな」と菊乃ばあに語りかけると、菊乃ばあは「うんうん」と小さく頷いた。
夕暮れ時、ベッドに横たわる菊乃ばあが、突然、十年前の一月十七日の朝のことを語りだした。
「あの朝はなぁ、でんち着て寝とってもこじけたわれ。本家の床が紙みたいにぺらぺらになったんよ。タンス、壁にくっついとったさけ助かったけんど、そやなかったら……」ベッドのへりにいた周吾に顔を向けると右眼を瞬かせた。
「誰かきてくれたんか」周吾が尋ね返すと「誰もこなんだ。誰がくっかよ。みな、我がのことで精一杯よ。戦争とおんなじじゃ」と胸で重ねた手に視線を移した。
冨吉じいが死んでから周吾がくるまでの間、事ある毎に振りまわされてきた人たちは嫌気がさしていたに違いない。取り壊し命令がでた本家を残すよう、職員に縋って懇願した菊乃ばあを、真剣に助けようとした者もいなかっただろう。
「ほんまはな、戦争すんだ次ん年の冬に大きい地震があったん。知っとる人の家みんなつぶれるくらいの。福良に津波がきたいいよったわれ。でもなぁ、そん時はいっこも恐なかったん。まわりに繁男の爺さんも鉄のお婆さんも、冨吉のお爺さんもちんまかった隆もみんなおったさかい」
七十六のころより細くなったという両腕は、右手の人差し指ほどの決定的な痕ではないにせよ、シワと血管の見分けがつかないほど孤独な時間の寂寥を浮かびあがらせていた。「一人になる思わなんだ。……春やのに、冬みたいにこじけら」周吾が握った手は冷たかった。手を握りながら、これまでの人生でこれほど誰かに頼りにされたことがあっただろうかと周吾は思った。
網戸を透かして赤く染まった空を見ながら「この上を高知の辺からきたB29が飛んでったん」と菊乃ばあは囁いた。今は旅客機が雲の残像を残してゆくだけだ。周吾が手を放すと、菊乃ばあはタオルケットを腰まで引きあげた。
夕食を終え、風呂からあがってきた菊乃ばあはベッドの上で「今日は日曜日やなあ」と周吾に尋ねた。「そや、ポリデントの日や」と応じると「ボーイフレンドのいけぇ」と頓狂な声をあげた。「ポ・リ・デ・ン・ト!」と繰り返すと、菊乃ばあは合点がいった表情で洗面台まで歩いていった。
「やり過ぎちゃだめよ」という沢野さんの言葉を思いだした。周吾は、菊乃ばあが尿瓶に水を入れ、袋を開けて取りだした錠剤を投げ込んでから義歯を放り込むまでを、黙って見ていた。
四日 月曜日
洗面台に置かれた尿瓶が小窓から差し込む曙光にきらめいていた。遅くまで『日本と古事記』を読んでいた周吾は、眠い眼をこすりながら尿瓶を見つめた。しばらく眼を凝らしていると、それが淡路島の形に見えてきた。薬液が半分ほど入った尿瓶の中で義歯が二つ重なり、ふつふつと小さな泡をあげていた。周吾は把手をつかみ、薬液と義歯を洗面台にぶちまけた。短い高音が響いた後、濁った液体は義歯をなめてゴボゴボと排水口を流れていった。
小窓の外には、本家のひび割れた土壁が見える。洗面所を離れると、周吾は台所のドアを開けた。同時に七時の時報が町内に響きわたった。
「いっつもここに入れたぁんのに、あれへな。見てか」菊乃ばあが柱に右手をかけて立っていた。寝る前に飲んだ牛乳パックをシンクに向けて振っている。「昨日は日曜やからポリデントの日やろ」と周吾は大声でいい放った。菊乃ばあは腰を屈めた姿勢で洗面所へと歩いていった。「入れ歯、クスリにつけたある尿とりのビン、あれへな」と尿瓶を探す声がしばらく聞こえていた。ようやく洗面台で義歯を見つけたのか、口に装着して台所に入ってくると、「朝ら寒いわ」と腕を擦った。
朝食は食パンとヨーグルトとコーヒーを用意した。「へぇ、こんな食べもんあるんけ」と珍しい朝食をゆっくりと食べていた。食器を洗い終えると、周吾は自分の衣類を洗濯した。洗濯が終わるまで和室の縁側で『日本と古事記』の続きを読んだ。馴染みのない難解な話だが、明代が好んで読んでいたと思うと、明代とつながれる気がした。菊乃ばあは隣室で点眼薬を探している。
十一時に沢野さんはやってきた。周吾は本を閉じると、菊乃ばあを促して台所に入った。沢野さんは玄関で帽子を脱ぐと、台所に入ってくるなり「聞いててよかったわあ、スーパーはパンの種類がいっぱいで迷っちゃった。危うく間違うとこだったわ」と汗を拭きながらパンを菊乃ばあに手渡した。渡されたのは《山崎のレーズンパン》だった。菊乃ばあは見えていないため「ありがとよ」と笑顔だったが、《フジパンのネオバターレーズンパン》ではなかった。周吾は高校の英語の教師がいっていた言葉を思いだした。「早合点はフォーゴトゥンと一緒だぞ」沢野さんは忘れてしまう前に、はなから理解していない。いや、人のいうことをほとんど聞いていない。
孫というだけで素性の知れない周吾を疑いなく受け入れる寛容さは持ちあわせていても、この慌て性は一生治らないだろうと周吾は思った。沢野さんは、食器用の布巾で額に浮かんだ汗を拭いていた。こんな雑な性格でも解雇されないのは、土、日に働けるヘルパーの数が足りないからだった。
沢野さんは鶏の肝の生姜煮とほうれん草のお浸しを作ると、菊乃ばあの寝室を簡単に掃除して帰っていった。
昼食後、周吾は畑や畦道に生えた雑草を刈る道具がないか、門屋を探した。三本の草刈り機を見つけて門屋の入り口に出してきた。見つけたのはよかったが、動かし方が分からなかった。
草刈り機の使い方を教えてくれる人はいないか、菊乃ばあに聞くため、周吾は新家に戻った。「ばあ」尋ねても返事はない。周吾は、本家と門屋をつなぐ敷石まで歩いてきた。敷石の上に立って改めて本家を見わたすと、やはり大きく右に傾いている。最も東側にあった便所と浴室は崖下へ崩落していた。屋根を支える太梁にあいた小穴に、熊ん蜂が巣を作っていた。熊ん蜂はいらだたしい羽音をたてながら、玄関の上空を旋回していた。
開きにくい本家のサッシ戸を開けた。膝上の高さほどのあがり框から続く四畳半の客間で左膝を立て、右足をつっかえ棒のように柱にかけて眠る菊乃ばあを見つけた。ぽっかり開いた口の周りをぐるぐると飛んでいた一匹の蝿が口の中に入っていった。「わぁ」眼を醒ますと、菊乃ばあは慌てて柱から足をおろして上半身を起こした。んごっと唾を飲み込む音がした。夢の続きを見るような戸惑った顔つきの菊乃ばあは、胸のネックレスをいじりながら視線を天井から玄関に移すと「じっきにお迎えがきよら」と呟いた。
周吾が菊乃ばあの肩に手を置くと「兄やん、ここにおったんけ」と顔をほころばせた。「ばあ、家の中、一緒に歩かへんか」と声を掛けた。周吾の声は家一体に響き渡った。菊乃ばあは柱を持ちながらゆっくりと立ち上がった。
サッシ戸の入口正面にある土間を、菊乃ばあが寝ていた客間を迂回しながら進むと、石造りの框があった。框の左には、両腕をまわしても抱えきれない大黒柱が立っていた。多くの柱が傾いているにもかかわらず、漆黒の柱だけは家全体を支えてまっすぐに天井を貫いていた。
周吾も菊乃ばあも靴のまま框をあがった。板張りの台所では流し台に砂埃が積もっていた。台所と勝手口を結ぶ廊下の右手には、部屋らしきものがあった。「ここが繁男のお爺さんと鉄のお婆さんの寝床やったとこ」と菊乃ばあは短い指で指した。カビ臭い床の所どころに洗面器やバケツが置いてある。雨漏りするのだろう。廊下をはさんだ反対側で、竈の残骸の焚き口が冷んやりと陰に埋もれていた。壁にかかったホワイトボードには、風間医院、冨吉じい御用達の酒店、汲み取り屋などの電話番号が書いてあり、佐久間家の暮らしが消されずに残っていた。周吾は親指でマジックをこすり、“風”の文字を“虱”に変えた。床は二人が歩くたびにギシギシと鳴った。
開け放たれた襖を抜けると、一方は居間、一方は客間として使っていた六畳間が二間続きであった。全ての畳が波打つようにめくれている。菊乃ばあは丸まった腰を叩きながら「めげくさしじゃ」と呟いた。居間の壁にはめ込まれた仏壇の扉は閉ざされていた。もしかして菊乃ばあが冨吉じいに内緒で、仏壇の中に父の位牌を隠しているのではないかという疑念が周吾の心に沸いた。観音開きの扉に手をかけ、そっと開けると、聖徳太子の髭が僅かに残る朽ちた紙幣と鼠の死骸があった。周吾は慌てて扉を閉じた。「どないしたん」と菊乃ばあは周吾の腕を擦った。長年住んでいた感覚なのか、薄暗い部屋でも菊乃ばあはつまずくことなく歩いた。
屋敷全体を囲うように敷かれた縁側を通って客間の裏手にまわると、木づくりの急な階段があった。下から覗くと、梁がむきだしになった屋根裏が見える。そこはタンスが窓を遮る陽のあたらない空間だった。周吾は背筋に凍み雪を投げ込まれたような悪寒を感じて両腕を摩った。菊乃ばあに下にいるように告げると、階段を一段ずつのぼった。誰かが後を追ってくるように、ミシミシと軋む音がついてきた。振り返ると、階下では気づかなかった絨毯の緋色が眼に飛び込んできた。汚れているはずなのに、血と見まごう鮮烈な緋の色がくっきりと見える。まるで菊乃ばあが深紅の毛布にくるまれているような錯覚に陥った。周吾は手の甲で額の汗を拭った。
天井の高い屋根裏は小さな明かりとりから微量の光を吸収していた。カビの臭いが充満している。微かな光をたよりに周囲を見まわしてみた。積みあがった段ボールには「小」「中」「高」という紙が貼ってあった。奥には埃をかぶった机と椅子があり、壁に金属バットとグローブとボール袋が掛かっている。ここは父の部屋だったのだ。一歩踏みだすと、周吾は何かを踏んだ。見るとお手玉のようだ。蹴り飛ばすと、あずきのような粒が部屋中に飛び散った。
周吾は背後に誰かの足音を感じながら階段をおりた。一階におりると、薄暗い部屋を見まわして「ばあの眼って、これよりもっと見えへんのやな」と呟いた。菊乃ばあは聞こえなかったのか沈黙を守っていた。周吾は振り向かずに眼の前の和ダンスを一発殴りつけた。ぱっと粉塵が舞った。
「ばあ、父さん……隆はどこで倒れとったんや」周吾は菊乃ばあに尋ねた。
しばらく黙っていたが、「これ、隆がくれたネックレス。鉄こしらえる会社へ就職した時、最初のお給料で買うてくれたもんよ」といって、菊乃ばあは首で絡まっているネックレスを短い人差し指で持ちあげた。「車の外側の形作ってたいいよったわれ。ボジーゆうんけ。夜中んなったら寮の電話からよう電話してきよったんよ。次から次から新しい自動車がでけてくっさかい、一つ大きい仕事すんだら、また次、新しいボジー作らなあかんゆうて。寮におる先輩が耳打ちするんやと。おまはんの部におったら、気ぃふれてしまうぞ、ゆうてな。辞めたらあかな、しっかり働かんといかんぜゆうたわれ。島からでられてよ、大きい仕事させてもらえるんやさけな」菊乃ばあは落ち着きなくネックレスを触り始めた。周吾は黙って菊乃ばあの話に耳を傾けた。
「そのうち、晴江はんと、いや和江はんやったかなぁ……結婚してなぁ」「晴江や」周吾は母の名を口にしたのは久しぶりだと思った。「結婚したら落ち着くかいな思いよったんやけんど、ずうっと神経病みよったんやな。先輩のゆうこと真に受けとったんかしら。思い込んだら我がを通す子やったさかい」家族に背を向け、自らを幽閉した檻に誰も入りこませず、黙りこくって暮らし続けた父の背中を思いだす。「金曜はサラリーマンには嬉しい日なんやぞ。分かるか、周よ。分からんやろなぁ」躁の父は、よくそういって一人で散歩に出かけた。鉄を作るだけなのに何がそんなに苦しいのだろうか。不機嫌に黙り込む日曜の父の背に対する不信感が幼い周吾にはつきまとっていた。
「兄やんの誕生日の祝いしに、お爺さんと堺の家行った時よ、あん時なぁ、ほんまは晴江はんと兄やん連れて島へ戻ってこんかていいにいったんよ。晴江はんも隆ん馬鹿さ加減に困っとったし、農家でもして心休けた方がええ思てよ」菊乃ばあはネックレスをまさぐる手を止めて再び動かなくなった。
「田舎へ引っ込むことは負けになる思たんかなぁ。お爺さんの前で田舎ん仕事あなずりくさったわれ。あら、お爺さんの、佐久間の家の全部を馬鹿にしたんじゃ」周吾は小雨が降っていた日を思いだした。「つまらん人間はみな地獄へ連れていくど」父の言葉が耳の奥に響いた。
「大阪から帰ってきたら、この階段で首、吊っとったん」周吾は背筋の凍るような感覚と、後を追ってくる軋みを思いだして絶句した。「冨吉のお爺さん、この床に隆を寝かして頬をばちんと叩いたけんど、眼ぇあけなんだ。お爺さんが脳溢血で死んだて晴江はんに電話せぇゆうたわれ。もう、昔ん話よ」ぬるい三ツ矢サイダーを飲んでいた時にかかってきた電話だと周吾は母を見あげる自分の姿を瞼の裏に浮かべた。
「仕事辞めたらあかな、もっと頑張れゆうたんがあかなんだんかなぁ」菊乃ばあはぽつりと言葉をこぼした。
父は、母と周吾と三人で本家に帰ってきて、屋根裏で静かに暮らしたかったのかもしれない。そうすれば周吾の人生もまた全く違うものになっていただろう。
周吾は、菊乃ばあの曲がった背中を擦った。
その夜、周吾はご飯とみそ汁をよそうと、玉子焼をのせた皿の横に置いた。菊乃ばあはなかなか箸を動かさなかった。電気が煌々と点いている食卓だったが、暗い夕餉になった。菊乃ばあが冷めたみそ汁を一口すすると、周吾も食べ始めた。
五日 火曜日
火曜は菊乃ばあが『ゆうあい苑』にいく日だった。朝九時にお迎えがきて、昼二時に帰ってくるため、昼食を作る必要がないようだった。
朝食の準備を整えると七時の時報が流れてきた。牛乳パックを持って起きてきた菊乃ばあは、台所を抜けて洗面所に入っていった。義歯を磨く音に紛れて「今日はゆうあいの日、行ってもしゃああれへな」という声が漏れてきた。
朝食後、読経を終えて台所に戻ってきた菊乃ばあは、「寒いわれ。お茶飲まにゃあ」と茶を催促した。周吾は、この数日で菊乃ばあの言葉の語尾の“にゃあ”の意味するところを理解していたため、熱いお茶を入れてテーブルに置いた。
お茶を飲み終えた菊乃ばあは寝室に戻ると、押入れで服を探り始めた。周吾がコーヒーを飲み干したころ「これでええけぇ」と台所に顔を覗かせた。藤模様の半袖シャツを裏返しに着ている。周吾は「器用にボタンとめたな」とだけいった。「へぇ」と答えた菊乃ばあは寝室へ戻ると、愛用の巾着を手に持ってベッドに腰かけた。
九時過ぎ、車のブレーキ音が玄関から流れ込んできた。周吾は左右逆に揃えられた靴を元に戻して履くと、表に出た。車体に『こころのふれ愛 ゆうあい苑』と印字された車が止まっていた。運転席からポロシャツを着た中年女性がおりてくると「お孫さんですよね。これからよろしくお願いします」と笑顔で周吾に挨拶をした。菊乃ばあが玄関から出てきた。スロープを歩きながら「早よからご苦労さんで。朝らまだ寒いわれ」と白い歯を見せた。周吾は頭を下げると、菊乃ばあを送りだした。
鶯が竹を射通すような鋭い声で鳴いている。周吾は大きく深呼吸をした。島の空気は澄んでいると思った。
新家に戻ると、周吾は洗面所でずっと巻いたままの包帯を取ることにした。するすると解いていくと、先端が血に染まったガーゼに付着していた。無理に剝がそうとすると痛んだため、包帯をハサミで切った。包帯の代わりに菊乃ばあのスカーフを巻き付けた。
靴箱の下に置いてあった鎌で畑の草を刈っていると、軽トラックが敷地に入ってくるのが見えた。新家の前に車は止まった。おりてきたのは、里谷組の棟梁の勇さんだった。Tシャツの上からでも肩や腕の筋肉の隆起や胸板の厚さが見て取れた。太い腕はヒクヒクと痙攣し、多毛質なふくら脛の筋肉は盛りあがっていた。飛びでた腹には腹巻きを巻いている。
「都会からきたもんは、しゃれとるな」勇さんは周吾の手首のスカーフを見て愛想よい笑顔を浮かべた。「包帯がなくなったんで」と周吾は頭をかきながら、改めて家に運んでもらった礼を述べた。勇さんは軽トラックの荷台を探ると、救急箱の中からさらの包帯を取って周吾に渡した。周吾は頭を下げた。
次いで、運転席から鍋のようなものを取りだしてきた。「あの炊飯器、年季もんやさかい、これ使うて。圧力鍋や。十分少々でご飯が炊けるさかい便利やで」というと運転席に乗り込みエンジンをかけて帰っていった。見かけに寄らず、温和ないい人だと思った。周吾はスカーフを外すと、もらったばかりの包帯で手首を巻いた。
その夜、説明書を読みながら、周吾は圧力鍋で初めてご飯を炊いた。水を入れ過ぎたのか、ご飯がべちゃべちゃだった。
「ばあ、今日のご飯、やわらかすぎたなぁ」しゃもじに引っつくご飯を茶碗にねりつけると、周吾は菊乃ばあに渡した。「どれどれ」と菊乃ばあはご飯を口に含むと「ちょうどええわれ」と噛み続けた。「鉄のお婆さんが本家の離れに一人住んどった時、そっから大声で、早うめし持ってこいてよう怒鳴っとったんよ。いっつも早う早うゆうもんで、ある日、ご飯、蒸らさんとべちゃべちゃんまま持ってったん。ほんなら次から早う早うてゆわんようになったわれ」と周吾を気遣った。
茶碗にお茶を注いでさらえたご飯つぶを飲み干した後、菊乃ばあは、プリンを味わって満足気な表情を浮かべた。
六日 水曜日
洗面所の小窓の下にあるカレンダーを見ると、高齢者専用の弁当が配達される日になっている。カレンダーを見ながら、毎日が同じようでもあり、またいつもと違うようでもある日々を送ってきた周吾にとって、規則正しく回っている日常があることを、またそこに身を置いている今を不思議に感じていた。
午後三時過ぎ、一台のワゴン車が新家の前に止まった。周吾が表にでると、やせた猫背姿の男が運転席からおりてきた。頭髪は全て真っ白であるため、六十を過ぎているように見える陰気な男だった。手には大きな箱を持っている。
「こんにちは。高齢者専用の弁当の運搬を請け負ってる岡井と申します。お宅が噂のお孫さんですな。よろしく」
男は卑屈な笑みを浮かべると、丁寧に頭を下げた。
「この弁当は国の補助金で運営されとりまして、今は水曜日の週一回やけんど、今後は増やしていく予定です」
岡井は、周吾に二十㎝四方の弁当を手渡しながら唾を飛ばした。受け取った周吾は思わず「重いなあ」とこぼした。「いつもはテーブルまで持っていってるんやで。今はお宅がおるから渡したけど。以前はプラスチック容器やったんやけど、残飯入りの回収容器を玄関先に置いてたら野良猫が食い散らかしたもんで、分厚い樹脂製の頑丈な箱に変わったんやわ。せやけど、持ったら分かるように、老人が運ぶには重すぎると苦情が出てるんや」と砕けた調子でまくし立てた。
岡井を見ていると、話しながらも周囲を観察するように、卑屈そうな眼をキョロキョロと動かしているのが分った。
岡井は何かに気づいたらしく、ゆっくりと門屋に向かって歩きだした。「草刈りの季節やねえ。お宅、草刈り機の使い方、知ってるか」といって、三台の草刈り機の前までやってきた。詳しく使い方を説明すると「婆ちゃんに直してと頼まれとったんやけんど、放っておいたんやわ。けんど、お宅がきたさけ、いっぺん修理でけっか農協へ聞いてみたろ。多分二台は使いもんにならんさけ、婆ちゃんとの約束通り部品だけはもらうよってに」と底意の感じられない笑顔を見せた。
「わし、明石の橋が架かるまでは津名港と西宮の間を航行してた甲子園フェリーの船員やったんや。便が廃止になったと同時に、福祉ボランティア職員に鞍替えしましてな、六十ですけど、今も『ゆうあい苑』で介護助手をしてますねん。まあ仕事がら農協やら地域団体なんかにも顔が利くさかい、困ったことがあったらなんでもいうてや」岡井は門屋にある埃を被った按摩機に手を掛けながら、ほくそ笑んだ。使えそうなものを物色するのが楽しいように見えた。
「弁当を食べたら表に出しといて。回収するさかい」というとワゴン車に乗って帰っていった。
七日 木曜日
朝から暖かい日差しが差し込み、八時過ぎには一六℃を超えていた。菊乃ばあは暑いと上着を一枚脱いでいた。
赤いアルトに乗って沢野さんがやってきた。土、日、月と立て続けに見ていたので、二日あくと久しぶりに感じられた。額に汗を浮かべてはいたが、今日は帽子も手甲もしていなかった。普段と全く違うメイクをし、胸にエルメスと書かれたピンクのTシャツを着ている。仕事が終わるとその足で明石海峡大橋を渡るのだと周吾は思った。神戸に対するずれたセンスには気づかず、ささやかに勘違いを温める沢野さんにとって、橋を渡る意味は有名ブランドで着飾って自己表現することなのだ。
沢野さんは嬉々として作業を開始した。早速「あれぇ、みりんが切れてるわぁ。これじゃあ何も作れないわねぇ」とぼやいている。相変わらず一番手前にならぶものにしか眼がいっていない。またいらない物を買ってくるだろう。それも安物でいいのに神戸の百貨店で高級品を選んできてしまう。周吾は常識に対して貧血気味の沢野さんに、みりんのありかを教えた。「お婆ちゃん、これまでは一人で寂しかったけど、頼りになるお孫さんがいてくれて助かるわねえ」と老人を慰める言葉を喋ってはいるが、脳はエステシャンの指先の感触やホットタオルの温もりを思いだしているのだろう。
「あれっ、みりん買ってこなきゃいけなかったかしら」さっきいったことも忘れている。調理器具を洗うのもそこそこに、沢野さんは帰っていった。
赤いアルトを見送りながら「ほんまにせからしいやっちゃ」と菊乃ばあは悪態をついた。
八日 金曜日
「四月八日はお釈迦はんの誕生日。二回目の金曜日は風間先生がくる日」と菊乃ばあは、ブラウスに着替えた。
午前十時過ぎ、シルバーの軽自動車がやってきた。さまざまな車がやってくるたびに、自転車で買い出しにいく周吾は羨ましさを感じたが、生活費の全てを菊乃ばあに、というよりも冨吉じいが遺した財産で賄ってもらっているので、贅沢はいえなかった。
「佐久間さん、往診です」中年の女性看護師の呼ぶ声に「へぇ」と応じた菊乃ばあが玄関まで迎えにいった。周吾は台所から眺めていた。看護師の後ろに背の高い四十代前半に見える男性が立っていた。風間医師だとすぐに分かった。眉間にしわを寄せ、取り澄ました表情の冷たい印象を受ける人物である。
診察は和室で行われた。風間医師は菊乃ばあの血圧と熱を測ると「で、調子はどう」と厄介そうに一声かけた。
「最近、また便が出らんのでセンナ飲んでもええかいな」と懇願すると「ご自由に」のそっけない返事が返ってきた。それからふくら脛の静脈瘤を触った。「薬、また一カ月分出しておくから飲んどいて」というと請求書と薬袋を置いてそそくさと帰っていった。十分もいなかった。
周吾は手首の傷を診てもらおうと思っていたが、やめた。菊乃ばあは悄気た面持ちでうなだれていた。
昼食を食べ終わったころに、玉井さんがやってきた。健康のため、近くにある山にのぼってきた帰りだという。
「手首のけがを診てもらおうと思ったんですけど、感じの悪い人だったのでやめました」と周吾は風間医師の印象について単刀直入に告げた。
「私も半年に一度、胃の検査を受けてるんやけど、老人の間の評判はあまりよくないなあ。風間道雄君は、もともと神戸の大学の医学部を卒業してるんや」と前置きした。それは周吾が中退した大学だった。玉井さんは出したお茶をすすって続けた。「卒業後は大学病院に勤務してたけど、淡路島で開業してた風間大元に見初められて養子縁組をして医院の跡を継いだんや。大元の存命中は、老いも若きも男も女も分け隔てしない良心的な医師として好評やったんやけど、数年前に大元が他界すると、『老人を大切に』という閉塞的な田舎の因習を破って、態度がコロッと変わったんや」そういうと玉井さんは手のひらをくるっと裏返して見せた。「老人を露骨に毛嫌いするようになった。きて欲しくない老人には、別の病院を紹介するんやで。口コミを気にしてか、若い患者や主婦なんかを優先的に診察してるという噂や。まあ、私なんかには一目置いてくれてるけど、エゴイズムが四十代後半の若い心を色濃く支配した原因は、やはり大元の死への喪失感があったとは思うけど、心の奥底には都会から弾きだされたという悔恨が根強いんと違うかなあ」と玉井さんは持論を述べた。隣で話を聞いていた菊乃ばあは、分っているのかいないのか、虚空の一点を見つめていた。しばらく場に沈黙が横たわった。
「ばあが何の薬を飲んでるのか今朝知りました」と周吾は口を開いた。「『ゆうあい』に同じ血管に瘤ある婆さんおら。洲本ん県立の病院で同じ薬もろとっけど、一週間しかくれんゆうぜ」菊乃ばあは右眼だけを周吾に向けた。
「なんやこの薬は血流を促進しすぎるさかい、万が一けがしたら血小板が固まらんと血が止まらんようになる恐れがあるらしい。そやから一週間分しか処方できんみたいや。なんで一カ月分も出せるんやろか」という玉井さんの言葉に、風間医師のいい加減さを周吾は感じた。
「海岸沿いの埋め立て地に医院が密集してる。里谷組の勇ちゃんの白亜の邸宅もそこにあるから、手のけがを診てほしかったら、勇ちゃんに連れていってもらい」と提案すると、玉井さんは歩いて帰っていった。
島にきて一週間が経った。たった七日の間で周吾は自分の事を気に掛けてくれるさまざまな人に出会った。本心か、興味本位かは判然としないが、周吾はこの島で何とか生きていかねばと気持ちを奮い起こした。
(三) 五月
※四日 水曜日
五月に入った。気温の上昇に伴って畑や畦の雑草は周吾の脛の高さほどになっていた。
周吾が買い物で不在だった間に、岡井が草刈り機を持って帰ったと、菊乃ばあは帰宅した周吾に伝えた。「修理できるか農協に見てもらうだけやろ」と答えると、菊乃ばあは「あん男、前に畑ん咲いとったシャクヤクの花、分けてくれゆうさかい、ええぞゆうたら、全部球根から根こそぎ持っていんだわれ。んなもん、花だけや思うわのう。あなずりくさって。もう返ってこん思とかなあかなよ」と珍しくいきり立った。
※八日 日曜日
四月に五町が合併し、淡路市が発足していた。その新市長選挙が間近に迫っていた。市長候補の母親と親交の深い玉井さんから、選挙前にたびたび電話があった。住民票を移していない周吾には選挙権がなかったため、玉井さんは米の義理だて以上の効果をもつ菊乃ばあの一票を狙って、しつこく投票を要請してきた。候補の公約は明石海峡大橋通行無料化だった。菊乃ばあは「字も書けんのに、行ってもしゃああれへん」と断り続けたが、八日の投票日当日、玉井さんは強行策にでた。
「お婆ちゃんを公民館まで連れていってと頼まれたのよ」朝八時過ぎ、里谷組の勇さんの妻、節子さんがやってきた。右手に包帯を巻いている。「トラックからベニヤをおろしてたら、切っちゃって」と舌をだす色白の節子さんは、細面の顔に薄化粧をしていた。肉欲をそそられる豊麗な色香は五十手前とは思えず、上品で物腰やわらかな態度は、棟梁婦人には見えなかった。笑顔にあわせて口元のホクロを動かすだけで、投票を渋っていた菊乃ばあの背を押す役割を周吾に果たさせた。
その日、沢野さんが帰った後、周吾は日頃から気になっていた新家の建てつけの悪さについて菊乃ばあに詰問した。毎晩、和室で寝ながら天井を見ていると、天板が平衡でないことに気づいたのだ。すると、いろいろな事が目につくようになった。粗悪材に木目調の紙を巻いただけの柱は、上から油を塗ったために樹液が固まったような跡が残っていたし、和室の畳は踏むたびにキューッキューッと鳴った。浴室には窓がなく、洗面所に小窓があるだけだった。押し入れの柱は傾き、襖が開きにくかったし、シンクやレンジ台には無名のメーカー品が使われていた。極めつけは、折り畳み収納式の階段をのぼって屋根裏の物置へあがると、マジックでミスと書き殴られた梁がいたるところに露出していたことだ。
震災後、立入禁止をいいわたされてからも、愛着のある建物で住みたいという菊乃ばあの意向から、損壊のひどくなかった門屋に簡易部屋を作ってもらい、八年間住んでいた。そんな菊乃ばあに新家を建てることを提案したのは勇さんだという。佐久間家とは、勇さんの父が石屋だったころから空き地を安価で貸していたよしみがあり、長い一人暮らしを案じて提案してくれたものと思っていた。しかし、この平屋のでき栄えは手抜き建築も甚だしかった。
菊乃ばあがだしてきた請求書には、高級シンクやレンジ台を設置したと記載してあった。「お爺さんが貯めてきたお金が、いっぺんにのうなってしもたわれ」と菊乃ばあは悄気た。
妻にベニヤ板をおろさせることはさておいても、周吾は勇さんの柔和な面持ちの裏に、いい知れぬ醜怪さを感じるようになっていた。建てつけを見て、密かに感じた偽善的な素顔を窺い知ることができた気がした。
勇さんは周吾のように島外からきた人間には不遜な離島根性をおくびにもださなかったが、土着の豪農に対しては露骨に嫉妬心をぶつけてきた。しっぺ返しを食らわすように。懐柔的な態度で接しながら、心の奥底では冷淡に蔑視し、佐久間家の位牌を汚しているのである。
周吾は冨吉じいの遺影を一瞥すると「いちゃもんつけてきたる」と色めきだった。そんな周吾の腕をつかまえて「エテツンでええんよ。黙っとってか」と菊乃ばあは泣きそうな顔で叫んだ。志筑一円を牛耳る里谷勇に刃向かうことが何を意味するのか、よく知っていた。知らん顔をしておくのが一番よいのだ。刃向ったところで、勇さんにとってはものの数ではない。それが悔しかった。
その夜、菊乃ばあが一票を入れた市長候補が当選した。
※九日 月曜日
午後二時を回っていた。周吾は午前中に沢野さんから「ブルーベリーが眼にいいらしいわよ」と勧められ、ブルーベリーを買うために、市道にでてすぐのフルーツ農園に行くことにした。菊乃ばあの眼はそんなものが効く悪さ加減でないことは分かっていたが、なぜか行こうと思ったのだ。
自転車にまたがり、めいっぱいブレーキを握りながら急な蛇行坂を走りおりた。甲高いブレーキ音が、深緑の葉を茂らせた蜜柑の潅木をかすめて響く。途中、砂利を満載してのぼってくる一台のトラックとすれ違った。「暑くなってきたけど、婆ちゃんは元気か」運転席から勇さんが顔を見せた。周吾は「おかげさまで」と答えながら鋭い眼で勇さんを睨み返した。勇さんはヒューと口笛を吹くと、平然と蛇行坂をのぼっていった。周吾の心臓は高鳴っていた。
市道に出ると《フルーツ楽園カトリ》の看板が見えた。家から近かったが、一度も訪れたことがなかった。果物の絵が描かれた幟がだらりとポールに巻きついている。
自転車を置き、精算所代わりのビニールハウスに入ると、老人がパイプ椅子に座って居眠りをしていた。店内はガランとしている。扇風機が生ぬるい風を撹拌していた。人の気配で眼を醒ました老人は、眼をしょぼつかせながら、「伊勢へ参らば淡路をかけて、淡路かけねば片参りってね」といって笑った。周吾を観光客と思ったのだろう。「何が入り用かな」と老人は商売人の顔つきに変わった。
奥の家屋から「お爺ちゃん」と老人を呼ぶ女の声が聞こえてきたが「今、客人がきとるさかい、後じゃ」と老人は顔も向けずに答えた。周吾はブルーベリーを頼んだが、売り切れていた。
椿の絵柄が入った割ぽう着の袖を捲くりながら、頬をふくらませた女が入ってきた。「お爺ちゃん、何べんも呼んどうのに。どうするんで。ブルーベリーの畑、今のままやったら全然足りへんわよ。うちの人にもゆうてますけど、お爺ちゃんからもゆうてくれませんかいね」女は黙りこくる老人に「里谷さんとこ、廃材置き場、整地したゆうてたから、貸してもろたらどないですか」と言葉を継いだが、途端、老人はこめかみに血管を浮かべると「あんな奴に借りられっか。親父の代から汚い商売ばっかしとう奴に。康夫にもゆうとけ、あいつだけには絶対に借りんな」と叫んだ。女はあきらめた表情を浮かべて奥に戻っていった。
「えらいとこ見せてしもて、すまんこって。こん先に伊弉諾神宮という神社があるさかい、行ってみてや」老人は柔和な表情に戻ると周吾に頭を下げた。
ビニールハウスをでると、幼いころに一度だけ冨吉じいに連れられて行ったことのある伊弉諾神宮へ行ってみようと、自転車のサドルにまたがった。
市道から多賀へ抜けるアップダウンのある道を北西へ向かった。多賀左折の標識がある交差点を曲がり、突きあたりのT字路を右へ折れると、照葉樹に囲まれたスカイグレーの鳥居が見えてきた。石灯籠とあ・うんの狛犬を横眼に鳥居をくぐり、自転車を押しながら一万五千坪あるといわれる神域をのびる砂利道を進んだ。森厳な森影が落ちる道の両脇には、周吾の背より高い灯籠が七基ずつ等間隔に立っている。平日の境内に人影はなかった。
周吾は『天然記念物 夫婦大楠』と書かれた看板に近づいた。二本の楠が根をあわせて一株に成長したもので、『連理の楠』と記してある。男と女が結合したようなY字の大樹は、眼を少しあげた辺りで二つの支幹に分かれていた。周吾は楠を見あげた。
樹齢九百年を超す老木を見あげていると「何してんのぉ」と誰かが声を掛けてきた。声の主に眼をやると、体の線を強調する豹柄のノースリーブに太ももあらわな短パンを履いた女が立っていた。短パンの裾からはみでた糸くずが淫靡に見える。二重がくっきり際だつ瞼からのびたマスカラが他のパーツをぼかしていた。歳は二十代だろう。女は太陽に手をかざした。香水の匂いが体臭に混じって流れてきた。朝のニュースでは、日中は二二℃まで気温が上がる予報だった。
看板の前に自転車をとめる周吾に女はもう一度「何してんのぉ」と聞いてきた。周吾は荷台に腰かけながら「イザナギさんに会いに」と答えた。島にきてから若い女と話すのは初めてだと思いながら、女の言葉を待った。
「あたし、仕事の合間のひまつぶししてんのぉ」と女は不精に脇腹をかいた。「ペンションの手伝いか何かか?」「ヒ・ミ・ツ」ノースリーブの胸元は大きく開いていて胸の谷間に汗のつぶが光っていた。周吾はマスカラが際だつ眼を凝視した。女は周吾の心を見透かすように、手の甲で胸の汗をぬぐった。
「この木ぃ、縁むすびと夫婦円満と子づくりにご利益があんねん。なんでか知ってるぅ? イザナギって、イザナミとこの世で初めてセクスした神様やねんでぇ」女はラメに光る唇をなめた。手のひらで顔をあおぐと、楠の葉が茂る湿った木陰に周吾を誘った。周吾は暑さをいい訳に、ついていった。
何を話していいのか分からず、周吾は明代から聞いた国生み神話について話した。「イザナギとイザナミがセクスしてた時、絶対、天つ神たちってこっそり見てたと思わへん? ビデオまわしてたかも」と女は相づちを入れた。女は時々大きな欠伸をした。「イザナミから告白したら奇形が生まれるなんて完璧に男尊女卑の物語やわぁ」とか「女のあたしからお兄ちゃん、いざなっちゃったわねぇ。どないしよう。これ洒落よ。確かにあたしから告ったら、いっつもみぃんな逃げてくもんなぁ」と女の相づちは周吾が話す間続いた。女の腕のうぶ毛が木漏れ日で光っていた。
女は急にいたずらっぽい鼻にかかった声で笑うと、立ち小便の真似をした。「淡路島って男根そっくりやんなぁ。この男根島を中心に、龍の形した神様をまねしたニッポン列島が作られていったって、イザナギが初めてセクスした神さまやって教えてくれた仕事の相棒から聞いたん。頭が北海道、羽が奥羽山脈、腰が四国、肛門が北九州の関門海峡、おまけで紀伊水道が尿道やってゆってたわ」気だるげな声は、女日照りだった周吾の欲望をチクチクと刺激してきた。
「男根島を中心に」という言葉が、たぶらかすように周吾の耳の奥でこだました。周吾のペニスは少しずつかたくなってきた。それを隠そうと、しゃがんだ。反ったマスカラのついた眼を見開きながら、女もしゃがむと、体を前のめりにしてきた。女の膝頭が周吾の股間に当たる。女の口元がニヤリと持ちあがった気がした。
「この楠、子づくりにご利益あるんやなぁ」女は楠を見あげながら意味ありげにいった。「イザナギとイザナミは結局別れたんやから、縁むすびと夫婦円満には逆効果やと思うけど」周吾の言葉に女は舌をだした。
女は突然細い手を周吾の股間にのばしてきた。「あたし、お兄ちゃんみたいな人、好きよ」そういって、しばらく周吾のかたくなったペニスをまさぐっていたが、唇に人差し指をあてると短パンを脱ぎ始めた。下着はつけていなかった。女は唇を重ねてきた。唇を重ねたまま、慣れた手つきで周吾の綿パンをおろすと、するするとトランクスまで脱がした。周吾は眼だけを動かして辺りを見まわした。ゆっくり女を湿った土に寝かせると、豹柄のノースリーブの上から形のいい乳房をまさぐった。イザナギを祀る神社の境内の大木の陰で、罰当たりと思いながらも周吾は女の火照った体に触れていた。
女が開いた秘部に手を触れようとした時、脳裏に明代の顔が浮かんだ。叔母の幻影に邪魔され続け、明代と心から交わることができなかったことが、ふいに頭をもたげてきた。鼻白んだ気分に香水の匂いと女の体臭が流れ込んできた。周吾は慌てて手を引っ込めると、何かに追いたてられるようにトランクスと綿パンを引きあげた。
周吾は自転車にまたがって走り去ろうした。一度だけ振り返ると、股を広げたままの女の姿が見えた。周吾は全速力でペダルをこいだ。
※十日 火曜日
今日は菊乃ばあが『ゆうあい苑』にいくため、昼食を作る必要がない。周吾は息抜きに、玉井さんがのぼるという近くの山にのぼろうと決めていた。
朝食後、読経を終えて台所に戻ってきた菊乃ばあは、いつものように茶を催促した。お茶を飲み終えると、迎えの車に乗って施設へと出かけていった、
自転車にまたがり、標高二百mの山をめざした。玉井さんに教えられた道順通りに進むと、すぐに木をアーチ状に伐採した登山口が見つかった。登山口の脇に、ガラスに黒いフィルムを貼った紺色のワンボックスカーが止まっていた。一人になりたかった周吾は、残念に思ったが、せっかくきたのでのぼることにした。
エアーシェルターのような木立の中、せわしげに鳴く野鳥の声が春たけなわを感じさせた。
二十分ほどのぼっただろうか。視界が展け、眩しい陽光が体を射った。頂上の広場では数人の男たちがビデオカメラなどを手に、慌ただしく動きまわっていた。奥のベンチでは、バスローブを着た男女が頂上入口に背を向けて座っていた。
顔じゅう髭まみれの男が周吾に声をかけてきた。「君、手があいてたら、その板持つの手伝ってくんない? 一人風邪で寝込んじゃって困ってんのよ。チップはずむからさぁ」黒いTシャツが汗で濡れている男は、丸眼鏡を指で持ちあげた。この角度で、とキラキラ光る板をかかげて見本をしめすと周吾に手渡した。
訝りながらもいわれた通りに立っていると、バスローブを着た男女が眼の前に敷かれたマットに移動してきた。二人とも蝶をかたどった仮面をつけている。ビデオカメラをかついだ男が髭を撫でながら「ハイ」と叫ぶと、男女はいきなりディープキスを始めた。バスローブを脱ぎ、白いブリーフ一枚の姿になった男は、バスローブの上から右手で女の胸をまさぐり始めた。周吾は突然の性的高揚感に虚を衝かれ、昨日、伊弉諾神宮の楠の陰で抱こうとした女の姿態を思い浮かべた。豹柄のノースリーブの胸元に光る汗と、刈りそろえられた恥部の毛、木洩れ日を受けてまだらになった二本の細い脚、そして体臭と香水の香り。その混ざりあった香りが、今、眼の前の女から漂ってきた。
男は悶えている女の仮面をはぎ取った。周吾は息を呑んだ。「お兄ちゃんみたいな人、好きよ」といって股を開いた女だった。周吾は途中で逃亡した後ろめたさから一瞬眼を伏せたが、バスローブを脱がされてこぼれ落ちた白い乳房に魅せられて視線を戻した。「イザナギはイザナミとこの世で初めてセクスした神様だ」と女に教えた相棒とは、この男なのだろう。二人のまぐわう姿を見ていると、周吾はのどが渇いてしかたがなかった。
髭面の男の「オッケー」の声が聞こえる。しばらく板を頭上にかかげたまま、周吾はズボンのふくらみにも気づかずに立ち尽くしていた。タオルで汗を拭いていた女が周吾に気づいた。失笑を含んだ表情で煙草に火を点けると、鼻から煙を吐きだした。女の口が「んで、なにぃ」と動いた気がした。周吾は足許に板を投げ捨てると「おい」と声をかける男を無視して駆け足で坂道をくだった。また逃げてしまった。坂道を駆けおりながら、周吾はいたたまれない気分になった。
※十一日 水曜日
午後、岡井は初めから修理不要と思われた比較的綺麗な一台の草刈り機を持ってきた。修理費として二万円の請求書と修理明細を菊乃ばあの鼻先に突きつけながら「婆ちゃん、やっぱし二台は直らなんだ。約束通り部品はもらうさけ。二万円立て替えてあるで頼むわな」と舌鋒鋭くいい放った。岡井の面前で菊乃ばあが財布の隠し場所へ進みかけたので「外へ出とけ」と周吾は岡井の背を押した。口笛を吹きながら玄関で待っていた岡井は、二枚の札を受け取ると、広げて図柄を確かめた後、ワゴン車に乗って帰っていった。
岡井の猫背姿を見ていると、内心には、国力によって行き場を失った船員の負け惜しみと、豪農として広い敷地で自給自足を続けてきた佐久間家への嫉妬、そして、何かあるたびに都合よく呼びだされる屈辱に対する反感を隠しているかもしれないと周吾は思った。
周吾は本家をでると門屋へ向かった。返却された草刈り機を手に取り、岡井に教わった通りタンクに混合油を注いだ。何度か紐を引いてモーターを駆動させ、軽く振って混合油を充填させると、手元のグリップを握った。激しいうなりとともに円形刃が高速で回転し始めた。
畦の青い荒草を刈り始めた。小石や砂が弾けて頬や耳たぶに当たり、汗が眼に入ってしみた。砂埃を巻きあげて根深い草が地面から切り離されていく。畦と池の斜面の草を刈り込むのに一時間かかった。草刈り機にロックをかけると、刃は形状を露わにして止まった。
周吾は洗濯していたことを思いだした。今の季節ならば午後からでも夕方まで干せば乾く。軒下で洗濯物を干していると、菊乃ばあの寝室から和室、さらに軒下にかけて心地よい風がそよぎ始めた。今日の風は穏やかだった。夕暮れ時、しばしば不可解な風が舞い起こることがあった。どこからともなく突風が発生し、洗濯物を吹き飛ばした。イザナギの神風と呼ばれる旋風らしい。玉井さんが教えてくれた。
洗濯物を干し終えると同時に『ゆうあい苑』の送迎車が敷地内に入ってきて新家の前で止まった。いつもの中年女性が運転席からおりてくると後部座席に回ってドアを開けた。「どうもありがと」という菊乃ばあの声の後に、聞き慣れた平べったい歩調が聞こえた。「気にしちゃだめよ。あの人は気が強いんだから」という女性の張りのある声が続いた。女性は周吾に菊乃ばあを引き渡すと、笑顔で運転席に乗り込み、もときた道を帰っていった。
台所に入った菊乃ばあはコンロの方に眼をやった。夕食の準備を始めているか周吾に気づかせるためだ。「もうすぐ、米研ぐから」の声に満足げに頷くと、何を思ったか「センナ煮だしてくれんけ」と頼んできた。「夜中びちびちになってパンツ汚れるで。昨日でたから、ええがな」周吾に噛んで含められると「そうけぇ。便、かたいんやけんど」とおとなしく引きさがった。
※十二日 木曜日
朝六時に起きた周吾は、台所にあったセンナを煮だし始めた。起きて早々、菊乃ばあが訴えてくるのは眼に見えていた。今日は沢野さんのくる日であるため、沢野さんに頼めばよかったが、近頃は菊乃ばあの身の回りのことを自然としてしまうことが増えてきた。
朝食の準備を整えると七時の時報が流れてきた。牛乳パックを持って起きてきた菊乃ばあは、台所を抜けて洗面所に入っていった。義歯を磨く音に紛れて「センナ飲まにゃあ」の声が漏れてきた。朝食後、読経を終えて台所に戻ってきた菊乃ばあは再び「センナ飲まにゃあ」と催促した。「俺はコーヒーがええ」周吾は意地悪く返した。「今日、日ぃええのんけぇ」周吾の脈絡ない応答に勝手に納得した菊乃ばあは、周吾が煮だしたまま置いていた湯呑みを手に取ると「濃いわれ」とこぼしながら液体を流し込んだ。ゆっくり飲み干すと、安心したように腹を摩った。
その夜、風呂あがりの菊乃ばあが体を拭き終え、パンツを履きながら話し始めた。「昨日、ゆうあいで九十四のお婆さんが怒ってきたん。わてが風間先生に、九十四のお婆さんがまともに診察してくれへんさけ、先生とこ行きとうないゆうてたこと、告げ口したやろて。何もゆうてへんのに」
周吾は「風間先生がいっこもまともに診察してくれへなて、九十四のお婆さんがぼやいとるわれ。困らぁ」と岡井や沢野さんに話している菊乃ばあを何度も見かけた。恐らく『ゆうあい苑』でも話していたのだろう。巡り巡って風間医師の耳に入ったのだ。五月に入ってから、菊乃ばあは時々話したことを忘れた。「八十六にもなると、過去で満タンになった脳が新しい情報を受けつけなくなるのよ」なったこともない沢野さんはそういった。
午後八時過ぎ、玉井さんから電話があった。同じ集落のサエ子ばあが亡くなったという。サエ子ばあは、嫁ぎ先の広島で原爆に遭い、晩年は繰り返しいろいろな場所に発生するがんに苦しめられ、夫と死別してから故郷の淡路島に戻って洲本の県立病院に入院していた。菊乃ばあと同じ年だった。「今晩お通夜で、明日が葬式けぇ。迎えにこんでええわれ。眼ぇ見えらんのに行かれへなよ」そういうと菊乃ばあは受話器を置いた。
菊乃ばあは、いつもは怖いといってすぐに閉める窓を開けたまま、障子だけを閉めてベッドに横になった。牛乳を飲むことも、義歯を外すことも忘れてじっとしていた。はだけた浴衣の胸元からネックレスと乳が垂れていた。障子に蛾がぶつかり、弾力のある音を鳴らしている。
周吾は布団に寝転がり、枕元の電気スタンドの灯で玉井さんがくれた神戸新聞の記事の切り抜きを見ていた。『教育者のあり方』というコラムの公募だ。玉井さんにだけは大学の教育学部に通っていた事を話していた。時間があるなら挑戦すればと勧めてくれたのだ。千二百文字ほどだったが、何を書いてよいか悩んでいた。
隣室の電気が点いた。台形の黄色い光の中、ベッドに座った菊乃ばあの姿があった。両腕をベッドのへりにかけ、両足をぶらぶらさせている。時々かかとがベッドの下の引きだしにあたって鈍い音をたてた。腕にぐいと力を入れて立ちあがると、腰を後ろへ突きだす姿勢で歩きだした。
台所を抜け、廊下に面したトイレのドアを開けた。便器内でぼおうと放屁の音が鳴った後、雨どいに五月雨が弾けるような糞の飛散する音がした。また便がべっとりとパンツについただろう。
菊乃ばあは、センナを飲まなくても時々腹を下した。そんな時、汚れたパンツをベッドの下の引きだしや、本家の電源の抜かれた冷蔵庫の野菜室などに隠した。
再び糞が飛び散る音がすると、ガスが抜ける音が後を引いた。「もうセンナ飲まんとこ」と呟く声が聞こえた。でも、明日には今の痛みも忘れているだろう。
周吾は腹ばいになると、授業で最も興味があった、ある教授の教育論について持論を書きなぐった。五月末の締切だったが、翌日に投函しようと朝方までかかって書き終えた。
眠たかったが、久しぶりに頭を使った気がして、すがすがしい気分になった。
(四) 六月
※十四日 火曜日
夕方、ワゴン車が敷地内の砂利道を走ってきた。畑の前でクラクションを一回鳴らすと、新家の前で止まった。おりてきたのは岡井だった。屍肉を嗅ぎつける男。『ゆうあい苑』を歩きまわりながら、老人の耳元で口約束を取りつける、堂々とした香典泥棒のような男だ。
「婆ちゃんの様子を見にきただけよって」とぎこちなく早口で喋ると、ろくすっぽ話もせずに帰っていった。
「今日、ゆうあいで岡井のおっさん、何かくれっていわんかったか」周吾は台所のテーブルに腰かけて団扇であおいでいる菊乃ばあに問いかけた。一度では伝わらないので、もう一度同じ質問をした。
「按摩機くれと。今日は孫はん、家におるかゆうさけ、おらんて嘘ついたったわれ」菊乃ばあは珍しく義歯を見せて「アッヒッヒ」と笑った。
※十五日 水曜日
朝から小雨が降っていた。周吾は高みにある畑に生ごみを埋める穴を掘っていた。掘った穴にバケツの生ゴミを投げ入れ、土を被すと、スコップとバケツを持って玄関まで歩いてきた。玄関先の蛇口でバケツに水を溜めながら、ブラシでこすった。
雨模様を見るために目線を上げると、二本の電線に門屋の軒下で生まれた三羽の燕が三角形を作って止まっていた。羽根の色は雨に濡れて艶やかだった。すぐに底辺の二羽が地を這うように飛び去った。残された一羽は首を左右に振りながらさえずっている。周吾には、それが自分のように思えた。子供に愛情を注ぐ過渡期を看過して暮らしてきた三角形は、父の死から二年後、母なる二点めを失い、周吾という点だけが残ったのだ。
住民票を移す手続きを取るため、周吾は午後から三ノ宮へでかけることにしていた。一合半の米を炊いておいたので、朝と昼の菊乃ばあの食事には足るはずだった。豆腐と里イモの煮物に赤だしも添えておいた。夕方には岡井が弁当を運んでくる。周吾は「按摩機欲しいゆうても絶対にやるなよ」と念を押した。
自転車を取りに門屋へ行くと、足許に不自然にふくらんだスナック菓子の袋が転がっているのを見つけた。裂けめを覗くと潰れたビール缶が入っている。周吾も菊乃ばあもビールなど飲まない。周吾は袋ごと踏み潰すと、再び電線を見あげた。燕はもういなかった。
遠田のバス停で帽子を眼深にかぶり、新神戸行きの高速バスに乗った。しばらくすると右手に巨大な葉と薄桃色の花を咲かせた蓮が群生する池が見えてきた。まるで油絵のようだった。玉井さんが縁側で語っていた有名な蓮池なのだろう。愛好家たちが京都や岡山からも写真を撮りにくるらしい。「深緑の葉の上にトンボが止まっている写真を眼にすることがあるやろう。あれは死んだトンボを乗せて写しているんやで」と玉井さんが話していたのを思いだした。
高速道路を数十分走ると、右手に縮小模型のような明石海峡大橋が見えてきた。橋が間近に迫ると、眼下には金の鱗をちりばめた瀬戸内海が広がっていた。
三十分ほどで三ノ宮に着いた。雨はやみ、空には少し晴れ間が覗いていた。十年前より成熟した繁華街をぶらぶらと歩いた。若い女性や日頃、島では出会わない周吾と同年代のサラリーマンとすれ違った。彼らの態度が周吾にはどことなく面あてがましく感じられた。けしかけるような息づかいを感じると、自意識過剰だと知りながらも、疎外感に周吾の気管は締めつけられた。
市役所で転居の手続きを終えると、以前働いていたヘルスに顔を出そうと思い立った。元町へ続くアーケードから脇道へそれると人通りが少なくなった。細い通りには何軒かのヘルスが店舗を連ねていた。バイトをしていた店は同じ場所にあった。店内に顔をだしたが、店長は変わっていた。受付横の壁に貼りだされた女の子たちの写真を見ても、顔馴染みは誰一人おらず、一様に若返っていた。彼女たちの中にも震災を経験した子もいるだろうと周吾は思った。
店を後にすると、周吾は吸い寄せられるように、北野へ続く中山手通から西に入った筋へ向かった。そして美しく広大な教会の前にやってきた。カトリック神戸中央教会。以前は下山手、中山手、灘の三教会に分かれていたが、震災で全ての教会が全、半壊したことによって一九九九年に統一され、二〇〇四年に再建されたものだ。
周吾は箱舟をモチーフに建てられた新築の教会を一瞥すると、夏の昼下がり、この場所で見かけた叔母と幼子の記憶が蘇ってきた。手首の傷を見つめると、叔母とともに暮らした家へ向かった。
家があった場所は生鮮食品スーパーになっていた。ライトアップされた店内は、夕飯の食材を求める主婦たちでごったがえしていた。その中に、叔母が店を営んでいたころ、よく顔を見せていた近所のおばさんを見つけた。周吾は帽子のツバをあげると軽く会釈をした。
「粂子さんところの周ちゃん? 久しぶりねえ。元気にしてたの」おばさんは懐かしそうに語りかけてきた。周吾は挨拶もそこそこに、単刀直入に聞いた。
「突然ですけど、叔母に子供っていましたか?」
「こっちが聞きたいわよ。震災の後、かろうじて壊れなかった品物を全部売って、すぐにここを引き払っちゃったんだから。周ちゃんもどこへ行ったか知らないの」驚きの表情の中に、不審そうに顔色を窺う眼が光っている。「いえ、なんでもないんです」というと、周吾は足早にスーパーを後にした。
おばさんと別れた後、二、三軒の顔見知りの店や家を尋ねて、叔母の消息を聞いてみたが、手がかりは何もなかった。周吾はそれ以上の捜索をあきらめた。空はにわかに碧さをうしない、雨が降り始めた。
夕方から再び降り始めた雨は連日の蒸し暑い日を忘れさせ、九時過ぎから本降りとなった。
周吾が遠田のバス停に戻ってきたのは十時前だった。雨は真横から激しく吹きつけてきた。バス停から駐輪場まで歩く間にずぶ濡れになった。帽子をカゴに入れると、一段と強くなった雨足をかき分けるように自転車をこぎ始めた。昼間は輪郭のあった古い家なみや石塀などが黒一色に埋もれている。街灯のない農道を照らす自転車のライトは薄く、眼を凝らさないと脇を流れる川に落ちかねなかった。しばらく走ると、《フルーツ楽園カトリ》のビニールハウスが見えてきた。明かりの灯ったハウスは夜行船のようにぼんやりと光っていた。
やっとのことで周吾は家にたどり着き、真っ暗な門屋に自転車を置いた。ぬかるんだ中庭を抜けて新家の玄関までくると、静かにドアを開けた。鍵はかかっていなかった。
中に入ると、菊乃ばあの寝室の扉のすき間から台所へ明かりが漏れているのが見えた。濡れた服を脱ぎ、洗濯機へ放り込む。バスタオルで体を拭きながら和室に入ると、襖を全開にした菊乃ばあの寝室の明かりが見えた。ベッドに眼を向けると、白い浴衣を着た菊乃ばあが上半身を起こしていた。
「帰ったで」周吾は大声でいった。「兄やんけ。よかったよう、帰ってこんか思たわれ」菊乃ばあは声をうわずらせて、声のする方に手をのばした。全裸のまま周吾はベッドのへりまでいった。部屋には老人が発する特有の臭気が沈殿していた。差しだす菊乃ばあの手のひらに右手を乗せた。紫色の唇は震えていた。
「帰ってこんさけ、分家まで行ってきたん。兄やん探してかゆうてよ。家で待っとったら、じきに帰ってくらよてゆわれたんやけんど、心配で寝れなんだ。ほんまによかったわれ」菊乃ばあは時折詰まりながらも一気に喋りきった。荒かった呼吸も次第に整っていった。
「岡井のおっさん、きたやろ」尋ねたが返事はない。もう一度「おか……」といいかけると「しゃあないでかよ。あの按摩機、ここにあっても誰も使わんのやさけ。息子夫婦が使いたいゆうで積んで帰ったわれ」と義歯を抜いてすぼんだ口をもそもそと動かした。
台所へいくと、テーブルに弁当箱が置いてあった。中には、右下にご飯用の椀、左下に汁物用の小椀、右上におかず専用の長方形の器、左上にデザート用の小さい正方形の器が、窪みにはめ込んであるはずだった。周吾は、菊乃ばあに食後のパズルを課していた。それぞれ大きさの違う椀と器を、形にあった窪みに収めさせ、ふたを被せてロックさせるのである。このロックがかたいのだが、今日はできたようだった。
周吾はロックをはずしてふたを開けた。何一つ箸がつけられていなかった。胡坐をかいた周吾の足に何かがあたった。テーブルの下を覗くと、スルメイカの袋と潰れたビール缶があった。「岡井め!」周吾は冷めた弁当を食べた。肉ジャガは白い脂がかたまり、みそ汁のみそは小椀の底に沈んでいた。
汚れた器を通い箱にしまうと、スルメイカの袋と潰れた缶も詰め込み、箱の上に『配達員の食べ残しも返却する』と貼り紙をして玄関先へだした。
周吾はシャワーを浴びた。頭を拭きながら廊下を横切っていると、トイレの前を這う蛆を見つけた。便器を這いあがってきたのだ。そろそろ汲み取り屋を呼ばねばと思った。
寝間着を着て寝床に入り、電気スタンドに火を灯して『日本と古事記』の続きを読み始めた。真夜中過ぎだった。戸外では竹やぶを鳴らす風が舞い、門屋の壁からはがれたトタンがしなっている。雨は時折激しくなった。時計の秒針が潤みかけた神経に時を呼び起こさせた。
「うああーあ、あぁ」菊乃ばあの寝室から叫び声が聞こえた。周吾は布団からとび起き、蛍光灯を点けると隣室へ入った。体を横たえた菊乃ばあが天井へ腕をのばしている。首筋にムカデが這っていた。周吾は畳の上に払い落とすと、菊乃ばあが肩叩きに使っている金づちで叩き潰した。「殺したで」まっすぐのばした腕を脇腹まで静かにおろしてやった。ぼんやり右眼を開けていた菊乃ばあは声をひそめて「今、わてを背負うて山へ捨てに行ことしたやろ」と囁いた。浴衣が寝汗で湿っていた。「ばあはベッドに寝とって、俺はここに座っとる。分かるか」と周吾は答えた。
先週のある夜も、冨吉じいが隆の首を絞めている姿が天井に見えるとか、天井から何本もロープがぶらさがっているが、どれをつかめば隆のところへいけるかと口走った。老い先短くなると、安らかなひとときである睡眠さえ加虐的な刺激によって逆なでられてしまう。寡黙だった冨吉じいも死期が迫ったころには、苦痛からか夜中でも五分おきに電灯を点けては消し、消しては点けを繰り返したという。
「一錠飲むか」周吾は曲がった背骨を摩りながら睡眠薬をすすめた。反応の鈍い老体は、周吾の声にも反応をしめさなかった。もう一度話しかけると「風間先生、それ飲み過ぎたら惚けるゆうんよ。そやさけ、このまま寝ら」と体をよじって摩る周吾の手を遮った。
※十六日 木曜日
翌日、周吾は住民票の転入手続きと、八十歳以上が対象のタクシー料金が半額になるチケットの申請をするために市役所へいった。
福祉課では恰幅のよい年配の女性が対応をした。周吾が「チケットの制度について教えて欲しい」というと、女性は菊乃ばあ担当の福祉委員の女を呼んで、制度の内容を菊乃ばあに説明しなかったのかと叱責した。福祉委員の女は「説明したんですけどぉ」と口ごもった。周吾は責任者面した女性に集合写真の中の菊乃ばあを指差して「これが佐久間菊乃です」と念を押した。
帰りの道すがら、眼と同様、耳も身体障害者申請をすればよかったと後悔した。
※二十三日 木曜日
一週間後、周吾が菜園に水をやり終え、郵便受けを覗くと封書が届いていた。水色の封筒には新市の市章が印刷されてある。封を切ると、タクシー料金半額チケットが同封されていた。チケットの表紙を見て周吾は違和感を覚えた。すぐにその理由が分かった。名前の下に貼られた写真が別人なのだ。集合写真を持っていったのがまずかったのか、見知らぬ老婆の気だるげな肖像が周吾を見つめていた。あの集合写真がいかにたらいまわしにされ、別人のものが貼られたのか。役所の体制はブツ切れで丁寧さを欠いていると思った。
周吾は九時を待って福祉課に電話をかけた。電話口にでた女性に用件を伝え、写真は一枚も残っていないと告げた。少し待たされた後、男が電話口にでてきた。男は、写真はすでに破棄したと告げ、再度チケットと新たに撮影した写真を持参するよう申しでた。周吾は黙っていた。沈黙の意味を察した男は「郵送でもかまいませんが」とつけ加えた。「ガキの使いやあらへんど」周吾は受話器を叩きつけると、台所へいって食器を洗い始めた。
食器を洗い終えた周吾は、庭の草を刈ることにした。草刈り機をかついで門屋からでてくると、日差しの強くなってきた空を見た。梅雨の長雨で丈を増した青草を数本むしって大きなため息をつくと、草刈り機を駆動した。
正午過ぎ、菊乃ばあを担当する福祉委員の女がやってきた。玄関で口先だけの謝罪をすませると、女は無遠慮に仏間にあがり込んだ。床の間を手際よく漁ると「これこれ」といいながらこげ茶色のアルミ缶をだしてきて、ふたを開けた。そこには薄っぺらなアルバムが入っていた。女は《新築の記録》と筆ペンで書かれたアルバムを開けた。地鎮祭から大工仲間の団らん風景、勇さんと笑顔で現場を見あげる菊乃ばあの写真があった。がっぽり稼ごうと企む人間はこんな表情をするのかと、周吾は勇さんのさまざまな角度の顔を眺めた。柱はピントがぼけ、取りつけ中のシンクやレンジ台はメーカー名が見えないように写してあった。女がページをめくるペースでの検証だったが、不備な点は見あたらなかった。
女は喜色を浮かべて一枚を抜き取った。シワを寄せて微笑む菊乃ばあのアップの写真である。その笑顔は遺影にふさわしかった。女は安堵の吐息を漏らした。帰り際「再発行できたら持参します」といったので、周吾は「郵送にしてくれ」と吐き捨てた。
天気予報ではもうすぐ梅雨が明け、本格的な夏の到来を告げていた。
(五) 七月
※二十四日 日曜日
朝から強い日差しが照りつけていた。七月の陽光は、八月よりむしろ厳しいかもしれないと、周吾は額の汗をぬぐいながら感じた。周吾は畑や畦の雑草を刈っていた。今の季節ならば刈った草も一日放っておけば茶色く干からびた。
汗だくで新家に戻ると、菊乃ばあが枕元の黒電話の受話器を耳にあてて「今、おらへな」と答えていた。今はいないという返事から自分への電話だと気づくと、周吾は菊乃ばあから受話器を奪って電話にでた。神戸新聞社からだった。コラムの公募に入選したという。内容は『傍若無人に陥る子供を立ち直らせるには、ともに服を着たまま雨に打たれること』についてだった。
受話器を置くと、菊乃ばあに「作文が日曜の神戸新聞に載るんや」と伝えた。「ほぅ、二丁目の親友がくるんけ」トーンをさげて伝え直すと、菊乃ばあは破顔して「沢野はんにイザナギさんでお守り買うてきてもらわな。兄やん、干支は何よ」と周吾の腕を撫でた。「寅」と答えると、菊乃ばあはさっそく、沢野さんに電話をかけて頼んだ。「沢野はんくるの木曜」呟きながら菊乃ばあは受話器を置いた。
夕方、周辺の枯草を集めると畑の一角に小さな山ができた。マッチを擦って投げると、薄黄色の煙がたちのぼった。煙は周吾の立ち位置にあわせて向きを変えた。乾いた空気を伝って黒い輪が草の表面を滑ってゆく。パチパチと笹の中の空気を弾きながら、焔は回転して周吾に向かってきた。周吾は時折現れる小さな火種に息を吹きかけた。すると、未知の鉱石が輝くように中心が赤く光った。その時、一匹の蜘蛛が何かに導かれるように、灼熱の中心へと走り込んでいった。ジュビッ。自ら死ぬ、何とも生理的な、侮辱的な、かつ模範的な音がした。もしあの時、明代の誘いに従って燃えさかる建物の中に歩いていっていたら、周吾もこんな音がしたのだろうか。手に微かに煤の臭いが残っていた。
夕飯を終えたのは七時過ぎだった。外は薄暗くなり始めていた。茶碗のご飯つぶをこそげ終えた菊乃ばあに好物のプリンをすすめた。「プインゆうもんあるんけ。どんな味かいな」思いがけない反応に「いつも食べてるやないか」とスプーンをなめる菊乃ばあをたしなめた。「思いだした、この味な。おいしいおいしい」正常に機能しているのは舌くらいだった。
「寒い寒い、風呂沸いたかいな」隣室でベッドに腰かけていた菊乃ばあが独りごちた。体温調整もままならない老婆は、脱衣場へ歩いていった。
風呂からあがった菊乃ばあはゆっくりと寝室に戻ると、肌着の上に浴衣を羽織った。ベッドに腰かけて周吾が渡した牛乳を飲むと、器用に舌を使ってはずした義歯を紙パックの中に入れて横になった。
網戸越しに地虫が鳴き始めたころ、菊乃ばあが呟いた。
「兄やん。いっぺん東浦の観音さんとこ連れてってくれんけ」
四カ月めにして初めての強い意志をもった頼みごとだった。東浦の地理ははっきりしなかったが、ここへくる途中、バスから見えた白い観音像を周吾は思いだした。「いつかな」気のない返事をした。しかし頭のなかではどうやってそこまで連れていこうか思案していた。
「五日けぇ。今日は……、今日は……」菊乃ばあは指を折り曲げていた。
しばらくすると「何が鳴いてるんや」という菊乃ばあの声がした。周吾が声のする方を向くと、網戸に手をあてがいながら、菊乃ばあが戸外を見ていた。「蝉よ」周吾の声は穏やかだった。
「おとなしい鳴き方よなぁ、夜ん蝉は」
網戸から手を放すと、菊乃ばあはタオルケットを腰まで引きあげた。いつしか菊乃ばあは寝息をたて始めた。紫の唇が歯茎に吸いつき、開いた口をすぼませていた。
※二十五日 月曜日
早朝からセンナをせがむ菊乃ばあのために、センナを煮だした後、周吾は朝食の用意をした。
朝食の時、菊乃ばあは独り言のように呟いた。「昨日、兄やんが買いもんでおらんあいさに、香取のやっさんがきたん。坂おりたとこで、くだもんの畑しとる家やけんど、使てへん土地売ってくれんかゆうてきたわれ。ややこい名前のくだもん作るさけゆうてよ。とっしょりは何でも忘れら。眼にええいいよったわれ。どない思う。……断らにゃあ」菊乃ばあを無視して、周吾は食器を洗い続けた。
周吾が縁側で洗濯物を干していると、周吾の下着の間から赤いアルトがきたのが見えた。沢野さんが汗まみれでおりてきた。雑草を刈る菊乃ばあに話しかけているが、相変わらず早口過ぎて聞き取れないらしく、菊乃ばあの聞き返す声が中庭に響いていた。
沢野さんは、菊乃ばあと一緒に玄関口へとやってきた。
「暑いわね。お婆ちゃんにいってたとこよ。早く家に入って冷房入れなさいって」周吾が「二十八℃でも寒いって消すんです」と応じると「二十八℃は寒すぎるわ」の意外な返事だ。沢野さんは菊乃ばあの背中を押して新家に入っていった。
わらび餅を作るという沢野さんは、洗濯機のボタンを押すと、材料の準備に取りかかった。洗濯物を干し終えた周吾も家に入ってきた。
料理を始めてしばらくして沢野さんが口を開いた。「お孫さん、聞きました? ゆうあい苑で介護助手をしてる岡井さん、昨日の夜、運転中に自損事故を起こしたらしいの。飲酒運転みたい。常習犯だったらしいわね」とっておきのネタといわんばかりに笑顔で話す沢野さんに、周吾は「そうですか」と素っ気なく答えた。
わらび粉をこねる手を休めると、沢野さんは食器用の布巾で額の汗を拭いた。「老人殺しね、この暑さ。二十五℃超えたら真夏だわ」さっきいったことも忘れている。
「そうそう、お孫さん、おめでとうございます。神戸新聞に就職が決まったって。すごいわぁ。お守り買ってきましたよ。お孫さん好みの『寅』は売り切れてたので、かわいい『卯』を買ってきたの。よかったかしら」赤い眼のお守りを菊乃ばあに手渡しながら、耳元で同じ内容を復唱した。代々守ってきた土地を売りわたすべきか否かに心を奪われていた菊乃ばあは「とっしょりでも分からぁ。こんなもん、どないすっで」と気色ばんでお守りを投げつけた。釈然としない沢野さんは、床に転がったお守りを拾うと「悟ちゃん、うさぎ好きだから、まぁいいわ」と作り笑いを浮かべた。そこできっかり一時間、沢野さんの作業は終了した。
「週末に悟ちゃんを姫路の動物園に連れていくの」たち直りが早い性質の沢野さんは、玄関口で顔や腕に日焼け止めの乳液をこってり塗りながらいった。不機嫌そうな菊乃ばあに「お婆ちゃんは孫さんが一緒だから、ほかのお年寄りより全然マシよ」と早口で喋りかけた。「デンデンムシおるんけぇ」菊乃ばあは顔だけあげて沢野さんを見た。
「せからしいやっちゃ。何でもかんでもトチンカチンじゃ」
菊乃ばあは玄関先でアルトを見送ると新家に入った。
夜、周吾が台所でコーヒーを飲んでいると「トイレ行ってこうよ」という菊乃ばあの声が聞こえた。ベッドから立ちあがった菊乃ばあは、いつもなら何ごともなく台所を抜けてトイレへ向かうのに、よろよろと仏壇の方に歩きだした。
戸外で虫が鳴いていた。『心喰い虫』と呼ばれる蛾の幼虫がいるという。周吾は見たことはなかったが、菊乃ばあの脳にも別種の心喰い虫が棲んでいて、記憶の断片をガシガシとかじっている気がした。心喰い虫は、いったい菊乃ばあのどんな記憶をかじっているのだろうか。
間違いに気づいたのか、菊乃ばあは周吾の布団を踏みながら廊下へ抜けると、トイレに向かった。しばらくして下痢便の濁音が響き、薬草っぽいにおいが漏れてきた。朝に飲んだセンナが効いたのだ。
ベッドに戻った菊乃ばあは横になると、一つ大きな欠伸をした後「欠伸は何ででるんだろか。不思議やなあ」と呟いた。
周吾は和室に行くと、菊乃ばあが踏んだ跡が残る布団を整え、蛍光灯を消して布団にもぐった。やがて聞こえてきた菊乃ばあの寝息に耳を澄ましながら、今週の金曜日、菊乃ばあを東浦の観音へ連れていこうと思い立った。
翌朝、経を読み終えて台所に戻ってきた菊乃ばあに「今度の金曜日、自転車で観音まで行くからな」と告げた。菊乃ばあは覚束ない様子で「なして?」と答えた。「ばあが行きたいゆうたんやないか」と返すと「何でも忘れら。……あぁ、アメリカやな」と呟くと、瞳が懐かしそうに潤んだ。
周吾は日差しが弱まってから、午前中に刈った青草と菊乃ばあが刈り散らした枯草を熊手でかき集めることに決め、菊乃ばあのベッドで昼寝をすることにした。
※二十九日 金曜日
朝七時、周吾は、圧力鍋で米を炊くと鍋敷きに移した。義歯を装着した菊乃ばあは、寝室で点眼薬を探していた。しばらくして見つかると、点眼して天井を見あげたまま正座していた。ご飯が炊けたことを伝えると、神棚と和室にある仏壇の皿にご飯を供えてから、仏壇の前に座って真言の経を唱え始めた。いつものようにおりんを叩く棒で痃癖のツボを押さえていた。
食事の終わりに、菊乃ばあは茶碗のへりについたご飯つぶをこそげ落とすため、茶碗に茶を注ぐことを要求した。周吾は麦茶を注いだ。近頃は、ぬるい茶だったり、冷たい茶だったり、時には舌がやけどしそうな熱い茶を求めることもあった。気まぐれで、望む物は何でもすぐに欲しがった。「おいしかったぁ」と満足げに微笑む菊乃ばあに、「もう少ししたら、東浦の観音さんへ出発するで」と大声で伝えた。
朝から今夏で一番の猛暑にみまわれた。酷暑の予感が本家の瓦への強烈な照り返しから見て取れる。暑くなりそうだと周吾は思った。門屋で自転車のタイヤに空気を入れ、チェーンに油を差した。玄関までくると、底についた砂を落としてサンダルを脱いだ。相変わらず履物は全て左右逆にそろえてある。
寝室を覗くと、菊乃ばあは肌着の上からコルセットを巻いていた。「早よせんと暑うなるで」急かしても一向に腰をあげない。「お爺さんとおじゅんではん回った、おそろいの白いあれ、着たいんやけんど。探さにゃあ」白装束を探しているようだ。
周吾は昨夜から凍らせておいた麦茶にタオルを巻きつけ、保冷剤とともにクーラーボックスに入れた。
その後、菜園の水やりを終えて戻ってくると、全身を白くまとめた遍路姿の菊乃ばあが指先を頼りに、押し入れの襖のあわせめをそろえたところだった。左脇にさらの草履を抱え、「ヤレコラヤレコラドッコイショ」と掛け声をかけながら、菊乃ばあは玄関へ歩きだした。
砂利道をゆっくりと進んでいく菊乃ばあの後について、周吾は自転車を押しながら蛇行坂をおりた。市道にでると周吾は荷台に菊乃ばあを横座りさせ、しばらく自転車を押した。地蔵を祀った祠の裏から里ばあがカブに乗って現れた。「おしゃれに飾って、お兄ちゃんとおでかけでっか」笑顔で語りかける里ばあに「兄やんに妾なんぞおらな」と菊乃ばあはつっけんどんに返した。「へえへえ」里ばあはいつものことといった調子で去っていった。
高速バスやトラックがひっきりなしに通る高速道路の高架下をくぐると、周吾はサドルにまたがってゆっくりとペダルをこぎ始めた。
明治初年、北が兵庫、南が徳島だった島も、二本の橋でつながり、交通量は増えたが、逆に素通りされることになってしまったという。観光客に立ち寄ってもらおうと、島民は地場産業の浸透と定着に躍起になっていた。
突き当たりのT字路を左へ折れ、年じゅう沿道にコスモスが咲きならぶコスモス街道をのぼりきった峠から猛スピードで坂道を駆けおりる。菊乃ばあは周吾の腰をぎゅっと握った。くだりが終わると、日本再生村おこしで市町村にばらまかれた一億円で購入した金塊を観光の眼玉に飾る静の里公園が現れた。町村合併で市に生まれ変わる際、旧町長が「金塊は町の持ち物だ」と唾をまきちらしたと玉井さんが教えてくれた。
再び現れた坂をのぼりきると、乳白色に照る海岸線が見えてきた。水平線の先には関西国際空港があり、津名港から泉佐野へフェリーがでている。坂をくだって国道に突きあたると左へ折れた。後は道なりにひたすら北東方向をめざせば、白い像が見えてくるはずだった。
島で八十六年生きてきた菊乃ばあが海を見るのは、息子の家を訪れるために海を渡った時ぐらいではなかったか。菊乃ばあは海の話をほとんどしなかった。
白装束に麦わら帽子を被る老婆を荷台に乗せ、自転車をこぐ男を見て人はどう思うだろうと周吾は考えた。ふくら脛の筋肉は圧迫され、自転車は不規則な軋みをあげる。普段なら軽い菊乃ばあも倍近い重さに感じられた。
一息入れようと廃屋の陰に自転車を止めると、クーラーボックスから溶け始めた麦茶をだして飲んだ。汗が噴きでる。荒い呼吸音をたてて混凝土の段差に座った菊乃ばあにも渡すと「ちみたいわぁ」と二度口をつけた。
呼吸を整えながら「なんで観音さんに行きたいんや」と周吾は問いかけた。菊乃ばあは濡れた歯を舌で舐めると口を開いた。「隆の四十九日すんでから、おじゅんではんまわったことがあらぁ。四国と淡路よ。どこで見つけたんかこんな服買うてきて、お爺さんが行こて誘たんや」一呼吸おいて「泣きやまんもんで口押さえて、まちごて殺してしもた赤ん坊、隆の兄んことやら、指が飛んだ時、お爺さんが血だらけんなって縄で指の根っこくくってくれたことやら、遠田のおっさんが妾の腹ふくらして金せびりにきた時、我がが育てるゆうて金払わなんだことも……。隆ん育て方もどないやったか。上ん子が生きとったら、ちごたかのう。そんな話しよった時よ、お爺さん、観音さんとこ寄ろゆうたん」と語った。
周吾は、冨吉じいの菊乃ばあへの優しさと息子を自殺に追い込んだ後悔を感じ、何としても菊乃ばあを観音像まで連れていってやらねばと気合を入れ直した。
腕時計を見ると正午前だった。二時間強走っている。Tシャツを着替え、再び菊乃ばあを荷台に座らせると、サドルにまたがった。国道の右側に小さな入り江と岬が交互に現れた。陸に強い潮風が吹きつける島の西、播磨灘沿岸の方が漁港の数は多く、十五を超えるのに比べて、大阪湾に面した東海岸は大きな港の幾つかが南部にかたよってあるだけで、北へいくほど数は減った。玉井さんによると、海流の影響で水揚げされる魚の種類は変わり、冬と春はカレイやアイナメ、夏と秋はスズキやキス、タチウオが獲れるらしかった。
「船、橋ができる前より減ったんやろなぁ」周吾は眼を細めて海岸線を眺望した。
「こない狭い海でも、戦争が終わった年に船が沈没しとらぁ。せきれい丸ゆうて、ちんまい船がよ」菊乃ばあは丸めた周吾の背中に頭を乗せた。
「年末やったさけ、神戸や明石の闇市へ稼ぎに行こて、売人が岩屋の船着場へこぞったんやと。鈴なりで飛び乗りよったらしいさけ、三百人が死んでしもたん。玉井はんのお父やんも戦争では助かったのに、これで死んでしもたわれ」周吾はこんな身近な場所で遭難事故があったとは知らなかった。
「島の人は隠したがるんか」と周吾は声を張りあげる。「何の格下があるんよぉ」と何度か聞き返した後、飲み込めた菊乃ばあは答えた。
「戦争に敗けた年やで、こんな島に誰もかもてられへなんだんやな。新聞にもでなんだ。戦争んころは天気は秘密の情報やったさけ、嵐がきとるて誰も知らなんだんやな。遠田のおっさんがワヤクダイ引き連れて、岩屋ん海岸まで見物に行きよったわよ。夕方戻ってきて、晴れとんのに風は強かったてほざいとった。屍体さらいに何隻も船が海にでよったいいよら」他人の不幸を食い物して喜ぶ遠田のおっさんの型破りな人格が垣間見えた。海流の潮間にもくずと消えた島民の骨が海底深くに積み重なり、今も巨大な橋の虚栄を見あげているのだと、周吾は感慨に浸った。
くだりのカーブを駆けおりると、白い像が見えてきた。「もうすぐやで」菊乃ばあは腰をつかんだ手に力を込めた。
「眼ぇ見えた昔は、お爺さんと隆と……死んだ子のたましぃも連れて、ぼろいバスで島ん中あちこちいったもんよ。道がでこぼこで細かったさけ、馬車がくっとすれ違えなんだで、バスん方がノロノロさがりよったわれ。昭和二十八年、洲本高校が野球の試合で日本一んなった時も、帰ってくる選手の船見に行こゆうて、ボンネットバスん乗って洲本まで行ったわれ」最近のできごとは覚えられないのに、昔のできごとは鮮明に覚えていることに感心しながら、周吾は風のすき間から漏れてくる話を聞いていた。
「窓から乗りだすくらい混んどったバスん中で、隆が落としたオジャミが踏まれて破れてな、泣きやまなんだ。今思たらオジャミだいじに持つ男の子なんぞおらなんだやろで、やっぱし、いこっちょやったんやな。窓は開いとったけんど、いっこも風は入ってこなんだわれ。バス停おりたら、そこここにイリコ干す笊が置いたぁるんよ。まんで排気で炙っとるみたいになぁ。港は先まで人だかりで桟橋まで行けなんだけんど」
菊乃ばあはほかにも、日清日露の戦争で増えた戦死者の慰霊のために線香の需要が激増し、線香成金が現れて、産地の江井では冬に高級丹前を着た線香職人が颯爽と町を歩いたとか、大型船のアンカーが海底の電気ケーブルを引っかけて漏電し、真っ暗な正月を迎えた年があったとか、第一次大戦直後、島からサンフランシスコへ大量の移民が渡っていったと繁男じいから聞いたなどと語った。真夏の放射熱が脳の述懐をつかさどる神経を刺激したのだろう。やがて観音像はこけし大になった。
ヤシの木がならぶ東の浦から濃い潮の香りが流れてきた。水分を渇望する菊乃ばあののどは気ぜわしく動き、野良犬のような息を吐いた。淡路交通のバスがクラクションを鳴らして自転車を追い越していった。
ついに見あげる頭上に、巨大な観音像がそびえる場所までたどり着いた。直立する像は白に身を包んでいた。推古三年に淡路島に漂着した香木で観音像を彫ったのが観音彫刻の始まりと大学時代に史書で読んだことがあった周吾は、この像を拝顔することに因縁めいたものを感じた。
文字の薄れた『世界平和大観音像』の看板の前に自転車を止めると、周吾は菊乃ばあを荷台からおろした。菊乃ばあは「着いたけ?」といいながら空を仰ぎ見た。周吾はクーラーボックスから麦茶の入ったペットボトルを取りだすと、菊乃ばあに渡した。半分以上氷の溶けた麦茶を、菊乃ばあはおいしそうに飲んだ。「兄やんも飲めよ」そういって菊乃ばあはペットボトルを周吾に返した。周吾は一気に飲み干すと、駐車場の看板の影にへたりこんで足を投げだした。
影は、日時計のように西から東へ近隣の民家をかすめて動くのだろう。すでに東へのび始めた時間帯だった。
しばらく倒れこんでいた周吾は「腰が痛い」といいながら背筋をのばしている菊乃ばあに「中、入ろか」と呼びかけた。
「かまん。なんせ道楽で作った置きもんやさけ」観音像には気のない素振りで、国道脇の歩道伝いに看板の裏手へまわり込むように歩いていった。もう一度観音像を仰ぎ見た周吾は、看板の前に自転車を置いたまま菊乃ばあの後を追った。
そこにはウェスタンふうのカフェ『アメリカ』があった。「ここにかふえあっけ?」先端のない人差し指で店をさしながら顔を綻ばせた菊乃ばあに、周吾は「ある」と答えた。
「にせもんの観音さん拝んだ後、ここでお爺さんとコーヒー飲んだん。お爺さん、アメリカは敵じゃ、飲み干さなあかなゆうて、飲んだことあれへんのにコーヒー頼んだわれ。苦い苦いゆうて。兄やんも飲まんけ」とさっさと歩きだした。
店内はクーラーがきいていた。遅めの昼食になった。菊乃ばあはシーフードピラフを、周吾はカツカレーを食べた。食後に菊乃ばあ目当てのホットコーヒーを注文してやり、周吾はミックスジュースを頼んだ。
スプーン三杯の砂糖を入れてコーヒーを飲み終えた菊乃ばあは、急に勇さんに電話をするといいだした。迎えにきてもらうというのだ。借りを作りたくなかった周吾だったが、一度弛緩した体はいうことをきかない。
公衆電話に小銭を入れて、真言の経のように菊乃ばあが唱える番号をプッシュすると、周吾は受話器を菊乃ばあに渡した。「もしもし。勇ちゃんけぇ、今なぁ、アメリカにおるんよ。えぇ? 観音さんの下のかふえよ。迎えにきてもらえんか思てよ。自転車があら。へぇ、兄やんもおら。ほな、おたのもうします」席に戻りながら「今からきてくれっと」と笑顔を見せた。
周吾は壁に飾られた一枚の写真に眼をやった。電車の車体に横断幕がかかげられ、《長らくのご利用ありがとうございました。淡路島のみなさまさようなら》と書いてある。
「島に電車走ってたんか」と菊乃ばあに尋ねると、マスターらしき四十半ばの男が勝手に質問に応じてきた。「これは昭和四十一年九月三十日のさよなら列車を親父が撮ったもんでね、洲本と福良間を大正十四年から走ってたの」何いいよるんよと口をはさむ菊乃ばあを無視して、周吾は話に耳を傾けた。「初めは蒸気列車だったけど昭和六年からガソリンカーに変わったの。車両は学生と一般客で分かれてたらしいし、男女の学生も別々の車両だったらしいよ。昭和十八年には国の交通事業統制の要請に従って淡路交通ができて、南だけじゃなく北にも鉄道を敷こうという動きがあったんだけど、道路整備の波に押されて、国道二十八号線が全面開通した年に淡路列車は役割を終えたんですよ」
菊乃ばあと背のかわらないマスターは、ビールやジュースなどが入った冷蔵庫の上を指さして「この年、相撲の淡路巡業があってね、四横綱がきた時に、親父がもらってくれた大鵬の手形が、ほら、そこにあるでしょう」と誇らしげに語ると奥の調理場に消えていった。
二十分ほどして、グレーの木綿シャツに迷彩柄の短パンをはいた勇さんが、腹まきに両手を突っ込んで入ってきた。太い眉が目立たないほど顔全体が日に焼けている。
周吾は軽く会釈して菊乃ばあの肩を叩いた。「きたけぇ。やっとやな。ほな行こ」と顔をあげて義歯を見せた。周吾がレジへ行こうとすると、勇さんが制して「なんぼや」とマスターに尋ね、代金を支払った。周吾は、税金や食費、光熱費の一切を菊乃ばあにまかなってもらっていた。それが勇さんの金に代わったに過ぎないが、気は何倍も重かった。
店をでると周吾は勇さんに自転車の場所を教えた。勇さんは軽トラックを大看板の横につけて自転車を荷台に積むと、再び店の前に戻ってきた。菊乃ばあを間にはさむ形で乗り込むと、軽トラックはガタガタいいながら走りだした。
「今日は今年一の暑さやな」クーラーのききが悪いと毒づく勇さんは、菊乃ばあの頭をよけながら周吾に話しかけた。
「ばあが無理をいってすいません。お忙しいのに」狭い狭いと身をよじる菊乃ばあの頭越しに周吾は答えた。
「でもなんで、自転車で観音さんまで?」暑い暑いと団扇であおぐ菊乃ばあの向こうから勇さんが尋ねる。
「思い出を摘みたかったんじゃないですかね。人生を振り返って。自転車は方法がそれしかなかっただけです。でも、それで見えたこともありましたから」と周吾は応じた。
冨吉じいとのこと、父、隆とのこと、誤って殺してしまった父の兄とのこと。そして、菊乃ばあの人生を見守り続けてきた淡路島のこと。周吾はこの小さな旅で、菊乃ばあの記憶の断片を僅かでも知ることができてよかったと思った。
最近のできごとをほとんど覚えられない菊乃ばあは、幼かったころの周吾ではない、今ここにいる周吾のことを理解してはいないのかも知れなかった。菊乃ばあの残された時間の中に、周吾はあとどれだけ自分の足跡を残すことができるだろうか。菊乃ばあの艶やかな横顔を眺めながら、周吾はそんなことを考えていた。
「わしらが婆ちゃんにできることは限られとるしな。のんびりしたらええと思とる。理由はともあれ、孫はんがきてくれたことは心強かろうよ。なぁ、婆ちゃんよ」勇さんは菊乃ばあの右耳に語尾を強めていい放った。
「いつもありがとよ。勇ちゃんはほんまにやさしいわぁ」
エテツンでええんよと叫んだ菊乃ばあの悲壮な顔を周吾は思いだした。よくわきまえていると思った。
四時前、軽トラックは中庭に止まった。車で戻ると、使った労力が空しく感じられるほど短時間だった。
クーラーで汗が引いた周吾の太ももは、熱い痺れと痛みが増幅していた。
「婆ちゃん、やっさんがきてるで」運転席のドアを開けながら勇さんが菊乃ばあに声をかけた。玄関のスロープの辺りに、《フルーツ楽園カトリ》にいた老人によく似た顔の男が立っていた。黒々とした髪を七三に分け、右眼が斜視気味に上を向いている。手に持った大きなビニール袋の手さげ部分がのびて、透けた袋から巨峰の輪郭がうっすらと見えた。
「やっさんけ。わざわざまたきてくれたんやな」菊乃ばあはどこへともなく頭をさげた。細身ながら堂々とした態度の香取さんは「孫さんと食べてや」と菊乃ばあの右腕に袋をかけた。「わぁ、重たいわぁ」といって顔をほころばせる菊乃ばあを横眼に、周吾は矛先が自分に向いているのを感じた。菊乃ばあがどう答えるか、玄関へ歩きながら周吾は聞き耳をたてていた。勇さんには聞かれたくない話だった。
「勇ちゃん、どないしよ。やっさんとこ、土地売ってくれゆうんよ。わてら耳も遠いし、難しい話はよう分からんわれ」
香取さんは渋い顔をした。しかし斜視と逆の左眼は、周吾の横顔を捕らえていた。「孫さんはどうお考えかな」愛着のない荒蕪地を整備してもらえるならそれに越したことはないと周吾は考えていた。山側に広がる竹やぶは無償に近い値で買い取られるだろう。市道沿いの耕しやすい土地だけが目当てならば虫がよすぎる気もする。
「婆ちゃん、わしが全部買い取ったろ。こいつよりええ値つけたるで」突然勇さんが軽トラックのドアをたたくと、低い声で叫んだ。真意は読み取れなかったが、ばあが生きてる間は眼を瞑ってくれませんかと答えようとした周吾は、鍵を開ける手を止めて勇さんを見た。ブルーベリーを買いにいった日、老人が血相を変えて頑なに勇さんの土地を借りることを拒んでいたのを思いだした。
「私も父と相談して、里谷さんよりいい値をつけるよう努力しますから、よく考えておいてください」そういい残すと香取さんは敷地を去っていった。
勇さんの迫力ある語気に、周吾は気押された。「あいつの家はこれ以上大きさせたらあかん」荷台から自転車をおろしながら吐き捨てるようにいうと、勇さんは軽トラックに乗って帰っていった。
県の護岸工事なども手がける勇さんも多量の土砂を採掘するための山や土地が必要であることを、周吾は玉井さんから聞いたことがあった。私有地を広げて志筑一の財を築きたい者同士の因縁が里谷家と香取家の間にあるように思われたが、真相は周吾には分からなかった。
周吾は本家の前に集めておいた枯草を見にいった。敷石の横に盛られた塊から赤茶けた草をすくうと、指の間を抜けてバラバラとほどけ散った。水分が十分に抜けきっていた。周吾はカラカラに水分の抜けた枯草にマッチを落とした。小さな煙が立った。燃えの等高線がじんわりと裾野へ広がり、核心が深紅に燃えたつのを想像してほくそ笑んだ。
喉の渇きを覚え、周吾は新家に入っていった。台所に行くとコップに水を注いで飲み干した。疲労が全身を包んでいた。全身の火照りを鎮めようと、周吾は和室で体を休めることにした。隣室を見ると、菊乃ばあが白装束姿のままベッドの上で鼾をかいていた。口を開けた姿は、鼾をかいていなければ屍体のようだった。
周吾は畳に横になった。ひんやりとしている。すぐに周吾の体を睡魔が包み込んだ。
――高速バスの窓を少し開け、海から流れてくる潮風の匂いを嗅いでいた。もうすぐ明石海峡大橋にさしかかる。巨大なタンカーが大阪湾から播磨灘に向かって橋脚を突き破るようにゆっくりと進んできた。夕日が海面に漂う糸屑のような波を焦がしながら沈む準備を始めている。バスが橋の中心にきた時、突然窓を全開にした。そして身を投げだすと、路面に着地し、追い越し車線を疾走するトラックや自動車を次々にかわす。対向車線へ渡り、全力疾走で欄干まで駆け抜けた。深呼吸をしながら空高く尖端をのばす主塔を一瞥すると、高い欄干を越え深い碧に塗り込められた海峡へ飛びおりた。両手両足を大の字に開き、吹きあげてくる強風にあおられながら落ちていく。真横で海鳥が上昇気流に身を任せている。橋の下には巨大なタンカーの見張り台が間近に迫ってきた。重力に抗って上体を起こすと、その先端に飛び移った。「アキヨォォォ」。タンカーだと思っていた巨体は水面すれすれまで潜り込んでいて、全てを海底へ引きずり込もうとしていた。「スキダァァァ」――
電話が鳴っていた。周吾は眼を醒ますと、慌てて受話器を取った。玉井さんからだ。香取さんの父親が、勇さんを包丁で刺したという連絡だった。意識不明の重体ということを告げると、電話は切れた。
時計を見た。五時五十分をまわっている。寝汗が胸にたまり眼元は涙が乾いて引きつっていた。
戸外で轟々と風が舞っていた。時折、パキパキと何かが弾ける音が混じる。しまった。周吾は玄関まで走ると、左右の足を交差させて長靴を履き、戸外へ飛びだした。瞬間、新家から本家に向かって中庭を吹き抜ける激しい風が髪を逆だてた。熊ん蜂の群れが飛びだし、黒い帯をなして煙の先へと姿を消した。
枯草の山は跡形なく燃え尽きていたが、激しく渦を巻いて吹きすさぶイザナギの神風が火の粉を舞いあがらせ、火は本家の柱に燃え移っていた。周吾は敷石に立ち尽くしていた。板戸を這い、アルミサッシを溶かし、障子を焼く焔を凝視する。窓ガラスが音をたてて割れ、すき間から黒煙が垂直にたちのぼった。神戸の街を飲み込んだ火焔が、昨日のことのように浮かんだ。
周吾は業火による熱風を顔に浴び、勢いの移ろう本家の赤い焔を呆然と眺めていた。突風にあおられた焔は、柱や割れた窓のすき間から赤々と火柱をあげていた。
新家の玄関から白装束姿の菊乃ばあがでてくるのが見えた。何かいったが、燃えさかる焔の響きと木の破裂する間欠的な音に消された。周吾は本家の玄関に向かって歩いていった。肌が焼けるように熱かったが脳はもっと燃えたぎっていた。
猛り狂う劫火を見つめながら、過去の記憶が脳裏を駆け巡った。しかし、周吾は十年を経ても明代との別離の悲憤からまだ解き放たれていないことに気づいた。
美しき瞳の明代。もう一度、会いたい。
本家を包み込む焔の火勢は、生き物のように赤、黄、橙とその色を変えていった。湖面に噴火する火山が映るように、火焔の龍が水銀さながらのとろけた様子で揺れた。
柱の一部が崩落し、周吾めがけて火の粉が噴きあがったと思うと、そこには右半身が焼けただれ、幾億匹もの蛆をたからせた明代が、頭、胸、腹、陰部、左手、右手、左足、右足に稲光を浮かびあがらせて立ちはだかっていた。蛆はピチャピチャと音をたてて体じゅうを這いまわり、稲光の音なのか、体のいたるところからブォンブォンという音がしていた。そんな明代の体が垂直に飛びあがると「なぜ人前でブルーシートをめくったのですか。屍体を人眼にさらすなんて、ひどい」と爪の先や耳の穴から這いでる蛆を焼き尽くしながら叫んだ。立ち込めた焔の混沌が新家や門屋に陰影を与えていた。
烈火に包まれた明代は、怒りよりも深い悲しみをまとっているようだった。火焔の中、澄んだ美しい瞳だけが黒く煌めいていた。周吾は大学時代と変わらない瞳を黙って見つめた。愛しさと喜びが込みあげてきた。
蛆にたかられ、八箇所を稲光に支配された穢れた体が、激しさを増した焔にすっぽりとおおわれたと思うと、原形をとどめていた左半身の眉や耳やあごの線や腋や指先までもがボロボロと崩れていった。微かに感情を示していた表情も溶けだし、体から発せられていた稲光の音も小さくなってゆくと、やがて全てが静かに燃え落ちていった。
地面に黒くこげた灰が小さな山のように積もった。まだ白い煙をあげて、ぶすぶすと空気が抜ける異様な音をたてている。横から吹きつける旋風に周吾が眼を細めた瞬間、積もっていた灰が渦を巻いて、周吾の眼の高さまでたちのぼった。細かな灰までも集まってゆき、次第に何かを形成していった。
周吾の眼の前に、見覚えのある何かが姿を現わした。裸の明代だった。息をつめ、みずみずしい明代に近づくと、周吾は頬を指で摩った。明代は眼を閉じた。きりっと結んだ唇にキスをすると、周吾は静かに明代の肌と交わった。十年前の夜、ブルーシートの下の明代に触れた時と同じく、指先には感覚がなかった。しかし、体からほとばしる熱い情熱を感じることができた。果てしなく深く透明な明代の体の内奥で、周吾は初めて射精した。
「さよなら」周囲を照らした火影が橙に輝いたと思うと、一瞬だけ、明代の顔に懐かしい笑顔が戻った。明代は焔の渦に消えていった。
眼の前に熱風が焔と肩を組んで迫ってきた。「兄やん、風吹いとる。危ないさけ草燃やしとる火ぃ、消せよ」周吾の左眼の端に、手すりを伝いながらよろよろと歩いてくる菊乃ばあの姿が見えた。舞い落ちる火の粉に手をかざして泣き声になっている。イザナギの神風にあおられて、焔は門屋にも燃え移っていた。
周吾は右の口角をあげると呟いた。「ばあ。こんな俺を受け入れてくれてありがとうな。ばあがもし、このまま惚けたって心配すんな。俺が最後まで面倒みたる。ばあが愛しとるこの土地で、俺もずっと生きていかにゃあ」
煤けた柱が焔と黒煙に包まれて炭化し始め、枠組みを見せながら燃え続けている。大黒柱が裂け、ホワイトボードが溶け、鼠の死骸が焼け、屋根裏へ続く階段が燃えている。真っ黒な煙が敷地の上空一帯に雨雲のように拡大してゆく。瓦がばらばらと家の中心へと崩落した。
遠くで消防車のサイレンと警鐘が鳴っている。狭い蛇行坂をおおうように生えた竹笹や潅木をなぎ倒しながら、間もなく赤い車体が敷地内に入ってくるだろう。
「ばあ、家ん中入ろか」
「へぇ」
周吾は嬉しそうに義歯を見せた菊乃ばあの手を取った。
了