サヤちゃん

塚田 源秀


 夏色のスカートがサヤちゃんの身体から離れてふわりと宙に浮く。サヤちゃんの新しい洋服ができあがると、こんなふうに回って見せてくれた。サヤちゃんはいつも外で遊んでいるからよく日に焼けていた。赤や黄色の洋服がよく映えた。くるくる回る回転木馬のように、いつも軽やかだった。


 小学五年生のとき、同じクラスに親しくなった子がいた。サヤちゃんには歳の離れた二人のお姉さんがいて、三人ともお父さんが違っていた。皇室ファンであるサヤちゃんのお母さんは、自分の三人の娘たちに美智子さんの三人の子の一文字を取って、浩子、礼子、清子と名づけた。

 新学期の初日、席順は廊下側のほうからあいうえお順で座らされた。私はまた一番前だった。五年生ともなればまわりもだいたい知った顔ぶれで、苗字でも変わらない限り、このまま学年を重ねていくんだろうなと思っていたけど、サヤちゃんは違った。なんと私のすぐ後ろに座っていた。私はあれっと思った。サヤちゃんの苗字はたしか、山本のはずなのにー。去年は隣のクラスだったし、一度も話したこともなかったけど、苗字くらいは知っていた。

 新しい担任の先生から自己紹介がはじまり、みんなもあいうえお順に名前を言ってあいさつしていった。私は、有村さと子ですと言って座った。山本さんだと思っていた彼女は「石田清子です」と名乗り、ぺこっと頭を下げて何ごともないように座った。まわりの子たちも、新しい先生や同級生と交わる初日ということもあってピンと緊張した空気がはっていて、ざわめきというのも封じ込められ、だれひとりとして驚いた表情は窺えなかった。こと私に関しては、苗字が変わった意味や理由など深く考えることもなく、ただ苗字って変わることもあるんだなくらいにしか思っていなかった。

 サヤちゃんと私は同じ郊外の団地に住んでいた。その頃の団地は高度成長期の時代ということもあり、都心から離れたところに大きな団地群があちらこちらに造られ、私たちが住むところも二十棟あった。サヤちゃんが住む棟は6号棟で私の棟は7号棟だった。隣ではあったけど、同じクラスになるまでは一度も遊んだことはなかった。それは私たちだけではなくてまわりの子たちもそうだった。同じ棟にたくさんの同級生もいたし、集団登校にしてもそれぞれの棟ごとに行っていた。昭和五十年頃は子どもがたくさんいた時代だったのだ。

 サヤちゃんと親しくなったのは、下校のときだった。その際、自分たちのことをいろいろしゃべった。サヤちゃんのお母さんは美容院をやっていて、浩子姉さんは大学三回生で、礼子姉さんはお母さんの手伝いをしているとのことだった。

「なまえ、変わったの?」

「そうじゃなくて、お父さんが変わったの」

「ふうん」

 少し間があって、

「でもね、サヤのお父さんは死んじゃったの」

「なんで?」

「病気。でも、お姉ちゃんたちのお父さんだって、時どき家に寄るくらいだもん。だから、いないのといっしょ」

「ふうん」

 私は下を向いて、砂利道の石を蹴っていた。うちと全然違っていた。父は一日中ずっとうちにいた。うちで仕事をしているわけではなく、だらだらと日なかでも 寝たり起きたりを繰り返していてぼおっとしていた。新しい仕事をみつけても、三日ともたなかった。母は家計を支えるしかなかった。祖母はよくため息をついていた。息子に負い目があるらしく、あまり怒るところを見たことがなかった。父は八人兄妹の末っ子だった。小さい頃に養子に出されていたことがあり、そこでつらいことがあったようだ。祖母は母に、別れなさいよと度々言っていた。

 どうやら父は鬱病だったらしい。

「さと子ちゃん、鍵っ子?」

「ううん、お父さんはいつも寝ているし、おばあちゃんも耳が遠いし、だから自分で開けるの」

「こんど、うちで遊ぼ」

「うん」


 サヤちゃんは人見知りすることもなくだれとでもよく遊んだ。体育の時間などで、ペアを組むときなど、奇数の場合どうしてもあふれる子がでてくる。あふれる子はだいたい決まっていて、サヤちゃんはすすんでその子の手を握った。

 サヤちゃんは、男の子たちとも遊ぶ活発な子だった。昼休みになると男の子たちとグラウンドでドッジボールやサッカーをしていた。それにひきかえ、私はどちらかというとおとなしい子だった。一部の男の子たちによくいじめられていた。さと子ちゃんも一緒にやろうよとサヤちゃんに誘われるが、球技が苦手であったし男の子と遊ぶのはどうも気が引けた。四階の窓からサヤちゃんの走り回る姿を見るたびに、うらやましくはあったが、私にはとうてい真似できないなと思った。


 新しいクラスの担任は、隣町からやって来た弓長という名の女の先生だった。黒ぶちのメガネに黒いブレザー、黒いズボンがいつものスタイルで、髪も短めにキリッと決めていた。他の先生のほとんどがスリッパ履きなのに、弓長先生は白いスニーカーを履いていた。何事にも前向きで、クラスをひとつにまとめ上げることに長けていた。宿題を含めた忘れ物をなくそうというのもひとつ。いくつかの班に分けられて、班長を決めて、その班長が前の晩に各班のうちに電話して忘れ物がないかの確認をする。宿題のわからないところがあると、休み時間や放課後などの時間を使って班みんなで教えあう。班として連帯責任を負わされるのだ。「何事にも一番になりましょう。それに向かって努力しましょう」というのが先生の教育方針であって口癖だった。クラス対抗の合唱コンクールや綱引きにしてもそうで、そういう大会があると放課後の時間をつかってみんなで練習した。不思議と嫌がる子もいなかった。四年生でもなく六年生でもない五年生。競い合うこと、大小にかかわらずひとつの事を築き上げていくことのうれしさを芽生えさせてくれる年齢だったのかもしれない。大会などの行事はことごとくすべて一番になった。他のクラスの先生から四組のことを褒められると、弓長先生はとてもうれしそうにそのことを私たちに報告してくれた。優勝のあかつきには、先生はご褒美としてみんなにニコニコちゃんマークを各自用意したメモ帳にくれた。ニコニコちゃんマークは先生の手書きで、顔のまわりには花柄をくるくるっと描いてくれた。班ごとの宿題や忘れ物にしてもそうだった。マークが二十個ならんだら、先生から赤いボールペンのプレゼントがあった。みんなが競ってニコニコちゃんマークを集めようとした。ペンがもらえるというより、その行為じたいに喜びを感じていたのかもしれない。

 弓長先生は、一回だけ強く叱ったことがあった。理科の時間、生徒から質問を受けて、先生はその答えに窮した。先生がすぐに答えられないことなどほとんどなかった。先生が必死で教科書をパラパラとめくっていると、先生、がんばってとサヤちゃんが声を発した。先生の顔は一瞬にして怖い顔になり、その視線はサヤちゃんに向けられた。頑張るのは、あなた達でしょと、めずらしく声を張り上げ教卓をバンと叩いた。

 サヤちゃんはほどほどに勉強ができたけど、ちょっぴりお調子者のところもあった。忘れ物の多いところは、私と同じだった。そんなこともあり、私たちはお互いに確認しているなかで距離を縮めていった。

 新学期のいろいろな決めごとのなかに、出張そうじがあった。初めての出張そうじ、それは一年生の使用する教室やトイレを五、六年の高学年がそうじをするというものだ。教室、廊下、窓拭き、校庭などあって、黒板に書かれたそうじ当番表に名前がつぎつぎと埋まっていく。残されていく場所のなかで、トイレもあった。枠は二名。サヤちゃんと私はまだ決まっていない。早く決めなきゃとあせっていると、サヤちゃんと目があった。聞こえなかったが口の動きで、やろうかと言ったのがわかった。サヤちゃんと私は、女子トイレやりますと手をあげた。男子トイレは最後の最後まで残ってしまい、男の子たちの中でくじ引きで決めることになった。

 家では一度も手伝ったこともないトイレそうじ、掃除用具入れには箒とデッキブラシ、水切り、バケツが入っていた。そうじの時間は二十分。まず水をまくことからはじまった。チャイムが鳴る前に終えないといけないから、あとさきも考えず私が大急ぎで水をまいていく。そのそばから、サヤちゃんはデッキブラシをかけていった。サヤちゃんも私も上から下までびちゃびちゃになった。一年生の女の子が覗きに来た。トイレ使う? と私が言うと、女の子がううんと首を横に振って走っていった。一人っ子の私は、はじめてお姉さん気取りになることができた。靴も靴下も脱いで、サヤちゃんはずぶぬれのスカートの裾をまくり上げると両手でギュッと絞った。そのまくり上げたスカートのすき間からこんどはイチゴがらのパンツが見えた。一週間前の身体検査の時だった。女の子も男の子と同様、ひとりずつ健康手帳を持たされるとパンツ一枚で廊下に並ばされた。胸のふくらみがすこし目立つようになってきた子は健康手帳で胸を隠していたりした。私はまだ胸のふくらみもないし、白いパンツしか買ってもらえなかった。それが当たり前だと思っていた。人気アニメのキャラクターがらのパンツをはいていた子はいたが、サヤちゃんは違っていた。フリルが付いたピンク地に小花の模様がプリントされているパンツをはいていた。かわいらしくもあったし、こういうパンツをはいてもいいんだと思った。

「サヤちゃん、かわいいイチゴパンツだね。いいなあ、私なんか、グンゼの白いパンツしか買ってもらえないんだ」

「こんど、いっしょにかわいいパンツ買いに行こうよ」

 チャイムが鳴ると裸足で四階にあるクラスまで一気に階段を駆け上がった。息を切らせて席に着くと、先生がトイレそうじ、だいじょうぶ? と私たちの姿を見て言った。何日かやってみて、大変そうだったら、交代制にするからねと、私たちを気遣った。

「だいじょうぶです」と私たちは答えた。


 サヤちゃんの家によく遊びにいった。とくに土曜日はそうだった。サヤちゃんのお母さんは仕事でほとんどいなかったけど、たまにお父さんらしき人との話し声とともに彼女の豪快な笑い声が部屋から聞こえてきた。

 お姉さんたちのことは、何度となく目にした。二人の感じはまったく違っていた。浩子姉さんは紺のブレザーにタイトスカートというスタイルに対して、礼子姉さんは髪を赤く染めていて派手な服を着ていた。たまにグロリアという横に平べったい黒い車が家の近くに停まっていて、その助手席に礼子姉さんが乗り込む姿があった。

 北向きに建っていたせいだろうか、扉を開けると、よどんだ空気があって、暗くしめっぽかった。出迎えてくれるのはいつもミーというメス猫で、どこからともなくミャーという声がして台所につづく玄関先へやってきた。と思うとどこかへまたすうっと消えていった。間取りは私の住まいとまったく同じだった。どの部屋も物が多くあって、ただ雑然として、つんと猫の尿らしきすえた臭いが鼻についた。目にしたことのない新しい家電もあった。プッシュホンに電卓 そのなかで目を引いたのは、大きな電子レンジだった。

 土曜日は、その電子レンジを使って二人でお昼を食べた。サヤちゃんは戸棚からお皿を二枚出すと、それぞれのお皿にたまごをひとつずつ割ってくれた。そしてサヤちゃんは楊枝を持つと、「こうすると爆発しないんだよ」と言いながら、黄身に数ケ所の穴を開けた。たまごのまわりにはカットした魚肉ソーセージをあしらってレンジの中に入れた。庫内のほのかな明かりがたまごに当たっている様子を二人でじっと見つめていた。みるみるうちに、たまごの表面は白い膜におおわれていった。目玉焼きをお盆に載せると、それをサヤちゃんの部屋に運んだ。部屋の壁には、黒いワンピースが掛かっていた。

 私がそのワンピースを見ていると、

「日曜学校へ着ていく服なんだ。ママがつくってくれたの」

サヤちゃんは言った。

「日曜学校って?」

「教会で神父さまのお話しを聴いたり、お祈りをするの」

「えっ、お祈りって?」

「こうするの」

と言って、手を組み合わせた。そして、頭を垂れて目を閉じ「天にまします我らの父よ、願わくは、み名をあがめさせたまえ……」と唱えた。

 サヤちゃんの知らない一面を知って、私はじっと彼女の顔を見ていた。

 彼女は生後間もなく洗礼を受けて、クリスチャンネームを持っていた。教会へは、毎週日曜の朝に通っているという。教会のこと、イエス様のこと、いろいろなことを話してくれた。本当のお父さんが熱心な信者だったそうだ。

「お母さんは?」

「ううん。そんなに、熱心じゃないの。お姉ちゃんたちだって、信者じゃないもん」

「へえ、そうなんだ」

「さと子ちゃん、サタンって知ってる?」

「悪魔のことでしょ」

「うん、もとは神の子で、天使だったんだよ」

「えー、ほんとう」

 サヤちゃんはすっと立った。

「教会では、賛美歌を歌ったり、こうやってダンスも踊るの」

 腰に手をやって一回り、二回り、スカートの両端を持ち上げて軽いステップを踏んだ。


 三畳間がある。私の家では自分の部屋として使っているが、サヤちゃん家ではお母さんの部屋となっていた。お父さんらしき人との話し声が聞こえるあの部屋だ。ドアを開けると一面ベッドで足の踏み入れるすき間もないほどだった。サヤちゃんが言うには、キングサイズの大きさらしい。こんな大きなベッド、どうやって部屋に入れることができたんだろう。ベッドのほかに何もなかった。いや二つあった。とぐろを巻いたヘビと牙をむいた茶色の毛の生えた小動物が向かい合っている置物と小さな祭壇だった。二つともベッドの宮棚にあった。置物は、じっと見ているのが怖いぐらいすごく生々しかった。大きな花がら模様のベッドカバーにサヤちゃんがのぼって、

「本物よ。コブラとマングースのはく製なの」

「こわーい。サヤちゃんはこわくない?」

「平気、ずっとあるからもう慣れた。どのお父さんだったのか、ママにお土産だって」

 サヤちゃんは私をベッドに上がるよう手を伸ばした。そして、二人でトランポリンをして遊んだ。クッションがよく効いていて、くるくると高く飛び上がることができた。サヤちゃんのスカートがめくり上がり、イチゴがらのかわいいパンツが見えた。でも目を背けようとしても、二匹の生き物がどうしても目に入ってきた。以前にテレビで観たことがあるけれど、インドかどこかの国だったか、頭に白い布を巻いた老男がしゃがんで笛を吹くと、小さなかごの中から、ひし形の頭がにょろにょろと出てくるあの光景だ。どこに目があってどこを見ているのかがわからない。大きな動物さえ一瞬で殺してしまう、人間だってひとたまりもないはずだ。そんな猛毒を持つ蛇に向かい合うマングースって、どういう生き物? 動物辞典かなにかに天敵という言葉が載っていたけど、どう見たってこの小動物にそんな凶暴さが潜んでいるなんて信じられなかった。

 大きく飛びそこねても、落ちることのない大きなベッド。そして、コブラとマングース。サヤちゃんのお母さんはここでひとり寝ているのかなあ。

 私たちはベッドに入って、しばらく天井を見つめていた。

「あっ、ちょっとじっとしてて」

 サヤちゃんは自分のポケットから口紅をだして私の唇に塗ってくれた。

「これね、浩子姉ちゃんからもらったんだよ。サヤはまだ早いけど、胸がふくらんだら塗ってもいいよって」

 私はベッドから起き上がって鏡を見た。赤く塗られた唇にそっと指を置いてみた。

「さと子ちゃん、胸ふくらんできた?」

「ううん」

「ふくらんできたら、さいしょに教えてね。サヤも教えるから」

「うん」


 お父さんがまた倒れているわよ、とちかくのおばさんが家に教えに来てくれた。しょうじき放っておいて欲しかった。できれば野たれ死にしてくれたらいいのにと思っていた。まわりの手前、しかたないから靴をはいて急いだ。

 団地内の歩道の縁せきに足をひっかけて、転んだらしい。うだうだと聞き取れない声を発している。酒の臭いがぷんぷんした。これでもう、三度めだ。私は父になにも声もかけず、ただ上からじっと見ていた。

 さと子ちゃんも、もっとお父さんを大事にみてあげないとね、とおばさんが言い、まわりもそう、そうねと頷いていた。なにをどう大事にするっていうの。私は黙っていた。私の大事なものを盗んだのは父だというのに。声を上げて言いたかった。それも一度ならず、二度までも。私は、何かと小物を集めるのが好きだった。千代紙におはじき、小さなボタンなど。そして、五〇円硬貨。お手玉の入った小さなちりめん貼りの筒状の箱に、タイヤを並べるように硬貨を立てて並べていた。何かを買いたいから集めるのではなく、一枚ずつ増えていくことに喜びを感じていた。それを二度空っぽにしてしまった父、それを飲み代に使っていたのだ。

「お母さんに、返してもらったらいいだろ」

父は悪気もなく素っ気なく言った。言い返せない私はただ悔しくて目にたくさんの涙を浮かべた。

一週間前の家庭訪問のときだった。私がいない間に弓長先生が来て、私の学校生活のようすを手短に話していった。次の日、登校すると先生は私の顔を見るなり、

「お父さん、どこか身体のぐあいが悪いの?」

 と聞いた。私が何も答えないでいると、

「ずいぶん部屋が暑かったから」

 そう言われて、私は父のことを一気にしゃべった。父が仕事に行かないこと、お酒を飲んで寝ていること、酔っぱらって道で倒れていることなど。言いおわって、先生の顔を見ると、先生はちょっと悲しい顔で私を見ていた。

「わたしのニコニコちゃんマーク、なくなる?」

「なくなったりしないよ。お家、大変なんだね。ほかにも話したいことがあったら、いつでも聞くからね」

 先生は私の頭に手を置きながら、そう言った。私に頑張ってとか、しっかりしてねとか、近所のおばさんたちみたいに言わなかった。それは私にとって大きな救いだった。

おばさんが、救急車、呼ぼうかと言った。

 私は、いい、連れて帰るからと答えた。父の額にはすこし血がにじんでいた。父の腕をひっぱるように連れて帰った。父の手は震えていた。夏でも冷たく青い静脈が浮き出ていて、指は細く骨がゴツゴツしていた。

「さと子、寒いよ。もう少し酒飲ませてくれ」

「……」

「貯金している五〇円、いくらか貸してくれないか。後で、母さんに返してもらえばいいから」

 髪はぼさぼさで、ひげは伸び放題で救いようのない姿に、死んでくれたらいいのにと思った。そして、こんな父と別れない母に、無性に腹が立った。

 サヤちゃん家の前を通りかかったときふと、父がいないということを想像してみた。サヤちゃんの本当のお父さんは死んじゃったけど、どうなんだろうなと。


 一学期の終わりに授業参観があった。サヤちゃんのお母さんを見たのは、その時がはじめてで、大きな赤い花もようのワンピースを着ていた。私ははっとした。あのベッドカバーの模様と同じだった。細身のサヤちゃんから想像できないくらい白くふくよかだった。でも、私はその容姿になっとくした。サヤちゃんのお母さんは、満州というところで生まれ育ったと、サヤちゃんから聞いていた。満州という国名すら知らなかったが、両親から聞くと、遠い中国の東北部の大陸にあった国だという。日本の島国とは違って、大陸的でおおらかな人が多いだろうね、と親は付け加えた。満州という字面にしても、どこか満ち足りたふくよかな感じがしたからだ。

 サヤちゃんがお母さんに手を振ると、お母さんもすぐにニコニコしながら手を振ってくれて、サヤちゃんはうれしそうだった。

 授業が終わって、お母さんと帰る子もいれば、いつも通り友達と帰る子もいた。

「いつもサヤと遊んでくれてありがと、さと子ちゃんのお母さん来てないね。今日、サヤの髪を切る約束しているから、一緒に美容院に来る?」

 私は頷いて、サヤちゃんのお母さんが運転する車に乗り、美容院に向かった。

 店内には、多くの観葉植物がところ狭しと置いてあった。涼を感じさせるというより、ジャングルの中にいるような感じだった。ヘラ鹿のはく製がレジの上に掲げられ、ランの花がところどころにあった。

 お母さんはサヤちゃんを美容セット椅子へ座らせると、あんたの髪なんか切ったって一円にもならないんだから、と乱暴に言い放ち、いくつかのハサミでササッとカットしていく。そのようすを後ろから鏡越しに見ていた。鏡の中のサヤちゃんと目が合った。彼女は恥ずかしそうにクスッと笑った。いつもの大人びたサヤちゃんじゃなくて、等身大のサヤちゃんが映っていた。

 カットが終わって奥の和室で二人遊んでいると、はんぶん開いている襖から、サヤちゃんのお母さんの姿が見えた。電話でだれかと話している。今日は店が休みだから、きっとママは出かけるよって、サヤちゃんが言っていたとおり、しばらくするとお母さんは、サヤ、悪いけど、さと子ちゃんといっしょにバスで帰ってもらえるかなと言い残して、おめかしして機嫌よく出かけていった。

「きっとパパのところに行くんだよ」

「どうして、パパはサヤちゃん家に帰ってこないの?」

「うん……」

「じゃ、私が遊びに行ったときに聞こえる声は誰なの?」

「たぶんね、パパ。いろいろあるみたい」

「ふうん、そうなんだ」

 状況はまるっきり違うけど、いるのにいないみたいな父親の存在。サヤちゃんとの共通点が見つかって、すこしうれしかった。


 一学期が終わると、五年生の行事である校内キャンプが一泊二日で行われた。事前に役員のお父さんたちが校庭の隅に数ヵ所の穴を掘っていてくれた。そこで飯ごう炊飯とカレーを作る体験授業だった。

 クラスごとの余興はいくつかあったが、メインはファイヤを囲んでの学年全体のフォークダンスだった。内側が男子で、外側は女子がサークルをつくった。輪がぐんと大きくなった。どのクラスもこのフォークダンスのために、体育の授業で多くの時間を割いてきたのだ。こんなダンスを、どうして男女が交わってやらなければならないのだろうと、多くのみんなが感じていたに違いない。それも五年生という時期に。女子が胸のふくらみを意識する時期と関係するのだろうか。四組の練習の時だって、最初のうちは恥ずかしかる男子や、気が乗らない女子に、手を繋いでしっかりやりなさいと弓長先生の言葉が飛んだ。そして「サヤさんを見習いなさい」と。

 辺りがだんだん暗くなっていくにしたがって、囲いの中の炎がビシビシと音をたてながら勢いを増し、高く伸びていった。

 オクラホマ・ミキサーが流れる。フォークダンスは、ねじ巻き時計に似ている。以前に、父親から時計の中を見せてもらったことがあって、そう思った。空から眺めていると、きっとそうだ。男女の大小のサークルがそれぞれ逆に廻っていく様子は、大きい歯車と小さい歯車が逆に回っていく構造にそっくりだ。しかしチッチッと小刻みに正確に動かすには、原動力とリズムが必要。

 やはり、サヤちゃんだった。どうしても、目に入ってしまう。私のふたり前に、サヤちゃんがいて、曲に合わせてかかとを上下させる。だれよりも一、二秒動きが早く、さっと向かいの男子の手を取った。取られた彼はまったくの受身でなすがままだ。積極的な彼女は次つぎ廻ってくる男子を手玉にとるように見えた。背の高い子、低い子、太った子、もちろん他のクラスの男の子さえも。サークルには各クラスの先生たちも入っていて、サヤちゃんと相手する男の先生さえも、そう見えた。ゼンマイが巻き上げられたように、二つの歯車がかみ合いはじめてきた。サヤちゃんはゼンマイを巻き上げていくリューズのようだ。

 日はもうとっくに暮れていて、炎が星空に吸い込まれていくようだった。私たちのまわりには、多くの家族が見に来ていて、じっとこちらを見ていた。音楽は流れていたが、どこか沈黙を強いられているような静けさがあった。燃えさかる炎は、くっきりと私たちの光と影をつくっていた。

 サヤちゃんに目をやれば、くるくると回り続けている。いろんな男子がやってくるが、彼女の前ではすべて同じように見えてきた。

 視線を下にやれば、サヤちゃんの影の上に男子の影が重なり、また離れていく、それが流れるように見えた。

 その光景に、ふとサヤちゃんのお母さんの姿と重なる瞬間があった。


 夏休みに入り、私たちは日が暮れてお互いの顔がわからなくなっても外で遊んでいた。ゴム跳びや石蹴りなどを夢中でやった。雨の日は居間の部屋の中から外に向かってシャボン玉を飛ばしたり、それでも飽きるとどちらからともなく、しり取りをはじめる。だんだん言葉が尽きてきて天井を見ながら間が空いてくると、姿勢をくずして二人でひっくり返り、また天井を見つめている。雨の音がいっそうおおきく聞こえた。

 私がすこしうとうとしはじめたとき、サヤちゃんが、あっ、あれやろって急に声を上げ、お母さんの部屋に走っていった。戻ってきた彼女の手には、十字の入ったろうそくが握られていた。

「祭壇から、取ってきたの」

「どうするの?」

 私が問いかけると、サヤちゃんはろうそくに火をつけた。最初はゆらゆらと小さく揺れていたろうそくの火が、次第に大きくなり黒いすすといっしょに天井へ上がっていく。サヤちゃんはそのろうそくをゆっくり傾けると、炎に煽られて蝋がぽたぽたとテーブルに落ちた。

「さと子ちゃん、ちょっと手のひらをだして」

 と言いながら、私の手を引いた。何するのって声をだすまえに、蝋が一滴手のひらに落ちた。あっと手を引っ込めると、サヤちゃんは私のその手にろうそくを握らせると、私にもやってと言った。私はこわごわとろうそくを傾けサヤちゃんの手のひらに蝋をぽとぽとと数滴おとした。サヤちゃんはぴくっとして手を引いた。今度はここにやってみてと言いながら、スカートの裾をまくり上げ、ひざを指さした。私はちゅうちょなく彼女の膝におとしていく。ぽたぽたとおちていった蝋はみるみるうちに膝の上で固まっていった。

「手のひらよりも熱くないよ。やってみる?」

「うん」

と頷いて膝を出した。サヤちゃんは私の膝に蝋をおとしながら、

「どう、思ったより熱くないでしょ」

「うん、熱くない」

 熱さが遠のくと、軽いかゆみを感じた。

「気持ちいいね」

 サヤちゃんが言って、私もそう思った。

 私たちは調子にのり、身体のあちこちに蝋を垂らしてみた。

 夏の一日は長く、それに今年は長雨だった。何もすることもなく、また天井をずっと眺める日が続いた。退屈だった。

「私ね、けっこう高いところが好きなんだ。小さい頃、ブロック塀のいちばん高いところから飛び降りたりしてたんだよ」

「えー、じゃあ、あそこから飛び降りられる?」

サヤちゃんは天袋のところを指さした。

「うん、できるよ。やってみようか」

 私は桟に手をかけると、ぐっと身体を縮めて天袋によじのぼった。サヤちゃんは下で見上げている。飛ぶよと私はそう言うと、ためらうことなく飛び降りた。

「わっ、すごい」

「サヤちゃんもやってみる?」

 うん、と立ち上がって天袋に上がって、飛び降りた。

 私たちは何度も繰り返すうち、スカートがめくれてパンツが見えることに楽しさを見つけていった。

「わたし、下で見ているエッチなおじさん役するから、また飛んでみて」

 サヤちゃんは私に飛び降りるようさいそくした。

 さらに二人だけという微妙な力関係なのか、たんに好奇心からなのか、行き過ぎた行為に発展してしまった。オレンジ色のロープで縛りあう強盗ごっこもそのひとつだった。お互い縛られたロープの中から、何秒で抜け出せるかを競った。

 サヤちゃんは寝転んでいる私のパンツを下ろすと、ここ舐めていい? と言って、私の顔を見た。私がえっとためらっていると、猫のミーが寄ってきて、私の股間にクンクンと鼻を当ててきた。興味深そうに目を細めて嗅いでいたけれど、つまらなさそうな顔をして行ってしまった。私の股間にミーの鼻の冷たさだけが残った。


 その後しばらくして、サヤちゃんのお母さんの美容院に本物の強盗が入った。その日はたまたま礼子姉ちゃんが泊まっていて被害に遭った。刃物を突きつけられお金を奪われたそうだ。礼子姉ちゃんに怪我はなかった。でも強盗が去った後も、奥の和室にうつ伏せに倒された状態から何時間も怖くてうごくことができなかったと、サヤちゃんから聞いた。

「もうあんな遊び、やめようよ」

 サヤちゃんは、静かに言った。

「うん、そうだよね」

 その事件の後、私たちはあの一連の遊びをしなくなった。


 一年後、弓長先生は教育委員会へ異動になり、私たちは、六年生でも同じクラスになった。

 しばらくして、サヤちゃんのお母さんは建て売りの家を買った。

 団地内の公園で私たちがシーソーに乗っているとき、

「三組の松本理沙ちゃん、知ってる?」

 と言いながら、サヤちゃんは地面を蹴っていちばん高い場所から、理沙ちゃん家を指さした。

「あの四号棟の理沙ちゃん?」

 私も地面を蹴りながら、返した。

「同じ学年だよね。知ってるよ」

 シーソーを上下させながら、話しは続いた。

「今度ね、理沙ちゃんと一緒に住むんだ。姉妹になるの」

「えっ?」

「理沙ちゃんのお父さんと、わたしのママが結婚するの。それで、新しい家に引っ越すの。転校するんだ」

 私は一度にいろんなことを知らされて、何を言っていいかわからなくなった。


 そしてしばらくしてサヤちゃんは転校していった。あんなに仲が良くて毎日遊んでいたのに、意外にも寂しいとか悲しいとか、そんな想いはひとつも感じなかった。

 私たちは知らないところでお互い中学生になった。私は美術部に入り、また新しい友達ができ、充実した日を送っていた。

「昨日ね、バトミントンの交流試合があって、サヤちゃんと試合したんだよ」

 ある日、バトミントン部の同級生が教えてくれた。

 サヤちゃん、バトミントン部に入ったのか。相変わらず、日焼けして真っ黒なんだろうなと、私はサヤちゃんの姿を想像した。


               了


 

 

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