夜の空にはためく

菅原 淑恵

 今日の夜空はすこし不思議な感じがする。

 陸上競技場のスタンドの入り口から空を見上げて、遥はそんなことを思った。観客席につく前に空を見上げるのは癖になっていて、これをしないことにはなんとなく落ち着かない。それはたぶん、二十年近くも前のことが今でも頭に残っているからだった。

小学一年生の運動会の日のことだ。

「――なんでなん、おばあちゃん」

 運動場いっぱいに張られた何枚もの国旗が、風をうけてパタパタパタと青空にはためいている。

 それを指さして、遥は言った。

「なんで、あんなたくさんの国の旗を飾るん。オリンピックでもないし、色んな国の人が出てるわけでもないのに。あほみたいやん。あんなんいらんのとちゃう」

 聞かれた祖母は、青空を見上げてほほ笑んだ。

「あれはな、はるちゃん。いろんな国のいろんな人たちや、いろんな国におる、いろんな神さんの力を借りてるからなんよ。ぎょうさんあるけど、全部あんたらを応援するためにああやってかかってるんやで」

「応援?」

「はるちゃんが力を出せますように、無事にゴールまで走れますようにって」

 祖母は両手で遥の手を包み、きゅっと握った。

「旗はな、応援するためのものやから。はるちゃんの力だけやったら上手くいかん時は、力を貸してもらったらええんよ。何もしてないみたいやけど違うねんよ。ばかにしたらあかんで。いらんもんなんて、ここにはないんやから」

 うん、と遥は大きくうなずいた。そして、色とりどりの旗に見守られて徒競走のスタート位置についたのだった。

 初めて競技場に来た時から、ここに旗なんてないことはわかっている。

 わかっていてもつい探してしまうのは、このレース前の緊張をどうにかしたいからなのかもしれない。走るわけでもないのに、こんなに緊張するなんて馬鹿げていると自分でも思う。でも、今回ばかりは仕方ない。

 だって、もしかしたら今日が最後の――。

 不安がまたふと心をよぎり、遥は気をとり直すようにもう一度空を見上げた。

 深い紺色の夜空には、真っ白な霧が大きな生き物のようにゆったりとただよっている。そこに射す照明のにじんだ光が、トラックをどこかSFめいた空間にしていた。

 空気はまだ冷たいけれど、底がかすかにぬるみ、ほのかにやわらかい。

 もうすぐ、春が来るのだ。

『西日本実業団陸上選手権大会、男子一万メートル、まもなく始まります』

 アナウンスが場内に響いて、次の種目への期待にスタンドがざわめく。その中に、見覚えのある顔を見つけて、遥ははっと息をのんだ。

 どうしよう、と思う前に足は一歩前に進んでいる。

そのまま遥は引き寄せられるように彼女の席まで歩いていった。



「となり、いいですか」

 競技開始のアナウンスが終わったのと同時に、仁美の視界にすっと影がさした。

 ゆっくり目を動かすと、ひとりの女の子がこちらをのぞきこむようにして立っている。

 たぶん、社会人三、四年目。同い年くらい。まだ新社会人、という言葉が似合いそうなスーツ姿は、ジーンズを着た仁美とは対照的だった。

 ぎこちなくほほ笑みかけられて、仁美は思わずあたりを見まわした。

 陸上競技は野球やサッカーと違ってマイナーで観客も少ない。まばらな座席に目をやったのがわかったのだろう、彼女は大きな目を申し訳なさそうにしばたかせた。

「あ、その、験かつぎというか。五年前にホームストレート正面のこの席に座った時、たまたま応援している選手のベストが出たので、それで……」

 選手自身の験かつぎはあっても、応援するほうが、というのはあまり聞いたことがない。そう思ったものの、彼女の真剣な顔につられるように仁美はうなずいていた。

 ありがとうございます、と軽く頭をさげて彼女は席につく。その拍子に仁美のひざの上からチケットがすべり落ちた。

一枚は、半券。

 もう一枚は、まだ切られていないもの。

 すみません、と彼女が慌てて拾おうとするのをさっと止め、拾ってすぐにバッグにしまおうとしたところで、また声がかかる。

「あの、そのチケット。あとから誰か来るんですか」

あぁ、さっさとしまっておけばよかった、と仁美は心の中で舌打ちをした。

「別に誰も」

 思いがけず強くなった口調に、はっと彼女の顔色が変わった。

そのままバッグにチケットを突っこんで顔をそむけると、少ししてから小さな声が「すみません」というのが聞こえた。

 ため息をつき、仁美はまた手元に目線を落とす。

 いったい、なにをしてるんだろう。

 あんなにイライラして。さっきのは完全に八つ当たりだった。

 隣をチラリと見ると、その瞬間パチリと目が合う。あわててそらされる視線を呼びとめるように口が動いた。

「陸上、好きなの?」

「え?」

「さっき、五年前って言ってたから。ずっと見てるのかなと思って」

 そう言って首をかしげてみせると、彼女は安心したようにほっと顔をゆるめた。

「なんでやの、っていつも言われて」

 大切な思い出を閉じこめるように、彼女は薄くまぶたをおろす。

「私、長距離の中継がはじまるとテレビにはりついて離れないから。そうするときまって祖母が言うんです。『はるちゃんは、ほんまに長距離が好きなんやなぁ。そんなん、ぐるぐるぐるぐる輪の中をただ回ってるだけやのに』って」

 やわらかな関西弁は、ゆっくりとなぞるような調子だった。

「はる、っていうのが名前?」

 彼女はゆっくりと首をふる。

「そう呼ぶのは祖母だけで。遥の『か』をとって、はる、と」

 ――みとちゃん、おかえり。

 ――みと、おかえり。

 耳のおくで懐かしい声がする。

 瞬間、母と兄、三人で暮らしていたあの頃の居間の畳の匂いにふっと包まれた気がした。

 ――ただいまぁ。

 あたり前だった言葉が今ではもうひどく遠い。

「みと、って?」

 知らないうちに声に出てしまっていたらしい。不思議そうな顏でこちらを見ている遥にあわてて言う。

「私の名前、仁美っていうんだけど、ひとみをちぢめて反対から読んだら、みと。そう、呼ばれてたから」

 みと、と遥が口のなかでつぶやくのを見て、どうしようもない気持ちになった仁美は、ふいと顔をうつむかせた。

 トラックでは選手紹介がはじまっている。

 電光掲示板には二十人ほどの出場選手の名前が映しだされ、場内アナウンスにあわせてひとりずつ軽く手を挙げたり、一礼したりしていく。

『中西祐樹、南海電力』

 その名前がアナウンスされた瞬間、耳をつんざくような声援が起こった。

「なにこれ」

 なんでこんなにうるさいの、と顔をしかめると隣で遥も苦笑している。

「中西選手は去年、日本記録を出してオリンピック代表候補としても注目されているので、チームも気合いが入ってるんですよ。南海電力の大応援団が向こうに」

 ほら、と示されたほうを見ると、スタンドの左前方にそこだけぎっしり南海電力のチームカラーを着た真っ赤な集団がいる。

 馬鹿みたいだ。

 あんな一生懸命に声を張り上げたところで結果が変わるわけでもないのに。

 ――みとはいっつも、ほんと声だけはおっきいよな。

 あぁ、まただ。

 もしかすると、どこかの蛇口がゆるんでしまっているのかもしれない。ぽとり、ぽとり、とこぼれ落ちてくる記憶から逃げるように、仁美はいそいで口を動かした。

「結局、応援って自己満足じゃない? あんなの、頑張れって言う自分に酔ってるだけ。それでなにが変わるわけ。なんの助けにもならないじゃない」

「……それは」

 遥はそこで突然プツリと言葉を切り、ぐいと身を乗り出した。

 トラックではちょうど、一列に並ぶ選手の真ん中あたり、一人の選手が一歩前に進みでたところだった。

『戸田史郎、筑紫製薬』

 声に合わせて、彼はわずかに頭を下げた。

 周囲よりいちだんと小柄な、白いユニフォーム。

 その姿を仁美が見るのは数年ぶりだったが、不思議と何の感情も動かなかった。

 それも当たり前なのかもしれない。つながりなんて、もうとっくに切れてしまっているのだ。

 それなのに、一体どういうつもりなんだろう。

 一週間前に突然送られてきた封筒。ひと言もなく、入っていたのは二枚のチケットだけ。

 今更、なに考えてるの。

 小さく見える姿を睨みつけたところで、仁美は隣からおなじところを見つめているもう一つの目線に気付いた。真剣に、かすかな仕草さえも見逃すまいと見つめる様子に、小さくうめく。

 なんて皮肉な、巡りあわせ。

「――ねぇ、今の選手が好きなの?」

「知ってるんですか、戸田」

 前のめりの姿勢から元にもどって、遥がこちらを向く。

「陸上、あんまり詳しくないから」

 仁美のそっけない口調を気にすることなく、そうですか、と遥はうなずいた。

「一万メートルの自己ベストは二十八分二秒。湘南大学四年時に出場した日本選手権では同種目三位。期待されて名門の筑紫製薬陸上部に入部し五年目になるも、以後成績はふるわず……この春で退部という噂もある」

 最後は少しつまったものの、まるで暗唱するような調子だ。

「……すごいね」

 顔をひきつらせた仁美を見て、遥がくすりと笑った。

「ひきました?」

「まぁ、ちょっとね」

 正直に答えると、遥はやっぱり、と今度はにっこりとする。

「たいていの人がひくんです」

「全選手そんなに詳しいの?」

 違います、と遥の返事ははっきりしていた。

「有名な選手のことはある程度知ってますけど、そこまででもなくて。こんなに詳しいのは」

 ふと、ざわついていた場内が静かになる。

 選手紹介が終わり、ようやくレースが始まるのだ。

「――戸田、だけ」

 こくりと遥がうなずく。

 同時に、パンッとピストルが鳴った。

 選手たちがいっせいに飛び出す。

 まるで短距離走のように一気に加速する選手、あちこちで小競り合いをする選手、みんな必死だ。

 どうしてなのかを仁美は知っている。いつか聞いたことがあったからだ。

――これから長い距離を走るのになんであんなに必死になるの? 体力消耗するだけのような気がするけど。

――スタートの位置取りは重要なんだ。自分の走りやすい位置をとれるかどうかで、思い描いたレースができるか決まる。どこがいいのかは、人によっても違うけど。

――ふーん。じゃ、調子のいい時はどこにいるの?

――先頭かな。うん、最初から先頭にいく。

 スタート後、単独で飛び出す選手はいなかった。戸田は縦に長くのびる集団の前方につけている。

「このまま」

 隣で遥がつぶやくのが聞こえた。

 このままなんて無理にきまってる。

 一万メートル、時間にすれば三十分弱、選手はこの一周四百メートルの輪の中を反時計回りに走り続けなくてはいけないのだ。

「長いね」

 ぽつり、こぼれた言葉をすくいあげるように遥が口をひらいた。

「レース後のインタビューで、『夢中で走っていたら、気付いたらゴールしていました』、そう言った選手もいれば、『走っても、走ってもゴールが遠かった。このまま永遠に走り続けるのかと思った』、そう言った選手もいました。……長いのか短いのか、わからないですよね」

 一瞬と永遠の間、そのどこかで彼らは走っている。

 集団がスタート地点を通過し、周回表示器には二十四と数字が表示された。

 あと、二十四週。



 十三分四十七秒。

 遥は五千メートルの通過タイムを確認して、ひとつうなずいた。

 二十八分を切るようなハイペースにも脱落者はまだいない。夜のトラックを駆ける集団は縦長のまま、戸田は前から五番目につけていた。

 五番目。

 いい位置だ。フォームだって悪くない。すっと伸びた背筋に規則正しくピッチを刻む足。

 もしこれが大学時代の戸田だったら。今日は調子がいい、このまま最後まで走りきると、そう疑いもなく思えたのに。

 ふと視線を落とすと、指先が白くなっていた。無意識に両手を強く握りしめていたらしい。

「どうしたの?」

「あ、血がとまっちゃったみたいで」

「握りすぎでしょ」

 いくらなんでもおおげさじゃない、と仁美が眉をひそめたのがわかって、遥はあわてて手を離した。

「つい力が入ってしまって」

 このところ、戸田が遅れるのはたいていこのあたりからなのだ。

 実業団に入ってからの戸田のレースは中盤から崩れる。ずるずると後ろへ下がり、大学時代には一度も負けたことのなかった選手たちにもどんどん抜かれていく。

 初めのうちは、そんな彼の姿を信じられないと思ったし、信じたくもなかった。けれどいつしかそれにも慣れてしまい、声援を送りながらも、また今日も遅れてしまうのかと疑う自分がいる。

 遥がそんな話をすると、仁美は、ふぅんと興味がなさそうに相づちをうった。

「でもさ、仕方ないんじゃないの。走れなくなったのは、ピークが過ぎたとか年齢的な限界のせいなんでしょ?」

 そうじゃないと思います、と遥はきっぱり首をふる。

「年齢的なことではなく、いきなり走れなくなる選手っていうのは結構多いんです。もちろんどこかに故障を抱えていることもあるけれど、環境が変わったり、そういう精神的な面でも」

「ずいぶんナイーブだね」

「きっと、ぎりぎりのところで走ってるんですよ。心も体もすごく深いところまで潜っていって、そこになにもなかったら?」

「なにも?」

「真ん中にある、なんていうかお守りみたいなものが」

 お守り、と仁美は確かめるように繰り返す。何かを考えているようなその表情にむかって、遥は笑ってみせた。

「ぜんぶ想像だけど、でも、なんとなくわかるような気もして」

 戸田を見つめながら、ずっと考えていたのだ。

 どうして走っていられるんだろう。悪いスパイラルに捕まって、ずるずる引きずられていくのは怖くないのだろうか。

 走るのをやめたくならないのだろうか。

「想像ってことは、陸上やったことはないの?」

「ずっと帰宅部で。あ、陸上経験、あるんですか?」

「中高はずっと合唱部。声が大きいだけがとりえの部員で。……それにしても、やったことないのにそんな好きなんだ」

 目の前のトラックを選手たちが通過していく。集団の前方にはまだ、表情を変えずにたんたんと走る戸田がいる。

「きっかけが、あったんです」

「きっかけ?」

「……すこし、話してもいいですか」

 目を合わせて聞くと、仁美はゆっくりうなずく。

 どこから話せばいいだろう。

 遥は照明の灯りを見上げて、ゆっくりと息を吸い込んだ。


 家族と折り合いが悪かったせいで、遥は小さい頃から祖母とふたりで暮らしていた。

 その祖母から癌になったことを聞いたのは、八年前。

 大学一年の大晦日の晩、居間で向かい合ってこたつに入って年越しそばを食べていた時だった。

「え」

 そばをすすりながらまぬけ面をした遥に、祖母は謝った。

「ごめんやよ、ごはん時にこんな話したらあかんかったね。はるちゃんが消化不良になっちゃうなぁ」

 的外れだよ、おばあちゃん、と遥はぼんやり思った。

 思うだけで、あとは何の感情も言葉も出てこない。口の中のそばがいつまでたっても飲み込めなかった。

「でも、途中でやめたかていっしょやね」

 祖母は、入院は正月明け、手術は……と話し続ける。機械的に箸を動かしながら、遥はそれを黙って聞き、ようやく全部食べ終えた時には穀物を胃にそのまま詰め込んでしまったような気がした。

 次の日から、遥は居間へ下りていかなくなった。

 お正月特有のしん、とした空気といっしょに自分の部屋に閉じこもったまま、あけましておめでとうの一言さえ言わずに、もう二日目になる。

 カーテンを閉め切った薄暗い部屋に、つけっぱなしのテレビだけがちかちかと光っていた。

 おばあちゃんがいなくなったら、どうしたらいいんだろう。

――はるちゃんは、優しい子やね。

――はるちゃんは、ほんまにええ子や。

 祖母はよく遥を褒めてくれた。

 祖母の言葉は本当でないことを、自分が優しくも良い子でもないことを、自分自身が一番良く知っていたけれど、だからこそ祖母の言葉は遥のお守りだった。祖母がそう言ってくれるのを聞くたび、遥は優しくない方へ、正しくない方へ行こうとしている自分をなんとかひき戻すことができたから。

 お守りをなくしてしまったら、戻れなくなる。流されて、気が付かないうちに行きたくもない所へいってしまう。

 そうやって、遥はずっと自分のことばかりを考えていた。

 どうして、私のことを優しいと信じてくれているおばあちゃんに「大丈夫」の一言も言えなかったんだろう。

 他に誰もおらんのに。私が言わなあかんかったのに。

 ちっとも優しくない孫でごめん。

 考えれば考えるほど苦しくて、体が畳に吸い込まれそうに重い。何度も立ち上がろうと思ったけれど、どうしても立てなかった。

 このまま立ち上がれなくなっても、いいか。

 あきらめるように遥が目をつむった時だった。

 急にテレビの音量が大きくなった気がして、遥はさんかく座りの膝の上から、ふと顔をあげた。

 箱根駅伝。

 テレビ画面には箱根駅伝の第一中継所が映っていて、ちょうど一区から二区へ、一位のチームがたすき渡しを終えたところだった。

 やけに華奢だな。

 駆け出した選手を見て、遥はそう思った。長距離選手は線が細い選手が多いけれど、ひときわ細くて小さい。もしかしたら、体重だって遥より軽いかもしれない。

『湘南大学は、二区、一年生の戸田史郎が走ります。もちろん初めての箱根。大抜擢です』

 アナウンサーが情報を伝えてくれる。

 一年か.同い年なんだ。

 顔立ちも大学生にしては幼く、短すぎる髪がいっそう彼を頼りなげに見せていた。爽やかな水色のユニフォームが華奢な体によく似合っている。

 箱根駅伝にそれほど詳しくはなかった遥も、二区が「花の二区」と呼ばれ、各校のエースが走るのだと聞いたことはあった。

 湘南大学の後を、留学生ランナーや、ほとんどが三年か四年の各校のエース達が中継所を走り出していく。

 画面の中の戸田は小さな体で必死に逃げているように見え、ここの学校はよっぽど人がいないんやな、かわいそうにこれからどんどん抜かれていくんやわ、と遥は彼に同情した。

『二区は最長区間ですから、ここで順位もガラッと変わります。ごぼう抜きが最も見られるのもこの区間です』

 アナウンサーの言葉も、まるで彼が抜かれるのを期待しているかのように聞こえる。

 なんとなく放っておけないような気持ちになり、遥は画面から目が離せなくなった。

 逃げる戸田。

 焦っているのか、いないのか。彼はただ、黙々と前へ前へ足を進める。彼を追って、後ろからはどんどん選手がせまってくる。

 どうか、抜かれませんように。

 それは無理でも、最下位まで落ちるとかそういうのはやめて。

 いつのまにか、遥は身を乗り出してテレビ画面を見つめていた。

 それから三十分。

 戸田は、まだ誰にも抜かれてはいなかった。ほとんど表情を変えることなく正確にペースを刻み続け、『むしろ後続との差は開いています』とアナウンサーが告げる。

 もしかしたら、このまま走りきるかもしれない。

 もしも、彼がこのまま逃げ切ることができたら。そうなったら、祖母の病気だって、たいしたことなかったってことになるかもしれない。

 それは、ふと思いついた願かけのようなものだった。

 中継所までの距離はまだ半分以上残っており、登り坂の多いタフなコースが続くらしい。

 それでも、遥はなぜか彼に賭けてしまった。抜かれたらどうしよう、という弱気な声にも耳をふたして、ただ願った。

 もし彼が一番でたすきをつないだら、病気はきっと治る。

 だからどうか、このまま。このままゴールして下さい。

 お願いだから、負けないで。

 がんばって。

 祈るように、遥は画面の中の戸田に懸命に声援を送り続けた。

 終盤に入っても、戸田のペースは変わらなかった。小さな体のどこにそんな体力や精神力が眠っているんだろう。平然とした顔をして、たんたんと彼は走った。

 留学生ランナーの猛追もものともせず、疲れ切った選手には壁に見えるという最後の上り坂でもペースは落ちず、頼りなく見えていた水色のユニフォームは、ついに中継所に一番でたどり着いた。

『一年生ランナーとしては、過去最高記録です。素晴らしいタイムを出した戸田、湘南大学がこの中継所でも先頭でたすきを渡しました』

 アナウンサーの声が遠くで聞こえる気がする。

 どうしよう。

 遥はなぜか少し震えていた。

 本当に勝ってしまった。

 一番だ。一番……。

 いつのまにか顔の前で組んでいた手は汗ばみ、まばたきを忘れていた目からは、何かが零れ落ちた。遥はしばらく、そのまま呆然と座り込んでいた。

 そして、夢から覚めたように、パチン、とテレビを消した。

 おばあちゃん!

 おばあちゃん、おばあちゃん、おばあちゃん……。

 遥はばっと立ち上がって、冷たい廊下を走りぬけ、祖母の部屋のふすまを勢いよくあけた。

 部屋の奥、タンスの前で、入院に必要なものを旅行かばんにつめていた祖母は、大きな音に驚いて顔をこちらへ向けた。

 そのすぐそばに遥は滑り込んだ。

「おばあちゃん大丈夫やで。絶対大丈夫。おばあちゃんが死んじゃうなんてことないよ。私、願かけに勝ったから、これでどんな病気でも治るよ。もう大丈夫って私はそう信じてるからおばあちゃんも信じて。信じてな」

 最後にはしゃくりあげながら遥が言うのを祖母は黙って聞いていて、話し終わってもまだ泣き続けている遥に向かって、ぽつりと言った。

「はるちゃん、癌やいうても早く見つかったんやし、そんなに心配せんでええって言うたやろ? あいかわらずそそっかしいんやから」

 小さい子供のように、遥はずーずー鼻をすすっては泣き、泣きながら笑った。

「うん、そうやねん。そそっかし過ぎて、ほんまあかんわ」

「そんなことないで。はるちゃんは優しい子やから、ちょっとくらいそそっかしくても、お釣りがくるわ」

 祖母はやっぱり遥を褒めて、そのあと笑ってこう言った。

「でも、そんなに死ぬ死ぬ言わんでええのに。私は最初っから死ぬとは思ってへんよ。はるちゃんは、心配しすぎやわ。ほら、そんなに泣きな。そんな鼻水だらけの泣き顔見られたら、百年の恋も冷めてしまうよ」

 涙をぬぐってくれる祖母の手が優しくて、うん、うん、うんと遥は何度もうなずいた。



「――それが、長距離を見るようになった、きっかけってことね」

 仁美が言うと、遥は静かにうなずいた。

 周回表示器は十二。

 遥の話を聞いている間に、集団からはぽろぽろと選手がこぼれて、半分以下の七人になっている。先頭をひっぱっているのは、南海電力の中西。戸田はかわらず集団の前方にいて、前から三番目を走っていた。

「手術は、どうなったの?」

 声援にかき消されそうになりながらも仁美の声は聞こえたようで、遥はぱっと顔をほころばせた。

「成功しました、願かけのおかげです」

「――そう。よかったね」

 目の前をまた集団が通過していく。さらに一人が遅れ、人数は六人。

「戸田、ねばってますよね」

 自分に言い聞かせるように遥が言った。

「ねばりは戸田の持ち味なんです。大学四年の最後の箱根、湘南大は一区で出遅れて、二区の戸田は十八位でたすきを受けた。そこからがすごかった。今でも、アナウンサーの実況まではっきり覚えているくらいです」

 仁美も覚えている。

『ごぼう抜きです。前半から恐ろしいペースで入りましたが、後半もペースを落とすことなく冷静に走りきりました。チームを三位にまで押しあげた戸田、これがエースの走りです』

 興奮したアナウンサーの声を聞きながら病室を後にした、あの時のことを。

「でも三位でしょ。一位にはなれなかったじゃない」

「あの差なら三位までいけただけで、十分だと。あ、――また一人、落ちます」

 集団の後方で苦しそうにしていた選手が少し離れたかと思うと、あっというまに差が開いていく。

 残り、五人。

「これってペースがあがっているってこと?」

「中西選手、彼がロングスパートをかけてるんです」

「スパートには早すぎじゃない」

「それが、そうとも言えなくて」

 今、残っている五人のうち三人はスピードタイプのランナーで、ラスト勝負に持ちこめば勝機がある。対する中西はイーブンペースでがんがん押していくタイプ。裏を返せばスピードには欠けるから、勝つには、出来るだけ早くロングスパートを仕掛ける必要がある。

 遥の説明を聞いているうちにまた一人ふり落とされて、とうとう集団は四人になった。

「戸田にとっては自己ベストを超えるペースなので、ここで無理をしてでもくらいつくか、自分のペースでいったん離れるか、それとも自ら仕掛けにいくか……どちらにしても、厳しい展開です」

 遥は手をぎゅっと握りしめた。

「じゃあ、どうすると思うの?」

 仁美がそう聞くと、彼女はためらうように口ごもり、しばらくして言った。

「それは、仁美さんのほうがわかってるんじゃないですか」

「え?」

「だって、よく知っているんでしょう?」

 どうして、と仁美は目を見開いた。

「――ごめんなさい。ここに座ろうと思ったのは、初めから仁美さんの顔に見覚えがあったからなんです。でも、だいぶ前に写真で見たことがあっただけだったから確信はなくて」

「写真、て?」

「箱根駅伝の特集番組で、インタビューの時に戸田の寮の部屋が写っていたんです。そこに写真が飾ってあって」

「よくそんなの覚えてたね」

 仁美がため息をつくと、録画して何回も見てましたから、と遥は気まずそうに言う。

「でも、隣に座っていろいろ話しているうちにやっぱりそうだって思って。チケットのことも」

「チケット?」

「招待券をもっていたでしょう。陸上関係者にも見えないし、きっと誰かからもらったのだろうと」

 あぁ、あの時か、と仁美はチケットを落とした時のことを思い浮かべた。

「あとは、戸田のことやっぱりすごく詳しかったから。知らないって言っていたけれど、さっき話をしている時も、最後の箱根で三位になったってこと知っていたでしょう」

 そうだったかな、と仁美は会話をふり返ってみて苦笑する。

「――とっくにバレてたのか」

 すみません、と遥が頭を下げる。

「隠す必要なんてなかったのかな。でも、気まずくて」

「そう、ですよね。走れなくなったとか、失礼なことばかりすいません」

 謝る遥に、そういう意味じゃないよと仁美は首をふる。

「応援している人の隣に、そうじゃない人がいるっていう状況が気まずかっただけ」

「そうじゃない人、って――」

 あのさ、と仁美は強引に遥の言葉をさえぎった。

「さっきの話。戸田がここからどういうレースをするのかはわからないけど、自分から仕掛けることはないな。それだけは絶対にない」

「どうして、ですか?」

「だって、小さい頃から性格はよく知ってるしね。もうわかってると思うけど、戸田は私の」

 仁美は大きく息をすいこむ。この言葉を口にするのはひどく久しぶりで、そうしないと喉につかえてしまうような気がしたからだ。

「――兄だから」


 お兄さんはどんな人?

 一歳上の兄について聞かれるたび、仁美はこう答えていた。

 すごい怖がりでした、と。

 小さい頃の記憶のなかの兄は、いつも泣きながら走っている。いじめっ子に意地悪されて、子犬に追いかけられて、お化けがいたと言って。

「たすけて!」

 そう言って猛ダッシュで逃げてくる兄を見て、母はしょうがないなぁという顔をして、それから両手を大きくひろげてにっこり笑う。

「おいで、シロウ」

「シロちゃん、こっち」

 母と仁美の姿を見て、いっそうわんわん泣きながら兄はまっすぐに駆けてくる。仁美と母は大笑いしながら、兄が飛びこんでくるのを待つのだった。

 そんなわけで、兄は昔から逃げ足だけは速かった。

 けれど成長するにつれ速いのは逃げ足だけではなくなり、小学校、中学校と俊足を伸ばしていった兄は、とうとう名門高校陸上部に入ってしまった。

 その頃になると、寡黙なエースなんて呼ばれるようになって、泣き虫シロちゃんがすっかり影をひそめてしまったのは寂しかったけれど、やっぱり誇らしくて、大事な大会の時には必ず母と二人で応援にいった。

 スタート地点で仁美と母の顔を見つけると、その時だけ兄はすごく安心したようにくしゃりと泣きそうな顔をする。

「ああいうところは、かわってないね」

「うん、ぜんぜん変わってない」

 仁美と母がくすくす笑いあっているうちにレースが始まるのは、いつものことだった。

 スタートから先頭に飛び出し、風をきって兄が走る。

「シロちゃんいけぇっ」

「がんばれ、シロウ」

 仁美と母が応援する。

 それは恐ろしいくらいにあたり前で、ずっといつまでも続くのだと思っていた。終わりを考えたことさえなかった。

 あの冬までは。

 母の病気がわかったのは、兄の湘南大学への進学が決まり、仁美が高校二年の、冬のことだった。

 最初、母が体調を崩して数日間の検査入院をすることになった時、そこまで深刻なことではないと思っていたように思う。

 ただの過労だと思うんだけど念のために検査してもらうね、という母の言葉を疑いもしなかった。それとも、無意識に考えるのを避けていただけだったのだろうか。

 検査結果が出た日は、雪が降っていた。

 まっ白な雪が深く深くつもって、キーンと凍る空気のなかを、兄と何度も転げそうになっては、笑いあいながら病院まで歩いた。

 母と合流して、通された診察室は少し過剰なくらいに暖房がきいていて、暑すぎない? と言おうとしたところに医者がやってきたので、仁美は口をつぐんだ。

「――治ることはありません……進行を遅らせるためには今後の治療方針が、……これからいつまで……」

 説明を聞きながら、仁美は窓の外を見ていた。

 診察室の窓のすぐそばに大きな木が植わっていて、ときどき裸の枝からバサァ、バサァと雪が地面に落ちていく。

 悪い夢のなかに自分だけ取り残されたような気がして、けれどぜんぶが本当のことだと仁美にはわかっていた。

隣では、兄が顔じゅうの筋肉が固まってしまったかのように表情をなくし、母だけがしっかりとあいづちをうっていた。

「これから先のことを話しましょう」

 無言のまま戻った病室で母がそう言った時、仁美は当然のように兄が湘南大学への進学を取りやめることになるのだと思った。関東の大学で寮生活になれば、めったに家に帰ってこられなくなる。母のそばを離れてまで兄が行くはずがない、と。

 しかし母に、行きなさい、と言われた兄は、しばらく黙ったあとでうなずいた。

 病室を出てから、仁美は兄にくってかかった。

「どうして。お母さん本当はそばにいてほしいって思ってるに決まってるじゃない。なんでわからないの、行かないでよ」

 逃げるんだ、と仁美は思った。

 やっぱり昔から変わってない。泣き虫で怖がりで逃げてばかりのシロちゃんはお母さんと私を置いて遠くに逃げるんだ。

「わかってるよ。それでも……」

「わかってない!」

 どれだけ言っても兄の考えが変わることはなく、兄は家を出ていき、それから仁美は兄のレースを見なくなった。

 忙しかったということもある。母の病室に通いながらの受験勉強、地元大学の看護科に合格してからの実習や課題の山。仁美は毎日必死だった。

 けれど、母はいつも見ていた。

 病室のベッドの上で、一時帰宅したリビングで、どんなに体調が悪くてもテレビやインターネットで見ることのできる大会は必ず見て、画面の向こうへ声援を送っていた。

「みとちゃん。シロウ、すごく頑張ってたよ」

 レースが終わったあと、母はとても嬉しそうな顔で言う。

「そう」

 短く答えるのが仁美の精一杯だった。

 だから、仁美がレースを見たのはたった一度きり。兄が大学四年の箱根駅伝だけだ。

 その年末から母親の容体は目に見えて悪くなっていた。もうベッドの上で起きあがることさえできない、そんな状態でも母は兄を応援したがった。

 母に付き添っていた仁美はベッドの傍らで、四年ぶりに兄のレースを見ることになった。

 一区で十八位と大きく出遅れた湘南大学。

 兄は、昔から追いかけるのがあまり得意ではない。つい余分な体力を使ってしまうと言っていたのをいつか聞いたことがあった。そんな不利な展開で、先頭まで上がるのは難しいとわかっていても、それでも仁美は母のために祈った。

 お母さんに一番になったところを見せてあげて。

 シロちゃん、お願い。お願い。

 結局、兄は追い上げむなしく三位で終わり、湘南大学は勢いに乗れず、その後は順位を落としていった。

 その結果を母はどう思ったのか、仁美が知ることはなかった。

「――どうして一番になれなかったの」

 母の死の知らせを聞いて、飛んで帰ってきた兄に仁美は言った。

「なんでよ。お母さんあんなに応援してたのに。一人で逃げたくせに、せめて一位にくらいなってよ」

 兄は無表情だったけれど、とても悲しい顔をしているのが仁美にはわかった。わかっていたからこそ、言葉はとまらなかった。泣きながら仁美がまくしたてるのを黙って聞いていた兄は、最後にたったひと言だけつぶやいた。

 ごめん、と。

 九州の実業団に入部が決まっていた兄とは、母の葬式のあと会うこともなく、直接連絡をとることもなかった。

 それから四年以上がたって突然、兄からの郵便が届いたのが、一週間前。

 封筒に入っていたのは、この大会のチケットだった。



「――あのチケットは私と、それから、母の分なんだと思う。なんで今さら兄がこんなものを送る気になったのかはわからないけれど」

 仁美の話がようやく終わったのを感じて、遥はふっと息を吐いた。

 レースは残り五周を切っている。

 集団はまだ四人。引っぱっているのは中西、そのすぐ後ろに戸田。

 中西への声援はますます大きくなり、熱気と緊張とが競技場にさざ波のように広がっている。

「――私には、わかる気がします」

 騒音に負けないように顔を寄せると、仁美はこちらを向いて目を見開いた。

「どうして?」

 遥はそれには答えず、別のことを聞く。

「戸田に退部の噂があると言ったのを覚えてますか?」

「覚えてるけど」

「あれは、本当なんだと思います。これは退部がかかったレースなんです」

「それがどうしたのよ」

「これまで、大事なレースの時には必ずお母さんと仁美さんが二人で見に来てくれていたんでしょう。だから、今日も来てほしかったんですよ」

「そんなの、来るなんて限らないじゃない」

「来てくれるとは思ってなかったのかもしれません。それでも送らずにはいられなかった。きっと、それが彼のお守りだったから」

「――お守り?」

 仁美が眉をよせる。

「私、どうして彼が走れなくなったのか、仁美さんの話を聞いてやっとわかった気がしたんです」

 遥は戸田の寮の部屋に飾ってあった、戸田と母親と妹との家族写真を頭に思い浮かべる。

あの特集番組では、母親が闘病中だということにも少し触れられていて、だから余計にその写真が印象に残っていたのかもしれない。

「願かけをしていたのは、私や仁美さんだけじゃなかった。戸田自身もそうだったんじゃないかって」

――一番でたすきがつながったら、おばあちゃんの病気は治る。

 必死になってテレビ画面を見つめていた、いつかの自分の思い出しながら、遥はゆっくりと言葉を続けた。

「自分が走り続ければ、いい結果を出せば、お母さんの病気は治る。彼はそのことをずっとお守りのようにして、走っていたんじゃないでしょうか」

 母さんの病気はよくなる。みとと二人で、ゴールで待っていてくれる日が来る。絶対に来る。

 そう信じて、彼はずっと走っていた。

 きっと、そうだ。

 あの時も、あの時も、そうだったんだ。

 平然とたんたんと走っているように見えて、いつも自分の限界ぎりぎりのところで走っていた戸田。

 これまでに自分が見てきた数々のレースの彼が、一瞬のうちに頭の中を走り抜けていき、遥はふるえそうになる唇をぎゅっと抑えつけて言った。

「けれど、願かけはかなわなくて、だんだん走れなくなって……。これが最後になるかもしれないというときに、どうしても見にきてほしかったんですよ」

 仁美は黙って、ただトラックをにらむように見つめている。遥が最初に話しかけた時のように。

 スタンドで仁美を見つけたとき、遥は驚き、それから怖くなった。

 家族が応援に来ていることなんて、これまでなかったからだ。

 やはり引退の噂は本当で、これが戸田の最後のレースなのではないか。そう思うといてもたってもいられなくて、無理やり仁美の隣に座って話しかけることにした。彼女が何も知らないなんて、知らずに。

「だから、戸田は決して逃げていたわけじゃないと思います」

「そんなわけない、逃げたのよ。走ってさえいれば周りに認められて、遠くにいる家族のことだって忘れていられて――」

 仁美は言葉を切ってうつむく。

 遥はその横顔に向かって、そっと口を開いた。

「逃げているようになんて見えたこと、なかった」

 戸田の走りは、ずっと遠く、届かないところにひたむきに手を伸ばし続けるような、自分も手を伸ばしたいと思わせてくれるような、そんな走りだった。

 初めて見た時から、ずっとそうだった。

「私は見ていただけだけど、でも、わかります」

 そうだ。どんなレースでも、どんな結果でも、これまで戸田はいつもまっすぐ前を向いて走っていた。それをこれまでずっと見てきた私が、彼を信じなくてどうするんだろう。

 遥はぐっとトラックへ身を乗り出す。

 大丈夫、今日は最後まで自分の走りができる。

 そう心の中でつぶやいた時、小さな声が耳元で聞こえた。



「逃げたんじゃないって、本当はわかってた」

 ぽつりとつぶやくと、その言葉は初めからあったかのように、するりと仁美の胸に落ちた。

「だって、母をずっと支えていたのは兄の走りだったのよ」

 兄がレースでいい結果を出すと、母はとても喜んでいた。その時だけは、まるで二人で応援していた頃のような笑顔で。

 ――息子さんの快走が支えになっていたんでしょうね。

 母が死んだ後、たくさんの人がそう言っていた。それを聞くたび、何も知らないのに適当なこと言わないでよ、と仁美は怒っていた。

 本当は何に怒っていたのか、今ならわかる。 

 自分にだ。

 無力で役立たずの自分に。

「私は頼りなくて、自分のことだけで精一杯で、母が苦しんでいるのをただ見ているしかなくて」

 母のいない生活は思った以上に大変だった。それに加えて少しずつ進行していく病状。病院に行くと母の顔がぞっとするほど衰えて見えて、そのまま帰りたくなる時もあった。

 それでもあきらめの底で期待も捨てきれず、何度も何度もそこから突き落とされてはひとりで泣いた。

 兄は逃げたりなんかしていない。

 逃げたかったのは、自分のほうだ。

 それを認められないまま、これまでずっと兄のせいにしてきたのだ。

「そばにいたのに、私は何もしてあげられなかった」

 うつむいたままの視界に、すい、と影がさした。

遥の白い手が、握りしめた仁美の手にそっと重なる。

「私もそう思っていました。何もできない自分がすごく情けなくて……でも。いてくれるだけでいいんよ、一番の支えになるんやよって、おばあちゃんは何度も言ってくれたから。きっと、お母さんも同じように思っていたんだと思う」

 そうだったんだろうか。

 あの病室で何もできずにただ過ぎていった時間は、本当に母を助けていたんだろうか。

――俺が走れるのだって、みとがいつも母さんのそばにいてくれるからだ。

 不意に兄の声が聞こえた気がして、仁美ははっと目をトラックに向ける。

 その瞬間、大声援があたりを震わせた。

 レースが動いたのだ。

 南海電力の中西が飛び出し、あとの三人は懸命に前を追おうとするが、少しずつその差は開いていく。

 残り二周。

「ねばって」

 遥がつぶやくのが聞こえた。

 独走する中西。三人のうち二人は完全に遅れ、勝負からはじき出された。

 一番小柄な選手だけが五メートルほどの差でなんとか踏みとどまっている。

「……シロちゃん」

 兄はあいかわらずの無表情でたんたんと走っている。

 最後に備えるためか中西のペースがやや落ち、わずかに距離が縮まった。

「ねぇ、まだ、いけると思う?」

 どうしたらいいのかわからなくなって仁美が隣を向くと、遥はただ祈るような目でトラックを見つめていた。

――このままじゃ追いつけないんだ。もうだめなの、あきらめるしかないの。

 こんな時に、ただ見ているだけなんて。

「せっかくチケットを送ってもらったのに、私はなにも――」

 その時、遥とぱっと目があった。

 見つめあって数秒、仁美の揺れる視線を受け止めた彼女は、そのあと突然ふっと空を見上げた。

「――旗」

「え?」

「運動会の時によくかかっている、万国旗、あるでしょう。私、小さい頃、あんなのいらないって思っていたんです。でも、祖母に違うって言われました。あれは全部、私たちを応援するためにかかっているんだって。ここには、いらないものなんてなにひとつないんだって」

 祖母の言葉を、彼女は空にふわりと放っていく。

「旗はな、応援するためのものやから。何もしてないみたいやけど違うねんよ。ばかにしたらあかんで。いらんもんなんて、ここにはないんやから――そう言って。その日、私は初めて徒競走で一番になりました。空いっぱいの旗は、確かに私に力をくれたんです」

 仁美は空を見上げた。

 白い霧はいつのまにか晴れ、濃紺の空には無数の星が小さく輝いている。その夜空一面にたくさんの旗が風にはためくのを、仁美はたしかに見た。

 カンカンカン

 終わりを知らせる鐘が鳴る。

 ラスト四百メートル。

 兄のペースがあがる。少しずつ、でも確実に中西との差はつまっている。

 まだあきらめていないのだ。

 差がつまるにつれ、更にペースがあがっていく。

 あと四メートル。三メートル、二、一……とうとう追いついた。

 二人で雪崩れこむように最後のカーブを曲がった瞬間、兄がスパートをかけたのがわかった。

 直線勝負。

 すぅと隣で息を吸いこむ音が聞こえる。仁美も同じタイミングで吸って、その時を待つ。

――みとはほんと声だけはおっきいよな。だから、みとの声だけはいつだってわかる。

 兄が目の前にさしかかった瞬間、仁美たちは力いっぱい叫んだ。

「戸田、ラスト―――」

「シロちゃん、いけ―――っ」

 兄が頭ひとつ前にでる。

 中西も離れない。

 ラスト三十メートル。

 最後の力を振りしぼって中西が並ぶ。

 競技場全体が息をのんで見守るなか、ゴール手前で相手を振り切り先にゴールに飛びこんだのは、兄だった。

 優勝タイム二十七分四十八秒、自己ベスト更新。

 力を使い果たしたんだろう。

 走り終えた兄は、そのままそこに座りこんだ。あとからゴールしたチームメイトがかけより、ぽんぽんとその頭をはたいている。

「戸田、笑ってます」

 遥の声に、うん、と仁美はうなずく。

「くしゃって泣きそうな顔で、でも笑ってます」

 うん、うんと仁美は何度もうなずく。

 泣き虫シロちゃん、やっぱり変わってないね。

 今すぐそう言いに駆け出していきたかったけれど、もう少し待ったほうがよさそうだった。

『みとのほうが泣き虫だろ』

 こんな顔で行ったら、絶対そう言われるにきまってる。

 

 

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