胃腫瘍の切除

上月 明

 

  平成二八年の八月に人間ドックで胃に腫瘍があることがわかった。自覚症状は全くなかった。まだ悪性になっていないが、将来的には悪性に進行する可能性が高いと医者から聞かされた。内視鏡が今ほど発達していなかった時代は、経過観察で様子を見て、悪性になった段階で、開腹して腫瘍を取り除いていたと医者は語った。

 今は、医療機器が進歩しているので、開腹せずに内視鏡で切除できると言う。さらに医者は、「腫瘍を取った方がいいと思いますが、どうされますか」と、問うてきた。

  考える余地なんかない。医者が、切除した方がいいと言っているのに、思案する必要はない。何事にも早期発見、早期治療の言葉が頭に浮かぶ。

 医者の言葉に違和感を覚えた。腫瘍を切除した方が良いのなら、「切除をしましょう」と医者が言えば、それで決まりなのに、患者に問うてくるのは、あくまで患者が判断をするという主旨を窺い知ることができた。これも時代の流れなのかもしれない。

  入院期間は、七日から一〇日間。四〇数年働いてきて、入院で一週間以上休んだ記憶がない。今も現役で働いている。一週間以上休むとなると、その間行事予定がなく、休んでも仕事に支障をきたさない期間はないかと、日程の書かれた手持ちの手帳を見つめた。もちろん病院側の都合も考慮する必要がある。

 両方が適合する期日を見つけた。一〇月三十一日入院である。

 ところが、ひとつ思案することがでてきた。入院する期間が月を跨ぐために、医療費の月ごとに申請をする高額療養費支給要件に、合致しない可能性が出てきた。

 ネットで見ると、入院費用は、約十四万から十五万円とある。入院初日の三十一日が手術日となるため、一〇月と十一月が、各月七万から八万円となる。月の高額療養費の対象となる自己負担限度額が八万円程度なので、超えた金額分が支給される。

 高額療養費が支給されない問題が出てきた。職場の行事日程を優先し、支給される約七万円を捨てるか、思案のしどころとなった。

 入院日を遅らせても、日程的に都合が良い日はない。無理して同じ月内に入院しても、職場の仲間に迷惑をかけることになる。当初のとおり、入院することにした。

 入院予約を入れたときに看護師が、「月を跨ぎますがよろしいですか」と問うてくる。医療費が月を跨ぐために、高額療養費手続きのことを言っているのは推察できた。考えた末での決定のため、「それでお願いします」と言った。

 また、病院から提示された同意書には、『処置中および処置後に見られる、大きな偶発症には、穴があく。出血があります。偶発症が生じた場合は、輸血や外科処置を含めた最善の処置をします。担当医師が必要と判断した場合は、その措置を施行することに同意します』と書かれていた。同意書にサインと押印をして提出した。

 

  平成二十八年十月三十一日入院し、胃の腫瘍を切除するために、内視鏡的粘膜下層切開剥離術を行うことになる。難しい言葉が続いているが、簡単にいうと、内視鏡を用いて、胃の内側から、腫瘍の根元部分に液体を注入して、腫瘍を浮き上がらせ、腫瘍の底部分を内視鏡の先に仕込まれたメスで剥ぎ取る手術である。

 前日の午後九時以降から、水も飲まず、食事もせず、空腹で来院した。病院の受付で予約票を見せると、検査室に案内され、採血とレントゲン撮影をされる。そして四人部屋の病室に案内され、病院から渡された検査服に着替えてから、右腕の血管に点滴用の注射針を刺された。

 しばらくしてから、担当医からの呼び出しがかかり、点滴液を血管に垂らしながら病室のベッドに乗せられ、内視鏡検査室に運ばれる。「歩いて行けますが」と伝えたが、「術後に必要ですから」と看護師に言われ従った。

 内視鏡検査室に入ると、胃カメラ検査用のベッドに移される。担当医が顔を見せ「今から始めますから、よろしく」と言われて、口にマウスピースを噛まされたまでは覚えているが、その後、気がついたときは、手術も終わり病室のベッドに寝ていた。

 看護師が様子を見に来たので、「麻酔の注射をされた記憶がないんですが」と聞いてみると、「点滴管から麻酔薬を入れました」との返事に納得できた。「手術にかかった時間は」の問いに、「正味三〇分くらいです」と応えた。短い時間を考えると、手術が無事に終わったんだと、安堵の気持ちになった。

 それだけを聞いただけで、身体が重く感じ、また眠ってしまった。それから、術後三日間は、何も口に入れることはできないことになっていた。

 毎日、「お腹は痛くないですか」と医者や看護師が覗きに来る。言われるたびに、どう応えていいのか迷った。胃には違和感があったが、それが術後の痛みなのか、空腹による違和感なのか判断が難しかった。とりあえず「大丈夫です」と応えた。

 点滴はしていたものの、三日間は少しの水分を取ることが許された。何も食べられない空腹に、耐えるのは辛かった。生まれて六〇年あまり、三日間、何も食べ物を口に入れない経験は初めてである。ただ空腹に耐えるしかなかった。

 ようやく四日目に、三分粥が出てきた。術後初めて、胃に物を入れる不安な気持ちを、押し殺すようにして、ゆっくりと三分粥を何回も噛んで、咽の奥に流し込んでいった。四日目に五分粥が出てきた。点滴針も腕から外された。

  病院の中では、ほとんどが安静にして寝ているだけである。時間の無駄をなくしたいと、入院するときに読書の本、それにノートに赤のボールペンなどを、バッグに入れて持ってきていた。

 点滴の針が腕に刺さっているときは、身体を自由に動かせず、読書やノートに書き物をするのが苦痛であったが、点滴の針が外れると、自由に寝返りができるようになり楽になった。

 読書本は、石原慎太郎作の『天才』である。田中角栄の生涯が書かれていた。二〇一六年上半期ベストセラー、総合第一位と書かれた帯に魅せられた。また、高等小学校卒の庶民宰相田中角栄の、偉大さを知りたくて買ってきた。

 また、『せる104号』に作品を提出するために、ストーリーを頭に浮かべて、ノートに書き写した。家なら直接パソコンに打ち込めるのだが、病院のベッドの上ではそうはいかない。ノートに書いた物を、赤ペンで修正し添削もした。退院してからパソコンに打ち込むという、二重手間になるがやむを得ない。時間をもてあました環境の中に、いればこそできるやり方である。

 七日目に、胃カメラの検査をした。手術の経過は順調とのことだった。この時点では食べ物は全粥で、胃に違和感はなくなった。手術当日も含め、入院して八日目である。今日までしか、職場には休暇届を提出していなかった。

 入院して九日目の朝、職場に電話をし、今日も休むことを伝えた。担当医が部屋に覗きに来たので、退院日を聞いたが、「明日でも退院してもいいですよ」と言ったので、「今日の昼から退院してもいいですか」と聞き返したら、担当医はうなずいてくれた。一ヶ月後に受診の予約を入れて、十四万八千円あまりをクレジットカードで支払い、退院となる。

 

 

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