波切(なきり)の砦

西村郁子

 

 

 終点の大王崎バス停にバスが着くと三木久美子は赤いリュックを背負ってステップを降りた。三、四歩歩くとドアが閉まり、バスは砂ぼこりを立てながら大きな弧を描いてもと来た道を走って行った。バスの姿が見えなくなってもなかなかその場から動かない。リング綴じのノートを開くと一枚の写真を取り出した。写真の向きを変えたり、かざしたりして、ひとり頷くと堤防のある海の方へ歩き出した。

 堤防ちかくの別れ道に立ち左右を確かめる。左へ行けば大王崎灯台につづく道で右へ行けば集落へ入って行く道である。集落の道を選んだが、またすぐ分岐をくだると古ぼけた民宿が建っていた。民宿の玄関先には一様に潮やけして色あせたバケツや台車、竿や網、レトロな乳母車まで置いてある。

 すっと足を前に出した瞬間、久美子の頭に職場の風景が突如浮かんできた。平日の午後、営業部のほとんどが出払って数人しかいない部屋。眠気さましにコーヒーを淹れに席を立つころだ。久美子はその映像を振り払うかのようにかぶりを振った。

 

「すいません……」

 大声を出したつもりが長い廊下に音を吸収されるのか少しも響かない。赤いリュックを肩から降ろすと久美子は軽く腕をまわした。

「すいません」

 今度は最大の声を張って中に呼びかけた。

 民宿の玄関には大きな油絵が何枚も飾られている。ここ波切という漁村が別名絵描きの村として有名なことはあらかじめ調べて知っていた。さっきの写真をもう一度みた。大きなキャンバスの前で絵具まみれのシャツを着た高校生の女の子が絵筆を掲げて笑っている。彼女の背景に写っているのがこの民宿「もへじ屋旅館」だった。

 ようやく廊下をスリッパですって歩く音が聞こえてきた。でてきたのは六〇がらみの女だった。化粧気がなく髪も肌も玄関先のバケツのようにすくんで艶がない。

「電話で予約しました三木ですが」

「ああ、七泊なさられる方やね。まあ、何しにここにそんな長くおられるの」

 宿の女は宿帳を差し出しながら訊いた。

 それを受け取り、同じ質問を上司にもされたことを思い出しながら書き込んでいく。

「趣味で郷土史や歴史を調べてるんです。ここは南北朝時代から江戸時代まで興味深いことがあると知りまして、実際に来て調べてみようと」上司に説明した言葉を繰り返した。

「そうですか。そしたら料金は先払いでいただいとりますで」まるで久美子の返事には興味を示さず帳場の内側に回った。

「わたしの母が高校生のとき、ここで美術部の合宿をさせてもらったんです」

 久美子は支払いを終えると宿の女に持っていた写真を見せた。

「そうですか。できれば女のおひとりさんは泊めたあないんやけど、お母さんの代からのご縁やったらねえ。そしたら安心でええですわ。前に女のひとり客を泊めて夜中えらい騒ぎになったことがあったもんやから」宿の女は急に愛想をよくして話し始めた。それを聞きながら、女のひとり旅は傷心旅行という考えを今もされていることに驚いた。上司も有給届を受け取ると、「お前大丈夫なのか」と訊いてきたのだった。久美子が同じ営業部の男と付き合っていることを知っていた上司は、先月その男が別の女と結婚したことを言っているのだ。男との交際は半年まえに終わっていた。再三のプロポーズを久美子が断り続けたことが原因だった。男が怒って去って行ったことに多少の申し訳なさはあったが、社内の噂では久美子が振られていたことになっているとほどなくして知った。

「夕食は六時に一階の大広間です。夏休みも終わったんで、お客は二人しかおらんもんでな、シャワーは男湯女湯使えるけど、風呂は女湯一つしか沸かしてないんで鍵かけて入ってください」

 そう言うと、帳場の窓からぬっと鍵を渡された。

 二階の部屋の畳は焼け、壁もヤニで黄ばんでしまっている。布団はすでに敷かれており、六畳の部屋を布団をなぞるように歩いてみた。

 夜中にえらい騒ぎになった女のひとり客のことを考えた。もしかしたら、それは十五年前家をでたきり音信のない久美子の母親ではなかろうか。いや、もしそんな騒動を起こしたなら、家に連絡が来るはずだと久美子は即座に打ち消した。

 久美子が大学生のとき、母の美千代は失踪した。前の日まで普段通り生活していたのに何の痕跡もなく家からいなくなった。父も母方の祖父母も誰も何も知らないと言う。わずかな荷物や自分の預金通帳を持ってでているので事件や事故ではないというのがみんなの見解だった。

 夜半になり急に窓ガラスを激しく叩くような雨風が吹き出した。久美子は部屋で資料をみながら横になっているところだった。刺身や煮魚と美味しい料理でお腹がいっぱいだ。夕食のとき大広間には久美子しかいなかった。宿の人からは泊り客はふたりだときかされていたので変だなあと考えていたら、バシッと音を立てて電気が消えた。窓の外の明かりも全部消えている。こんなときに限ってトイレに行きたくなるものだ。トイレは部屋をでていちばん奥まで行かなければならない。携帯についているトーチを点けて足元を照らしながら廊下にでた。久美子の部屋のある二階は片側が客間で廊下はまっすぐ奥まで見渡せる。床を軋ませながら歩いていると突然ひとつの客室の戸が開いた。

 きゃあ、わあ、と、どちらも声をあげた。相手の携帯のトーチを顔に向けられたので同じように相手の顔を照らすと暗闇に若い男の顔が現れた。

「驚かしてすみません」そういうとにっこり笑った。若い男の笑った顔は甘い顔をした俳優の誰かに似てると思った。お互い何も言わなかったが一緒にトイレに行き、トイレから一緒に部屋に戻ってきた。若い男は久美子の部屋の前まで送ってもくれた。

 一時間が過ぎても停電したままだった。

 コツコツと部屋の戸がノックされた。黙っていると戸の向こうから若い男の声がした。

「まだ起きてらしたら、廊下のテーブルのところで一杯やりませんか」

 部屋の前から立ち去る気配がした。久美子は「はい」と小さく返事をした。戸の向こうも立ち止まった。

「じゃ、テーブルのところで待ってます」と言い歩き去っていった。

 久美子は着ていたパジャマを急いで脱ぎ、昼間着ていた服に手を伸ばしかけたがそれをやめて、暗がりの中でリュックからタンクトップとスカートとカーディガンをひっぱりだした。緑のタンクトップにクリームの色のフレアスカート、カーディガンは生成りだったはずだ。素足にスリッパを履いて廊下にでたのはノックされてから十五分は経っていただろうか。

 突き当りにロウソクの炎が揺らめいてみえる。氷とグラスが触れて高い音がなった。近くまで寄るとウイスキーの香りがした。

「ウイスキーだけど大丈夫ですか? ビールがよければ下に行って買ってきますけど」

 大丈夫ですと言おうとして、「だいぶるです」と噛んでしまった。久美子は額に手を置いて目を瞑った。

「ダブルですか、強いっすね」とグラスにウイスキーを注いでくれている。

 グラスを久美子に差し出すときに一緒に名刺を渡してくれた。

「こんな大きなロウソクって久しぶりに見た気がする」

 受け取った名刺を読むためロウソクに近づけた。若い男の名は川島毅と書いていた。名刺に印刷された名前の上に画家とある。デザインはおそらく本人の作品なのだろう棟方志功のような女の顔がカラフルな色で描かれていた。

 口開けだったウイスキーのボトルが三分の一になった頃、久美子は川島に自分のことをいろいろと喋ってしまっていた。年下だと思っていたが、川島は同じ歳の三五歳だった。その共通点が心を許したのかもしれないが、ついさっき知り合ったとは思えないくらい親しみを持ってしまった。

「じゃあ君は、江戸時代にあった波切騒動について詳しく調べにきた以外は、つまりそのお母さんを探すという目的はないわけだね」

 こくりと頷いたが、川島には誰にも言っていない本心が口をついて出そうだった。

 久美子がここに来ようと思ったのは、書店で偶然見つけた文庫本が動機だった。カルチャーセンターの講座の郷土史・歴史を調べてまとめる課題に選んだのだ。

 でも、波切に強く惹きつけられたのは母にゆかりの深い土地であったからだと思う。ここに来れば、これからのことに答えが見つかるかもしれないと。

「ぼくはね、絵を描きながら日本全国を旅しててね、季節ごとに仕事がもらえる場所に移動してるんだ。最初は『ジャケバイ』って言われてる冬場に鮭の缶詰工場で働いてたんだけど、もっとちゃんとしたって言うか、コミューンがあることが分かったんだ。そういうのって結構いっぱいあるんだよ。知ってた?」

 知らないと首を振った。

 川島は東京の芸大の絵画科を出て、絵を描きながら日本全国旅をする放浪画家になろうと決めたのだそうだ。

「ぼくは絵だけを描いて生きていきたいと思った。そりゃ生きていくための最低限の金は必要だけど、みんながするから就職して、みんながするから結婚して、みんなが作るから子どもを作る。なんて全然やりたい事じゃなかった。ぼくの親はそういうことに疑問を感じる人たちじゃなかったから、自分の息子も大学出たら就職、結婚と進むものだと信じて疑ってなかっんたんだよね。だから十数年家には寄りついてないんだ」 

 久美子は川島の話を聞きながら、自分のめざす生き方に近いような気がした。もっとも、放浪がしたい訳ではなく、したいことだけをして生きる生き方にだ。

「君には大きなお世話かもしれないけど、ここの本棚にはね、合宿で訪れた高校や大学の個別の連絡帳があるんだよ。君のお母さんの高校はなんていうの」

 川島は立ち上がって本棚に携帯のライトを照らしている。

「母の高校は大阪府立K高校です」

「Kだね、あった! どうする、読んでみる?」

 手渡された大学ノートの表紙にはK高校美術部とマジックで太書きされていた。中にはK高校生のみならず、OBもコメントを書き残している。身内以外読まないと思っているのか、伝言板的要素があるのか誰も彼も無防備な書き様をしている。それは電話番号を書いていたり住所を載せていたりということだ。確かにどこのページを読んでいても、さっぱり意味がわからなかった。もうノートを閉じようかと思って一枚ページをめくったとき、書き殴りのような激しい筆跡で埋め尽くされたページが現れた。久美子が固まって動かなくなった。手に汗が滲んで体もガタガタと震えてきた。川島が様子に気づいて声をかけてきた。久美子は言葉もでてこなかった。心配した川島がとなりにやってきた。

「どうしたの、酔っぱらったの」川島が久美子の背中を掌でさする。

「お母さんがきた」久美子は開けたノートのページを川島に向けた。殴り書きのページには、

――久美子ごめんね! 許して! 

という文字がノート一面に書いてあった。

 

     *

 

 三木茂は、朝六時にけたたましく鳴る固定電話のベルに起こされてそのまま起床した。今は自宅一軒屋の庭にでて日課である草花の水やりをしている。水道栓に直接繋いだビニールホースを引きずり、ホースの先に取り付けた金属性のジョウロから時に盛大に、時に繊細に水をかけている。茂がその動きを止めたのは、紫色の花の前だった。真下に向けられたじょうろの水が茂の周りを水たまりにしていった。

 春先から次々に咲いている庭の花の中にテッセンがある。その紫の花弁がつる状の茎の上でゆらめいているのを茂は凝視していた。茂の見ているのは花、そのものではなく、焦点は花のもっとずっと奥をみていた。早朝、電話をかけてきたのは娘の久美子だった。行先も言わず旅行にでたのは昨日のことだ。

『ナキリに来てるんだけど、お母さんがここに来てたみたいなの』電話の向こうで娘がこう言った。ナキリって何だと茂は思った。『お前どこからかけてる?』と返した。  

 茂にいらついている娘の呼吸が伝わってくる。ようやく、娘がいる場所が波切で、泊った宿にあったノートに母親である美千代が書いたかも知れないページをみつけたということを聞き出せた。

 なぜ、いまになって娘は母親に会いに行ったのだ? その前になぜその場所が特定できたのか? 目の前にあるテッセンの花を凝視しながら、茂の心は過去と今を行き来していた。妻の美千代は家をでてから何の音沙汰もない。住民票はここに残ったままだった。この時代に住民票もなく働いたり、家を借りたりするのは非常に困難だと思われるが、美千代にきつい交換条件をつきつけたのは、誰あろう茂だった。

 十五年前、休日の昼をリビングで過ごしていた時だったと思う。美千代が向かいに座ってあらたまっているので、「どうした?」と声をかけた。その時、美千代が発した言葉に茂は今までの何もかもを否定されたようで気が遠くなる思いをしたのだった。

 じゃーじゃーと流れる水に気づき、慌てて手元を動かした。庭の隅のヤツデのところに行って、再び水を撒き始める。隣は沈丁花の木だ。

 この庭は美千代が自分の好きな花や木をせっせと植えて育てていた。美千代が何もかも置いて出て行った後、茂はいままで興味もなかった庭の世話を始めたのだ。

 ホースを片付けリビングへ上がる。時計代わりにつけっぱなしにしているテレビをみる。右上の時刻で朝の連続テレビ小説にはまだ三〇分あることを確かめる。ダイニングを通り抜け、廊下にでて二階への階段をのぼる。

 ステップにかかる自分の足先に答えが書いているわけもないのにじっと視線を落とす。娘が自分の意思で母親を探すのなら仕方がないと思いながらも、どうしても胸騒ぎが納まらなかった。扉の前に来て、こんなことは一度もしたことがなかったがと思った。扉を開け部屋の中へ一足前に進めると、久美子の部屋は花のような香りがした。そのためか茂は軽い背徳心を感じてしまった。ふたり所帯となってからは、家の掃除は茂がしていた。唯一、久美子が嫌だというのでこの部屋だけはしないことになっている。

 初めて見る娘の部屋はきちんと整頓されており、本棚にはたくさんの本が並んでいた。パソコンの置かれた机の前に立つと、その上には何かの本のコピーや、メモ書きが残っていた。久美子が受講しているらしいカルチャークラスのテキストとともに色褪せたアルバムがあった。美千代の独身時代のものだった。

 茂は椅子に座り、アルバムをめくった。粘着性の台紙に透明のセロファンで挟むタイプで茂がこれを見たのは結婚した当時の一度だけだったと思う。高校時代の美千代が茂の知らない友人たちと笑って写っている。あるページにくると何枚か写真が抜き取られていた。前後の写真から、美千代が美術部の合宿で油絵を描いている場所であることが分かる。これを久美子が見つけて波切に行ったのかと思った。

 またアルバムに戻って見ていくと、学園祭のときと思われる写真があった。ミニスカートのような赤い着物仕立ての衣装でおかっぱの美千代が白い太腿を団扇で隠して笑っている。笑うと鼻に皺のいくこの顔を茂はよく覚えていた。

 

「話があるの」と美千代が言った。あらたまった様子に茂が声をかけたあとにそう言ったのだ。

「わたしと別れてください」

 咄嗟のことに茂は言葉がでなかった。

「久美子も成人したし、わたし、これから自分の人生を生きたいの」

「離婚してどうやって生きていくつもりだ」

 茂は美千代の顔をみた。こうしてまじまじと顔をみたのは、どれくらいぶりだっただろうかと思った。

「美術部の先輩が自給自足のコミューンを作っていて、そこに入って生活するつもり」

「ここに居たら自分の人生が生きれないのか?」

「わからない……。一緒に生きる意味がわからなくなった。あなたと一緒に生きている実感はとうになくなってた。わたしは物のように、この家と一緒に朽ち果てていくだけじゃないかと思うと苦しくなるの。それにフェアじゃないから言うと、わたしは先輩の生き方を尊敬していて、この感情は……」

「もう言うな!」

 茂は声を荒げて遮った。もし先輩が誰でどんな感情を持っているか美千代の口から聞かされたら、茂の方にも夫婦を続けられる自信がもてないと思った。

「久美子は知ってるのか?」

「あの子は知らないです」

「久美子には何も話すな。それから離婚はできない。俺はこのまま歳をとっていけばいいのだと、今の今まで思っていた。それを変えられるのは堪らない」

 正直に言えば、このまま家に居て、時間が経てば美千代の気持は落ち着き、もとに戻るだろうと思ったのだ。

 美千代は静かに泣いていた。

 数日後、美千代は家を出ていった。娘の久美子や美千代の実家にも何も告げず茂の言ったことを守った形で。

 

 アルバムを閉じ、机の上の資料を点検した。そこには美千代に繋がるものはなく、メモ書きに波切にまつわる九鬼水軍や波切事件のことなどを調べるとあった。茂は資料やメモ書きを掴んで久美子の部屋を出た。階段を下りながら、久美子まであのコミューンに奪われるかもしれないと思った。いったんそう思ってしまうと、やれることはひとつしかなかった。ダイニングテーブルに資料を置くと、茂はまっすぐ電話台に向かった。

 電話の向こうで心配する声がまだ耳に残っている。誕生日がくれば退職になる会社だが、何ともうまい口実が浮かばなかったので、体調不良だと言ったのだった。数年前まで茂の部下だった上司に二、三日休むことを告げた。

 考えをまとめるために椅子に座った。見るともなくぼんやり庭の花や木を眺めた。美千代が出ていくまで庭のことに気をとめたこともなかったが、世話をする者を失った植物が同じく置いていかれた茂自身と重なって不憫に感じた。日を追うごとに心の裂け目は重症化していった。そんなときに花が咲いたり新芽がでたりするとまるで慰められているように感じた。

 美千代がいなくなってみて不在を強く感じるのは、自分を見てくれる視線がないことだった。茂はいま娘を見ている。冷蔵庫に久美子の好物のプリンやシュークリームを買って入れてやり、家の掃除も洗濯も全部茂がしてやる。料理はどうしても手が出ず、久美子と食事を一緒にすることはなかったが、美千代はずっとそうやってくれていたのだ。久美子はこの生活をどう感じているのだろう。最初こそ泣いていたが、すぐに立ち直ったかのようにみえた。ただ、母親の失踪の原因は父である茂のせいだと決めつけているふしがある。   

 いつも茂に腹を立てているような態度をとっているが、久美子から何か訊かれるまで言うまいと決めていた。

 美千代が家を捨てて参加した団体は、美千代が残していった私物などから突き止めることができた。ただ、調べる気になったのは半年以上もあとのことだった。

 そのコミューンは田舎の集落に土地を借りて田畑を作って集団で暮している。世間から距離をとる一面がある一方、収入源として農作物の販売やそれを使ったオーガニックレストランを経営していた。全国に支部的なものが多数あり、季節によって需要のある場所に働き手を巡回させることをしていた。カルト教団のように教義を広めることはしてないと思うが、一種の桃源郷を実現していると思わせていることに違いはなかろう。

 茂はそのときやっと美千代が洗脳されていたのではなかろうかと気づいた。始めからそうだと気づいていれば、あんな対応はしなかったと自分の愚かさを呪った。

 手元にある久美子の資料をテーブルに広げ、リーフレットのざっくりとした地図で波切の位置を確かめた。賢島の先かと地図を頭に入れた。関西に住んでいれば伊勢方面はいつでも行ける距離だと思い、却って足が向かない。

 昨夜、寝るときには、まさか今日がこんな日になるとは思っていなかった。だが、美千代と同じ轍を踏めるか、と思えば肝も据わってくるものだ。茂は自室に行き身支度をする。ガスの元栓を閉じ、電気を消して戸締りをした。ガレージに行き車の後部に積んでいたゴルフバッグを降ろした。運転席に乗り込み、助手席に久美子の資料と旅行バッグを置いた。カーナビに波切と入れる。有料では名神と名阪国道のルートが表示された。

 茂は名阪国道を選んで車を発進させた。

 

     *

 

 昨夜の嵐が今朝は嘘のように晴れていた。久美子は食堂でたったひとりの朝食を食べ部屋にもどってきた。二階もしんとしており川島はすでに出かけたようだった。昨夜ウイスキーを飲んでいた廊下の奥を見てしまう。あの場所に母、美千代が座ってノートに走り書きをしていたのかと思うとまた胸が苦しくなってきた。振り切るようにベニヤ仕立てのドアを勢いよくあけた。

 リュックから服や資料が飛び出し、早朝自分がいかに動転していたのか改めて知った。どうしてあんなに慌てて父に知らせようとしたのか? いまになってみれば不可解だ。十五年も前の痕跡が見つかったことを父にすぐ知らせなくてはと思ったのはなぜだろう。電話口の父の様子を思い返してみた。しばし沈黙し、息遣いだけが聞こえていた。それから『何しにそこにいったんだ』と語気を荒げて問うてきた。

 畳の上の資料の束を拾いあげ、久美子はまずは落ち着かねばと自分に言い聞かす。とにかく当初の目的通り波切騒動の関係のある場所に行ってみようと思ったとき、廊下を歩く足音が聞こえた。

 久美子はトイレに行くことにし、部屋を出た。やはり川島が戻って来ていた。

「おはようございます。昨夜はごちそうさまでした」

 自分の部屋に入ろうとしている川島に声をかけた。

「やあ、おはよう。今日はいい天気だよ」

 こちらに向き直って挨拶を返した川島の青いツナギは絵具で汚れていた。頭に巻いた白いタオルだけが妙に眩しかった。

「絵を描いてらしたんですか?」

 久美子は歯ブラシを持った手を絵筆のように動かした。

「違う。波切漁港で仕事してきた」

 そう言われて川島を見ると、服が濡れていたが何をして……と考えていると、

「漁から戻ってきた船の荷降ろしの手伝い」

 ツナギのボタンを外しながら言った。さらに、久美子の目の前でそれを脱ぎ始めた。

「そうだ、明日さ、早起きできるなら漁港においでよ。日の出の瞬間がばっちり見えるし、漁師の賄い飯も食べさせてもらえるよ」

 ツナギは川島の腰のところで止まっていた。

「魚臭くない? シャワー行ってくるわ。久美ちゃんは今日、どんな予定?」

「まだ何にも……。たぶん集落の中を歩き回っていると思う」久美ちゃんと呼ばれてどんな顔をしたらいいのか分からず、あらぬ方を向いて返事をした。

「わかった。僕もこれから絵を描きに行くからどこかで会うかも」

 川島は部屋から着替えを取ると廊下を小走りに下へ行ってしまった。

 気がつけば、すっかり気持ちが平静に戻っていた。トイレ横の洗面台でゆっくり時間をかけて歯を磨くと部屋に戻った。手早く荷物を整頓し、日焼け止めクリームを塗って帳場に降りて行った。

 玄関先の植木の葉っぱが水に湿って水滴を落とし、雨に打たれた乳母車は昨日と同じ場所にあった。通りに出て堤防に向かい右手の坂を上がって行く。かろうじて車が通れる道幅しかない急勾配の坂を二〇メートルも歩くと、弓なりにえぐれた岸壁のほぼ中心で真上に立っていた。弓の左側の先端に灯台がある。真っ青な空を背にした大王崎灯台をデジカメに納めた。

 手元の資料と灯台を交互に眺めて、灯台の手前にある海にはりだした平地を確認した。展望台のような東屋のある場所、そここそが波切の砦だ。デジカメのズーム機能を操作して場所をよく見ようとしたが液晶画面には滲んだ草や海しか確認できなかった。城跡はどこも礎石と雑草の伸びた空き地のようなものだろうとズームを戻した。

 引き返すよりも先に集落の中を歩いてみることにし、坂を進んだ。カーブになった路肩に盛り土がされて、鳥居のついた祠があった。太平洋が一望できるそこから下をのぞくと、ごつごつした岩が密集して渦をまいていた。なるほどここに立つと「御用船」が旗を立てて航行していた姿が浮かぶようだった。

 ふと、人の気配を感じた。振り向いたが誰もいなかった。坂に沿って建つ家々は塀が二階の屋根の高さ程あり、人が潜んでいても分からないだろう。道に戻り集落の中を進む。どこの家のブロック塀にも網やブイなど漁業に関係したものが干されており、そこかしこに猫がいた。急な坂が終わると台地が開けていた。そこは商店街だった。商家風の建物が並んでいて店は開いているようだが、ここにも人はいない。一軒だけ店先にアイスクリームの冷蔵ケースを置いたパン屋に人がいたが、久美子を見てもピクリとも動かない老婆だった。ケースを開けて、チョコモナカを取り出した。老婆に向かって、それを差し出すとゼンマイ仕掛けの人形のように動きだした。

「幾らですか?」久美子が訊くと、黒ずんだ厚紙に書かれた文字を指でなぞりだした。「一三〇円」老婆は文字を見る時に細めた目をしたまま久美子を見た。

 千円札を出すと、またゼンマイ人形のようにゆっくりと大回りに後ろを向いた。

 店の中はパンや菓子だけではなく、日用品も売っている何でも屋のようだった。木製の陳列棚には、黄色いチューブに入った「せんたくのり」と書かれたものが置いてあった。何に使うものなのか訊きたいと思ったが、老婆はまだ千円札を持ったまま、じりじりと動いている。チューブを指で押さえて弾力を確かめていると、老婆が釣銭を持ってやってきた。

「旅行かね?」

 老婆は久美子をよそ者と分かってか話しかけてきた。

「暑いから、そこで座って食べなさい」

 そういうと、もと居た場所に戻っていった。

 言われた場所に久美子は腰をおろした。手の中で柔らかくなったアイスを袋から出してひと口齧る。いつかの夏、家の縁側で庭に足を投げだしながらアイスを食べていた日の記憶が蘇った。料理と花が好きだった母はいつも家にいる人だった。今日はこれを作るからとか、庭のあの花がもうすぐ咲くとか、久美子の背中に向かって勝手に喋っているのが常だった。

 店から通りに目をやると、向かいの家の庭に紫色の花が見えた。あの花に見覚えがあった。なんという名前だったか思い出せない。母が育てていた花に違いないのだが……。久美子にもひとつだけ名前の分かる木があった。毎年三月になると強い香りを放つ沈丁花だ。それは庭の隅に植えられていた。沈丁花が花を咲かすと、母は何本か枝を切って花瓶に挿した。久美子も沈丁花の香りが好きだった。

 沈丁花の季節に母親は何もかも置いて家を出て行った。そこまでして自分の人生を選択的に生きようとしたことをかっこいいと思った。そのために久美子の成人を待ってくれていたのだろうし、保守的な考えの父とは価値感を共有できなくなっていたのだろうと理解しようとした。

 ところが父とふたりの生活が始まると、久美子は自分も母親に捨てられたことに気づいた。自分が捨てられたと分かると、母の行動が身勝手なものに思え、腹が立った。それを父に気取られたくなくて、母のことを一切口にしなくなったが、家族の一員であることを永遠に喪失しても家を出たのはなぜなのか、どうして娘まで捨てたのだろうという自問は続いていた。ただ、昨夜のノートの殴り書きを見て、母は苦しんでいたのだと分かった。ならば、戻るなり連絡をすることを何故しなかったのか。

 

 店を出て商店街の端まで来ると、道はまた集落に通じる曲がりくねった路地になった。一軒だけ間口の広い大きな庭のある家があり、その前に立つと、朝と違う服を着た川島が家の人と話をしていた。ふたりのまわりにはショッキングピンクのペイントがされた大きなキャンバスが何枚も立てかけられていた。家人はグレーの髪が肩のあたりまである六〇歳くらいの男性だ。白い甚平を着た姿は芸術家にみえた。久美子に気付いてじっとみている。その視線につられ川島も久美子をみた。久美子は片手をあげかけたが、川島は視線を戻して横を向いてしまった。昨夜あんなにお喋りをしたのに分からなかったなんてことがあるだろうか? 久美子は後味の悪い気持ちでその場を立ち去った。

 数分後、川島が走って久美子を追ってきた。

「ごめん。さっき家の前にいたでしょう? ちょっと込みいった話をしてて、声をかけきれなかったんだよ。いま、時間は? もしよかったら、さっきの家の人を紹介するよ。僕が仕事をやらせてもらっているコミューンの代表者なんだ」

 川島はさっきの態度が嘘のように元通りになっていた。

「うん。昨日、話してたコミューンってここにあったんだ」

「そうだよ。昨日はいっぺんに話しても混乱すると思って言わなかった。僕は農業指導をする資格も持ってるし、ホテルマンの経験もここで活動しているうちに積んだんだよ」

「なにそれって、マルチ人間じゃない」  

 久美子は川島が言った通り混乱してきた。

「惜しい。マルチワーカーって呼ばれてる。農業指導員は別だけど。じゃ、ついておいで」

 家の前まで戻ってくると、川島は中に走って行った。すぐに白い甚平姿の男がいっしょに出てきた。

「紹介します。こちらがNPO『おのころ』っていう地域と人を仕事で結ぶネットワーク作りをしている宮永さん。彼女は久美ちゃん、三木久美子さん」

「宮永です。さっき川島くんからあなたの話を少し伺ってたんだけど、波切のことを調べに来られたそうですね」

「はい。波切騒動のことを調べようと思いまして」

 久美子は庭に並んだ絵を見ながら答えた。ショッキングピンクのペンキを勢いよく撒いただけの絵かと思っていたが、下には波切の風景が描かれていた。なぜこんなことをするのか理解できないと思った。

「絵ですか? これは僕のなんですが変なことするなあって思うでしょう」

 心を読まれたのかとびっくりした。

「いえ、最初見た時は抽象画だと思ったので」

「目の前の景色の上にもう一枚何かを重ねることで見えてくるものがあると思うんだよ。下の景色そのものとしては、僕は完成を否定しているが、上の色によって破壊され、保存されてることで別次元のものが現れる」

 ますます分からないと久美子は思った。助けを求める意味で川島を見た。川島は頷き、

「宮永さんは絵で哲学を語るから、僕でもときどきついていけませんよ」

 そう言って茶化したが、川島の宮永を見る目は信奉者のようだ。

「わたしもこちらのコミューンのことお聞きしました。川島さんは絵だけを描いて生きていけるとおっしゃいました。もし、川島さんの絵みたいに情熱を持てるものがない人はどうするんですか?」

 それがないのは久美子自身だった。

「ただ生活するだけでいいんですよ。日常の中にしたいことがあることだってある。朝起きて、ご飯を作る。掃除をする。洗濯をする。ここで暮らすとどういう訳かみんな楽しいっていいます。もし興味があるんだったら今夜ウチにきませんか? 各地で活動する仲間をスカイプで結んで情報交換をしてるんです。酒を飲みながらゆるくやってるので遠慮いりませんよ。近くで活動してる仲間も来るし。それにね、この家は昔の庄屋の家だったのを借りてるのであなたの調べものの役に立つかもしれない」

 久美子はそういわれて、「波切騒動」を調べにきていたことを思い出した。ここのことをもっと知りたいと思ったので、伺いますと返事をした。

 宮永の家をあとにするとき川島が駆け寄ってきて、寺には行ったかと訊いた。まだ行ってないと言うと、絶対行った方がいいと強く勧められた。

 

 坂を下れば堤防の道にでるだろうと歩いた。路地を抜けると、もへじ屋旅館の前にでてきて、まさしく迷路のようだと思った。もへじ屋旅館の私道のような小径に絵具の乾いていないキャンバスが二枚立てかけてある。黒と水色の二色の濃淡で描かれており、曇天の風景画が今日の天気に似つかわしくなかった。近寄ってサインを見るとTKのイニシャルがあるので、これが川島の絵なのかとびっくりした。

 朝と同じT字路までくると、今度は大王崎灯台へつづく細い階段を上った。沿道は干物を売る店や真珠のアクセサリーを陳列する店がごちゃごちゃに軒を連ね営業している。十五分も歩くと灯台に到着した。すでに観光客が数名いて、記念写真を撮りあったり、海を眺めたりしていた。久美子は扉の開放された灯台の中に入った。上まであがるのは細い胴体の内部に密接しているらせん階段だけだ。ビルの五階くらいの高さだろうか、灯台の外側に出る扉をくぐるとトンビが何羽も旋回しているのが見えた。久美子はトンビを何枚も写真に撮った。

 下に目を落とすと、波切砦のあった広場がよく見えた。海からの侵攻を許さない海岸段丘を天然の要害として作られたその場所は砦と呼ぶにふさわしいと思った。それにしてもここは石の多いところだと思った。灯台までの道も集落の風よけの壁もすべて石造りだし、祠の土台も周りの壁も全部石が積まれていて、村全体がモザイク芸術の作品のようだ。たしか資料では明治から昭和のはじめまで、高い技術をもつ石工の町として有名だったと書いていた。

 久美子は石畳の感触を足裏に感じながら、灯台から見えているのに一旦来た道を戻らなければ行けない波切漁港と波切神社方面へ向かった。途中、波切砦に寄り外洋に張り出した地形を写真に撮り、目にも焼きつけた。 

 波切漁港もやはり石造りだった。赤茶色の石だから花崗岩だろうかと漁港の端の勾配になって船がのりあげるかたちで杭に舫(もやい)でつないであるところまで降りた。すぐ近くにイーゼルが立ててあった。人はいなく、キャンバスには石積みを拡大したような構図の油絵が描きかけてある。周辺を黒で縁どってありベルナールのようだと思った。キャンバスの中を通り抜けるように久美子は石垣のさきの長い階段を登って行った。途中、赤い蟹が木の実をハサミで掴んで移動していた。久美子の気配を察して動きを止めた。デジカメを構え蟹に近寄る。蟹は木の実を持ったままハサミを上にあげて威嚇のような恰好をした。

 階段は一度直角に折れてさらに続いている。一帯が鬱蒼と茂る樹木の小山となっており中腹に朽ちた祠のある敷地がある。雑草が膝下まで伸び、ここが長く人の手の入っていない場所だということはわかる。立て看板もなく祠の主が誰なのか不明だった。敷地は横から出ることができた。でた場所は漁港からまっすぐに上がってくる石段の途中だった。久美子は波切神社に来たはずが、違う神様のほうに寄り道した格好になったなと思った。残りの階段を登りきると波切神社だった。日の丸の旗をバッテンに掲げた平屋造りの民家のような構えをしていた。久美子は門のところで礼だけするとさきへと進んだ。木漏れ陽が湿った土のうえに丸い光のスポットを無数に落としている。光のあとを追っていくと小径に入りこんだ。赤い幟が幾本も立ち並び奥にお稲荷さんの祠があった。こんな狭い範囲で三つもの拝所があるとは、余程生きるのに苦しい土地だったのだろうと思われた。久美子はお稲荷さんの祠の前に立ち、財布から小銭をつかんでお賽銭を入れた。

 石段を降り切ったところでリュックを降ろし、資料を挟んだファイルを取り出した。川島が行けと言っていた寺を確認するためだ。仙遊寺という寺が載っている。所在を確かめると地図のポイントはまさに久美子が立っている場所を示していた。

 注意して辺りを見ると目と鼻の先に頑強な石積みの土台を持つ白い塀が目に入った。リュックを腕に掛けたまま近寄ってみる。門の前まで来て中を窺う。きれいに掃き清められた庭にひとつひとつ剪定の施された松の古木、上が屋根状になった石塔がみえる。敷地に足を踏み入れると鐘楼があり、ここが仙遊寺だと安心した。気になる石塔のところへ行くと立て看板に九鬼一族・五輪塔と書いてあった。手に持っていたファイルを再び開いて九鬼水軍に関する資料を読んでみる。久美子が調べたかった「波切騒動」とは時代が違った。波切城は波切の土豪・川面氏に養子に入った九鬼隆良から六代目義隆が一五九四年、鳥羽城に移るまでの九鬼氏の城であった。「波切騒動」は天保元年一八三〇年に起こり時代は江戸である。波切の村人は漁民であるが、戦国時代はどうだったのだろう。九鬼一族の治める土地であるなら、「波切騒動」の村人たちも水軍であったと考えるのが自然だろう。ここに来たら閲覧できると思っていた「大王町史」が日に何便もないバスで数十分の図書館にしかないことがわかり、久美子は腕時計をみた。

 背後から意表を突く鐘の音がした。振り返ると法衣を纏った僧侶が鐘楼の中に佇んでいた。剃髪された頭は青く精悍な体躯をしている。久美子はもう一度腕時計をみる。十二時にはまだ一時間以上ある。何のための鐘なのだろうと首をかしげた。

ざっざっと砂利を踏みしめて僧侶が近づいてくる。

「こんにちは」

 久美子は先んじて挨拶をした。

「ようお参りで。観光ですか?」

 声を聴くと僧侶は思っていたよりさらに歳若く感じた。「あの……」「ちょうど……」久美子の言葉が僧侶の声にかぶった。久美子はいましがたの鐘の意味を訊こうとしていた。

「どうぞ!」

 久美子は僧侶に先を譲った。

「九鬼一族の法要がこれから始まるのですが、住職から九鬼一族にまつわる話もありますのでお時間があったらご参加ください」

 そういって本堂の方に体を向けた。

久美子は心の中で手を打ち、僧侶のあとに続いて本堂の中に入れてもらった。

 

     *

 

 車は阪神高速、西名阪道を経て天理インターから名阪国道に入った。このあたりまではゴルフで何度も通ったことがあるのでナビに頼ることなく来られた。会社で大きなプロジェクトを担当していたころは毎週のようにゴルフに行っていた。そのうちの全部がどうしても行かねばならなかったかといえば違った。日々溜まった澱のようなものを青々した芝のうえに立つことで排出でき、また月曜日から挑んでいけると感じていたからだ。妻の美千代がそのころ、何を思って暮らしていたのかなど考えることは毛頭なかった。

 左車線を法定速度で走る茂の車を白いワンボックスカーが追い抜いて行く。リアウィンドウにクーラーボックスやカラフルなパラソルのようなものが見えた。家族で海に行くのだろうか。家族と心の中で言葉を反復してみた。

「ちきしょう」

 茂は声に出してつぶやいた。

 家族を作って一生を終えることが、結婚の約束だったはずだ。耐えがたい苦痛を美千代に負わせた自覚はなかったし、今も思い当らない。それぞれが少しずつ辛抱をすることで成り立つのは会社でも家庭でも同じことではないか。

――現に俺だって大学を出て就職をするとき、進みたい道を親父の意向で諦めたではないか。それなのにたった三人の家族をまとめることもできなかった。俺は親父を恨む。自分の人生を恨むぞ。

 

 茂は胸の奥でぐっと息を詰まらせた。その時、ナビは高速を出るように指示してきた。ETCゲートを抜けるとそこは伊勢街道だった。ほどなくひどい渋滞の中に入ってしまった。三、四十分かけてその渋滞した道を進むと歩道に観光客が溢れていた。三又に別れた道の中央に「おかげ横丁」と書かれた幟が見えた。久美子のいる「波切」へはあと一時間くらいで到着できそうだ。

 観光客の中を通り抜け、道なりに大きくカーブすると一方が有料道路の二又の道にでた。なぜナビは何も指示をしないのかと画面をみるが普段使っていないせいでなにをもって判断すればよいか分からなかった。勘で有料道路を選んだ。料金ゲートの上に伊勢志摩スカイラインと看板があがっている。係の人が腕を伸ばして待っていたので、大王崎へはこの道でいいか尋ねた。遠回りになるという答えが返ってきたので返事に困っていると中に入ってUターンしてでていけばいいと言ってくれた。田舎の人はおおらかでいいなあとひとつ得をしたような気持ちになった。張りつめた気持ちが緩んだのかお腹がなった。ドライブメーターの横の時計は十二時を指していた。

 ナビが「目的地周辺です」と最後の案内をしたのは、両側に家が並ぶ町の生活道路を走っているときだった。アクセルペダルから足を離して減速したが車を寄せるスペースがない。モニターをみると進行方向に赤く「G」と表示された地点があり、そこにはまだ距離があった。アクセルに足を戻し先に進むことにした。道は直角左に折れ、再び直角に右に曲がると太平洋の潮の流れを胎内に取り込むような漁港が現れた。それを背にして「G」の示す道を進むと道幅が狭くなりその先は突き当りのようだった。日焼けした顔の管理人が立つ青空駐車場に車を入れた。

 サイドブレーキをかけ、ミラーをたたんでいると管理人の男が紙切れをちらつかせながらやってきた。

「何時間?」

 窓越しに滞在時間を訊かれる。

「今夜は泊ることになると思う」

 茂はそう答えながら、娘がどこに泊っているのか知らないことに気づいた。これはあとで久美子の携帯に電話しなければと思った。

「二日ね? 千円お願いします」

 管理人は茂から千円を受け取ると、五百円と印刷された手製のチケットを二枚渡してよこした。

 車の外にでると磯の香りとむっとする湿気に全身が覆われた。茂が子どものころと比べると、昨今は夏がなかなか去ってくれないと感じる。おそらく学校が始まっているであろうに陽射しは夏休みの昼下がりのようだ。

 駐車場の入口に周辺の地図が載った看板があった。茂の立っている場所は波切神社へ通じる道のようだ。その方向をみると、道端に油絵の載ったイーゼルが置かれている。茂の眼の奥で絵筆を持った美千代の笑った顔が浮かんだ。その残像を振り払うように反対側に目を向ける。干物を軒先にぶら下げた食堂兼土産物屋が何軒か営業をしていた。表から覗いて、座りやすいテーブルのある店に入った。頼んだのは漁師丼というものでマグロ、イシダイ、オオアジ、イカなどここの港で水揚げされた魚ばかりを特製ダレに漬けこんだ海鮮丼だ。丼に付いているあら汁も豪快で中身はグレ、メジナとも呼ばれる黒い魚だ。店の中で食事をしていた地元の男性が、漁師丼は辛いぞと言っていたが茂の口にはこの辛さが何なのか分からなかった。美千代が横にいたら即座に何の味付けか言っていただろう。

 店を出るときに、

「ここは絵描きの村ということですが、どこの宿もそういう宿泊客がいるんですかね?」と訊いてみた。

 美千代が高校時代に泊っていた宿に昨日久美子が泊まったことは確かだった。

「そうやね。でも一番有名なんは『もへじ屋』さんやないかね」と海の方を指差して店の人が答えた。

 茂は「もへじ屋旅館」の前にきた。油絵のキャンバスが、段差になった路地のブロックに数枚立てかけられていた。すぐ横に朽ちた乳母車が放置されている。旅館の玄関先にも靴は見当たらずひと気が感じられなかった。

 頭に白いタオルを巻いた男が海の方から歩いて来て、油絵のキャンバスを回収しだした。画面には黒と水色で漁村の風景が描かれており、水墨画のようにも見えた。美千代が描いていたのも村の家並や石垣ばかりだったと思った。

 茂は腕時計で時間を確認した。さっき「おかげ横丁」を抜けたところから二時間も経っていた。そんな茂をちらっと見ながら、男は無言で前を横切っていく。

「こちらの宿の方ですか?」

 男に声をかけた。

「いいえ、違いますけど。でも、何か?」

 くるりと向き直り、そう言いながら茂の方へ近づいてきた。

「ちょっと覗いたんですが誰もいないみたいなんで」

 タオルの男は茂についてくるように促し旅館に入って行った。男は三和土で履いていたビーチサンダルを脱ぐと宿の帳場の窓を開けて中を窺った。茂は男の脂のない体躯を後ろからまじまじと観察していた。男の足の甲は鼻緒の形に日焼けしている。足首には縄文土器のような模様の刺青が青く輪状に刻まれている。返事がないと分かると、そのまま奥に行き宿の人を連れて現れた。

「お待たせしました。えらいすいません」

 潮焼けした顔の初老の女が男の肩越しに茂に謝った。茂が口を開こうとしたとき、ふたりの視線が茂の頭越しに玄関に注がれた。促されるように振り返ると久美子が驚きの顔で立ちすくんでいた。

 

     *

 

 寺から「大王町史」を借りることができ、久美子は小走りで「もへじ屋旅館」まで帰ってきた。玄関先までくると年配の男性客が宿の人と話をしているところだった。父親の茂の後ろ姿によく似ているなと注意してみていると男が振り向いた。

 久美子は言葉が継げず、ただ目の前の光景に刮目するばかりだった。

「お知り合い?」

 宿の女は久美子と父親を交互に見ながら訊いた。

「父です」

 久美子は分厚い「大王町史」を胸に抱いたまま歩み出て言った。

 川島が「ええっ」と声をあげた。久美子は川島を一瞥し頷く。

 久美子にとって今日は長い午前中だった。今朝電話したことが何日も前のように感じられた。昨夜の動揺した気持ちも、朝の不安感も「波切騒動」についての調べものをしているうちに片隅においやられていたが、父を見て思い出した。

「なんで?」

 言葉はそれしか浮かばなかった。続く言葉は、なぜここが分かったか、だったのだが。

父の顔は一瞬だけ笑ったように緩み、すぐいつもの素の顔になった。

「あんな電話が来たら心配にもなるだろう」

 父はむっとしたようだった。

「あ、いや、そう……。あ、お泊りになられる?」

 宿の女は父に向かって訊ねた。

「はいお願いします。部屋は別で」

 女は頷きながら、

「じゃ夕食、一緒にしといたほうがええね」と続けた。

お願いしますと父が返事をしてしまった。

 川島は久美子たちを見ているので、

「父です」と、紹介した。

「わお、久美ちゃんのお父さんでしたか!」

 川島は父が見せた怪訝な顔に、

「あ、すみません。僕は川島毅といいます。僕もこの宿泊客なんですよ。絵描きをしてます。昨日、すごい嵐で停電したんですが、それがきっかけでお話しさせてもらったんです」

 川島は人慣れしているというか、目上の久美子の父親に対して、すっと右手を差し出した。茂は右手に持っていたボストンバックを床に置き、右手で川島の手を握った。

 久美子はふたりの男の姿を眺めていた。落ち着きがなくなって先に手を引いたのは川島の方だった。父の堂に入った姿は久美子にショックを与えた。自分は家の中で父のことをそんな風に見ていなかった。いつも久美子の顔色を窺うような気弱な一面しか見ていなかったからだ。父は母親が家をでてから自信をなくして生きているように思っていた。

「おい、久美子」と父に促されて我に返った。沓脱に靴を脱いであがった。

 父は宿の女から部屋の鍵を受け取ると、あとで部屋にきなさいと言って先に行ってしまった。父が動いたとき風に乗って、いつもの父の整髪料の香りがした。ほんとだったら会社に行っているはずなのに、久美子の電話に心配して来てくれたのだ。急に胸が熱くなり涙がでそうになった。

 久美子は自分の部屋を通りこし、父親の後ろを歩いた。父の部屋は川島の隣だった。

 久美子の部屋と同じ間取りの真ん中には布団ではなく座敷机が置かれていた。父は鞄を畳に落とし、鍵と一緒に書類をテーブルの上に置いた。それは久美子の部屋にあった資料だった。これを見たのかと思った。父が勝手に部屋に入ったことを咎める気持ちは起こらなかった。

「それでどこにあるんだ」

 父親は畳に座りもせず訊ねた。

 部屋を出て廊下の突き当たりのソファのある一角へ連れていき、K高校の寄せ書き帳の件のページを開いて渡した。父は長い間同じページを凝視していた。久美子はその顔を見ていた。それに気づいてなのか、久美子の視線をノートで遮った。ノートの表紙は古く端がめくれあがっている。ふと、久美子は母が出て行った日、自分は何をしていたのだろうかと思った。成人式を終えたばかりの頃だったか。

 夕方に帰って来たら部屋の電気は消え、チャイムを鳴らすも応答がなかった。家の鍵は持っているが、庭仕事をすることも多かった母は黙って家に入ってリビングにいたりすると、びっくりするからとチャイムを鳴らさせた。外出しても遅くなることは絶対ない人だったので、家で倒れているのではないかと慌てて家中を探し回った。

 縁側のサッシはカーテンが引かれ鍵がかかっていた。だから庭にいるはずがないのに、サッシの鍵をはずして庭も確認した。レースのカーテン越しに沈丁花の強い匂いがダイニングに入ってきた。薄暗さの中で匂いは一層濃度を増すかのように香ったのをよく覚えている。

 夜の十時を過ぎても連絡がなく、さすがにおかしいと思っていたら父が帰宅した。父は母の不在を知ると「あっと」驚いたような顔をした。それは何かに思い当ったという感じだった。両親に何かがあったのだなと思ったが、父の沈痛な面持ちを見ていると聞けなかった。しびれを切らして母方の祖父母の家に久美子が電話をしたときも、父親は止めなかった。父に電話を代って会話を聞いていたが、どちらも何も知らないと言いあっていた。あとで調べると母はわずかな荷物と自分名義の預金通帳を持ってでていた。事件や事故の可能性はないと結論づけた。久美子はあの時の父の様子をいまも疑っている。もっと理由を問い詰めるべきだったとあれから何度も後悔していた。

 料理が好きでガーデニングが好きで家族のために尽くすのが好きというタイプの母親のことを久美子はどう思っていたか。ひと言で言えば、「無害」だ。それに自分とは価値観が違うとやや批判的に母親をみていた。成人式に着物を仕立てるという母親にそんなのもったいないと拒否した。だったら母親が着た振袖を仕立て直すから着て欲しいと頼まれたが、久美子は前日から髪を結ったり着付けをするのが面倒臭く、第一興味がまったくなかったのでそれも嫌だと断った。いま思えば、一日だけの面倒など我慢して振袖を着ればよかったと思うが、あのときは母親を拒んでいたのかもしれない。結局、フォーマルなワンピースで成人式に向かう久美子を母親は寂しそうに見送っていた。

 そんな母が自分の意思で家を出たと分かったとき、母親の行動を同性として尊重しなければと思った。

「これ以外、ここに母さんがいるという情報はないのか?」

 父親に訊ねられ我に返った。

「ない」と首を横に振った。

「さっきの男は何だ?」

 馴れ馴れしく久美子の名前を呼んだことに拘っているのかと思った。

「ゆうべ停電があってね、トイレに行くときに鉢合わせたの。風も強くて落ち着かないんで、ここでウイスキーを一緒に飲んだの。お母さんが高校の美術部でこの宿に昔泊ったって言ったら、ノートのこと教えてくれたの。それでそれを見つけたの」

「絵描きをしてるって言ってたな。それでここに泊っているというのはどこか他所から来たんだな」父はまだ何か納得しかねているようだった。

「川島さんは何とかっていうNPOのメンバーなの。農業を生活の手段にしているコミューンの本部がここにあって、川島さんは農業指導員の資格ももってる古参のメンバーだって聞いた。美大を出ても就職はしないで絵を描くことだけをして生きていきたいって思ったんだって」

 久美子はそう言いながら顔をあげると、父親の顔つきが明らかに違っていて言葉に詰まった。

 

     *

 

 大広間の片隅に夕餉の膳が置かれていた。大皿に盛られた刺身を前に娘の久美子は大きな声をあげていた。

 ひとり用のお膳が二台、横並びに置かれていた。刺身の大皿がその前に置かれている。頼んだ酒もすでに置いてあった。茂は温めにつけてもらった燗酒を喉の奥に流しいれた。酒はすぐになくなった。開け放しになった調理場に向かって、「温燗を二本ください」と声をかけた。

「残酷焼ってなんだろうね」

 久美子が壁に貼られたポスターを指差して言った。

「アワビやら、生きたままをコンロで焼くんで残酷焼っていいます」

 徳利を盆に載せてやってきた宿の女が答えた。

「お前も飲むか?」

 茂が徳利を取ると、久美子が猪口を差し出した。

 徳利はさらに四本追加し、茂は静かな酔いの中にいた。久美子も酔ったらしく、ずっとひとりで喋り続けている。トイレに立つとき、よろけて茂の肩に手を置いて、バタバタと歩いて行った。肩に久美子の掌の熱が残っていた。

 

 ――こつんと、肩口に美千代の頭が当たった。

「わたし、しあわせ」

 美千代は酔っていて、頬がピンクに染まっている。親を騙してふたりだけでやってきた城崎温泉の旅館の一室だ。揃いの浴衣に半纏姿。かにすきの鍋は甘い香りを部屋に充満させていた。

 茂は働きだして三年目。お互い二〇代、付き合って二年だった。肩に載った美千代の頭が重かった。この女といつかは結婚するんだろうと思ったことを急に思い出した。

 

「きれいなお嬢さんですね」

 横合いから突然声をかけられ我に返る。

 徳利をさげにきた宿の女が、戻ってきた久美子を見ながら、

「お父さん似の娘さんは幸せになるっていうことですよ」

 お世辞だと分かっても、久美子が自分に似ていると言われるのは嬉しかった。

「どうしようかな……」

 トイレから戻ってくるなり久美子がつぶやいた。茂が顔を向けると、

「誘われてるの。川島さんが参加しているNPOの集まりがあるんだけど。そこが元庄屋さんの家だったところでね、写真も撮っていいって言われてたんだけど、こんな酔っ払ったし……」

 茂はさっきの二の舞にならないよう、慎重に気持ちを抑えた。コミューンと美千代の関係を思って顔色を変えてしまった。おかげで久美子に訝しがられた。

「どこなんだ? その会合の場所は」

 大広間の時計は八時を過ぎていた。

「近くなの。堤防の手前の坂道を上がってすぐ」

「時間は大丈夫なのか?」

「あ、時間きいてなかった。でも、酒を飲みながら緩くやってるって言ってたから」

 茂は自分もそこに行くにはどうすればいいかと考えを巡らせていた。

「お父さんも行かない?」

 久美子に心を読まれているような気がした。

 心を読まれているといえば、久美子が家を出ないのは自分のせいではないだろうかと茂は思っている。何も結婚や交際を反対したことはない。それどころか、久美子は誰も家に連れてきたことがない。

 妻の美千代がやっていたこと全部を茂がやると決めたのは、家をこんな状態にした責任を感じたからだった。就職したら家をでると言うかと覚悟はしていたが、通勤に便利だからと久美子は家に居続けた。

 家が築二十五年を過ぎたころ、思い切って修繕工事をした。その際、風呂と洗面所をリノベーションした。二階にトイレとシャンプードレッサーも追加した。茂は会社の久美子くらいの年齢の女子社員をランチに誘い、彼女たちの会話を注意深くきいてそれを決断したのだ。

 ある時、女子社員から「部長みたいなお父さんだったらどんなにいいか」とお世辞を言われたことがあった。理由を訊くと「匂い」なのだと言う。茂は「それはあんた達が臭い臭いと中年おやじの加齢臭を嫌っているのを聞いてたからだ」と心の中で思った。

 荷物を取りに部屋に行ったまま久美子はなかなか降りてこなかった。呼びに行こうかと思ったとき、階段に姿を現した。丈の長いワンピースドレスに着替えていた。鮮やかな青に黒い花柄が久美子の白い肌に映えた。肩口からコンパクトカメラのストラップを斜め掛けにしている。それを見て茂は長いことカメラを触っていないなと思った。

 久美子が産まれてすぐ、娘をダシに高価な二眼レフカメラを買った。エルスケンという写真家と同じカメラだ。繊細な雰囲気の若い男が黒いロングコートを着て、二眼レフカメラを構えた自分の姿を映した写真をみたとき、いつか同じ物を買おうと決めていたのだ。高校で写真部に所属していた。モノクロフィルムを自分で現像し、暗室でプリントをしていた。大学でも写真は続けた。仲間たちと酒を飲み写真談義に耽る。プロのカメラマンのもとで助手のアルバイトをさせてもらっているうちに、茂も仲間たちも写真の道で食っていきたいと真剣に考えるようになっていた。就職はせず、本格的に写真をやりたいと父親に願い出た。父親は当然のごとく反対した。茂は反対でもそうすると突っ張ったが、父親からは親子の縁を切っていけと言われ、母親からは死んでしまいたいと泣かれた。

 自分で現像はしなかったが、フィルムはモノクロを使用した。カメラを腰の位置に構え、上から覗く自分の姿をウインドウに映して悦にいっていた。写真は正方形で現像もプリント代も普通の三五ミリカメラで撮るより高かった。もっぱら家族ばかり撮っていたが、そのうち美千代も久美子もモデル慣れしてきて、いっぱしの芸術作品みたいな写真が撮れるようになっていた。

 久美子が先になって歩いていく。土産物が並ぶ道は真っ暗だった。

「あれが波切の砦」

 久美子は海に張り出すようにでた岩壁を指差した。海面と暗さを異にしたシルエットがみえた。その先に広がる海は太平洋なのだと茂は改めて思った。光のベルトが海面を撫ぜるように動いた。視線を左に向けるが灯台の姿は見えなかった。

「お父さん、江戸時代の夜ってどれだけ暗かったのかな」

 久美子は堤防から身を乗り出して真っ暗な海を覗きこんでいる。

「おい、酔っぱらってるから落ちるぞ」

 久美子は体を竹のようにしならせて堤防から離れた。

 集落へ入るには海岸線に沿ってカーブしながら坂を登らねばならなかった。坂の途中にショートカットのための階段がいくつか掛けられており、何軒か民家がみえた。坂を登りきったところにお堂がある。お堂に比べて大きすぎる鳥居が五メートルほど離れて立っていた。そこに立つと波切の砦も大王崎の灯台も一望できた。高いところからみた太平洋は黒い壺のようだ。

「お父さん、早く」

 先に歩いて行った久美子が戻ってきた。

 久美子は躊躇なく中に入っていく。茂は門のところに留まって、久美子の反応を待った。もしこの組織が美千代と関係があるなら、ここに美千代が来ていてもおかしくない。自分を呼びに戻ってくる久美子の反応でそれがわかるだろう。

 久美子は俯きながら茂の方にやってきた。茂は思わず拳を握りしめた。

「お父さん、どうぞって」

 踵を返すと暗い庭を戻って行った。久美子の後ろを歩くと、庭はところどころぬかるんでおり、靴が深く地面にめり込んだ。

 大きな土間から上がって板の間があり、その天井は吹き抜けになっていた。見上げると太い梁が見える。和紙でできたシェードランプから電球色の柔らかい光が部屋全体にまわっている

 美千代の姿はなかった。

見渡したところ十人ほどの男女が座敷机を囲むように座っている。机のうえは酒の一升瓶や缶ビール、缶チューハイ、漬物やスナック菓子でいっぱいだった。席を勧められ、湯呑茶碗に酒を注いで渡された。それをひと口飲むと大きく息を吐いた。

 壁際の大きな薄型テレビに映像が映しだされている。テレビに向かって誰かが喋った。画面の中に窓があり、そこにはこの部屋が映っている。テレビからも声が返ってきた。

 テレビの傍でノートパソコンを操作していたのは昼に会った川島という男だ。隣に白い甚平の男がいる。緩く波打ったグレーの髪を肩まで伸ばしている。一見して芸術家とわかる出で立ちだ。この男が代表に違いないと、じっと見た。

 茂の視線に川島が気づき、会釈をよこした。スカイプでのやり取りは続いている。気が付くと、久美子が隣に座っていた。缶チューハイを手に部屋の中を興味深そうに見回している。

「写真撮っていいのかな」

 茂に訊いてくる。

「いま動きまわらない方がいいぞ」

 ゲストらしく、スカイプのやり取りを聴いておくように言った。

――じゃ、今度は尾鷲の「喜兵衛」に報告お願いしよう。

 甚平の男が言った。

 画面が明るい純和風の座敷に切り替わった。

――「喜兵衛」はいつも繁盛してるね。

 テレビからカラカラと数人が笑う声が聞こえた。そのうち、ひとりの女が画面の真ん中に映り喋りだした。

――店長がシャイなのでわたしが報告係に任命されましたぁ。ここはランチ営業を年中無休でやってまぁす。それで、えー、スタッフは全員おかあさんです。毎日二十種類の惣菜を手作りしてます。店の様子をスライドでお見せするので、え―、みてください。

 画面には美味しそうな惣菜が映しだされた。出し巻、肉じゃが、青菜のお浸し、煮豆やしめ鯖を刻んで入れた紅白ナマスは茂の好物だった。思わず生唾を飲みこんでしまった。スタッフは思い思いの服やエプロンで頭の三角巾は白で統一されていた。 カメラが店内を三六〇度映して、もとの位置に戻った。

 

   *

 

 久美子は父親に座って観るように言われたので、大型テレビに映しだされるスカイプの映像を見ていた。宮永が次のグループを呼び出し大勢の女性たちの元気な声が響く。その声をバックに、美味しそうな惣菜が何十種類と大鉢に盛られテーブルに並んでいるところや客の食事風景がスライドショーになって映し出された。ここは築一四〇年の古民家を改装して、主婦だけで運営し、ランチをバイキング形式で提供する和食レストランだそうだ。野菜はコミューンの農場で作った無農薬を使い、玄米や雑穀、豆ごはんから選んで好きなだけ食べられる。

 カメラがライブに切り替わって、店の中をぐるりと映しだした。店の壁には四季折々の風景写真や花や木、モノクロの写真も飾られている。

 宮永から最後にコメントを求められた店の女性が料理がマンネリ化しないように尾鷲市内の三つのグループが週替わりで料理を提供し、毎週違う料理が楽しめると言っていた。

 久美子は画面を食い入るように観ている父親の服の袖を引っ張った。

「もう写真撮らしてもらっていいかな?」

 酒に酔ったうえ、睡眠不足だったので宿に戻りたかった。

「写真撮ってもいいか訊いてきなさい。それ撮ったら宿に戻ろう」

 久美子は頷いた。

 テレビ画面では山陰のグループが受け答えをしていた。そこは若い男が数人いて、地元の漁業を手伝うかたわら、ドミトリーを運営しているようだ。その彼の口からマルチワーカーという言葉がでた。彼はマルチワークが趣味と実益を両立できるシステムだと言い、地方で暮らすにはまず仕事がなくてはならないと言った。その発言を受け、宮永がマルチワークは手段だと言った。

――やりたいことが仕事になることは稀なことだし、社会システムから離れることは極端な言い方をすれば社会的死を意味する。そんな社会の網の目から自発的に、または健康上精神上の理由で余儀なく落ちた人たちが生活の質も保ち生きていける。自発的にやりたいことを優先して生きるものに生きるための収入を得ることができる。互いに縛らないのがこの「おのころ」です。

 宮永はよく響く声で静かにゆっくりと語った。

 話し終わったところを見計らい、久美子は宮永のところに行った。

「今日はお声をかけていただきありがとうございました。ちょっと酔ってしまったので、写真を撮らせてもらったらお暇しようと思うのですが……」

「はい、いいですよ。この家は正確にいうと『キモイリ』と言って庄屋に準ずる役目をする人の家だったんですよ。ウナギの肝という字に煎餅の煎と書いてキモイリと読ませます。波切騒動のあと、しばらく庄屋も肝煎もいない状態があって、その後人数を倍に増やしたそうです。じゃあ、自由に撮っていってください」

 宮永は上機嫌だった。浅黒い肌が酒のせいか赤くつやめいている。膝の上に置かれた宮永の手は肉厚で指先が丸くヘラのような形をしていた。絵を描きながら、多くの仕事をしてきたことが窺える気がした。

 この家には廊下というものがない。部屋をしきる大きな引き戸はすべて木でできている。土間におり勝手口にまわると納屋があり、その中に畳一畳ほどの居室もある。農耕具だろうか、何に使うか分からない柄のついた棒や鉄製の器具が置かれている。海の近くでも田畑も持っていたのだろう。ひと通り写真を撮って戻ってみると、父親が宮永と話をしていた。その様子を川島が真剣な顔でみている。宮永が久美子に視線を移した。それに呼応するように父親が立ち上がった。

「お父さん、宮永さんと何を話してたの?」

 宮永の家を出てから久美子は父親に訊ねた。

父親はそれには答えず、

「俺は明日帰るけど、お前はまだここにいるんだろう?」と訊いた。

 角を曲がると父親は足を止めた。行きがけにはなかった月が出ている。三日月が立った状態で西の低い空に浮かんでいる。

「尾鷲ってあっちだな」

 父は三日月から九〇度体を回して陸の方をみた。

「あの店の料理が美味そうだし、明日寄っていこうかと思ってな。さっき、あそこの人に場所をきいてた。お前も行くか?」

 久美子は答えあぐねた。

「またこっちまで送ってやるぞ」

 それなら行くと、久美子は答えた。

 部屋に戻り、敷きっぱなしの布団の上に寝転んだ。なんと目まぐるしい一日だったのだろうと思った。寺の住職に聞いてメモしたことを見返したかったがどうにも体が動かなかった。目を閉じたらこのまま寝てしまいそうなので、思い切って起き上がった。着替えとタオルをもって一階の風呂場に向かった。

 風呂場は電気が消えていたが、鍵はかかっていなかった。髪を洗い、湯船に浸かっていると、隣の男湯に人が入ってきたようだった。

――お父さん!

 久美子は男湯に向かって声をかけた。

――おおっ

 父の声が返ってきた。その返事を聞いたら突然涙があふれ出てきた。

 冬になると毎年、家族でカニを食べに行った。城崎温泉に宿を取り、夕食後外湯巡りをする。温泉街は真ん中に川が流れ両側には旅館や土産物屋が立ち並ぶ賑やかな所だった。小学生の久美子は風呂からでるときに、いつも「お父さん」と女湯から声をかけた。男湯から「おおー」と返事が返ってきた。

――どうした?

 父の声がした。

久美子は男湯にはお湯が溜まっていない、と言いたいのだが声がでなかった。

 

 父は帳場で昨日の特別料理と酒代を精算している。「もへじ屋旅館」の玄関先は打ち水がされてコンクリートの路面が濡れていた。乳母車は相変わらず同じ場所にあった。

 駐車場から波切漁港の人だかりがみえた。漁船が港に戻ってきたのだろうか。時間は七時五〇分だった。そう言えば川島との約束をすっかり忘れていた。断りに行こうかと思ったが、帰ってからあやまればいいだろうと助手席に乗り込んだ。父親がナビに尾鷲の住所を入力した。ルートが表示され所要時間がでてきた。一般道を通って二時間もかかる。

「こんなに距離が離れてるんだ。わたしを送って帰ったら大変じゃないの?」

 久美子は父のことが心配になった。

「尾鷲から帰るにもこっちに戻って来ないとだめだから、お前を送るのは三〇分程余分に走るだけだ」

 父親は前を向いてそう言うと、車を発進させた。

 

    *

 

 車は国道二六〇号線、パールロード奥志摩ラインを通り、県道一二八号線、県道六一号線、県道三二号線と走った。

 波切から尾鷲は船で行けば遠州灘から熊野灘へ向けて航行することになる。これは久美子が調べている御用船の航路と逆向きだった。

「尾鷲はお前が調べてる波切と九鬼一族とは関係があるんじゃないか」

 茂は当てずっぽうで言ってみた。

「そうなの。ゆうべ、尾鷲について調べてみたら波切九鬼は尾鷲から進出してきたという説があるみたい。だからちょうどよかったっていうか、尾鷲市九木って住所があるし、九木神社がそもそも九鬼水軍のルーツなの」

 久美子は嬉々として喋りはじめた。

「なるほど、織田信長に従い、戦国時代に恐れられた九鬼水軍か……」

 茂も戦国時代のことは多少知っている。

 伊勢自動車道に入ると有料道路になり、紀勢自動車道を経て無料区間の紀勢自動車道を進む。熊野街道・国道四二号線沿いに目的の古民家レストランはある。

 ナビは例によって、周辺にくると案内を終了した。ディスプレイ上のGのマークはまだ先だ。茂は時計を見た。予定より有料道路を使った分早く着いたようだった。

「オープンまで一時間ちょっとあるから、九木神社に寄ろうか?」

 茂は車を路肩に止め、ナビに九木神社を入力した。

「ここから二〇分くらいで行ける」

 そう言うと久美子の顔をみた。久美子は笑って頷いている。

 茂は案内開始にタッチするとアクセルを踏み込んだ。

 九木神社は九鬼湾を見下ろす場所にあった。敷地内にある案内によると、紀伊続風土記には九木神社は天満天神社の名で、九鬼氏が住んでいた城の西北側に創建した神社と書かれていた。

 久美子はコンパクトカメラで撮り歩いていたが、じっと立ち止まったまま動かなくなった。茂は心配になり近寄って行った。

 久美子の前には丸石を載せた石塔があった。その形の珍しさに見入っていたのだと分かった。

「お父さん」

 久美子は振り向きもせず茂を呼んだ。

「どうした?」

 そこに何かあるのかと久美子の隣に並ぶ。

「わたし、仕事辞めようと思うの」

 茂の心臓は何かに捕まれたみたいな圧迫感を感じた。久美子の口から次に出る言葉を聞かずに耳を塞ぎたかった。

「ねえ、聞いてるの?」

 返事のない茂の顔をのぞき込むように見た。

「一生、この仕事ならできるっていう仕事に就きたの。蓄えは多少あるから、もう一度大学に行ってもいいかな?」

「……あ、ああ、何?」

「学芸員の資格を取ろうと思うの。就職のためじゃなく。第一この歳だと採用もされないだろうし。今やってる郷土史を研究するのにも役にたつだろうと思うの」

「で、一生やりたい仕事って何なんだ?」

「仕事はカフェや雑貨店をしたいと思ってる。ただ、その中身をこれから勉強することとリンクさせていきたいって思ってる」

 茂はこの自由さを羨ましいと思った。昨夜の集まりのときにマルチワークの利点をあげられていたときには、まったく同意しかねた。マルチワーカーとして生きていることが選択的だったのかと疑ったからだ。

「お父さんもそのときは手伝ってね」

 茂は温かいものが胸に広がるのを覚えた。

 

 古民家レストランの前には人の列ができていた。車を駐車場に入れると、茂たちは列の後ろに並んだ。列が進み、店内の待合席に座る。

 茂は近くを通った店員に、

「三木美千代はここにおりますか?」と言った。

 店員は一瞬ぎょっとしたような顔をした。

「三木茂と言ってもらったら分かると思います」茂はそう重ねて言った。

 店員は黙って奥に行ってしまった。

 久美子は呆然として茂の顔を見ていた。

 時間は五分、一〇分と過ぎていった。やがて、茂たちが席に案内される順番がきた。

「久美子、あの写真分かるか?」

 茂は壁に飾られたモノクロの写真を指差して言った。

 久美子はしばらく見て、次にあっという声とともに表情を一変させた。

「お父さん! これ家の庭の木……」 

 やはり久美子も分かったようだった。

 これはあの二眼レフカメラで撮ったものだった。水を撒いた庭木の前に一筋の光が差し込んだ瞬間だった。いい写りだったのでカメラ雑誌のコンテストに応募した。タイトルは「光芒」とつけた。金賞をもらったことを美千代はたいそう喜んでいた。これを美千代は持ち出していたのかと茂は写真を見つめた。

 美千代が来たら、庭の花や木は枯れずに元気だと言おう。あとのことはまたそのときに考えればいい。

 

               了

 

 

 

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