定刻の地下鉄に乗ると、今朝も電車の中はすし詰め状態だった。いつもの駅で降りようとしたが、仕事のことを思うと、気が滅入り、人をかき分けて降りる気力が失せてしまった。ドアが閉まり、電車は動き出す。目を瞑り車両の揺れに身を任せた。しばらくすると電車は次の駅に滑り込もうとしていた。
今から引き返し会社に駆け込めば、まだ遅刻はせずに済む。頭ではわかっているが、身体が会社に拒否反応を起こしている。次の駅でも降りられなかった。
数駅が過ぎてから、やっと重い足を引きずり停車した駅で降りた。いつも降りる会社近くの駅に引き返そうと、反対ホームに立った。見上げると電光掲示板から電車が、隣の駅を出発したことを示している。ゴーという音が地下道から聞こえてくる。だんだん音が大きくなり、風圧を伴い銀色の車体がスピードを落とし停車した。
「新規開拓しろ。会社は営業成績がすべてだ!」しかめっ面で、怒鳴る営業課長の顔が頭の中に浮かんだ。そんなことは百も承知だ。
走り去る電車を見送ってしまった。気が抜けた。後ろのベンチに腰を落とした。
最近、夜眠るときに両手を胸の上に合わせるようになった。死んだ人が手を合わせているように……。
毎朝、空が白けると目が覚めた。出勤時間が近づくにしたがって、身体にだるさを覚える。口の中が乾き朝飯が咽を通らない。
朝刊を手にすると、新聞に挟まれている求人広告に目が引きつけられる。四〇半ばに達した男の求人は少ない。それに今の会社と比較すると労働条件は悪い。
また電車が風圧を起こしホームに入ってきた。仕事のプロセスが頭の中で回転すると、鼓動が速くなってくる。立ち上がる気力が湧かない。ドアが閉まるのを見つめていた。
もう遅刻である。普段から課長には会社の規律をうるさく言われてきた。毎日行われる朝礼に遅れて出社すれば、みんなから非難めいた視線にさらされる。
ベンチに座ったまま、時間だけが刻々と過ぎていく。何本かの電車が大きな音を立ててホームを通り過ぎた。
携帯を取りだし会社に電話をかけると、電話口に課長が出てきた。「熱があるから休ませてほしい」と辛そうな声で伝えた。課長は何か言いたそうな口振りだったが、渋々了解してくれた。
携帯を切ると少し気が軽くなった。大学卒業後就職した会社が倒産し、今の医療機器の販売会社に転職して五年になるが、今までどれだけ休暇を取ったか、思い出そうとしたが記憶に残っていない。
会社を休んだところで、行くところがない。家に帰れば妻に言い訳をしなければならないし、妻との関係もぎくしゃくして、一緒にいれば精神的に疲れてしまう。
先週の日曜日、量販店よりインターネットのほうが安いからと思い、ネットで買ったウォシュレットを、家の便器に取り付けることにした。今日も外は三〇度を超え猛暑が続いてる。古いウォシュレットを取り外していると、額からぽたぽたと汗が流れ落ちてくる。汗をタオルで拭いながら、説明書に目を通す。プラスのドライバーが必要であることがわかり、道具箱を取りに居間に入ると、震えがくるくらい、クーラーが効いていた。ソファに座りテレビを見ている妻と視線が合ってしまったが、何も言わない。
ウォシュレットの設置が終わり、居間に道具箱を戻しに行く。テーブルに道具箱を置いたとき、
「その道具箱、トイレの床に置いてたのを、なぜテーブルの上に置くの」
妻の言葉に何も言えなかった。腹の中から怒りを込めて、言い返す言葉が湧き出てくる。
「汗をぼろぼろかきながら、ウォシュレットを取り付けているときに、クーラーの効いた部屋でテレビを見ていたくせに、その言葉はないやろ」そう言えば、妻が反論する言葉はすでにわかりきっていた。
「そんなこと言うのだったら、何もネットで買わなくても、近くの電気屋で買って、お金支払ったら、取り付けまでしてくれるわ」
「その金、誰が稼いでいると思っているのや」
反論すれば、その成り行きは頭の中で読み取ることができた。これ以上夫婦間を揉めさせたくなかった。
一年前までは、何かあれば妻をどやしつける亭主関白の夫であると、自負していた。それが妻に反論のできない夫に成り下がってしまった。妻に尻尾を振る犬と同じである。
一年前、妻から一枚の用紙が手渡された。それは離婚届だった。一瞬、後ずさりした。妻の顔を見たが、真剣な顔だ。冗談ではない。表情でわかる。
「サインと押印をお願いします」
その場は、「ちょっと待ってくれ、そんな急に……」そう言って、その場を繕いだが、解決したわけではない。今も居間の整理ケースに入っている。
生活に余裕ができれば、今まで行けなかった温泉地巡りや、好きなことをして充実した人生を送りたいと、思っていた矢先、離婚届を突きつけられたのである。離婚となれば、二人で貯めてきた貯蓄の半分、妻との共有名義の自宅の半分を渡すことになる。それに大学生の娘と高校生の息子は、妻に付いて行くと想像ができた。
離婚したとして、ひとりで生活ができるのかと冷静に考えれば、炊事洗濯など、今までしたことがない。食事の支度など、会社から帰ってできるはずがない。この歳では再婚も期待できない。毎晩アルコールを飲みながら、コンビニ弁当が続きそうである。コンビニ弁当では栄養のバランスが悪い。それに添加物も含まれていると聞く。そんな毎日が、死ぬまで続くのかと思うと、ぞっとする。
離婚となると、お互いが、財産をより多く取り込もうとする。言い分の争いとなり、揉めれば、弁護士を立てて、裁判で争うことになるだろう。費用もかかる。
やっと別れたとしても、妻に対して遺恨を残すことになる。毎日が、荒れた生活になることが想像できる。そんな生活で何年も生きられるのか。会社で働きながら五年も生きられたら御の字だ。短ければ三年かもしれない。人間の身体なんて、健康に見えても、不規則な生活を繰り返せば、病気になってしまうだろう。そして死を迎えることになる。
妻との婚約当時が思い出される。肌の色が白くて、無口で、側にいても、考え事をしていると、一緒にいることを忘れてしまうほど、静かな存在で品があると感じた。また側にいてくれるだけで、心に温もりを覚え、充実した人生を送っている気がした。この女性は大和撫子ではないかと、思えるぐらい気に入っていた。
そんな妻と、結婚できることがうれしかった。それまでは、仕事が終わると酒場をうろつき、飲み屋の女を相手にしていた。決して健康的な生活を送ってこなかった。
結婚して一〇年間は、円満な生活が続き、娘と息子が生まれ、納得ができる生活ができたように思う。
どこで間違ってしまったのだろうか。昨夜も、不愉快なことが起こってしまった。妻に「体調はどうや」と一言声をかけた。一般的には何ともないのだが、妻は不機嫌に顔をしかめて、「そればっかりや」と声を返してくる。
妻はセックスを要求したと勘違いして、怒りの表情を顔に表したのだ。こちらはいい迷惑だと思った。冷静に考えてみると、一年前までは、いつも妻に「体調はどないや」と言って、セックスを要求していたことに気がついた。
会社を休んだが、今からどうするか迷った。どこかの公園で、ベンチに寝ころんで時間をつぶすことしか、頭に思い浮かばない。
ゆっくり立ち上がり、階段を上って地上に出ると、夏の季節を感じさせる蒸し暑さだった。交差点に立ち周囲を見渡していると、横をネクタイ姿の男が急ぎ足で通り過ぎて行く。何かを忘れてきた思いで男を見てしまう。
コンビニで缶コーヒーを買い、花壇の石段に腰を落とし、目の前を通り過ぎて行く人々を眺めていた。通勤時間が過ぎるにしたがって、人通りは少なくなっていった。
交差点に立って、左から流れてくる人通りの奥に進んでみた。線路を横切る地下道を潜ると、陰気な幅三メートルほどの通りは、行き交う人々の肩が当たりそうなくらい混雑している。両側には寿司屋や串カツ屋が並び、一皿百円、串カツ百円の値段表が壁に貼り付けてある。
どこの店も開店して、あまり時間がたっていないと思われるのに、満席に近い。食べ物屋に挟まれた将棋の店に、立ち見客が出ていた。お金を賭けているのか、真剣な表情で将棋盤を睨み付けている。
店の中を覗きながら歩いた。ロの字型になったカウンターに空席があるのを確認して、串カツ屋の暖簾をくぐった。
「お兄さん、そこの席、座ってんか」
カウンターの中にいた店員が声をかけてくる。突然の声に店員の顔を見る。にこっと笑い、手のひらを前に出し座るよう合図をして、ちょこっと頭を下げた。
顔を赤くし無精髭が伸びたポロシャツ男の横に座った。店の中を見回すと、カップルもいれば厚化粧の水商売と思われる女もいる。お互いに自分らの世界を作り、会話に花を咲かせていた。
カウンターに、ウスターソースが溜められた、ステンレスの容器が置かれている。朝食は何も食べていない。食欲がなく食べられなかったのだ。辺りを見たがだれも飯など食べていない。
串焼きを注文した。「どて焼きは、どないだす」店員が聞いてきた。どんなものかもわからず「たのむわ」と返事をした。「飲み物は」の問いに、べつに咽が渇いていたわけではないけれど、これも勢いで「ビール」と応えた。
どて焼きは串に刺した肉の筋を、鉄板の上で味噌を混ぜて焼いたものである。この店の名物なのだろう。たくさん鉄板の上に盛り上げられていた。
一分ほどでビールと、どて焼きが二本皿に乗せられカウンターに置かれた。串を持って口の中に入れたが、肉の筋だけあって簡単に噛み切れない。口の中でガムを噛むようにもぐもぐさせた。なかなか小さくならなかった。
隣のポロシャツ男が気になった。朝から髭も剃らずビールを飲んでいる姿に、出世街道を外れた落伍者に見えてくる。自分はどうだ。サラリーマン生活に慣らされ、上司の顔を窺いながら、仕事のノルマに追われている生活に疲れてきた。
あくせくと働いても、妻はそれが当たり前と思っている。会社の中で苦しい立場に置かれている夫のことなど何も考えていない。夫は給料を持って帰る働き蜂でしかない。自由に生きている隣のポロシャツ男が、羨ましく思えてくる。
「兄さん、どこから来たん?」
労務者風のポロシャツ男に声をかけてから、ビール瓶を持って、男のコップにビールを継ぎ足そうとした。
「これはどうもすんまへん。この近くですわ」
男は不意に声をかけられたので、驚いた顔を見せたが、コップを瓶先に持ってきた。
「そうですか。この近辺ですか」
そう応えると、男は何回もうなずいたまま、何も応えなかった。
目の前に四角いステンレスの容器が置かれた。容器の中ほどに網があり、その上に店員が串カツをのせてくれた。揚げたての串カツから、容器の底に油が滴り落ちている。続いて皿に盛られたキャベツが出された。口の中のどて焼きが少し柔らかくなったので、ビールと一緒に飲み込んだ。
ポロシャツ男の顔から、無精髭の奥に隠された肌は以外に青白かった。労務者には似合わない細い指で、串カツやキャベツを、ウスターソースに浸けて食べていた。
華奢な体型も労務者に似つかない。五十歳前と思われる男は、企業戦士として一流企業に勤めていたのかも知れない。定まらない視線を壁に向けたまま、物思いに耽っている態度を見せていた。
男のしんみりとした雰囲気が深い過去を漂わせている。目の周りが赤くなっているところを見ると、幾杯かのビールか焼酎を飲み干しているのだろう。
ビールのコップを両手で胸の前に捧げるように持ち、肩をすぼめ、前かがみの姿勢で座り、ちびちびと飲んでいる。身体に疲労感を滲ませていた。
「わしなあ、昨日、飛田遊郭に行って来たんや、よかったで」
ポロシャツの男は、突然、小さな声で、耳元でささやいた。どきりとした。頭は洗っていないのか、油が浮いていた。黄色い歯を見せ、大きな目をぎらつかせた。品のない男だ。がっかりした気分になった。
ビールを二本飲んだが、酔った気分にならない。早く職場を退職して、ストレスから解放されたい気持ちが湧き出てくる。中年といわれる四十五歳という年齢が、そう思わせるのかもしれない。しかし、家庭をもち経済面を考えると、退職するわけにはいかなかった。
男の、先ほどの言葉が脳裏にちらつく。一年間、妻を含め女とセックスをしていない。まだ四十五歳、女なしでは耐えられない心境だ。ペニスが元気なうちに、もっと多くの女とセックスをし、人生を楽しみたい。
毎日会社で四苦八苦しながら働き、給料を持って帰っても、それが当然の顔をする妻。職場にも妻のような中年の女がいる。長年経理を担当し、課長に取り入り、営業の成績にも口を挟んでくる。反論をしようものなら、課長に告げ口をする。営業課のお局だ。思い出しただけで腹が立つ。
妻とは離婚届けの件以来、セックスを要求しても拒否をされ続け、寂しく自分で処理をしてきた。仕事に行けば職場で課長から、成績アップばかりを要求される。お局には、上司でもないのに仕事のやり方に口を挟まれ、挙げ句の果てに馬鹿にした目つきで見られる。
この逆境から脱出するには、原因の真逆を行えばよいと思うのだが……。妻に対しては、セックスを拒否するのを無理矢理押し倒し、衣類を剥ぎ取り、妻の股間に前戯なしで、ペニスを付け根まで強引にぶち込んでやりたい。課長に対しては「馬鹿野郎!」と、怒鳴り、パンチを一発食らわせ、お局には、「ババア、うるさい、黙れ!」と、言い返してやりたい。
現実には、思っているようなことはできない。何か刺激がほしい。仕事に追われ、また安らぎのない家庭。息の詰まりそうな毎日の仕組みを、自分の手で壊し、胸の中に溜まったもやもやを、吐き出したい。
このストレスの鬱積を発散するには、何も考えず一点集中で、好みの女性を抱き、溜まった精液を思いっきり放出することが一番である。
会社に出勤する格好だが、癒やしてくれる女がいる飛田遊郭に、行ってみようかと思った。どうせ行くあてもない。風俗街なんか何年か前に行ったきりで、はっきりした年数は思い出せない。それも酔った勢いで店に入った。やっぱり入るには度胸がいる。素面では入りにくいと思った。
「日本酒を一本お願いします」
串カツ屋を出て地下鉄駅の方に引き返すと、横断歩道が目の前にあった。道の向かいに『動物園前一番通り』と、大きな看板が掲げられた商店街が見える。少し酔った身体を生暖かい風が取り巻いた。
動物園前一番通りへ入る。道の上にアーケードを覆いかぶせた商店街は、陽が射し込まない。人通りも少ない。薄暗さと閑散とした寂しさが、不気味で陰気臭さをさそった。
商店の間に細い路地が入り込み、その奥は古い建物が互いにもたれ掛かり、陽の当たらない暗さが気味悪さを感じさせる。どこの店も商品が道端まではみ出し、通りが侵されていた。
ハングル文字で書かれた、大衆食堂や店がやけに目につく。労務者風の男が道端で、使い古しのアダルトDVDを売っている。値札は百円単位であったが、立ち止まるものはだれもいない。
前後から自転車が通り抜けて行く。注意をして歩かなければ当たりそうになる。パチンコ屋を過ぎ、T路のところを左に曲がりアーケードから抜けだした。
急に辺りが明るくなり青い空が見えた。道の両側に白壁の城壁を思わせる古風な長屋建ての建物が、整然と続いている。五メートルほどの間隔で四角い門灯が、二階付近の軒先から突き出していた。白い門灯に『松』『丹生』『文一』といった屋号が黒色で書かれ、何十軒も両側に続いている。
一瞬足がすくんだ。別世界に足を踏み込んだ心境である。『飛田遊郭』なのだ。ちょっと身体が緊張し心がときめいた。
テレビで時代劇を見ていると、通りの両側に格子のある遊郭が出てくる。格子の中には赤い派手な着物の綺麗な遊女がいて、男たちは格子を通して、自分好みの女を品定めをする。中にはちょっかいをかけて楽しんでいる男もいる。やり手婆が横から「遊んでいけ」と声をかけ、男の袖を引っ張っている。そんな光景が頭に浮かんだ。
神戸にある福原のソープランド街は知っているが、男女雇用機会均等法が施行されている現在に、遊郭という場所が、未だに日本の国に存在するなんて、信じられない気持ちである。
顔を左右に動かしながら歩いた。五メートルほどの間口は、どこも開け放され家の中がよく見える。造りはどこも同じだ。福原ソープランド街の立派な建物より、飛田の長屋建ての方が開放的な感じを受け、赤線時代の名残りをとどめている。
奥行き一メートルほどのところに、たたきがあり、その奥に一段高く横に長い畳の座敷がある。女の人が一人だけ座椅子に座り微笑んでいる。着物じゃなくて洋服姿だった。もっと年輩の女性を連想していたが、看板娘なのか若くてスタイルも良い。
間口を覗き込む男の視線を誘うように、崩した二本の脚から艶めかしさが漂う。二十代前半と思われる女と視線が合い、年甲斐もなく気恥ずかしい気持ちになる。
そっと胸ポケットを押さえ、財布の感触を確かめた。福原よりずっと刺激的で淫らな匂いを、この街は持っている。色街の匂いが下半身を締め付け、緊張感から足取りを鈍くさせた。
この街を行き来する人たちが欲求不満顔に見える。大きく首を振り家の中を覗いている六十歳くらいの男。恥じらいを隠し固い表情で、盗み目で女に視線を送り足早に歩くサラリーマン。わざとらしく大きな声で話し合いながら、肩を怒らして歩く遊び人ふうの男たち。彼らの身体から発散される欲情が、この街をおおっている。
ときどき店の前で立ち止まると、座敷の端に腰掛けていた、やり手婆が動き出す。道端に一歩踏み出し、招き猫みたいに手招きをし、皺が刻み込まれた顔面に笑みをたたえ、「お兄さん、遊んでいき」と内緒話をするような、籠もった声を投げかけてくる。
座敷に座っている若い女の視線を感じる。白いブラウスに黒いスカート。色の白い面長の顔立ちで、ストレートの髪が肩にあたり光沢を放っている。スリムな体形で、目が丸く、黒髪が魅力的だ。
中年を迎えた自分が、女を求めて遊郭の中を覗き、大学生の娘とあまりかわらない女性と、肉体関係を持とうとしている。緊張感と気恥ずかしさで、来るまでのときめきと、うって変わって鬱陶しさを覚えた。
商売女と遊ぶ行為が汚らしいことだと思うほど、潔癖感を抱いているわけではない。しかし、男と女の関係はお互いが好意を持ち、紆余曲折を経て関係を持つというのが、自然の姿だと思っている。男と女がそれぞれ悩んだり、迷ったりした末に結びつくからこそ喜びも大きい。
男の立場からいうと、難攻不落の女を努力することによって、自分になびかせたときのプロセスが男冥利につきる。プロセス抜きの男女関係なんて、欲望のみに生きる動物と同じである。
いくら粋がったところで、相手がいない現実では、性欲を求める動物と同じである。
風俗店で遊んできたことを娘が知ったら、「不潔! 最低!」と嘆き、軽蔑の目つきで父親を見つめ、口もきいてくれないだろう。
「黙っていれば、わからないさ。自分自身の人生を楽しんだ方がいいんじゃないか」耳元で、もうひとりの自分がささやいてくる。
風俗店で女と遊ぶなんて久しぶりである。転職してから仕事のことばかり考えていて、性行為は妻のみである。それも一年以上遠ざかっている。店の前に立つと心臓がどきどきする。急に小便がしたくなり、公衆便所を探し用を足した。
何軒も続く店先の通りを、盗み見で店の中を覗き、好みの女性を探した。迷ったあげく、先ほどのストレートの黒髪が似合う女の店に、足を一歩踏み入れた。同じ遊ぶなら目が大きくて髪の長い女に決めていた。理由を聞かれても特にない。髪が肌に触れる感触が好きなのだ。
やり手婆が、手のひらを揉みながら作り笑いで店の奥に招いた。女に目を向けると立ち上がり、笑みを浮かべて、「いらっしゃい、どうぞ」と横の階段に視線を送った。階段の上がり口に、紙に書かれた料金表が壁に貼られていた。
「十三階段とことんと、登ったところが四畳半、金の屏風に銀布団……」そんな小唄の替え唄を頭に描き、期待感を膨らませ、女の後ろから階段をのぼった。
六畳くらいの和室に通された。部屋の隅に小さな冷蔵庫と小さなテーブル、それに折り畳んだマットが置かれている。冷蔵庫からジュースを取り出し、コップに入れテーブルの上に置いてくれた。
部屋の中を見回すと、壁に貼られた『衛生用具をご使用ください』の、紙が目に付いた。
今から、この場で行われることを連想すると、咽の乾きを覚え、全身がぎこちなくなる。これが緊張感であることがわかる。出されたジュースに口を付けているあいだに、女はマットを広げ準備をしていた。
「基本は四十分だけど、延長する?」
突然の質問に言葉が出ない。迷っていると、
「いいのよ。余分な気をつかわなくても……基本だけね」
女にお金を渡すと部屋を出て行った。すぐに戻ってきた女は、笑顔を見せ時間を惜しむように、ブラウスのボタンに手をかけた。じっと彼女を見ていると、
「時間がないから早く服を脱いだら」
女の言葉に従った。こんな可愛い顔して、なぜこんなところで働いているのだろうと、疑問が湧いてくる。お金に困っているのか。彼女に聞いてみたい気もする。そんなことを考えていると気持ちが冷めてくる。
福原と違ってここは、設備が質素である。風呂場もない。行為が済めばお絞りで拭いて、それで終わるのだろう。壁掛けエアコンの風が気持ちよかった。
女は無表情で事務的に行為を行おうとしている。笑みだってあくまで愛想笑顔だ。味気ない気がする。男と女が性行為をして性欲を吐き出すだけ。むなしい気持ちが湧き出る。
「なぜこんな商売をしているの?」
事務的な閉塞感を取り除くために、聞きたいことを口にしてしまった。
「田舎の父親が病気なの。わたしが働いてお金を稼いで、家に仕送りしているの」
無表情で応える。昔の時代によく聞いた話であるが、悲しい話である。実話なのか疑わしいところもある。別に疑ったところで仕方がない。
「早くしないと、時間が少なくなっていくよ」
またまた事務的な言葉。そして、「女にはいろいろあるのよ」その一言で煙に巻かれた。
女の顔を見ていると不思議でならない。将来をどう考えているのだろう。まともな結婚ができると思っているのか。夫になる者が妻になる女の過去を知ってしまったら。身体が汚れていても、心までが汚れていなければ、それでいい。そんな心の広い考え方ができる男がいるというのか。現実はそんな簡単に気持ちが、切り替えられるとは思えない。
話が実話なら、なんと殊勝なことか。こんな女がまだ世の中にいるのか。風俗店に働く女なんか小遣いがほしくて、またブランド品を買うために働いているのが、関の山だろうと考えていた。
どの店も二十代の若い女たちである。なぜこの職業を選んだのか、個々に事情はあると思うが、安易な気持ちが拭いきれない。
女の誘いに、刺激を求めて来たのだからと身体を重ねた。弾力があり、すべすべしている。それにシミのない真っ白な肌。やはり妻の肌とは大きな違いである。おっぱいは貧乳だが、垂れているよりは良い。お尻は肉が盛り上がっていて、頬ずりすると気持ちがいい。
彼女の身体を貪るように舐め回した。舌の先が痛くなってくる。それでも久しぶりの柔らかい感触は、気持ちを高揚させた。女は快感が最高潮に達したのか、うめき声をもらした。股間に手のひらを這わすと、粘りのある愛液が指にまとわりついてくる。女が腕を伸ばし抱きついてきた。甘い匂いのする黒髪も一緒に絡みついてくる。ぞくぞくと感情が高まる。
女の両膝を掴んで広げ、股間に視線をやった。綺麗に手入れされた陰毛が濡れて、肌にへばり付いている。舐めたいと思ったが、一瞬躊躇した。性病が脳裏をかすめる。毎月定期検査はしていると思うが、検査後に性病を貰っている可能性はある。
「恥ずかしい」
弱々しい声がした。女を見た。横に向けた顔に黒髪が覆い被さり、白い裸体が艶めかしい。恥じらう彼女が恋人に見えてくる。
客との性行為には、ゴム使用を義務づけている。性病を貰っている可能性は低い。それに唾液は殺菌作用もあると聞く。
陰毛の奥に唇を押し当て、クリトリスを強く舌で舐めたあと、思い切り吸った。女は「ああ……」と声を漏らし、大きく身体を反り返らせた。粘りのある液体が一緒に口の中に流れ込み揺れている。咽を鳴らし飲み込んだ。どろっとした粘りの付着感が咽の奥に残る。
彼女と視線が合った。「入れる?」の小さな声に、うなずくと、口でゴムを付けてくれた。
女を仰向けに寝かせ、両足を両脇に抱え込んだ。ペニスを女の股間に押し当て、腰を前に突き出し、滑り込ませた。ぎゅっと締め付けられた感触が伝わってくる。膝立の体勢がぐらつき、バランスを崩しそうになる。両足を抱え込んでいた両手を離した。女の上に覆いかぶさり、右腕を首の下に回し、身体を引き寄せる。肉体を密着させ、腰の運動を繰り返した。
下半身に軽い痛みを覚えると同時に、全身に快感と痙攣を起こし、奥に溜まっていた精液を放出した。
鼓動が速くなり心臓音が唸った。呼吸回数が一気に増え、息苦しさを覚える。全身の力が抜け女の上に体重をあずけた。少しの間、身動きができなかった。
「大丈夫?」
声をかけてきた。呼吸が整うまでは喋れない。
「重たいんだけど」
彼女の言葉に、何とか身体を、女の上から横にすべらせた。仰向けに寝転び心臓音が静まるのをまった。急に疲労感を覚え、天井を見つめていた。少し時間が経ったように思う。
「お客さん、もう時間だから」
女は横に座り、さりげなく言った。彼女ともっと一緒にいたい気がした。全身が興奮し、息苦しくなるくらいの、セックスなど記憶にない。ただ歳を重ねるごとに、息が荒くなっていく気がする。この女は、妻にないものを持っていた。一緒にいると、別世界にいる感じを覚える。
「時間を延長しようか」
そんな言葉が口から出てしまった。この歳になれば、再度この女と関係を持つほど、肉体的にも精神的にも若くはない。それでも、大きな刺激を与えてくれた。
自分の娘と目の前の女が、ほとんどかわらない歳なのに、環境の違いに鳥肌が立つ。女の苦労を考えると、娘は何と恵まれた環境にいるのだろうかと思ってしまう。娘がこの女と同じ環境に置かれたら、親としたら耐えられるだろうか。
今、この女との関係はお金で繋がっている。それでも関係を持つと友達になった気分になる。この部屋に入ってきたときの緊張感が嘘のように、今はリラックスしていた。
彼女と外で会いたい気がする。この部屋でしか見えない部分と、また違った女の面を見ることができると思う。いつの間にか、彼女のことを、恋人のような目で見てしまっていた。
「いいのよ。無理をしなくても」
顔半分に垂れ下がった髪を、右手でかき上げながら言った。普通なら「ありがとう」と言って喜ぶはずなのに、商売気のない突き放した言い方が気になった。
「無理なんかしていない。おねえさんが気に入ったんだ」
言ってしまってから、どきっとした。自分の気持ちを、素直に口に出すことができたからだ。職場でも家庭でも虐げられ、ほとんど本心を話せなかった。
「ありがとう。優しいのね」
女は顔に笑みを浮かべてから、バスタオルで前を隠し立ち上がると、壁に掛けてあるインターホンで階下へ延長を伝えた。
マットの上に胡座をかいていると、冷蔵庫を開け「ウーロン茶でもいい?」と言った。うなずくと缶のウーロン茶をコップに移し替え、畳の上に置いてくれた。それを持ち上げ、半分ほど飲んだ。
「もう一回やれる?」
女が聞いてくる。
「今はだめだ。少し話でもしようか。そのうち元気になるかも」
そう言って、小さくなったペニスに視線を落とした。
「そうね、すぐには無理かもね。でも話だけなら時間が惜しいから、少しいい気持ちにさせてあげる。仰向けに寝てくれるかな」
言われるままに寝転ぶと、両手の手のひらでペニスと袋部分を掴み、ゆっくりもみほぐすように愛撫しだした。柔らかい手の感触が伝わってくる。固くならなくても、この感触が気持ちよい。天井を見つめ女に身を任せた。
「わたしね、今月いっぱいで、飛田で働くのを辞めるの。お金も貯まったし、もう潮時だと思うのよ」
「故郷に帰るの? お父さん病気なんだろう」
「あれは嘘なの。ここに来るまでは、アパレルのお店で働いていたんだけどパートだったから、給料もほとんどアパート代や生活費に消えてしまったわ。友達に誘われて、この世界に入ったんだけど、やっぱり合わない。その友達は、この店を辞めて、今は神戸の福原で働いている」
「福原のソープランド?」
「そう、店の名前は『ハイビスカス』で、エリカという名前で出ていると言っていた……福原に行くことある?」
「何年か前に、行ったことがあるけど、なぜ?」
「行くことがあったら、寄ってあげてほしいの。エリカさんには、この店に入ってから、いろいろ世話になったの、だから一人でも多くのお客さんを紹介してあげたいの、お願いしてもいい」
「わかった。福原に行くときは、『ハイビスカス』に寄って、エリカさんを指名すればいいんだな」
「ありがとう。わたしの名前はユミ。エリカさんに出会ったら、わたしの名前を出してもいいよ。辞める間際になって、お客さんのような、いい人に出会えて良かったわ」
「こんな商売をしていると、いやな客も来るだろう」
ユミは突然手を止め、ペニスから手を離し、真剣な表情をした。
「お客さん、わたしの話を聞いてくれない。辞めるまでに、だれかに聞いてほしかったの。お客さんみたいな、賢そうな人で、まじめに応えてくれる人に聞いてほしいの」
「賢くはないけど、話なら聞けるし、参考意見ぐらいは、応えられると思うけど」
彼女の身の上話でも、聞かされるのかなと思った。
「お客さん、わたしのこと、どう思っている」
「どうって?」
そう応えながら、内心どきっとした。
「こんな商売をしていると、客の男たちは、にたにたと笑いながら、今の時間は金を出して買っているんだから、何でも好きなことをさせろと言って、プレイ道具を持ち込んでくる男がいるの。わたしたちは性的奴隷ではないわ。身体を売っていると言われるけれど、臓器売買のように、肉体を切り売りしているわけでもない。たんに肉体を用いたサービスを売っているだけなのよ。お客さん、そう思わない?」
目の前に、覗き込むユミの顔がある。場違いな内容の質問に、どう返答していいのやら困った。
「そのとおりだよ。いろんな事情があって、このようなところに勤め、身体を使ってサービスを提供しているだけだよ」
身体を起こし、とりあえず差し障りのない返事をした。彼女は、なおも話を続けた。
「若い綺麗な女性が、遺産目当てに、本当は愛していない老人の財産家と結婚することは、一種の売春だと思うの。経済的なことも考えず、愛だけで結婚するカップルなんか、ほんの少しだと思う。専業主婦志望の女性は、相手がハンサムかどうかよりも、収入が多いかどうか。あるいは学歴が高くて将来出世しそうかどうかということを、重視するのではないのかしら。遺産目当ての女も、専業主婦も、風俗で働く女も、みんなセックスで生活をしているという点では、変わりがないと思うの」
まじめな顔で、意見を求めてくる。
「たしかに言うとおりだ。道理にかなっている」
ユミの話から、仕事の関係で福祉事務所に立ち寄ったときのことが、思い出された。職員から生活保護が必要な対象者をクライエント。個別的に接する援助業務をケースワークと呼び、援助業務に従事している人を、ケースワーカーと言うんだと聞いたことがある。
同じ考え方をすれば、快楽の癒やしを求めている男性客がクライエントで、セックスを提供する行為はセックスワークであり、それに対応している女性は、セックスワーカーではないのかと、そんなことを考えてしまった。
「偉そうなことは言えないけど、女性はセックスによって、価値観が損なわれることはないよ」
先ほどの行動を考えると、気恥ずかしい思いだったが、はっきりと言ってやるべきだと思った。
彼女は黙って、うなずいて聞いていた。会話が途切れ、少し場がしらけてきた。
「ごめんなさいね、変な話しちゃって……サービスしちゃう」
空気を読み取ったのか、ユミはそう言って、小さかったペニスを握り、口に咥えてくれた。生暖かさが伝わってくる。舌で裏側をさする。くすぐったい感触が快感に変わってきた。元気になり、徐々に固くなっていくのがわかる。
「どう、気持ちいい」
ユミは顔をあげ、笑みを浮かべ優しく言った。美しい顔だった。なにか心が癒やされる感じを受けた。二回目は射精をしなくても、癒やされる笑顔を見せてもらっただけで、もういいと思った。
そのときだった。インターホーンが鳴った。
「ごめんなさいね。時間なの……今日は、話を聞いてくれて、ありがとう」
彼女は申し訳なさそうに言った。
衣服を着ながら、ユミとは一時間余りしか接していないのに、別れを思うと手元が鈍る。このまま帰るべきか、それとも再延長するべきなのか、迷いが出てくる。
またインターホーンが鳴った。彼女が出ると、次の客が来店したとのこと。別れの余韻に浸っている間はない。
「話を聞いてもらって、すっきりしたわ……もう会えないと思うけど。本当にありがとう」
ユミは微笑んだ。
「福原に行ったときは、『ハイビスカス』に寄るから、今日は楽しかったよ」
そう言って、彼女の寂しげな笑みを振り切って店を出た。
頭の中は、ユミの面影に支配されたまま、飛田遊郭街を通り抜け、天王寺公園内を歩き、動物園の上を跨ぐ歩道を新世界へ向かった。後方には、この界隈に似合わない白い建物の美術館が、木々の中にひっそりとたたずんでいる。
太い道に出ると、車が容赦なく横を走る。排気ガスが太陽に照りつけられ、大気に混じって濁った空気が、暑苦しい街に変えてしまっていた。
新世界の界隈にたどり着くと、うどん屋の看板が目に入った。黒色に塗られたカウンターに座り、
「きつねうどん。それから生中を……」
先に出された生ビールを口から流し込むと、咽に染みこんだ。
数時間前に、どて焼きと一緒に飲んだビールは、遠くの記憶となってしまっていた。一口、二口と間をあけ、あとは息もつかずに飲みきった。胃の中で泡が消えるのをじっとまった。うどんを口に押し込み、このあと、どうすべきかを考えたが、結論は出なかった。
ユミとの行為を思い出した。あんな充実した時間を過ごすことなんか新婚当時だけだ。ここ数年記憶にない。胸の奥に詰まったままの、妻に虐げられた思いや、課長に押さえつけられた思い、お局に言い返せない屈辱感が、少しは吹っ飛んだ感じだが、すべてが取り除かれた訳ではない。
家に帰るにはまだ早い。いつもは夜の八時以降しか帰っていない。今帰れば妻に問い詰められ、仕事を休んだことがわかってしまう。このままでは家に帰れない。
うどん屋の壁に貼り付けてあるカレンダーから、今日が七月の下旬であることを意識した。ユミは今月いっぱいで店を辞めると言った。そのときは、「そうなんだ」と頭でわかっていたが、ほとんど無意識で聞き流していた。全く会えないわけではないが、あと数日の間に飛田に行く確率は低い。恋人と別れるときの、寂しい思いが吹き出てくる。
ユミは福原に行くとき、『ハイビスカス』に寄って、エリカを指名してあげてほしいと言った。今から福原に行ってみようかと考えた。これも何かの縁である。
地下鉄に乗り、阪急電車に乗り換えて、神戸へ向かった。車内は空いていて、座ることができた。梅田から神戸まで三五分の距離なのに、神戸の街が遠くに感じられた。
地下にある高速神戸駅で降り、階段を駆け上がると商店街に出た。コンビニのATMでお金を引き出してから、ワンカップの日本酒とペットボトルのお茶を買った。咽の渇きを覚え、店先でペットボトルのお茶を半分ほど飲んだ。
少し歩き大通りに出て左側を見上げると、桜筋、柳筋の文字が入ったアーチが道を跨いでいた。この一角が福原ソープランド街であることを表している。身体からぞくっと武者震いが起こる。立ち止まり一息大きく空気を吸い、深呼吸をする。陽はまだ高く、照りつけた。
道の側に無料案内所の看板を見つける。ドアを開けたが誰もいない。部屋の真ん中に机が一つ置かれていた。室内を見渡すと、壁に店舗一覧と書かれた福原ソープランド街の地図が貼ってある。店舗数を数えると六五店舗あった。その中から『ハイビスカス』を探すが、なかなか見つからない。地図の上を指先で押さえ店舗名を確認していく。「あった」口元から声がこぼれた。
柳筋のほぼ中間辺りに、目的の店がある。近くに目印になるような物がないかと注意深く見ると、交番があった。そこを右に曲がると目的の店である。交番から距離にして三〇メートルほどしか離れていない。何か違和感を覚えた。
無料案内所を出た。道端にゴミ箱を見つけ、残っていたペットボトルのお茶を飲み干し、空を捨てた。柳筋へ足を踏み入れる。道を挟んで、両側の歩道には柳の木が植えられていた。ソープランド店は道筋に数台程度置ける駐車場を、挟むようにして並んでいる。店先に白カッターに黒ズボンといった服装で店員が立っていた。視線が合っても声をかけてくることはなかったが、顔に笑みをたたえ、店内へ誘い込む表情を見せる。無視して歩いた。背中に、じわっと汗が浮いているのがわかる。
色とりどりの建物が色街を飾っている。どの店も看板か建物に店のネームを入れ、入り口付近には、時間ごとの金額が表示されていた。
前回福原に来たときのことが、何年前だったかはっきり思い出せない。転職前だったと思う。たしか夜で、赤や青のネオンがソープランド街全体を包み、イルミネーションが綺麗かった。酔っていた男の欲情を掻き立てられた記憶がある。
久しぶりの福原に緊張しているのか、やけに咽が渇く。ソープランド街なんか素面では歩けない。気恥ずかしい気持ちになる。
「上司の機嫌取りなんて糞食らえだ。それに利己主義の妻なんか、ほっとけ。ソープ街に来れば、妻なんかよりも、何十倍も、上等の女が抱けるのだ、ざまをみろ! これから人格を変えるのだ。好きなことをいっぱいして、悔いのない充実した人生を送るのだ!」
口の中でつぶやき、自分自身を奮い立たせた。
交番の前まで来た。窓越しに中を覗いたが、パトロール中なのか人の姿はない。角を曲がると、目の前に白い建物が見えた。外壁に『ハイビスカス』と書かれていた。間違いなく探し求めていた店舗である。
ポケットからワンカップ酒を取り出し、キャップを開けてから中身を口に流し込む。咽に染み込んだ。三口、四口と間をあけて、飲み干した。胃の中が熱くなるのを覚える。空瓶を側にあった自販機の空缶入れに捨てた。
身体の芯がほんのりと温もった。緊張感を取るためにワンカップ酒を飲んだのに、小便がしたくなってきた。まさか道端で、立小便をするわけにはいかない。
『ハイビスカス』の前に来た。店の中に男性の姿を見ることができた。店の外を見やっていた店員と目線が合うと、にこやかな笑みを送ってくる。
店の中に入ると、「いらっしゃい」と、ありきたりの言葉をかけてきた。玄関ホールにボックスが六セット置かれている。その一つを指し、座るように勧めてくれた。店員に「座る前にトイレを借りたい」と言った。
トイレは綺麗に掃除がされゴミ一つ落ちていない。用を済ますと、気持ちに余裕が生まれた。洗面所から出ると、待っていた店員が、手拭きのお絞りを渡してくれた。
ボックスに座ると、システムを書いた案内書を持ってきた。空調が適度に効き、汗がひいていく。
「どのコースをお選びですか」と声をかけてくる。
「決められている女の子はいますか」と続けて聞いてくる。
エリカの名前を出そうかと思ったが、女の子の顔写真を見てから決めることにした。エリカが好みの女性でなかったら、別の女性を指名しても、いいのではないかと考えた。
「女の子を見てから決めるから」
そういう言うと、ラミネートされた女の子の顔写真が、テーブルの上に示された。こういう写真は、ほとんど修正が加えられている。可愛いか、綺麗かのどちらかだ。
十数名の出てきた顔写真の中に、エリカと書かれた女の子を見つけた。顔写真を手に持ったが、さほど美人という感じは受けなかった。
「今見られている女の子はどうですか。テクニックは当店のナンバーワンです。それに優しいですよ」
エリカを勧めてきた。顔は普通で悪くはない。にこっと微笑んでいる。優しいのは嘘ではないだろうと思った。先ほど頼んだホットコーヒーが運ばれてきた。もちろんサービスだ。
エリカの顔写真をテーブルの上に戻す。写真だけで女の子を選んだりしていると、綺麗な女であっても、気の強い無愛想な女に当たることがある。態度の横柄な女の場合、気がしらけてしまい、立つものも立たなくなってしまう。
少しくらい顔が良くなくても、優しいサービス精神に徹する女に当たれば、その方が、充実した時間を過ごせるというものである。
「この店の指名ナンバーワンの女の子はどの子?」
店員は、待ってましたと顔に笑みを浮かべる。
「この店の指名ナンバーワンは、先ほど勧めましたエリカさんです」
店員はラミネートされたエリカの顔写真を指で示す。ショートヘアで面長な顔立ちだった。思案をしていると、
「先ほども言いましたように、サービスがよくて、当店では指名ナンバーワンです。お客様のアンケート調査でも満足度一番です。絶対後悔はさせません」
店員は自信満々の表情を見せた。まんざら嘘でもないようだ。それに、ここに来た目的は、エリカに会うためだ。そう思うと気持ちが固まった。
「エリカさんでいこう。コースは八〇分で」
「お客さん、エリカさんは、指名料が、倍額になります。それと申し訳ありませんが、エリカさんは次の予約が入っておりまして、遊び時間は六〇分だけとなります」
店員の表情は、苦しい笑みを浮かべ、申し訳なさそうに頭を下げてきた。
「お客さん、エリカさんの後に、もう一人追加しませんか。素人で当店に入ったばかりで、ケイという十代の女の子がいるんですが、どうですか、お気にいると思いますが……ケイとの遊び時間は六〇分で……二人で一二〇分ですが、八〇分コースの料金で結構ですが」
店員は、ラミネートされたケイの顔写真を見せて食い下がってくる。写真を見ても幼い少女という印象しか残らない。
平日の夕方なのか、ロビーにはお客の姿はなかった。客足が少ない時間帯なので、料金割り引きをしてくれたのだろう。
時間つぶしだと思い、軽くうなずくと、店員は深々と頭をさげてから、料金表を顔写真の横に並べた。
「料金は先払いとなっております」
手のひらを揉みながら、これ以上ない笑みをこぼした。胸ポケットから財布を取り出し、料金を支払った。
「お客さん、五分ほどまっていただけますか、準備をいたしますので」
そう言って、店員は一礼して下がっていった。少し冷めたコーヒーを、ゆっくり咽に流し込んだ。
部屋に通されると、黒いドレス姿のエリカが待っていた。色白な顔に、髪を薄く茶髪に染めている。写真では二三歳となっていた。ベットに腰をかけていると、すっとそばに寄ってくる。笑みを絶やさない顔の表情。目尻に小皺を見る。実際は二〇代後半のように思われた。
部屋のレイアウトは、入室したところにベッドが置いてあり、奥が風呂場になっていた。広さは八畳くらいの洋室だった。ベッドの脇机に、『衛生用具を、ご使用ください』の、立て札が置かれている。
「店員さんは、わたしのこと何か言っていた?」
エリカが聞いてきた。
「優しくて、テクニックと指名は、この店ではナンバーワンだと言っていた」
店員が言っていたことを、そのまま伝えた。
「そう言って、指名がないときは、いつもお客さんを回してくれるの」
気さくに店の内輪話を教えてくれた。笑い声をあげ、優しい感じだった。当たりはいいようだ。
「お客さん、六〇分だとマットとベットの両方は時間が足りないから、どちらにする?」
一瞬迷った。ソープランドに来たからには、テクニックのあるエリカで、マットプレイを行うのが順当だと思った。
「マットでいこうか」
エリカは寄り添うようにして、ズボンのベルトを緩めてから、カッターシャツを脱がしてくれた。そしてドレスを脱いだ。下着は付けていない。肌が目の前に迫ってくる。そっと腰に手を回し、お腹辺りに頬ずりした。柔らかい感触が伝わってくる。陰毛がなかった。彼女の股間に手を伝わせていく。「あとで、ゆっくりとね」と言って、風呂場に誘った。
湯舟につかっているあいだに、風呂場の壁にもたせかけていた空気マットを倒し、シャワーをかけ、マットプレイの準備をしていた。
「エリカさんは、ここに来る前、飛田にいなかった?」
彼女は、どきっと身体を動かしてから、振り向いた。
「どうして知っているの、飛田のお店に来てくれたのかしら」
あっけにとられたような顔をした。
「今日の朝、飛田に行ってきたんだ。入ったお店の女の子が、福原に行ったときは、『ハイビスカス』に寄って、エリカさんを指名してほしいと頼まれたんだよ」
「ユミちゃんだわ。目がぱっちりして、髪が長かったでしょう」
「名前はユミと言ってた。その子で間違いない」
「ユミちゃん、元気そうだった?」
「ああ元気だった。ユミさんの名前を出したら、エリカさんがサービスしてくれるって言ってた」
少し余分な言葉を付け足しておいた。
「懐かしいなあ。福原に来てから会ってないから、もう一年も経つんだ。ごめんね。来てくれてありがとう。今日は余り時間がないけど、サービスするからね」
エリカは、微笑んで、ぺこっと頭を下げた。
準備が終わると、「どうぞ」と声をかけてきた。湯舟から出て、マットの上に仰向けに寝転んだ。エリカは自分の身体にヌルヌルとした液体を塗り、上に乗ってくる。そして滑らすように五体を前後に動かす。玉を愛撫してくれた。男の弱点を心得ている。ペニスが勃起していく。なおも密着させ前後、左右に動く。今度は身体を前後に入れ替えてくる。目の前にお尻があり、割れ目もはっきり見える。
「いい気持ちだよ」
本音が出てしまう。
今度はフェラチオである。舌を使い左右から愛撫する。じわじわと興奮度を高めていく。そして固くなったペニスを咽の奥まで入れ、舌を絡ませ前後に動かす。興奮度が高くなると速度を緩め、またゆっくり速めていく。それを繰り返した。
「だめだ。出てしまいそうだ。中に入れてくれないか」
たまらず言ってしまった。やはり口の中で出すより、彼女の体内で出したかった。エリカはゴムを口にくわえ、そのままペニスにかぶせた。
身体をずらすと、ペニスを挿入し、お尻を上下にゆっくり動かす。徐々に速めていく。興奮度が最高潮に達したとき、激しく動かした。下半身に軽い圧迫感を覚える。股間辺りに力を入れ射精を我慢しようとしたが、たまらずフィニッシュとなってしまった。
「ああ、よかったよ」
素直な気持ちで言葉が出た。やはり射精を耐えてからの放出は最高だ。さすがエリカはナンバーワンだと思った。
「そう、ありがとう。そう言われると、うれしい」
そう言って、彼女は笑顔を見せる。
湯舟に浸かって軽い疲労感を取っているあいだに、エリカは使用したマットを丁寧に洗っている。洗いが粗雑でヌルヌルとした液が付着していると、次に使う先輩方からお叱りを受けるから、入念に洗っていると言った。どこでも先輩後輩の付き合いがあるらしい。
「どうして陰毛を剃っているの?」
少し気になったので聞いてみた。
「ああ、ここね、剃っているのではなく脱毛してるのよ。このお仕事していると、お客さんの肌に触れ合うから、毛があると擦れて痒くなったりするの。それに脱毛なら手入れもいらないし……剃るとね、生えてくるときチクチクして、お客さんが嫌うから」
エリカはにこっと笑ってから、視線を自分の股間に落とし、指で脱毛部分を撫でて見せた。
部屋の入り口付近にあるランプが、青から赤に変わった。時間らしい。
「また来てね。次は八〇分にしてくれたら、マットとベッドの両方で、もっとサービスしちゃうから」
エリカは、そう言い残して部屋を出て行った。
腰にバスタオルを巻き、ベッドに腰を落とした。少し疲労感を覚える。『割引き料金』に気を取られ、ケイを頼んでしまったが、あまり気乗りがしない。
ドアがノックされ、ケイが入ってきた。
顔を見ると、確かに若い、まだ、あどけなさが残る少女といった感じだ。こんな場所で年齢を聞くわけにはいかない。一八歳未満ではないかと思ったが、ラミネートされた顔写真では、一九歳となっていたはずだ。
ベッドに腰を掛けていると、「こんにちは」と言ったきり何もしない。店員が言っていたとおり、まだ素人で店に入ったばかりで、慣れていないらしい。
マットプレイやベッドプレイに、固執する気はなかったが、何もせずに帰るというのも、もったいない気がする。
ケイはにこっと顔の表情を緩め、立ったまま相手の指示を待っている感じだ。ゆっくり引き寄せキスをした。ケイも唇を近づけてきた。ゆっくり白のブラウスのボタンを剥がし、手を背中に回しブラジャーのホックを外すと、大きなおっぱいが垂れた。歳が若い割には大きかった。乳首を吸ってみた。ケイの表情は硬かった。少し緊張しているようだ。
もうマットプレイする気は湧かなかった。ベッドでイチャイチャして時間を潰してもいいと思った。
ケイをゆっくり倒し抱きしめた。柔らかい弾力のある肌が気持ちよかった。ペニスはまだ眠ったままで起きようとはしない。
ケイの添い寝をする格好で、オッパイをいじくった。
「どうして、ここに勤めてるの」
「お金を貯めて、好きな物を買いたいし、外国旅行にも行ってみたいから」
そう言って、ケイは侘しげな笑顔を見せた。
「ここの仕事は大変だろう」
「お客さんは、みんな優しいよ。自然体でいくようにしているの。店長からは早くマットを覚えるようにと、言われているんだけどね」
ケイは性行為に対して、割り切っているように思えた。
「自然体ってどういうこと」
「お客さんのしたいようにさせてあげるの。寝ているだけなのに、若い子はいいなと、喜んでくれるわ」
「何でもするの」
「何でもといっても、できることはフェラチオぐらい」
「おじさんにも、してほしいな」
ケイは上になって、ペニスを持ってフェラチオをしかけたが、エリカより数段下手だった。舐めているだけで、快感というものが伝わってこない。それでも真剣にやっている姿がいじらしい。ケイを抱きしめてキスした。ペニスが回復してきた。
「お客さんと、アナルセックスはしたことあるの」
「今までないけど、おじさんがしたいのなら、やってもいいよ」
そう言ってケイは、背を向けた。こんな簡単に了解することに、軽い驚きを覚えた。ゆっくりケイの背中に唇を滑らせる。背骨の形が浮き出ていた。
ケイは、うつ伏せになってお尻を突き出した。灯りのついた部屋だから、お尻の穴が丸見えである。まわりに淡い青色がかった綺麗なお尻の穴だ。まだ何も入れられたことのない穴。
彼女のアナルは処女だから、痛がるかもしれない。ローションをたっぷり垂らせば大丈夫だろう。
「おじさんのを、ほんとうにアナルに入れてもいいの」
ケイの耳元で優しく言う。
「いいよ。痛いと思うけど辛抱する。そのかわり次に来るときは、ケイを指名してくださいね」
寂しさが漂う顔の表情を見せた。
「もちろんだとも」
勢いで返事をしてしまった感じだ。
ベッドの脇机に置かれていたローションをペニスに垂らしていく。仕草を見ている彼女の表情がこわばっている。微かに顔を横に振ったように思えた。ケイは下を向いたまま何も言わない。
「お尻の穴に痛くないように、ローションを塗ってあげるから」
「……」
ケイの穴にローションを塗ったが、素直にお客の、言うままになっている姿を見ていたら、痛々しく思えてくる。
「やっぱり。止めようか」
「入れてもらった方がいい。今やらなくても、いつか他のお客さんから要求されて、やらなければならないと思うの。そのときは、優しいお客さんとは限らない。やっぱり最初は、優しいおじさんに入れてほしいの」
「ほんとうに、いいのか」
ケイは、ゆっくりうなずいた。
「じゃあ、いくよ」
ローションをたっぷり塗った彼女のお尻の穴に、ペニスを押し込んでいく。穴は固く閉じられていた。
「力を抜くんだ。もっとリラックスして」
先部分を入れたところで、ケイが痛いのか、四つん這いのまま、背中を反らす。
「もう少しの辛抱だから」
優しく声をかけ、少しずつ押し込んでいく。ケイは立てていた両肘を曲げ、顔を枕に付けて、声を押し殺し、痛さに耐えていた。
ローションを二人の接合部分に垂れ流し、さらに突き立てた。ペニスの付け根まで入ると、半分ほど抜き、また付け根まで突き立てた。それを何回か繰り返した。
やはり、膣に入れるのと違って、締まりが強烈だった。感触がよい。ケイは枕を抱え、顔を伏せている。余分なことを考えずに、ペニスの快感に気を留め、ゆっくり前後の動きに集中する。
結合部分を見ると、ペニスに塗ったローションの水分が抜け、白い粘ついた膜がペニスを覆い、白い棒に見える。
なおも繰り返すが、射精までいかない。中腰のため腰のだるさを覚える。気持ちの緊張感が徐々に消えていく。アナルでの射精を諦めた。
ケイの身体から離れ、横に寝転び、声をかけた。
「痛かっただろう」
「少しね。おじさんが優しく入れてくれたから、安心だった」
ケイは、にこやかな表情を装っていた。
このままでは、中途半端な気持ちが拭いきれない。彼女に手での放出を頼んだが、やはり手の動かし方は下手である。それでも精一杯努力して、客を満足させようと、しているのは感じ取れた。
やっと元気になったペニスも、気が散ると、お辞儀をしてしまう。ケイは自分自身の努力が足らないと思ったのか、額に汗を浮かしながら必死に手を動かせている。
「もういいよ」
と言って、起き上がり、ケイを引き寄せ抱きしめた。彼女はされるままで抵抗はしない。それがまたいじらしい。顔を引き寄せディープキスをする。舌を入れると、されるままに舌を受け入れてくれる。「なんと可愛い少女なのだ」そう思った。
罪悪感といったものが、心の奥から湧いてくる。無抵抗の少女を、お金の力で、もて遊んだ罪悪感。ケイを思い切り抱きしめた。彼女はされるまま何の反応もしめさない。『マグロ』だった。
毎日、ケイがお客の相手をしているのかと思うと、気持ちが沈んでくる。彼女を抱きしめて、横になった。それ以上は要求しない。ケイの家庭環境は知らない。物を買ったり、海外旅行をするために、ソープランドに勤めていると言ったが、本当は、家族の生計を立てるために、働いているのではないかと思った。
お金のために、お客の言いなりに身体を売り、精神をすり減らしているケイを思うと、共感を覚える。
毎日会社のために働かされ、課長に怒鳴られ、精神をすり減らし働いてきた。冷たい家庭、もはや愛情が湧かない妻。会社を辞めれば済むことなのだが、そんなことはできない。お金を稼がなければ生活ができない。お金のために、男に抱かれることに耐えているケイと、考え方によっては、同じ境遇にいたのだ。
だから彼女が、いじらしくて可愛い。抱けば抱くほど、エッチなことを強要すればするほど、罪悪感が湧いてくる。お金を支払ったから、この時間を買い取ったから、何をしてもよいなんて、そんなことが許されるはずがない。
彼女を抱きしめている腕に力が入る。
「苦しい」
ケイの口から漏れた。
「ごめん」
そう言って、腕の力を緩めた。それでも彼女を離さない。
二〇歳にもなっていない少女を抱いたことに、罪悪感が残ったまま、簡単に拭い去れない。
ケイの家庭環境なんか聞かないし、同情もしない。同情は彼女を弱くするだけだ。彼女を喜ばすことしか言えない。
「今度来るときは、ケイを指名するから」
その言葉に、彼女は寂しさが取り払われた笑顔を見せた。
罪悪感を払拭するためには、またこの『ハイビスカス』に来て、ケイを指名し、店内における彼女の地位を向上させてあげることである。
ケイが笑顔を見せてくれたなら、気持ちが救われる。日常に鬱憤が溜まり、ストレスのはけ口を求めて、今日一日、飛田と福原の風俗店を渡り歩いた。その結果が、気持ちが晴れるのではなく、気持ちが重たい。それでもユミとケイに出会えたことは、大きな収穫だった。
自分より劣悪な環境で働いているユミとケイ。今の家庭や職場で自分は甘えているのではと、思えてくる。彼女らと比較すると、まだがんばれる職場だ。
ユミやケイに出会って、風俗の中に身を落としながらも、頑張っている姿に感動を覚えた。今まで自分が最悪な環境にいると思い込み、周辺が見えていなかったことに気がついた。まさに『目から鱗が落ちる』心境だった。
次の日、会社に出勤した。課長のしかめっ面で怒鳴る顔を見ても、以前のように落ち込まなくなった。ユミやケイの環境に比べれば耐えられる範疇だ。お局の、いやみの言葉も軽く聞き流せた。
家庭では、妻に言われるまま一切反論はしない。さすがに料理や洗濯まではできないが、自分が食事をした食器くらいは洗うことにした。そうすることによって、暖かい食事と洗濯された衣類は保証される。結果的には、健康が保たれることになる。
外で好きなことをすればいい。妻にセックスの相手をしてもらわなくても、福原に通い、妻より肉体面で数段上のケイを相手に、性欲を満たせば済むことである。性病を貰わないためにゴムを使用。月に二回くらい、ケイのところに通うへそくりは貯めてある。
毎日会社に行って給料を持って帰れば、妻は何も言わないし、毎月小遣いもくれる。たまに会社に行く格好して、ケイに会いに行ってもわからないだろう。
心残りは、店を辞めてしまうユミに、会えなくなることだ。彼女とは、飛田で知り合ったセックスワーカーとクライエントの、関係でしかなかったと割り切り、諦めることにする。
これからの人生、表面上は妻にひれ伏した格好だが、『名を捨てて実を取る』方法でいくしかない。
悔いのない人生を送るための、最良の策であることを悟った。