いたち

谷垣 京昇

 

 五分遅れでやってきたバスに乗り込むと、安本浩平は後部の座席に腰をおろした。昼間のこの時間帯は一時間に一便しかないバスの車内は、老人ばかりが目立った。いつもは顔見知りが乗ってきたりすると、挨拶を交わすのがわずらわしくて終着の私鉄T駅まで顔はほとんど伏せて過ごす。今朝がた目覚めとともに表へでて日課としている深呼吸を五回して、ふたたび家に入ろうとして郵便受けにチラシが挟まっているのに気づいた。手に取ると、終活写真、生前遺影写真撮影体験会、と書かれた見出しの文字に目がいった。

 場所はバスで十分ばかりの、私鉄T駅前のショッピングビルのなかにある写真屋だ。死ぬまえに写真ぐらい撮っておくのも悪くはないな。そう思って出かけてきたが、この歳まで独身を通してきた浩平には、自分が死んだからとて悲しむ者など誰もいない。遠くの親戚は音信が絶えて三十年以上にもなるから、身内はいないのもおなじだ。

 それでも突然に孤独死などした場合を考え、そばに遺影などをおいていれば、もしもの時の心構えをしていたのだな。などと発見者の涙を誘うかもしれない。たわいもない物思いにふけっているうちに、終着のT駅前についた。

 写真屋のあるビル内は人影もまばらで閑散としていて、一階なのに空き店舗が多い。駅前という立地条件から、かつては市内でも一、二の集客力で賑わっていたショッピングビルも、今では見る影もない凋落ぶりだ。それにくらべて二キロばかり離れて、あとから開業したショッピングセンターへむかうシャトルバスが、満員の客をのせて発着しているのを見るにつけ、移り変わる時代の酷薄さを感じざるを得ない。

 写真屋の店内に入り若い女店員にチラシを見てきた旨を伝えると、すぐに別室へと案内をされた。その部屋はスタジオになっていて、女店員から言われたとおりに椅子にかけて待っていると、店主なのだろう初老の男が現れた。他に待っている客はおらず、すぐに浩平の撮影になった。

 こちらの緊張を和らげるためなのかカメラのモニターを見ながら、お天気がどうの、市営のバラ園はいまが盛りだなどとしきりに世間話をしかけてくるが、浩平にはどうでもいいことで適当に相槌をうっている間に撮影が終わった。

 店頭のパソコンに映し出された撮ったばかりの写真、三カットあるなかから気にいったのを注文した。仕上がるまでに二十分ばかりかかるということで、女店員がよかったら使ってください。と、おなじビル内にある喫茶店のチケットを差し出した。

 喫茶店は二階にあり階段をあがるとリサイクルショップで、中古の自転車やタンス、応接セットなどの家具が並んでいる。まわりは閉店しており店舗のスペース分だけをカーテンで囲ったり、そのまんま空きスペースになっていて侘しい雰囲気が漂っていた。喫茶店はその奥にあって、店の前のフロアの空きスペースにもテーブルと椅子をならべて営業していた。浩平はフロアの席を選んで、隅のテーブルの椅子に腰をおろした。

 フロアの席は天井が高くて開放感があり、他にも数人の客がいた。店内から見えるのだろう、すぐに店員が注文を聞きにやってきた。水をいれたグラスとおしぼりをテーブルにおいた店員に、浩平はコーヒーを注文して先ほど写真屋で渡されたチケットを差し出すと、愛想笑いを浮かべながら受け取り店内へ戻っていった。

 遺影も撮ったことだし、次はいつ実行するかだな。グラスの水をひとくち飲むと、浩平は腕を組み思案をしながら背もたれにからだをあずけた。後期高齢者となり二年、八十歳の大台には手の届く距離になった。かねてから目標もなく、これといって社会に役だっているわけでもなし、無駄に空気を吸って日々すごしていることに、やるせなさと疑問を感じている。さらに半年前に飼っていた猫が死んでからは、いっそうその思いを強くした。猫がいたころは、自分が先に死ねばこいつはノラになるしかない。外で生きたことのない高齢猫を残して先に逝くわけにはいかない。そんな責任感の生きる目標があった。

 店員がコーヒーを運んできた。「どうぞごゆっくり」にこやかにそう言い去っていく後ろ姿を見つめながら、浩平はふたたび思考をめぐらせた。

 生きる意義が見出せないのに、この先も漫然と暮らして老衰などでは絶対に死にたくない。日課として健康維持のためにと自分に言い聞かせて、毎日二キロばかりウォーキングをおこなっていたが、ちかごろはそれさえ無駄な行為に思えて止めてしまった。さらによほどのことでない限り医者にもいかないことに決めた。将来寝たきりや認知症の症状が出てからでは自ら死ぬこともできない。それまでに早く自分の人生にケリをつけねば、浩平は焦りにも似た心境になるこのごろだった。

 口元へ運んだコーヒーをすすると、駅を発つ電車の警笛がきこえた。そうだ電車に飛び込むと文句なしに死ねる。JRと違い、この電鉄会社は遺族に賠償を請求しないと聞く。しかし細切れの肉片になり線路ぎわに飛び散るのは、いただけない。かといって首を吊るのはイメージ的に陰湿で自分の好みではない。

 そうだ、海がいい。それもフェリーに乗船して、海原にでてから飛び込むのがいい。もちろん飛び込むのは、人目のない夜がいい。真っ暗な海面に身を投じるのは、人知れずにこの世から消えていく美学がある。決まりだな、近々実行に移すとしよう。その場面を想像しただけで浩平は興奮を覚えた。ところが次の瞬間この計画は重大な欠陥があることに気づいた。自分は泳げない! まったくのカナヅチなのだ。気を落としかけたがすぐに、どうせ死ぬのだから泳げなければ溺れるのも早くて、むしろ幸いではないか。浩平は自分のそそっかしさに思わず笑ってしまった。

 そのとき、むかいのテーブルにいる女と目があった。相手はこちらを見つめて微笑んでいる。しまった。一人笑いなどをして変な奴と思われたかな。きまりの悪さに軽く会釈をすると、むこうも微笑みながら会釈を返し「何かいいことが、おありでしたか」と話しかけてきた。

 浩平は慌てて「いや、いいことなどありませんが、一階の写真屋でのことを思いだしてつい思い出し笑いを……」などと方便をつかう。「あら、それなら私も写真を撮りに行きましたのよ」と相手も合わせてきた。女は髪型も服装も化粧も全体が若づくりに見えるが、浩平は六十歳は過ぎているだろう、いや、もしかすると六十歳なかばぐらいかな、と想像をめぐらせた。まさか同じように遺影写真ではないだろうと問い返すと、そうだと言って微笑んだ。「まだ遺影写真はあなたには早すぎるでしょう」浩平の言葉に「ありがとうございます。でも、そんなに若くはありませんよ」そう言って女は、はにかむように笑った。

 浩平は腕時計に目をやり、それじゃあと腰をあげると、私も帰りますと女も腰をあげ、ともに喫茶店を出た。並ぶと女は意外と小柄で背丈も、中肉中背である浩平の肩先ぐらいであった。

 写真屋で四つ切り大に伸ばした写真を入れたビニールの袋を受け取り、ビルを出たところで女に別れの言葉をかけると、浩平はバスターミナルにむかった。浩平の住む西町にはバスの路線はないので、隣の中町の停留所でおりて十分ばかり歩かなければならなかった。中町には幹線道路が縦断していて二本のバス路線もあるというのに、西町には信号の設置された道路もないのだ。西町の住民は、そんな我が町をコンビニもなければ信号もない、いたって静かなところ、となかば自嘲的に語るのだった。

 バスターミナルに来てみるとすでにバスがいて、発車時刻を待っている状態だった。浩平は後部の二人がけの席に座り、窓の外をみれば、先ほど別れた女がバスにむかって駆けてくるのが見えた。運転手はミラーで後方の様子をみていたのだろう、女がステップをあがるとすぐにドアが閉められて発車した。

 息を切らせて乗り込んできた女は浩平に気づくと、当然みたいに横に来てシートに腰を下ろした。通勤時間帯などの立って乗る客を重視してなのか通路が広くて、その分シートが狭く二人がけの座席は座ると互いの体が嫌でもふれる。相手を窓際に座らせればよかった。浩平は気のまわらない自分を少し悔やんだ。

「知り合いに会って話し込み、すんでの所で乗り遅れるところだったわ」

 女は「その知り合いは老人会のお仲間ですの」などと喋りかけてくるが、何の関わりもない人物の話など、聞きたくもない。

「おなじ方向でしたか。お住まいはどちらですか」

 浩平は話題を変えようと相手の話を遮るように話しかけた。

「西町に住んでおりますがバスは中町でおりますのよ」

 女の言葉に浩平は「僕も西町ですわ。バスも中町でおります」と相づちを打つと「あら、そう、私は西町の老人会に入っておりますが、あなたにお会いしたことはありませんね」と浩平の顔を覗き込んだ。くるりとした瞳が、若い娘みたいに輝いている。

「老人会には加わっておりません」と答えながら、先ほどからバスが揺れるたびに女の体が接近してきてどうしようもない。これ以上避けられないほど窓際に体をよせるがカーブをまがった瞬間に女と密着状態になった。ほのかに甘くむせるような香りに、浩平は年甲斐もなく戸惑いを感じた。

 中町停留所にバスが着くと、浩平はやれやれという思いで降り立った。このまま女と別れて帰ろうとしたが、相手も同じ西町で方向がおなじだから、先にいきます、とも言えない。ふたたび女と肩をならべて歩くことになった。道すがら女は老人会ではなく『クラブにしまち』という集まりがあるので、楽しいから是非とも参加するようにと盛んに勧めた。老人会にはこれまでに何度も入会を誘われたが、年寄りばかりで群れたくはない。そんな理由から浩平は頑として断ってきた。女の話もそれに類することのように思えた。

 西町の氏神である八幡宮にさしかかると、女から「お詣りしていくから、あなたもどうです」と誘われつい、そうですなと答えてから、しまった、と思った。

 以前に浩平は自宅の隣近所の住人たちと、側溝の溝さらえをしたことがあった。その折りに捕らえた、いたちをこの祠のあたりに放したことがあった。いたちは逃げるのが素早く捕獲はむずかしいが、捕まえたのはまだ生まれて間もないような子供だった。いたちは害獣だから殺そう。ということになったが、いざとなると、いたちの処分を引き受ける者は誰もいない。濡れた体を小刻みに震わせている子いたちの、小豆みたいな目で見つめられ、つい哀れみを感じた浩平が引き取ったものの、その後の処置に困ってこの稲荷の祠のあたりに放してやった。いたちの行動範囲がどれほどかわからないが、運がよければ親のいたちに巡り会えるだろう。よたよたとした足取りで、祠の裏側へ隠れようとする子いたちの幸運を祈り、浩平は祠に手を合わせた。

 そんな経緯があってから、時折境内に放した子いたちを思い出すことがあっても、浩平はあえて八幡宮の境内に足を踏み入れることはなかった。

 女は早く来いと言わんばかりに浩平をふりむき、鳥居で一礼すると本殿にむかって歩いていく。やれやれ、誘われたときに、それではお先に、と別れればよかったものを。あまり気の進まないまま、浩平は女のあとについて境内に足を踏み入れた。鳥居の反対側は神社の境内すれすれに鉄路があり、都心に向かう電車が激しい走行音をたてて通過した。

 女は八幡宮の本殿のまえにたたずむと賽銭箱に硬貨を入れ、鈴を鳴らしたあと二拝して柏手を打ち神妙な顔で手を合わせている。一拝してやおら振り向いた女にどうぞ、と言われて、浩平は慌てて小銭入れから十円か五円硬貨を出そうと探すが生憎一円玉と五百円硬貨しかない。女に見られていると思うと、躊躇しながらも奮発して五百円硬貨を賽銭箱に投げ入れ、手を合わせながら〈計画通り無事に死ねますように〉と我ながら妙な願い事を心でつぶやいた。

 振り向くと女はさらに離れたところにある、小さな赤い鳥居のある稲荷の祠にむかって歩き出していた。近づいて声をかけようとしたとき、いきなり悲鳴をあげた女が二、三歩後ずさりして浩平にしがみついてきた。「いたちよ! いたちがいるわ!」

 思わぬ展開に浩平は驚いたが、こんなところを他人に見られては、と女に声をかけるまえに辺りを見回した。幸い境内に人影はなく改めて女の指す方に目をやるが、すでにいたちの影もない。もしかして、あの時の子いたちが住み着いているのかも。もっとも夜行性で敏捷ないたちが、真っ昼間にいつまでも己が身を人目にさらすことはありえない。

 女は取り乱したことを詫びると、何事もなかったように祠に手を合わせ、境内の外へ歩きだす。浩平も、かたちだけ祠に手を合わせると、あとを追った。鳥居をくぐるとすぐに道路で、五メートルばかり先がY字に分岐していて浩平はそこで女とわかれた。

 わかれ際に女は木崎だと名のり、明日の『クラブにしまち』の集まりは西町の集会所でおこなわれているから、是非とも参加するようにと念をおした。浩平も安本です、と自己紹介をしたものの、どうせ老人会の企画だろうと曖昧にうなずいた。女と別れて自宅へと向かいながら、甘美な匂いがまとわるように鼻先をくすぐる。木崎という女がしがみついた折りの残り香だ。せっかく死出の旅にでる決心を固めつつあるのに、どうかしてるな。浩平は戸惑いながらも、この歳になってなにを思っているのか、と自らを戒めた。

 

 明くる日の朝、珍しく朝寝坊をした浩平は、目覚めとともに表に出て深呼吸をしたあと、家の片づけをしてやろう、と思い立った。好天に誘われた感もあるが、思い立ったが吉日とばかりに、自らの遺品整理のつもりで何かに突き動かされたように家中を片付けた。もっとも一人住まいであるから処分に困るような大きな家具などはなく、大のゴミ袋を四個ばかり部屋の隅に並べたところで一息ついていると、玄関のチャイムが鳴った。どうせ何かのセールスか集金人だろうと胡散臭げにドアをあけると、驚いたことに昨日会った木崎という女だった。

 彼女は昨日話をした『クラブにしまち』の集まりにいく途中に、浩平を誘うと立ち寄ったことを告げた。

「よく僕のところが、わかりましたな」

「西町の詳細地図をしらべたのだけど、他におなじ苗字が見当たらないから、多分安本さんのお宅と思って」

 木崎さんはそう言って微笑み「ねぇ、いきましょうよ」と以前からの知り合いみたいな親しみをこめた言い方をした。

「そうですな、せっかくのお誘いですからご一緒しますか。しかし、この格好ではなんですから少々お待ちください」

 浩平はそう言い残して部屋にもどると、片付け作業で埃にまみれた衣服を脱ぎ捨て、壁にかけてある外出着に着替えた。まったく気が進まないのに、誘いにのって出かける支度をするなど、自分でも理解できないなんとも不思議な行動だった。

 ふたたび玄関にくると、木崎さんは壁にかけた額の写真を眺めていた。SLが牽引する列車を写した四つ切り大のカラー写真だった。

「僕は若い頃に汽車の写真を取り歩くのが趣味だったので、この写真もその頃に撮ったものです」

 浩平の説明に彼女は「なんだか、懐かしさを感じる写真ね」と言い、続けて「いい趣味ね」とちょっぴり感心してみせた。

 浩平は木崎さんと肩をならべて歩きながらも、内心では今ひとつ気が進まなかった。まったくもって、最初に都合が悪いとか言うなり、なんとでも理由をつけて断れたものを、相手のペースにのせられて了解をしてしまう。そんな優柔不断さが、我ながら苦々しかった。

 集会所に着くと木崎さんは、なれた様子で二階へあがっていき浩平もあとに続いた。二階にあがると五十人は優に入れる大広間だが、それを衝立で半分に仕切ってあった。浩平も自治会の役をしていた折りには何度か来たところだ。受付にいた世話役の女性に二人はともに会費の三千円を払い、浩平は少々テレながら彼女につづいて部屋に入った。

 長方形の机を向かい合わせにくっつけて並べた席には、缶ビールにお茶やコーヒー、ジュースなどの飲み物と、唐揚げやハムなどを盛り合わせたオードブルの皿が並べられていて、すでに十五、六人の男女が陣取って談笑している。席をたって寄ってきた男に「こちら安本さんです。私がお誘いしたの」と木崎さんは浩平を紹介した。どこかで見覚えのある顔だと思うが思い出せず、浩平はただお辞儀をするしかない。彼女は続けて「会長の田能さんよ」こんどは男を浩平に紹介した。

「お久しぶりですな。お元気なようで何よりです」田能と紹介された男は親しげに話しかけてくるが、どこで関わり合ったのか一向に思いだせない。かといって、どなたさんでしたかと尋ねるのも失礼だ。そのうちに思い出すだろう。と浩平は木崎さんのあとについて席にかけた。

「今日から、我々のお仲間になられた安本浩平さんです」田能の紹介で浩平は立ち上がると「よろしく」と全員に目をむけながら頭をさげた。

 木崎さんは人気者なのか男達が次々と話しかけてきて、彼女もまた愛嬌をふりまいている。そんなまわりの雰囲気になじめない浩平は、会話のなかにも入れずにビールを舐めていると、そこへ会長の田能がきて木崎さんとの席のあいだに割り込み話しかけてきた。

「以前からの老人会を脱皮して五年前から始めたこの集まりは、高齢者の憩いの場、特に引きこもりがちの一人暮らしの高齢者を引っ張り出そうというのが目的です」田能は会長らしく、得々としてクラブ設立の理念を述べたあと「えらいものでこの交流のなかから二組のカップルも生まれております。さしずめシニアの婚活の場にもなっておりますのや」言いながら、横にいる木崎さんの同意を求めるように彼女に視線をむけた。コンカツ? 思わず聞き返すと「みなさんお元気でしてな、いやぁ、これからもカップルが生まれることを期待しております」

 田能はそう言って笑ったあと、月一回の集まりだが、これからも顔を出してくれるようにと言い、浩平の肩を叩いてたちあがった。木崎さんは「大丈夫よ。これからは私が誘ってくるから」と言い、浩平の顔をみながら片目をつむった。

 集まりは二時間ほどで散会となり気の合った者同士なのだろう、それぞれ二、三人が連れ合い帰っていく。すでに打ち合わせていたのか、木崎さんは男女四人連れとカラオケにいくという。木崎さんは当然のごとく浩平にも一緒にいこう、と誘った。自分は歌は得意でないうえ昼間のカラオケなど気がのらないから、できたら断りたい。返事を言い淀んでいると皆は歩き出し、彼女は「ね、いきましょうよ」と浩平の腕に手を絡ませると皆のあとを追った。

 昼間の往来をいい歳をした男女が恥じらいもなく腕を組むなど、浩平は顔見知りの者に出会わないようにと祈りながら顔を伏せ気味で歩いた。今日は都合が悪いから、とか断る理由はいくらでもあるのに、つい相手に合わせてしまう。またしても、浩平は自分の人の良さを心の奥で悔やんだ。

 カラオケ喫茶は住宅街のなかにあり、ブーケと店名を記す電光看板が店の前の道路に半分以上もはみ出した形でおかれてあった。もう十数年も前になるが、当時夜ごとスナック遊びに興じていた頃、浩平は飲み仲間に誘われてこの店に何度か訪れた記憶があった。ドアを開けて店内に入ると、皆はなれた様子で奥まったボックス席に陣取った。他に客はいなくて貸切状態だ。夜は往時と変わらず酒場になるらしくてカウンターの背後の壁には、洋酒や様々なラベルの焼酎の瓶がならんでいた。

 席につくや皆は飲み物の注文をするより先に、それぞれがカラオケのメニューを手に取り自分の持ち歌の選曲に余念がない。女の店員が一人いるが、カウンターのなかから出てきて注文をとりにくる気配もない。すると木崎さんが「安本さんは何を飲むの」と尋ねるからとりあえずコーヒーを注文すると、カラオケのメニューから目を外した男が「コーヒーは声が出にくい、飲むならコーラかジュースにしとき」と言った。その決めつけた口調にムッときた浩平は聞かぬふりをしてふたたび「コーヒー頼みます」と言ってやった。木崎さんは何も言わずに頷き、他の連中の飲み物もまとめて注文してやっている。メンバーのいつもの席も飲み物も、決まっているのだろう。

 部屋中を響かす大音響のなか、男の一人がマイクを握って歌い始めた。それほどカラオケに興味のない浩平にしてみれば、そのなかに身をおくことは苦行にひとしい環境に他ならない。

「安本さんはどんな歌を歌うの」場慣れしていないとみたか、木崎さんが気をつかって声をかけた。

「皆さんお上手なようで、とても僕などの出る幕ではありませんわ」と逃げを打つと、

「誰も歌手とは思ってないから、いいじゃないの」と突っ込みを入れてくる。言葉のあやのわからぬ女だ。

 自分はなぜ、こんな愚にもつかない付き合いをしているのか。この連中も社会の無駄飯食いに他ならない。それに比べて自分は違う、社会での役割を終えた体を抹殺するという崇高な目標がある。これ以上、ここで時間を過ごすのは意味がない。浩平が腰を浮かせかけたとき、勢いよく店のドアを開けて男が入ってきた。皆が一斉に手をあげて歓迎している。先の集まりで『クラブにしまち』の会長と紹介された田能だった。

「ここのマスターよ」木崎さんが浩平の耳元でささやいた。見覚えのある顔だと思っていたが、そういうことか、十年もたてば老け顔もどんどん進行するから、わからなくても当然だ。一人で納得していると、田能は皆のいるテーブルにきて、浩平と向き合うかたちで腰をおろし「今日はどうもお疲れさま」とにこやかに微笑む。どうやら腰をあげるタイミングを誤ったようだな。浩平も仕方なく無理に愛想笑いをしつつ、あげかけた腰をふたたびおろした。

 

『クラブにしまち』の集まりは月に一度だが、メンバーがブーケに集まるのは週に四日というから店の休業日を差し引くとほとんど毎日顔を合わせていることになる。あれから木崎さんはブーケの営業日には、家まで浩平を誘いにやってきた。そのたびに近くの八幡宮にお詣りしたついでに立ち寄った。と言い訳めいた言い方をした。

 浩平は、こんどこそは断ろうと心に決めながら木崎さんの顔を見ると、まるで魔法にでもかけられたみたいに断りの言葉を失い、言われるままにブーケへ付き合った。

 十日あまりが経ち、集まる顔ぶれも変わらず、毎回彼らの唄う同じ歌を聴かされる状況は、かねてから高齢者が群れることに嫌悪感を持つ浩平としては、こんな無駄な時を過ごすことに耐えがたい思いだった。一方で木崎さんが誘いにくることも、彼女に会っている時も悪いものではなかった。むしろ気持ちのどこかで、次に彼女と会う日を待っている自分があった。

 そんなある日ブーケに誘われた帰り道、木崎さんたちと別れた浩平は中町のスーパーまで寄り道をした。買い物を終えレジで支払いをするために五千円札を出したあと、小銭を数えているときだった。「おじいちゃま、その硬貨入れこちらに渡して」レジ係の若い女性店員に言われた。いきなりのことで、どぎまぎしながら差し出すと、係員はレジの受け皿に硬貨入れを逆さまにしてすべての硬貨を出し、ひぃふぅみぃと数え「これ三十五円いただきますね」と言い、残りの小銭を硬貨入れにもどすと「お釣りの三千円をお渡します」と笑みを浮かべて言った。

 その間三十秒ぐらいだったが、背後の人目が気になり思わず振り返ると、列の五人ばかり後に木崎さんがいるではないか。彼女は浩平と目が合うと、にっと笑みをうかべた。浩平も顔をしかめて苦笑いするしかない。支払いを済ませると木崎さんが出てくるのを待たずに、逃げるようにスーパーを後にした。

 半年まえなら高齢者の並ぶレジはモタモタして時間がかかると避けていたものを、僅かの間に今度は自分がそう見られているのだ。老化現象の進む早さには我ながら驚くばかりで、ちかごろはとみにそう思うことがしばしばある。

 もうごめんだ。こんな社会の落ち葉的存在になってまで、生き恥をさらす意味がどこにあるというのか。帰路につきながら、浩平の脳裏に死への誘いが強烈に沸いた。

 

 翌日、今日こそは木崎さんがくれば断固として断ろう。このままでは崇高な目標を果たせるどころか、堕落した人生を過ごすことになる。それは、もっとも侮蔑すべきことだ、浩平は決意を固めた。

 ところがその日、木崎さんは来なかった。翌日にも翌々日にも彼女は姿をあらわさなかった。どうしたというのだ。もしや彼女の身になにかおこったのか。木崎さんに誘いにこられることが苦痛であったのに、姿をみないことで逆に彼女のことを案じるという、奇妙な感情に浩平はとらわれた。

 数日が過ぎても、木崎さんは浩平を誘いに来なかった。ひょっとして自分がカラオケなどに興味がなく、ブーケで皆が盛り上がっているときも一人しらけた顔をしているので、誘ってもダメだと見限ったのかもしれない。

 熱心に誘ってくれた彼女に悪いことをしたなぁ。嘘でもいいから、もっと楽しげな顔をしてやればよかった。そうだブーケへいってみよう。きっと彼女はいるだろう。木崎さんが誘いに来ていた時刻を見計らい、浩平は憑かれたようにブーケへ出かけた。

 ブーケの前までいくと、いつも道路にまではみ出している看板もなくドアに休業を知らせる小さな貼り紙がしてあった。今日は休業日ではないはずなのに、もしかしてオーナーの田能に何かあったのかも知れない。

 まてよ、そんなことはどうでもいい。いまこそ躊躇することなく、崇高な目標を実行する時なのだ。木崎さんに出会ったことで無駄に先延ばししていたが、明日こそは実行に移そう、と浩平は心を決めた。

 

 翌日の午後、浩平はふらりとショルダーバッグひとつを肩にかけて家を出た。傍からみれば、遠くへ出かけるとはとても思えぬ出で立ちだった。

 中町のバス停で顔見知りの男に会ったが、じぶんでも意外なくらい愛想よく挨拶を交わした。T駅にむかうバスがやってきて、浩平は行き先が違う男と別れてバスに乗った。とりあえず都心にむかう電車に乗ろう。都心でJRに乗り換え日本海側の港までいく。夕方に北へ向かうフェリーに乗船して、深夜の海面に身を投じるのだ。人知れず自分の存在を消すには、格好のステージではないか。生きるは地獄、死はユートピア! バスの振動に身を任せながら、浩平はいつにない高揚感に浸っていた。

 普通電車しか止まらないT駅だが、やってきた電車は昼下がりにもかかわらず車内は混み合っていた。浩平は乗車した側のドアに、もたれるように立った。電車は発車して二分もたてば、駅と駅との中間あたりに位置する西町を通過する。普通電車はあげてきた速度を、このあたりで徐々に落として次の駅に着くのだ。

 線路から十メートルと離れていない、浩平が毎日歩いた路を走る郵便配達のバイク、廃墟とみまがうばかりの姿をさらしている、かつての公設市場の建物など。それらの二度と見ることのない住み慣れた街の風景が、妙な懐かしみをともない窓外を流れ去るのを、浩平はドアのガラスに顔をくっつけるようにして眺めた。

 不意に木立の茂みが現れて、車内が陰った。あっ、あの女! 電車は八幡宮の森の横を一瞬にして通過したが、稲荷の祠が見えたとき傍に佇んでいたのは、まぎれもなく木崎さんだった。

 ホームに滑り込んだ電車のドアが開くと同時に、浩平は車内から転がるように降りた。終着の都心の駅までの切符を買っていたが、そんなことはどうでもよかった。何か心が引き寄せられるみたいな、浩平自身が説明のつかない心理状態だった。改札を抜け駅舎を出ると客待ちのタクシーに飛び乗り、運転手に急いで西町の八幡宮までと告げた。この駅からタクシーで飛ばせば八幡宮まで四、五分で着く距離だが、木崎さんがまだそこにいてくれることを祈った。

 タクシーが八幡宮の鳥居のまえに止り、支払いを済ませるとドアが開くのも、もどかしく降り立った。早足で鳥居をくぐり木崎さんがいた稲荷の祠に目を走らせたが、そこに彼女の姿はなかった。境内のどこにも木崎さんはおろか人影さえなかった。

 走る電車の中から垣間見たのは幻視だったのか。いやそんなはずはない。たしかに木崎さんだった。浩平が稲荷の祠に近づくと褐色の物体が蠢いた。まだ子供のいたちだった。一際警戒心の強い動物なのに、浩平の姿を見ても逃げる様子もなく小さな目をクリクリさせて見上げている。あのとき放した子いたちが、そのままここに棲み着いていたのか。すでに半年近くにもなるのに、栄養不足なのか成長が止まったような小さな体だ。

 おまえ、まだ親に会えないのか。話しかけながらポケットをまさぐると、綿ぼこりにまみれたピーナツが一粒出てきた。屈み込み掌にのせてそっと子いたちの前に差し出すと、臆することもなく掌のピーナツに食いついた。

 そうだ、悪いがここでおまえに関わっている訳にはいかないのだ。浩平は子いたちに囁くと立ち上がり、境内に目を配った。木崎さんはどこへいったのか。自分を誘いにくるときにはよくここへ詣るとか言っていたが、そうだブーケだ。きっと、そこに彼女はいるはずだ。思い直すと浩平は子いたちに別れを告げ、八幡宮の境内を出るとブーケへむかって急いだ。

 ブーケのある通りまでくると、開店時には路上におかれている電光看板が見えない。今日も休んでいるのは、なにかあったのかな。店のまえまできて休業の張り紙を見つめていた浩平は、急に疲れを感じて大きなため息をついた。その時いきなり店のドアが開いて中から田能が出てきた。田能は浩平の顔を見て「おう」と少し驚きを込めた声をあげた。

「いいところへ現れましたな。木崎さんから安本さんを見かけたら、連れて来るようにと言われてますのや」

「それで木崎さんは、どこにいるのです」

 浩平は田能の話の意味合いを知ろうと、焦る思いで尋ねた。

「とりあえず、いまから一緒にいきましょう。車のなかで話しますわ」

 田能は店のドアに鍵をかけると、近くの駐車場に車があるので、と言って浩平を促して歩き出した。店の裏側に賃貸の駐車場があり、何台かの車が駐めてある。田能は軽のワンボックスカーに近寄り乗り込むと、助手席のドアを開け浩平に乗るように促した。

「実は西町の社会福祉協議会で食堂を始めることになって、木崎さんにもお手伝いをして貰っておりますのや」

 合点がいかない浩平の表情を察してか、走りだすとすぐに田能は話し始めた。

「ほう、福祉協議会が食堂ですか」

「そうです」田能はなかば呆気にとられた浩平の言葉に頷き、さらに続けた。最近は家庭の事情で晩飯を食べない子供や、一人で夕食を食べている子供が増えている。行政の指導もあって、西町地区でもそうした子供に手を差し伸べようと計画されたわけです。それに便乗という訳ではないのですが、引きこもりがちの独居老人などにも呼びかけて、食事をしたり世代を超えて会話をしたりと憩いの場になればと期待しております。そこで老人会でも、なにかお手伝いできればと、ここのところ昼間は店を閉めてボランティア活動に出かけている。とのことだった。

 三分ばかり走ったとき「あれですわ」田能が顎をしゃくる前方に目をやると、普通の民家のまえに何人かの人が出入りしているのが見える。木崎さんもあのなかにいるのか。浩平が思う間もなく車は開け放たれたドアの前で止まった。

 ドアの横に『にしっ子夕焼け食堂』と、イラスト風に書かれた真新しい看板が掛けられていた。田能の話によれば、持ち主の快諾もあって空き家を改装したとのことだ。なかへ入ると福祉協議会の役員や、ブーケに来ていたメンバーの顔もあった。彼らは現役時代に大工であったり塗装屋だったりで、この食堂の改装をするのに大いに活躍しているみたいだ。

「老人会の方々には、大いに助けて貰っております」顔見知りの福祉協議会の世話役が、なかば田能に聞かせるように浩平に話しかけた。

 その時に厨房から頭巾をして白い割烹着の女性が出てきた。木崎さんだった。彼女は浩平の顔をみると「きっと、来てくれると思っていたわ」そう言って嬉しげに微笑んだ。どうして、そう思ったのかと尋ねると、別に理由はないわ、と言って笑い「ブーケでのお仲間も一緒よ。明日から開店なんだけど、安本さんも手伝ってくれるわね」と言った。その決めつけた言い方から、ここでも彼女はリーダーシップを発揮しているようだ。

「皆さんは、それぞれ現役時代の腕を振るって活躍なさっておられるようですが、僕はこれといった技術もなく、まったくつぶしのきかない人間ですから……」

「そんなこと、関係ないわよ。ここにきて子供たちの話し相手になってくれるだけでもいいのよ」

 困惑気味の浩平の言葉に、木崎さんは笑顔でこともなげに言った。

「壁が寂しいな。街の食堂じゃないからベタベタとメニュー書きを貼る必要はないが、なにか子供に受けるような絵とかないかなぁ」

「それならほら、安本さんのお家の玄関にかけてあった汽車ポッポの写真なんか、子供が喜ぶと思うけど」

 居合わせた福祉協議会の会長が壁面を見つめながら、つぶやくのを耳にした木崎さんは、浩平と会長の顔を見比べながら言った。

「そりぁいいわ。その写真できればお借りできますか」会長の言葉に「あんなものでよければ喜んで提供させてもらいますが」浩平は言いながら木崎さんの顔を窺うと、彼女はうなずくように僅かに首を上下させた。

 会長の一言で自宅へ写真を取りに帰ることになった浩平は、車で送ろうという田能の好意を、十分もあれば戻ってくると断り足早に歩いた。歩きながら、玄関の写真のことを覚えていて提案した木崎さんの記憶力に感心をした。古びた写真だが彼女の印象に残っていたことも、浩平はちょっぴり嬉しかった。

 玄関にかけていた写真の額を持って再び食堂に戻ってくると、小学生ぐらいの少年がいた。「この子は仲本君よ。夕焼け食堂の一番目のお客さんよ」木崎さんが浩平に少年を紹介した。浩平の持ってきた写真はブーケの仲間の男の手に渡り、器用な手つきで壁に掛けられると「SLだ、山口線のC571号だ」少年が声をあげて写真に見入っている。

「このおじさんは、若い頃から汽車ポッポの写真を写していたんだって」

 木崎さんが話しかけると少年は振り向いて「おっちゃんも鉄ちゃんだったんだ」と言って親しみのこもった眼差しを浩平にむけた。昔は鉄ちゃん、などという言葉はなかったが、浩平は笑いながらうなずき、

「これは東海道本線で撮った、特別列車を牽引しているところなんだ。山口線を走る、ずっと以前だよ」

 浩平は話しながらテーブルに掛けると、少年も向かい側の椅子に腰をおろした。仲本君は何年生かなと尋ねると五年生だと答えた。SLに興味があるのか、少年に問いかけると鉄道が趣味でなかでもSLが好きだ。と言いい、SLが走っていた頃の話を聞きたがった。浩平は若い頃にSLを追いかけて放浪していた頃を思い出しながら話すと、少年は目を輝かせて聞き入っている。こんな子供と会話に興じるなど、久し振りどころか記憶にもないくらいだ。そんな思いに浩平は改めて少年を見つめた。まだ夏服は早い時期にもかかわらず、少年は半袖の体操服のままだった。洗濯をせずに何日も着続けているのか、白い体操着は汚れが目立った。

 厨房から木崎さんがトレーに肉じゃがとご飯を盛った器をのせて現れ、少年の前に置いた。肉じゃがから湯気が立ちのぼり、旨そうな匂いが漂った。

「今日はリハーサルで明日から本格的な開店だからね。ご飯はおかわりできるから」

 木崎さんの言葉に少年は、こくりとうなずき「いただきます」と言うと、さっそく食べ始めた。

「この仲本君は、開店が待ちきれずに来てくれたんよね」

 木崎さんは、そう言って肉じゃがを頬ばる少年を見ながら目を細めた。

 肉じゃがとご飯を少年はぺろりと平らげ、それからも三十分あまり浩平とSLの話に興じた。帰りがけに「ここに来たら、おじちゃんに会えるのかな」と浩平の顔を見あげて言った。

「えっ、あぁ」

「大丈夫よ。夕焼け食堂の開いてる日には、このおじちゃんもいるからね」

 咄嗟の返事に戸惑う浩平に代わり、横合いから木崎さんが少年に声をかけた。

 少年を見送ったあと「あの子はよくコンビニで晩ご飯食べているらしいの、一人で食べるより淋しさが紛れるのだろうね」木崎さんはぽつりと言った。浩平も出かけていて帰りに夜の九時ごろ中町のバス停で降りると、コンビニの前で座り込み、パンやカップ麺を啜る少年たちを何度となく見かけていた。そのなかにあの仲本君がいたかどうか、わからないがそのことを思い出して浩平は黙ってうなずいた。

 ところが浩平自身、他の人達みたいに食堂を手伝える器用さもなく、あの少年に何かをしてやれるわけでもない。やめよう、自分の器以上のことを考えても仕方がない。そろそろ退け時かと思い始めたとき、木崎さんが、肉じゃがをいれた小皿を持ってきてテーブルの上においた。

「これ私が煮たのだけど、ちょっと食べてみてよ」

 それではと、浩平は少し遠慮がちに添えられた箸を手にとり、じゃがいもを口に入れた。ほどよい味付けが、好みに合い旨いと思った。

「美味しい、まさに、おふくろの味だなぁ。これはいけますよ」

「よかった。お嫁さんになれるかな」木崎さんは少し首をかたむけ、くるりとした瞳で浩平を見あげた。

「えっ……」

 返答につまる浩平に、彼女はアハハと、さも可笑しげに笑った。これ以上の長居は無用と思い、今日のところはこれで帰らせてもらう、と告げると木崎さんは「ご苦労さま、明日は開店だからね。忘れないで来て頂戴よ」と念をおした。

「僕は不器用だし、来たところで役にたたないと思うけど」

「なに言ってるの。あの子、安本さんの話を聞いて喜んでたじゃない。ここへ来てまた汽車ポッポのお話聞くの楽しみにしているのよ」

「あんなので、いいのかなぁ」

「あれでいいのよ。ご飯を食べにやって来た子供や、お年寄りのお話相手をしてくれているだけで充分よ。必要なの、安本さんが、みんなそう思っているわよ」

 木崎さんはいつになく、真剣な眼差しで浩平を見つめて言った。翌日の夕焼け食堂のオープンには必ず来ることを約束して帰ろうとする浩平に彼女は「ちょっと待って」と言い厨房に戻り、すぐに出てくると肉じゃがを入れたフードパックを浩平に差し出して、持って帰って食べるようにと言って渡してくれた。

 店を出ると田能が、いらっしゃい、と大きく書いた文字と、子供と老人が笑っているイラストを描いたポスターをドアに貼り付けるところだった。「お先に帰ります」と頭を下げて歩き出すと「明日も頼みますよ」と言う田能の声を背に自宅へ向かった。浩平は帰り際に木崎さんが言った〈必要なの、安本さんが〉の言葉を歩きながら何度も反芻した。

 自宅に戻ると浩平は、部屋の壁際に並べたまま置いていたゴミ袋の結び目を解き、中から一旦は破棄するつもりだった写真などを取り出した。かつて唯一の趣味として撮りためた、各地を走っていた蒸気機関車のプリントやネガフイルムだった。こんなもので、あの少年が喜んでくれるのなら、そんなことが夕焼け食堂の木崎さんらの手伝いになるのなら。自分にできるのは、せいぜいそのぐらいのところだ。

 思いをめぐらしながら見ると、畳の上においたフードパックが目についた。木崎さんが持たせてくれた肉じゃがだ。浩平はそれを手に取り、しばし見つめた。ふっと子いたちの顔が浮かんだ。〈あいつ、どうしているかな〉フードパックを持って玄関へ向かった浩平は、表へ出ると八幡宮へと急いだ。

 鳥居をくぐれば暮色に包まれはじめた境内は人影もなく、通過する電車の走行音が境内の静寂をかき乱した。浩平が稲荷さんの祠のそばまで近づいても、子いたちは姿を現さなかった。祠の裏側にもまわってみたが、その姿はなかった。当然ながら、食い物を探しに出かけているのかもしれない。

「おーい、どうした、いるか」試しに抑えた声で呼んでみると、暫くして掃き寄せられた落ち葉がガサガサと音をたてて子いたちが顔を出した。

「いたのか。ここにばかり引きこもっていても、精々地べたを這う虫ぐらいしかいないだろうが」

 話かけながら屈み込んで「ほれ、食べろよ、お袋の味だぞ」フードパックの蓋を開けて子いたちの前においてやると、一瞬浩平の顔を見上げたが、すぐにフードパックのなかに顔を突っ込んで猛然と食い始めた。

「おまえな、ここにばかりいないで、いたちらしく食い物を探しに出かけろよ。もっと大きくならなきゃぁ、生きていけないぞ」

 子いたちに話しかける浩平の声は、おりから通過する電車の音にかき消された。

 

 

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