終の住処

尼子 一昭

 

 大阪市の都島から東淀川に引っ越して数ヵ月が経過した。

 新しく入居した住まいは、築四十五年の市営住宅である。コンクリート造りの縦型羊羮のような建物の五階に入った。

 入居にあたって、最近は地震の被害が多いので、念のために耐震性を市の担当者に尋ねた。

「対応する工事は特別やっていません。あの時代の建物は極めて堅固ですから」

 そんなものかと思う。

 しかし、部屋の内部は古さそのものが顕になっていた。壁や柱の木材にはペンキが塗られていて、所々は黒茶色の古びた地肌がむき出しになっている。木の粉の臭いも風がないのに漂っていた。

 窓枠のアルミサッシのクッション材もぼろぼろになっていて、取り替えてもらった。その他に浴室やベランダの防水も怪しいところがあって、追加工事として、きっちりとやってもらった。

 部屋のメンテナンス関係が一段落したが、まだまだ気になることがあった。

 それは音である。

 毎朝七時から八時頃になると、カンカンと木を打つ鋭い音が聞こえてくる。何の音だろうと、ベランダから外を眺めた。

 眼下には住宅棟に接して、金網にかこまれたミニグラウンドがあった。グラウンドには二面のコートが設置され、その上を何人かが動いていた。ゲートボールとグラウンドゴルフを、たぶん老人会あたりが有志をつのってやっているらしい。杵のような木の棒をそれぞれが持って、球を打つ。乾いた高い音が、朝を告げるニワトリの鳴き声や目覚まし時計替わりとなって響いていた。

「今はグラウンドゴルフのほうがやる人が多いですよ」

 知人にこの事を話すと、そう言われた。

「ゲートボールはチームでやるので、お前が悪いと老人同士ですぐ喧嘩になるらしいので」

 なるほど片方のコートのほうが明らかに人数が多い。

 グラウンドの横には広々とした畑がひろがっていた。細長く盛り上がった土の畝には、緑青色の野菜が植えられている。小規模なビニールハウスもあった。

 朝夕には鍔広の帽子をかぶった男女が散水をしたり、鋤や鍬を使っていた。

 のどかな風景を眺めていると、ここが市内であることを忘れさせる。都市というより田舎である。大阪の端に位置したここでは、都市と田舎が混在していた。

 落ちついてから発見したが、付近に名所があった。

 大阪市顕彰史跡である江口の君堂である。歩いて五分ほどの距離であった。

 だらだらと続く坂を上っていくと古い寺があった。これが宝林山普賢院寂光寺である。別名が江口の君堂である。石柱の門をぬけると梵鐘があった。説明文によると平安の昔から、淀川を行き来する船に、鐘の音で諸行無常を告げていたとのことである。

 この一帯は江口の里と言われていて、今に地名が残っている。西行法師がこの地を訪れ、遊女江口の君と一夜、仏の道と歌をたしなむおもしろさを語り明かしたことで有名である。史跡として君塚、西行塚、歌塚が残っていた。

 謡曲《江口》で知る人も多いと思う。

 団地には自治会がある。

 組織の頂点に自治会長がいる。そして各棟には館長がいて、その下に班長がいる。自治会長を除いて、原則一年交代で順番制というシステムのようである。

 こうした組織の役職に就くのが好きな人がよくいる。

「俺は役をやっている」

 胸を張って誇らしげに語る人がいる。そういう人にこそ何年も継続してやってもらいたい。好きでもない人間に順番だからと言ってやらすこともないだろうにと勝手なことを思う。

 自治会の重要な活動として、毎月一回の大掃除がある。これは全戸から一人ずつが駆りだされる。朝早くから、軍手にスコップを持って各棟の下に集合である。スコップで地面の雑草を根から掘り起こして、ゴミ袋に入れる。建物のまわりはきれいになって、土砂が剥きだしになった地面がひろがっている。しかし風が吹いた時に土埃が舞って大変だろうと思う。

「皆さん、階段の土や砂はしっかりと箒ではいて下さい」

 班長が注意事項を伝える。

 汚水や雨水の流れるドブ掃除も行った。溝蓋を上げて、集水口には薬液を注入する。

 もし不参加だと、どうなるのだろうかと、試しに訊いてみた。

「罰金です」

 本気らしい目が怖い。そういえば掃除している人の中には、掃除命という、生き生きとした顔をした人もいるようだ。

 ゴミ出しにも決まった方法がある。各棟に一ヵ所、コンクリートで囲われた集積場所がある。そこに普通ゴミは朝九時までに出すことになっていた。そのゴミを狙うカラスを防ぐためネットを張る。これも当番制で回ってくる。

 普通ゴミ以外の資源ゴミは、自治会が契約している業者に渡すために、決まった日に出さなければならない。自治会の活動費に充当するとのことであった。

 集団生活上の取り決めは色々とめんどうなことが多い。

 新しい場所に引っ越したので、期待していたこともあった。それは居酒屋の開拓である。ところがである。居酒屋がほとんどない。

 団地周辺を何度も歩きまわったが、居酒屋が一軒と中華料理店が二軒、あとはカレー屋と喫茶店である。期待は大きく裏切られた。そのために、必然的に部屋で飲むことが多くなった。

 この地域の人は居酒屋に行くことがあまりないのだろうか。

 気をつけて見ると、道行く人は年寄りが多い。年配の人、俗な言葉で言うとジジ、ババが悠然と歩いていた。目的地にむかって、体を左右にゆらして、ゆっくりと進んでいく。この人達が居酒屋に行くことはないなあと納得。

 私が入居した団地も年寄りが多い。若い人はめずらしいだけでなく、学校へ行っている子供、あるいは赤ん坊などもあまり見ない。

 少子高齢化社会のサンプルのような市営住宅では、入居している年寄りがよく死ぬ。

 自治会の掲示板に、何棟の何々様が亡くなったと張り出される。昔の人がよく言っていたように、それは季節の変わり目が多い。その時季には、毎週のように誰かが死んでいた。

 私もここで死んだ場合は、その発見が何時になるかわからないが、掲示板に名前が出ることだろう。

 入居した市営住宅にはエレベーターがなかった。したがって五階まで階段で上がって行かなければならない。

 階段は数えてみると五十六段あった。毎日、五回以上は往復するが、計算すると二百八十段の階段の昇降をしていることになる。ちょっとした登山である。

「何時まで、こうしたことができるのやら」

 知人と会った時に、溜め息まじりで言った。

「十年はもつさ。足腰が鍛錬されて健康増進には最適だよ」

 薄情なやつだ。

「また引っ越しするかも」

「居つくと思うよ。よく言うだろう。住めば都と」

 やはり、ここが終の住処になるのだろうか。再び転居する日は訪れるのだろうか。

 踏みしめる五十六段の階段の先には、何が待っているのだろうと思った。

 

 

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