まとわり

奥野 忠昭

 

 私は、最寄りの駅から私鉄に乗り、隣町の横田駅で降り、横田警察に向かった。署の前で、出てくる警部補の酒井刑事を待つつもりである。

 酒井刑事とは面識がないので横田署の署長から送られてきた携帯の写真を見て何度も頭にたたき込んだ。顔写真で犯人の顔をたたき込むのは、刑事なら誰でもよくやることで間違えることはない。年齢は私とほぼ同じの四十三歳である。

 先程、横田署の署長から、酒井がまだ退署せず、せっせと仕事をしているという連絡を受けた。しかし、いつ何時、帰宅しはじめるとも限らない。早いうちに署に着いて誰にも気づかれずに彼が出てくるのを待たなくてはならない。酒井刑事のまとわり(尾行)を行うという嫌な仕事を引き受けてしまったからである。

 私が昨日の午前中、吉井と名乗る若者の取り調べを終え、その書類を書いているとき、突然、署内電話が掛かってきて「ちょっと君に話したいことがある。すぐに部屋へ来てくれないか」と署長が私を呼びつけた。何事だろうかと嫌な予感がした。

 二日ほど前、署内の廊下で彼に会ったとき「おい、田所、先頃、えらく元気がないというではないか、課長が心配しているぞ、警部補の試験に落ちたぐらいでそんなに気落ちするな。また、来年があるではないか」と肩を叩かれた。まるで失恋した男を慰めるような口ぶりであった。自分はそのようなことを何も悲観などしていない、と思いながらもどこかで気にしている。そのことで私に何かをいいたいのかもしれない。ひょっとして来年は特別推薦にでもしてやるから、そうがっかりするな、とでも。

 そんなことを考えながら署長室へ行った。署長は彼の机の前にある応接セットへ私を促し、彼も私の前に座った。

「君にちょっと頼みたいことがあってね」と署長はいつになく微笑みながら言った。

「はあ、私にできることなら何でも」と答えた。

 何だ、ただの用事の言い付けか、もう少しましなことを期待していたのに、とがっかりした。

「隣町の横田署の署長から折り入って頼みたいことがあると言ってきてね、彼の署に酒井という刑事がいるらしいのだが、最近、少し変だと言うんだ。奇行が目立つとね。もし、不祥事でも起こされたらたいへんだから、ちょっと調べてほしいと言ってきた。とにかく、彼はシャツの下の見えないところに入れ墨をしているという噂がたったりして。確かに入れ墨をしている警察官というのはへんだ。それに、四十過ぎで彼はまだ独身だろう。嫁をもらったらどうかと勧めても聞く耳を持たないらしい。だが、女といっしょに街を歩いていたという報告も入っているらしいわ。どうもよからぬ女と交際しているのではないかと署長は疑っている。風俗の女や人妻や取り調べた女などとは絶対付き合ってはいけないことになっているのは君も知っているだろう。もし、そのようなことになっていれば早いうちに手を打たないといけないから、と言うのだ」

 横田署に入れ墨をしている刑事がいる、という噂は横田署から転勤してきた署員から聞いたことがある。鳥の入れ墨らしい。背中に大きく入れているというやつもいるし、いや、腕の付け根のところにちょこっとだけというやつもいて、はっきりしない。それに、実際それを見たやつは誰もいないらしい。ただの噂かもしれない。誰かが彼を貶めるため嘘の情報を流したのかもしれない。

「それで私に何を?」と署長の顔を見ながら尋ねた。

「誰か、うちの署員で、彼の後をつけて、行動を調査してほしいというのだ。自分の署だとすべて面が割れているのでそれができない。あそこの署長と私とは警察学校の同期でね、警視になったのも同じ歳だ。一番頼みやすいらしい。それに隣の署なら土地勘もあるしね。それで、まとわり(尾行)の上手なやつを選んでぜひそれをやらしてくれと言ってきた」

「では、酒井刑事のまとわりを私に」

「そうだよ。刑事課には横田署から替わってきたやつがいるが、そいつらは面が割れている。それにそいつらと親しくしているやつもだめだ。ふっと口を滑らせ、奴らの耳に入ってみろ、即座に横田署の誰かに知らせるだろう。そうしたら本人の耳に入らないとも限らない。だからそんな奴らはだめだ。彼らと親しくなく、口が堅く、合同捜査にも参加していない、それでいてまとわりの上手な者と言えば君しかいないではないか。もちろん、これは極秘だよ。誰にも言ってはいけない。どうだ、引き受けてくれないか」

 署長は真剣な顔で私を睨みつけた。それにはいやとは言わせないぞという迫力があった。私は、横田署から替わってきた奴らとは誰とも親しくはしていない。それに、署長からの命令だ。引き受けておけばまた何らかの見かえりがあるかもしれない。しかし、同業者のまとわりをするなんて、気分の乗る話ではない。まるで、強い酒を無理に呑まされるようなものだ。だが、それをどうしても呑まなければならない場合だってある。体力と酒に強くなければ警官は勤まらないとよく言われているが、これもそのうちの一つだ。

「はい、わかりました」と私は嫌々ながらも兵士のように大声を張り上げた。

 

 横田署の門柱から少し離れた所に丁度電柱があって、それにもたれながら酒井が出てくるのを待った。横田署の署長には携帯で「署の前に着きました」と連絡を入れておいたのだが「まだ彼は署内にいる。よろしく頼むよ」という返事が返ってきた。

 ときどき、玄関の扉を開け、制服のまま出てくる署員がいる。彼らは、生活安全課の署員だろう。車に乗って巡回にでも行くのかもしれない。中には電柱にもたれて所在なさげにしている私をじろりと睨むやつもいる。警官の習性で挙動が少しでもおかしければ目をつける。しかし、あんなやつらに怪しまれるようではまとわりなどつとまらない。まったく普通を装わなければならない。

 私は空を見上げた。まだ日が落ちるにはかなり早いが、太陽は、汚れたカーテンのような雲に隠されている。

 署の前に目を移すと、道路はそれほど交通量は多くはないが、ときどき、焦げ茶色や藍色の軽自動車が遠慮がちに通っていく。署の前ではそれらは異常にゆっくりと走る。それが、車が署に向かって頭を下げているように思える。時には窓から顔を出して睨み付けていくドライバーもいる。署の中の人間がみんな居丈高になっているとでも思っているのか。署員だって警察署を睨み付けたいときがある。

 玄関から出てきた私服の男が目に入った。おお、あれが酒井ではないか。背は私よりかなり高いが、髪型が同じで、七三に丁寧に分けられている。整髪料をたっぷりと付け、髪の乱れを押さえつけている。やや細面で、顎が少ししゃくれている。写真でたたき込んだ酒井に間違いない。瞬間、彼はポケットに手を突っ込んでサングラスをとりだしてそれをかけた。とたん、見違える顔になった。彼がそれを付けて出てきたら酒井だとはわからなかったかもしれない。署長から彼がサングラスをかけているなどとは聞いていなかった。だが、その方が尾行しやすい。この時季、まだ、サングラスをかけている人はそうざらにはいないから。

 そうか、サングラスをかけるのも悪くはないな。一番手っ取り早い変身の衣装かもしれない。女装まではいかなくても、ちょっと日頃とは違う装いで街を歩いて見たい。スカートを穿き、髪を女のように束ねているホームレスを近所でよく見かけたことがあるのだが、彼を見る度に、俺も時には背広ではなく、女物の衣服でも着て、化粧をして歩いてみたいと思うときがある。あるいは、縦縞の背広の上下を着、黒の革靴にサングラスをして、頭を丸刈りにし、中折り帽を被って歩くとか。

 だが、そのようなことをすればたちどころに注意される。「服務規程第二十九条、職員は服装など身辺については常に端正かつ清潔を旨とし、社会道徳を重んじ、職員としてふさわしい品行の保持に努めなければならない」の違反だからである。ひょっとしてサングラスも上司の許可を得なければならないのかもしれない。

 酒井は早足で歩き出した。私は、十メートルほど離れて歩き始めた。駅の方ではない、どこへ行くつもりなのか。私はいつも署を出た途端、行く場所がないという気分がして、ゆっくりと歩いてしまうのに、彼はまるで目的地がはっきりしているかのような早足で歩く。しかも、生き生きしているような気さえする。手にはビニール袋を一つだけ下げている。今晩の弁当でもコンビニで買っておいたのだろうか。サングラスにコンビニの弁当とはどうもそぐわない。

 彼の行く手には公園が見えた。どうもそこへ行くらしい。だが、公園の入口から十メートルほど手前には交差点があり、横断歩道を渡らなければならない。今、その信号が黄から赤に変わった。ところが彼は左右を見渡し、すたすたと歩きつづける。信号無視である。私も彼の後を追っているのだが、やはり警官ともあろうものが交通規則は守らねばならない。足を止めた。現に小学生が立ち止まって、信号が青になるのを待っているではないか。信号が青に変わったので慌てて公園の入口のところへ行ったのだが、彼を見失ってしまった。なんということだ。まだ、数百メートルも尾行していないうちにもう見失ってしまうなんて、素人でももう少しましな尾行をするだろう。

 公園を見渡しても彼を見つけることはできなかった。

 公園の真中にはいろんな木々が植わっていて林になっているが、それほど多くの木があるわけではなく、木々は孤立したまま立っている。その下には、クローバーが植えられたり、芝生などになっているのだが、人々に踏みつけられ、擦り切れたり、削り取られたりして地肌が露出している。それは老人の肌を思わせる。あるいは死体の肌か? 水の切れた白黄色である。

 きいきいと聞いたことのない鳥の声が、人の叫びのように聞こえた。

 私は林を取り囲んでいる周回道路を早足で歩く。前を酒井は歩いていることを期待しながら。だが、彼を見つけることができなかった。林の隣にはテニスコートがあり、その側面にそって道路があり、テニスコートの端のところでそれが左に折れ曲がる。その辺りから不意に大声が聞こえた。

「の肩に触れておいて謝りもしないのか? ええ?」

 ふっと、いつか、空いた電車に乗っていて、私は身体を捻り、靴の裏を通路側に向けながら、外の景色を眺めていたときのことを思い出した。突然「の服に靴底が当たるではないか、注意しろ」と怒鳴られたことがある。当たると思えば、少し離れて歩けばいいではないか、と言い返そうとしたが、それを飲み込んだ。ことを荒立ててはならない。「まあまあ、そう怒るなって」と興奮している者をなだめるのが私たちの仕事である。

「まったく常識のない、間抜け野郎だ」とその男は私に向かって毒づいた。

 男は茶髪の若者で若い女を連れていた。女の腿のあたりに私の靴が当たったらしい。 この男、女にいいところを見せようと思って、と腹立たしさが再び起こった。男を殴りつけたくなった。

 だが私は「ごめん」と謝った。

「彼女のスカートが汚れるやないか」男は得意げに言った。

「どうも済みません」私は今度は付け睫毛の女に頭を下げた。茶髪は満足したのか、私から離れた。

 気分は最低だった。あんな奴らに謝った自分が許せない。情けなさを覚えた。俺は柔道の有段者だ。剣道だってそこそこできる。おまえたちにひけをとるようなものではない。「何、電車を降りて話をつけよう」とうそぶくことだってできたはずだ。だが、一般人ともめごとを起こすようなことは絶対に避けなければならない。言葉も丁寧に接しなければならない。警察官の服務規程第十四条「職員は、冷静沈着を旨とし、いやしくも粗暴、野卑な言動は、厳に慎まなくてはならない」のである。

 今、聞いた公園の声の後には「済みません」という声がつづくだろう、と思ったのだが、何の声も聞こえない。どうしたのだろう。謝りの声が小さかったのか、それとも驚いて声が出ないのか。

「おい、どうした、謝らないのか」再び大声が公園中に響き渡った。鳥が驚いたのか、数羽、声の方から飛び立った。

「暴力沙汰にでもなれば放っておく訳にはいかないな。警察手帳でも見せて、彼らを脅し、もめ事はおさめねばならない」、このような場合には、服務規程第十一条「勤務の当否にかかわらず、迅速かつ機宜の措置を取らなければならない」

 私は足を速め、周回道路を折れ曲がったとき、道の向こうに酒井を見つけた。酒井はモヒカン刈りの男の前で黙って相手を睨み付けながら立っていた。男の横には寄り添うように髪の毛の長い若い女が立っている。

「こら、何とか言え」

 モヒカン刈りで、黒のTシャツの男が酒井の背広の襟を握ると、彼を引っ張り上げている。あれでは酒井は息ができない。「済みません」と謝ればいいものを。

「おい、どうして謝らないのだ、このへなちょこ野郎」と再びモヒカンが強い声を出した。それとともにモヒカンの腕が宙を飛んだ。酒井は素早く頭を下げたので掌が頬を擦っただけだった。だが、かけていたサングラスがふっ飛び地上に落ちた。

「どうして俺が謝らなければならねえんだよ。お前が女の方ばかりを見て歩いていたから当たったんではないか。お前から当たっておいて、俺がなぜ謝らなければならねえんだ」酒井も公園中に響き渡る大声を出した。それからモヒカンのTシャツを片方の手で握ると、もう一方の手でモヒカンの頬を平手で力一杯殴った。モヒカンはよろめいた。

 私は携帯の動画機能を開いてそれを撮した。

 さらに、「この糞やろう」と酒井は叫んで、彼を突き放すと、悠々と歩き出した。

「やめときなよ、もう」女はモヒカンの腕をしっかと握り、それ以上のことをさせまいと必死で止めた。モヒカンは彼の後ろを見送り、口惜しそうに唾を吐いた。

「職員は、冷静沈着を旨とし、いやしくも粗暴、野卑な言動は、厳に慎まなくてはならない」と、私は再び規定を呟きながら、携帯のスイッチを切った。

 酒井はすたすたと歩いて行く。私もその後を追いかける。私がちょっと気を許し、どんよりと公園を覆ってきている雲の広がりに気を取られていると、突然、酒井の姿が消える。まさか、テニスコートでテニスでも始めるんではなかろうな。と、思っていると、これもまた突然、周回道路の向こうから、三匹の猫が、虎のように堂々と歩いてくる。そして、酒井が消えた辺で左に曲がった。その辺りにはテニスコートを隠すように葉っぱの多い木々が繁っていて、その向こうに何があるのかわからない。その後で、また二匹、一列になってこちらにやってきては、同じところで曲がる。先の猫とを合わせると五匹である。

 あまりそれに近づくと、酒井と顔を合わせるかもしれないので、適当な距離のところにそっと近づき、葉っぱの隙間から様子を覗った。

 一メートルほどの高さのフェンスがテニスコートを取り囲んでいる。フェンスと道路との間は二メートルほどの斜面で、そこに多くの低木が植えられているのだが、ところどころは芝生にもなっている。酒井は芝生のところに座り、持ってきたビニール袋から新聞紙を取り出して広げ、キャットフードがその上にまかれた。小さな皿の中には牛乳が入れられている。

 三匹の猫は皿の周りを取り囲んで小さな舌をさかんに前後させながら牛乳を飲んでいる。それを酒井はじっと見つめている。柔和な笑みをもらしている。きっと、このような笑みは職場ではしたことがないのだろう。

 猫の動きも葉っぱに見え隠れしながら見て取れる。彼はしゃがみこんで猫たちを見ている。三匹がミルクを飲んでいると、残りの二匹は、彼らの後ろで前足をそろえ、じっと待っている。ときどき、はやく飲み終えろといっているのだろうか、かすかななき声を上げる。三匹は黒と白の猫、後の二匹は、背はほとんど白色だがほんの少し薄茶色が混じっている。耳と頭と目の周りが黒っぽい。これがシャム猫の特徴である。シャム猫の目はブルーで、沖縄の海の色をしている。

 三匹が飲み終えると酒井の前に両手をそろえて座り、酒井の目をじっと見上げる。酒井の目にはサングラスはない。先程のモヒカンとのやりとりで、落としてしまったので、拾ってポケットにでも入れたのだろう。

 酒井は缶詰を開けて、箸で肉片を取りだしてそれぞれ座っている猫の前に置いていく。前に置かれた猫は待ってましたとばかりに食べ始める。隣の猫はいっそう首を長くして酒井を見る。酒井は長い箸で肉を挟み、猫の前に置く。酒井の箸を握る指先はまるで女性を思わせるような柔らかさだ。それに影響されるのか、辺りの雰囲気もまた柔らかな感じになる。猫の毛並みも触れれば羽毛のような柔らかさに違いないと思わせる。警察に漂っているどこか陰鬱で緊張感のある雰囲気とはまるで違う、和やかなものであった。

 だが、私は公園の入り口に立てられていた看板を思い出した。「公園内で猫や鳩に餌をやることは禁止」とあった。この公園は、横田署の管轄内で、公園は横田市の公園課の管理下にある。もし、猫嫌いの人が、酒井が横田署の警官であることを知ったら、すぐにでも市に抗議に行くだろう。そうすれば市から警察に連絡が入り、厳重注意ぐらいの処分を受けるかもしれない。それでも止めなければさらに重い罰を受けるだろう。

 そう考えると、にわかに辺りの空気が緊張した。犯人が立てこもる家を張り込んででもいるような。

 携帯の撮影機能を再びONにして、葉の隙間から、酒井が丁寧に一匹一匹の猫の前に缶詰の肉を置いてやっているのを撮した。猫はまるで頭を下げて感謝の礼をしているような格好でおいしそうに食べた。

 猫に餌をやることが人の人生を変えることにもなるなんて、どう考えてもおかしい、と思いながら、彼の行為を動画に撮った。

「こんにちは、今日は夕食ですか」

 突然、女性の声が聞こえた。

「今朝、仕事があって、来られなかったもので」酒井が女性に答える。

「先日、譲り受けた猫ねえ、あの子、たいへんなついてくれて、お宅が親切に餌をやってくれていたおかげだわ。人間をとっても信頼しているみたい。野良猫はなつかないと言うでしょう。だから心配していたの。すぐになついてくれてよかったわ」

 雲間ができたのか、薄日が女性の頬にさしこみ、それが瑞々しく輝いた。

「あいつ、かわいいでしょう。あいつの親は、子どもを産むと、私に、ここで産んで、育てているんや、餌をここへも運んでやってくれと私をその場所に連れて行きよったんですわ。それでミルクや食べ物を持って行ってやってね。子どもが歩けるようになると、今度は、みんなを引き連れてここへやってきたんですわ」

 黒猫が、酒井に甘えるように彼の前で寝転ぶ。酒井がその猫の首根っこを撫でてやると、気持よさそうに目をへの字に閉じる。

「こいつはすでに子どもを九匹産みよったんです」

 猫は目を開き、顔を上げて酒井を仰ぎ見る。

「みんな、もらい手があってよかったが、もういいやろうと思って、不妊手術をしてやりました。片方の耳、ちょっと切られているでしょう。それ、手術したという印」

「でも、よかったわ。子猫がもらえて、これ、わずかなんですけど、餌代の足しにでもしてもらおうと思って」

 女性は封筒を酒井に差し出す。

「ええっ、こんなもん、いただいていいのかな、でもありがたいです。猫へのカンパとしていただきます。ありがとうございます」

 これは服務規程第二十五条「名目のいかんを問わず、寄付を募ってはいけない」の違反だ。

 それに、酒井はずっと猫に餌をやりつづけそうだ。やばいな。きっと見つけるやつが出てくるに違いない。また、一悶着も、二悶着も起こりそうだ。

 待てよ、俺がこの写真を横田署の署長に見せたら、俺自身が猫の餌やりに抗議する人間になりかねない。携帯を署長に突き出して酒井の餌やりを報告している自分を想像すると、その姿は、餌やりを抗議をして警察に文句を言いに来ている男とまったく同じだった。辺りの住民からは苦情が出ているようですよ、と得意げに言っている男と。

 俺はまさに「ちくり」をやっている。そのことに初めて気づいた。仕事で犯人を尾行するときは「ちくり」をやっているなどとは思ってもみなかった。だが、これが同僚のまとわりとなると「ちくり」だということを初めて知った。やめた。こんな大したことでもないことまで報告する義務がない。私は携帯に撮った写真を画面に出し、それらを全部、削除しようと思ったが、待てよ、これは服務規程第五条「職員は、職務の遂行にあたっては、上司の職務上の命令を厳守しなければならない」の違反になる、と思った。署長が私に告げた。「どんな些細なことでもいい、よく観察し、できれば証拠写真も撮り、報告してもらいたい」と。付け加えて次のようなことまで言った。「わが署の警官はいかに優秀であるかを横田署の署長に見せつけてやりたいのだ。いかに観察力に優れ、些細なことまでちゃんと上司に報告してくれるかということを」と。

 えらいことを引き受けてしまったものだ。しかし、いったん引き受けた以上、職務は遂行しなければならない。それに、人の行為を覗き見るというのはそれほど嫌なことではない。これから彼は何をするのかと思うと、わくわくする。だから、この任務は最後まで完遂するつもりだ。故に、私は、今撮った写真を消さないことにした。

「わたし、お宅を尊敬しています。だって、動物愛護の法律があるんでしょ。そこには、動物が命あるものであることにかんがみ、何人も、動物をみだりに殺し、傷つけ、又は苦しめることのないようにするのみでなく、人と動物の共生に配慮しつつ、その習性を考慮して適正に取り扱うようにしなければならない、とあるのよ。わたしね、ネットで調べたの。また、何人も、その飼養又は保管の目的の達成に支障を及ぼさない範囲で、適切な及び給水、必要な健康の管理並びにその動物の種類、習性等を考慮した飼養又は保管を行うための環境の確保を行わなければならない、とも書いてあったの。この公園は市のものでしょう。市のものとはわたしたちのものでしょう。ここに住む猫ちゃんはわたしたちがみだりに殺してはいけないんでしょう。適切な餌も水も与えなければいけないのよ。それなのに、餌をやってはならないなんて看板なんか立ててよ。それはここにいる猫を全部殺せということじゃないの。法律を守らねばならないお役所がよ、動物を虐待せよと言っているのと同じよ。これは何事よ。あんなの守る必要がないわ。あなたは立派よ。尊敬しているわ」

 女はまくし立てた。その間、酒井はうれしそうに彼女の顔を見つめていた。彼女の言い分にも一理がある。

 女が去ると同時に、酒井は猫の餌やりに使ったものを片付けはじめ、不要になったものをゴミ箱に捨て、もとの通りきれいにした。猫たちは満足げに、酒井の方を何度も振り返りながらゆっくりと去って行った。

 酒井は再び歩き出した。手にはもう何も持っていなかった、私は彼の後をつけた。

 今度は駅近くの二階建ての廃墟を思わせるようなアパートの前で立ち止まり、携帯を出して、何かを喋っていた。すると、アパート二階の真中辺りの部屋のドアが開き、若い男が顔を出した。眼鏡をかけ、やや神経質そうな細面の顔だった。前の錆びた鉄柵のところまで来て、酒井を眺めた。大学生か、それともアルバイトで食っている男のようだった。

 酒井は手招きした。男は鉄の階段を辺りに響くような音を立てて、虚勢を張っているチンピラのような格好で降りてきた。私は、近くの電柱の影に隠れてそれらを注視し、携帯で写真に撮った。

 酒井の顔は先程の顔とは違って、鬼顔になっていた。憎しみのこもった目の輝きは辺りの光を反射させ、近づいてくるものを燃やす力があった。危ないなという気がした。

 相手も酒井が間近に見えるところまで来て、後ろに一歩退いた。彼の目に恐れを抱いたようだ。目が震えている。しかし、彼がポケットに手を入れるとその表情が消えた。

「田村勲だな」と酒井は刃に似た声を出した。

「そうだよ。何の用だい」                                                        「きよみの兄だ」と酒井は言った。

「きよみの兄だと?」と田村という若者が言った。さらに、彼がつづける。「あいつに兄がいたのかな。聞いたことがないな、でも、あんたには何の関係もないことだろう。俺ときよみとの間に何があったって、あんたが入ってくる権利は何もないはずだ。俺たちはもうとっくに二十歳を過ぎているんだ。二人の同意があれば結婚だって自由にできるんだから。それくらいは知ってんだろう。それにきよみは俺を好いてくれているんだから」

 酒井に妹が? と私は驚いた。彼の素性が横田署の署長から送られてきていたが、妹などいなかった。弟が二人いただけだ。何でそんな嘘を?

「好いてる? 馬鹿を言え、妹は怖がってんだよ」と酒井は先程よりもさらに鋭い声を出した。

「そんなことはない。俺の行為を誤解しているだけなんだ。俺の心が通じない訳がない。俺は命がけで彼女を愛してんだから。俺は彼女のためなら死んでもいいと思ってんだから、これ、愛しているのと違うか。これ以上の愛があるか、お兄さんだって妹のために死ねねえだろう。俺の方が上だ」

 私は若者の声を聞きながら腹が立った。何と身勝手な考えだろう。相手が求めていない愛など愛に値するものではない。相手が身を落としても自分を守ってほしいと思ったときそれができれば愛と言えるが、そうでないのなら、自分の思いの押しつけである。そんな小学生でもわかるようなことをどうしてこの若者がわからないのか。

「お前の愛など妹は欲してはいない。お前、警察の忠告を受けたとき、もうやりません、と言ったんだろう。それなのに、なぜ、また、同じようなメールを妹に送ったんだ。それどころか、妹が大学から帰るのを待ち伏せしていたというではないか」

「待ち伏せなんかしていない。たまたま見かけただけだ。だから、送ってやろうと親切心を出したまでだ。人に親切にしてはいけないのか」

「いけない。親切にされたくない人に親切にするのは、最悪の行いなんだ。許せん」

「お前のような兄や親に、きよみとの付き合いをじゃまされたくはない。きよみはかわいそうだ。俺を好きなのに、それを言えなくて我慢させられているんだ。俺はそんな兄や親を許せん」

「私こそお前を許せん。私をなめるなよ。私はお前を殺しに来たんだから。おい」

 酒井の声は、まるで猛獣の吠え声だ。彼は、その声が終わらないうちに、すばやく若者の胸ぐらを掴み、ブレザーの袖で首を締めた。

 私はそれも動画に撮った。

「何を、この野郎」と若者はポケットに手を突っ込みナイフを取りだし、木の鞘を土の上に放り投げた。刃は西日を受けて、磨かれた銀色の鋭い光をあたりへ放った。

 酒井が危ない。俺は飛び出して、彼を救おうかと思ったが、思いとどまった。俺が姿を現せばその時点で、彼は警官にならざるを得なくなる。彼は柔道の高段者でボクシングも並の腕前ではない。あんな刃でどうにかなる男ではないだろう。

 酒井はナイフを持っている手をすばやく掴み、それをねじ上げると同時に、脛を使って、若者の股間を蹴り上げた。若者はうううとうなり声を上げ、身体が地上に吸い込まれるようにしてしゃがみこんだ。それでもまだうううと声を上げつづけている。

「こんなものを持ちやがって」

 酒井はナイフを拾い上げ、それを若者の前に突き出し、さらには若者の首筋にあてた。若者の顔はここからでも青ざめていることがわかった。身体が震えている。

「きよみに近づくな。近づいたら、今度は本当に殺すぞ。いいか、近づかないと約束するな」

 酒井はナイフをさらに首筋に押し当てた。それをこちらに引けば首筋から血がほとばしるであろう。

「近づきません。約束します」

 若者はか細い声でつぶやく。

 酒井は若者を力一杯引き揚げて立たせ、さらに、後方へと突き放した。若者はよろけながらかろうじて立ちつづけた。

「服務規程第五条、警察官はその権限を乱用してはならない。第六条、その職の信用を傷つけ、不名誉となるような行為をしてはならない。第十四条、職員は、相手方の言動などに左右されることなく、冷静沈着を旨とし、いやしくも粗暴な言動は、厳に慎まなくてはならない」を思い出した。しかし、彼はひと言も警察官とは言っていない。だったら乱用したことにはならない、警察官の信用を失墜させたことにも、不名誉な行為をしたことにもならない。

 これは私だけの論理かもしれないが、少なくとも私には通用する。

 いつか、私の属する樫木署から横田署に移った元同僚と道でぱったり会って、久しぶりだからいっぱいやろうということになり、近くの個室のある居酒屋に行ったことがある。我々がいっぱいやるときは、できるだけ個室を使う。

 そこで私は何気なく横田署の雰囲気はどうか、と尋ねてみたことがある。「まあ、変わったやつが多いな。競馬に凝って、サラ金に借金をして、親に泣きつき、全額払ってもらったやつとか、首になったやつだが、風俗に情報を流して、女を世話してもらっていたやつとか。万引き犯を署に連れてくる間に逃がしてしまったやつとか。そうそう、妹がストーカーに殺されたやつもいたな。そいつはいつも、ストーカー犯罪が発生したら自分に任してくれとか言っていたが、署長から、あいつにだけはストーカー被害を知らせるな、という密かな命令が回ったりして。でも、そんなことは無理、横田署は樫木署よりさらに小さな警察だから、刑事課も生活安全課もみんな補い合って、ことが起これば、みんなで助け合わないと処理ができない。区別などあってないようなものだ」と笑っていた。

 ひょっとして酒井の妹がストーカーに殺されたのではないか。そう言えばそんな事件が数年前にあった。警察に届けたにもかかわらず、ただ、そんなことをするなという訓告だけをし、もうけっしていたしませんという言質を取っただけで、他に何もしなかった。それで、女子大生がストーカーに殺された事件が新聞を賑わした。あの被害者は確か酒井といったような気がする。

 それで、彼はあのような行為に出たのか? それならつじつまが合う。

 そんなことを考えているうちに、酒井はすでに遠くを歩いて行く。遅れて見失うようなことがあってはならない。私はすばやく歩く。何だか彼に引っ張られて行くような感じだ。

 彼は電車に乗るようである。駅に向かっている。ただ、駅の近くに神社がある。そこは何百年も経ったような大きな楠の木が植わっている。幹の太さは両手を伸ばしても囲みきれないどころか、半分にもたらない。それらが、何本も植わっている。森のようなところだ。森と言っても、平地で、そう広くはない。どこからでも向こう側の道路が見え、道に丸く囲まれたところだ。そこを半周したところで駅に向かう道があり、その先に横田駅がある。

 酒井は道を歩かずに森の中を突っ切っていく。ひときわ大きな楠の木の前で立ち止まる。樹齢はどれくらいあるだろうか。じっと楠の木の先端を見つめている。私も少し離れてはいるが彼と同じように大木の先を見る。葉っぱが折り重なっているが、隙間から、暮れかけた黄色い空が見える。隙間から見える空は、広々としたところからみる空とはまた違っていた。そこだけが辺りとは異質な空間に思える。葉の隙間は広い空へとつづいていく通路のようだ。じっと見つめていると、心がふっと身体から離れ、穴へ向かって吸い込まれていく。酒井は柏手を二度打つと、合掌し、口の中で何かの言葉を呟いているようだ。神の降臨を願っているようでもあり、神に何かを祈っているようでもある。それから頭を下げ、再び、顔を天に向ける。彼の行為を見つめていると、何でもない楠の木が何だか神々しくなる。そこだけが特別な場所のように思える。彼は、勤務からの帰り、いつもこの森に入り、柏手を打ち、楠の木を通して、神への祈りを捧げているのかもしれない。神は万物に宿る。あの木は万物の象徴、あるいは、自然の象徴として彼は位置づけているのかもしれない。「規定第二十六条、職員は、宗教的活動をし、または宗教的議論をしてはならない」が思い浮かぶ。それに違反している。特に、身分が知れている管轄内で例え個人的とはいえ、宗教的活動をすることは厳に禁じられている。私は、彼が柏手を打つところを携帯で撮した。

 これも署長は喜ぶだろう。しかし、彼の柏手を打つときの態度は立派だった。むしろ神々しかった。普通なら辺りを見回し、誰もいないかを確かめてからするだろう。しかし、彼の動作にはまったくそのような気配がなかった。誰が見ていようが、自分の思うことをするといった迫力があった。他から見れば、何でもない一本の楠の木に柏手を打っているなんて、常識外れの、奇妙な行為である。常人では理解できない行為である。きっとおかしな人、と思われる。だが、彼の意識の中には他人がどのように思うかなどといったことがない不屈の気迫があった。よし、私もいっぺんそのような行為をしてみよう。

 彼はすでに向こう側の道に向かって歩み出していたが、かまわず、楠の木に向かって大きく両手を開き、柏手を打った。心地よいほどの破裂音が森の木々に反響した。さらにその音が天に向かって葉の穴を通って登っていく。よし、もう一度。同じような音が聞きたい。再び柏手を打つ。心が清々しくなり、私は頭を垂れて、目を瞑った。すると風の音が音楽のように響いてきた。風が身体を射し通っていき、自然の快感とはこのようなものだと教えてくれた。私にもいい人生が訪れますようにと祈った。目を開けると、すでに酒井は向こうの道に達している。だが、酒井がここで手を合わせる理由がわかったような気がした。

 俺たちは犯罪という泥水の中に身をさらしているのだが、ときには、それらをきれいさっぱり落とす必要がある。彼は家に帰るときは、ここでシャワーでも浴びるように、森の精気を吸い込み、自然の風をシャワーがわりにして身体を洗っていたのだ。

 と、何の前触れも、何の関係もなく、横田署へ移った同僚と一杯飲んだときのことが、また思い浮かんできた。

 私は、話題が切れたので、そのつなぎにと、数ヶ月前に横田署管内で起こった、女児が川へ転落し、死亡した事故のことを彼に話した。

「ああ」と彼は気のない返事をした。

「事件解決まで、素早い対応だったね。これも、いろんな課の協力の成果かね」と私が言った。

「親の同意も早かったからな」と彼が言った。

「確か、橋から転落したのだっけ」

「うん、ただ、酒井という刑事だけが執拗に事故ではなく事件だと言い張って。彼を説得するのに時間がかかってね、それさえなければ、もっと早く解決できたんだが」

「何か事件性でも」

「それは考えられないというのだが、児童の母親がね、ちょっとまずかった。酒井はそこを執拗に突いてきて、みんなからひんしゅくをかってね」

 元同僚の声が突然小さくなった。咄嗟に、ああ、あれか、と思った。

「規定第二十三条一項、職員は、職務上知り得た秘密、及び個人に関する情報を漏らしてはならない。第二項、職員は、公衆に知られるおそれのある場所では、職務に関する談話を慎み、不用意のうちに秘密が漏れることのないように心がけなければならない」を気にしているのだ。

 これでは、同僚や元同僚と会って話などできないではないか。同業者の話といえば、職場の話しかない。共通することって仕事以外に他に何かあるだろうか。その話を、警察署以外では話してはいけないのか。元同僚と会って、久しぶりだからちょっと話をしよう、と思っても、警察署まで行かなければならないのか。警察署で雑談などする気にはなれない。

 もちろん、今、捜査中の話はしてはいけないだろう。だが、すでに裁判にかけられたことなど、なぜ話してはいけないのか。犯人のことは洗いざらい裁判所で明らかにされているではないか。今は、取り調べの透明化が求められている。透明にされてはまずいことがあるから、知られないようにするのではないか。やましいことがなければ、公衆にしられてもかまわないではないか。独身の男に子どもの話をしたっておもしろくはない。釣りの嫌いな自分に、釣りの話を聞かされたっておもしろくはない。ゴルフの嫌いな自分にゴルフの話を聞かされたらただうんざりするだけだ。仕事の話をして何が悪い。

 だが、よそう。愚痴を言っても仕方がない。俺は、警察にしがみつくのだからきまりに従うしかない。

「というと?」と私は声を小さくして尋ねた。ここは個室だ。大丈夫だ。気など遣うな、と思いながら。

「いや、母親がシングルマザーで、生活費を稼ぐためと思うのだが、売春まがいのことをやっていてね、その日も、子どもがじゃまだからと外へ出していたんだ」

「それが何か」

「だから、彼女の家に行っていたのが警官だったということなんだよ。しかも勤務中に」

 元同僚の声が極端に小さくなる。

「何、君んところのか? なるほど」と私の声もさらに小さくする。

「しかも、彼女とそういう関係になっていたのは、彼だけではなく、横田署の複数の警官なんだ。警官が他の警官に言いふらして、多くの警官が彼女の家に行って、彼女を買っていたっていうんだからね。彼女を養っているのは横田警察署だとか言われたりして」

「それで署が慌てたという訳か。時間をかければ、そのことが明るみに出るかも知れないと思って」彼があまりに小さな声で言うので、私の声も極端に小さくした。でないと彼に悪いと思って。

「警官が彼女のもとに行っていたのは、夜、その辺りで少年、少女がバイクを乗り回して騒いでいるという情報が入ったので、その様子を尋ねに家を訪れ、彼らのことをいろいろ尋ねていたということにして、その警官が、子供が死んだと思う時刻に、彼女といっしょにいたというアリバイを証言し、それが採用されて、すぐさま事故ということになったんだが」

「署長が隠蔽工作をしたというわけか」

「母親と情を交わしていた警官が彼女をかばって嘘の供述をしたとも限らない。途中で子どもを見てくると言って、少しの間、外出したかもしれないではないか。それをずっと彼女といっしょにいたと偽証すればアリバイが成立する。だから、警官の供述など、親族と同じように証拠にはならない。もっと徹底的に調べよ、その時刻に彼女に似た女が慌てて家の方へ帰っていくのを見たという証言もある、と酒井は上司に執拗に食い下がった。上司は、警官は情など交わしてはいない。母親も事故で納得しているんだ。それをなぜ蒸し返すのか、と激怒した。お前は、警官の証言を台無しにする気か、仲間を売る気か、横田署に恥をかかせる気か、などと思ったに違いない。彼らはすぐに帳場を閉じたよ。第一、本当のことがばれでもしたら、監督不行届ということで、上司や署長が批判され、降格か、左遷ということになりかねないからね」と彼は顔をしかめながら、私にも聞こえないほどの声で言った。

 そう言えば、服務規程でただ一つ、慎重に扱わねばならない条項がある。それは第十二条「職務に関する建設的な意見を上司に積極的に具申しなければならない」である。この「建設的な」がくせ者だ。「第五条、職務の遂行にあたっては上司の命令を厳守しなければならない」との兼ね合いがいる。「建設的」なのは上司が何らかの意見をほしがっているときだけだ。そのときだけ建設的ということになるが、上司の考えに逆らうような意見は「非建設的」とされる。本当に重要なのは、上司の考えと違う意見である。そうであってこそ、それがより建設的な意見となる。だが、それを言えば上司から睨まれ、こっぴどく仕打ちを受ける。酒井に追及された上司はいつか彼を依願退職に追い込んでやろうと思ったかもしれない。

 私にもそのようなことが何度かあった。それは警官になりたての頃から始まっている。ある工場が焼けたときのことだ。住人のひとりがなくなった。原因を調べていると、どうも放火の疑いがあるように思えた。ところが上司が「失火」とし、死亡は火事による窒息死、つまり事故として処理し、原因の究明を打ち切れと言った。私は納得できないのでもう少し調べさせてくれ、放火を疑わせる証拠らしきものもあると告げた。上司は「これはもう消防とも話がついている。消防が失火と言っているんだ」と強い語調で告げた。その目は、子どもでもとられて、怒り狂っている獣の目に近かった。上司に逆らうことは怖ろしいことだ、とそのときつくづくと思った。それ以後、なるべく上司には逆らわないで、穏便に日々を過ごすことを旨としている。

 今も、一つ、事案を持っている。先日、付近の山で山火事が起こった。原因を調べると、どうも、工事現場まで設置されている電線の漏電によるもののようだ。私はその旨を調書として作成し、上司に持っていった。上司は、この調書はだめ、原因不明火と書き直せ、と命令した。これを電線の漏電とするのと、原因不明火とするのとでは、大違いだ。原因不明なら、山火事で生じた損害の補償はしなくて済む。だが、漏電となり、それに気づいていながら善処しなかったとなると重過失ということになり設置会社が損害補償をしなければならない。その会社は、地元の有力企業で、多くの住民がそこで働いている、また、市に出している税金も多額である。さらには、わが署のOBが何人も天下りしている。上司はそれを気遣っているのだ。さらには上司のさらに上から善処を命じられているのかもしれない。消防も原因追及には熱心ではない。ただ、近くの住民が怒っている。二度も、漏電を実際に見ているのだ。しかも、それを消防にも、会社にも報告し、善処するように申し入れていたのだ。だが、地元の人たちがその会社の恩恵を受けているので強くは言えない。それで、警察も消防も原因不明でおさめようとしている。

 私の書いた調書は受け取ってもらえず、書き直さなければならなくなった。だが、気が進まなかったので放置したままである。だが、上司の命令だから、いずれ原因不明と書き直すつもりである。警察では上司の命令は絶対である。

 だが、調書に原因不明と書けば、それがばれたとき、「そう書かれてきたので、私は部下を信用した」と言って上司は罪を免れるであろう。せいぜい、管理不行き届きで悪くて減俸ぐらいであろう。しかし、俺は、ことによったら諭旨免職になるかもしれない。それは困ったことだ。

 しかし、上司に従っていれば、たとえばれたとしても何とか隠蔽してくれて、そのようなことにもならないだろう。警察というところはそういうところでもあり、きれい事ばかり行われているわけではない。

 警察では、あるいは、どこの職場でもそうかもしれないが、上司に逆らえば、勤務評定が悪くなり、試験に際し「選抜推薦」などという特典も与えられない。警察で、生活目標になり、励みになるのは試験にパスして「階級」を一つでも上にあがることである。それが、警察本部長賞を得ることとともに、生きがいにできる具体的な数少ない一つである。それを捨て去ることはかなりきつい。若い者が上に立ち、えらそうに言うのを「はい、はい」と聞かなければならない。公務員の中で、警察は、階級がものを言う数少ない職場である。その他の公務員には、自衛隊や、海上保安官を除き、階級などというものがない。あるのは職務上の上下だけである。警察は、巡査、巡査部長、警部補、警部、警視、警視正、警視長、警視監、警視総監、とある。それぞれの階級が役職と連動している。そして、ノンキャリヤは警視正までである。

 階級を放棄するとは、警察での生きる目標を失うことである。もちろん警察は日本の秩序を守る立派な仕事だという誇りもある。だが、それだけで生きられると考えるのは甘すぎる。理想主義的に過ぎる。それだけで自己の存在感を確かめ得るなんて青い人間の繰り言である。世間からは、ときには「権力の犬」と罵られ、「ポリ公」といってさげすまれたり、うかうか近づいては怖いと言って付き合いを避けられる存在でもある。近所の人にはめったに仕事が警察官などとは言わない。府や県の公務員というのが関の山である。いい仕事ね、などと、尊敬されることはまずない。「この頃の警官は何をしておるのか」と批判されるのがおちである。ただ、道案内をしたときだけは感謝される。

 愚痴はよそう。どの仕事だって辛いことがある。どの集団にだって個性を抑圧する部分がある。それがない集団なんて、集団ではないだろう。集団には集団の秩序があり、集団を外部から守ろうとする習性がある。特に、正義を売りものにしている警察、教育、司法、宗教、政治などは道徳的、常識的な規律が売り物だから、私的な空間でも抑圧が強い。もし、それを少しでも破れば、世間の風当たりがきつい。だから、彼らの集団は閉鎖的になって、隠蔽体質が生じる。

 酒井は警察署を出た瞬間に顔を隠し、誰だかわからないようにしたのも無理はない。俺もそうしたい。ただ、そうする勇気がないだけだ。

 何だか、酒井の行動を見ていると、すでに出世への執着を捨て去ったふうだ。さらには、外勤に廻されようが、左遷されようがそれがどうした、というステバチな態度さえ見受けられる。俺は彼を半ば尊敬し、半ばあきれかえっている。俺は違う。誰よりも早く、一段でも上に行きたい。だから、上司には極力逆らわないことにしている。

 前の女房から、警官の妻なんかやっていられない。家のことや私のことをほったらかしにして、捜査だからと言って約束を平気で破り、女房の仕事にまでとやかく言われたんじゃたまらない、私を取るか警官を取るか、と言われ、俺は警官は辞められないと言うと、彼女はさっさと出て行った。女房は友だちに見込まれてラウンジのチーママを引き受けたのだが、それが見つかり、私を通して、そこを辞めるように言われ、それに怒りを感じて、俺の元を去ったのだ。そこには暴力団員も客として出入りしているというのが警察の言い分である。

 酒井はすでに駅に入ろうとしている。電車が来れば彼がそれに乗ってしまう。私は慌てて、駅に向かう。幸いに電車がまだ来ていない。プラットホームの上り下りを見る。下りのホーム、彼の帰宅ホームとは逆の方向、つまり、私の帰宅方向にいる。いったい彼はどこへ行くのだろうか。次の駅で降りてそこにある飲み屋街でも行くつもりか。「酒を呑む場合は一人で行くな。なるべく同僚と二人以上で行け、そして、お互いに牽制し合え」と署長が訓示でよく言う。「規定、第三十一条、品位を失うに至るまで飲酒してはならない」 があるからである。酒での失敗で多くの警察官が依願退職に追い込まれた。くだを巻いている彼の映像を撮ることができたら一発で彼は訓戒処分になる。

 いつの間にか、私は、彼の服務規程違反を望んでいる。でないと、私のまとわりがまったくの徒労に終わるからである。最初は同僚の日常を暴き上げることへの嫌悪感があった。だが、だんだん、それにのめり込んでいくようだ。おもしろささえ感じ始めている。これって、俺の中のサディズムが蠢きだしたのだろうか。それとも何か別の理由でも……。

 電車がやってきた。一番前の車両に酒井が乗ったので、私は二両目に乗り、つなぎ目のところまで行き、連結の扉の窓から、彼を監視することにした。

 彼はじっと車窓を眺めているだけだ。まったく平常心のようである。ふと、彼が肩に入れ墨を入れているというのは本当かもしれない、と思う。どうして入れ墨など入れたのだろう。ひょっとして自分が警察官多しと言えども、唯一、入れ墨を入れている特異な警察官だと思いたかったのではないか。もしそうでないとしたら、他からの区別のない、ただの警部補という一人の刑事に過ぎなくなる。彼はそれに耐えられなくなったのではないか。

 では、俺はどうか? 俺は、もっとたくさんいる巡査部長の一人に過ぎない。しかも、それに何とかしがみつこうとしている。そればかりか、一階級でも上に行こうと、わずかにある私的時間を使って法律や昇進試験集の学習に余念のない男だ。俺の全時間が仕事に占有されている。仕事は俺の一部ではない。全生活、全思想、全行為だ。そして、俺はそれに満足している。

 突然、私の腰の辺りが掴まれ、くすぐったくなった。驚いてあたりを見回すと、子どもが後ろに来ていて、私を見上げていた。「ぼうや、向こうの車両に行きたいのかい」と私が言うと、彼は頭を振った。

「おじちゃんが何を見ているのか気になった」と言った。

「何も見ちゃいないよ」

「ふうん、おじちゃん、どこへ行くの」

「どこへ行くってかい。わからない」

「わからないの。へんだね。ぼくはお爺ちゃんの家へ行くんだ。一人で行けるからとママに言った」

「すごいね」

「ぜったい行きたかったから。今日はお爺ちゃんのお休みの日。おいでと言ったんだ。でも、ママもパパもお仕事だから、学校を終えると一人で行くことにした。ママは一人じゃ危ないからおよしと言ったんだけれど、僕は行くことにしたんだ」

「えらいね。すごいね。気をつけろよ」

「駅にはお爺ちゃんが迎えに来てくれているので、えらくなんかないよ。それで、おじちゃんはどこへ行くの」

 再び、彼が尋ねた。俺はどこへ行くのか、それは酒井が決める。俺の決めることではない。俺が自身で決めていることって、何かあるだろうか。何時に仕事場へ行く、言われたことを調べに行く。決められた時刻に家に帰る。これらすべてが誰かに決められたことで、俺はただリードで引っ張られている犬のようにそれに従っているだけ。昇進の試験勉強も間接的には他人の決めたことだ。

「さあ、どこへ行くんだろう」

「行くところがないのにこの電車に乗っているの。そんなのへんだ」

「そう、へんなんだ」私は苦笑する。

 電車が止まった。扉のガラス窓から前の車両を見ると、酒井が降りようとしていた。私は慌てる。

「おじちゃんは、ここで降りるよ」

 子どもに言うと、開いた扉にすばやく向かい、電車を降りた。振り返ると、子どもが不思議な物を見るように、大きく目を見開いてこちらを見ていた。

 酒井の足は速い。風のようだ。私に見つからないように半ば走っているような感じで歩く。酒井は、コンビニの前で、少女たちが数人たむろしているところへ進んでいく。彼女たちの身体はもう女の匂いを醸し出している。腕や脚のふっくらとしてみずみずしい肌を惜しげもなく露出させている。果肉のような肉付きが男を誘うには十分である。だが、顔がまだあどけない。長い付睫毛に濃い化粧をしているがそれが顔付と調和せず、滑稽な感じさえ与える。服装も制服のままだ。本人はけっこう大人のつもりなのだろう。そこらにいるまだ甘えん坊の少女たちとは自分たちは違うんだといった、優越感が顔に滲み出ている。私たちはもう何でも知っているよ、と言っている。ひょっとして万引きとか売春とかで捕まったことがあるのかもしれない。少女たちのうちの一人が酒井に微笑んでいる。初めて彼を見るのではないことがわかる。彼女たちは少女売春の中・高生たちか?

 よし、チャンスだ。私は携帯を出して、酒井が少女と顔をつきあわすほど接近しながら話をしているのを撮す。と、彼女が突然、酒井の背に腕を回し、彼を抱いた。酒井も彼女を抱く。ハグしている。酒井の目の横に彼女の顔がある。

 私の鼻先にも女性の化粧品の甘い香りがしてくる。酒井はそれを今十分にかいでいる。

 しばらくハグしあっていたが、やがて離れて、また、話をし出した。いったい何を話しているのだろうか。会話は聞こえないが、いかにも親密そうである。

 彼は、そこにいる少女たちとも笑顔で話し合い始めた。まるで自分の娘たちにでも話しているような顔付きをしている。彼女たちから声をかけてもらうことがたまらないといった表情だ。わかるよ。若い女たちから事務的なこと以外で声をかけられるなんてことは稀有なんだから。彼女たちの声を聞くだけで、心の中が晴れやかになる。

 よし、俺も、酒井がそこを離れたらさっそく彼女たちに近づいてみよう。酒井はいったい何を話していたのか尋ねてみなければならない。

 酒井は先ほどハグした娘を連れて、歩き出した。どこかへ行く。ひょっとしてラブホへでも? もし、そこへ入る写真でも撮れれば最高だろう。未成年者とそのような関係を結んだだけで、一般人だって犯罪者になる。まして警官なら懲戒免職間違いなしだ。よし、よし。

 おかしいな。何の恨みもない、何の関係もない酒井が懲戒免職になることを望んでいる。彼をうらやんででもいるのか。

 私は酒井の行方を見極めながら、恐る恐る少女たちに近づく。

「あのさ、ちょっと尋ねてもいいかな」

 少女たちは、みんな私の方を見る。好奇の目か、それとも不審の目か。

「さっきのおじさん、何と声をかけてきたんだい」

 少女たちの目は一瞬で不審の目になる。

「どう、おじさんと遊ばないか、と言ったんだろう?」

 少女たちは沈黙する。ますます不審の目だ。

「どうだい。私とお茶しないか。おごるよ。お茶しようよ」

 なんてことだ、「そう言ったんだろう」と言うのを忘れた。いや、言えなかった。これでは私が誘ったみたいではないか。 

 ――お茶しようよ。私といっしょに。

 少女たちはいっせいに立ち上がる。みんな鳥が飛び立つように私から離れる。離れながら私を振り返る。みんなひそひそ話をしている。「キモい」「何言っているんだい、助平おやじ」そのような声がかすかに聞こえる。

 酒井はいったい何を話していたんだろう。私は女に飢えてはいない。人恋しくなどない。私はただ言い間違っただけだ。私は市民の秩序を守っているれっきとした警察官なのだから。

 そんなのは嘘、嘘を言うな、彼女たちのひそひそ声? それとも俺の声? 俺だっていっぺん若い女たちと付き合ってみたいよ、抱き合ってみたいよ。わあ、キモい。キモいよ、あのおじさん。

 酒井は少女たちのひとりと連れだってどこかへ行く、どこへ?

 酒井の姿はまだ見えている。見失わないぞ。

 私は慌てて彼の後を追う。酒井は少女の肩をそっと支えている。少女は泣いているのか。

「おや、あそこは」

 酒井は少女の胴に腕を回し、渋っている少女を促しながら門を入り、古い黒色に近い灰色の鉄筋三階建ての建物へ入った。門に掲げられた看板は「児童相談所」

 いったいどういうことだろうか。何か、少女に問題があり、それについて相談に行ったとも考えられる。どのような相談? 親にも担任にも言えない相談? 親からの虐待? それとも、ひょっとして性的虐待?

 彼女の友だちが、あのおじさんに相談してみなよ、と酒井に相談することを勧めたのかもしれない。酒井はいつもあそこへ行き、少女たちの相談相手になってやっていたのかもしれない。

 私は中へ入って警察手帳を出し、何の相談に来たのか尋ねることもできる。しかし、それは任務外だ。私は外から見える彼の行動を明らかにすればいい。それが任務。だから、彼が出てくるのを根気よく待つより他はないだろう。まとわりには馴れている。じっと待つ修練ができていなくてはまとわりは勤まらない。一晩中、車中から容疑者が出てくるのを待ったことなどたびたびだ。こんなことは「へ」でもない。

 じっと、酒井が出てくるのを待っていると、今度は、先日、強姦の告発をしてきた若い女とのやりとりを思い出す。 

 小部屋で、私が二十歳の女性の前に座るとき、「何とかしろよ、強姦した男は、県議で警察委員会の委員長の息子なんだから、わかっているよね」という上司の声が耳元で響いた。上司は絶対に不受理に持って行け、と私に命令しているのだ。

「たいへんなめにあったね。男性の私には慰めることばもありません」私は猫なで声を出す。

 若い女は、鼻筋がとおり、頬は乳製品のような柔らかさを露わにしている。首もまた、一切の皺がなく、頬と同じ柔らかな感じである。そっとそこへ唇を寄せてみたい気がする。

 頬は上気しているのか紅色だ。背筋を伸ばし、緊張した姿勢だ。

「一応、ご両親の了解は取ってあるのだが、ご両親も本人の意思に任せる、とおっしゃっておられる。どう、私と話すのにもずいぶん緊張しているようだけど、わかるよ、それは。だから、裁判になるともっと緊張するよ。もちろん裁判所はいろいろ配慮はしてくれると思うけど」

 若い女はまだ一言も言葉を発していない。取り調べは女性警官が当たったので話しやすかったのかもしれないが、それで、今日も、女性警官が話してくれると思っていたのに私が出てきたので驚いているのだろう。それに、彼女はすでに男はすべて敵だと思い出しているに違いない。そうなれば私の言葉など聞く耳を持たないということになる。

「思い出すのもいやなことでしょう。だから、それを避けるためには、示談がいいと思うのですが。裁判となると、根掘り葉掘り聞かれるから、いろいろ嫌なことや恥ずかしいことも言わなければならないし、他人の前でそのようなことを言うのは本当に辛いことですよ。若い女の子にはきつすぎる。耐えられないよね、そんなこと」

 女は相変わらず黙っている。一点を睨んで、眼球さえ動かさない。苦しいのだろうな。腹が煮えくりかえっているだろうな。その怒りをぶつけるべき場さえ奪われようとしている。

 このような美しい女、私が指一本触れることさえできない女を犯したやつがいると思うと、そいつを捕まえて何度でも路上にたたきつけたい。だが、示談なら、犯したやつは何の傷も負わない。自分が汗水垂らして稼いだ金ならそれを払うとなるとそれなりに傷になる。だが、どうせ親が金をだすのだろう。息子が強姦したとなると、当然、父はひどい痛手を被る。大きな顔をして委員長を続ける訳にはいかなくなる。ことによったらマスコミの餌食になる。下手をすれば県議を辞めなければならないことになりかねない。親も必死だろう。だから、警察としては、今こそ恩を売るときだ。そうすれば警察の予算だって無理を聞いてもらえる。警察にとってすべてがうまくいく。

「だから絶対に示談だぞ。金ならいくらでも出させるから。相手にとってもそれが一番いい。それを説得できるかどうかがおまえの腕次第だ。すべてお前にかかっている。お前の警察での位置もかかっている。成功すれば署長だって気にかけてくれるから」

 上司の言葉が甦る。示談ならまったくいいことづくめだ。

「どうです。示談で」

 女はやはり一言も答えない。

「今ならマスコミにも伏せられる。あなたの名前が世間に知られることもない。私はあなたをこれ以上傷をつけたくないのです」

 女は一瞬ちらっと私の目を見る。怒り狂った目だ。あなたも同罪。

「今すぐ、ここで納得するというわけにはいかないでしょう。わかります。三日後、ご両親ともよく相談されて結論を聞かせてください」

 女は立ち上がって私に一礼をし、静かにドアから外へ出て行った。私の前で一切、言葉を発さなかった。私は彼女の背に心を込めて「示談があなたにとって一番いい方策だと思いますよ」と言った。

 そこまで思い出したとき、酒井が出てきた。だが、少女がいっしょではない。少女はまだ「」の中にいるのだ。彼女は家に帰るのを拒否したのか。それとも「児相」が彼女を保護するように酒井がねじ込んだのか。性的虐待、まったくへどの出るような話だ。酒井は彼女を救おうとしているのかもしれない。

 もし私が想像した通りなら、私には、とてもまねのできることではない。私の中にはそのようなエネルギーはどこにもない。

「児相」に面している静かな通りから表通りに酒井が出ていく。多くの人が、あちこちと秩序なく歩いて行く。だから、酒井が人の後ろになって瞬間見えなくなることもあった。だが、彼は背が高いので、すぐに見つかる。まとわりのしやすい男だ。

 あっと思わず声を出した。酒井が消え、突然、彼が女に変わった。おかしい。頭の横に髪を束ねているリボンがあり、首筋が長い。酒井もそうだ。それに、背丈といい、肩幅といい、酒井と同じである。キリンの足を思わせるようなすらりとした足は、活動的な女性を思わせる。穿いているスカートの丈が短いので余計に足が引き立つ。思わず顔が見たくなって足早に彼女を追い越す。顔を眺める。頬骨と顎の張った男の顔だ。あっ、酒井だ。でもよく見ると酒井の顔ではない。当たり前だ。前を見ると酒井らしき男が、二人おいてその前を歩いている。この女装の男と重なっていただけだ。なんだ。がっかりする。酒井が女装の男に変身してくれていたらおもしろかったのに。特ダネだったのに。

 私は再び女装の男の後ろに隠れて酒井を追う。

 女装の男の対面から来る人たちは彼をちらりと見て、みんな半ば笑い、半ば怪訝な顔をする。だが、彼はそのような目をいっさい気にせず堂々と左右にある頭のリボンを揺らしながら歩いて行く。むしろ清々しい感じさえ与える。

 彼は女性になりたかったのだろう。女性のきれいな服を着て歩きたかったのだ。男の衣服はほとんど決まり切っている。背広か、ブレザーか、Tシャツかだ。下はズボン。夏ならせいぜい半ズボン。それ以外にはない。彼は勇気を出して、女性の服装をし、今、彼は女性になって歩いている。彼の心は緊張と喜びに満ちているだろう。それが、歩き方に出ている。生き生きとした歩き方だ。後ろから見ると、女性を感じさせる。

 私は彼をあざ笑う気にはなれない。むしろ、驚異を持って眺める。

 酒井は、不意に、人々の流れから外れて、とある店屋に立ち寄った。そこは酒屋である。行きつけの店のようだ。一升瓶を二本、重そうに抱いて出てくる。まるで赤子を抱くように。

 それから少し歩いて脇道に入る。少し上り坂になっている。都会にもこのような道があるのが不思議なくらいの静かな道だ。少し登ると、また平坦になる。片側には、古ぼけた戦前からの長屋が建ち並んでいる。所々にはそれらを睥睨するようにこれも古ぼけた洋館が建っている。洋館には手入れをしていない樹木がはびこり、建物の幽霊のようにひっそりとしていて不気味だ。ひとが住んでいないようだ。もし住んでいるとするとそれはきっと幽霊に違いない。

 もう一方はなだらかな崖になっていて、その下が古い墓場になっている。私のいる場所はかなりの高台のようだ。いくつかの墓石が転がっているのが見て取れる。さらにその向こうの墓石は、家の裏側の壁にめり込んでいる。家の裏が墓を巻き込んで建てられている。これは不法侵入だ。少しでも家を広げたいために、墓地に軒を侵入させ、私有化しようとしている。そして、その墓の上には、黄土色のシャム猫らしい猫がこちらを見て座っている。

 廃墟や廃屋などとは聞いたことがあるが、廃墓などとはあまり聞いたことがない。だが、それはまさに廃墓なのだ。三十基程の墓石が斜めになったり、崩れ落ちたり、さまざまな形で転がっている。花など一輪も手向けられてはいない。中央あたりには六地蔵があり、赤い前垂れが着せられているが、それらはみんな破れ、しかも、赤色から白色に変色している。

 墓場の周りは金網で囲われているが、その金網がすでにさび付いて方々に穴が開いている。酒井はその一つから中に入り、そろりそろりと転げ落ちないように下に向かって降りていく。そこにはすでに四、五人の先客がいて彼が降りてくるのを待っている。

 都会の中の谷。廃墟になった墓場。そこはなんだか都会のオアシスのようにも思えるし、小さな聖地のようにも思える。私はそれを谷の上から眺めている。

 酒井が紙コップを配り、それが終わると一升瓶から酒を配り始める。配り終わると酒井は酒瓶の蓋をしっかりと閉め、墓石の土台の上に立てかける。それを見て裾の破れた服や、薄汚れたワイシャツがブレザーから見え隠れする男四人が一斉にコップを高々とあげる。酒井も、墓石の上の紙コップを取り、彼らに遅れまいとして高々と上げる。それぞれの口から喜びの声が上がる。 

 彼らはいっきに飲みほす。酒井はまたもや酒瓶の蓋を開け、中身を配り始める。そのようなことが何度も行われる。彼らの声は暮れ始めた透明な藍色の空へ駆け上っていく。

 墓石の土台の上には「ビッグ・イッシュー」という雑誌が置かれ、その横の墓石には、パチンコ屋の新装開店のプラカードが立てかけられている。それに寄り添うようにして、清掃道具が、別の墓石には、一本の杖が立てかけられている。これで。そこに集う男たちの仕事がわかる。一人は、「ビッグ・イッシュー」を売っているホームレス。一人は、パチンコ屋の新装開店の宣伝をするサンドイッチマン。一人は、清掃夫。一人は、足の不自由な独居老人。だが、誰がホームレスで、誰がサンドイッチマンで、誰が清掃夫かわからない。かろうじて独居老人だけがわかる。頭がすべて白髪で、立ってはいるが片手を墓石から離さない男がそうだろう。

 彼らの一人が、酒井に替わって酒をつぐ。そして、また、次の男がそれを替わる。替わるごとに話し声が高まる。演歌の「祭り」が最高だといい、いや「津軽海峡冬景色」が最高だといい。「お前たちは何もわかっちゃいない。北の宿からが最高」だと大声で言う。いや、「一青窈の島唄」が最高だと誰かが言うと一瞬、皆が黙る。

 誰が持ち込んだのか、テープレコーダーから突然、リズムのいい歌が流れ出す。沖縄の民謡のようだ。すると、四人がいっせいに手を頭上に上げ両の掌を互い違いに裏表にし、腕を左右に振り出した。「カチャーシー」という沖縄の踊りかもしれない。彼らは皆、沖縄出身者なのだろうか。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。すくなくとも酒井は違う。酒井は確か近畿出身だった。でも、両親が沖縄出身者かもしれない。酒井も彼らと同じように手を振って踊り出す。足の悪い老人は片手だけを振って、彼らとリズムを同じにしているが、他の四人はプラカードの立てかけてある墓石の周りを踊りながら回り出す。

「カチャーシー」は祝いの歌だそうだ。彼らは何を祝っているのだろう。少なくとも酒井は何を? 私は、また携帯を向けて動画を撮る。録音もする。歌が終わると彼らが怒鳴りあげる。「わしは女に好かれたいよ」「俺は外国をほっつき歩きたいぞ」「わしは足が自由に歩けるようになりたい」「俺は鳥になって空を飛んでみたいぞ」「私は子供にもどってもう一度人生をやり直してみたい」

 最後のは酒井の声のようだ。酒井が子供のころに返ったら、何になりたいと思うのだろうか。俺はいったい何になりたかったのだろうか。小学校に柔道の好きな先生がいて、俺はたまたまその先生が好きで、柔道を習いだし、柔道が好きになった。高校でも柔道部に入り、国体に出た。ただそれだけだ。国体では早々と負けた。柔道が生かせる職場がないかと探していたら、警察官があった。それで警官になっただけだ。しかし、他に何かなりたいものがあったかというと何もなかった。自分を生かせるすばらしい仕事などまったく思いつかなかった。だったら、警察官にしがみつくしかない。ときどき、ふっと深い穴ぼこに落ちていくような気分になる。それもしばらくすると元通りになる。充実した気分になるわけではないが、俺に与えられた人生というのはこのようなものだと思ってみる。そう思うと気分が落ち着く。まとわりだって、仕事と思えばどうってことはない。データを署長に渡せばそれで済むことだ。後のことなど俺の知ったことか。

 うおう、うおう、うおう。彼らは獣のような声を出して吠え出す。俺も心の中で彼らの声に唱和してみる。うおう、うおう、うおう。気持がいい。何かがすっきりする。腹の奥にしまい込んでいた腐りかけの食べ物を大きなごみ箱に何のおしげもなく、すぱっと放り投げたような気分だ。声を上げて叫べばもっといい気持がするだろう。もう一度、同じように彼らが唸る。俺も声を出して唸りたい。だが、それはできない。今、仕事中なのだ。声を出せば俺に気づく。それはまずい。だが、それって少し変ではないか。日勤を終えて、本来自由であるべきこの時間、薄闇の中でも俺は大声さえ出せない。それが禁じられている。なぜ声が出せないのか。一銭の金にもならないのに仕事中なのか。それとも俺にただ勇気がないからか。

 彼らは一列に並び、墓場を囲んでいる家々を超え、屋根の向こうを見上げる。それを私は崖の上から眺める。家の屋根も私の位置からは下に見える。

 彼らの見上げている向こうを彼らより高い位置から眺める。私の方が遠くを眺めることができる。だがどういう訳か彼らの方が遠くを眺めているような気がする。私はただ、自分の前に立ちはだかっている壁を見ている。私の周りを透明な壁が取り囲んでいる。

 妻、子供、仕事、それらは私たちを取り巻く厚い壁のようだ。こんなに周りが広々としているのに、それが広々と感じられないのは、それがあるためだろうか。でも、私には、妻も、子供もいない。だのに、広々とした遠くを眺められない。それは私にとっては仕事が巨大な壁になっているからだ。たまたま就いた仕事がいつの間にか、生死を左右するほどのものになってしまった。

 だったらそれを認めよう。俺にはそれと抗うエネルギーなどない。今の仕事を離脱したところで働かなければならないのならば、もっと条件の悪い仕事が待っているだけだ。

 仕事、仕事、仕事が大事だ。

 携帯の写真機能を使って踊っている酒井たちを何枚も撮した。彼らの奇声も録音した。これらは、前にも思い出した規程第三十一条「職員は品位を失うに至るまで飲酒してはならない」に違反する。彼らの有り様は明らかに品位を失っている。

 突然、携帯が震える。慌てて受信ボタンをONにする。

「私だが」と刑事課の課長の声だ。

「今、家か」

「いいえ、署長から命じられた仕事をしています」

「ああ、そうか。ところで電話したのは、あの件、うまく行ったということだ。できるだけ早く知らせてやろうと思って」

「あの件といいますのは」

「ほら、例の強姦の」

「ああ、その件ですか」

「示談で済ませるって。君の説得が効をそうしたって訳だ。かなり脅したのと違うか。署長が早速、親の警察委員会の委員長に不起訴になりそうだと知らせたらしい。たいへんな喜びようだそうだ。署長も喜んでいた。これで一つ、署長に恩を売ったってわけだ。でも、よかったよ。まるく収まって。委員長の息子が強姦で逮捕なんて、警察まで悪く思われかねないからな」

「お知らせいただき、ありがとうございます」

「いや。とんでもない。仕事、がんばってくれよ。ではこれで」

 課長までご機嫌のようだ。警察委員会に恩を売っておけば、何でもスムーズにいくらしい。事件をまだ解決できないのかと、絶えず議会からせめられるのだが、それも委員長がうまくさばいてくれるのだろう。

 まあ、仕事が一つ片づいたのだから喜ばしいことだが、しっくりとこない。気持の中にどんよりとしたものが折り重なった。それに、まだ一つ、火事の件が残っている。あれも、原因不明の火事ということで処理すればいいのだろう。

 原因不明にすれば誰かが得をし、誰かが損をする。だが、そんなことは俺の知ったことではない。一応、俺は、正直に課長に報告したのだ。課長からさらに部長に報告された。だが、その部長が原因不明にしろ、書きかえろと命令してきたのだ。書き換えたのは部長であり、俺ではない。だから、俺の知ったことか。どうして俺が悩まなければならないのか。

 と、また、携帯が震えた。こんなに頻繁に電話でやりとりしていると下の奴らに気づかれるではないか。

 受信をONにし、「もしもし田所です」とできるだけ小さな声で答えた。

「こちら、樫木消防署の鳥山です。先日はご苦労様でした」と聞こえた。

 噂をすれば何とかで、ちょうど先日の火事のことを考えていたところに、その原因追及をいっしょにした鳥山消防士から電話が掛かるとは。

 彼もきっと原因不明にしろと言われているに違いない。

「私もあなたに連絡しようと思っていたところです。火災原因を原因不明にするということで」

「その件ですが、もう、調書、書き直されましたか。まだなら、ちょっと待った方がいいですよ」

「といいますと?」

「誰かがマスコミに内部告発をしたって噂が立って」

「内部告発?」

「内部告発かどうかもわからないのですが、そういう噂があって」

「内部告発といったって、原因追及は、私とあなたとあなたのところの藤谷さんとだけだから」

「ところが、昨日、藤谷のところに横田署の酒井という刑事から連絡が入り、火災は横田署管内の森林にも及んでいるので、火災の原因をぜひ教えてくれと言ってきたらしいのですわ。それで、原因不明ということで処理しようと思っていると告げたそうです」

「では、酒井が内部告発を」

「いいえ、それはわかりません。住民たちは漏電に違いないと言っているのですから、原因不明とされるのを怖れて、先手を打ったとか」

「彼らはそこまでやりますか? でも、警察や消防が原因不明にするとわかっているのは、私たち以外にいないし……」

「そうなんですよ。でも、今言ったように、そうなる可能性があると思った誰かがやったとも考えられますし、それに、酒井がまた誰かに告げ、その人がやったかも」

「そうですね」

「とにかく、この問題が明日の朝刊の地方版に載るらしいですわ。すでに、消防署には記者が取材に来たそうです。署長は現在慎重に調査中と答えたそうです。上からの圧力で、原因不明にするという噂があるそうですが本当ですか、と尋ねたそうですわ。署長は、絶対そのようなことはないと言ったらしいのですが、かなり動揺していたそうですよ。それに、野党の県議のところにも同様の告発が来ているそうで、県議からもそれはどうなっているのかと問い合わせがあったとか。だから、書き直しは待った方がいいと思って」

「それはありがとう。私のところにはまだ何も」

「そうですか。とにかくそういうことなので」

「それはどうも、こちらにも何らかの動きがあれば、またお知らせします」

 電話が切れた。まだ調書はそのままにして放ってある。書き直してなどいない。よかった。無駄骨が避けられた。きっと、警部である部長にも伝わり、今頃は慌てふためいているだろう。もうすぐ彼から電話が掛かってくるに違いない。そして彼は何食わぬ顔で言うだろう。「先日の火事の件だが、あれからよく考えてね、やはり、君らの意見を取り入れた方がいいと思って、明日、あの調書を出したまえ。あれを受理するよ」

 なんということだ、と思った。と、その瞬間、なんだか俺の体が宙に浮き上がった。地上にいるのが嫌でたまらなくなったというふうに。

 それにしても、内部告白をしたやつは誰だろう。酒井なのだろうか。それとも消防署の誰か。ひょっとして鳥山が。

 待てよ、きっと明日から犯人捜しが始まるだろう。だとしたら、真っ先に疑われるのがこの俺だ。おそらく犯人は見つからないだろう。その結果、署員たちは、それぞれ自分なりの犯人を考えるに違いない。きっとあいつだろうと。そして、そのあいつとは俺だ。田所に違いないと思うだろう。

 しかし、俺にはなんともしようがない。内部告発をやらなかったという証拠など出せるものではない。

「もう少し歩いたところです。こちらです」

 突然、路地の向こうから声が聞こえてきた。声のする方を見ると、野球帽を被った老人と、制服、制帽のふたりの警官が見えた。どちらも同じように見える。区別などつかない。

 そのとき、下の墓地から、また大声が上がる。

「ここにいる、誰にも参ってもらえなくなった霊たちは、俺たちを歓迎しているぞ。よくお参りにきてくれた、ありがとうって」

「放っておかれた霊たちは怒っているぞ」

「彼らは、ここがあなたたちの土地にしていいと言ったぞ」

「今から宣言する。この土地は俺たちのものだ」

 声が薄闇の空に舞い上がる。

 再び、テープがかけられる。今度は、「河内音頭」だ。彼らはまたそれを踊り出す。「えええー、さあても一座のみなさまえーへ、ちょいと出ましたわたくしはーお見かけ通りの悪声でえええ、……」

「確かに、少し騒々しい声が聞こえるな」と巡査が言う。

「これを夜中にでもやられたら、たまりませんわ」

「夜中でもやるのか」

「いえ、今のところはそこまでは。でも、やかましいことには間違いありません。住宅もあるので、住民は怒っています。それに、この墓は市のもので、廃墓として地区が管理を任されているんですわ。辺りをフェンスで囲み、許可なくして中に入ってはいけないと看板も立てかけてあります。ですから、彼らは正真正銘、不法侵入者です。ぜひとっちめてやっててください」

「そうだな。わかった。不法侵入に間違いない」

 彼らの声が近づいてくる。

 放っておいたら危ないな、と思う。特に、酒井は捕まえられれば「警官が墓地へ不法侵入。大酒を飲んで暴れまわる」などとマスコミに書かれる恐れがある。他の人間なら新聞沙汰にはならず、厳重注意で釈放されるだろう。しかし、酒井は違う。彼は警官で、警官ならニュースになる。例え自由時間であっても、仕事は常に人を縛っている。仕事から自由にはなれない。俺は意を決して大声で下に向かって叫んだ。

「おーい、警官が来たぞ。お前たちを不法侵入者としてとっ捕まえると言っているぞ」

 彼ら全員が踊りをやめてこちらを向いた。

「何? 警官が来たって?」

 踊っていた者の一人が、すぐさま酒井に向かって何かを言い、袖を掴まえ、彼を引きずるようにして左の隅へと連れ去った。そこには名のわからない高い木々が援軍の兵士のように立っていて、枝の葉っぱらが酒井たちを隠してしまった。

 酒井を援護した男の行動は早かった。酒井を警官に渡すわけにはいかないと咄嗟に思ったに違いない。彼が警官であることを知っていたのだろう。

 他の者たちは、悠々として、持ってきたものを片付け始めた。中にはじっと立ってこちらを憎々しげに睨みつけている者もいる。まるで、仁王が立ち現れたかのようである。彼らには失うべきものは何もない。警官など何の恐れもないといった有様だ。酒井はそう思えない。彼は常に仕事を背負っている。

 と、突然、酒井の消えた木々の葉っぱが、風もないのにざわつきだした。と、葉っぱの中から一羽の鳥が飛び出した。それは大きな鳥だった。羽をさかんに前後に動かし、すでに太陽が消えてしまった空へと飛び上がり、ゆったりと街の彼方へと消えていった。鷲だろうか、でも、こんなところに鷲がいるわけがないだろう。でも、それは鷲に見えた。そういえば、酒井の背中に彫られている入れ墨は鷲である、と聞いたことがある。あの鳥は酒井刑事。彼は鷲になって高い空へと飛んでいったのだ。私にはそう思えた。

「おい、今、下のやつらに何か言ったやつがいるな。あっ、あいつだ。木下巡査、お前は下の奴らを逮捕しろ、俺はあいつを追うから。おい、待て、お前はいったい何者だ、公務執行妨害だぞ。事情を聞きたい。おい、どこへ行く。待てと言っているんだ。待たんか。こら、どこへ行く。彼らよりお前の方が先だ」

 私は、道を走り出す。必死で逃げる。捕まってたまるものか。捕まったら、私の身元がわかり、彼らは彼らの上司に報告するだろう。「墓への不法侵入者を取り締まろうとしたところ、それを妨害した男がおり、掴まえたところ樫木署の警官、田所巡査部長と判明した。それは警官としてあるまじき行為であり、看過できないことと思われます」と。するとすぐさま、本庁にも報告され、樫木署の署長のところへ連絡が入り「もっと署員の教育を徹底しろ、彼を厳重処分にし、教育をやり直しておいてくれ」とお達しが来るだろう。私だって、見張っていると同時に見張られていたのだ。

 ようやく警官をまいた。もう追ってはこないだろう。ほっとし、走るのをやめた。ゆっくりと路地を歩いた。そこにも両側には未だに残っているのかと思うような古い家々が並んでいる。建て売り住宅が並んでいたり、文化住宅と称したアパートがあったりする。

 家々の窓から、灯火が路上に漏れてくる。道には街灯がかなりたくさん灯りだした。タイムマシーンで昭和の時代に入り込んだような路地である。

 俺は、今日は日勤の日だ。すでに五時はとっくに過ぎている。自由の身のはずの時間なのに、こんなところでこんなことをやっている。別に超過勤務手当などつかない仕事を。これは特別だと思われるかもしれないがそんなことはない。非番の日だって、柔道の大会や練習をやらされたり、多くの柔道大会の審判を命じられたり、研修や他の地区の仕事の応援に行かされたり、あるいは、情報提供者をつくるために、それらしき人物と会食したりと、結構忙しい。

 歩いているとひろい川の縁に出た。対岸の家の光を映して、川面が黄色に輝いている。立ち止まりコンクリートの堤に背をもたせかけて休息した。けっこう走り疲れた。あの警官は今頃どうしているだろうか。「いやに逃げ足のはやいやつだったな」と嘆いているに違いない。ざまあみろだ。

 これで、今日の仕事は終わりにする。ポケットから携帯を取り出し、最後に撮った廃墓での酒井の映像を見た。河内音頭を踊っている姿がいかにも生き生きとしている。今の自分とえらく違うような気がした。もちろん、彼の行動を撮していることをしらないとは思うが、知っていても同じ振る舞いをしたように思える。彼にとっては今日の夕刻は自由時間だった。

 そう思うと、彼を撮した携帯が不潔なものに思えてくる。まるで少女の下着を盗み撮りしたような。どうしたことだ、これは。

 すると、今度は、自分まで泥でも被ったような汚い感じがした。身体全体がかゆみに襲われている感じだ。ノミやシラミで身体が覆い尽くされているような。足には蛭までくっついている。嫌だ、何とかしろ、という声が聞こえる。おあつらえ向きに川まであるではないか。

 もたれていたコンクリートの壁から背を剥がして、川面の方を向いた。夜の川は汚いものをすべて隠し、家々の灯を反射して、光の川に変身している。その上を涼しい夜風が吹いてくる。

 手の中の携帯をしっかりと握りしめた。だが、それは汚物を握っているようなぐんにゃりした感触だ。まるで蛭の大群を握りしめているような。これがあるから、身体がかゆいのだろうと思ったが、これは今日の成果だ、離すわけにはいかない。

 と、携帯が震えだした。ああ、部長からだろうと思う。予想通りだ。例の件についてだ。それをONにして、耳に当てようとしたが、やめとけ、やめとけ、取るな、という声がした。携帯の震えが、すぐに蛭の大群の震えとなり、蛭は増え、掌からはみ出し、腕を通って、肩にまで達し、いよいよ身体の中にまで這ってくるように思った。

 何を考えているのだ、お前にだって、蛭をつまみ上げるぐらいの勇気はあるはずだろう。ノミもシラミも蛭も追い出さねばならない。今日の成果がまったく消えたとしても、それらすべてを消したという、より大きな成果が現れるではないか。

 掌の中で携帯は振動をつづける。だが、それを無視する。身体の中から、憤怒と熱気が湧き出てくる。

 よし、やるぞ、勇気、勇気と思いながら、俺は、腕を大きく振り上げ、携帯を河面をめがけて力一杯投げた。すると小さな水しぶきがあがり、銀色の粉になって光った。

 と同時に、俺も素っ裸になって清流の中に飛び込んだような気がした。大きな水音がして深くもぐり、浮き上がると、ノミもシラミも蛭も、その他、身体に付いていたすべての垢が洗い流され、清々しい気分になる。

 首を出し、顔を水面から高く持ち上げ、川下の先を眺めると、地平線と黒い雲の隙間から、深青色の透明な空が明るい帯となって見え、それに向かって、小さな鳥が先程の鷲の後を追うように力いっぱい飛んでいくのが見えた。           了                                                               

 

 

戻る