昨日から、なんだか鼻がむずむずする。花粉が飛び始めると、クラス替えのことばっかり考えてしまう。美容師になって十年。一年に一回クラス替えがあった中学生の頃からは、すでに十五年も経っているというのに。
中学は一学年に十二クラスあって、三年間顔を見たことのない同級生だっていた。クラス替えで仲のいい友人といっしょになれる確率は、とても低かった。わたしの鼻からずるずると鼻水が出るたびに、あのときの不安とあきらめと期待がかたまりになって湧いてくる。鼻水の源泉はきっとクラス替えに違いない。
というようなことを、家で呑みながら亜矢子に話してしまった。
「サトコってほんと、暗いのよね」
亜矢子はわたしをサトコと呼ぶ。ほんとはサトルっていうんだけど。男の名前に聞こえるから、大学生のときに「お母さん、今日はサトルの家に泊まるから」と言って一悶着起こして以来、サトコと呼ばれるようになった。
「ふつう考えるか? 鼻水のことそんなに。ていうか、大昔のクラス替えのこととか。だいたいネクラで友達少なかったからクラス替えで知らない奴らと一緒になったりすんのよ。あたしなんか学年全員友達だったもん」
自分で持ってきたレミー・マルタンをロックにして、亜矢子はグラスを顔の横あたりに持ったまま、まくしたてる。飲むか、置くか、どっちかにすればいいのに、とわたしはそれが気になってしかたない。
「どんだけクラス替えにビビってたんだよ。友達と離れたら離れたで、ふつう新しい友達ができるもんなの。わかる? ふつうの人は、そんなにウジウジうじうじ、ネチネチねちねち、考えないの。まして十年以上経って、思い出したりしません」
亜矢子の口に、ようやくグラスが運ばれる。彼女がうちで飲むときは、いつもレミー・マルタンのクラブ・スペシャルを持ってくる。そして一晩で空っぽにする。今日はまだ十二時だというのに、すでにほとんど空いている。
……あれ?
「ちょっと、亜矢子うち来たの、十時じゃなかったっけ? ペース速すぎない?」
「うるさい、ネクラ」
ネクラと言われたわたしはネクラらしく、反論もせずに手元の箸袋をいじくり回す。コンビニで買ってきたおでんが冷めてしまった。
「ちょっと、ティッシュなくなっちゃったんだけど」
亜矢子が空っぽのティッシュケースをテーブルの下で蹴ってよこす。実は亜矢子は、ここに来たときから泣き続けているのだった。彼女はわんわん泣きながら、飲み続け、しゃべり続けているのだった。
わたしが立ち上がって洗面所から新しいティッシュケースを取ってくると、彼女は手を合わせた。
「すまんすまん、ありがたいことだ」
耳にかけていた髪が、するり、と落ちた。顔を包み込むようなボブカットがよく似合う。
「髪、ほんとに切るの?」
わたしと亜矢子は今日初めて、じっくり見つめ合った。亜矢子の大きな目が、まだ潤んでいる。ほんとによく泣くな、こいつ、とわたしが考えたのを見透かすように、亜矢子が微笑んだ。
「お願いしますよ、サトコちゃん」
今夜、彼女の髪を切る。美容師になって初めて、「髪切って」と亜矢子に頼まれたのだ。
「つまんねー男だったよ、ほんと」
亜矢子はそう言いながら、チーン、と鼻をかんだ。わたしはハサミと髪を受ける新聞紙を用意しながら、うなずいた。
たしかに亜矢子を振った男はつまんねー男だった。いや、振ったのは亜矢子か。
「この涙は、悲しみでも寂しさでもないわけ。ただ亜矢子サンは、自分の見る目のなさが情けなくって泣いてるんです」
これは強がりではないだろう。なんてったって、亜矢子の付き合っていた男は、「生き方HOW TO本」なんかを本気で読むようなやつだったのだ。出会い系サイトで本命の彼女を探していることを知って、亜矢子が見捨てた。そしてうちに転がり込んできた。
「最下層の人間だよ、ある意味で。いや、あらゆる意味で。出会い系サイトに登録してる大学デビューの、いや大学ですらデビューできない最底辺女のGスポットを、せいぜい教科書通りに刺激するがいいさ。成功者イチオシのシステム手帳にその月の目標を書いて、ささやかな達成感にむせび泣いてください。ああ情けない。なんであたしがあんな男にひっかかったんだろう。人生で絶対交わらないタイプの人間だぜ、あいつ」
さみしかったから。わたしは言いかけて、やめた。ネクラのわたしは、ハタチ前後の頃を思い出す。亜矢子とふたりで「今月のターゲット」を二人決め、それぞれがその男をその月のうちに落とす「ブリッコ撲滅委員会」をやっていたころ。
「大学デビューのしょーもないブリッコ女と付き合ってるしょーもない男に、本当の女を教えてやる世直し事業」と言い張って、わたしと亜矢子が毎月違う男と寝ていたころ。いまとなっては、なにをアホなこと言ってたのだと思うけど。
関係する男は増える一方で、わたしたち二人の会う時間がなくなってしまうから、一年くらいでやめたのだ。
「サトコに会ってるほうがおもしろい」
亜矢子は電話の向こうで、そのときも泣いていた。
「サトコに会えないなんて耐えられないから、ブリッコ撲滅委員会は解散しよう」
うまく関係を終わらせることができない相手もいて、なんだかんだと禍根を残した慈善事業だったけれども、そうやって委員会は解散、電話の向こうで泣く亜矢子はずっと、さみしい、さみしい、と言っていた。
「あたしはさみしいの。あいつらと寝てても、どうせあんなしょーもない女と付き合ってたような男、あたしのこと好きなわけないじゃん、とか思っちゃうし、そりゃあブスの大学デビューはあたしみたいにステキなプレイはしてあげられなかったでしょーよ、だからあたしにのめり込んでるのね、ふふふ、とは思うけど、でもそれを喜んでくれるもっといい男は掃いて捨てるほどいるのよね、とか思っちゃう。じゃあ翻って、そういういい男に相手にされないからこんなポンコツ男と寝てるのかも、とかさ、ただ単に自分が選ばれなかったことが悔しくてこっちからちょっかいかけてるだけなんじゃねーのあたし。とか、ちょっかいかけたら男はだれでも手出すからな、とりたててあたしでないとダメなわけでもないんだろ、とかなんかとにかくいやなことばっかり考えるのよ、あいつらといると」
そしてまた、鼻をぐずぐずかむのだ。
「サトコだけがあたし、このあたし自身のことを必要としてくれてる。さみしいのよ。サトコ。サトルくん。なんであたしを抱いてくれる男じゃないのよ。あたし、あんたとしてるみたいに男と付き合いたい。唯一無二なかんじ」
ちーん。鼻をかむ。
亜矢子の付き合ってた最新のしょーもない男は、飲み屋で知り合った亜矢子を気に入って、肩を抱いて部屋に誘ってきたと言っていた。
「今となってはそれも何かに書いてあったんでしょーよ、って思うけど。ひとりで飲んでる女は肩を抱いて部屋に誘うとついてきます。あー失敗した。亜矢子サン痛恨のミス」
ちーん。目の前にいる、三十三歳の亜矢子も鼻をかむ。この人はまだまだずっと泣いている。
亜矢子はいつだってさみしいから、どんな思いであれ強い感情を向けられるとうれしいのだ。この瞬間は、この人は自分のことを必要としている。そう確信できる時間が好きなのだ。
たとえば男に抱かれているとき。
わたしを見下ろす男の目にはわたししか映っていなくて、ぐーんと狭くなったわたしたちのまわりの空気がもっともっと密度を増して、他の思考が入り込めなくなって。
学生時代、わたしがそう言ったとき、亜矢子はわたしを強く抱きしめた。
あたしもそう。サトル、あたしも同じこと思うの。そのときだけは、さみしくないの。あたしたちは、ふたごみたい。そっくりなのね。
はさみ入れるから泣くのやめろ、とわたしが言って、亜矢子はけろりと涙を止めた。実はちょっと泣くのにも飽きてたんだ、と言って、いひひひひ、と笑う。
「サトコが美容師でよかったわん。今日だけはサトコ以外のひとに触ってほしくなかったのだ」
霧吹きで亜矢子の髪を濡らしていると、ほんの小さなこどもの頭を触っているような気がした。後ろ髪や横の髪を切る時も、亜矢子はきちんと座ったまま目を閉じていた。鏡に映る化粧っ気のない頬がレミー・マルタン一本分のせいで上気して、ますます小さなこどもに見える。あ。
「わたしまだ飲んでないんですけど。亜矢子サン、もう空けちゃいましたよね」
髪を切るというお仕事があるから、わたしはレミー・マルタンどころかビールも飲んでいないのだった。
「いま気付くのか、それ」
目を閉じたままの亜矢子が言う。
「ドン臭いやつだな。相変わらずだな」
ははははは、と乾いた笑いが、鏡越しの目を閉じたままの顔から聞こえて、わたしは思わず「鑑真か」と言ってしまった。
「サトコちゃん、わたしは七回の失敗を乗り越えるほど頑丈にはできておりませんの」
亜矢子のオーダーはボーイッシュなショートカットだった。切り終わってみると、彼女はお世辞抜きで十歳くらい若返り、どう見ても学生に戻った。
「おお、さっぱりした。ありがとね、サトコちゃん」
亜矢子は後ろの刈り上げを撫でて、自分できゃはは、とくすぐったそうに笑った。
「さ、わたしにも飲ませてね」
わたしが言うと、そーね、と亜矢子は冷蔵庫からビールを出してくれる。わたしの冷蔵庫とは思えないほど、亜矢子の手つきは開閉に慣れている。
「かんぱーい」
ちーん。こんどのちーんは、グラスのぶつかる音。亜矢子はもう、すっかり泣いていない。
さてと、と声を出して、布団から出る。亜矢子はまだぐうぐうと寝息を立てて眠りこけている。
日曜日。会社員の亜矢子は気が済むまで寝ている。わたしは身支度をして、そっと家を出る。
勤務している美容院近くのハンバーガーショップで朝食をとりながら、スマートフォンの画面をながめる。
マモルからメールが届いている。胸のあたりがざわざわして、やだわたし恋してるのかしら、と考える。
マモルは美容院に清潔なタオルを届けてくれる業者の配達人だった。汚れたタオルを出して、かわりにいい匂いのするタオルを受け取る。いつの間にか、わたしはその人のことを清潔でいい匂いの人、と覚えていた。
先月のことだ。いい匂いのその人が、サトルさんおやすみは月曜だけですよね。と話しかけてきた。美容院ではみんながサトルと呼ぶから、業者のひともみんな名字を知らずにサトルさん、と呼ぶ。
はい、そうです。答えながらくんくん、と匂いをかぐ。タオルの匂い、のはずが目の前の男の人の匂いみたいに思えて、ちょっとうっとりする。人工的な香りではなくて、清潔そのものの匂い。
そのあとデートに誘われて、日曜の夜の遅い時間からお酒を飲みに行ったのだった。
彼は次の日仕事だというのに、休日前のわたしに合わせて夜中の三時まで付き合ってくれた。わたしからすり寄って、ようやく唇を重ねてきた。一度重ねると止まらなかった。でもそれだけで、その日は別れたのだった。
なーんだ。なにもしないのかよ。と酔っ払ったわたしはひとりでいられず、明け方亜矢子に電話して怒られたのだった。
翌週も同じように飲みに行って、帰り際家に誘われた。やっとだ。と思って家に行ったら、とても清潔ないい匂いのする部屋だった。きっとそのとき、わたしはその人のことを本当に好きになってしまった。
マモル、という名前だと知って、わたしの名前を言った。知ってる、と答えてマモルは笑った。
「変かもしれないけど、みんながサトルって呼んでるのを聞いて、あなたへの興味がはじまった。こんなに可愛らしいのに、男の子みたいな名前」
マモルは学生時代水泳をしていたとかで、すっきりした筋肉質のすてきな体をしていた。わたしは彼の、背筋と腹筋のバランスが取れた健康で元気な体と、わたしの体をさわるときの、まっすぐわたしを求めるその時間を思い出して、またぼんやりうっとりしてしまった。朝っぱらから。
さてさて、と現実に戻り、メールを読む。
「昨日はお友達とたのしかった? ぼくとは今日あえる?」
ああーん。家でぐうぐう寝ている亜矢子のことを思う。あの人は今夜もうちにいるつもりなんだろうな。ま。いいか。わかってくれる。
わたしは仕事終わりに会いに行く旨を返信して、スマートフォンの画面を暗くした。
午後三時ごろ、ようやくお昼休憩があって亜矢子に電話する。
あい、とガラガラ声で返事がある。
「なんだまだ寝起きか。飲み過ぎたんだろ」
「飲み過ぎはたいしたことない。泣きすぎて目が開かないのだよ」
ガラガラ声。あはは、と笑ってしまう。
「亜矢子、悪いけど今夜はわたし、デートに出かけるよ」
沈黙。
「うちにはいつまでいてもいいからね。鍵かけなくて大丈夫だし」
沈黙。
「亜矢子サン?」
「いっしょにいてくれなきゃやだよう」
ガラガラ声。
「その声では無理」
「やだ。おいしいパスタ作っとくから帰ってきてよう」
「明け方帰るよ」
「あたしにはサトコちゃんしかいないのよう」
「知ってる。昨日からわたししかいない」
ゲラゲラゲラ。とガラガラ声が笑う。
「そうそう、そのとーり。だけど昨日までだって、まやかしだったのよ。サトコちゃん、しょうがないから明け方までここにいるわ」
「うん。そうして」
そして電話を切り際に、ガラガラ声はごほん、と咳ばらいをした。
「例のいい匂いのひとでしょ。求められるのはしあわせだよね」
わたしの鼻が、むずむずした。
「うん。そのときはさみしくないからね」
電話を切り、近所のお惣菜屋さんで小さめのお弁当を買って食べた。
仕事が終わってマモルの部屋に行く。マンションの部屋の前でインターフォンを鳴らすと、すぐにドアが開いた。
「サトル。ずっと会わなかった気がする」
「ごめんね」
食卓に、サラダやきのこを炒めたものなど、いくつかのお皿が並べられていた。
「ちょっと待ってて。お肉を焼くから」
いつも、わたしが来てすぐ温かい料理にとりかかる。仕事から帰ってきて、わたしが来るまでのおよそ二時間のあいだに、彼はシャワーを浴び身支度を整えて、きちんとした料理を準備している。
「お酒を飲みたいから、チープでも何皿か欲しいんだよね」
はじめてマモルが料理をしてくれたとき、彼はそう言って笑った。
「いわゆる男料理っていうやつ、どーんとがさつに作ったような。ああいうの苦手で」
清潔な彼の作る料理は、どこか清潔感をともなっていて、いつも感心する。フライパンから肉の焼けるいい匂いと音がして、わたしはキッチンをのぞきこむ。
「サトルは座ってて。立ち仕事で疲れてるんだから」
彼の言葉に甘えて、椅子に座って待つ。じゅうじゅう、と肉が言って、マモルは鼻歌で応えている。
わたしは、いまさみしいかしら。と考える。食べ終わってお布団に入ったら、きっとマモルがわたしの目の奥をのぞきこんで、あちこちに唇をくっつけて、ぎゅうっと抱きしめて、それからわたしのことばっかり考えてくれるあの時間が始まるのだけれど、じゃあそれ以外のこうやって二人で過ごしている時間、わたしはさみしいと思っているかしら。と考えてみた。
マモルが、できたよ、と言ってサイコロステーキを持ってくる。グラスとビールを冷蔵庫から出して、お待たせ、と言う。
「ありがとう」
わたしがそう言うと、マモルはうれしそうに笑う。
それからわたしたちは他愛もない話をしながら、長い食事を始める。そしてすでにそれはわたしにとって、日常のようになっていることに気付く。
マモルがわたしのために、わたしのことを考えながら作ってくれる料理。月曜日にはわたしが作って待っていることもある。わたしはやはり、彼のために作る。彼はわたしとの時間を待っていたから、こんなに楽しそうに話をするのだ。
それを知っているのに、どういうわけかうっすらとしたさみしさがわたしの体の奥には座り込んでいるのだった。だれかが丸ごと自分だけのものになるなんてことは絶対にありえない。というあきらめ。思い通りに好きな人と同じクラスになどなれないのだ、という花粉の時期。
マモルがわたしを抱くときがとても好きだ。彼の体からいい匂いがして、彼はわたしのことだけ考えて、ふたりでそうやってぐんぐん小さくなる空間の中で体をくっつけて、さみしくない。わたしはいま、いまだけは、全然さみしくない。と確認する。
少しうとうとして、ああ亜矢子をそのままにしておけないのだ、と思い出して、子犬のような目で、帰るの? と尋ねるマモルに明日も来るよ、と言い残して彼の部屋を出た。
午前三時だった。タクシーに乗って十五分ほどの自宅まで帰った。
「ただいま」
返事がない。なんだ亜矢子め、帰ったのかな、と部屋に入ると、布団の中でもぞもぞと動くものがあった。
「寝てたのか。ごめんごめん」
そう言って近づくと、布団から亜矢子が顔だけ出した。この人こんな顔だっけ?
暗い中でもなにかおかしいと思って、わたしはあわてて電気をつけた。
「亜矢子? どうしたの?」
亜矢子の顔は青くなって大きく腫れていた。大きな目もまぶたが腫れて、ほとんど開いていない。泣いていたせいではない腫れかた。
「だれにやられたのよ?」
亜矢子は体も布団から出した。
「会いに行ったのよ。マニュアル男に。多少の返して欲しいものもあったし、わたしが返すものもあったし。昨日わあわあ騒いでスッキリしたから、普通の顔して会いに行けると思ったんだけど」
亜矢子の顔がかわいそうで、凝視してしまう。
「会ったら腹が立ってきて、おまえみたいなしょーもない男に初めて会ったとか、あほばかまぬけ、ぼけなす、彼女が欲しかったらあたしみたいな女に手え出すな、だったら一回いくらで金はらえ、とか言っちゃったのよね。そしたら殴られた」
「はあ????」
亜矢子は笑った。ような気がする。
「そんなこと言われたことない。とか言うからさ、当たり前だろおまえのまわりの女はおまえといっしょでモノのわからんアホばっかりじゃねえかおまえみたいな男に参っちゃうような女は程度が低くてわかんないんだろー、あははははははーって笑ったら、もう一発殴られた。んで、そのあとけっこうボコボコ。顔ばっかりだからね。あいつほんと最低」
わたしは冷凍庫の氷枕を取ってきて、タオルといっしょに亜矢子に渡した。
「病院行く? 折れたりしてるんじゃない? ひどいよほんとに」
「いいからいっしょにいて」
亜矢子はわたしの手を握って、首をかしげた。なんてかわいらしい。とひどい顔になっているにも関わらず、そう思ってしまう。こんなになるまで殴られるなんて、まあ言ったことはひどいかもしれないけど、どうあれ許されることではない。病院にも警察にも行ったほうがいい。わたしはそう言って、亜矢子の頭を撫でた。
「かわいそうに。ほんとに最低だ」
「うん」
亜矢子は少しの間、くうを見て、ぼそっと言った。
「でもね、あたしちょっとうれしかったんだよ」
「ん?」
聞き間違えたかと思った。
「うれしかったのですよ。あたしにこんなに強い感情を向けてくれるなんて。って思っちゃってね。いかれてるのだ。あたくし」
もう一度、よくよく顔を見た。目は腫れあがり、頬も青く重たくなっている。
「いかれてる。それはいかれてる」
「そーなの。あたくしはいかれとる。DV男から離れられない女っているじゃない。こんな感じなんだろーな。よくないよねえ。もともとよくないのに、ますますよくないね」
でもね、と亜矢子は続ける。
「さみしくは、なかったわ」
うーん。としか答えられない。
「朝になったら病院に行く。警察には行かない。あたしが悪いんだし。どー考えても」
「悪いのそいつだと思うけどな。でも亜矢子がそう思うんだったら、そうしよ」
どうせ眠れないので、ふたりで朝までDVDを見た。亜矢子はよりによって女の子がボクシングでボコボコになる映画を選んで、ゲラゲラ笑いながら見ていた。
朝になり、仕事を休んだ亜矢子が病院に行くのに付き添った。亜矢子の髪を切ってよかった。どんな処置をするにも、髪が邪魔にならずにすむ。顔のことだから。
右の頬骨が折れていた。折れているというか、はがれている、というか。お医者さんはどうしてこんなことになったのかを聞きたがった。ちょっと、と言って亜矢子ははにかんだように笑った。だれがどう見ても、男に殴られたことはごまかしようがないというのに。
レントゲンや脳のCTなど検査が終わり、待合室で待っているときに看護師さんがそばに来て、ひそひそ声で言った。
「警察に届けるのがこわいとか、そういうことならわたしたちが事情をお聞きしますが」
亜矢子はまた、妙に照れくさそうに笑った。
「大丈夫です。単なる痴話げんかで、ちょっと打ち所が悪かっただけだから」
痴話げんか、というときに声に笑みが混じる。看護師さんはそれでも何か聞き出そうとしていたが、結局あきらめて会計の紙を亜矢子に渡して戻っていった。
大きく口を開けると痛い、というので家でおかゆを作って食べさせた。痛い痛いと言うわりに、亜矢子はよくしゃべった。明らかに機嫌がよくて、止めようがなかった。
夕方になり、亜矢子は楽しそうに帰っていった。駅まで送ってから、わたしはマモルのマンションに向かった。
合鍵で部屋に入って、冷蔵庫の中を見る。午後七時ごろに帰るはずの彼のために、何を作ろうか考える。
亜矢子の顔がちらつく。男にボコボコに殴られながら亜矢子の感じたうれしさを少しくらいわかりたい。わたしと亜矢子は似ているはずだった。亜矢子が感じるようにわたしもうれしさを感じるはずなのだ。わたしは想像しようとした。けれどもわたしの目は冷蔵庫の卵とハムを見つけてオムレツを思いついてしまった。そのときマモルがオムレツを食べるところ、それからうれしそうに笑うところまで一気に想像したことに思い当たって、あれ? わたしはいま、全然さみしくないじゃないか、と思った。
足りないものを買い足してマンションに戻ったとき、マモルからもうすぐ帰る、とメールが入った。オムレツは熱々を出せるように、とほかの料理を仕上げたところでマモルが帰ってきた。
「ただいま」
うれしそうなマモル。わたしは微笑んで聞いてみる。
「おかえり。ねえ、ボコボコに殴って」
しばらくきょとんとしてから、マモルは、あはは、と笑った。
「いつか、気が向いたらね。今日はしないよ」
体の奥のさみしさを探す。探し当てるより速く、マモルがわたしの体を抱いた。
「ごはん、ありがとう」
清潔な彼のにおいをかぐ。花粉が舞っているはずなのに、鼻はむずむずしない。
了