ユキマチ

菅原 淑恵

 

 

「雪、降らないかな」

大学のカフェテリアの窓から見える空は薄灰色で、雪が降るにはまだ雲の黒さが足りないような気がする。

私は小声で、黒くなれー、黒くなれー、と魔女みたいに唱えた。

明日の語学を落とせば即留年なのに、まだ試験範囲の半分までしか勉強していないこの状況は、かなりマズい。こうなったら、大雪で試験が延期になるのを願うしかない、と私はしばらく前から空を見上げていた。

「中谷」

そろそろあきらめようかな、と文法の本に視線を戻したところで、コウスケに呼ばれた。

カフェテリア右奥の八人掛けのテーブルは、アカペラサークル一年のたまり場だ。

アカペラには楽器がいらない。メロディーラインを歌うリード、ハーモニーを奏でるコーラス、低音で支えるベースに、リズムを刻むボイスパーカッション、略してボイパ。五人のメンバーが揃って声さえ出せればいつでもどこでもできるから、ここで勉強したり、しゃべっていても、みんなしょっちゅうハーモニーを歌い――ハモり始める。そのせいで回りのテーブルからは不審者扱いされているけれど、今日は試験期間中だからか、めずらしく私とコウスケの二人だけだった。

「おーい、中谷。中谷、千鶴子」

 聞こえなかったと思ったのか、もう一度コウスケが私を呼ぶ。

「なに?」

そろりと顔をあげると、コウスケはいつものように、にこにこと笑っていた。

同じ一年でもコウスケとはあんまり接点がない。アカペラサークルには全部で七十人ほどがいて、なかにはいくつもバンドを掛け持ちしている人もいるけれど、コウスケとは一緒に歌ったことがなかったからだ。しかも、コウスケは実力のある先輩バンドでリードを歌うくらい上手くて、私は地味なコーラス。共通点もまるでない。

「中谷さ、コーラスって楽しい?」

「……楽しいよ」

 バンドではリードが目立つし、コーラスを歌っていても、いつかはリードをって狙っている子もたくさんいる。でも、私はこのパートが気に入っていた。

「どういうところが?」

「音が、……音がね、ぴったり重なる瞬間があるの。普通にバランスよく重なるだけだったら、上手い先輩とハモるとたまにあるんだけど、そういうのとはちょっと違ってて。ほんとにぴったり、はじめからひとつの声だったみたいに、というよりも――」

 もごもご口を動かしながらそっとコウスケのほうを見ると、なんだかすごく楽しそうなキラキラした目をしていて、私はそのままゆっくりと口を閉じた。

無言で、ぶ厚い辞書をパラパラめくると、風がおこって、消しカスがふうっとテーブルのはじっこに飛んでいく。

「中谷さ、一緒にコーラスやんない?」

はじっこにたまった消しカスを掌に落として、ごみ箱に行こうと椅子をひいた体勢のまま、私は固まった。コウスケはすこしだけ、いつもより真面目な顔をしている。

「中谷の声、俺のと合うから。ぜったい」

 私が黙ったままでいると、コウスケはひとりで、うん、と力強くうなずいた。

どうして、このタイミングで言うの? コウスケって、ずっとコーラスやりたかったの? それって、新しいバンド組むってことだよね? 他のメンバーはどうするの? 

コウスケ、私の声、聴いてたんだ……?

いろんな疑問がほんとうにどっさり頭に浮かんだのに、結局、私は小さな声でひとつだけ聞いた。

「じゃあ、バンド名、どうする?」

コウスケはちょっと驚いた顔をしたあと、顔をくしゃりとさせて、子供みたいに笑った。それから、考えるようにぶつぶつ小声でいろんな歌を口ずさみだす。コウスケがすっと目を閉じたから、私は心置きなくその声に耳を傾けることができた。

キレイな声だ。

透きとおって、けれど、耳に残る。そして、近くにある声だ。聞く人がふと傍に寄りたくなるような。

たまに音がほんの少し上ずるクセさえなくせば、もっと、もっと、たくさんの人を惹きつけられるのに。

そんな風に冷静に分析してみせる自分も確かにいるけれど、それだって何かへの、誰かへの言い訳みたいにも思えてくる。

思えば、あの時からずっと、私はこんなことを繰り返している。

――花曇りの空の下、新歓に湧く中庭で、私は足をとめた。

歌。

歌が聴こえる。

耳に馴染んだメロディー。洋楽の有名な歌のイントロ。

安定したベースと流れるようなコーラスに、軽快なパーカッション。

五人の学生がまっすぐ横に並んで、時折、視線をあわせながら歌っている。

イントロが終わるころ、真ん中にいた小柄な男の子が、一歩前に進み出た。

その子がふかく息をすいこみ、最初のフレーズを歌い出す。

 その時、周りがどんな反応をしていたのかは、全然覚えていない。覚えているのは、その時、初めてその歌を好きだと思ったこと。いつのまにか、自分もその歌を口ずさんでいたこと。

――歌いたい。あの場所でいっしょに。

 人前で歌うのが恥ずかしくてカラオケにも行ったことがなかった私が、その時、アカペラサークルに入ると決めたことは、今まで誰にも話したことがない。もちろん、新入生のくせに新歓ライブにひっぱりだされて歌っていた、コウスケ本人にも。

「ユキマチ」

入学したばかりのことをぼんやり思い出していたら、突然コウスケの声が聞こえて、私は首を少しかしげた。ああ、そっか、バンド名を考えてたんだったっけ、と思い出して、コウスケが上機嫌で指さすほうへ視線を向ける。

さっきとおなじ、薄曇りの空。

「雪、待ち?」

「うん、ユキマチ」

 コウスケはあい変わらずにこにこ笑っていて、それにつられたように気付けば私も笑っていた。

 

 

 遠くから笑い声が聞こえた気がして、私はふと顔をあげた。その拍子にはらりとマフラーが首からすべり落ちて、とたんに寒さが忍び寄ってくる。

いつからこんなに寒がりになったんだろう。少なくとも、学生の頃はこうじゃなかった。

冷たい指先から、ふぅっと全身に寒気が走って、私はパイプ椅子に座ったまま、マフラーをしっかりと巻きなおした。

大学時代に使っていたころから、このライブハウスの空調は悪くて、特に控室は暖房の効きが悪かったのを思い出す。もう少しすれば、熱気で暖まっていくんだろうけど。

「千鶴、風邪?」

「ううん、違うと思う」

 私が首をふると、リーは「それならいいけど」とほっとしたように言った。リーは薄着で、スカートも昔とかわらず潔い短さだ。

「リーは変わらないね。卒業して、もう五年も経つのにさ」

「まぁね、あいかわらず美人でしょ」

「うん、そうだね」

 そんな言い方も少しも変わってなくて、なんだかひどく懐かしかった。

「千鶴も変わってないよ。ある程度年とったら、そうそう変わんないと思うけど。あいつらだって、うんざりするほどそのまんま」

 リーはそう言って、机の上に置かれたニューイヤーズ・イブ・ライブのチラシをひらりと掴み、プログラムの最後に書かれた『ユキマチ』の名前を指でパチンとはじいた。

 サークル二大イベントのうち、クリスマス・イブ・ライブは現役生のライブ。かわって、このニューイヤーズ・イブ・ライブはOBバンドのライブで、私を除いたユキマチのメンバーは卒業後、毎年出演している。

「みんな、変わってないのかぁ」

 五年たっても。つぶやいたところで、控室のドアがパタンと開いた。冷たい空気が這いりこんで、また部屋の温度がすこしだけ低くなる。遅れて、大きな黒ぶちメガネともじゃもじゃの頭がひょっこりと現れた。

「おはよう、みんな。と、千鶴久しぶりだな」

「おはよ、ロダン」

「ロダン、もう昼だろ……てか、それなに」

 リーの綺麗なネイルアートの爪先が、ピンと宙を指さす。ロダンの頭のななめ上でフワフワ揺れているのは、白い風船だった。

「ん? あぁ、風船だ」

「それは見ればわかる」

 これはなぁ、と風船の紐を腕から外しながら、ロダンは困ったように笑った。

「鉄二のバンドが今日のステージで風船を小道具に使いたいって言うからな。ちょうどいいと思って、住宅展示会で配ってたやつ貰ってきてやった。それにしても……風船を持っているというだけで、電車であんなに注目の的になれるもんなんだな」

「あんた、そのまま電車乗ってきたの」

 リーはあきれたようにつぶやきながら、睨むみたいに天井を見上げた。ロダンの腕から離れた風船は、天井あたりでたよりなく揺れている。

もじゃもじゃ頭でおっきなメガネのロダンが風船持ってたら、なんだかピエロみたいだし、みんなジロジロ見ずにはいられなかったんだろうなぁと想像したらおかしくて、私は思わず吹き出してしまった。

「千鶴、変わってないなぁ」

 ロダンが感心したみたいな口調で言う。

「今の一拍遅れてウケるところとか、昔のまんまだ。笑うタイミングが微妙に遅れるんだよな」

「えぇ? そんなこというなら、コウスケだっておんなじタイミングで笑ってたでしょ」

 思わず私が文句を言うと、リーが天井に向けていた視線を不意にこちらに戻した。その目からは険しさが消え、かわりに穏やかで優しいなにかが奥からのぞいている。

「……そうだったね。千鶴とコウスケは、いっつもだいたい同じタイミングだった」

「そうだったなぁ」

「うん」

 ふっと沈黙が落ちて、そこからまた寒さが忍びよってくる。私はその隙間を埋めようとするかのように、ポツンとつぶやいた。

「来ないね」

腕時計の針が指すのは、ちょうど午後二時。ユキマチ五年ぶりのステージまで、あと五時間を切っていた。

 

 

カンカンカン、と螺旋階段を降りるヒールの音が小さくなっていく。

「どうしよう……」

 さんかく座りのままうなだれると、膝の上のキーボードとおでこがぶつかって、不協和音がカフェテリアの屋上に響いた。私はのろのろと顔をあげ、今度は後ろの柵にもたれかかる。

風が吹いて、桜の木から花びらがいっせいに舞うのが見えた。四月の初め、空気にはまだ少し冷たさが残っているけれど、陽ざしは柔らかく、アスファルトはほのかに暖かい。

天気のいい日はここを練習場所にしようと言い出したのは、コウスケだった。

「うん。ま、練習するか」

「コウスケって、すごいポジティブだね」

ちょっと呆れたような口調になったのに、コウスケは気にする様子もなく、うん、とうなずいてから楽譜に視線を落とし、さっきの練習で音程がズレてしまったところを繰り返し歌いはじめた。

私も楽譜に視線を戻したけれど、口からはメロディーのかわりにため息がもれる。

あぁ、今日も置いて行かれてしまった。

 ――そのコーラスじゃ話になんないから、自主練して。はい、解散。

――じゃ、お疲れさんさん。また明日。

練習を始めて二か月、ずっとこの調子だ。

ユキマチの名前を決めてすぐ、コウスケはリードボーカルにリー、ベースにロダン、同学年の二人を引っぱってきた。

リーのあだ名は「リード」のリーからきている。見た目の華やかさと性格のキツさ、パワフルな歌声はリード以外似合わないから、というのがその由来だ。

哲学科に三浪の末入学した「考える人」、ロダン。もじゃもじゃ頭と途方もなく大きな黒ぶちメガネのせいで、入った時から一年生にはとても見えなかったけど、ベースの声の渋さと安定感でも同学年の中では群を抜いていた。

二人とも、実力面ではとても頼もしい。メンバーとしてやっていけるのかは……まともに一緒に歌えたことがないからちっともわからないけれど。

もう一度ため息をついたところで、コウスケがパッと楽譜から顔をあげた。

「――おし、だいたいわかった。でさ、中谷、ちょっと聞きたいんだけど」

なに、と私が聞き返したところで、コウスケが「あっ」と携帯をごそごそジーンズのポケットから取り出した。

メールがきたらしい。

コウスケは画面を開いて、にっと笑ってから親指を立ててみせる。

「よっしゃ、スカウト成功っ」

「よかったね。圭ちゃん、ついに入る気になったんだ」 

圭ちゃんはピカピカの新入生で、高校時代からボイパをやっていたという有望株だ。合格発表の日、自分の受験番号を見つけて嬉しさのあまりドラム音を鳴らしたのが運の尽き。ボイパ候補を探して掲示板の前に張りついていたコウスケから、ユキマチにスカウトされた。

「五月のライブは、圭ちゃんとやるの?」

「やっと揃ったんだし、どうせなら、ちゃんとしたメンバーでやりたいよな。クリスマス・イブ・ライブまでにできるだけステージ経験つんだほうがいいだろうし」

 助っ人頼んでた先輩には謝っとこう、とコウスケはあっさり決めてしまう。

「入ったばっかりで大丈夫かなぁ」

 この前、見学に来てくれた時の感じだと、圭ちゃんはテンションが上がるとリズムを刻むのが速くなるみたいだった。入ってすぐライブハウスのステージなんかに立てば、誰だって興奮するだろうし……。嫌な予感がする、と言おうとしたところで、また、コウスケの携帯が鳴る。

「圭ちゃん?」

 なんとなく違うと思いながらも聞くと、コウスケは笑って首をふった。

「……じゃあ、彼女からだ」

「なんで」

「顔、にやけてる」

 そうかな、とコウスケは長い指でするりと自分の顔をなでる。その顔が今度こそ幸せそうに見えて、チリリと胸が痛んだ。

 コウスケには学外に年上の彼女がいる。コウスケ自身は聞かれなければ進んで話したりしなかったけれど、みんなそのことは知っていた。そして、私は聞いてしまうのだ。かさぶたを剥がすみたいに、いつも。

「――あ、それはそうとさ、さっきの続きなんだけど」

「え、なんだっけ」

「俺の音、あってる? 中谷とハモってても、なんかしっくりこないんだよな」

 コウスケはめずらしく不安そうに顔を曇らせていた。

「あってるよ」

私は即答し、それから続く言葉をゆっくりと探す。

「コウスケはさ、音の上のほうを歌う癖があるんだと思う。例えば、同じラの音でも、シャープに近いラとフラットに近いラがあるとしたら、シャープに近いラなんだよ。だから、音はちゃんとあってるのにハモりが微妙にズレてしっくりこないのかも」

歌いながらなんとなく感じていたことがスラスラと口から出てきて、私はあぁなんだ、そういうことだったのか、と自分でもうなずいた。

「ということは、低めに出すように意識すればいいんだよな?」

 眉間に皺をよせて難しい顔をしたコウスケがそう言って、私はうーん、と首を傾げる。

「間違ってるってわけじゃないんだし……私が高めにあわせれば、大丈夫な気がする」

 息をスッと吸いこむと、コウスケが期待に満ちた顔で私を見た。私は、できるかわからないけどね、と心の中でつぶやいて最初のフレーズを歌い出す。数フレーズたってから、コウスケも歌い始めた。

歌いながら、私はふたつの音に耳を澄ませる。

コウスケに合わせるように少し高めの音を意識したら、さっきまでより音の重なりがよくなった気がする。ピタリ、とまではいかないけど。

それにしても、コウスケはずいぶんコーラスが上手くなった。リードを歌う時とは違って、その声は不器用でぎこちなくて、まるで拙いけれど、練習を始めたばかりの頃に比べると音もしっかりして、歌い方もコーラスっぽくなってきている。

でも、それだけじゃだめなんだ。これじゃ、まだ、歌ってるって言えない。

 ――そのコーラスじゃ話になんないから。

リーが言ったのは、たぶんコウスケのことだけじゃない。

コーラスはリードと違って歌詞を歌うことが少ない分、より声に感情をのせないといけないっていわれている。私は音こそ外さないけれど、感情をこめて歌うってことがどういうことなのか良くわからない。

でも、コウスケは違う。

今は慣れないコーラスだから出来ていないだけで、リードを歌ってる時にはちゃんと出来ている。

どうしたら、あんな風に歌えるんだろう。

じいっとコウスケの顔を見つめると、コウスケも私を見返してくるから、まるでにらめっこしているみたいで、歌いながらふたり同時に笑顔になった。

その瞬間、ふたつの音がピタリ、重なった気がした。

私が「あ」って顔をしたのと同じタイミングで、コウスケの目もまんまるになって、それから、瞳がなくなってしまうくらいにまで細められる。その顔を見ているうちに、ライブだってなんとかなるかも、なんて、私はのんきな気分になっていた。

 

 

 記憶の中から流れ出たみたいに曲が聴こえてきて、私はニューイヤーズ・イブ・ライブの進行表から顔をあげた。

 差し入れのみかんを頬張りながら、ロダンがふんふん鼻歌を歌ってる。

「その曲、懐かしいね」

 私が思わず言うと、リーがふ、と笑った。

「それ、最初のライブの時にやった曲でしょ。あの、最悪だったライブ」

「なんだっけ、それ?」

 ロダンが鼻歌をやめてリーのほうを向いたけれど、リーが無視するので、私がかわりに答える。

「ほら、あの時だよ。圭ちゃんがとんでもないペースで刻むから、リーが歌いながらヒール脱いで、圭ちゃんの頭を殴っちゃった伝説のライブ」

「あぁ、あれか。……今から考えるとかなりマニア受けしそうなステージプレイだな」

 にやりと笑ったロダンに、リーが無言でみかんを掴み、大きく振りかぶった。

「いやいや、これは褒めてるのであってな――」

慌てて早口で言い訳するロダンに、「ほんと、バカ」とつぶやいて、リーはそのままみかんをお手玉みたいにポンポン両手の上で跳ねさせる。

「リーは、みかん食べないの?」

 私が何気なく聞くと、リーは珍しくはっきりしない口調で言った。

「……うん、ちょっとね」

「嫌いなの?」

「ううん、違う」

 なにかを確かめるように唇を指ですっと触ってから、リーは口を開いた。

「弟がさ、昔、みかんって心臓に似てるって言っててさ」

「心臓?」

 そっと自分の左胸に手をあてると、トクトクとかすかに鳴っているのがわかる。

「そう。その白い筋みたいなのが、血管に見えるって言い出して。血管があって、丸くて綺麗だから、みかんは心臓とそっくりなんだって言うの。人の心臓は取り出して見ることができないから、みかんはその代わりをしてるんだ。って。小学生の時だったかな」

 リーは、じっと手の中のみかんを見つめていた。

「弟のお葬式が終わって、家に帰ってきたのは夕方だった。私は制服のまま縁側でみかんを剥いて、これがあの子の心臓なんだって思いながら、食べたの。それまでは……病室でも、お通夜でもお葬式でも、ちっとも死んだって気がしなかったのに、全部食べ終わったとき、不思議とわかったのよね。もう、弟はいない。どこにもいなくなったんだって。それ以来、みかんは食べてない――」

 リーの言葉の響きが消える前に、バタン、と控室のドアが開いた。

部屋の中にいたみんながいっせいにビクッと肩を揺らして、それから同時に脱力する。

「ちょっと。タイミング悪すぎ」

「あー、びっくりした」

「帰れ、帰れ」

「へ?」

 来たとたん、みんなに口々に言われて、圭ちゃんは丸い瞳をパシパシさせた。

「来てすぐ帰れってヒドくないすか? ロダンさん」

「後輩の分際で遅れて来るのが悪いんだ」

「……すいません」

 しゅん、とうなだれた圭ちゃんのなで肩があまりにも下がっていたから、私はまぁまぁ、と声をかけた。

「まだまだ時間あるんだし、大丈夫だよ。練習始めよう」

 圭ちゃんの顔が、わかりやすくパッとほころぶ。

「千鶴さん、お久しぶりです。あ、でも、よく考えたら去年会ってますよね」

「うん、そうだね」

 あの時は、千鶴さん急いでたみたいだし、みなさんも……と話し続ける圭ちゃんの声を耳の片隅で聞きながら、私はリーが机の上に置いたみかんにそっと手をのばした。

 みかんはリーの体温でほのかにあたたかい。

もしかして、と私は考える。リーがみかんを食べないのは、あの時のみかんの味を忘れたくないからなんだろうか。

 ふい、と天井に視線をむけると、白い風船はあいかわらずそこで不安定に揺れていた。

 

 

 夕陽に照らされ、まるく輪になって歌う五人の影がカフェテリア屋上のアスファルトの上に長く伸びている。

コートから出た指先がかじかんで、私はきゅっと手をまるめた。おなじく寒そうになで肩をすくめた圭ちゃんが、おそるおそる口を開く。

「日も落ちて来ましたし、そろそろ――」

「なんであんたがそれ言うのよ。今の、途中でテンポキープ出来てなかったけど」

「すいませんっ」

「クリスマス・イブ・ライブまであと二週間しかないんだから。わかってる?」

 リーに詰めよられて後ずさりする圭ちゃんをかばうように、コウスケはまぁまぁ、と、のんびりした口調で言った。

「寒くなってきたし、今日はあと一回で終わるとしますか」

「あと、一回。頑張ろう」

 私も急いで続けると、圭ちゃんがほっとしたように笑って、リーは仕方ないな、という顔をした。ロダンもうなずいたのを見て、圭ちゃんはすっと右手をあげる。

 1、2、3、4。

圭ちゃんのカウントで、私とコウスケとロダンが歌いはじめる。

コウスケに合わせた、少しだけ高めの音。おなじタイミングの息継ぎ、合わさる目と目。リズムをとる互いの手の動きは、まるで会話しているみたいなシンクロ。

そこに、リーのすこし抑えた声がそっと乗る。

英語の歌詞、幸せな恋の歌。

ゆったりした曲調の、懐かしくて美しいメロディーライン。

ちょうど今の空みたいだ、と私は歌いながら夕陽が沈もうとしている空を見上げた。グラデーションのように紺色と淡い水色とオレンジが溶けあって、そこに光の残滓がきらめいている。

きれいだ、と思った。

 ふっと視線を戻すとコウスケと目が合い、コウスケもこの瞬間までおなじように空を見ていたんだと、私にはわかった。

――きれいだ。

――ほんとに、そうだね。

キラキラと目に見えない光の粒があたりを優しく包み、それとおなじ色をしたメロディーの流れる、私はその真ん中にいる。コウスケと、みんなといっしょに。

このままずっと歌っていたい。

そんな想いとは関係なく最後のサビは訪れ、リーの声が柔らかな余韻を残して消えていく。圭ちゃんのドラム音も小さくなっていく。

あぁ、あとすこしで終わってしまう。

まだ歌いつづけていたいのに。

祈るように、私は最後の音を少し息が苦しくなるまで響かせた。そして音が消えたとき、私たちは目を合わせてそっと静かに微笑んだ。

 きっと、話せばなにかが消えてしまうような気がしたのかもしれない。リーもロダンも珍しく何も言わず、歌い終えた私たちはそのまま解散した。

三人に手をふり、駅までの道をコウスケと歩く。

いつもなら当たり前のように音や歌い方の確認をしながら帰るけれど、今日はどちらも練習しようとは言い出さなかった。

歩くたびに落ち葉がカサカサと鳴って、その音と音の合間に、頭の中で流れるメロディーをなぞるように口ずさむ。それを何度か繰り返したあと、ようやく口を開いたのはコウスケだった。

「ユキマチのオリジナル曲、作ろう。……今年は無理だけど、来年のクリスマス・イブ・ライブの時には歌えるようにさ。それがみんなで出られる、最後になるかもしれないし」

来年の冬になれば就職活動が本格化して、それが終われば今度は卒論が待っている。私とリーとロダンは文系だからまだましだけれど、理系のコウスケが入る予定の研究室は連日泊まりこむくらい大変だという噂だ。コウスケが言うように、みんなで歌えるのは来年が最後になる可能性は高い。

「コウスケが作るの? それともリー?」

「中谷」

それまでこちらを見なかったコウスケが、急に私のほうを向いた。

「中谷が作る」

 少し真剣なコウスケの顔。これまで何度か見たことのある顔だ。もしかしたらコウスケは、私が絶対に断らないって思ってるんじゃないかって気がして、少し意地悪を言ってみたくなった。

「嫌だよ」

ふいっと目をそらして、しばらくしてから、またそっとコウスケのほうを向く。コウスケの顔には、いつもみたいにふにゃりとした笑みが浮かんでいた。

ほんと、かなわない。

私は仕方なく、大きなため息をついてみせた。

「コウスケ、アレンジする?」

 コウスケはくしゃりと笑って、大きくうなずく。

「それは、もちろん」

 どうして、って思う。これまでアレンジを手伝ったことはあっても曲なんか作ったことはない。作れるかもわからないのに、どうして口は勝手に動いてしまうんだろう。

「――作るよ」

 

 

「Aという事象を思い出そうとするとき、Aについて互いに話し合わない場合においても、Aについて知っている人間のいる環境のほうが、Aについて知らない人間のいる環境より、Aという事象を思い出す確率が高い」

 ニューイヤーズ・イブ・ライブの開始時間は刻々と近づいている。

リハーサルの出番を待つあいだ、ステージ裏でロダンが妙なことを言い出した。

すかさずリーが鋭く切り返す。

「なにそれ、なんかの学説? 意味わかんないんだけど」

「いや、俺の持論だ」

ステージの照明から漏れてくる光で、リーの眉がひそめられたのがわかった。

「あんたって、ほんとバカ」

 リーの言葉に圭ちゃんがうんうんうん、とうなずく。私はそれを横目で見ながら、隅の暗がりに向かってポツン、とつぶやいた。

「私はなんとなく、わかる気がする。共通の思い出を持つ人たちが集まったら、そのことについてみんなで話さなくても自然と思い出すって、ことでしょ?」

「そういうことだ、わかってくれたか千鶴」

自慢げに言うロダンの頭を無言ではたいて、リーは私の手をつかんだ。私は小さな子供のように、手をひかれてリーについて行く。お互いの輪郭がぼやけるくらい真っ暗なところまで来てから、リーは私の手をやっとはなした。

「千鶴」

 なに、とは聞かなかった。リーが今日会ってからずっと、私になにか言おうとしているのはわかっていたし、なにを言おうとしているのかもだいたい見当はついていたから。

「千鶴、大丈夫?」

「……どうして、私にだけ聞くの?」

 自分の声が闇にすいこまれていくように感じる。お互いの顔もはっきりとわからないほどの暗がりなのに、リーの目は私の目をしっかり捉えて離さない。

「だって千鶴、コウスケのこと好きだったでしょ?」

 それは確認というより、断定に近かった。

「コウスケには、ずっと彼女がいたよ」

「それは関係ない」

 短く言ってから、リーはゆっくりと言い直した。

「私は、千鶴とコウスケはそんなの関係のないところにいたと思ってる」

「そうかもしれないけど……ごめん、リー。わからない」

 ごまかしたわけでも嘘をついたわけでもなく、私には本当にわからなかった。

私の答えを聞いて、リーは浅くため息をつき、こちらに何かを差し出した。目をこらすと、それは安全ピンにリボンがついたもののようだった。

「祥子ちゃんが、みんなの分作ってきたって。あの子もコウスケと同じバンド、一時期やってたでしょ。それで、これは千鶴子先輩に渡してください、だって」

 私は黙ってそれを受け取った。真っ暗なここでは当然、リボンの色も黒く見える。でも、光の中で見てもおそらく色は変わらないのだろう。

「喪章」

 普通なら聞こえないくらいのつぶやきも、人より耳の良いリーには聞こえたようだった。そっと、なぐさめるように体が寄せられる。

リーに心配してもらえるような立場じゃ、ないのに。

そう思いながらも、私はリーにもたれるようにして目を閉じた。

――その日は、雨が降っていた。

私の職場は十二月に仕事のピークがやってくる。去年は例年よりも更に忙しく、残業しても残業しても、仕事はいっこうに減らなかった。その日も思うように仕事は進まず、帰る頃には肩こりからくる頭痛が酷くなり、ついには吐き気まで伴いだしていた。

終電に乗り、座席に身を沈める。

途中で窓が濡れだし、雨が降っていることに気付いたけれど、バッグに折り畳み傘が入っているかを確かめるのさえおっくうに思えた。

 携帯が震えたのはその時だった。

 のろのろと携帯をとり出すと、リーからのメールが入っていた。一斉送信のメール。たぶん、ニューイヤーズ・イブ・ライブの知らせだろうと思った。卒業後、私が一度も参加していないにも関わらず、毎年誘いのメールがきていたから。

 また断らないといけないな、と思いながら私はメールの文面にざっと目を走らせる。

電車が速度を落とし、駅に着いた。ドアが開き、また閉まった。もう一度、今度はもう少しゆっくり読み返す。そこには、伝えるべき内容がリーらしく簡潔にまとめられていた。

 コウスケがくも膜下出血で死んだこと。明日お通夜があり、明後日お葬式があること。それぞれの場所と時間。

 思考はめまぐるしく疾走し始める。明日の予定。案件の重要度、必ずしなくてはいけない作業、少しは先延ばしにできること。支度、電車の時刻、車内でも出来ること。

 その思考に取り残されたどこかが、ふわふわと宙に浮かんでいる。

……コウスケが死んだって。

思い浮かべようとした顔は、どこかぼやけている。記憶を取り出そうとしても、温度や手ざわりや匂いやまぶしさ、そのどれもが抜け落ちたまるで現実感のない、つまらない映画のような映像が浮かんでくるだけだった。

疲れているからだ。とても疲れて、しんどくてたまらないからだ。全部放り出してしまいたいくらいに。

まぶたを閉じると、じわりと目の端が濡れた。

 ――次の日、私は仕事を切り上げ、電車に三時間揺られてお通夜へ行った。

お焼香をすませ、四年ぶりに会ったリーやロダンや圭ちゃんに慌ただしく声をかけて、次の日も仕事だからと、すぐにその場を後にする。全ての出来事が、夢の中にいるようでどこかふわふわと現実感がなかった。帰宅し、倒れるように寝て、次の日からまた連日の残業が続いた。年末を駆けぬけ、日常に戻ると、宙に浮くような感覚はしだいに消えていった。

そして、一年が経ったころ、リーからまたメールが届いた。

『ニューイヤーズ・イブ・ライブ、今年はユキマチで歌うことにした。コウスケがずっとやりたがってたからね。千鶴が出ても出なくてもやるから、そこは気にしなくていいよ。でも、私は千鶴に出てほしい。ロダンも、圭ちゃんもそうだと思う』

 私は、なかなか返事を出さなかった。その間、何度もメールを読み返した。そして一週間後、ようやく『出るよ』とリーに送った。

「千鶴」

 すぐ傍で声がして、目覚めた時のようにふっと意識が戻る。

「お通夜の時、千鶴がすごい疲れた顔してたのが、ずっと気になってた。似合わないおせっかいだって自分でも思うけど」

 リーの声はささやくようで、でもはっきりと耳に届く。

「ううん、誘ってくれてよかった」

 リーに返事をしてから、相変わらず忙しい年末を過ごしながら、私は寝る時間や食べる時間を削って練習にあてた。

すきまなく書きこまれたぐしゃぐしゃの楽譜、ライブの音源。五年ぶりにひっぱり出してきたものに触れるたび、またあの宙に浮いたような感覚が戻ってくる。ユキマチで最後に歌ったライブハウス、リー、ロダン、圭ちゃん。せきたてられるような浮遊感は強くなっていく。

「コウスケのこと、私もやっぱり思い出すよ」

 リーが言った。

「私も」

 思い出してきた、という言葉はロダンの声にさえぎられた。

「お二人さん、出番だよ」

 リーがふっと顔を緩ませて、行くか、と呟く。私もうなずき、眩しくなる光に目を細めながら、ロダンと圭ちゃんのほうへ歩いて行った。

 

 

 雪、ユキ、ゆき。

一年前と同じようにカフェテリア右奥の指定席でほおづえをついて、私はコウスケに聞いた。

「ねぇ、雪ってさ、どういうイメージ?」

 本当はそろそろテスト勉強をしなくちゃいけないのに、さっきからそちらは全く進んでいない。クリスマス・イブ・ライブが終わってから、私の頭はオリジナル曲のことでいっぱいだった。

ユキマチだから雪を歌う曲にしたい、というのは安易な発想だったけれど、それ以外にロクなアイデアも思いつかなくて、私はいろいろな雪を思い浮かべてみる。

粉雪、綿雪、ボタン雪、雪うさぎ、かまくら……。

「優しい、ってイメージ」

 くるくる回していたシャーペンをとめて、コウスケがぽつりと言った。

「優しい?」

 儚いとか、純真無垢とか、幻想的とかじゃなくて、優しい。コウスケのことだから冷たいとか言いそうだな、なんて思っていたから、聞き返す声も自然と大きくなる。コウスケはちょっと苦笑いをした。

「俺の地元ってほとんど雪なんか降らなくてさ、子供の頃はテレビとかで雪見て、いいないいなって思ってたんだ。あんな風に雪が降らないかなって」

 雪はとても、特別なもの。

私の小さい頃もそうだった。

「まだ幼稚園くらいの頃、俺はばあちゃんと住んでて、ある日、ばあちゃんにごねたんだ。なんでここには雪降らないのって。ばあちゃんは、うんうん聞いてたけど、そりゃどうしようもないし、その時はなんにも言わなかった。でも、それから何日かしてから、俺に言ったんだ。『おばあちゃん空にお祈りしたから、今日は雪が降るよ。見ててごらん』って」

 そう言って、コウスケはカフェテリアの窓から空を見上げた。

「俺、わくわくしてさ、それからずっと家の窓から空見てた。朝から見つづけて、昼ご飯食べ終わったらすぐに庭に出て、ずっと待って。それでもなかなか降ってこないし、待ちくたびれて遊んでたら、なにか聞こえた気が――違うな」

 コウスケはそこで、少し言葉を途切れさせた。

「回りの音が全部消えたような感じがした。でも、消えた音のかわりになにかが聞こえたような気がしたから、呼ばれるみたいにして空を見上げたんだ。そしたらさ」

 コウスケは空を見上げたまま微笑み、私はそのコウスケの顔を見つめた。

「雪が降ってきた。真っ白な雪が、自分にむかってスローモーションみたいにゆっくりゆっくり降る。次から次へと、降ってくる。ちゃんと雪を見るのは初めてで、嬉しくて嬉しくて、てのひらに雪をのせたまま俺はばあちゃんのところに走って、夢中でさっきのことを話した。ばあちゃんは、『コウちゃんがさっき聞いたのは、ばあちゃんのお祈りが空に届いた音だよ』って笑った。――今から考えると、ばあちゃんはたぶん雪の予報が出てたのを見て言っただけなんだろうけど、それから何年かは信じてたんだ。ばあちゃんが俺のために雪を降らせてくれたんだって。バカみたいだけどさ」

 バカじゃないよ、と私は首をふる。

そっかな、とコウスケが目を細めた。

「雪が降るとそん時のばあちゃん思い出すから、俺には、雪は優しいってイメージ」

「そっか。なんか、いいね」

「けっこう恥ずかしいけどな。まぁでも、いつか、俺も自分の子供とか孫とかにあんなことしてみたいなぁって、思う」

 コウスケはとても優しい目をしていて、きっとコウスケはすごくいいお父さんになるんだろうな、と私はそんなことを思った。

「でも、コウスケが言っても降らないかも。天気予報なんかすぐ外れるし」

「おぉーい、中谷ひどいぞ」

「コウスケはそんな気しない?」

「……する」

 情けなく眉毛を下げたコウスケに吹きだしながら、私は思った。

 きっとその時、コウスケのおばあちゃんは、コウスケのために本当に祈ったんだろう。

何年か先、コウスケが子供のために雪を降らせようとするとき、私はたぶん全然別の場所にいる。それでも、私は私のいる場所で空に祈りたい。雪が、降りますようにと。

「ユキマチ」

「ん?」

 私のつぶやきに、コウスケが首をかしげた。

「ってタイトルにしようかな」

「ユキマチの歌う、ユキマチ?」

うーん、と首の傾斜がさらに大きくなる。

「ダサいかなぁ」

 おそるおそる聞くと、コウスケは首をまっすぐに戻して言った。

「とにかく、作ってみよう」

 それから、私とコウスケは空きコマも休み時間も、行きも帰りも時間が合う限りいっしょにいて、アイデアを出したり歌ってみたりしながら、曲を作った。そのあいだは、どの友達より、もしかしたら家族よりもいっしょにいる時間は長かったかもしれない。

「――できた」という私の言葉に、コウスケがいつもの笑みを浮かべながら力いっぱい拍手をしてくれたのは、ちょうど三か月後の桜の季節だった。

 

 

 暗めの照明のなか、青いスポットライトがニューイヤーズ・イブ・ライブ最後のバンドを照らしだす。

客席に向かって左から、私、リー、ロダン、圭ちゃん。

「コーラスが一人足りませんが、ユキマチは四人で歌うことにしました。途中からそのパートを、他の出演者全員で歌います。変わった形にはなりますが、どうぞ皆さま、お聞き下さい。――ユキマチ」

 リーの説明に、ざわめきはほとんど起きなかった。見に来ているのもほとんど内輪で、みんなコウスケのことを知っているからだろう。

 しん、と静まりかえる会場で、私たちは目をあわせる。

ゆっくりとまばたきをした私に、ロダンがうん、とうなずく。圭ちゃんが、手をぐっと握りあわせる。

コツ、ブーツのヒールを響かせて、リーが半歩前に出た。

 ふっと自分の視線が誰もいない左にいき、いつもこんな風に見ていたんだと、どこか他人事のように思った。……そうだった。頑張ろう、ってふにゃりと笑う顔に自分も笑い返して、最初の音をとっていた。

 スッと圭ちゃんが右手をあげる。

 1、2、3、4。

ユキマチは、静かな高音のコーラスから始まる。

雪の降る前に、聞こえるような。

こんな不安定な音だっただろうか。信じられないくらいに緊張して心細いのは、五年ぶりに歌うから? それとも……思わず声が震えそうになったとき、ロダンと圭ちゃんの音が私の音に重なった。二人の声に大丈夫、と言われている気がして、少し安心する。

 前奏が終わる頃になると、それまで自然にリズムをとっていたリーがピタリと動きをとめ、一瞬、どこかを見上げるような仕草をする。そしてスッと前を向いて、歌いはじめた。

 ――バラードぉ? まぁ、千鶴が作るんだから、そうかとは思ってたけど。

 ――やっぱり嫌、だった?

――ほんとスローテンポ。でも、私ならなんだって歌えるから見といて。

――聞いといて、だよ。リー。

――うるさいよ、千鶴。

ファルセットと地声のあいだ、微妙な音域をリーは歌う。ときどき私も歌詞を歌い、リーとハモる。そのたびに、リーは少し後ろをふり返って私と視線をあわせた。

リー、さすがだね。私は? 私はちゃんと歌えているだろうか。

――中谷、ユキマチのコーラス、めっちゃ良いよ。いつもの中谷ともなんか違う。

――なんかって?

――声に表情がある。歌の世界観にもぴったりあってるし。自分で作ったってのもあるかもしれないけど、やっぱり中谷はすごいよ。

どんな表情で、どんな声で、あの頃の私は歌ってたの。

間奏。

私が主旋律を歌う。そこにコウスケの声が寄り添うように重なって……。

――ここも、すごい切ない感じがしますねぇ。

――圭ちゃんが切ないなんて言うの、なんか似合わないね。

――その通りだ。そもそも、これはどういう歌なんだ千鶴。

――ロダンはどう思う?

――まぁ、普通に考えて、恋の歌だろ。

――私はあんたに恋とか言ってほしくないんだけど。

――まぁまぁリー、抑えて。

――コウスケはどう思うの?

――祈りの歌、かな。傍にいない人のために祈る歌。

――ほんとのところはどうなの? 千鶴。

――ほんとは、ね――。

私はこの歌を作る時も歌う時もコウスケのことを考えていた。コウスケのことだけを。その時だけは考えてもいいんだってことにして。深く深く雪のように積もった想いを、ひとひらの雪に乗せるように、私はこの歌に、声に、想いを乗せた。

これは、そういう歌だった。

 間奏が終盤にさしかかる。

私は歌いながら、自分の声にふと違和感を覚えた。そして、あぁ、と目を閉じる。

 高めに音を、出してるからだ。半音まではいかない、少しだけ高い音。

 コウスケの音にあわせて。

 最後にユキマチを歌った時、私はもうこれ以上コウスケと歌わないと決めていた。コウスケと私の声は、いっしょにいればいるほど声が重なるようになって、もうほどけないんじゃないかってくらい、ひとつの音になっていった。でも、歌わなくなれば会わなくなれば、すぐにバラバラになってしまうだろう。そんな音を聞きたくはなかった。忙しいのを言い訳に、卒業してから一度も歌おうとしなかったのは、たぶんそういう理由だった。 

少なくとも、最初のうちは。

 ――コウスケ、コーラスって楽しい?

 ――うん、楽しいよ。

 ――そっか。……よかった。

 どうして、忘れてしまっていたんだろう。

 あんなに一緒にいたのに。あんなに傍にいたのに。

あんなに、大切だったのに。

二番に入ると、みんながステージ裏に出てきて、コウスケのパートを歌いはじめる。

私の耳は、知らないうちに少し高めの音を探す。私の音に、ピタリと重なる音を。ほんとうにたくさんの声が聞こえる。聞こえるのに、そんな音はどこにもみつからなかった。

私とコウスケの声が重なることは二度とない。

 コウスケは、もうどこにもいないんだ。

ほんとに、どこにも。

 最後のサビ。

 リーの声が優しくつつみこむように響く。ロダンが低音で支え、圭ちゃんがリズムを刻み、私が、みんなが歌う。 

 

 雪待つ君が 見上げた空に

 真っ白な雪が 降りますように

 優しく君に 降りますように

 それだけを願うよ それだけをずっと どこかで

 

 声が震えてしまわないように、私はぐっとお腹に力をいれた。

最後のフレーズがゆっくりと小さくなっていく。リーが私を前へひっぱり、隣に立たせた。ロダンと圭ちゃんもおなじように前に並ぶ。

最後の音を出しきったのと同時に、スポットライトが落ちた。

暗闇のなかで、リーが私の手をぎゅっと握り、ロダンもポンと私の肩を叩いて、圭ちゃんがゆっくり右手を上にあげた。

パッとあたりが明るくなる。

それを合図に私たちは四人で手をつないで、ゆっくりとお辞儀をする。これからステージでは最後のアンコールが始まるけれど、それには参加しない私たちは、拍手に送られてそのままステージをあとにした。

控室に戻るまでのあいだ、誰もなにも言わなかった。黙ったまま控室に入り、パタン、とドアが閉まる。

「ねぇ、リー」

 ん? とリーが私のほうをむいた時、バン! と大きな音がした。

「まぁた、お前かあ」

 ロダンが圭ちゃんを睨みつける。

「だって、不可抗力でしたよ」

「なんで安全ピンで風船わるんだよ。しかも俺の風船だぞそれ」

「服から安全ピンとってる時に、風船のほうがやってきたんですって」

「やってくるか」

「だ、ま、れ」

 リーが低い声で言うと、二人の声がピタッととまる。私はくすくす笑い、圭ちゃんが割ってしまった白い風船の破片を拾おうと、身をかがめた。

 その時、なにかが聞こえたような気がして、私は立ちあがり、すいよせられるように窓辺に行った。窓を開けると、すぐさま北風が顔にあたる。痛いくらいの冷たさにかまわず、私は空を見上げた。

「雪だ……」

 うしろで圭ちゃんがつぶやくのが聞こえた。

私はそっと手を窓の向こうにさし出した。やがて、まっ白な雪のひとひらがふわりと乗り、そして、ゆっくりとてのひらに溶けていった。

 

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