少女病

益池 成和



 わたしは宗教が嫌いである。のっけからこのようなことを書くと、眉をひそめる人もおられるとは思うが、性分という奴でどうしようもない。まあ、親が残してくれた土地で日々の糧を得ているので、さすがに仏壇や墓を守ることはどうにかこなしはしているけれど、そこらあたりが精一杯である。ところが、生まれてこの方、同じ場所に暮らし続けているせいもあるのだろうが、わたしの暮らしている地域には訳も分からぬといっては怒られるかも知れないが、神や仏が、わんさかといる。氏神をはじめ、薬師さんや、地蔵さん、おまけに竜神さんなるものまで。殊にこの龍神さんなどは、お住まいになられていたはずの池は、とうの昔に埋め立てられて跡形もなくなったというのに。

 このようなことを皮肉とでも云うのだろう、宗教嫌いで、なおかつ無神論者であるこのわたしが、この春から檀家総代の一人になった。云うまでもなく、なりたくてなったのではない。

  父親が亡くなって、田畑を残してくれたので、キャベツひとつ作ったことのない男が、親の代わりとして水利組合の一員に加わった。その組合の先輩格の人から、「なれ」と云われてしまえば、断るわけにもいかない。おのが信念より、地域のつきあい、である。

  先日、私達二人(総代にはもう一人顔見知りの男もなった)のお披露目と云っていい檀家総代の総会の席で、わたしを推挙した一人が、不意に「君はどこも悪くないのか」とメタボ丸出しのわたしの躰をしげしげと眺めながら訊いてきた。わたしは即座に、否定の言葉を口にした。事実、グルコサミンとビタミン系の二種類のサプリメントは習慣として口に入れているが、今のところ薬とは無縁の生活を送っている。五年前とその次の年、人工骨の入れ替え手術で大阪南医療センターにお世話になったが、術前の検査でも担当の医師からはほぼ何も言われなかった。ただ一点、「あなたの年齢の男性にありがちの、血が濃いことぐらいかなあ」という但し書きはついてはいたが。(もっとも、血が濃いというのは何を示しているのかは分からないが)

 幸いなことに、病気らしい病気は今のところ無縁である。運動嫌いで、そのくせ四十過ぎた頃から身についてしまった飲み屋通いも健在で、いかに政府の奨励する「健康指針」なるもののいい加減さが窺い知れる事例ではある。

  先輩格の人に病気の有無を訊ねられ、即座に否定はしたものの、人間というのはおかしなもので、たとえ病気というやっかい事でも、無ければないでどこか引っかかる。わたしはとうとう昨年還暦の年を迎えたが、人に伝えられるような病気がないとなれば、これはこれでなにがしか抵抗が生じる。どうかすると、その歳まで、何も考えず能天気にのうのうと生きやがって、なんて何処からか声が飛んで来そうな気がしてくるから不思議である。

  檀家総代の総会を終えて家に帰ってから、そんなことをつらつらとひとりで考えていると、はたと気づいたのである。

 ありましたよ、あった、病気が。いやあ、これはこれで立派な病気、だと思いますよ。題して「少女病」。この病、たいていの年寄りのイケメンと呼ばれたことがないだろう独身男が罹患する、それなりに重いものです。たぶん。

 始まりは四年前のことでした。たしか、年が改まって二週目か三週目の金曜日か土曜日だったはず。例によって、飲み友達の設計事務所の男と、介護の仕事にはまっている小、中学通じての同級生の人妻とで、なじみの居酒屋を出て、カウンターだけのカラオケスナックにしけ込んだ。そこは三年ほど前に、市立病院前の古びた店舗から、この町の駅前飲み屋街に誘われて移ってきた店で、わたしよりは幾分か年上のはずのママが営んでいた。久しぶりの訪問だった。案内されてカウンターの端あたりに座ったところ、見慣れない若い女の子がおしぼりを差し出してきた。小柄で、その時はまだ服装も地味だったが、はにかんだような笑顔だった。ママが彼女の名前を口にして、最近入ったことを告げた。付近には結構このような店がひしめいているが、それまではラウンジを名乗っている一軒以外、女子大生がカウンターの中に立っているのを見たことがなかった。若くてもせいぜい四十代あたりが限界だった。

 初対面だったこともあって、彼女はあまり喋らなかったが、終始笑顔で、手持ち無沙汰になると客のグラスを手にとりおしぼりで水滴をぬぐっていた。そして誰かが歌を選ぶ度に、小さなメモ帳を取り出してきて何か書き付けていた。腰を落ち着けて小一時間ほどたち、一通りレパートリーをこなすと、むろんほろ酔い気分も手伝って、わたしはよく店の女の子にデュエットを所望する。難しいだろうなと思いながらもこの新人さんにもふってみた。彼女は笑顔で「はい!」と即答した。なかなかいいじゃないかと思いつつ、「じゃあ、ギンコイ(銀座の恋の物語)なんかどう?」というと、「ギンコイって、何ですか?」と来た。いやあ、あのときぐらい、おのが年齢を悟ったことはなかったですねえ。まさに愕然という奴。「君、ギンコイ知らないのか!?」わたしは思わずひっくり返った声で問い返したが、それでも彼女はキョトンとしたままだった。結局「居酒屋」なら歌えると云うので、(後日同じような体験から、女子大生には「ギンコイ」より「居酒屋」が有名であることをこの時初めて学んだ)無事デュエットすることになったが、その歌いぶりがまたよかった。わずかに頬を赤らめ、時折恥じらったようなまなざしをちらりちらりと覗かせながら、一生懸命相手してくれた。

  毎週というわけではないが、先の二人と、週末はたいていなじみの居酒屋、カラオケスナックを渡り歩く。居酒屋は主に二軒、カラオケは三軒ほぼローテーションのようにしてこなして来ていたが、沖縄出身のその女子大生と出会ってからは、二次会のカラオケに関しては、一番手狭なその店が、最初に覗くべき贔屓になってしまった。残念ながら、扉を開ける度に彼女がいるというわけにはいかなかったが、顔を合わせる度に、この新人さんは歌がみるみる上手になり、むろんレパートリーもふえ(一ヶ月も経たないうちに、ママの手助けなく「ギンコイ」を歌い上げた)、なによりも、肝心要の客あしらいを、ものすごいスピードで身につけていった。当初ただ笑顔だけで突っ立っていた女の子が、祖父母と同年代の私達に自ら話しかけ、笑いかけてきたりするようになるのにたいした時間は必要ではなかった。適切さを欠くかも知れないが、どこか孵化の瞬間を見せつけられているような気さえしたものであった。 

  半年程経ってからのことだが、このわたしが、つい先日成人式を済ませたばかりの年端もいかない女子大生に、あざとく見送ってくれる瞬間をとらえ「こんど、美味しいものでも食べに行こうか?」なんて誘ってみたことがあった。その時も彼女は「はい!」と見事な即答。しかも「楽しみにしています」といってのぞき込みながらの笑顔つきで。(君、それはあかんやろうと、わたしは心の中で叫んでいましたよ)まあ、分不相応なその申し出は、いつまで経っても実現することはかなわなかったが。

 ところがである、捨てる神あれば拾う神あり、の諺通りのことがその後起こった。   話は急に一年以上経過しますが、一種のルンルン話みたいなエッセイになっとりますんで、このはしょりぶりをどうかご容赦ください。

 ここからは別のカラオケスナックでの話になります。わたしよりひとつ年上のいつ見ても笑ってばかりいるようなママが仕切る店で、親しみやすさは感じていたものの、それまではたいしてなじみとは言い難いところでした。例によって先の二人と半年ぶりぐらいに入店しました。そしたらいたんですねえ、女子大生が。先の彼女より背が高くスリムで、しかも近くの国立大学の学生さんでした。ハンドボール部のマネージャーをしていて、学校の先生になることが中学生の時からの夢で、しかも音楽教師を目指していると。この音楽と云うところにわたしはピピッと反応しました。有り体に云えば、興味を持ってしまったんですねえ。滅多に通う店ではなかったのに、又々三週間続けて二次会はその店になってしまって、しかも、そうたいして親しくなった感じでもないのに、帰り際「何か美味しいものでも食べに行こうか」なんてやってしまった。彼女笑ってました。先の女子大生さんとは違って、元気のいい返事はありませんでしたが。まあ、愛想笑い、という奴だったんでしょうね。

 ところが、十日ほどたってから、その店のママから突然わたしの携帯にCメールが届いたんです。何事だろうかと思って開けてみると、なんと、彼女との食事会の打診だった。これには驚きました。酔いに任せての誘いではありましたが、云ってみればそれは帰りの挨拶みたいなところがあったんですが、まさか実現するなんてびっくり。瓢箪から駒、です。それにわたしの記憶に間違いがなければ、ママに仲を取り持つようなことを頼んだ覚えもなかったので。まあ、店で「子供代わりがほしい!」なんて力説していた記憶はありましたが。

 彼女とのデートは近くの割烹料理店でした。ばっちり保護者つきでしたが。でも、これがさいわいしました。誘ったはいいが、相手はその時大学三年生の神奈川のお嬢さんです。いざ改まって目の前に座ってみると、何を喋っていいものやら皆目見当もつかない。ただ、出された料理を褒めそやすのがせいぜいで、会話にもならない。ところがママのほうはこちらの思いなどお構いなく、何やかやと喋りかけてくる。愚にもつかない世間話ですが、沈黙よりはよほどましで大助かりでした。

 ほぼ熟女とばかり喋って小一時間ほどたち、店を開ける時間が来たというのでママが先に帰っていった。もしかしてわたしに対しての気遣いだったかもですが、助け船がどこかへ行ってしまって、内心どうしたものやらと考えていると、このようなことを芸は身を助く、というんでしょうか、話題に窮して彼女に音楽の話を振ってみた。クラシック音楽を聴くのかとか、作曲家は誰が好きかなどと。そしたら食いついてきてくれて、まあ弾むというところまでは行かなかったが、なんとか会話か成り立ちまずまずの食事会になりました。

 これは次の年の事になりますが、この彼女、わが市で行われる暮れの第九の演奏会にも合唱団の一員として関わっていて、頼まれもしないのに聴きに行ったところ、後日えらく喜ばれ、卒業間際に開催される合唱団のコンサートにも来てくれと誘われた。むろん勇んでいきましたよ。わざわざチケット購入して。なんか、若い女の子相手に、涙ぐましい努力、です、我ながら。

 彼女は念願の教師の夢を叶え卒業していきましたが、彼女のことで味をしめたわたしは、それからは一段と気安く店のバイトさんに声をかけるようになりました。今のところ上上の首尾です。もれなくママが付いてくるのが玉に瑕ではありますが。          そうそう、つい先日も、知花くらら似のなかなかの美人さん(わたしのこの指摘にご本人は、沖縄というところだけさ、と少々おかんむりでしたが)と食事会を持つことが出来、しかも恋の悩みや、就職活動のことなどをさんざん聞かされてきたところだったんです。(六十過ぎの子無し独身男で、なおかつ会社勤めなど一年にも満たないこのわたし相手に、ですよ。世の中、なかなか捨てたもんじゃない!?)

  ここまでいい気になって書いてきて、あることがふと頭をよぎった。彼女達ぐらいの年齢の時いったいわたしはどうだったのか。そうしたら思い出しましたよ。大学を出て小さな靴下を売りさばく会社にどうにか転がり込んだんですが、そこにいた四十代の未亡人の事務員さんに夢中になっていたことを。今少女病で、若かりしその昔は、わたし熟女病だったんです。

 

 すでにカウントダウンが始まっている、わたしのことです。いつの間にか、わたしの人生は引き算になってしまっています。対する少女病の相手である彼女たちの人生は、足し算でしょう。わたしからいわせれば、嫌らしいほどに可能性しかない。でも、物事はよきことばかりということはありません。可能性に満ちあふれ、夢を追いかけることを許され又強いられてもいる彼女たちは、半面船出の不安の中に身を置いているはずで、確かな何か、道しるべみたいなものを欲しているはず。若かった時のわたしが熟女病だったことがそれを物語っている気がするのですが、どうでしょうか。

 人にはないものねだりの習性があります。春には秋を想い、秋になれば春であった日々を希う。これが四季ならば一年の我慢で事足りる話ですが、人の時間は一方通行です。ならばこそ、先ゆく者は、後を歩む人達のその若さに嫉妬しつつも、密かになにがしかの言葉を掛け続けるしか術がありません。幸せというものがどういうものかは判りませんが、せめて関わりある人だけでも、どうかいつまでも笑顔でいてくれるようにと。

 

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