月見商会

若林 亨



 

 数日降り続いた雨で桜はすっかり散ってしまった。花見の予定は流れ た。流れてよかったと学は思っている。部屋でゆっくりすることができた。

入社八年目ではじめての異動でこの街へやってきた。妻と子供を残しての単身赴任だったが、ひとり暮らしでラッキーなんて少しも思わなかった。子供は五歳と一歳で手がかかるし、妻は二人目を妊娠した時に仕事を辞めていたので生活費にも不安があった。だから花見で酒を飲んでうかれている場合ではなかった。

着任して一週間。寝つきの悪い日が続いていた。会社が用意した一DKのマンションは繁華街のど真ん中にあり、夜中までネオンが灯って酔っ払いの声が響き渡った。窓を閉めていても聞こえる。枕を変えたのもいけなかった。大きすぎて頭が全部埋もれてしまう。寝返りの回数が増えるばかりだ。妻にメールを送って子供の動画を要求した。すぐに返信がなかったので電話をかけた。

 元気か、子供はどうしてるんだ、泣いてないか、ちゃんとミルク飲ませてるか。

「大丈夫ですからお仕事がんばってください」

 そんなのっぺりとした返事がよけいに神経を高ぶらせた。

なんだよ、俺がいない方が都合いいみたいじゃないか。

そして酒を飲んだ。

支店長は数字にうるさい人だ。噂には聞いていたがその通りだった。初顔合わせの時にいきなりノルマ一億円! と叫んでいた。ノルマなんて言葉を直接聞いたのは初めてだ。ひと昔前のものだと思っていた。半分シャレだろうと思ったが本当だった。週に一度は売上会議がある。そこでがんがん突き上げられる。しかも夜遅くに始まって日付が変わるまで続くのだという。毎回レポート提出あり、プレゼンテーションあり。二ヶ国語習得目標なるものまである。中堅のメーカーなのに大手商社並みの海外折衝力を求めてくる。この支店に来てから体調を崩す人も多いと聞いていた。

 昼休みの様子にも戸惑っていた。十二時になるとオフィスビルで働く人たちがいっせいに表へ出てくる。そしてあっという間に通りを埋め尽くしてしまう。どの店も並ばないと入れなかった。みんな当たり前のように並んでいる。並んで入って、食べ終えた時にはもう昼休みが終わりかけている。慌ててオフィスへ戻る。毎日のことらしい。

ありえないと学は首を振った。これからこの行列になじまなければならないのかと思うとぞっとした。弁当を買ってオフィスで食べるという習慣がないらしい。家から弁当を持ってくる人も少なかった。オフィスで食べていたら宇宙人のように浮いてしまうのだ。

 学はもうすっかりくたびれていた。

今日は十二時前にオフィスを出て正解だった。迷わず牛丼店に入ったのも正解だった。食べている最中に満席になりあっという間に人が並び始めた。みんな早食いを競うような食べ方だ。そんなに焦ってどうするのかと思ったら昼寝をするらしい。大きなオフィスビルには必ずスリーピングルームがあり順番に昼寝をするのだという。まさかそこも並ぶのかと思ったら完全予約制。どの会社も昼寝を勧めているのだ。赴任初日に同僚からここは行列と昼寝の街だからと説明を受けた。すぐに慣れるし慣れたら快適さ。

 大盛りの牛丼を一気にかき込んだために汗が噴き出してきた。上着を脱いで店を出た。アイスコーヒーが飲みたい。でもどこに喫茶店があるのか分からない。

 喫茶店を見つけるために大通りからひと筋なかへ入ってみた。やはり並んでいる。洋食屋、ラーメン店、お好み焼き、中華、てんぷら。店ごとの行列が交わっていてどの店の列なのか分からなくなっている。最後尾も分からない。

もう一本なかの筋へ入ってみた。そこはもう飲食店の並ぶ通りではなかった。短いアーケードがあり、両側から店の看板がせり出していた。森中鮮魚店、タナカ電気、仁科金物店、まっちゃん昆布。どこもシャッターが下りていた。中を歩くと靴音がシャッターに反射してコロンコロンと響き渡った。丸田貴金属、いのうえ刃物、月見商会、ふとんのオオタ。

 アーケードを抜けたところで学はふと振り返った。ひとつの看板が気になったのだ。

 月見商会。

 何の店だか分からなかったがそこだけ開いているようだった。店の前には自転車が置いてあったし出窓に光が当たっていた。何かの事務所だろうと思ってやり過ごしたが、コーヒーの香りが漂ってきたような気もした。

 体を回転させて月見商会の前まで引き返した。子供用座席を着けた自転車が止めてある。前かごには膨らんだビニール袋が入ってあった。キャベツが透けて見える。出窓には外の景色が反射して中の様子は分からない。入り口のドアは住宅用のものだった。

やはり事務所だろう、でもそれにしては、と手のひらでひさしを作って窓に近づいた時、中からふわっとコーヒーの香りが漂ってきた。香りは一気に体の中へしみ込みめまいを誘った。心地よいめまいだった。体が軽くなりどこかへ連れて行かれそうになった。

どうしたらいいんだろう。……

 

チリリンとドア付きの鈴が鳴る。その音が遠くから聞えてくるような気がした。

店内は茶褐色にけむっていて見通しが悪かった。むせ返るほどの甘苦い香りに包まれた。そして蒸し風呂のように暑かった。

学は立ったままアイスコーヒーを注文した。額からどっと汗が噴き出してきた。

狭い。ワンルームマンションよりも狭い。薄暗い。豆電球ほどの明るさだ。圧迫感があるのは天井が低いせいだった。地下の小部屋に迷い込んだみたいだ。床には段ボール箱が無造作に積み上げられてあるし、新聞紙も散らばっている。

ここへ座れとばかりにマスターらしき人がL字型のカウンターの一方の端の席に水を置く。「いらっしゃい」の声もない。客がふたりホットコーヒーを飲んでいた。カップからは茶褐色の湯気が立ち上っている。

アイスコーヒーを持ってくるときもマスターは無愛想だった。面倒くさそうにテーブルに置いてすぐ背中を向けた。

アイスコーヒーは妙な味だった。見た目は普通のコーヒーだったが、口に含むとすぐに苦みが消えて水っぽいものだけが残った。それは粘り気を含んでいた。しばらく舌に絡みついて消える。その瞬間、体がわずかにしびれて気持ち良くなるのだった。ふた口目も三口目も同じだった。しびれが頭の後ろまでやってくると体が跳ね上がる感じで鳥肌が立つ。射精する瞬間に似ている。飲み出すと止まらなかった。

ただ単にアイスコーヒーを頼んだだけだったが、ひょっとすると変なものが入っているのかもしれない。そう思ってメニューを探したが見当たらなかった。壁に貼られているわけでもなかった。カウンターの上にも置かれていない。どこかにだまし絵みたいに隠されているのかと店内を見回してみたがやはり見つからない。

ふたりの客が同時にコーヒーのお替りを頼んだので、この時とばかりに学も声をかけた。

「すいません、メニュー見せてもらえませんか」

 するとふたりの客が同時に学の方を向いた。マスターも振り向いた。マスターは四十歳ぐらいだろうか。客は女と男。女は三十くらいで若かったが、男の方はかなり老けている。

茶褐色の湯気が消えていき、次第に店内がはっきりと見えるようになった。それでようやく学は落ち着くことが出来た。そうだ、アイスコーヒーを飲みに来たのだった。

 しかし三人の表情は一様に強張っていた。いま何を言ったのだとばかりに目を丸くして学を見つめている。驚いたというよりあきれたという表情だ。

「あなた、今日がはじめてですよね」

 マスターが尋ねてきた。白シャツに蝶ネクタイ。いかにもマスターという感じ。

 ああ普通の人なんだと学は思った。ドアを開けた瞬間から異様な雰囲気だったので、てっきり風変わりな店主を想像していたのだ。

「はじめに紹介しておきます。みみちゃんと塩見さんです。よろしくです」

 そう言ってマスターは先に来ていたふたりの客を紹介した。

 一番奥に座っている若い女がみみちゃん。ひとつあけて座っている年寄りの男が塩見さん。

 いきなり紹介されても困るじゃないかと学は思った。サークルに入るんじゃないんだから。メニューを見せてほしいと言っただけだ。

 それでもみみちゃんと塩見さんが目を丸くしたままなので何かしゃべらないといけないと思い「どうも」と頭を下げた。

 何も反応はなかった。

 少し不安になったので「常連さんですか」と声をかけた。

ふたりは首を振った。首を振ったあと真顔になった。

 なかなか目をそらしてくれないので学はあせった。受け入れられてないようだ。完全によそ者として見られている。

「僕、この四月から転勤でこの街に来たばかりなんですよ。だから全然分からなくてね。今日も昼飯食ってからコーヒー飲もうと思ったんですが喫茶店が見つからなくてだいぶ歩いてようやくここを見つけたんです。最初は通り過ぎましたよ。だって月見商会でしょう。事務所だと思いますよ。でもコーヒーの香りがしたから恐る恐るドアを開けたんです」

 みみちゃんが急に顔をしかめた。口に手を当てている。気分が悪くなったようだ。

 塩見さんは咳をし始めた。ゴボッゴボッと湿った咳。上半身をかがめて苦しそうにしている。

 二人の様子が変わったのを見てマスターは「あっ」と声を上げた。そして学に向かって、やめてください、と叫んだ。

「やめてください、やめてください。本当の事を言うのはやめてください」

 マスター自身もこめかみに手を当てて顔をしかめている。

「本当の事を言うのはやめてください。嘘をついてください。ここは嘘をつくところなんです」

 みみちゃんと塩見さんはカウンターにうつぶせになってうっうっとうめき始めた。

「早く、なんでもいいから嘘を」

 マスターは学に近寄って繰り返しそう言った。

 嘘をつけと言われても……。

訳が分からず黙っているとマスターが、あなた独身ですかと聞いてきた。

「いえいえ結婚してますよ。嫁さんと子供を残しての単身赴任です」

みみちゃんが「キーッ」と金切り声を上げた。マスターは目の前で激しく手を振っている。それが何の合図なのか学には分からない。

「子供は五歳と一歳で手がかかりますからね。嫁さんは大変だと思います。辞令が出た時は泣いてましたよ」

 塩見さんの咳が激しくなった。

「あなた、嘘をついてくださいって言ったでしょう」

 マスターはかなりいらついているようだった。

 学が戸惑っていると、

「反対のことを言えばいいんです」

 そう強く言い放ったあともう一度、独身ですか、と尋ねてきた。

「あ、あ、あ、あ、はい、独身です」

 学はつっかえながら答えた。無理やり言わされている感じだった。

 マスターはふーと大きなため息をついた。

「そうですか、独身ですか。それはうらやましいですねえ。仕事の方も順調で」

「あ、はあ」

「独立して何年でしたっけ」

「は? 独立?」

 なんだそれ。俺はサラリーマンだぞ。

 答えないでいると、たしか三年でしたよね、と水を向けられた。

「ええっと、三年だったかな。三年三年」

 何が三年なのか分からない。適当だ。

「若いのに素晴らしいじゃありませんか」

 うなずいた。何でもいい。訳が分からないからうなずいているだけだ。

「デザイン事務所の社長さんでしたね」

 再びうなずいた。

「若くて男前でお金持ち。女の子にはもてもて」

何言ってるんだこいつはと思いながらもうんうんうんとばかみたいにうなずいた。

「これからは社長さんとお呼びしましょう」

 好きにしてくれ。

 学は自分を落ち着かせようと残りのアイスコーヒーを一気に飲みほした。体がしびれてそいつが頭の後ろまでやって来た。気持ちいい。

デザイン事務所の社長で、従業員は五人。みんな二十代の女の子。そのうちのひとりと付き合っていてマンションを買い与えている。平日はゴルフ三昧。夜はクラブ通い。

言われるがままにうなずいていたらそんな風になってしまった。ばかばかしい。何が社長だ。現実は安月給の上に単身赴任で家族ばらばらのしがないサラリーマンだ。まずは自炊にチャレンジだ。玉子すら割ったことがないんだぞ。包丁の握り方を教えてくれ。節約のために飲み会は全部断ろうと思っている。月に一度は子供の顔を見たいから帰省費用をためなければならない。会社からは盆暮れにしか支給されない。とにかく我慢。仕方がない。せめて昼飯のあとのコーヒーくらいはゆっくり飲みたい。だからここに来たんだ。

マスターの作り話にうなずいている間にみみちゃんの顔色は元に戻っていた。吐き気も治まったようだった。塩見さんの咳も止んでいる。ふたりともあんなに苦しそうだったのに。

「社長、おかわりいかがですか」

 うなずく前に少し冷静になって腕時計を見た。

 十二時五十分。やばい。会社へ戻らなければならない。

 また来ます、と席を立って慌てて表へ出た。コーヒーは普通の値段だった。

 また来ますではなくてもう二度と来ませんだったなと思った。嘘をつかなければならないなんて変な店だ。からかわれているのだろうか。でもとっさに嘘はつけないものだと妙なところで学は納得していた。嘘をつくにはそれなりの準備が必要だ。マスターの言うとおりにうなずいているうちになんとなくその気になっている自分もいた。これは初体験だった。

店を出てすぐ振り返ると、月見商会の看板がまたおいでと誘っているように見えた。

 

 あの日から学のそわそわが続いている。月見商会が気になって仕方がない。薄暗い店内、茶褐色の湯気、甘苦い香り。一口飲むたびに体がしびれてびょんと跳ね上がる感じのコーヒー。マスター、みみちゃん、塩見さん。そして嘘をつかされている自分。

デザイン事務所の社長も悪くない。どうせならマスターの押し付けではなくて自分から積極的に嘘をつくのもいいかもしれない。その方がおもしろいに決まっている。

「よし、今日は焼き肉を食べに行くぞ」

 引き継ぎの前任者がばたんと書類を閉じて勢いよく立ち上がった。十一時四十五分。いつもより少し長めの昼休みになる。

 学はとっさにあごに手を当てて顔をしかめた。

「先輩すいません。歯が痛いんです」

 自然と嘘が出た。それが妙にうれしかった。右の奥歯が痛いのだと自分に言い聞かせた。

「なんだなんだ、急に痛くなったのか」

「いえ、一週間ほど前から……」

「そんなこと言ってなかったじゃないか」

「我慢してたんです。ずっと我慢してたんですが、どうにもこうにも」

 学は思い切り顔をゆがめた。

 結果オーライ。うまく前任者をかわすことが出来た。簡単だなと学は思った。だましたつもりはない。鼻をくんくんと鳴らしてあの茶褐色の湯気の香りを鼻腔によみがえらせたら自然と嘘つきのスイッチが入ったのだ。あとは勢いだった。

 事務所を出るとすぐに月見商会へ向かった。大通りの行列が目印になってくれたので迷わずたどり着くことが出来た。

 この前と同じ自転車が止まっていた。前かごにはビニール袋。今日は牛乳パックが透けていた。

 ドアを開ける。鈴が鳴る。

「社長、いらっしゃい」

 そんなマスターの挨拶を期待していたのに何もなかった。目が合っているのに知らん顔だ。この前と同じところにみみちゃんが座っていたので軽く会釈をしたが反応はなかった。あんた誰という感じ。

茶褐色の湯気の中を分け入るようにして席に座ってもマスターは注文すら取りに来なかった。

 学はすっかり当てが外れてしまった。まあいいや、準備の時間にしよう。俺はデザイン会社の社長。三年前に独立した。儲かって儲かって仕方がない。女にももてる。よし。

ようやくマスターが近づいてきたと思ったら、

「困るんですがねえ」

 と声をかけてきた。

「お客さん、勝手に入ってこられちゃ困るんですよ。うちは会員制なもんでいちげんさんはお断りしてるんです」

 まるで初対面への話し方だった。数日前のことは忘れたかのように。

 これも嘘なのかと学は思った。ここでは嘘しかつけないはずだ、だとしたらこれも嘘だ。

 学はマスターの言うことを無視して、

「この前なんか女の子の誕生日会やるからって招待されたんだけど手ぶらで行くわけにもいかないでしょう。買ってやりましたよ、バッグを。ブランド物のバッグを。それだけじゃない。ディナーのフルコースはこっちもちなんだ。食べ終えたらみんな口をそろえて御馳走様って、あっはっはっ。社長もつらいですよ、あっはっはっ」

 勝手にしゃべって勝手に笑った。

「お客さん」

「社長です」

「どこのどなたかは存じませんがうちは会員制なもんで」

「おれ会員だよ。この前会員なったんだ。会員番号二番」

 マスターは大きなため息をついてみみちゃんに視線を向けた。

 みみちゃんはゆっくりうなずいた。

 学の前にようやくアイスコーヒーが運ばれてきた。

 

 

 昨日の客はカミソリをもってたんだよ。いきなりね、シャワーの後であたし胸にカミソリを当てるの。切ってもいいかって。血を見たいっていうんだよ。ひやっとしたよ、カミソリが乳首にも当たるんだもの。本当に切られるのかと思ったよ。真剣な顔して見つめてくるんだ。あたしも長くこの商売してるから中には変な客もいたよ。縛ってくれだとか赤ちゃんになりたいだとか。そこそこは相手できるんだけど長くなるとめんどうだからね。出すもの出して早く帰ってもらわないとあとがつかえてるんだよ。一晩に五人だから。それでその男はカミソリ握ったままぶるぶる震え出してね。何をするのかと思ったらカミソリの刃を自分の方へ向けて「殺してくれ」って叫んだんだ。「俺はもうだめだ、殺してくれ、死なせてくれ」って。泣いてるんだよ。五十ぐらいのおっさんがひざまついてうなだれて泣いてるの。何があったんだかしらないけど勝手にしろって感じだよね。人生相談は性に合わないんだ。それであたしがうんともすんとも言わないものだから調子が狂ったんだろうね。しばらくしたらポイッとカミソリ放り投げてそのままなんにもしないで帰っちゃった。変なお客さん。でもセックスって難しいわねえ。

 

 

 話し終えたみみちゃんの顔が遠くに見える。茶褐色の湯気の中にぼんやりと浮かび上がっている。

 学は思いついたようにはっと息をして目の前のコーヒーを見た。そうだった。コーヒーを飲みに来たのだった。

 みみちゃんの顔がゆっくり近づいてくるのを感じた。それより先にマスターの顔が目の前に来た。

「お客さん」

 何かを促すような低い声だった。答えなければならないと学は思った。何も聞かれてないけれど答えなければならない。でものどが乾いて言葉が出てこなかった。慌ててコーヒーをひと口飲んでひとつため息をついた。

「お客さん」

 再びマスターが声をかけてきた。今度は明るい調子で。

「先ほどは失礼しました。どうやら人違いをしてました」

 申し訳なさそうにおしぼりを手渡し、

「会員さんでしたね」

 とにっこり笑った。

「おおそうだよ。会員番号二番の俺だよ」

 学は前のめりになって答えた。

「申し訳ありません。二番はあちらの方で」

 マスターはみみちゃんに顔を向ける。

 みみちゃんがぺこっと頭を下げた。

「お客さんは三番になっております」

「おおそうだった。三番だ三番」

 そうすると一番はこの前激しく咳き込んでいた塩見さんか。そんなことを思いながら学は今聞かされたみみちゃんの話を思い返していた。

 みみちゃんは娼婦。それもベテランの娼婦。一晩に何人もの男を相手にしている。時には怖い目に合うこともある。昨日がそうだった。それでもやめられない。生活のためだろうか。個人的な欲望のためだろうか。みみちゃんを指名するにはどうすればいいのだろう。マスターが取り次ぎをしてくれるのか。この店が待ち合わせ場所になっているのか。

 いや違う。

 学は首を振った。ここは嘘をつくところだ。嘘しかつけないところだ。本当のことをしゃべると聞いているものが体調を崩す。いま俺はなんともない。ということはみみちゃんは嘘をついているのだ。

 さて、と学は気を取り直した。今度は自分がしゃべろうと思っていた。相変わらず天井が低いこと、狭くて薄暗いこと、床には段ボールが積み上げられてあること、新聞や雑誌が散らばっていること。それらを確認してからスイッチを入れた。

「女房が入院することになりまして」

「ほう」

 とマスターが興味を示した。

「乳がんになりまして」

「それは大変ですね」

「そう大変なんです」

「大変だ」

 よしよしこの調子。両肘をテーブルについて前かがみになった。

「定期健診で見つかったんですが、まだ初期の段階だということでひとまず抗がん剤治療を始めることになりました」

 みみちゃんもこちらを向いている。

「女房はけっこう神経質なやつでね。どうなるんだろうどうなるんだろうって心配ばかりしてるんですよ。食欲もなくなっちゃって料理をする気にもならないみたい。吐き気、嘔吐、下痢、便秘、貧血、口内炎、のぼせ、ふらつき、悪寒、発熱、しびれ、脱毛、不眠、自律神経の乱れ。これみんな抗がん剤の副作用。これだけ並べられればどれかには当たりますでしょう。全部が一度にやって来るわけじゃないんだから。どれがいいって聞いたらふざけないでって怒られました。はははは」

 マスターが急に背中を向けたので学は慌てた。

「あ、それでね、検査入院の時女房が泣いたんですよ。あたし子供が欲しいって。子供におっぱいをあげたいのって。大丈夫、心配するなと言っても泣いてばかり。こっちまでつらくなってきてほとほと疲れちゃいました。僕たちは大学の演劇サークルで知り合って卒業してすぐに結婚したんですが……」

 店内はすっかり霧が晴れてコーヒーの香りだけがかすかに漂っていた。

 マスターが目の前から消えた。実際は厨房の端へ移動しただけだったが学にはとても遠くに感じられた。興味なさそうな態度が気になる。背中を向けられているのも嫌な感じだ。自分の話が聞き入れてもらえないのだと学は焦った。みみちゃんも目をそらしている。

 腕時計を見ると十二時五十分になっていた。そろそろ職場へ戻らないといけない。

「お客さん、今日はこのあたりで」

 遠くからマスターの声がした。

「今日はみみちゃんの番だったもので失礼しましたね。でもこの次はあなたの番です。いい話を期待してますよ」

 つかみどころのない弱々しい声だったが、次は自分だと指名してくれたことがうれしかった。学はしっかりと耳にとどめた。

 次は自分の番だ。

 

 日曜の朝は携帯電話の着信音で目が覚めた。女房からだった。一歳の子が肺炎を起こして入院したという。

「別に心配ないからわざわざ帰ってこなくてもいいわよ。一応連絡だけしておきます」

 まるで録音された案内テープのような機械的な声だった。あなたは必要ありませんと言外に伝えている。

「それより今月のお給料早く振り込んでくれないかしら」

 今度は急に調子が強くなった。

 そうだった。すっかり忘れていた。給料日の翌日に一定額を女房の口座へ振り込む約束だった。単身赴任は初めてだからいろいろ勝手が違って戸惑っている。部屋の中もまだ荷物の整理がついてない。

 今からすぐ振り込むからというと、明日でいいですと言ってきた。

「忙しいようね」

「いやいやちょっとばたばたしてるだけだよ」

「メールも見られないくらいに忙しいのね」

「見てるよちゃんと」

 嘘だった。仕事用の携帯電話ばかり使っているのでプライベートの方がおろそかになっていた。慌ててその場でチェックしたら連日女房から催促のメールが届いていた。最初は「お仕事お疲れ様です。体に気を付けてください」とねぎらいの言葉が入っていたが、途中からはそれがなくなって「振り込みお願いしますね」「まだでしょうか」「待ってます」「困ります」「いい加減にしてください」と変わってきている。あまりに返信がないのでとうとう電話してきたのだ。

「ちょっと聞いてるの」

 とんがった声になっていた。怒りがこもっている。

「聞いてるよ。ちゃんと聞いてるからこっちの話も聞いてくれよ。実は前任者が会社の金を使い込んで行方不明になってるんだ。どうやら経理の女の子と共謀してたらしくて、それでちょっとばたばたしてたんだ。引き継ぎ初日からなんか変だったんだよな。妙にそわそわしてるし世間話ばっかりしてるし。それでなかなか進まなくて。今日もこれから会社に行かなくちゃならないんだ。起こしてくれてありがとう。寝坊するところだったよ」

 学は堂々としていた。途中からスイッチが入って一気にしゃべり終えた。

「そうだったの」

 女房の声が落ち着いてきた。

「そうだったんだよ」

「そう」

「だからさ、今から会社なんだ」

「………」

「行ってきます」

 学は普段着に着替えて部屋を出た。女房に尻を叩かれて無理やり放り出された感じだ。ゆっくり寝ていたかったのになあと思いながらも気持ちは安定している。行くあてはあった。

 いつも通りの道順で会社方面へ向かった。さすがに電車はすいていた。

 ビジネス街を歩く人も少ないし車の流れもスムーズだ。

 銀行に寄って妻の口座に金を振り込んだ。

 肺炎か……。学にはぴんとこなかった。別れて暮すようになってから女房と子供にどんな変化があったのか分からない。大変だろうがぼちぼちやってくれてるんだろうとほとんど気に留めていなかった。一緒にいたら今日なんかは子供の相手をしているはずだ。歩き始めたばかりの子をあやし、五歳の長男と戯れて時間を過ごす。幼稚園の話で盛り上がるんだろうな。かけっこが得意だと言ってたからな。近くの公園でバレーボールを投げ合って、それに飽きたら鬼ごっこを始めて。家に戻ったらアンパンマンかるたに付き合って、ジグソーパズルで遊んで。

 歩きながら学は気分が高まってくるのを感じていた。なんだか早足になっている。アーケード内の商店は相変わらずどこもシャッターが下りている。ころんころんと靴音だけが響く。

 確かめもせずにやってきたが、やはり月見商会は開いていた。

 学には自信があった。絶対に開いているはずだと。

 今日は自分の番だ。この前マスターに指名してもらった。俺が主役になれる。俺の話を聞いてもらえる。うまくスイッチが入れば大ぼら吹きになれると思った。女房もうまくかわせたではないか。

 自転車があるということはみみちゃんが来ているということだ。そう思ってドアを開けると鈴が鳴った。

「こんにちは」

 茶褐色の湯気と甘苦い香りが迎えてくれた。

 みみちゃんと塩見さんを確認すると早速スイッチが入った。

「いやいやみなさんおそろいで。朝早くからご苦労さんです」

 この前と同じ席に座った。カウンターの一番端。

「今日は女房の一回目の点滴なんですよ。無理を言って昨日から入院させてもらってるんですが体調もいいようで心配いりません。女房のやつ完全に開き直って、何でも来いみたいな感じになってやけに明るいんです。宣告された時はかなり落ち込んでたのに勝手なもんですね。点滴には眠くなる薬も入ってるみたいだから途中で眠ったら寝顔にキスでもしてやろうかなって思ってます。ははははは。マスター、コーヒー。ホットでお願いします」

 早口にまくしたてた。コーヒーを待っている間ずっと塩見さんとみみちゃんに笑いかけていた。一番、二番、俺が三番。一番、二番、俺が三番。心の中で繰り返しながら。

 おやっと思ったのはしばらくしてからだった。一向にコーヒーが運ばれてこないのでもう一度注文しようとしたところ、三人がまったく動いてないことに気がついた。マスターは壁にもたれて目を閉じているし塩見さんとみみちゃんはコーヒーカップを前にして蝋人形のように固まっている。

 しまった。どこかで本当の事を言ってしまったんだろうか。

 仕切り直しとばかりに学はひとつ咳払いをしてから大きく息を吸い込んだ。すると急に眠気がやってきた。目の前がぼんやりとしてくる。

 塩見さんが動いた。塩見さんだけが顔を上げてしゃべり出した。

 

 

 あいつ急に生意気になりよったさかい放課後にちょっと呼び出して痛めつけてやったんや。泳げへんの知っとるし川に突き落としたらおもろいなあと思て橋の上に立たせたんや。でもその前にパンツ脱がして学校の中を走らせたった。ブラバンの前だけ三周や。あいつサックスのミサキにつきまとっとるさかい、そらあかんやろ言うていっぺんみんなでこづいたったんやけどその後も追いかけ回しとったさかいな。自業自得やで。だいたいあいつの言うこと嘘が多いわ。おやじがアメリカに住んでて毎週自家用機で帰ってきてるってだれがそんなこと信じんねんな。そんなんやったらもっとええとこに住んどるやろ。路地の突き当りの平屋とちごて。ほんでおかんはファッションモデルやってるらしいわ。駅前のスーパーでよう見かけるけど全然ちゃうし。半額のもんばっかり買うてるただのおばちゃんや。あいつほんまにええかっこしいのしょうもない奴やで。試験はいつもカンニングしとるしな。逆上がりもできんのにウエアだけはブランドもんや。盗んどるんやけどな。洗いよらへんさかい臭い臭い。そやけど橋の上から突き落としたんは俺ちゃうしな。パンツ脱がせたんは俺やけど突き落としたんは俺ちゃうし。川の真ん中の方までいっておぼれ出したん見たら笑えてきたわ。げぼっげぼっちゅう感じでおぼれとるねんで。必死になっとるさかいよけいにおもしろいがな。最後まで見てたんは俺とミサキやった。あとの奴はしらん。それでそのあと何もしゃべることないさかいそのまま帰ったんや。もうこれ以上思い出されへんわ。遺書みたいないもん残しよるさかいえらい迷惑したわ。そらみんな嘘つくわな。おかげでともだちみんなおらんようになってしもたやないか。どないしてくれんねん。どないしてくれんねん。

 

 

 鈴が鳴っている。中学生くらいの少年が入ってきたような、出て行ったような。

 湯気は消えている。甘苦い香りもなくなっている。みんな一緒に玄関のドアから外へ出て行った。

 学は声をかけられていた。

「お客さん、コーヒーもう一杯いれましょうか」「社長、儲かって儲かってご機嫌さんですね」

 それらには反応しなかったが、「三番さん」と呼ばれた時にはっと我に返った。金縛りが解かれたかのように体全体が緩んで目の前がはっきりした。

 顔を上げるとマスターがこちらを向いている。

そうだった。月見商会へ来ていたのだった。

「いい話でしたね」

 マスターはうなずいていた。

 つられて学もうなずいた。

 みみちゃんもうなずいていた。そちらに向かってもうなずき返した。

 何が起こったんだろう。

うなずきながらも学は訳が分からなかった。

いい話ってなんだ。塩見さんの話じゃないか。だったら塩見さんに注目しろよ。俺の方を見るなよ。俺は何もしゃべってないぞ。

「三番さん、いかがでしたか」

 そう言ってマスターは新しいコーヒーを持ってきた。

 感想なんかあるもんか。今日は人の話を聞きに来たんじゃない。俺の話をしに来たんだ。これからが本番だろう。さあ。

 コーヒーカップを持ち上げ、女房がね、と話し始めた時、塩見さんがごぼごぼと咳をした。

 ごぼごぼごぼ。

 重たく濁った咳だった。店内に響き渡った。

「お客さん」

 マスターが慌てて近づいてきた。

「ちょっと待ってください。せっかくいい話を聞いたのに振り出しに戻さないでください」

 そう言って学の前からコーヒーカップを取り上げようとした。

「まだ湯気が立ってるじゃないか」

 学はカップを取り戻した。

 みみちゃんが必死になって塩見さんの背中をさすっている。そのみみちゃんも顔色が悪くなっていた。ふたりしてカウンターに上体をあずけひくっひくっとけいれんを繰り返している。

マスターは目を腫らして涙を流していた。鼻水も垂れていて顔がぐしゃぐしゃになっている。

「お客さん」

 完全に涙声だった。心からのお願いをしているようだった。

 学はいらついた。今の状況を全く理解できない自分にいらついた。生ぬるくなったコーヒーを一気に飲み干そうとしたが飲めなかった。カップを唇に当て斜めに傾けているのにコーヒーが流れ込んでこないのだ。ひっくり返しても何も落ちて来ない。でも元へ戻すとたしかにコーヒーが注がれている。赤茶けた液体がそこにある。

「なんなんだよ、これは」

 学はマスターをにらみつけた。

「だからお客さん」

「お客さんじゃない、社長だ」

「はい分かりました。だから社長さん」

「社長じゃない。三番だ。三番さんと呼べ。今日は俺の番だろう。俺が話をする日だろう。聞いてくれないのか」

 駄々っ子のように体をひねって、俺の話を聞いてくれと塩見さんとみみちゃんに怒鳴りつけた。

「三番さん、あなたの話は素晴らしかったですよ。堪能いたしました。ほら、塩見さんもみみちゃんもごらんの通り」

「ごらんの通りって咳き込んでるじゃないか。真っ青になってるじゃないか。それに俺はまだ何もしゃべってない。これからだ。これからなんだ」

「いえいえ立派なお話でございました」

 マスターはうなずいている。

 学は首を振った。つられてうなずいてはいけない。これは罠だ。落とし穴だ。

 ちくしょう。でも話し始めたらみんな付いてくるだろう。

 学は両肘をテーブルに乗せててのひらを組み合わせ、女房がいましてね、と始まりを告げた。

「女房がいましてね」

 子供におとぎ話を聞かせるようにゆっくりと、

「女房がいましてね」

 あれ、自分の声でないような気がする。

「女房がいましてね」

 と誰かがしゃべり始めたようだ。

「女房がいましてね」「女房がいましてね」

 続きが出てこなかった。おかしいぞ。ストーリーは出来上がっているはずなのに度忘れしてしまった。女房がどうしたというのだ。

 あせっているうちに頭が痛くなってきた。きりきりと挿し込まれているような痛さだった。

 そうそう、電話してきたのだった。早く金を振り込むよう催促してきたのだ。

 吐き気がした。

 しまった。違う違う。

 唇をなめてスイッチを入れ直した。

 女房は乳がんのため三十五歳の若さで。

「そうなんですよ。女房には切ったら治るって言い続けてました」

 全身がしびれてきた。吐き気もひどくなってきた。おかしいじゃないか。完璧なはずなのに。

マスターは涙顔のままだし塩見さんも激しく咳き込んでいる。みみちゃんも真っ青な顔でけいれんを繰り返している。何より自分の体が悪くなっていくことが信じられなかった。このまま勢いよく話し続ければいいはずなのにしゃべればしゃべるほど頭が痛くなっていきそうな気がした。でももう後戻りはできない。

「一年って早いですね。この一年なにしてたんだろう。泣いてばかりいた気がします。遺影に向かって泣いて、声を思い出して泣いて、口癖を真似して泣いて。一周忌までは大きな熊のぬいぐるみを飾ってやります。毎日あれを抱いて寝てたんです。特に入院してからはずっとそばに置いてました。大丈夫すぐに元気になるからね、心配しないでねって話しかけてたんです。でも覚悟は出来てたんだろうと思います。だんだん食べられなくなってくるんですから分かりますよね。点滴も栄養のためじゃなくて単なる水分補給になってました。気休めですよ。薬を受け入れるだけの体力がなかったんです。それでも最後までがんばりました。つらいなんてひと言も言わずに。……一年って本当に早いですね。憎たらしいほどに早い。僕はこれからどうしたらいいんでしょう。僕はこれから……」

 もうこれ以上は無理だった。学は思い切り顔をしかめてカウンターに額をぶつけた。吐き気をこらえて歯をくいしばったらぎゃしっと音がした。乾ききった舌が喉の奥に詰まり呼吸を妨げた。高速回転のドリルで頭の中が割られていく。手足が勝手に暴れ出す。

 茶褐色の湯気が満ちてくるのを学は意識することができなかった。甘苦い香りに包まれていくのも感じられなかった。ただ用意してきた大嘘をしゃべり切れなかったことがくやまれた。

 俺は三番失格なんだろうか。大嘘のつもりだったのにどこかで本当の事が混じってたんだろうか。

 とろみを帯びた生暖かいものが欲しかった。

 マスター、コーヒーをもう一杯。

 

 

……。

 風が強くなってきた。さきほどから店の看板がしきりに音を立てて揺れている。商店街に人通りはなかった。

いつもと変わらない月曜日の午後。どこからともなく子犬がやってきてシャッターの下りた文具店の前で寝そべったかと思うとすぐにまた起き上がり、軽くしっぽを振りながら路地の奥へと消えて行った。歩きなれたわが町といったふうに軽やかに。

 ビラが一枚風に踊らされてやってきた。長年にわたりご愛顧いただきましたと毛筆で書かれてある。

‘このたび三月末日をもちまして閉店させていただくこととなりました’

セロハンテープで貼られてあったのだろう。四隅がちぎれている。舞う気のない凧みたいによれよれになって消火栓の赤い箱にからみつく。

 洋品店が店を開けていた。それは商売のためではなく、奥の住居へ出入りするためだ。腰の曲がったばあさんが出てきて下を向いたまま近くのゴミ集積場にビニール袋をひとつ置いて戻っていった。

 今度の日曜日はお楽しみ抽選会の日だ。商店街三十周年を祝う唯一のイベント。景品は近々店じまいする予定のふとん屋と金物店が在庫を提供する。子供向けに準備していたなつかしい遊び大集合の企画は直前に取りやめとなった。その日の予定を聞いて回ったところ、ほとんどの子供が参加できないということだった。そもそも子供の数が少ない。

 また一段と風が強くなった。

 とうとう店の看板が倒れた。

 中からマスターが出てきて通りに平行になるように看板の向きを変えた。それから店の前に置かれてある自転車も同じように向きを変えて店に戻った。

「あらもうこんな時間。帰らなくっちゃ」

 カウンターのいつもの席に座っていたみみちゃんがそう言って立ち上がった。

 十五時になっていた。

「ピアノの発表会ってよくあるんですね」

 マスターが声をかける。

「そうなんですよ。この前は教室だけのものでしたけど今回は合同の発表会なんです」

「二年生でしたね」

「ええ。でもシニアクラスに入ってるんです。シニアクラスで作曲の勉強をしているみたい」

「作曲も出来るんですか」

「海をイメージして作ったって言ってたわ。それらしい感じはするけどどうかしら」

「よくできたお嬢ちゃんだもんなあ」

「でも洋服ばかり増えて困っちゃう」

「ねだられるんだ」

「ううん、あたしの」

 ひとつ隣の席に座っていた塩見さんが笑った。

「あんたさては子供の発表会にかこつけて自分の服ばっかり買ってるな」

 眼鏡を鼻の下までずらせて上目づかいにみみちゃんを見た。

「ほとんど病気です」

「そいつはやっかいな病気だ。わたしでは直せんぞ」

「先生は耳鼻科だから鼻炎だけでけっこうです。他の先生にみてもらいます」

「治まったかい」

「ええ。だいぶ良くなりました」

 チケットあったかしらとみみちゃんはレジ横の壁に目をやった。常連客のコーヒーチケットがぶら下げてある。みみ、先生、山田、岸本、桜井、のり平、ひろし。

 マスターはみみちゃんの最後の一枚をちぎって新しい一冊に‘みみ’とマジックペンで書き込んだ。

 塩見さんも最後の一枚になっている。

「わたしもようやく四月いっぱいで引退することになった。あとは息子がやってくれる。ありがたいことだ」

 塩見さんは大きな体をのけぞらせて晴れやかに笑った。

「奥様と世界一周されるんでしょう。うらやましいわ」

「金婚式にはまだ少し早いけど息子がプレゼントしてくれたんだ。ありがたく頂戴するよ」

 そう言って飲みかけのコーヒーに砂糖をひとさじ加えた。

「先生、入れ過ぎです」

 みみちゃんが注意した。

 店内を改装したからといって客層が変わったわけではない。いままで通り常連客が決まった時間にやって来て決まった席に座る。そしておしゃべりを始める。たわいもない世間話だった。飼い犬のこと、駅前再開発のこと、ごみ出しのこと、腰痛のこと。メニューには新しくクラブサンドが加わった。時間がかかりますという通りなかなか出てこない。マスターもおしゃべり好きなので手を休めて話に加わる。コーヒーをお替りさせる作戦だなと嫌味を言われたりしている。

 商店街の代替わりは全く進んでいなかった。打つ手なしの状態。妙案があれば教えて欲しいと言ったのはお寺の新住職だった。毎週日曜日に法話を始めたものの、聞きに来るのは二人か三人。ゼロの日もある。力が入りませんよと愚痴をこぼしていた。みんなどこへいったんだろう、かつてはあんなににぎわっていたのにとひと昔前の流行歌が流れる。

 あ、この歌は止めておきましょうとマスターがCDを入れ替えた。

 みみちゃんがL字型のカウンターのもう一方の端に目をやった。ひとりの若い男がうつぶせになって座っている。気持ちよく眠っているのか気分が悪いのか。

「珍しいお客さんでね」

 マスターが複雑な表情で言った。

「ちゃんと鼻で息してるから大丈夫だ」

 塩見さんが言った。

「いつからここにいるのかしら」

「さあ」

「気が付いたらいてたわよね」

「コーヒー飲みながらぶつぶつ言い始めたんだ」

「奥さんがどうのこうのって」

「違うよ。川でおぼれた話だよ。川でおぼれて助けてくれっていう話」

「朗読の練習?」

「まさか。それじゃ下手すぎる」

「このままでいいの、マスター」

 マスターは仕方がないよねとうなずいた。

「じゃああたしはこれで」

みみちゃんがバッグを手にした。

「発表会のビデオ持ってきてくださいね」

「うん」

「この前のも一緒に」

「分かったわ」

 みみちゃんが入り口のドアに手をかけたその時、

「帰るな」と声がかかった。

「帰るな、俺の話を聞け」

 声の主は上体を起こし、みみちゃんに顔を向けた。

 きゃっ、とみみちゃんはのけぞった。

「おまえたち自分の話ばっかりして俺の話を聞いてないじゃないか。今日は俺の番だろう。聞かずに帰るのか」

「お客さん」

 マスターがおしぼりを差し出した。

「おしぼりなんかいらない。それよりコーヒーのお替りはどうしたんだ。いつまで待たせるんだ」

「ですからお客さん」

「お客さんじゃない。何回言ったら分かるんだ。三番だ。三番さんと呼べ」

 マスターが戸惑っていると、

「俺はその気になってるんだ。早く三番さんと呼んでくれ。始まらないじゃないか」

若い男は勢いよく立ち上がった。そして店内を見回してあれっという表情になった。

壁には真新しいメニューが掛けられてある。飲み物とサンドイッチ、セットメニューもある。ガラス張りの窓からは明るい日射しが差し込んでいる。磨き上げられた床に反射してきらきらとまぶしい。天井は高かった。それが気の遠くなるような高さに感じられた。

何かが違う。いやすべてが違う。

 男は武者震いしながら再び椅子の上へ崩れ落ちた。

 嘘をつくな。

 自分の怒鳴り声が自分自身に跳ね返ってきてさらに崩れ落ちた。

 三番さん。

誰も呼んでくれないのなら自分で呼んでやる。

三番さん、さあどうぞ。

 女房がガンになりまして。

 それでどうしたんだ。

 一年後に死にまして。

 そいつはつらいな

 子供が肺炎になりまして。

 なんだって。

 女房が生まれ変わってコーヒー豆になりまして。子供も生まれ変わって茶褐色のゆげになりまして。

 マスター、塩見さん、みみちゃんの三人に羽交い絞めにされて表へ連れ出された。手足をばたつかせて必死の抵抗を試みるが無駄だった。

 頼むから俺の話を聞いてくれよ。

 泣きが入った。地面を蹴りつける靴音がハプニングコールとなって商店街にこだまする。

 戻してくれ。カウンターに座らせてくれ。耳を貸してくれ。

 店からどんどんと遠ざけられていく。

そっくり返って店の看板を見返した。

 純喫茶「ムーン」

 そこだけが午後の光の中でまぶしく輝いている。

 観念したかのように男の体からすべての力が抜け落ちていった。

 

戻る