波の声

森戸 晶子



 カシャン、とプリントをホッチキスで綴じた時、違和感がした。綴じたはずのプリントにはホッチキス針が刺さっていなかった。針が切れたかな、と中を開いてみると針がなくなったのではなくて奇妙にねじ折れて詰まっていた。取り除こうと爪を立てても、なかなか取り除けない。あいにく手もとにあるホッチキスはその一本だった。ああ嫌だな急いでるのに――そう思った時だった。

「金子せんせい――」

 そんな声がした。女子生徒が一人講師控え室に入ってきた。ひなた、と私は彼女の名を呼んだ。ひなたはこの学習塾で私が担当している生徒だった。

「今日は来るの早いね」

「うん、今日は部活があったから学校から直接塾に来たんだ。一度家に帰るのも面倒くさいし」

 ひなたは体操着姿だった。あー疲れたあ、と言って机の上に鞄を投げ出す。

「ちょっとここで休憩していったら」

「うん、そうする」

 ひなたは冷たい机の天板にぴったりと頬をつけて、気持ちよさそうに目を閉じた。

「日曜日なのにクラブだったんだ」

「うん、最近梅雨で雨ばっかだからあんまり練習ができなかったんだ。今日は久しぶりに晴れたから顧問の先生にしごかれた」

「でも二年生になって、後輩もできたから楽しいんじゃない?」

「それがちょっと微妙。三年生には今まで通り後輩のノリでいったらいいんだけど、一年生には先輩らしいところ見せなくちゃいけないし。あ、でも後輩で可愛い子がいるの。すごく懐いてくれて家にもしょっちゅう来てくれるんだ」

「それいいじゃん」

 そう言うと、ひなたは嬉しそうに笑った。

「今日はA教室で授業をしようか。そろそろ席に座っておいて」

 はあい、とひなたは上機嫌でA教室へ行った。

 それから暫くして、沢岸啓介先生と西田亮先生が部屋に入ってきた。

「ああ金子先生お疲れ様です」

 私の顔を見ると、沢岸先生はそう言って机の上にコンビニの袋を置いた。西田先生は「お疲れでーす」といつも通り軽い調子で言った。

「沢岸先生、それお昼ご飯ですか?」

「はい、やっと空きコマです」

 沢岸先生と西田先生はここの塾の講師だ。

 沢岸先生と西田先生は同じ大学の先輩と後輩だから、普段から仲がいい。沢岸先生は四回生。西田先生は一回生。西田先生は、先週黒かった髪をいきなり明るい色に変えた。服装も変えてみたりして、このところ自分に何が似合うか模索中というかんじだった。生徒に似合わないとからかわれてちょっと西田先生は沈んでいたけれど、たしかに大学一回生とはそういう年ごろだな、と思えてほほえましかった。逆に四回生の沢岸先生は就職活動のため、面接のある日だけ茶色い髪をスプレーで黒く染めて、その日によって髪の色がまちまちだった。

 私は大学を卒業してから昼は食品会社で事務員をし、夜はここでアルバイトをしていた。

「次のコマは金子先生お願いします。僕はちょっと休憩させてもらいます」

「わかりました。ゆっくりしてください」

 まるでリレーのバトンのように私は沢岸先生が持っている生徒ファイルを預かる。沢岸先生はクーラーの下でちょっと溜息をついた。西田先生は今日のスケジュール表を確認している。その時、ちょうどチャイムが鳴った。

 

 授業が終わって駅まで歩いている時、ちょうどから電話がかかってきた。

「もしもし? 来週みんなで会おうっていう話だけど――どう、行けそう?」

「私は大丈夫。ほかの子は? 香織や涼子の予定は合いそう?」

 来週は大学時代の友達と会う約束をしていた。みんなで集まるのは久しぶりだった。

「ん? なんか弥生の声が聞こえにくいんだけど。今なんて言った?」

 知花はそんな声をあげた。

「ああ――」

 私はあたりを見回し、電話のスピーカーを軽く手で覆った。

「波の音だよ。今海岸のほう歩いていて」

 海は少し荒れていた。風の音も結構大きかったからそれで私の声が聞こえづらいのかもしれない。

「何? あんたそんなところ通っているの?」

「駅までちょっと遠回りになるんだけどね。風が気持ちいいからいつもこっち通っている。――で、みんなの予定は合ったのって訊いたんだけど」

「それはオーケー」

「じゃあ、来週みんなに会えるのを楽しみにしてるよ」

 私がそう言うと、

「私も。じゃあまたね、弥生」

 と、知花は応えた。

 

 一人暮らしのアパートに戻ると、母から手紙が届いていた。封筒の厚さに、またか、と私は溜息を吐いた。中には文字がびっしりとつまった便箋が七枚入っていた。手紙には、家を出た私への非難が書いてあった。

 

なぜ家を出ていったのですか。今まで苦労して女手一つで育ててきた私にあなたはなんて酷な仕打ちをするのですか。ひどい裏切りです。こんな目に遭うために私はあなたを産んだわけではありません。あなたは金子家の子とは思えません。父親と同じで本当に薄情な子です。そのあなたの人間性に問題があると私は昔から思っていました……。

 

 母がこういう手紙を書くことは今までもたびたびあった。私の家は母子家庭で、私は母方の祖父母に育てられた。むかしから祖父母との関係は悪く、母は仕事から帰ってくるとしょっちゅうヒステリーを起こして、祖父母に当たった。特に祖母は、いつもどこか母に萎縮しているようだった。

 私は蒸し暑い部屋に空気を通した。昼間、窓からさす日ざしを思いきり吸って暑気が充満したところに、冷たい夜風が吹き抜ける。空の上のほうで風が鳴っている。私は夜の暗がりに沈んだ、遠い山の稜線をながめながら風の音にそっと耳を澄ませた。

 

 

 地下改札口をくぐると、私は近くにあったスターバックスに入った。中では知花がカウンター席で頬杖をついていた。スマートフォンから繋いだイヤホンを耳にはめ、しきりにパネルを指でつついている様子をみると、ゲームをしているようだった。近くに立ってもまったく気づかないので、私は細長いカウンターのテーブルを軽くこぶしでつつき、彼女の隣に回りこんで席に座った。

「びっくりした――」

 私に気づくと、知花はそんな声をあげた。

「弥生も結構早くに着いたんだね」

 余裕を見て家を出たら、待ち合わせ時間よりもずいぶん早くに着いてしまった。それは知花も同じようで、改札口を出たら、たまたま喫茶店で時間をつぶしている彼女の姿が店の窓ガラスから覗いていたのだ。

「うん、まあ早く着いたのは弥生と一緒なんだけど、もうちょっと待たなくちゃいけなくなった。香織はいつも通り遅刻。涼子は電車に遅れが出たって。今メール来た」

「そっか。じゃあなんか軽いものでも食べておくよ。お昼ご飯まだだし」

 私はレジに並んでアボガドのサンドイッチとコーヒーをオーダーし、再び席に戻った。日曜日だからどこも人でいっぱいで、外は雨が降っていたから地下街は尚更混んでいた。知花の隣の席が空いていたのは幸運だった。ふとその足もとに目をやると、カウンターの背の高い椅子の下に、急な雨で濡れた知花の短い折りたたみ傘がなんとなく所在なさそうに立てかけられていた。

「弥生も元気そうでよかった。安心したよ」

 知花は私が高校、大学に通っていたあいだ鬱病だったのを知っている。当時は彼女にもずいぶん心配をかけた。

「最近は体調もだいぶ落ち着いたかな。病院には通って、一応薬は飲まなくちゃいけないけどまあなんとかやってる。知花は? 転職したばっかでしょ。最近どう」

「仕事は慣れてきた。今職場が別のビルに移転することになったから、ちょっと慌ただしいけど。動物園に行きたい。せっかく近くに住んでいるのに」

「動物園?」

「一日中動物をながめて癒やされたい」

「……知花、疲れてる?」

「でも徹カラしたい」

「元気じゃん」

 私たちは顔を見合って笑った。

「ネットショップのほうは?」

「それは順調。まあまあ軌道に乗ってきたかな」

 知花はむかしから手先が器用で、ビーズアクセリーを作るのが上手かった。今は趣味でハンドメイドの小物を売るネットショップをやっていた。

「今売れているのは、やっぱりレジンのスマートフォンケースとかアクセサリーかな」

「レジン?」

「透明樹脂を使ったアクセサリーだよ。シリコンの型の中に、ドライフラワーとかビーズを置いて、その上から透明樹脂を流しこむの。で、UVライトで焼くと固いプラスチックのプレートができる。そういうのをペンダントトップにしたり、ピアスの金具につけるの」

「へえ……」

「そういえば、今日も誘ったんだけど、今日は来れないって」

「由香里、元気なの?」

「まあ、メールでは元気って書いてたけどね。いっぱい絵文字つけて。でも電話に出ないし……」

 それはちょっと危険信号だった。由香里が絵文字を飾りつけたメールだけ寄こして、電話に出ないというのは、誰かと話すのも辛い時だ。由香里は学生のころ、精神科でもらった薬を大量服用して何度もオーバードーズを起こした。救急車で搬送されたこともあった。

「弥生は由香里と話したりしていない?」

「……しばらくはないかな。でも由香里、結婚したんでしょ。家もちょっと遠くなったし。今、忙しいんじゃない?」

 まあ元気だといいんだけど、と知花はつぶやいた。

 

 それからやっと四人全員が揃って、私たちは一緒に食事をした。その後は、知花の希望通り徹夜カラオケになった。ほかの子が眠たくなってきてソファに横になるころになっても、知花は好きなビジュアル系バンドの歌を大きな声で歌い続けていた。知花は好きなグループの曲は全部歌いきってしまって、レパートリーは三巡目に入っていた。シャウトもしていた。歌いながら私にもそれに加わるよう手招きし、マイクを握らせた。それにちょっと涼子たちが目を覚ましたがまた眠ってしまった。

 

 私は由香里のことを思い出していた。

 由香里はやたら「すみません」や「ごめんなさい」をくりかえす子だった。人に対していつも萎縮しているようなところがあって、些細なことですぐ謝る。好きなテレビ番組や本のことに触れるとちょっと顔が明るくなって興味を示すが、それ以外はいつも戸惑うような目をしながら人の話を聞いていて、自分のことは滅多に話さない。知花は気さくだし、場の雰囲気を盛り上げるのがうまかったが、さすがの彼女も由香里の緊張を解くのには苦労していた。

 そんな由香里が母親との関係に悩んでいる、とつぶやいたことがあった。

 それは二回生の春だった。ちょうど新入生歓迎コンパの最中でサークル棟のあちこちから賑やかな歓声が聞こえていた。私は酔いをさますため、少し外に出た。構内にある桜は見頃を迎えていて、散った薄い花びらが黒いアスファルトや側溝の上にたくさん溜まっていた。LEDの街灯がやけにまぶしかった。

 テニスコートの近くに由香里を見つけたのは、その時だった。由香里はベンチに座り、ぼんやりと桜の花びらが混じったぬかるみをスニーカーの先で踏んだりこねたりしていた。

「――どうしたの」

 私は声をかけた。由香里は何も言わなかった。由香里の沈黙が、なにか親しいものを望んでいるようで私もつい隣に腰を下ろした。それからずいぶん経って、由香里は口を開いた。

「……お母さんに色々言われた」

 由香里の家も私と同じ母子家庭だった。由香里とその母親は完全に共依存の状態に陥っていた。由香里は、よく母親が口にするという言葉をぽつぽつとつぶやきだした。

 あなたなんて産まなかったらよかった。

 苦労して育てたのに、こんな子になるなんて本当に甲斐がなかった。もっと頼りがいのあるしっかりした子になると思ってたのに。

 どうしてそんな大学にしか入れなかったの。あなたの友達はみんな馬鹿ばかりじゃない。

 あなたみたいな子を育てていたと思うと、情けなくて仕方がない。私の人生は、本当に最初から最後まで不幸だわ。

 由香里の履いているスニーカーの先に薄い桜の花びらがひたと一枚こぼれ落ちた。それから暫くして、もう一枚別の花びらが降ってきて先に落ちた花びらにぴたりと貼りつき、重なった。

 由香里が言われていることは、私とよく似ていた。

「お母さんは本当に苦労して私を育ててくれたの」

 由香里はそうくりかえした。

「私がちゃんと手助けしなくちゃ、って子供のころからずっと思ってた。今はもう大学生になったんだから、もっとしっかりお母さんを支えられるはずなのに。でも、お母さんに否定されるたび、自分が本当に駄目な人間で、どうしようもない存在のように思えてくる。でもそれじゃいけないと思って、自分を立て直すのだけど、いつもそんなに長く保たないの。すぐに――ぐしゃぐしゃに潰れてしまう」

 由香里の声は、少し大きくなったり、かと思えば消え入りそうになったり、まるで通り雨のようだった。

「……別に私たちは手をあげられたわけじゃない。しっかり育ててもらって、女手一つで大学まで出してもらったんだよ。お母さんにはもっと感謝しなくちゃいけない」

 それなのになんでこんなに辛いんだろう、と由香里はつぶやいた。

 女手一つで。その言葉が私たちを縛る。何不自由なく育ててもらって、教育までつけてくれたのに、そのうえ何か言うなんて間違っている。贅沢な事だ。だから悲しいと言えない。母親の言葉に傷ついているなんて言えない。

 ――このあいだテレビのドキュメンタリーで母子家庭で育った子が出てきたの。女手一つで育ててくれたお母さんに泣きながら「ありがとう」って言っていたわよ。あんな子が羨ましくてしかたがない。弥生、やっぱりあんたの性格はおかしいわ。

 いつのまにか由香里は嗚咽混じりになってつぶやいた。

「お母さんも今まで大変だったんだ。きっと寂しいんだ」

「……母親の言葉なんて気にしなくていいよ。由香里は由香里でしょ」

 由香里とここまで踏みこんだ会話をするのは初めてだった。由香里の家が、うちと似たようなものだというのは知っていたけれど、だからこそ母親の話は避けてきた。同じ傷をべたべた舐めあうのはよくない。いつも私は由香里と他愛ない話をしながら、由香里との距離を慎重に測っていた。

「それで、弥生はもうお母さんに期待しなくなったの?」

 それは見捨てたの、と言われているのと同じだった。

「そうだよ。子供のときみたいに、認められたいとか期待しない。母親が言うように本当に自分がどうしようもない人間だったとしても、精神的な足場を自分の力でしっかり築いて、ちゃんと生きていかなくちゃいけない」

 それでも、と由香里はうつむいた。

「やっぱり、私はお母さんに愛されたい……」

 そんな声が聞こえた。

 ――私、弥生のこと苦労して産んだのに、やっぱり産まなければよかったかな。

 私はそう母があどけなく首をひねった時のことを思い出した。産まなきゃよかったなんてよくある言葉だ。でも恨めしく言われるならわかるが、まるで子供みたいな声で言われたのが、今でも私にはわからなかった。

 

 

 カシャン、と宿題用のプリントを綴じた時、ひなたの顔が輝いた。

「わあ、このホッチキスの針すごく可愛い。色がついてるー」

 ひなたは赤いホッチキスの針を指で触り、プリントをかざした。ホッチキスを買い換えるついでに文房具店で針も探した。すると、赤に青、黄色に緑と色がついたカラフルなホッチキス針が見つかったのだ。ひなたが喜ぶと思って買ってみた。ひなたはこういう可愛い文房具が大好きだ。英語のノートも模様がついたマスキングテープを使ってまとめたり、筆箱からはきれいなペンがざらざらと出てくる。宿題も、キャラクター物の付箋を貼って印をつけておけば、結構喜んでやってくれる。

「ありがとう、先生」

「チャイム鳴るまであともう十分。残りの時間は宿題をやろうか」

 うん、とひなたは答えてプリントに目を落とした。

 

 塾からの帰り道、私はまた遠回りして海岸沿いを通って駅まで歩いた。松並木から落ちた松かさが歩道まで転がってきていて、それが時々サンダルの爪先に当たる。一度観光バスとすれ違ったけれど、その大きなエンジン音も、車が遠のく前に海鳴りが消してしまう。

 祖父も祖母も私が高校生のときに亡くなった。祖父も祖母も冷たい人だったと母は恨んでいたけれど、私には優しかった。祖母は亡くなる数年前から鬱病を患っていて、ひどく具合が悪かった。抗鬱薬がほとんど効かなくて、強い薬が処方されていた。その副作用でよく高熱を出し、引きつけを起こしていた。

 夜、病院で祖母のそばにいたことをよく覚えている。時々引きつけがやってきて、そのとき私は祖母の震える手をきつく握ることしかできなかった。

 祖母は心不全で亡くなった。たびたび起こる引きつけで心臓が弱っていたという話だった。祖父もその二年後、亡くなった。

 本当に何もできなかったな、と思う。

 

 

 あちこちで台風接近を知らせるアラートが鳴っていた。塾のパソコンからも生徒の携帯からもいっせいに聞こえてくる。

「すごーい。いっぱい警報鳴ってる」

 ひなたはそんな声を上げた。七月に入ってしばらくした頃、大型の台風が来た。ひなたはシャープペンシルでブラインドをつつくようにして、外を窺い見ていた。横殴りの雨が教室の窓を叩いていた。夕方はまだ警報が出てなかったから塾を開けることになったが、台風は思いのほか足が速かった。大荒れになってきた。

 この時間、私はひなたとその妹の授業を見ていた。

「二人ともお母さんが車で迎えに来てくれるの?」

「うん」

 台風の中でも保護者に車で送ってもらって、塾にやってくる生徒は多い。いつも夜になると生徒を迎えにきた親の車が塾の前には並ぶが、今日は特に台数が多い。教室に残っている生徒に確認したら、全員家族が自動車で迎えにきてくれるという話だった。

「なら大丈夫かな……。じゃあチャイムが鳴るまで授業続けようか」

 ひなたはうなずいて英語の問題集に取り組んだ。中二生のひなたは英語、妹のはるかは一年生で数学を学んでいる。はるかはすいすい数学の問題を解いている。むかし珠算をやっていたらしく、計算するとき手もとで素早くそろばんを弾く真似をしている。

 

 授業が終わって、教室長から電話があった。

「生徒は全部帰しました。帰れないのは講師だけです。まあそのうち電車も動くと思いますけど……」

 そう言って私は電話を切り、沢岸先生と西田先生の顔を見た。

「教室長も足止めされていて、移動できないそうです」

 教室長は二校兼任だから、今日はこちらではなく違う校舎に行っている。塾に残されたのは私と、沢岸先生と西田先生だった。台風の影響で三十分ほど前から電車が止まってしまった。送り迎えのある生徒や、近所に住んでいる講師は帰れたものの、電車を利用する私たちは帰れなくなった。

「仕方がないですね。運転再開まで待ちましょう」

 沢岸先生はそう言いながら、パソコンで交通情報を確認している。

「えーマジすか。お腹空きました……沢岸先輩、もうピザでも取りましょう」

「この雨の中、出前しないといけないピザ屋の身にもなれよ」

「冗談で言ったのに、なんで笑わないんですか。沢岸先輩にスルーされたら地味にこたえますね」

「コンビニで何か買ってきます?」

 と、私が訊くと、

「いやここからコンビニまでも結構距離があるし、びしょ濡れになりますよ」

 

 夜の十一時を過ぎても、運転再開のめどは立たなかった。

 さすがにふたりとも手持ち無沙汰になってきて、テキストを開いて予習をしていた。私も予習をしたり、生徒ファイルの整理をする。コココ、と冷房機の羽根が自分の吐き出す風に小さく震えている。ときどき講師室のパソコンから鳴るアラートに、沢岸先生がちょっと目を上げる。

「そういえば沢岸先輩、就職は決まったんですか」

 ふと西田先生が口を開いた。

「決まったよ。やっと就活が終わってほっとしてる」

「内定記念に先輩の下宿にあるコーヒーメーカーくださいよ」

「どうしてお前にやらなくちゃいけないんだよ」

 コーヒー中毒から抜けるいい機会ですよ、なんて西田先生は笑っている。

 塾の講師は学生のアルバイトがほとんどだから、入れ替わりも激しい。もちろん生徒も受験が終われば塾には来なくなるけれど、講師のほうも毎年誰かが社会人になって卒業してゆく。私たちは生徒と一緒に、四回生の先生も送り出すことになる。特にこの教室では大学を卒業して塾を辞める先生には、ほかの講師が寄せ書きを贈る。

「沢岸先生が居なくなれば寂しくなりますね。先生は一回生のころからここにいたんでしょう?」

「そうですね。ずいぶん長くお世話になりました」

 私は整理しかけていた生徒ファイルを見た。背の高いカラーボックスの上二段は中三生の生徒ファイルで埋まっている。三月になれば、この生徒ファイルがごっそりなくなる。

 あ、そういえば、と沢岸先生が言った。

「金子先生は西中学校の二年生で、国語って担当してます?」

「木曜日に一人みてます」

「じゃあ注意しておいたほうがいいです。僕去年、西中学校の生徒をみていて次の試験の範囲が平家物語だったんですけど、西中の先生は教科書に載っていないところをテストに出すんですよ。なんか、教科書に載っているところは面白くないって言って」

「好みですよねー。俺は木曽義仲の最期っていいと思うんですけど」

 教科書に載っているのは平家物語の冒頭部分と木曽義仲の最期で、だいたいの中学校はそのどちらかが国語のテストに出る。

「ああ、そういえば西中学校の国語の先生ってちょっと変わってて面白い先生ですよね」

 西中学校の国語の先生にはそういう印象がある。生徒も面白い先生だと言っていたけれど、テストの作り方や配布されたプリントがいつも凝っていて、ユニークで熱心な先生だというかんじがした。

「だから、平家物語のほかの部分もどういう話があるのか、生徒に説明しておいたほうがいいんじゃないかって西田先生と話していたんです。源氏物語でも、似たようなことがあったんですよね。源氏物語って高校じゃ必ず習うし、教科書には冒頭が載っていますけど、センター入試にも出たことがあるんです。それが誰も知らないようなマイナーなところで」

 と、沢岸先生が苦笑した。

「そりゃあセンターに有名な場面が出たら、問題が解きやすくなるからダメじゃないですかー」

 そう西田先生が声をあげる。

「どこが出たんですか?」

 私は沢岸先生にたずねた。

「『真木柱』って帖ですね」

「先輩、それどこですか」

「源氏物語の中盤にある巻だよ」

 沢岸先生がそう言うと、「あれだけ長い話で中盤って、アバウトすぎでしょ」と西田先生がつっこんだ。

「平家物語だって同じですよ。どういう話か生徒に説明するっていっても長いじゃないですか。かいつまんで話すの難しいです」

 西田先生が小さく溜息をついた。

「センター入試とは事情が違うんだから、そんなにマイナーな場面は出ないと思う。木曽義仲よりも面白くて読みごたえのあるところだろ。で、中学生でもそこそこわかる難易度の文だから……」

 と、沢岸先生が言う。それで、三人でテストに出そうな場面を話した。

「敦盛の最期も、別の教科書に載ってましたよね」

「扇の的のところじゃないですか。那須与一」

「あーそれかも。華やかだし、面白いし」

 そのあいだに、またアラートが鳴った。まだ電車動いてませんね、と沢岸先生がディスプレイを覗く。

「もう今は早く電車が動くように納経したいです」

 西田先生がまた微妙に笑えるか笑えないかわからないような冗談を言った。私はちょっと笑ったけれど、沢岸先生はスルーだった。

 

 電車が動き出したのは、それからしばらく経ってからだった。家に帰って携帯電話を確認すると、知花からメールが入っていた。

 ――電車台風で止まってるー! オワタ/(^o^)/

 そんな軽い言葉のあと、今電話できないか、と書いてあった。何か話しにくいことでもあるのかな、と思った。さすがにオワタははしゃぎすぎていて、ふだんの知花のメールのノリじゃない。私は知花に電話をかけた。

「こっちはまだ電車が止まっていて、帰れないよ。もうネットカフェにでも泊まろうかと思ってる」

 知花は疲れた声でそう言った。

「大変だね。お疲れ」

「……あのさ、弥生。由香里のことなんだけど」

「由香里がどうしたの?」

「また、オーバードーズをやったらしい。……病院に救急搬送されたって」

「え?」

 私は息をのんだ。

 知花の話では、由香里は学生の時と同じように大量の睡眠薬と安定剤を飲んだらしい。幸い胃洗浄が早かったから、命に関わるところまではいかなかった。入院自体も数日ですむ。

 ――自分が本当に駄目な人間で、どうしようもない存在のように思えてくる。でもそれじゃいけないと思って、自分を立て直すのだけど、いつもそんなに長く保たないの。すぐに――ぐしゃぐしゃに潰れてしまう。

 学生のころ、由香里が言っていた言葉を思い出す。あの子はまだ、自分を立て直せていないのだろうか。

「弥生は、由香里から何か聞いていない? 悩みとか……」

「私は聞いていないよ。……というか、実は卒業してからほとんど連絡は取りあってなかった」

 悩みがあっても、私には一番言いたくなかったと思う。私はそう口にしかけて、思いとどまった。

「私たち、学生のときは仲よかったのに」

 知花がそう寂しそうにつぶやいた。

「……ねえ、弥生は大丈夫? 由香里みたいに思ってないよね」

「大丈夫だよ」

 そう言いながら、私もちゃんと立て直しができているのだろうか、と思った。

 一人暮らしの部屋で、ときどき母の言葉が蘇る。

 薄情な子、薄情な子――と何度も言われた。あなたみたいな子は誰からも信用されないし、そのうちみんな離れていってしまうに決まっている。孫か養子が欲しいわ。今度はちゃんとね、小さいころから私立の一貫校に入れて育てるの。失敗しないように。

 高校生のとき、地元の進学校に合格したものの、途中で鬱病になって勉強が立ち後れてしまった。私にとってはその高校に合格するのも、授業についてゆくのも決して楽なことじゃなかった。それから母は、しきりに孫か養子が欲しいと私に言うようになった。孫か養子か、と言う時もやっぱり母は子供みたいに無邪気にくりかえすのだった。

 ――私、中学のあいだちゃんと勉強したのに。お母さんが希望していた高校に受かったじゃない。どうしてそんなことを言うの? 鬱だってなりたくてなったわけじゃないのに!

 あのときそう叫びたかったけれど、できなかった。

 何かを選び取ろうとするとき、勇気のいることをするとき、決まって母の言葉が思い浮かぶ。家を出て、ずっと離れた場所に住んでいるのに、気がつけばあの言葉たちに足を絡めとられている。

 本当は私も、これまでの自分なんて消えてしまえばいいと思っている。できるのなら、今からでも別人みたいになって幸せになりたかった。精神的な足場を自分の力でしっかり築いて、ちゃんと生きていかなくちゃいけない――由香里にそう偉そうに言ったくせに、今は足場を築きたいんじゃなくて更地にしたいと思っている。

 大学生のとき、私は母親の言葉なんて気にしなくていい、由香里は由香里でしょ、とあの子に言った。まるで自分が由香里より一歩先を行っているようにそうとなえたけれど、本当はベンチで泣いていた由香里も私も差はなかった。きっと由香里は私を見るとき、鏡でも覗いている気分になっていたのだろう。だから、由香里は大学を卒業してから私とは連絡を取らないようになり、疎遠になった。あの子はあの子なりに幸せになろうと私とは違う形で舵を切り、結婚したのだろう。

「大丈夫だから。ありがとう、知花」

 私はそう言った。

 

 授業が終わって講師室に入ろうとすると、その入り口でひなたが通せんぼした。

「ひなた、通して」

「やだよー」

 ひなたはにやにやしながら、こちらの反応をうかがっている。私がどんな行動に出るのか、楽しそうに待っている。

「じゃあ、こうしてやる!」

 私はひなたに体をぶつけた。するとひなたも、きゃーきゃー言いながら体をぶつけてくる。そうして私たちはしばらく押しくらまんじゅうをしていた。

「ねえ、そういえば先生。今日神社で何かあるのかな?」

「神社?」

「なんかね、塾にくるとき神社から太鼓の音がしてた。あとお経みたいな声も」

「神社でお経? 何だろう」

「ひなたー、外にお母さんのお迎え来てるぞ」

 そのとき沢岸先生がやってきて、ひなたに声をかけた。

 

 今日は早めのコマで上がりだった。ちょうど沢岸先生と西田先生も同じ時間に帰るから、二人と一緒に駅まで歩いた。

 空に白い月が昇っている。月の右半分に淡い雲がかかっていて少し朧だが、満月だからそれでも十分明るかった。昼のあいだ雨が降って、アスファルトの道は濡れている。そこに街灯の光が差し、通りはまるで川みたいに薄く光ってそれが坂の上まで続いている。

「このあいだの台風は大変でしたね。ふたりはちゃんと家に帰れました?」

 私は沢岸先生と西田先生に訊いた。

「はい、なんとか。家に着くまでずいぶん時間がかかってしまいましたが」

「俺もです。ほんと災難でしたよねー」

 私たちは世間話をしながら、駅までの道を歩いた。住宅街を抜けて神社の前まできたときだった。カンッ、と鋭い音がした。もう一度。カン、カン。そのあいだに「ヤーッ!」と叫び声がした。それから笛の音。

「あれ、何でしょうね。夕方ここを通ったときも聞こえたんですけど」

 西田先生が言った。そういえばひなたも似たことを言っていたな、と私は思い出した。

「あ、これじゃないですか」

 私は近くの店に貼ってあったポスターを指さした。観月能、と大きく書かれている。催しがあるのは今日の日付で、場所は神社の境内だった。

「沢岸先輩、ちょっと覗いていきません? 夜店とか出てないですかね」

「夜店は出てないと思う。ていうかこれ、祭りとは違うし。でもまあ、寄っていこうか」

 西田先生は能といってもピンときていないようだったが、沢岸先生が意外に乗り気だった。

「金子先生はどうします?」

「ああ……じゃあ行きましょうか」

 

 いつもは参道以外何もない社殿の前に、能舞台ができていた。松の絵を描いた鏡板も屋根もない、本舞台と橋掛りだけ簡単なものだったが、周りで篝火が明々と燃えていた。舞台の前にパイプ椅子が置かれていて、客席になっている。人も結構集まっていた。私たちは席には座らず、とりあえず後ろのほうに立って舞台を見た。

 カン、と大鼓が鳴る。「ヤッ、ハッ」と黒紋付きに袴をはいた奏者が叫びながら拍子を刻んでいる。

 その前で、能面をつけたシテが踊っていた。摺り足で舞台を静かに進んでいたかと思うと、長い袖を振るい、扇をかざして素早く回る。そうして床を踏み鳴らしたとき、とても大きな音がした。足踏みの音は鼓よりも大きくて、張りつめた神社の空気が底から震えたような気がした。

 白い能面が、篝火の炎に照らされてオレンジ色に見える。扇を持った手がゆったりと上がり、面の前でふっと制止したとき、一緒に鼓の音もやんだ。さっきまでさらさらと揺れていた金色の冠の飾りも凍りついたみたいに静かになった。その中で、紫色の装束の袖だけがゆるく夜風になびいていた。

 低い地謡が流れだす。シテがまた舞い始める。扇に塗られた金泥が、体の向きを変えるたびに篝火の光を弾いたり、逆に影の中に入ったりして目まぐるしく色を変えた。

 

 むらさき匂う袂かな……

 

 ひなたがお経と言ったのは地謡だったのか。謡の言葉は難しいが、しばらく耳を傾けているとだんだん聞き取れるようになってきた。

「あれ、今なんか『桐壺』って歌ってませんでしたか?」

 私はふと口を開いた。そう思っているうちに、『箒木』や『夕顔』といった言葉も耳に飛びこんできた。

「これ『源氏供養』ですね。たぶん、光源氏を供養するとかいう話だったと思います。しばらく聞いていたら、『桐壺』から『夢浮橋』までの五十四帖の巻名が謡の言葉に出てきますよ」

 と、私の隣に立っていた沢岸先生が言った。

「『夕顔』とか『葵』とかですか? 全部?」

「はい。順番に歌詞に織り込まれているんですよ」

「……沢岸先生、詳しいんですね」

「小学生のころ、公民館で子供向けの謡曲教室をやっていて、通っていたことがあるんです。家の近くに謡の先生が住んでいて、まあ近所づきあいで教室に習いにいっていたんです」

 

 花散里に住むとても……

 明石の浦に いつまでもありなん

 ただ蓬生の宿ながら 菩提の道を願うべし

 

 沢岸先生の言う通り、源氏物語の各巻の名前が歌詞になっている。すごいな、と私は思った。現代の歌と一緒で、曲にならないといけないから使う言葉の音数が限られている。それなのに次々と帖の名前が出てきて、しかもちゃんと繋がりのある文になっていた。言葉が節にのって、夜の空気に流れだしてゆく。

 

 七宝荘厳の 真木柱のもとに行かん

 梅が枝の匂いに 移る我がこころ

 

 ――きれいだ、と思った。

 言葉が降りかかってくる。霰(あられ)か雪みたいに。『花散里』『明石』『澪標』『蓬生』『真木柱』『梅が枝』……源氏物語の帖の名前が、さらさらと滑り落ちてくる。それを繋ぐほかの言葉の響きも耳に心地良かった。謡の低く、張りのある声が穏やかな沖の波のようにゆるくうねり押し寄せてくる。余韻はまるで空気を押し刻むみたいにゆっくりと闇に沈んでいった。

 

 夢の浮橋を打ち渡り 身の来迎を願うべし……

 

 ――別に私たちは手をあげられたわけじゃない。それなのに、なんでこんなに辛いんだろう……

 今にも消え入りそうな声でつぶやいた由香里を思い出す。私たちを縛っているのは言葉だ。

 だったら、何もおびえることはない。もっと美しい言葉だって、世の中にはあふれている。耳を傾けていれば、それが聞き取れるはずだ。

 

 

「あーあ、弥生の家の近くは海が綺麗だって言うから泳げると思ってたのに」

 知花は堤防の上に立って、つまならそうに言った。

「来る時期が悪すぎる。お盆が過ぎたらくらげが出るの。海なんかに入ったらあとで足がひりひりして眠れないよ」

浜にはゼリーのような大量のくらげが打ち上げられていた。波がうねるたび、丸いくらげの体が揺れて水玉模様みたいに海面に浮き上がる。見るからにやばい。知花が海を見たいと言って私の家に遊びにきた。だが、海で泳ぐ気でいたとは思わなかった。

「あんたのところって、本当に田舎で何もないよね……。なんか娯楽施設とかないの」

「カラオケルームくらいしかないよ」

「じゃあもう徹カラしかないな」

 またビジュアル系バンドの曲を歌ってシャウトし続けるのかと思ったが、まあそれもいい。私も今日は思いきり歌おう。

「由香里の様子はどうなの?」

 私は知花に尋ねた。

「旦那の話だと、容態は悪くないって。ねえ弥生、お見舞いとか行かない?」

「……行かないほうがいいんじゃないかな。まだ今は。旦那に任せてちょっと様子を見たら」

「うん、まあ……そうかもしれないね。気になるけど、しかたがないな」

「由香里の旦那って、いい人?」

 私はよく知らない。

「いい人だと思うよ」

 と、知花は言った。

 じゃあ由香里も少しずつ変わっていけるだろうか。そんなことを思う。

 私も堤防の上にのぼって海をながめやった。知花はやっぱり我慢しきれずに浜に下りている。

 ――弥生は薄情な人間じゃないよ。いいやつだよ! 私はそう思ってるし、たぶんみんなも同じだよ。

 大学の時、そうはっきり私に言ってくれたのは知花だった。

「そうだ、弥生にこれあげる。私が作った。ネットショップの売り物だけど」

 知花は戻ってくると、そう言って私にリボンを結んだギフトバッグを渡した。中に入っていたのはストラップだった。

「あ、これがレジン?」

 ストラップの先には楕円形の透明なプレートがついている。中には一輪だけ、黄色いドライフラワーが閉じこめられていた。縁をつまむように持つと、ちょうど透明なところだけ日に透けて、ドライフラワーの影がジーンズの膝に落ちた。

「氷みたいだね」

 と、私は言った。

「まあ作り方は似たようなものだしね。弥生は黄色ってイメージがあるから、ちょうどいいかなと」

「私って、そういうイメージなんだ」

「色が悪くなったり、金具が壊れても、弥生がいいならいくらでも作ってあげる。在庫余ってるし」

 売れ残りかよ、と言ったら「さすがにそれは冗談だよ。ちゃんと作りました」と知花は笑った。

「ありがとう」

 知花はまた堤防の上に腰を下ろして、砂まみれになったスニーカーを脱いではたいた。私はちょっと磯臭い風を吸って、レジンを手の中で転がした。

 

(作中の歌詞は謡曲『源氏供養』から引用)

 

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