祭の季節が今年もやってくる。九月の祭礼に向けて青年団の走りこみが始まった。夕暮れの風にのって届く囃子の調子はまだ硬い。鳴り物と呼ばれる甲高い鐘の音と太鼓、笛のきざむ音色は、祭好きでなくても騒ぐものを感じさせる。
もう、そんな季節か、路地を走り去る青年団の男たちの後ろ姿を奈々緒は見送った。高校生までは待ち遠しかった祭も、大したイベントではなくなって久しい。地元の田舎臭さを敬遠していた時期もあったが、今はその気持ちさえもひと巡りしてしまった。去年、数年ぶりに見た、だんじりを曳く法被姿の男たちは昔と変わらず格好よかった。
「まじめにせえや」
野太い声が響いた。青年団の一群で、年長と覚しき男、それでも奈々緒の三十歳という年齢よりも五歳以上は年若いだろうか――が、茶髪の若い男を怒鳴りつけていた。「すみません」
茶髪の男はすっかりうなだれている。自分が謝られた訳でもないのに、胸がすっと晴れていくのを感じた。原因はわかっている。今日の玲子を思い浮かべた。
「じゃあ、なんでこの数字がでたんかな」
奈々緒の問いかけに、眉間に皺をよせ、ありえないとばかりに首を傾けた玲子は書類をじっと見つめている。
「でも、ちゃんとやりました」
もうこの問答が三ヶ月前から何度も繰り返されていた。伝票集計のただの計算間違いだとすぐわかったが、玲子の教育係としては、やり過ごすわけにはいかない。何度も同じような間違いを繰り返しているのだ。聞かない上に、間違いを認めたがらない。そのため同じような間違いを繰り返すのだった。腹立たしさを通り越えて不思議だった。
「もう、ええわ。今度から気をつけて」
根負けして玲子の手から書類を抜き取った。無言で頷いているのを見て力が抜ける。
「返事は言葉に出して伝えた方がええよ。私だからまだええけど、他の目上の人だと失礼やし誤解されるで」
無意識なのか意識的なのか今度は深く頷いてみせた。
玲0子は親会社の社長の娘で、系列の子会社である奈々緒の会社に今年の春から新入社員として入社してきていた。女子社員の誰もが拍子抜けするほど、社長令嬢としては地味だった。化粧気がないせいもあるが、口数も少なくめったに笑わない。その人を寄せ付けないような雰囲気が一ヶ月も経たない内に皆の好奇心を薄れさせた。面と向かって口にはしないが、社長令嬢というやっかいな荷物を背負い込んだ奈々緒を憐れんでいるようだった。また、掛け声が聞こえてきた。
「そーりゃあ、そーりゃあ」
青年団の後ろを歩きながら、大きなため息をついた。これから先のことを思うと、不穏な心持ちがしてしょうがなかった。
翌日も奈々緒は玲子につきっきりで午前中を過ごした。頭が痛くなってきて少し早目にランチに訪れたはずが、社員食堂は埋まりかけている。同期の里美の姿を見つけると、空いていた隣に腰を下ろした。
「お疲れ」
「おっ、今日は早いやん」
里美は右手の箸を挨拶するみたいに振り上げた。
「まあね」
テーブルに置かれたスマートフォンには、旅行会社のサイトが表示されている。
「旅行?」
「行きたいなあと思って。九月の連休って何するん」
「まだ決めてへんわ」
「私なんか、このままやと休み返上になるかもしれへん。ありえへんで、ほんま」
里美は、憎々しげに箸を豚カツに刺した。里美がいる営業は、年中忙しい上に先月から欠員が出ていた。後輩が先月から産休に入っている。この後輩と里美は、日頃からあまり馬が合わなかったのだが、決定的な問題はやはり後輩の方にあるようだった。入社一年もたたない内に産休、育休と一年ほど休み、復帰したのだが、季節がひと巡りすると、また産休という大胆なことをやってのけて、営業部全員を驚かせた。産休に入る直前、後輩に仕事を続ける気があるのかこっそり確認したところ、「子育てだけだと息が詰まるし、ずっと仕事を続けていくために大学を出ましたからね」と言い放ち、膨らんだお腹を抱えて去っていったという。後輩は理解不能だが、そんな社員を人員に数えて補充しない部長が一番理解不能だと里美は怒っていた。
「一年て早いよなあ。また祭がくるわ」
「あ、奈々緒のとこ、だんじり祭だっけ」
里美が、箸で指してきた。
「去年ひさびさに行った。もうさすがに毎年は行かへんけど、年々人出が多くなって六十万人やで」
「すごいなあ。一回どんな感じか見てみたいなあ」
「別に案内してもええよ」
奈々緒は答えながら、視界にお盆を手に席を探してまごまごしている玲子の姿を認めた。十二時過ぎということもあって、社員食堂はほぼ満席だ。こちらに気づいていないし、声をかけるつもりはなかった。同期の一人ぐらい見つかるだろう。一日つきっきりなのだ。里美じゃないが、玲子も理解不能でうんざりしていた。残っている味噌汁を飲み干した。
「ちょっと珈琲買ってくるわ」
そう言って席を立った里美が玲子も一緒に連れて戻ってきた。玲子はお疲れ様ですとつぶやくと里美の前に腰を下ろした。里美は社長令嬢に興味があるらしく、日頃社長のことを何と呼んでいるのかなど、どうでもいいような質問を玲子にして、普通ですと素っ気なく返されている。「そしたら、だんじり祭に行くか何人かに声かけてみようかな」
里美はそう言うと珈琲を啜った。
話の内容がわからない玲子がじっと見ている。奈々緒は仕方なく聞いた。
「九月に私の地元の岸和田のだんじり祭に行こうかって話。良かったら来る?」
断られる前提の質問だった。玲子は箸を置いて考える表情を浮かべた後、きっぱりと答えた。
「行けたら行きます」
里美が意味ありげな笑みを浮かべている。奈々緒は言葉を継ぐ気にもならず黙ったが、玲子はおかまいなしに悠々とハンバーグを咀嚼している。胃の辺りが重くなった気がして奈々緒は腹をさすった。
それから一ヶ月が経過し、盆休みを明日に控えて、奈々緒は一日仕事に追われていた。必死にパソコンの画面に伝票を打ち込むのを尻目に、玲子は涼しげな表情で与えられたいつもの仕事をこなしている。本当は手伝ってほしいが、教える労力や確認の作業を考えると、結局自分でこなしてしまう。月初めや月末の忙しい時でも、玲子から手伝いましょうかの声かけはなかった。頼んだ仕事はするがそれ以上はしない。決してわざとではなく、思いつかない性格なのだということはこの数ヶ月でわかったが、これから先のことを考えると気が重くなる。腕時計を確認すると、五時を回っていた。なんとか就業時間の六時には終るだろうか。奈々緒を見ている玲子と視線がぶつかった。
「どうしたん。なにかわからないとこあった」
「私、時間内には終りますけど。何かそっち、大丈夫なんですか」
「う、うん。なんとか」
奈々緒は画面に視線を戻した。玲子の言葉を反芻していると沸々と怒りがこみ上げてきた。そっちってなんや、なんで上目線やねん。日常業務の一部しかやってないのに、まるで奈々緒が仕事が遅くて足を引っ張ってるみたいないい草だった。キーボードを打つ手が抑えている怒りで震えてきた。勢いよく椅子から立ち上がると、玲子が驚いた様子で見つめている。奈々緒は無言で部屋を出て行った。
「おわったあ」
思わず奈々緒は声を上げていた。時計を見ると七時を少し過ぎている。玲子は六時ぴったりに帰してやった。精一杯の嫌味のつもりだったが、お先ですの一言でさっさと帰ってしまった。パソコンの電源を落として、机周りを片付けていると何気なく玲子の机が視界に入った。私物を一切置かないはずの机の上に何かあるようだった。首を伸ばして玲子の机の上を見るとスマートフォンがあった。必要であれば会社にとりに戻るだろう。椅子を引いて立ち上がると、鞄を手に出口へと向かっていく。明日から五連休か。ため息を一つ吐き出すと、奈々緒は踵を返し、玲子の机のスマートフォンを乱暴に取り上げた。
でっかい家。
帝塚山にある玲子の家の前まで来ていた。昨日の晩に自宅に電話を入れると、玲子は帰宅途中だったのか不在だった。上品そうな玲子の母に気後れして、明日届けるとつい口が滑ってしまった。申し訳ないと言いながらも取りに行かせる、後日でいいとは言わなかった。奈々緒は気が重かったが、ちょうど出かけるついでもあるし約束してしまった自分が悪いと諦めた。それにしてもと、玲子の家を見上げた。でかいなあ。煉瓦造りの赤味を帯びた外壁に大小の出窓が並んでいる。屋根から塔屋が突き出た珍しい造りで、さながら私設ミュージアムのような雰囲気だった。奈々緒は咳払いをひとつするとインターホンを押した。
通された応接間は、毛足の長い絨毯や巨大な花瓶、印象派の風景画が飾られていて、映画のセットのように完璧な空間だった。家具はアンティーク調で統一されている。この深く沈み込むような皮のソファは一体いくらするんだろうと考えると、奈々緒は居心地が悪くて仕方なかった。顔を上げて深呼吸をしてみる。高い位置にあるシャンデリアの光が目を射った。扉を軽く叩く音がして、先ほど出迎えてくれた和装の玲子の母が入ってきた。玲子の印象とは反対に目鼻立ちのはっきりした化粧映えのする顔をしている。
「どうぞ。お口にあうかわかりませんが」
奈々緒の前にケーキと珈琲を置いた。
「お気を遣わせてすみません。いただきます。玲子さんは」
「もう参りますから」
立ち去る気配がない。歯の裏に張り付いてくる濃厚なガトーショコラを口の中でもてあましながら、話の糸口を考えていた。部屋には写真がたくさん飾られている。玲子かと思って見ると、一、二枚はそのようだったが、ほとんどは別の綺麗な、華やかという言葉がしっくりくる女性のものばかりだった。玲子には確か姉が一人いるはずだ。もともと口数は多くないため、家族に関してもほとんど話さなかったが。並べられたトロフィーや額に入って飾られた賞状が目に入る。名前を確認しようと目を凝らしていると、玲子の母が軽く頷いた。
「あのトロフィーや賞状は全部、玲子の姉のさくらのものなんですよ。あのトロフィーは、テニス大会で優勝したものでしょ。あの記念品は、大学の卒業式で答辞を読んだ時のものだったかしら」
喜々として話し続けている。
「あれ、玲子さんですよね」
奈々緒は写真を指差した。和服姿の玲子が椅子に腰かけていた。
「ああ。いつのかしら」
それだけで、玲子の母は口を閉じてしまった。
「隣の写真ね、さくらの着物姿、綺麗でしょ。知り合いに頼まれてカタログのモデルになったんですよ」
相槌をうちながらどんどん意識が遠くなっていくような感覚に襲われていた。
「お母さんっ」
振り返ると、光沢のある青いワンピース姿の玲子が立っていた。奈々緒は思わずほっとため息をつく。
「あらあら。どうぞごゆっくりね」
玲子に追い立てられるように玲子の母が出て行く。まだ、話したりないような不満が顔に出ていた。
「母が余計な話をして、すみません」
「いやいや、とんでもない。あ、そうそう」
鞄から玲子のスマートフォンを出してテーブルの上に置いた。
「それも、わざわざすみません」
「やっぱりお嬢様だね。うちと全然違うわ」
奈々緒は大げさに部屋を見渡して目を細めてみせた。
「お嬢様じゃないです。私はこの家の生まれそこないですし」
「そんなオーバーな」
冗談かと思ったが、視線を上げない。いつもの玲子らしくない弱気な発言だった。返す言葉を探していると、壁かけ時計の鐘が三回響いて、会話の流れを断ち切ってしまった。待ち合わせは五時だからそろそろ出なければならない。
「じゃあ、この後、待ち合わせてるから、そろそろ帰るわ」
奈々緒が立ち上がると、玲子が送りますと間髪いれずに返してきた。一人で大丈夫だと言うが、駅まで送ると言って譲らないので、結局、肩を並べて駅までの道を歩くことになる。歩道の街路樹が日差しを遮って、肌に心地良い。先ほどの玲子の発言が気になっていた。生まれそこないなんて言葉、咄嗟に出るもんじゃない。あの玲子の母の姉贔屓も少し違和感を感じる。
「私、出来のいい兄がいていつも比べられてたけど、男と女だったからかそれほど苦ではなかったねんなあ」
「わたしは苦でした」
玲子はふうっと小さく息を吐き出した。
「小さい頃から、頑張っても頑張っても姉さんみたいに成績は良くないし運動もできなかったから。両親にとって姉さんは自慢の娘で私がいなくてもきっと良かったんですよ。男だったらまだ跡取りで価値があったんだろうけど」
「そんなことないって」
「そうなんですよ」
玲子は苛立ったようにすぐに反論した。
「私、きっと生まれる家を間違えたんじゃないかってずっと思ってるんです」
奈々緒がちらりと玲子を見ると、何かに耐えるように口を真一文字に結んでいる。一体、玲子はどんな思いをしてきたのだろうか。奈々緒にはわからなかった。
帰り道、和歌山行きの電車は中途半端な時間のせいもあるのか珍しく空いていた。奈々緒は横並びの座席の端に腰を下ろして吊り革広告を見るともなしに見ていた。ラインの通知を知らせる音がした。
――ごめん。体調が悪くって、今晩の食事の約束、日を変えてもいいかな?
奈々緒は断りの内容にすっと気持ちが軽くなる。今日会う約束だった、見合い相手の田中からだった。もともと母がどこかから強引に持ってきた話でまだ誰にも言えないでいる。会ってみてもこの人でいいという確信が持てないと母に言うと、「何、悠長なこと言ってんの。立派な人やないの。お兄ちゃんだって、あんたの中学の友達だって結婚したやろ。事務職ってあんた、ずっと稼げる仕事なんか?」と捲し立てられた。言い返せなかった。確かに周りの友達はどんどん結婚していくし、そうでない友達は仕事が充実しているようで、取り残されていると薄々感じてはいた。先月したお見合い後の二回目の水族館デートで、今度、堺市にある自宅に遊びに来ないかと切り出された。ご家族に迷惑でなければ遊びに行ってもいいがと返すと、両親に会ってほしいと田中は続けた。
「お互いの年収からすると、奈々緒さんに家事は全部お願いしたいな。子供ができるまでは仕事してもいいから。で、子育てが落ち着いたら、両親もいい年齢だろうし、呼び寄せて一緒に住みたい。僕は仕事をがんばるので、奈々緒さんには家の事や親のことをお願いしたい」
田中が口にしていることが全くイメージできず、口ごもってしまった。嫌いじゃないが価値観も違うし、何より結婚までの愛情が足りなさすぎる。最良の相手は田中じゃないとわかって奈々緒は断わることに決めた。今日はその返事をする予定だった。先延ばしがいいことではなかったが、逃れられて少しほっとしているのも事実だ。スマートフォンを手に、返信内容を考える。
――大丈夫ですか? 了解しました。また後日にしましょう。
スマートフォンを鞄にしまった。車内に発車までの時間がアナウンスされ、何気なく周りを見渡した。いつもの見慣れた景色だ。うたた寝している初老の男性、毛先の枝毛を気にしている女子高校生、デパートの紙袋を膝に乗せた年配の女性。奈々緒の視線はそこまできて止まった。その女性の隣に座る男性に見覚えがあった。見合い相手の田中だ。色黒で特徴のある大きなくっきりした二重。見間違えるはずがなかった。スマートフォンの画面に見入っていて、まだ奈々緒に気づいていない。声をかけるべきか迷っていると、田中の隣の女性が小声で何やら話しかけてはくすくすと笑い出して、腕まで絡め出した。
発車を知らせるアナウンスとともに、何人かが駆け足で乗り込んできた。気がつくと押しのけるように電車を降りていた。発車する電車を見送りながら、田中にとっても奈々緒が最良ではなかったのだと気づいた。耐えられない寒気が足元から這い上ってきた。
奈々緒は間に合ったと、はずむ息を整えながら腕時計を確認した。待ち合わせの三時まであと五分だった。人ごみを避けるために、岸和田駅からひと駅和歌山よりの蛸地蔵駅を待ち合わせにしていた。三時ちょうどに到着する電車で玲子が一人でやってくる予定だ。よりによって、二人っきりなんて考えもしなかった。里美に数日前に岸和田のだんじり祭の待ち合わせの場所と時間や人数の最終確認の電話を入れると、忘れていたと予想外の答えを返してきたのだ。
呆気にとられたが、別に奈々緒自身も地元の祭など目新しくもなくどちらでもよかったのだから、まあいいかと思って終わった話だった。完全に予定が空いたので、昼前に起きだして、たまっていたDVDを見ていたら、突然、三時頃には駅に着きますと玲子からラインが入ったのだ。既に二時三十分だった。
「へっ」
玲子は来れたら来ると言っていたこと、後日、待ち合わせするなら三時かなという世間話の際も傍に居たような景色がぼんやりと思い出された。はっきり行くと言わなかったのでてっきり来ないものと思っていた。そのため、中止の連絡も入れていない。事前に連絡を入れない玲子に無性に腹が立ってきたが、既に向かっているのに今更中止とも言えない。それで慌てて支度をして自転車を飛ばしてきたのだ。
「町全体が賑やかですよね」
駅から祭の一番の賑やかな見せ場である「カンカン場」にむかう道で玲子は珍しいのか、きょろきょろと視線が落ち着かない。歴史的な町家景観が残っている紀州街道を抜け、疎開道路を歩いていた。この辺りは各町の地車小屋が立ち並ぶ界隈だ。道のあちこちで屋台が出ている。中には、自宅の玄関でおでんとビールを売る素人店まである。町全体が祭を楽しんでいた。奈々緒の住む町はだんじりを持たない。この辺りは古くからだんじりをもつ町がいくつも隣り合い、皆自分の町のだんじりが一番だと思っている。町名が入ったTシャツを着ている若者が至るところに見えた。世話役のたすきをかけた浴衣姿の男が、地車小屋横の仮設テントで旨そうにビールを飲んでいる。九月も中旬にさしかかろうかと言うのに、今日は八月並みの気温に逆戻りだった。奈々緒は自転車を漕いだせいもあり、口の中がからからだった。視線を感じたのか男と目が合った。
「暑いなあ。ねえちゃん、飲むか」
男は赤ら顔でにっと笑うと、クーラーボックスから缶ビールを二本出してきた。
「え、ありがとう」
受け取ろうとした奈々緒の手を玲子が怖い顔でつかんで首を横に振っている。
「大丈夫やって。祭の日やし。ここでは皆こんな感じやから」
玲子の手をほどきながら小声で説得すると、男から受け取り玲子に一本手渡した。
「生き返るーっ」
一息に奈々緒は飲み干してしまった。渋っていた玲子は鞄に入れている。
カンカン場は人で溢れ返っていた。遣り回しと呼ばれる、各町内の技の見せ場がこの場所だ。もともと岸和田港が近いこの辺りは荷役の石炭や土砂の山がいくつもあった。その土砂をで計量していた場所の名残からカンカン場と今でも呼ばれている。開発が進んだこの辺りは広い道路とその通りに沿うようにショッピングセンターや高層マンションが並び、面影はもう見当たらない。遣り回しは、だんじりが速度を下げずに、かつ綺麗に直角に曲がり切ることを美学としていた。これがゆっくりと優雅に曲がることを美とする京都やほかの地車と決定的に違うところだった。曳き手達の連携プレーの成せる技だ。このために、数か月も前から青年団は走りこみ、寄り合いを重ね一丸となっている。四トン以上ものだんじりが曲がりきれずに横転したり、進路を外れれば死人が出た。怪我ではすまない。綱を離せば、投げ出されたり、だんじりの下敷きとなる。こけても絶対に綱を離すな、それが曳き手の常識だ。奈々緒も中学生頃まで、友達の町で曳いていたことがあるため、その怖さは肌で知っていた。
「――はい、中北町が大阪方向から近づいてきます。皆さんロープの後ろに下がって」
スピーカから割れた耳障りな音が響く。仮設のテントに警察の文字が見える。この日ばかりは、警察が安全と案内を担当する。
「この町は遣り回しが一番豪快で上手くて有名やねん」
「えっ、そんな違いあるんですか」
「各町毎に伝承されている方法が違うから、微妙に違うねん」
鐘、太鼓、笛の音が緩やかに響いてくるのが聞こえた。低音の太鼓の音が腹の奥まで響いてくる。奈々緒と玲子は蟻の大群のように何重にもできた人だかりの後ろの方だったが、首をのばすと辛うじて見えた。だんじりがカンカン場の前で静止している。曳き手たちは駆け出せる姿勢で始まりの合図を静かに待つのだ。ゆっくりした囃子の音色と反比例するように空気が張り詰めていくのがわかり、奈々緒たち観衆も固唾をのんでその時を待っている。静寂を破り、いくぞーと士気を高める声があがった。待っていたように、鳴り物の刻む音色が一転して速まった。静止していた空気が堰をきったように動き出していく。歓声とも雄たけびともとれる男たちの低い呻り声の中、だんじりが走りだした。そーりゃあ、そーりゃあ、そーりゃあ。煽るように鳴り物の刻む音色も加速する。舵を取る前梃子と後梃子が絶妙なさばきでぶれることなくだんじりが一気に曲がりきった。大屋根、小屋根の大工方たちが華を添えるようにひらりひらりと団扇を手に舞っている。見事な遣りまわしに見物人からどよめきが起こり、奈々緒は肌が粟立った。
「すごい、すごい迫力ですね。格好いい」
玲子が目を一回り大きく見開いて、すごいを繰り返している。珍しく興奮しているようだった。金髪に染め上げた中学生ほどの男の子が法被で汗を拭いながら、いい笑顔でだんじりを曳いて走っていくのが目に入る。
「そうやろ。どんな男もこの日は格好良く見える日やっていうわ」
奈々緒は職場で見られない玲子の素直な様子を快く感じた。喜びの波動がだんじりを通して見る者を惹きつけ、伝わっていくのかもしれないなと奈々緒は粟立った腕をさすった。
次々にくる各町の遣りまわしを玲子は飽きもせずじっと見ている。カンカン場で見始めて一時間ほど経過していた。いつまでも見ていそうな玲子を人ごみから連れ出し、脇道で適当な店を探し始めた。居酒屋ののぼりをたてた屋台を奈々緒は見つけた。一畳ほどの店の横に折りたたみ机と丸椅子が五つ並んだ簡素な作りだったが、先客が一人いた。玲子は少し嫌そうだったが喉が渇いてこの際どこでもよかった。奈々緒も玲子も紙コップの生ビールを一気に飲み干すと、お代わりを注文した。
「ねえちゃんたち、ええ飲みっぷりやなあ。気持ちええわ。一杯おごったる」
先客の男が酒臭い息を吐きながら話しかけてきた。断ってもややこしくなりそうな気がして、すみませんと、軽い会釈を返した。男は甚兵衛を着て、手に団扇といういでたちで、白髪と顔にきざまれた皺の深さから、奈々緒の父より少し上、六十代半ばに見えた。
「若い子はええなあ。はいよっ」
店のおばちゃんが首にかけたタオルで汗を拭きながら、サーバーからビールを注いでいる。食べ物は枝豆と乾き物程度しかないが、たこ焼きやお好み焼きは頼めば買ってくるからと、店のシステムを簡単に説明してくれながらビールを手渡してくれた。
「ああ、何かええ気持ちになってきましたっ」
玲子がほんのり赤らんできた頬を両手で挟みこんでいる。その無邪気な言い方に奈々緒は思わず笑ってしまう。アルコールが入ったせいか、今日の玲子はいつも纏っている鎧が脱げて、歳相応に見える。何だかんだで今日は良かったのかも、と思いながら枝豆をつまむ。
「じゃんじゃん、飲んでやっ」
おばちゃんの言葉につられた訳ではないが、奈々緒も玲子もビールが進んでいく。腹が膨れてきて、途中から地酒に切り替えた。玲子がこんなに飲めるとは知らなかった。
「わたし、職場で浮いてますよね」
突然、玲子が切り出してきた。
「浮いてるっていうか、自分でそうしてるとこあるやろう。損してる」
酔いも手伝って、日頃から思っていたことを話した。玲子はグラスに残っていた酒を飲み干した。
「わたし、どこでも必要ない人間に思えるんです。家では姉ばっかり。何で自分は生まれてきたんだろうって。思いませんか」
玲子は絡み癖らしい。考えていた奈々緒の頭に、ふと田中とのことが蘇る。結局、顔を合わせることなく断った。玲子に感化された訳じゃないが、奈々緒も誰かに必要とされている実感は最近味わったことがない。
「必要とされる人間の条件てなんやろ」
「生まれながらの宿命みたいなもんじゃないですか。自分ではどうしようもできないですよ」
奈々緒はその考えには違和感があった。
「それって、なんか他人事じゃない。自分の人生やのに」
玲子が、他人事じゃないっと大きな声で叫んだ。
「だったら、ずっと流されて、違う違うって文句言い続けて終わるん?」
「やだやだやだ」
子供のように首を振りながら玲子が喚いている。奈々緒もそんな人生、嫌だ。
「若いのに辛気臭いなあ」
先客の男が堪りかねたように話に割ってきた。
「おい、ここに冷酒三つ、やってくれ。あんな、楽しいこと考えてみ。おっちゃんみたいに、酒一杯飲んで、女抱いて、うまいもん食べて。幸せやで。人生楽しまな」
「そんな単純ちゃいます。わからへんのに楽しまれへん」
鼻息荒く、玲子が男に食ってかかっている。
「はいよ、冷酒三つね。大将の言うとおりやで。しんどいことばっかり考えてたらあっという間に年いくわ。何のためかなんて誰もわからへん。わかってることは、こういうおっさんたちに飲ませたるために店したらなあかんてことだけや」
話しながらおばちゃんはタオルで額を拭っている。
「せやせや。わしかて、しゃあないから、毎年、ここに来なあかん」
おばちゃんが男を軽く睨みつけた。
「それより、ぱあっと飲んで。お祭やで。憂さ晴らして帰りっ」
おばちゃんはそう言うと、力強く玲子の背中を叩いた。痛いと言いながら玲子も照れ笑いしている。奈々緒と玲子はそこで男を交えて飲んでいたが、しばらくすると飲み足りたのか男はほなさいならと千鳥足で去っていった。それを潮に奈々緒と玲子も腰を上げた。
だんじりが休憩に入ったせいもあり、人が道に溢れ出している。日が暮れてようやく暑さも和らいできた。岸和田駅にたどり着いた奈々緒と玲子はバス停のベンチに腰掛けた。玲子は楽しかったですと言いながら、足元が覚束ない。酔い覚ましのために、近くにあったスーパーで買ってきた缶珈琲を玲子に渡すと、奈々緒は隣に腰を下ろした。視線の先に花束が置かれているのが目に入った。ロータリーの歩道の一番右端の手すりの根元には、菓子やワンカップの酒、祭の団扇まで一緒に供えられている。その前で、手に数珠をかけた中年の夫婦がしゃがみこんでいた。子供を祭で亡くしたのかもしれないなと奈々緒は思った。奈々緒の同級生も一人、だんじりの下敷きになって亡くなっていた。
「やっぱり死んだら終わりやで。おばちゃんが言ってたみたいに、苦しいことも楽しいことも過ぎてくのは一緒なんやで」
奈々緒はつぶやいた。祭で亡くなるのは本望だとか地元の人間は口にするけれど、そんなこと、本当は誰も思っていないはずだ。来年も再来年も生きていてこその祭だろう。
ふと隣を見ると、玲子は珈琲を持ったまま頭を垂れて寝ていた。なんやと気が抜けたが、奈々緒はその寝顔に笑みが浮かんだ。