雨あめ、ふれ

菅原 淑恵




「あの雲、みたいじゃない?」

私が空を指さすと、となりで亜季もつられたように顔をあげた。

「ほら、あれ」

「うーん、ちょっと違うような気もするけど」

 そう言って、亜季は少し口をとがらせる。

足元からすこしずつ沈んでいく紺色のなかで、私たちの頭上の空はまだほんのりあかるい。

夕日がなごりを惜しんでひかりの粒をあちこちにきらきら残し、それがふうと移るように、ぽつりぽつりと灯りがともる。

N市のまちに何万本もの灯ろうの揺れる夜。

しだいににぎわいをましてゆく通りに、等間隔におかれた灯ろうのあいだを私は妹の亜季と歩いていた。

「はる、大丈夫なの?」

 唐突に聞かれて、私は首をかしげる。

「なにが?」

「あさって結婚式なのに、灯ろうまつりなんか来てさ。私はひとりでもよかったのに」

「毎年来るのが習慣になってるから、行かないほうがかえって気持ち悪いよ。準備はだいたい出来てるし、大丈夫」

「シンガポール行きは?」

「引っ越しのほうもだいたいは。宏樹が先にむこうに行ってるし、私も学校辞めてからは結構時間あったしね」

「でも、あっちでも仕事続けるんでしょ? 海外で教えるのって大変そう」

「まぁ、落ち着いてからだから」

「ふーん」

余裕の花嫁だねぇなんて言いながら、亜季の大きな目はくるくると灯ろうをひとつひとつ追っていく。

亜季は少しも変わらない。

小さな頃からこの景色が大好きで、家族と、すこし大きくなってからは私とふたりで毎年このまつりに来たがった。

ゆらゆら、ゆらゆら。

黒い大きな瞳にぼんやり灯りが映る。なんども映っては消え、また、映っては消えてゆくのを私は飽きることなくながめていた。

「――そういえばさ、今の子が想像する水道ってハンドル式じゃなくてレバー式なんだって」

 しばらく歩いてから、ふと思い出したように亜季が口を開く。

「へぇ、そうなんだ。確かに最近、ひねる蛇口ってあんまり見かけなくなったけど。――でも、レバー式だとなんか雰囲気でないよね」

 うん、と亜季は大きくうなずいた。

「やっぱり、蛇口をぎゅってひねったら水がじゃばって出るのじゃないと」

「おばあちゃん家の蛇口、すごく固かったもんね」

「……そだね」

そっとうなずいたあと、亜季は黙りこみ、じっと一点に目をこらした。

 ――あぁ、今、亜季はあれを見てる。

その目の奥にあるものを私もゆっくりと呼び起こしていく。

ややくすんだ銀色。

角度によって鈍く光り、ひとつ、ふたつ、みっつ……細かく浮いた錆びが浮き上がる。

ぴたりと手を沿えると、じんわりと伝う熱。

ぐっと力を入れて押さえながらひねり、それから、やや浮かすように回す。

 きゅっ。

 音がして一瞬、水がじゃばと流れ出す。

 祖母の家にあった蛇口。

今はもう家自体が取り壊されてなくなってしまったけれど、今でもはっきりとイメージできる。それはきっと亜季もおなじだ。

十五年前の夏。

私が十歳で、亜季が七歳だった夏。

私たちはふたりで、朝から晩までずっと蛇口を見つめて過ごしたのだから。

 

 

「、亜季。ただ見るだけじゃだめなの。撫でて触って、匂いを嗅いで――すみずみまで記憶するの。どんな時も、なにをしながらでも、すぐに思い浮かべられるように。でないといつまでも一人前の雨ふらしにはなれないのよ」

うん。

うん。

 母さんの言葉にこくりと、おそろいの振り子人形のようにうなずいたのをおぼえている。

雨ふらし。

 この言葉も確か、あのとき初めて聞いたのだった。

「水野の家に生まれた女には、雨を降らせることのできる力が宿るの。お母さんもおばあちゃんも、そのまたおばあちゃんもそう。この土地を離れずにずっとここにいれば、力を持ち続けることができるのよ」

母さんの言葉に私はポカンと口を開け、亜季はとなりで楽しそうに指あそびをしていた。

 ぱちん、ぱちん。

 ぱちん、ぱちん。

鳴る指のリズムにあわせて、少し低めの優しい声がすいすい耳にすいこまれていく。

「一番大事なのは、イメージすること。雲を見ながら、うんとかたい蛇口をぎゅうっとひねって、水を出す時のことを思い浮かべるのよ。少しでも映像がぼんやりしていたら上手くいかないの。色も匂いも感触もすぐそばに、全部が本当みたいにならないとだめ」

「そうすれば雨が降るの?」

私はまるで自分が物語のなかにいるみたいにわくわくしていた。

「そうよ。反対に、雨をやませるにはどうしたらいいと思う?」

 私が蛇口をしめる身ぶりをしてみせると、母さんは大きくうなずいた。

「正解。最初のうちは難しいけれど、コツをつかんだらあとは簡単よ」

 大丈夫。

そう言って、母さんは小さくえくぼを浮かべてふわりと笑った。

 

 

「ぜんぜん大丈夫じゃなかったな」

 私が言うと、ん? と亜季が首をかたむけた。

「あの頃は、自分がいつまでたっても蛇口を回せないなんて、考えもしなかったなと思って。いくら本物みたいにイメージできても、固すぎて回せなかったらしょうがないじゃない」

 苦笑いをすると、亜季もとなりでおなじ顔をする。

「回せたって、手加減できずにいつも蛇口を暴走させてちゃおなじだよ」

「ほんと、馬鹿力だからね。亜季は」

 はぁーとそろってため息をついたあとで、亜季がぽつりといった。

「結局、一人前になれなかったな」

「ふたりで――」

 一人前だからいいんだよ、といつものように言いかけて、私は言葉をのみこんだ。

 なにを言うつもりだったんだろう。

 もうすぐ私の力は失くなってしまうのに。

わかっているつもりでも、どこかで、これがいつまでも続くと思っていたのかもしれない。亜季が蛇口を開き、私が締める――亜季の降らせた雨を私が止める。これまでふたりでずっとそうやってきたから。

「――それで、どこまで歩くんだっけ」

 話題を変えよう、と私が聞くと、亜季は軽く首をかたむけた。

「まぁ適当に?」

「なにそれ。目的地、決まってないの?」

「冗談だって……こっち」

 人混みから離れて、亜季はすいと横道に入る。

 とたんに、さっきまで人といっしょに流れていた空気がふっと止まった気配がして、私はゆらゆらと意味なく手を動かした。

「だいぶ暗くなったね」

「もう夜だからね」

「――あのさ、この道大丈夫なの?」

「なにが?」

「人通り全然ないんだけど」

平気、とこたえる亜季の声も急に静かになったからだろうか、すぐとなりからのはずなのにどこか遠いところにいるように聞こえる。

こつこつ。

こつこつ、こつ。

靴音がひびくたびに、どんどん静かな場所にむかっている気がする。

暗い一本道。

さっきから本当に誰ひとり通らない。むこうの通りにはたくさんの人がいるはずなのに、その気配すらしない。

この道をずっと歩いていくと、私たちはいったいどこに辿り着くんだろう。

――夜の底。

不意に言葉が思い浮かんで、ふっと背筋が寒くなる。

ねぇ、私をどこへ連れていくつもりなの?

沈黙がしだいに耐えきれなくなってきた頃、亜季が私を呼んだ。

「はる」

その緊張した声にはっと体がこわばる。

となりに目をやると、亜季はこちらを見ずに前をむいていた。

きゅっと結ばれた口元。

なにか大事なことを言う前の亜季の癖だ。

「なに?」

「――私たちは、どうして雨を降らせられるんだと思う?」

 私は一瞬だまりこむ。

「どうして、今さらそんなこと」

 じっと見つめても、亜季は視線を拒むようにこちらを見ようとはしない。仕方なく、私は口を開いた。

「ひとつは、水野の血の力でしょ。それから、もうひとつが――地の力。この土地を離れてしまったら力は消えてしまう」

「そうなの?」

 聞き返す亜季の声はひどく小さい。

「そうなの、って。亜季も何度もいっしょに聞いてきたでしょ。血と地の力が結びついて、はじめて雨が降るんだって。地が血に力を与え、奪うんだって。だから、これまで叔母さんたちも力を失ってきたんだし、それに私も――」

また、なにか亜季が言った。

「え?」

 聞き返そうとした瞬間、音が遅れて耳に届いた。

 いつまでそんなこと信じてるの。

 私は目を見開く。

くるり、亜季の黒い大きな目がこちらをむいた。

「仕組まれたことなのよ、これは。昔は今よりもずっとこの力が必要とされてた。水は恵み、水は力。せっかくこの土地に生まれるものなのに、みすみす他の土地にくれてやるなんて許さない。それで、暗示をかけた。雨ふらしをしばりつけるために、この土地を離れたら力を失くす暗示を。この力にはイメージが一番重要でしょ。強く強くイメージしなきゃ力を使えない。雨が降る、降る、絶対に降る――そうしてようやく降るの。イメージを妨げるには暗示はとても効果的で、だから、今までたくさんの人たちが力を失くしてしまった」

はる、と呼ばれて顔をあげる。亜季の目が熱を帯びて私をとらえた。

「はるの力は絶対になくならない」

まるで雨だ。

そう思いながら、私は亜季の言葉を聞いていた。亜季の降らす雨みたいに、急激に降り落ちてはなみなみとあふれだす。

いったい亜季のどこにこんな言葉が眠っていたんだろう。いつからこんなことを考えていたんだろうか、私の知らないうちに――。

私は一歩あとずさり、亜季から視線を外した。

「いきなり何言い出すの」

「いきなりじゃない、ずっと考えてた。――だって、はるは本当にそれでいいの?」

亜季の声がまっすぐに耳をつく。

 うるさい、と私は耳をふさぐように口を開いた。

「私の力なんて、あってもなくても変わらないでしょ。私には亜季みたいに雨を降らせる力なんてないの。とめられるだけの雨ふらしになんて意味なんかないのよ。その力だってもうすぐ――」

 息が切れて、私はそのまま唇をかみしめた。

いいわけがない。

 ずっとあたり前にあったものが、急に失くなってしまうことが、どんなことかわかる?

それでも、そういうものなんだからあきらめよう、考えないようにしようってこれまで過ごしてきたのに。どうしてそんなこと言われないといけないのよ。余計な期待を持たせないで。

 言葉が肺のなかでぐるぐると渦をまき、出てゆこうとどんどん喉に押しよせる。苦しくて苦しくて吐き出そうとした、その直前。

音が聞こえた。

ざぁぁぁぁざぁぁぁぁぁぁぁざぁぁぁぁざぁぁぁぁざぁぁぁぁぁぁぁ。

耳の奥で鳴る、激しい雨音。

「――じゃあ、今までの雨はなんだったの」

「え?」

「これまでに二度、私がこの土地から出ようとすると、急に大雨が降って、それで失敗したの。雨ふらしが失われるのを、地の力が止めたんだって思った。だから今度こそ、本当に私の力は奪われるんだと思う」

 亜季がなにか言いかけて、口ごもる。

「なに?」

「――その雨は、誰かが降らせたのかもしれないじゃない」

「誰が? なんのために?」

「それは、はるを止めるためにだよ。誰かはわからないけれど……そうだとしたら、さっきの話を信じてくれる?」

「そんなこと、急に言われても」

亜季の言うことが正しいと直感的に思う自分は確かにいる。けれど、信じきれもしなかった。

信じて、もしそうじゃなかったら?

うなずくことも首をふることもしない私を見てどう思ったのか、亜季はうん、とひとつうなずく。

「じゃあ、思い出そうよ。雨が降った時のこと」

「思い出す?」

「ちゃんと思い出せたら、何かわかるかもしれないでしょ。だから、お願い――思い出して」

亜季の声がすこし震えた気がして、顔をあげると、ぱっと目があった。

小さな頃から変わらない黒い大きな目。

ひきこまれるように見つめるうちに、ふうっと小さな頃の気配がまわりに立ちこめてゆく。

その空気を閉じこめるように、すう、と私は深く息をすった。

「……亜季も、一度目のことは覚えてるよね?」

「覚えてるよ」

あの時、逃げよう、と私が亜季に言ったのだ。

私が中学一年、亜季は小学四年の夏だった。

 

 

 夏の朝って、どうしてこんなにまぶしいんだろう。

 おまけにこのどこまでも続く暑さ。

 そこに蝉の声をミックスするなんて、本当にひどいと思う。

「……おはよ」

 まだ半分の目でよろよろと洗面所にいくと、やっぱりそこには亜季がいた。

今日も先をこされちゃったな。

起きる時間はおなじはずなのに、亜季のほうがいつもほんのちょっとだけ布団から出るのが早い。

ぐずぐずしてる私が悪いんだけどさ。

そんなことを考えながら、私はぼーっとバシャバシャ顔を洗う亜季のうなじあたりを見ていた。

細いなぁ、まだ。

亜季が痩せてしまったのは、梅雨の頃からだった。

 朝ご飯が食べられなくて、食べてもすぐにもどしてしまう。

 なにがあったのかは聞かなかった。

あそこの家は気味が悪い、雨女はこっちに寄るな――心あたりはたくさんあったから。

亜季もなにも言わずに胃のなかのものを全部吐きつくした真っ白な顔で、ふらふらと門をくぐっていった。

 でも、そのあとすぐに夏休みがやってきた。

夏休みのほとんどを家と、むかいのおばあちゃんの家で過ごして、亜季はゆっくりもとに戻っていった。

洗面台に覆いかぶさる亜季の背中を毎朝さすることもなくなって、私もほっとしていたのだ。

「おはよー」

 タオルで顔を拭きながら、くぐもった声で亜季が言う。

いつもならそのままぺたぺたと廊下を歩いて行くはずなのに、なぜか亜季はそこで立ちどまった。

「どうかした?」

 首をかしげたまま蛇口をひねると、水の冷たさにひやっと体がふるえる。

――夏が終わってしまう。

 私は、はっと顔をあげた。

「亜季?」

 鏡ごしにゆっくりと視線が交差する。

 亜季の黒くて大きな目、眩しい光のなかでそこだけがひどく暗かった。

ふうっと指先を記憶がとおりぬける。

うすいTシャツの、背骨の浮きでた背中の感触。

すえた臭いのする洗面台。

亜季の後ろ姿に、いつかの自分の姿がぼんやりと重なってゆく。

あの頃、私はあきらめていた。自分に力があるのはあたり前で、仕方のないことだって――。

ほんとうに、そう?

亜季、と口がするりと動く。

「逃げよう」

 亜季は少し黙ってから、こくりとうなずいた。

 それからすぐに、私たちはいつものかばんに荷物をつめこんで玄関を出た。

「いってきまーす」

「いってらっしゃい」

手をふった母さんは、鼻歌を歌いながら庭で洗濯物をとりこんでいる。

しばらくは、ばれないかも。

 そう思ったとたん、急に後ろをふり返りたくなる。足は前に進んでいるのに、気持ちだけ後ろ歩きをしているような、変な感じ。

 けれど、亜季はちっともそんなことはないみたいだ。歌なんか口ずさんでいるのがとなりから聞こえてくる。

「あめあめ、ふれふれ、かあさんが――」

 その横顔がやけに楽しそうに見えて、胸のどこかがちくりとした。

わかってる?

ここを出たら力がなくなっちゃうんだよ。――あんなに誇らしくて、大切だったのに。

「ん?」

 なにかを感じたのか、亜季がじっと私の顔をみつめる。なんでもない、と私は空を指さした。

「こんないい天気だと、亜季でも無理?」

「んーと。あ、あの雲にほんのちょっとだけ雨いるよ」

 亜季が鼻をくんくんさせて言うけれど、私にはちっともわからなかった。

ずっといっしょに練習してきたのに、いつまでたっても雨は降らない。雨を止めるのだって、亜季が出来るようになったら私の意味なんてなくなってしまう。

――ほんとは、亜季の力を失くしたいだけじゃないの。

不意に頭の中で声が響いた。

――そうすれば亜季と自分をいつもくらべなくても、自分には何が足りないのかこれ以上考えなくても、よくなるから。

 違う、そうじゃない!

「――はる?」

亜季に呼ばれてはっとする。

蝉の声が急に大きくなってするどく耳をつんざいた。

気づいたら、駅まであと少しのところにきていた。

「ねぇ、どこ行くの?」

「恵里叔母さんのところだよ」

 高校卒業と同時にこの土地を出た叔母さん。きっと叔母さんなら、どのくらいで力が消えるのか知っているはずだった。

「恵里叔母さん、久しぶりだね」

「ほんとだね」

 うなずいた瞬間、目の前がまっ白になった。

ざぁぁぁぁざぁぁぁぁぁぁぁざぁぁぁぁざぁぁぁぁ。ざぁぁぁぁざぁぁぁぁぁぁぁざぁぁぁぁざぁぁぁぁ。ざぁぁぁぁざぁぁぁぁぁぁぁざぁぁぁぁざぁぁぁぁ。ざぁぁぁぁざぁぁぁぁぁぁぁざぁぁぁぁざぁぁぁぁ。

目を開けているのになにも見えない。耳も轟音で何も聞こえなかった。

 ――雨。

 それも信じられないくらいの大雨だ。

さっきまであんなに晴れていたのに。

突然の出来事に頭も体もついていけずに体温だけがどんどんなくなっていく。

止めなきゃ。

気付いて私はぎゅっと目を閉じた。足を地面に踏ん張って空を見上げる。

おばあちゃん家の蛇口。

銀の持ち手。

錆びの感触。

ぐっと力を入れて押さえながらひねり――開ききっているのか、蛇口がうまく回らない――固い。歯をくいしばってさらに力をこめ、やや浮かすように回す。

どうして?

ようやく回ったのに――回しても回しても雨はまるでやまなかった。

苦しい。

息ができない。

雨と自分との境がわからなくなっていく。

――そうだ、亜季は?

すっかり忘れていた私はあわてて亜季を探す。ごめんね、とすぐとなりにいた小さな細い体をひき寄せようとして、顔をあげた。

なにか聞こえた気がしたからだ。

打ちよせる雨といっしょになにか声のようなものが。

――逃げるな。

ふらっと足が力をなくして、よろけた私はその時ようやく気付いた。

光。

光がある。

ほんのすぐそこ、数メートル先は朝の光が射しているのだ。

 雨が降っていたのは私たちの上の空、家から駅までの一本道だけだった。

 

 

 道は少し前から上りはじめている。

 なだらかに続く坂の先は暗く、どこまで続いているのかは見えない。どこに行くのかわからないまま、私は亜季と歩きつづけていた。

「そのあと、雨が私たちのところだけに降ってたことに気づいて、そこで気持ちが折れたのよ。そうしたら、すぐに雨がやんで」

「そうだったかな」

 亜季は曖昧にうなずいた。

「怖くて、家に帰ってすぐに母さんに話したんだよね」

 びしょ濡れで帰った私たちを見て、いつもはおっとりした母さんが、ひどく狼狽していたのを覚えている。

「そしたらすごく怒られた。家出じゃなくて、その理由のこと。どうして話してくれなかったのって」

「――怒るっていうかさ、悲しそうだったよね」

「そうだったね」

 私たちの前では抑えようとしていたけれど、それでもわかるくらいに母さんは悲しんでいた。怒られたことより、そっちのほうがずしりと胸にこたえた。

「あの時、雨を降らせたのは母さんじゃないと思う。私たちを家に帰らせるのが目的だったら、雨は一瞬だけでいいはずだもの。ずぶ濡れになったら電車にも乗れないし、家出計画はそこでおしまい。そうでしょ?」

 そうだよね、と亜季もうなずく。

「それにしても、あの時はすごかったね。雨がやむときも、手品みたいにぱっとやんでさ」

 そうだ。

蛇口をゆっくり回していく方法だと、あんなに一瞬で雨をあがらせることはできない。あの時の雨のあがりかたはまるで、亜季が雨を降らせる時みたいだった。

「ねぇ、亜季って今でも雨、止められないんだよね?」

 ふっと亜季が動きをとめる。

「なんで?」

「――ちょっと不思議だなと思って。蛇口を回せるなら、締められないのは変じゃない?」

 小さい頃は、勢いがよすぎて蛇口を飛ばしてしまったり、無茶苦茶に回して締められなくなることもあるのかもしれない。でも、大人になってもできないままなんて、そんなことがあるんだろうか。

「そんなことないってば。馬鹿力のせいで、はると違ってコントロールが苦手なの。雨を自力で止められるなら、ずっと前からそうしてるよ」

 本当だろうか。

 皆、ずいぶん前から、亜季がすぐに雨を止められるようになると思っていたのだ。いつまでたってもできないのをずっとおかしいと思いつつも、これまで深く考えたことがなかった。考えないようにしていたのかもしれない。

もし、亜季が雨を止められないフリをしているとしたら?

「――ねぇ、亜季は降らせたのは誰だと思う?」

「今の話だけじゃわからないよ。お母さんは違うとしても、おばあちゃんだっているわけだし」

「おばあちゃんは二度目の時、体を壊して入院してた。だから、違うと思う」

 私が言うと、すっと亜季は目をそらす。

「知らないよ。その時は、私はいっしょじゃなかったから」

 二度目は、私が高校三年の夏。

確かにあの時、亜季はとなりにいなかった。

 

 

「あれは浮気だったんだ?」

「いや、本気のつもりだったんだけど」

 透は小さく首をひねりながら言う。

 どうやら話が長くなりそうなので、私は透を図書室から連れ出すことにした。

ドアを開けたとたん、むあっとした空気が顔にはりつく。

夏休みまっ最中の校舎には、人の気配がほとんどない。蝉のぬけがらみたいに、どこか置き去りにされたような気分になる。

廊下で立ったまま話すのもなんとなく落ち着かなくて、私たちは教室へむかった。

「勉強、邪魔してごめん」

「いいよべつに。ていうか、わざわざ私に会うために学校来たの?」

 そうだよ、と透はうなずいた。

「水野、夏休みじゅう図書室にこもるって言ってたし。ここに来たら会えるかなと思って」

「でも、どうして? だって、絶世の美女に出会った、私とはもう付き合えないってこの前はっきり言ってたのに」

 絶世の美女、いや傾国の美女だ。あんな人がいたら国も亡ぶ。

 自分を君主に例えるところが透らしいなぁとあきれ顔で聞いていたのが、つい三日前の話だ。

「つまり、美人は三日であきたってこと?」

 ガラリ。

教室のドアを開けると、タイムスリップしたみたいに夏休み前の匂いがした。

黒板も机の位置も終業式の時のまま時間が止まっている。

 ガタガタ、ガタ。

私が自分の席の椅子をひくと、透もその後ろの席に座った。

「違うんだ、まったくちっともあきなかった。もうほんと見てるだけでいい。顎の角度が少し変わるだけで、まばたきするだけで、はっとするほど美しいんだ。寝食忘れてずーっと見てられる」

「だったら、どうしてよ」

「実際、ずっと見てたんだ。で、ほとんどなにもせずに三日経ってから、気付いた。このままだと自分が廃人になってしまうって」

 うーん、と私は頭を抱えた。

「廃人になるとかならないとかの前に今は高三の夏だからね。受験あるからね」

「……まぁ、それもある」

 しゅん、と透はうなだれる。

「それで、私ともう一回つきあう気? ……しょうがないなぁ」

「え、いいの」

 透は顔をあげてすぐ、ぱっと笑顔になった。

 どこがいいのかわからないとみんなが言うし、それに同意したい気持ちもあるけれど、ある意味で私は透が好きだった。どこまでも無邪気でわかりやすい。死ぬほどいい加減なところもあるけれど、こう見えて意外に真面目で頭はいいし。

「あ、そういえば、下宿は許してもらえそう?」

 透の進学希望の大学は遠く、下宿を許してもらえないせいで、随分前から行き詰まっていた。

「難しいんだよなぁ。けど、もう一回説得してみる」

そう言っていたけれど、その日の夜、泣きそうな声で電話がかかってきた。

――親ともめて家を追い出された。家を出るから水野もいっしょに逃げてくれ。

透はいったいなにを考えてるんだろ。

追い出されたといっても、どうせ家を閉めだされただけだ。こんなに暑い夜だし、我慢して一晩どこかで野宿でもしたら次の日にはたぶん許してもらえるのに。

 それにしても、どうして私がいっしょに逃げる必要があるのよ。

 ――逃げよう、亜季。

 あの時、亜季もそう思ったんだろうか。

 私と亜季が家出しようとした日のことは、ふたりの間ではなんとなく避けられていて、あれから一度も話したことはない。だから、あの時亜季がどう思っていたのかは、今でもよくわからなかった。

 もし逃げていたら、今頃私たちはどうなっていたんだろう。

 閉じられた夏。

 あの夏には、まだ私と亜季と家族しかいなかった。

 あれから外の世界がどんどん押しよせて、亜季と私をつなぐものが少しずつ少しずつほどけていっているような気がする。

 姉妹なんてそんなものなんだろうか。

 小さい頃はずっといっしょにいたのに、いつかは離れなくてはいけない。離れて、ほどけて、姉妹だったことさえ忘れてしまう日が来るんだろうか。

そんな例があちこちにあることを私も今では知っている。

あんなに、ふたりでひとつだったのに。

 ――あめあめ、ふれふれ、かあさんが。

 いつも私が歌い出すと、亜季があとから歌い出す。

 ――あめあめ、ふれふれ、かあさんが。

 まねしてるぅ。

 してないもん。

 してるよー。

 だって、あきもはるとうたいたいもん。

 じゃあ、いっしょにうたおうよ。

 ――あめあめ、ふれふれ、かあさんが。

この歌は私と亜季の大のお気に入りだった。理由は単純で、雨が好かれているから。反対に大嫌いだったのは、てるてる坊主の歌だったっけ。

亜季は、いつでも雨を降らせる。

いじめられては泣きながら雨を降らせて、朝顔がきれいに咲いたのが嬉しくて雨を降らせて。悲しい雨も、楽しい雨も、嬉しい雨も、怒っている雨も、ぜんぶ止めるのは私だった。

これはたぶん、とても強いつながりだ。けれど、そうやってつながっていられるのはいつまでなんだろう。

もしも今、そのつながりを切ってしまったら――?

「はる、なんかあった?」

 ひょい、と亜季が自分の部屋から急に顔を出したので私は肩をびくりと揺らした。

「んーん。なんでもないよ」

 なにげないそぶりで返すと、亜季はふーんと顔をひっこめる。

 それから私は、家族が寝静まった時間に家を出た。

そしてまた、あの時と同じ雨が降ったのだ。

 

 

 坂はさらに急になっている。

 ゆっくり歩いていても、話しながらでは息が切れてしまいそうだ。それでも、上りもだんだんと終わりにさしかかっているような気配がしていた。

「二度目もすごい雨だった。止めるのほんとに大変だったし、入院してたおばあちゃんには、どう考えても無理だと思う」

「ふーん。その時は雨、止められたんだ」

「なんとかね」

 二度目でさすがに私も落ち着いていたのか、かなり時間はかかったものの、じりじりと蛇口を締めていくと雨はあがった。

「そのあとは、びしょ濡れになってしょうがなく帰ったの?」

 違うよ、と私は首をふる。

「最初からついて行く気なんかなくてね、馬鹿なことはやめたほうがいいよって言いに行くだけのつもりだったから」

「……なんだ、そうだったんだ」

 亜季は気の抜けたような声を出した。

「あいつ変な奴だったもんね」

「亜季、知ってたっけ?」

「知ってるよ。一回、家に来たことあったでしょ。早く帰れすぐ帰れって思ってた。私、大嫌いだったから」

 大嫌い。

 その言葉の思いがけない強さにドキリとする。

もしかすると、あの時、亜季は電話の内容を聞いていたのかもしれない。それで私が家を出るつもりだと思ったんだろうか。

 やっぱり亜季が――。

「ねぇ。母さんでも、おばあちゃんでもないとしたら――亜季は誰があの雨を降らせたと思ってるの?」

 言い終えるのと同時に、亜季の声がした。

「着いたよ」

 

視界が一気に開ける。

 まち全体を見下ろす場所に私は立っていた。

きらきらら、きらきらら。

 夜の空に夜景がふわりと浮かびあがって、星空とまたたきあう。

「一人でお祭に来たときにね、見つけたの。いつかはるに見せようと思ってた。あの時のお礼に」

「お礼?」

「あの時、私のために逃げてくれようとしたでしょ。家出が失敗したあとも、いつでも逃げていいんだって思ったら、それからいろいろ大丈夫になったから」

ありがとう、と小さな声が耳に届く。

「……うん」

 亜季がそんな風に思ってたなんてぜんぜん知らなかったよ、とか、なにかそういうことを私は言おうとした。けれど、さっきの言葉の響きを消してしまうのがなんだか少しもったいない気もして、そっと口を閉じた。

亜季もなにも言わなかった。

 すーっとふたりのあいだを風がぬけて、まちへ吹いていく。

「――ね、綺麗でしょ」

 ぼんやりと光のほうを見つめる私に、得意そうに亜季が言った。

私は海の底の宝物を見つけたみたいに、光にそっと手をかざした。

「……すごいね。すくえそう」

「でしょ」

嬉しそうに亜季が笑う。

その笑顔を見ていると、懐かしい歌が流れてきた。

――あめあめ、ふれふれ。

「あめあめ、ふれふれ、母さんが」

 ほんとうに歌が聴こえてきて、私はびっくりして言った。

「どうして亜季が歌うのよ」

 今度は亜季のほうが目をまるくする。

「だって、さっきはるが鼻歌で歌ってたから」

「え、そうだっけ?」

 いろんなことを思い出しているうちに、知らず知らず口ずさんでいたんだろうか。なんだか恥ずかしくなる。

「そうだよ。はるが歌ってたから、私はつられて――」

 そこで、亜季は不意に言葉を止めた。

「あの時も、そうだった」

「あの時?」

「ふたりで家を出ようとした時、お母さんが鼻歌で歌ってたの」

 ――ふんふふんふ、ふふふふ、ふふふふふ。

まぶしい夏の朝。青空の下。

 庭で洗濯物をとりこみながら、手をふる母さん――。

「あ」

ふたりの声がぴたりとそろう。

洗濯物をとりこむのはふつう夕方だ。朝、干したばかりの洗濯物を急いでとりこまなくてはいけなかったのは、このあと雨が降るとわかっていたから。

つまり、あの雨を降らせたのは。

「――母さんだったんだ」

 私は大きく息をはいた。

そうだったんだね、と亜季もうなずく。

「やっぱり最初から家出のことバレてたんだ。まぁ、今から考えるとバレないほうがおかしいか。はるも私も、ものすごく不自然だっただろうし」

「でも、家出をとめようとしたのにしては、ちょっと降らせすぎだよね。実は、母さんってコントロール下手だったのかな」

 本当にひどい雨だった。

夏なのに震えて帰って、夜になっても肌に雨の感覚が残ったまま、布団のなかにいるのにいつまでも雨にうたれているような気がしたのを覚えている。

 私たちが帰って来たとき、母さんが狼狽えていたのは、思っていた以上に降らせすぎてしまったからだったのだろうか。

「――亜季?」

いつまでもあいづちが返ってこないのに気づいてとなりをむくと、亜季はなにかに驚いたような顔をしていた。

「なに、どうしたの?」

「違う」

「え?」

「だって、おかしいよ。こらしめるにしても、あの雨はやりすぎだと思わない? あんなに降らせる理由なんてお母さんにはないと思う」

「そうかもしれないけど」

 じゃあ、誰が降らせたの、と私は途方にくれる。

 今になって地の力だったと言い出すのだろうか。ようやく、そうじゃないと思えてきたのに。

「わからないの?」

亜季が私の目をのぞきこむ。

まるで見当がつかずに、私は黙って見返した。合わせ鏡みたいに一瞬見つめあったあと、亜季の口がゆっくりと開く。

「はるだよ」

 静かな声が言う。

「あの雨は、はるが降らせたの。お母さんが降らせたのはほんの一瞬だけで、すぐに蛇口を締めたんだと思う。そのあと、はるが蛇口を思いっきり開けたんだよ。だから、つぎにお母さんが蛇口を締めるまでに時間がかかって、雨は降り続けた」

「そんなわけない」

――遥(はる)はとめるのが上手だから、大丈夫。

母さんになぐさめられるたび、私は下をむきたくなって、でも笑っていた。

いつまでだっただろう。

笑いながら鼻の奥がすこし痛かったのは。

「――私が一度も降らせられなかったのは亜季だって知ってるでしょ。いい加減なこと言わないで」

 視線を強くしても、亜季は目をそらさなかった。

「違う。はるは雨を降らせられるの。ずっとできないって思いこんでるだけで、本当はできるんだよ」

きっぱりとした口調で亜季は続ける。

「あの時、はるはすごく焦ってた。早く雨を止めなきゃって焦って、それで蛇口を間違って反対側にひねってしまった。自分でも気づかずに思い切りひねってようやく開いたの」

 あの時たしかに蛇口は固かった。

固くて固くて、でも、私はその蛇口を思い切り回したのだ。

「それとも……はるはもしかしたら無意識に自分から雨を降らそうとしたのかもしれない。あの時、はるは力をなくしてしまうのが本当は嫌だった。それに、私の力をなくしてしまうのも」

 あの時、私は揺れていた。

この土地から亜季を逃がしてやりたくて、亜季とくらべられることから逃げたくて、力なんていつでも捨てられると思いながら、でも。

何度もふり返りたくなった。

「――ほんとうに?」

 感触を確かめるように、手をゆっくり開いてまた閉じる。

「私はそう思う」

亜季は深くうなずいた。

「雨のなかで、逃げるなって声が聞こえたんだよね?」

「……うん」

「それ、きっとはるの中から聞こえてきたんだよ」

ざぁぁぁぁざぁぁぁぁぁぁぁざぁぁぁぁざぁぁぁぁざぁぁぁぁざぁぁぁぁ。

あの日の雨音がする。

強く、強く、地面に打ちつける雨音。

あの時、私は無意識のうちに、この力を自分で選んでいたのだ。

いつかは失くしてしまうとわかっていても、それでも失くしたくないと、必死に蛇口を回して。

あれは、私の雨だ。

地の力なんかじゃなく。

「――うん?」

そこで、ふと、疑問が浮かんだ。

「じゃあ、二度目は誰が降らせたの?」

言った瞬間、亜季がひどくばつが悪そうな顔になる。

「ごめん。……あれは、私」

 うつむく亜季に、なんだ、と私は息をはいた。

「やっぱり亜季だったんだ」

「だってさ。私とは逃げずにあんな男と逃げるなんて許さないと思ったら、つい」

「もう、だったらなんで最初から正直に言わないのよ」

「一回目が誰か、わかってからでもいいかなぁって。先に言っちゃったら、ますます私の話、信じてくれなさそうだし……ぜったい怒るし」

「そりゃあ怒るよ。だって相当降ってたよ。大ごとになったらどうするつもりだったの?」

「ええと、はるなら絶対に止められると思ったから。それに怒りでコントロールのほうがちょっと」

 ごめんなさい、と亜季は手をあわせる。

「はじめからコントロールする気なんてなかったくせに。……ほんと、結婚式の日はぜったい降らさないでよね」

 軽くにらんでみせると、亜季は首をぶんぶんふった。

「降らさないよ、宏樹さんはあいつとは違ってまともっぽいし」

「まぁ、たしかに透はだいぶ変わってたからねぇ」

 今、なにしてるんだろ。まともに仕事してるところとかちっとも想像できないんだけど。

思い出されるのが変なところばかりで、つい笑ってしまう。

「あー。結婚前に元彼のこと思い出してニヤけてるって、宏樹さんに言いつけよ」

「もう、つまんないこと言わないの。ほんと変な奴だったなぁって思ってただけだよ」

「じゃあ、宏樹さんは? 宏樹さんはどんな人?」

「どんなって言われても……まぁ、ちょっとはマシかな」

「なにその中学生レベルの照れ隠し。やめてよね」

 こっちが恥ずかしくなるから、と亜季はほんとうに照れたように笑う。その顔に目をほそめながら、私はそっと口を開いた。

「ねぇ、亜季」

「ん?」

「さっき、言ってたでしょ、今までみんなが力を失くしてきたのは暗示のせいだ、って。私はそれだけじゃない気がする」

 どういうこと、と亜季は怪訝な顔をする。

「これでやっと雨が降ったのは地の力のせいじゃないってわかったのに、まだ力がなくなると思ってるの? やっぱり私の話は信じられない?」

 そうじゃないよ、と私は首をふる。

「亜季の話は信じる。でもね」

この土地を離れたら力を失くす――昔から何度も聞いてきた話は間違いだと、亜季が私に信じさせてくれた。

これで、私の暗示はとけるのだろう。

でも、だからといっていつまでも力を失わないとは限らない。

「たぶんね、わからなくなってしまうんだと思うの。土地を離れて、家族とも離れて、ゆっくりと記憶が薄らいでいくと。自分がそこにいたんだってことも、雨を降らせたり止めたりすることができるんだってことも、いつか」

匂いも手触りも消えて、蛇口はぼやけて見えなくなってしまう。

あの夏も、あの夏も、どんどん手の届かないところに遠ざかっていく。

「はるも、そうなると思ってるの?」

「思ってた。でも……亜季は変わったよね」

 急にどうしたの、と亜季が戸惑った声で言う。

「変わったけど、やっぱり亜季は亜季で。ずっと亜季のままじゃなくて、でも、亜季なんだなって」

 ややこしい呪文みたいだ、と亜季が言い、そうだよ、呪文みたいなもんだよ、と私は言った。

「もし私にあの蛇口が見えなくなって、亜季の雨を止められなくなっても、いつか、また別の蛇口で雨を降らす時がくるのかもしれない。それは、レバー式の蛇口かもしれないし、ぜんぜん別のだったりもするかもしれない。……もしかしたら、降らせるのは雨じゃなくて、雪かもしれない」

どれだけ変わってしまっても、変わらずに蛇口は空のどこかにある。

 手をのばせば、いつでもきっと届くのだ。

「――えっと、はるって雪女になりたかったんだ?」

 おどけたように亜季が言う。

「うーん、寒そうだからやっぱりやめとく」

 私が大真面目な顔をしてみせると、亜季はくすくす笑った。

笑ったまま、つい、と空を見上げる。

「あさって、やっぱり降らそうかな、雨」

「え?」

「朝、白無垢姿のはるが、ゆっくりと朱い絨毯を歩いていくの。まっすぐ式場に入ったところで、雨が降りはじめる。式のあいだじゅう雨は降って降って降りつづけて、最後にふたりが出て行く時になってはじめて、ぴたっとやむの。雨がやんだら、虹がかかるかもしれない。ふたりのうえに七色の虹が、幸せに幸せにねって」

 誰が雨を止めるの、と私は聞いた。

「花嫁にはまかせられないからね――私も頑張ってみるよ」

 見えない蛇口を探すように、亜季はまっすぐ星空をながめている。

 その目に映る光景を思い浮かべながら、私はそっと亜季の背中に手をあてた。

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