遡ってチェックしてみたら会誌せるの発行スケジュールが三月・七月・十一月の年三回で確立されるようになったのは、二〇〇〇年の五三号ないし五四号からである。
百号記念号が、創作掲載が五作、エッセイなどで全員参加のエネルギー満ち溢れたものとなったので、予想されたことながら百一号への作品掲載意欲は燃えカス状態にあった。
十月二十七日会員あてに提出依頼のメールを送信した。
メール一本ですむものではないが、とりあえずその時点で編集委員の役柄としてできることをやってみた。
作品提出締切(十一月二十一日)には、津木林作品一作が提出されたにとどまる。
十二月五日の総会の際に作品提出の意思を明確にいただいたおふたりを合わせ、編集会議の日取りを調整し、その日までに二作品を編集委員あてに郵送いただき、無事<オンスケ>。
津木林さんからは呼びかけメールに応えて次号提出のつもりだったものをピッチをあげて完成いただいた。そんな内幕を感じさせないボリューム十分の快作である。
三氏にはここに改めて感謝いたしたい。
百号に掲載した「総目次」のうち五〇号の発行日が誤っていた。(一六七頁)
正しくは、一九九八年十一月一〇日。なお、五一号はその六か月あとに発行されている。(壱)