理想の家

谷口 あさこ

 現在、新居を建築中だ。

 建売住宅なのだが、建てる前に契約をしたので軽微な要望は聞いてもらえる。壁や屋根の色・素材、窓枠や玄関扉の型、室内の床や壁の色、キッチンや洗面の設備など決められた範囲の中から選ぶだけでもかなりの時間がかかる。そして、範囲外の物でも選べてしまう怖さ。もちろんその分、代金は膨れ上がっていく。少しでも理想の家に近づけていくために暗中模索し取捨選択していく作業が延々と続いている。

 理想の家、として思い浮かべるのは、住むのに不便な家をリフォームしたり、独創的な家を訪問したりするテレビ番組に登場するような家だったりするが、住み心地・生活のしやすさなどは住んでみないと分からないし、想像力で補うのも無理がある。結局今まで住んだことがある家をもとに考えることしかない。

 私が過去に住んだことのある家は六つ。生家となる北海道の道営住宅。小学生から大学生まで過ごした札幌の家。小学三~五年生の時に住んだ釧路の家。社会人になってからは、家族と住んだ奈良の家。一人暮らしした大阪の賃貸マンション。結婚してからは宝塚の賃貸マンション。その中でも思い入れがあるのは、札幌の家と釧路の家だ。

 札幌の家は、設計士である父が図面をおこしたモダンな家だった。長方形が二個並んだL字型の建物で、どの部屋も南に面していて大きな窓がはめられている。その窓枠の下にはプランターを置くための小さなベランダがつき、そこに花が植えられるようになっていた。幼い頃見た完成図面を今でもよく覚えている。父が描いた図面では白い家の窓辺に色とりどりの花が咲き、とても素敵な家だった。

 しかし、現実はと言うと、そんな素敵なものではなかった。父も母も全ての窓辺に花を植え育てられるほど園芸のたしなみや心意気を持っていなかった。プランター用の小さなベランダに花は一度として咲いたことはなく、新築から六年後、そのベランダの外壁が突如崩落し、危険なため敢え無くベランダを撤去する工事が行われた。

 この家の施工不良はそれだけではない。いつのころからか雨漏りするようになった。それも二階だけではなく、一階の天井までもが濡れてシミを作っていた。それに、半分地下に潜った車庫には大雨が降るたびに水が溜まり、水を掻き出す作業が必要だった。

 父が描いた図面はおしゃれな外面にとらわれすぎて構造上幾ばくかの不備があったと思われる。しかし、そんな欠陥があるものの、この札幌の家は今でも私の理想の家となっている。

 居室と階段の床はすべて絨毯張りで、家の中で子供だった私と妹が走り回っても、犬(中型犬を室内で飼っていた)が駆け回っても滑ることがなかった。最近の住宅の床はフローリングが主流で、現在建築中の新居も和室以外フローリングになっている。今はまだしも老いて階段から滑り落ちそうな気がして怖い。必要になったら簡易に敷ける滑り止めマットを置こうとひそかに考えている。

 札幌の家の好きだったところは、各部屋に大きな窓があって、見晴らしがよく明るかったことだ。見晴らしがいいのは田舎で近所に家がなく畑が広がっていたからで、環境のおかげと言えるかもしれない。そういう所で過ごした影響か、私は自然光がたっぷり入る明るい家が好きだ。現在賃貸中のマンションの部屋も窓が大きく、眼下に田んぼが広がる部屋である。今回新居探しのためいろいろと新築物件を見て回ったが、みっちりと家々が建ち並ぶ場所はやはり好きにはなれなかった。結局、選んだ物件は敷地に比較的ゆとりがあり、窓が大きく、見える景色は畑ではないが見晴らしもよく日も当たるところなので、その点では理想に近い家であるのだろう。

 話をまた過去に戻そう。札幌の家が随所に父のこだわりが詰まった新しい家だったのに対して、三年ほど住んだ釧路の家は父が急きょ探したとりあえず住めればいいか程度の借り家であった。

 小学三年生の時、父の転勤に伴い釧路に引っ越した。辿り着いたのは灰色にくすんだ一階平屋建ての家だった。一部崩れかけてブロックがグラグラしている塀。ひびの入った重たい木の玄関扉。家の中に入ると、荷物は翌日に届くとのことで、作り付けの棚以外には何もないがらんどうの状態だった。母と妹と私は(父は居なかった。おそらく引っ越しの後処理をしていたのだろう)、棚から引き出しを抜き取りひっくり返してテーブルにし、近くのスーパーで買った菓子パンを夕食とし、一組の布団に三人くるまって翌朝まで過ごした。電気や水道は来ていたのだと思う。しかし、暖房器具はあったのだろうか(四月初旬の釧路はまだ寒いはず)。細かい事は全く覚えていない。その非日常な一晩が子供の私にとってすごくワクワクする事だったことはよく覚えている。

 そして、新しい家から古い家で暮らすことで起こる変化はどれも物珍しく、私は毎日ワクワクしていた。

 それまで水洗の洋式トイレを使っていたのに、その家は汲み取り式の和式トイレだったし、風呂は石炭を焚いて湯をわかす石炭釜の風呂(すぐにガスの風呂に変えた)だった。子供部屋の作り付けの本棚は梯子と化し、上に座って休んだりそこからベッドに飛び降りたり、ふすまを取り外した鴨居にぶら下がったり、ちょっとした変化がとても楽しかった。

 北向きの押し入れにはカビが生えていて、母が罵詈雑言を浴びせながら掃除をしていたし、札幌の家から運んできた家具は所狭しと詰め込まれ、父の美的感覚で買った食器棚にテーブル板を差し込んだ食卓セットは部屋に入りきらず、テーブル板を短く切る羽目になった。窓枠はアルミサッシではなく塗装の剥げた木枠で、ガタガタして開閉しにくかった。大人たちは不満を漏らしていたが、子供の私は不思議と嫌な気にはならなかった。むしろ愉快だった。

 家の敷地と同じ広さの裏庭は雑草が生えまくり、これも母が盛大に愚痴をこぼしながら草を刈っていたが、そこは子供たちの格好の遊び場だった。平屋の三角屋根にボールを放り投げ、誰のが早く落ちてくるか競争したり、草に足を取られながらバドミントンをしたり、片隅に生えている松の木に登ったり(ヤニで手がべとべとになる)、家族とご近所さんとで焚火をしたりした。遊びと暮らしとが繋がっていたのだと今になって思う。

 小学五年生になると家が平屋でボロボロなのに少し引け目を感じるようになった。友達の家は二階建てで壁にひびなんか入っていなかったし、家の中も広々として大勢で遊ぶことができたから。だからと言って、近所の遊び仲間はすでに私の家を知っているから隠しようもない。知られているけど知らないでいてほしいという変な矛盾を抱えていた。

 ある日、五年生での組替えでクラスメートになった谷岸さん(通称タニ)の家に遊びにおいでと誘われた。タニとは出席番号が近くて仲良くなったのだが、住む地区が違うので下校後一緒に遊んだことがなかった。連れられて行った彼女の家は、平屋建てで風雨にさらされて黒ずんでしまった板張りの家だった。私の家よりボロボロだったので驚いて立ち止まってしまった。『よくこんな家に友達を誘えるなぁ。恥ずかしくないのかな』

 しかし、タニはそんな私の心情に気づくことなく、笑顔で私を家の中へ引きいれた。家の中も思ったとおり狭かった。だから、私たちは二段ベッドに腰かけて一緒にきれいな絵が描かれた本を読んだり、おしゃべりをして過ごした。

 タニと別れて帰宅するとき、私の心はスッキリしていた。『家が古くてボロボロでも友達と仲良くなるのには関係ないし、タニみたいに気にせず堂々としていればいいんだ』と思い直すことができた。それからは、何の気負いもなく家のそばで友達と遊ぶようになった。

 六年生になるときに札幌の元の家に引っ越したが、三年間暮らした釧路の家は私の大事な思い出であり、小学生時代のシンボルのようなものだ。社会人になってから一度釧路の家がどうなっているのか訪ねに行ったことがある。引っ越してから十二、三年経っていたから、当時でさえ古かった家はもうなくなっているかもしれない。そう思いながら懐かしい路地を歩いていくと、家影が見えた。当時と同じ古ぼけたままの家が残っていた。塀の陰や庭の隅から小学生の私が飛び出てくるかのようで、私はしばらくの間キョロキョロと見回しながら家の前に立っていた。

 小学校を卒業してから三十年以上経つから、もう釧路の家は取り壊されているだろう。社会人になるまで住んでいた札幌の家も他人の手に渡り、今はどうなっているか分からない。でも、幼いころに住んだ家は私の一部となって今も生き続けている。

 これから新しく建つ家は、息子にとって大事な一部となってくれるかしら。

 そうなって欲しいなと願うからこそ、「階段の踏面が図面では三十センチになっているけど、出来ないってどういうことですか?」「玄関ホールの照明のスイッチは三路配線にしてほしいんですが」「ここにタオルをかけるので下地入れてください」などなど現場監督にうるさく口を出す私なのであった。どんな家が出来るのか乞うご期待。

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