剽窃(ひょうせつ)作家

津木林 洋


 俺はスーパーマーケットの仕事を定時の三時に終えると、自転車で駅前にある書店に向かった。新人賞の予選通過者の名前が掲載されている、文藝界五月号の発売日なのだ。最終候補に残っていればすでに電話連絡があるはずなので、俺の作品が残っていないのは明らかなのだが、せめて一次予選には残っていてほしい。二十七の歳からこの賞だけに絞って応募してきて、十年。かすりもしなかった。もし今回も予選通過しなかったら、別の賞に浮気してやろうかと思うが、いやいや、やはり浮気はいけないと思い直す。この賞は純文学を書く小説家への登竜門として最も権威のあるA賞に一番近いのだから。A賞振興会は元々は文藝界を発行している文學春秋社が興したものなのだ。

 大書店の入っている駅前ビルの前に自転車を駐める。駐輪禁止の札が立っているが、大勢が駐めているので気にしない。中に入り、エレベーターで最上階に向かう。

 それにしてもこのネット時代、実物を手に取らなければ結果が分からないなんてダサすぎる。2ちゃんねるか、ツイッターでどうして分からないのか。いやいや、そもそも文學春秋社のホームページで発表すりゃいいんだよ。実物を手に取らせて、あわよくば買ってもらおうなんて魂胆がいやらしいんだよ。

 俺はエレベーターを降りて、フロア全体を占めている書店に足を踏み入れた。小さい書店には文藝界なんて置いていないので、ここに来るしかない。時間帯のせいか客もまばらで、店員ものんびりしている。

 俺はまっすぐ雑誌のコーナーに向かった。文芸誌がまとめられている一郭に、文藝界五月号が何冊か平積みされている。その表紙を見て、俺はひとつ深呼吸した。今回は今までとは絶対に違うはずだ。何しろあいつが、予選通過は間違いなしと言ってくれたのだから。あいつの言う通りに書き直して、それでも結果が出なかったら、俺はこれから誰を頼ったらいい?

 俺は手を伸ばして文藝界を取り上げた。目次を見て予選通過者掲載のページを確認し、そのページを開こうとするが、手が震えてなかなか辿り着けない。ようやく開いた見開きのページに作品の題名と作者名がずらりと掲載されている。二次通過者は太字のゴシック体、三次通過者は太字の上に丸が付いている。

 俺は一つずつ確認していこうと思ったが、目が勝手にすべっていく。ざっと見て、俺は嘆息した。名前が見当たらない。

 やはり、駄目だったか。

 俺は肩を落とし、もう一度ゆっくりと見ていった。右のページにないことを確認し、左のページに移った時、境目の湾曲した部分から「君のいる絶対零度 片桐保」という文字が飛び込んできた。しかも太字のゴシック体、丸も付いている。一次通過の細い文字しか追わなかったので、完全に見落としていたのだ。

 俺は思わず、わーと叫びかけ、周りを見て思いとどまった。心臓がばくばくしている。顔がかっと熱くなる。嘘じゃないだろうな。俺は深呼吸をしてから、もう一度自分の名前に目をやった。確かにある。間違いない。しかも三次通過なのだ。丸の付いている数を数えると十二。ということは、最終候補に残る直前で落ちたのだ。

 十年目でやっと。こつこつと書き続けてきたのは無駄ではなかったのだ。

 俺はいそいそとレジに向かい、文藝界を買うと、エレベーターに乗った。誰も乗っていなかったので、袋から文藝界を取り出し、自分の名前を確認してはニヤニヤした。

 駐輪した自転車の前で、俺はに電話をした。

「どうした」

「三次通過したよ」

「え?」

「今日、文藝界五月号の発売日だったんだよ」

「ああ」

「お前のお蔭だよ」

「まあな」

「それで祝杯を上げたいんだけど、どう今夜」

「三次程度で祝杯なんか上げてたら、どうすんの」

「いや、俺にとっては画期的なことなんだ。小説を書いてないお前には分からないだろうと思うけど……」

「分かった。何時にする」

「六時でどう。いつもの鳥正で」

「分かった」

「俺の奢りだよ」

「当たり前だ」

 

 読書会の二次会でいつも使っている鳥正に行くまでの三時間、俺はふわふわと雲の中にいる気分だった。文藝界に載った自分の名前を何度確認したことか。

 六時少し前に店に行くと、すでに染谷がテーブル席に坐っていて、ハイボールを飲んでいた。相変わらず、面白くなさそうな顔をしている。

 俺は向かいに腰を降ろし、リュックから文藝界を取り出した。予選通過者掲載のページを開き、染谷に渡した。彼が名前を探しているのを見て、俺は腕を伸ばして指で指し示してやった。

「ああ、ホントだな」

「だろう? 一次にかすりもしなかった俺がいきなり三次通過だよ。信じられる?」

「おめでとうと言うべきなんだろうな」

「言って、言って」

 俺は生ビールを注文し、彼のグラスにぶつけて乾杯した。

 染谷とは半年前、俺が参加している月一回の読書会で知り合った。新聞の地域欄に載った読書会の告知を見て、彼は初めて出席したのだが、その批評の精緻さ、鋭さ、思いも寄らない見方、解釈に俺は度肝を抜かれたのだ。その晩の飲み会で、俺は小説を書いていることを告げ、是非とも今書いている作品を読んで欲しいと頼んだ。彼は、小説を書いたことがないからと断ったが、むしろその方がいいと俺は強引に引き受けさせた。それが今回の作品の初稿だった。文藝界新人賞は年二回の募集で、六月と十二月の末日が締切になっている。十二月初めに赤いボールペンでさんざんに書き込みをされた初稿を受け取った俺は、睡眠時間を削って彼の指摘通りに書き直した。郵送したのは大晦日の終わる直前だった。

「次も応募すんの?」

 染谷が炙った鶏皮を口に入れながら聞いてきた。

「当たり前だろ。最終の一歩手前まで行ったということは編集者に名前を覚えられたということなんだから、このチャンスを逃す手はないよ。だからさ、今書いているやつ、また読んでアドバイスしてくれよ。頼むよ」

「そりゃ、読むのはいいけど、赤ペンを入れるかどうかは作品次第だな。箸にも棒にも掛からなければ、感想だけになるよ」

「それでもいい。とにかく読んでくれ。お前がダメだと言えば、俺は応募を諦めるから」

「おいおい、そんなことでどうすんの。人に頼ってちゃダメだろ」

「いやいいんだ。自分一人で書いたってダメなのは俺が一番分かっている。誰かのアドバイスが必要なんだよ。それがお前だ。ちゃんとこうして結果が出てるだろ」

 俺はテーブルに置いてある文藝界を人差し指でとんとんと叩いた。

「お前がそれほど言うんなら……」

 今は四月の初め。六月の締切まで三ヵ月程ある。前回と同じように五月の終わりまでに書き上げてチェックしてもらい、六月いっぱいで書き直す。

 

 三次通過が俺のモチベーションを遥か高みまで上げてくれたので、毎日毎日書くのが楽しかった。応募の枚数規定は四百字詰原稿用紙換算で百枚だったが、五月の終わりに脱稿した時には百二十枚になっていた。しかし俺は気にしなかった。どうせあいつが読んで削ってくれると思っていたから。

 誤字脱字だけをざっと点検し、俺は仕事の終わった夜、作品をプリンターで印刷していた。その時スマホが電話の着信音を鳴らした。画面を見ると、染谷の名前があった。おお、グッドタイミング。俺はアイコンをタップし、スマホを耳に当てた。

「ちょうど今電話しようと思っていたところなんだよ。今度のやつ、何とか脱稿して今プリントしているところなんだ。今夜にでも渡したいんだけど……」

「片桐さんでいらっしゃいますか」

 女の声だった。

「……はい」

「わたくし、染谷庄一郎の母親の代わりに電話をしている者ですが、庄一郎は今朝亡くなりました。バイク事故でした。失礼とは思いましたが、携帯電話に登録されている番号に掛けさせていただいております」

 言葉が出ない。

「もしもし、聞こえておりますでしょうか」

「……はい、聞こえております」

「つきましては明日の晩が通夜、明後日が告別式となります」と女性は言い、場所と時間を告げた。

「わざわざありがとうございます」

 そう答えるのが精一杯だった。

 電話が切れても俺はスマホを耳に当てたまま、呆然としていた。プリンターの印刷音が途切れることなく続いている。自分の中では時間が動いていないのに、その音だけが時間を前に進めているような奇妙な感覚に陥った。スマホのスイッチを切り、印刷音と共に排出される紙を見た。どうしたらいい。この作品を誰に見せたらいい。

 音が止んだ。俺は四十八枚のA4用紙の束をつかんで整え、机の上でトントンとしてからクリップで留めた。

 ふと、事故ではなく自殺ではないのかという気がした。俺はスマホを手に取り、日付と交通事故という文字を入れて検索してみた。すると地域ニュースの欄に載っていて、乗用車と出会い頭に衝突したとあった。

「オートバイを運転していた**市の無職 染谷庄一郎さん(36)が全身を強く打ち、約1時間後に死亡しました」

 俺は溜息をついた。

 本当に死んでしまいやがった。こうなれば自分で推敲するしかない。前作のあいつのチェックを見ながら、あいつの思考になって自分の作品を見直すしかない。あいつの今まで言った言葉を思い出し、それに沿うように書き直すのだ。そう思うと、まだまだ行けそうな気がした。

 

 告別式は土曜日で、主任に頼めば休ませてくれるはずだが、喪服を持っていないこともあって、俺は金曜日の通夜に出ることにした。

 黒っぽいジャケットを着て、やけに立派な葬儀会館を見上げた。受付で香典を渡し、名前を書いた。香典の相場はネットで調べたら五千円だったが、俺は御礼の意味も込めて一万円にした。

 会場には三十程の椅子が並んでおり、一番後ろに腰を降ろした。正面にはあいつの写真が菊の花に囲まれている。それを目にすると、やっぱり死んだのだと改めて思わされた。

 僧侶の読経が始まる頃になっても二十くらいしか席が埋まらなかった。新聞記事では無職になっていたが、確か翻訳の仕事をしていたはず。そう思って会場を見渡すと、その服装から何人かの男たちが仕事に関係するように思えた。他は個人的な関係者のようで、その中で俺の目を惹いたのは、前方に坐っている髪の長い女だった。読経の最中からすすり上げるように泣いており、親族に続いて一般弔問客の焼香が始まっても、なかなか立ち上がろうとはしなかった。

 俺は先に行き、母親に黙礼した。髪の毛に白髪がちらほらと交じっている。母一人子一人と聞いていたのでさぞかし気落ちしているだろうと思っていたが、母親は意外としっかりとした表情をしていた。

 焼香をし、戻る段になって、ようやくあの女が立ち上がった。ウェーブのかかった髪が憂いのある顔を縁取っている。俺は思わず目をそらし、自分の席に戻った。焼香をしている彼女の後ろ姿を見る。

 おそらくあいつの恋人に違いない。そんな話はこれっぽっちも聞いたことはないが、あの泣いている様子はそうでなければ説明がつかない。

 女への興味もあって、もし通夜ぶるまいに誘われたら出ようと思っていたが、どうやら親族だけのようで、俺は席を立った。会場を出る時、ちらっと母親に目をやると、彼女はあの女に声を掛け、腕を取っていた。やはりあいつの特別な女に違いないと俺は確信した。

 

 応募原稿の推敲がなかなか進まない。最低でも百二十枚を百枚にしなければ応募すらできないのに、それができない。文章の手直しで削れるのはせいぜい数枚くらい。二十枚を削るには一つか二つのエピソードを省かなくてはならない。だが、どの場面も必要に思えて大鉈が振るえない。あいつなら簡単に指摘し、ここをこうすればと教えてくれるだろうに、いくらあいつの読み方、見方をしようとしても俺にはそれができなかった。いっそのこと、百二十枚でも受け付けてくれる新人賞に応募しようかとも思ったが、他の賞は受賞作を一冊の本にしたいため長編が前提になっている。応募条件には五十枚から二百五十枚などとはなっているが、五十枚の作品が当選した試しはない。百枚までの短編を条件にしているのは文藝界新人賞しかない。百二十枚を倍の二百四十枚にしようかとも考えたが、とてもそんな長さにできる内容ではない。無理に長くしたら、それこそ水増しのぶよぶよした作品になるのは目に見えている。

 俺は三時に職場を出ると、コンビニでウイダーインゼリーと無糖コーヒーのペットボトルを買い込み、自分の部屋の机の前に坐った。飯はウイダーインゼリーですませ、ぶっ続けで午前零時まで頑張るつもりだった。

 文章の細かい表現を手直しするだけで時間が過ぎ、いい加減疲れてノートパソコンの前で眠っていた時、スマホが鳴った。電話だ。手に取ると、染谷庄一郎という文字が画面に出ていた。まさかと思い、警戒しながらアイコンをタップした。

「もしもし」

「片桐さんでいらっしゃいますか」

 女の声だった。

「はい、そうですが」

「染谷庄一郎の母親でございます。息子のお通夜に来ていただいたそうで、ありがとうございました」

 俺は一瞬言葉に詰まった。

「告別式にも伺いたかったのですが、あいにく土曜日は仕事がありまして……」

「いえ、そんなことはよろしいんです。お通夜に来ていただいただけでも、どんなにうれしいことか。息子もさぞかし喜んでいることと思います。あの時はお顔を存じ上げず、お声をお掛けしませんでしたが、実は息子から頼まれたことがございまして……」

「はい?」

「片桐様にお渡しするようにと、息子から預かっているものがございます」

「何でしょうか」

「息子が書き物をしていたことはご存じでございますか」

 翻訳のことだろうと俺は思った。

「はい、知っておりますが……」

「息子は自分の書いたものをすべて片桐さんにお渡しするようにと息を引き取る寸前に、わたくしに頼んだのでございます。あの子が亡くなってから一週間、ようやく気力が戻って参りまして、今日、机の中を整理しておりましたら、引き出しの中に一杯原稿用紙がありまして、息子の申していたことはこれのことだったのかと思った次第です。ご迷惑かとは思いますが、是非とも片桐さんに受け取っていただきたいのですが……」

 翻訳の原稿など必要ないと思ったが、ここで断る勇気は俺にはない。

「分かりました。彼の形見として大切に保管いたします」

「ああ、よかった。ほっといたしました」

 

 仕事が休みの水曜日、俺は私鉄に乗って二つ目の駅で降りた。母親から聞いた住所をスマホに入れ、マップアプリを頼りにその場所へ向かう。

 着いたのは、築年数がかなり経った公営団地だった。四階建ての建物がいくつか並んでおり、俺は三号棟を探して壁面の数字をたどっていった。

 エレベーターがないので階段で四階まで上がり、一番端の四〇七号室のインターホンを押した。

「はい」

「片桐ですが」

「お待ちしておりました。今開けますので」

 少ししてドアが開き、母親が姿を見せた。表情は通夜の時と比べて、ずいぶん柔らかくなっている。

 俺は母親の後について畳敷きの居間に入った。窓際に小卓があり、緞子に包まれた骨壺と位牌、小さな写真、が載っていた。俺はまっすぐ小卓の前に行き、あいつの顔を見ながら鈴を鳴らし、両手を合わせた。

 それから母親に勧められて卓袱台の前の座布団に腰を降ろした。卓袱台には四百字詰め原稿用紙の束が載っていた。

「これですか」

「まだ他にもあるのですが……」

 ちらと見たところ、手書きの原稿だった。

 あいつがワープロを使わずに手で原稿を書いていたのは知っている。それを仕事先の出版社に持って行ったら、露骨に嫌な顔をされたとあいつは笑っていた。俺にも手で書けと勧めたことがあった。理由を尋ねると、昔の偉大な小説はすべて手で書かれたものだと言うのだ。それはその時代、ワープロという道具がなかっただけだろうと反論すると、今でも優れた作家は手で書いていると言い、何人かの名前を挙げた。さらに、ワープロで書くと自分の文章がうまく見えてしまって勘違いする。その証拠に文豪の作品を原稿用紙に写すと、大した文章に見えなくなる。うまく見えないから、何とかしようと努力するのだと彼は言った。俺が、今さら手で書く気はないと答えると、ワープロで書くにしても原稿用紙モードで書けば手で書くのに近い感覚になれるかも知れないと勧めるので、一度そのモードで書いたことがある。しかしノートパソコンの小さい画面に大きな文字で書くと、間延びした上、一度に画面に入る文字数が少なくて何とも書きづらかった。彼は大きなモニターを繋げろと言ったが、そんな金はないと、俺はさっさと元に戻してしまった。

「見せてもらっていいですか」

「どうぞ」

 母親は原稿の束をこちらに押し出した。俺は一番上の一枚を手に取った。鉛筆書きだった。活字体のような角張った文字で「螺旋トリビュート 染谷庄一郎」とあり、五行目から「濫読という言葉も知らない幼少の頃から、私は言葉に魅了されていた」と始まっていた。これはあいつの書いた小説なのか、それとも誰かの作品の翻訳なのか、分からないまま続きを読んでいった。路地の奥にある古本屋の、まるで図書館のような壮大な描写、墓守を思わせる年老いた店主の予言者のような振る舞い、奇妙な客たちの引き起こす物悲しい騒動……。俺はいつの間にか小説世界に引き込まれていった。

 母親が湯呑み茶碗を卓袱台に置く音で、ようやく現実に引き戻された。

「粗茶でございますが、どうぞ」

 俺は一口ぬるめのお茶を飲んだ。

「これは彼が書いた小説なんですか」

「あの子が何をしていたか全く知りません。読書会でご一緒だった片桐さんの方がご存じかと思いますが……」

「彼は小説なんか書いていないと言ってたんですが」

 俺は半年前に知り合ってからの付き合いを話した。といっても月一回の読書会の他は自分の原稿を見てもらったくらいで、そんなに深い付き合いはしていない。

「そうだったんですか」

 母親はいかにも気落ちしたという表情を見せた。

「私がこれを引き取ってもいいんでしょうか」

 その時、ふっと通夜に来ていた女のことを思い出した。

「私よりも彼ともっと親しい方に持っておいてもらった方がいいんじゃないですか。例えば通夜の時に来られていた女性なんか……」

「亜季さんをご存じなんですか」

「恋人のことは、ちらっと聞いたことがあります」

 嘘をついた。

「亜季さんには形見分けの品物をお渡しするつもりです。息子の書いたものは遺言通り、片桐さんに引き取ってもらいたいのです」

 母親はまだ机の中にノートや紙切れの類いが一杯あってと、俺を彼の部屋に案内してくれた。

 一歩中に入ると、夥しい本の量に驚かされた。六畳間の窓を除く壁際に本棚があり、そこからはみ出した本たちが床に積み上げられている。押し入れの襖も取り払われ、本で埋まっている。かろうじて窓際の机と万年床が本の侵食を受けずに残っていた。本の放つにおいと埃っぽさに、俺は思わず息を止めた。

「ひどいところでしょう」と母親が小さく笑った。

「すごいです」俺は圧倒されたことを素直に口に出した。

 机の上には翻訳の資料なのか、印刷物が乱雑に積んであり、筆立てには鉛筆が芯を上にして何本も立てられていた。消しゴムがいくつも転がっているのはどういうことかと俺は首を捻った。

 引き出しの中には、母親の言う通り、ノート類が数冊の他、書き散らした紙の束が一杯あった。ノートをちらっと見ると、日記のような、創作ノートのような、思い付いたことをただ書きなぐっただけの言葉が並んでいた。これを引き取るのかと思うと、いささかうんざりした。引き取った上で適当に処分してもいいか、べつに罰は当たらないだろう、そう思い直し、俺は母親に断ってから引き出しから紙の束を取り出していった。

 母親の用意してくれたミカン箱に入りきらないので、仕方なく蓋をせず、それらを立ててガムテープで補強した。

 ミカン箱はかなりの重さで、母親は持って帰られるかどうか心配してくれたが、俺は、男の子ですからと言って四〇七号室を後にした。しかし途中で何度も下に降ろして休憩し、自分のアパートに帰り着くまで、一時間近くも掛かってしまった。

 

 まず読んだのは、あの、創作か翻訳の下訳か分からない原稿だった。幼少の読書体験から秘密の古本屋を経て、時制と人称が変わって古本屋の客の一人の冒険譚になり、それが再び私小説風になるというメタフィクション的な作品で、世界がはっきりとつかめないまま物語に翻弄され、九十枚のところで突然終わっていた。ジェットコースターの途中で降ろされた気分で、俺の中で小説の時間がぐるぐると回っていた。頭が熱く、俺は冷蔵庫に残っていたペットボトルのコーヒーを一気に飲み干した。

 これはほぼ、あいつの創作だろうと考えた。登場人物の名前はないし、無国籍風な舞台で日本の地名も一切出てこないが、どことなく私と称される人物の面影があいつに似ていた。それに、文章を丸々削ったり、削除の線が入って、その横や欄外に全く違う表現を書き込んだりした箇所がいくつもあった。 頭から熱が去り、冷静になった俺は、作品のを探している自分に気づいた。どこか分からない場所なんて、メタフィクションなんて、人称が途中で変わるなんて……。さらに、あいつが俺に嘘をついていたことに腹を立てた。小説なんか書いたことがない振りをしながら密かに書いてやがった。世の中にごまんと優れた作品があるのに、今さら何を付け加えようと言うの、と皮肉を込めてあいつが言った言葉を思い出した。

 俺は原稿をミカン箱に戻し、二度と読まないと心に決めて、押し入れに放り込んだ。

 あいつの作品を頭から追い払うためには、自分の作品を書く以外にはない。俺は百二十枚の作品を何とか百枚にしようとノートパソコンの前に坐り込んだ。しかし、頭に浮かんでくるのは、あいつの作品の、本の棚が高い天井まで届いている古本屋の様子や渓谷の縁に立って今にも落ちそうになりながらバランスを取っている男の姿、私が点々と落ちている本を拾い上げながら夕暮れの道を歩いて行くシーンなど、様々な場面だった。それらと比べるように自分の作品を読み返してみると、どの場面も何と陳腐なと思ってしまうのはどうしようもなかった。

 それでも一週間、俺は自分の作品に拘り続けたが、一字も書き直すことができなかった。ノートパソコンの電源を切って、押し入れからミカン箱を引っ張り出し、あいつの原稿を手に取った。

 読み終わって、それが圧倒的な作品であることを認めざるを得なかった。二度目の方が小説世界がよりはっきりと分かり、深い所まで手が届いているという感覚があった。

 この作品をこのまま埋もれさせておくのはもったいないという思いがした。あいつが俺に作品を託したのは、これを世に出してくれという願いだったのに違いない。

 俺はその他に小説の草稿があるかどうか探してみたが、なかった。どうやら「螺旋トリビュート」はあいつの処女作のようだった。

 俺は取りあえず手書きの原稿をワープロで打ち直すことにした。あいつの文章は精緻であるけれども重くなく、時として訪れる華麗な表現がまるで服の印象をがらりと変えるアクセサリーのような働きをしていた。一字一字キーボードで打ち込みながら、俺の中にあいつが乗り移ったような、不思議な感覚に囚われた時、俺は自分が泣いているのに気づいた。泣きながらキーボードを叩いていると、本当に自分の中から文章が湧いてくるような心地よさに包まれた。

 最後まで打ち込んで、さてこの作品をどうしようかと俺は思った。六月末日締切の文藝界新人賞に応募するのが一番適当なのだが、死んでいる人間が応募してもいいのだろうか。募集要項には死者の応募は受け付けないとは書いていない。編集部に問い合わせることができたらいいのだが、募集要項、選考についての問い合わせには一切応じないと明記されている。常識で考えたら、応募できるのは生者のみだろう。新人賞を与えるということは、その後も小説を書いて出版社を儲けさせてくれということが含まれているので、死者は論外というのも分かる。もし当選しても死者だと分かると、受賞は取り消されるのだろうか。

 さんざん考えた挙げ句、俺は取りあえず自分の名前で応募することにした。もし当選したらその時に明らかにして、どう処置するかは向こうに任せたらいい。この前の三次通過で、俺の名前を編集者が覚えてくれているはずなので、その方が有利なはずだ。この作品を世に出すためなら、そのくらいのことは許されるだろう。

 俺はプリントアウトされた作品を読み直し、最後がどうしても尻切れトンボになっていることが気になった。まだ原稿用紙で十枚分の余裕がある。何か書いてきれいなエンディングにした方がいいのではないか。しかしいくら考えても、いいアイデアが浮かんで来ない。

 そんな時、ふと、ひょっとしたらノートの中に、この作品についてのメモか何かが残っているかも知れないと気がついた。俺はミカン箱にあるノートを引っ張り出し、ページをめくっていった。そして、三冊目のノートの中程に「螺旋の果て」という見出しを見つけたのだ。見開き一杯にちりばめられた、矢印や点線で繋がれたプロットを読んでいくと、まさに「螺旋トリビュート」そのものだった。この書き込みで、この原稿が百パーセント創作であることを俺は確信した。さらに、ページをめくると、ノートの一面を使って、上に伸びていく螺旋階段が濃い鉛筆の線で描かれていた。下の方は太く大きく、上に行くに従って細くなっていく。その中程をよく見ると、一人の人間の階段を上っている姿が小さく描かれている。これがあいつのイメージした終わり方なのだろう。

 俺はそのイメージを使って、主人公の私が螺旋階段を上っていき、天上に消える場面を書き加えた。それまでのあいつの文体と似るように何度も書き直した。

 書き上がったのは、締切当日だった。夜、プリントアウトして中央郵便局までタクシーを飛ばし、当日の消印をもらった時は、心底ほっとした。

 これであいつの作品が評価されなかったら、俺は書くのを止めようと思っていた。どう逆立ちしても俺にはあんな作品を書くことはできない。それが評価されないとしたら、俺の作品など論外に違いない。

 

 2ちゃんねる情報だと、八月中に電話が来なければ最終候補に残らなかったと思え、ということだったので、八月の最終週は、スマホの着信音が鳴る度に俺はどきりとした。

 しかし連絡が来ないまま九月になってしまい、やはりダメだったかと俺は肩を落とした。その一方で、これですっぱりと小説を書くことを止められると清々した気持ちになったことも確かだった。

 九月も十日を過ぎた晩のことだった。冷凍しておいた賞味期限切れの弁当を温め直して食べていると、スマホが鳴った。液晶画面には電話番号だけが表示されている。不審に思いながら、俺は電話に出た。

「……もしもし」

「片桐さんでいらっしゃいますか。私、文藝界編集部の春名と申します」

 若そうな女の声だった。俺の心臓が飛び上がった。

「はい……」

「選考の結果、片桐さんの『螺旋トリビュート』が最終候補に選ばれました。そのことをお伝えいたします」

「あ、はい、ありがとうございます」

「選考会は十月十一日で弊社の会議室で行われます。それまでに一度お会いしたいのですが」

「え?」

「申し遅れましたが、私、片桐さんの担当をさせていただくことになりました。つきましてはお会いして、いろいろお話を伺いたいと思いまして」

「はあ」

「私は『螺旋トリビュート』はあのままで十分優れた作品だと思っておりますが、もし、片桐さんが手直ししたいとお思いなら、選者に渡す前に改稿することも可能です。いかがいたしましょうか」

 ああ、そういうことか。手直しする気など全くなかったが、俺は女編集者に興味を惹かれた。それで、翌日の午後五時に文學春秋社本社ビルの地下のカフェで会うことにして電話を切った。

 動悸が治まってくると、俺は次第に複雑な気持ちになっていった。あいつの作品の価値を見抜いたおのれの眼力が正しかったことが証明されたのは、確かにうれしい。編集者の言った、「あのままで十分優れた作品」という評価には、俺が書き加えたラストも含まれているだろう。だから、俺の力も万分の一くらいは貢献しているはずだ。かと言って、このまま自分の作品として頬被りすることはできない。この段階で本当のことを言うべきか、それとも当選してから言うべきか。落選すれば言う必要はないのだから、ここは黙っておくべきだろう。最終候補に残ったということも俺の経歴になるのだから。いや、待てよ。もし当選してから言った場合、編集部を混乱させ、どうして事前に相談してくれなかったのかと責められるかも知れない。俺という人間に対する信頼が失われ、二度と俺は日の目を見ることはできなくなるかも知れない。

 俺はさんざん迷いながら、次の日待ち合わせの場所に赴いた。

  カフェの中は混んでいて、果たして彼女が来ているのか全く分からない。俺は、一人で坐っている女を探して奥の方に歩いて行った。客たちのざわめきの中、横から突然笑い声が聞こえ、見ると、女二人が向かい合って手をひらひらとさせていた。

 違う、俺は視線を戻した。その時、一番奥の席に坐っている女と目が合った。可愛い、俺はどきりとした。女が会釈する。それに釣られて俺も小さく頭を下げ、近づいていった。

 女が立ち上がった。小柄だが、グレーのスーツの上からも胸があるのが分かる。ショートカットの髪形が甘めの顔を引き締めている。

「片桐さんでいらっしゃいますか」と彼女はにっこりとした。

「そうです」

「わざわざご足労いただいてありがとうございます」

 彼女は手に持った名刺入れから一枚を取り出して「春名と申します」と差し出した。春名さおりとある。

 俺は受け取りながら、「名刺を持っていないんで」と小さく応えた。

「片桐さんのことはよく分かっておりますので」と春名さんは笑った。

 二人揃って席に腰を降ろす時、柔らかな香りが俺の鼻腔をひと撫でした。

 同じものでよろしいですかと俺に聞き、春名さんは水を持ってやって来たウェイトレスにコーヒーを注文した。

 ウェイトレスが去ると、春名さんは大きめのバッグからクリアホルダーを取り出し、中から角を紐で綴じた紙束を引き抜いた。大きな「螺旋トリビュート」という文字が見える。

「片桐さんの作品、素晴らしいです」

 春名さんはクリアホルダーの上に紙束を載せて、こちらに押し出すようにした。俺は犯罪の証拠を突きつけられている気がした。ここで白状すべきだともう一人の俺の声がしたが、春名さんのこちらを見る、まるで憧れのスターに出会ったかのような眼差しを見詰めていると、どうしても口にできなかった。最終選考の結果が出るまで、もう少しこの眼差しを受けていたいという気持ちを抑えることができなかった。

「この前の作品も悪くはなかったのですが、今回はダントツです。群を抜いています。文体といい、着想といい、前作にもその片鱗はあったのですが、今回はそれが突き抜けていて、片桐さんの会心の作だと思います」

 褒められれば褒められるほど、居心地が悪くなった。

「……ありがとうございます」

「実は、片桐さんの作品を最初に推したのは私なんです」

 春名さんはそう言うと、イタズラっぽい目をして微笑んだ。

「それはどうも……」

「私、この作品が絶対に当選すると思っています。もし落選するようなら編集長に言って選考委員を替えてもらおうかと思うくらいに……。もちろんそんなことはできませんけどね」

 白状するなら今だという声が再び聞こえたが、俺はそれを抑え込んだ。

「片桐さんはご自分のこの作品をどうお思いですか。やはり素晴らしいものが書けたと……」

「はい、思っております。まるで自分ではない何者かが憑依して書かせているような、幸福な気分でずっと書いていました」

 よく言うよと俺は自分に突っ込みを入れた。

「やはりそうですか。作家の方々のお話を聞いていますと、そういう時は優れた作品ができるようですね。羨ましいです」

 ウェイトレスがコーヒーを持ってきて、俺はブラックのまま一口飲んだ。

「春名さんは小説を書かれないんですか」

「学生の時、真似事をしましたが、自分には才能がないとつくづく感じましたから」

「それはもったいない。書き続ければ、ないと思っていた才能が開花するかもしれませんよ」

「片桐さんはいつから小説を書き始められたんですか」

「二十七からです。体を壊して会社を辞めて、その時好きな小説を書いてみようかと思って。十年間書き続けてやっとこの前三次通過、そして今回最終候補。そういう例があることですし……」

「書き続けるのも才能のうちってよく言いますものね。でも私にはそれもありません。小説は書けないけれども、才能のある書き手を見出したいと思って編集者になりました。今回、片桐さんを見つけて、やったと思いました」

「そう言っていただくと、うれしいです。書き続けてきた甲斐があったというものです」

 心苦しさを押し殺し、俺は片桐保を演じた。

「ところで、電話でお話ししましたように、選者に作品を渡す前に書き直すことは可能ですが、どうされます」

 俺はその時、ふっと聞きたいことを思い付いた。

「春名さん、この作品の終わり方はどう思われます。私はこれでよかったのかどうか今でも悩んでいるのです」

「あの、螺旋階段を上っていく場面ですね」

 春名さんは紙束を取り上げて、最後のページを開いた。そして二、三ページ戻ってしばらく目を通すと、

「若干唐突な印象はありますが、私はこの場面で終わってよかったと思います」

「文章表現はいかがですか。なかなかぴったりと決まらなくて、何度も書き直したんですが」

「主人公の視点が『私』なのに自分を含めて遠景描写になっているのは奇妙と言えば奇妙なんですが、それはこの作品の特長でもありますから、いいんじゃないでしょうか」

 この人に俺の本当の作品を読んでもらいたい、あいつの代わりに。ふとそんなことを思った。そのためにはすべてを白状しなければならない。

「そう言ってもらえて、安心しました」

「最後の場面、書き直されますか」

「いえ、いいです」

 春名さんは、選考会は五時から始まって大体七時頃には決まることが多いので、決まれば結果をすぐに報告すると告げ、選考会までに顔写真をメール添付で送ってくれるように頼んだ。

「絶対、いいご報告ができると思います」

 そう言うと、仕事がありますのでと春名さんはレシートをつかんで立ち上がった。俺も腰を上げ、彼女と一緒にカフェを出た。エレベーターに乗り込む彼女を見送ってから、俺は階段で地上に出た。

 街灯に明かりの点った通りがまるで見知らぬ風景に見え、俺は別の世界に出てきたような心地がした。お前は絶対に白状しないだろうともう一人の俺の言う声が聞こえた。

 

 俺は文藝界新人賞の最終候補になったことを誰にも言わず、その日を待った。小説を読む気も、ましてや新しい作品を書く気も全く起こらず、黙々と目の前の仕事をこなした。当選して欲しいような、して欲しくないような、中途半端な気持ちを持て余しながら、体を酷使するように仕事に励んだ。主任から、どうしたの片桐くん、やけに張り切って、やっと仕事に目覚めてくれたのかと揶揄される始末だった。

 春名さんの名刺にあった携帯番号を登録し、スマホで取った自撮り写真をメールで送った。彼女の声が聞きたくて、写真のファイルの大きさを尋ねようかと思ったが、仕事の邪魔をしてはいけないという気持ちがそれを押しとどめた。春名さんからは、ありがとうございましたという一言がメールで返ってきただけだった。

 当日、定時の三時に職場を出て、テイクアウトの弁当屋で季節限定の月見ハンバーグカツスペシャルを買って部屋に帰った。冷凍室にはまだ賞味期限切れの弁当が残っていたが、それを食べて電話を待つ気にはなれなかった。

 七時近くになったら落ち着いて食べられないだろうと思って、五時過ぎに弁当の蓋を開けた。一口食べてみると冷めていたので電子レンジに入れて暖めのボタンを押した。

 その時、スマホが鳴った。この大事な時に誰だと画面を見ると、「春名さおり」と出ている。こんなに早く? 真っ先に落とされたか。俺はほっとしたような、がっかりしたような複雑な気分で電話に出た。

「片桐さん、当選しましたよ!」

 春名さんの声がきんきんに弾んでいる。

「え?」

「全選考委員が一致して片桐さんの作品を推したんですよ。こんなこと、初めてです。始まってすぐに決まりました」

 頭がくらくらした。

「片桐さん、聞こえてます?」

「聞こえてます。……ありがとうございます」

「私もうれしいです。絶対に大丈夫だとは思っていましたが、選考って何があるか分かりませんから」

「推薦していただいた春名さんのお蔭です。御礼を申し上げます」

「いいえ、私は何もしていません。全ては片桐さんの力ですから」

 春名さんは、受賞の言葉を四百字以内で書いて明日中にメールで送ること、メディア発表があるまで当選したことは誰にも言わないこと、授賞式は十一月十一日に**ホテルで行われること、二名まで知り合いを招待でき、その費用は文學春秋が負担すること、など事務事項を述べてから、

「私、片桐さんの担当になって本当にうれしいです。これからもよろしくお願いいたします」

 と言って電話を切った。

 本当かどうか知らないが、2ちゃんねる情報によると、メディア発表まで時間が掛かるのは二重投稿とか盗作とか、当選作に問題がないことを確認するためだということだった。

 白状するならメディア発表の前までにすべきだとは分かっていたが、俺はもう死んでも白状する気はなかった。大丈夫だという確信があった。あいつの机にはパソコンがなかったし、手で書いていたからデータとしては残ってはいない。母親があの原稿を読んでいたとも思えない。読書会の連中もあいつが小説を書いていたとは知らないはず。あいつの作品の存在を知っているのはこの世で俺一人。俺さえ黙っていたら、誰にも分からないのだ。

 俺は、とうに暖めの終わった電子レンジから弁当を取り出し、めのご飯を食べた。それを咀嚼しているうちに、腹の底から笑いがこみ上げてきた。自分でも予想外だった。笑いの波は小さな波動から次第に大きくなり、しまいには口からご飯がこぼれそうになった。俺はあわてて掌で口を押さえながら、笑いの波に全身を委ねた。

 

 翌日、職場には風邪だと嘘をついて休み、一日がかりで受賞の言葉を考えた。おとなしく、かと言って小説の形式を壊している受賞作を書いた作者にふさわしい文章にしなければならない。あいつならどう書くだろうか。俺は何度も書き直した挙げ句、過去の偉大な作品に感謝し、その文学の流れを受けて今後も小説の領域を一ミリでも広げていくような作品を書き続けていきたいと決意を述べた。

 メールで送ると、すぐに「素晴らしい受賞の言葉です」と春名さんから返信があった。

 一週間後、受賞の発表が文學春秋社のホームページに掲載された。2ちゃんねるの「文藝界新人賞を語るスレ」というサイトにも早速書き込みがあった。

 ――誰、この片桐保って?

 ――この前、三次まで残った人じゃない?

 ――ということはそこそこ書けるということか。

 ――でしょう。

 ――どんなもの書いたのか読んでみたいな。糞みたいな作品だったら、ボロカスに叩いてやる。

 ――〈螺旋トリビュート〉って題名、面白そうじゃない?

 ――こけおどしに決まってるよ。

 俺は余程、本人ですと書き込みをしてやろうかと思ったが、どうせ信じないだろうし、あまり目立つことをしては駄目だという気持ちもあって読むだけにした。

 発表の二日後の土曜日、俺は読書会に顔を出した。出席者の一人が新聞の片隅に載った発表を知っていて、「片桐さん、新人賞を取ったんだって」と大きな声を出した。皆、なになにと興奮して口々に言い、説明を聞くと、「いやあ、おめでとう。よくやったな」「頑張ってきた甲斐があったな」「本が出たら、ここで取り上げようよ」などと声を掛けてきた。

「染谷くんが生きていたら、さぞかし喜んだろうな」と年配の一人が言った。俺はどきりとした。

「そうですよね。いつも飲み屋で小説の書き方について二人で話し込んでいましたものね」

「彼のお蔭だと思っています」

 俺は殊勝な声を出した。

「彼の墓前に報告した?」

「いえ、まだ」

「彼の墓なんてあるの?」

「言葉の綾に決まってるじゃない」

「私は素直な質なんで」

「それでよく小説なんて読んでるなあ」

「その通り」

 どっと笑いが起こった。

 俺は、授賞式に二名を招待できることを告げ、誰か行きませんかと勧めてみた。

「そんな時は身内を連れて行くもんじゃないの?」

「身内はおりませんから」

「あれ、片桐さん、両親は?」

「どちらもおりません」

「あー、そうだったんだ。早くに亡くなったんだ」

「はい」

 二十五歳の時、父が癌で亡くなり、母も程なく看病疲れのせいか、くも膜下出血でこの世を去っている。

「染谷くんがいたら、一人は彼で決まりだったんだが」

 結局、選者に会ってみたいという二人が承諾してくれた。

 職場では誰も気づいていないのか、そのことを言ってくる者はなく、小説を書いていることを秘密にしている俺はほっとした。

 

 ゲラの校正も済んで、文藝界十二月号の発売日、俺は駅前の書店に行った。平積みの文藝界の表紙に「文藝界新人賞発表」の大きな文字が見える。その横には「受賞作 片桐保『螺旋トリビュート』」とある。

 本当に載ったのだと俺は思った。ゲラの段階では自分のページだけだったので、それが文芸誌の一郭を占めるというイメージが出来なかったのだ。

 手に取って、ぱらぱらとめくる。最終候補には五作品が挙げられていたが、受賞作だけで佳作も優秀作もなかった。選評を読むと、超大型新人の登場とか瞠目する作品とか、過去最高の当選作などと絶賛の嵐だった。俺はざっと目を通しただけで二度と読み返しはしなかった。受賞の言葉も白々しい思いで読んだ。

 片桐保はこの一作だけで封印しようか。俺はふっとそんなことを思った。デビュー作だけで消えていく作家は数多い。そのうちの一人になっても何らおかしくはない。小説を書きたければ次はペンネームを使うのだ。本名でデビューして途中で筆名に切り替えた作家なんているのだろうか。この当選作が前の「君のいる絶対零度」だったらどんなによかったことか、そう思うと俺はほとんど泣きそうになった。

 その夜、春名さんから電話が掛かってきた。

「十二月号、御覧になりました?」

「はい」

「選考委員、全員絶賛してたでしょ。すごいですよ。あの辛口で有名な高垣先生も褒めてましたからね」

「……そうですね」

「片桐さん、どうしました。元気がないようですけど」

「いや、そんなことはありません」

「ひょっとしたら不安なんじゃありませんか。デビュー作をあんなに絶賛されたら、次を書くのがプレッシャーになりますものね」

「確かにそれはあります」

「……だったらこのことは内緒にしておこうかな」

 春名さんが呟くように言った。声の調子が何だか楽しそうだ。俺は嫌な予感がした。

「何でしょうか」

「実は、片桐さんの当選作をA賞の候補にしようかという話が持ち上がっているんですよ」

「止めて下さい」

 俺は思わず大きな声を出した。

「え?」

「とにかく私にはまだ早いです。次とかその次の作品でお願いします」

 春名さんが黙り込んだ。喜ばないことを変に思われたのではないだろうか。今からでも喜んだ方がいいのではと思ったが、言葉が出てこなかった。

「片桐さん、もっと自信を持って下さいよ。大丈夫ですって。選考委員も太鼓判を押しているじゃありませんか」

「とにかく早いです」

「喜んでもらえると思ったのに……」

「いや、確かにそれはありがたい話ではありますが、私はもう少しじっくりと書きたいのです」

「分かりました。担当の編集者として、片桐さんの意向を尊重したいと思います。……ところで受賞第一作の件なんですが、今何かお書きになっていますか」

「いいえ、何も」

「書きたいものは何かありますか」

 俺はあいつのノートに書いてあったプロットの断片を思い浮かべた。

「……いくつかアイデアはありますが」

「よかった。それではそれを紙に書いてもらって、私に見せていただけませんか。第一作をどれにするか二人で検討しましょう」

「分かりました」

 日時を決め、文學春秋社の編集部で会うことにした。

 電話を切ると、押し入れを開け、何ヵ月ぶりかでミカン箱を引っ張り出した。「螺旋トリビュート」の原稿の下にあるノート三冊を取り出し、その中からある程度まとまっていて面白いと思われるプロットを四つ拾い出した。そして五つ目に俺は自分の思い付いた最も自信のあるプロットを書き込んだ。

 その紙を持って、約束の日に文學春秋社のビルまで行った。編集長は白髪交じりの髪をオールバックにした男の人で、柔和な顔をしていた。名刺を差し出しながら、「彼女に聞いたのですが、A賞の候補になることを辞退されるとか」と横にいる春名さんを見た。

「いえ、辞退とかそんなことは……」

「片桐さんはプレッシャーをなるべく受けずに書きたい意向なんです」と春名さんがフォローしてくれた。

「ふーん、欲のない人ですね。普通、候補にすると言っただけで飛び上がって喜ぶもんなんですが」

「すみません」

「片桐さん、こんな言葉をご存じですか。チャンスは前髪をつかめ、後ろは禿げている」

「いいえ」

「あなたは今、絶好のチャンスを目の前にしているんですよ。この機会を逃したら、二度とチャンスは訪れないかも知れませんよ」

「……その通りかも知れません」

「だったら、思い切って前髪をつかむことです。失敗してもいいじゃないですか。やらない後悔よりもやった後悔の方がずっといいですよ」

 やった後悔の方がずっと大きい場合があることをこいつは知らないのだと俺は思った。ここで剽窃であることを白状したら、こいつはどんな顔をするだろう。

「分かりました。お任せします」

「よし、決まり」

 編集長は右手を差し出した。俺はその手を握った。

「我が編集部にお任せ下さい。きっとあなたを育てて見せます。この春名くんは優秀な編集者ですからね。二人三脚のパートナーとしてはうってつけですよ」

 春名さんは俺を見て微笑んだ。

 二人で応接室に入ると、春名さんがいきなり頭を下げた。

「すみません。編集長に余計なことを言いまして」

「いや、いいんです。プレッシャーを受けないで書きたいなんて、そんなことあり得ないと私も思っていましたから」

「私が全力で支えますから、どんなことでもおっしゃって下さい」

「ありがとうございます」

 早速、机の前に坐って俺はリュックから紙を取り出した。それを向かいに坐った春名さんの前に広げる。彼女は目を落とし、じっくりと読んでいく。俺は胸がばくばくするのを感じながら、その様子を見守った。

「どれも面白そうですね。でもこの中から私が選ぶとすれば……」

 春名さんの指が伸びる。五番目を選んでくれ、俺のを指差せ。俺は全神経を込めて念じたが、春名さんが「これですね」と指を置いたのは三番目だった。輪廻転生した女が復讐を遂げる話だが、戦争の歴史が暗喩として込められているものだった。

「それですか」

「すぐに取り掛かってもらうことはできますか」

「ちょっと難しいかな」

「だったら、どれがいいですか」

 俺はためらいながら五番目を指差した。

「ああ、これは止めておきましょう。他の四つと異質ですから。この前の三次に落ちた作品と同様の私小説みたいですね」

 どれも面白そうと言ったのは社交辞令かと俺はむかっときた。

「早く次の作品を載せて、合わせて本にしたいんですが、受賞作とあまりにも色合いの違う作品はまずいですから」

「それではいつかこのプロットで書いてもいいですか」

「掲載できるかどうかは作品次第になります」

 駄目なら駄目と言ってくれ、蛇の生殺しみたいな言い方は止めてくれ。余程そう言いたかったが、できなかった。三ヵ月を目処に三番目の案で書いて欲しいと言われ、俺はやけくそ気味に「いいですよ」と答えた。

 別れる時、「2ちゃんねるの『文藝界新人賞を語るスレ』というサイトを御覧になりました?」と春名さんが聞いてきた。

「いいえ」

「見ないで下さいね。小説をろくに読めない人間が好き勝手なことを書いていますから」

 そんなことを言われると、却って見たくなる。俺は部屋に戻ると、早速ノートパソコンを立ち上げた。

 ――めくるめく小説世界に翻弄された。

 ――今回だけはお手上げ。高垣のじいさんの言う通り。

 ――こいつは一流になりそう。リアルタイムで読めてよかった。

 何だ、皆褒めているじゃないか。そう思って読んでいくと、

 ――時制はでたらめ、人称も無茶苦茶。形だけの、おためごかしの作品としか言いようがない。

 とあった。俺は二度読んで、なぜだか胸がすっとした。それからは貶し発言ばかりを読んでいった。

 ――こんな作品を選ぶなんて、選考委員の目は全員節穴だ。

 ――ガラパゴス化した日本文学の象徴のような作品。世界に対して恥ずかしい。

 ――こんな作品で文学の領域を広げようなんて、ちゃんちゃらおかしい。

 もっと貶せ、もっと貶せ。最新の発言まで読み終わると、俺はログインして書き込んだ。

 ――無理して小説の形式を壊している感がありあり。この作者はこれ一作で消えていくだろうな。

 リターンキーを押すと、画面に自分の発言が現れた。するとすぐに、

 ――その通り!

 と返ってきた。まるで自分が向こうにいるような爽快感があった。

 

 春名さんに頼まれた作品に全く取りかかれず、俺はミカン箱のあいつの書き散らしたものをつらつら読むだけだった。どこかにあの三番目のプロットを書き始めた原稿がないかと探したが、それらしい断片はなかった。それでもあいつの文章を読んでいると、その文体が体に染みこんできて、ある日突然話が動き始めるのではないかと淡い期待を込めて、断片を読み続けた。

 一行も書けないまま、授賞式当日を迎えた。日曜日なので俺は最初有給休暇を申請するつもりだった。しかし忙しい日曜日を休もうとすると、その理由をしつこく聞かれるので、俺は有休申請を止め、朝、電話をして風邪だと嘘をついた。

 服装は何でもいいと言われていたが、一応ジーンズの上にジャケットを着て俺は一時間前に会場のホテルに出向いた。レセプションホールの受付で名前を名乗ると、白いドレスを着た女性が俺の胸に赤いバラを象った胸章を付けてくれた。垂れ下がった部分には「第122回文藝界新人賞受賞者 片桐保」と書かれている。その女性の案内で、控え室に行った。

 中には春名さんを始め、文藝界の編集長、顔を見知った編集者たちがいて、立ち話をしていた。春名さんはいつものスーツ姿とは違って、明るいブルーのミニのワンピースを着ており、初めて見るそんな姿に俺はどぎまぎした。

「いや、主役のお出ましだ」と編集長が言って、春名さんと一緒に近づいてきた。

「次の作品、書いていますか」と春名さんが聞いてきた。

「何とか少しずつ」

「ある程度まとまったら一度見せて下さいね」

 俺はどきりとした。

「その時は連絡します」

 しばらくして羽織袴姿の男が入ってきた。白髪交じりの髭を生やしているが、顔はぎらぎらしている。選考委員の一人である高垣だった。編集長が早足で近づいていく。

「先生、お早いお着きで」

「うん、もっと混んでいると思ったが、意外と空いていたからな」

 編集長は高垣を連れて俺の側まで来た。

「彼が今回の受賞者の片桐くんです」

「おお、君か。結構読むのに苦労したぞ。でも、ああいう純文学があってもいいと思って私は賛成したんだ。これからも純文学を盛り上げる作品を書いてくれよな」

 こんなベタな私小説を書く作家にも認めさせるのだから、あいつは本当に才能があったのだと俺はつくづく思った。

「片桐くん、先生はA賞の選考委員でもあるのだから、よろしくお願いしておきなさいよ」

 俺は「よろしくお願いいたします」と頭を下げた。

「まあ、私に任せなさい」

「私からもお願いします」

 隣にいた春名さんもお辞儀をした。

「君が彼の担当なのか」

「はい」

 高垣は春名さんをじろじろ見た。

「そんなドレスを着ると、より女っぽく見えるね」

「先生、お上手ですね」と春名さんが笑う。俺は何だか居心地が悪くなってきた。

 その後、別の選考委員たちもやって来て、俺はその一人一人に挨拶をさせられた。握手を求められたり、肩を叩かれたり、俺はその大袈裟な期待のされ方に、彼らの微かな嫉妬を感じずにはいられなかった。

 時間になって会場に移動した。結婚式の披露宴に使われそうな広い部屋にグラスの置かれた丸テーブルがいくつか置かれ、その間に人が屯していた。百人も来ているのだろうか。俺はその中に読書会の連中の姿を認め、目が合った一人に片手を上げた。

 壇上の壁面上部に「第122回文藝界新人賞受賞式」と書かれた横断幕が掲げられ、俺はにあるパイプ椅子に坐らされた。自分が主役なのに、どうしてもそんな気になれない変な気分だった。ふわふわとした感覚はあるのだが、妙に冷めている部分もある。

 司会が開会の宣言をした後、編集長が挨拶をし、選考委員を代表して高垣周幸が講評を述べるため登壇した。一回目の投票で、五人の選考委員全員が「螺旋トリビュート」に丸を付けたため、議論にならず、他の候補作には可哀想なことをしたと言い、俺の作品は置いておいて、落ちた候補作の講評を一つ一つやり始めた。お、いいところがあるじゃないかと俺は高垣をちょっと見直した。

 文學春秋社社長から表彰を受け、俺は受賞者挨拶としてマイクの前に立った。皆の顔がこっちを向き、カメラのフラッシュが光った。足が震える。前の晩から何を言おうかとさんざん考えていたが、考えがまとまらないまま、俺は取りあえず「私の作品を選んでいただき、ありがとうございました」と言って頭を下げた。

 突然、ここですべてを白状したいという誘惑が胸を締め付けた。言ってしまえ、言ってここにいる全員をポカンとさせろ。会場を何が起こったのか分からない情況に陥らせろ。しかし俺はその誘惑に唇を噛んで耐えた。

「この作品の誕生には一人の友人の支えがありました」と俺は続けた。「彼は私の参加している読書会の仲間で、その読みは鋭く深く、批評は示唆に富んでおり、私を唸らすものでした。小説の読者は、普通の読者という意味のレクトゥールと精読する読者という意味のリズールに分けられるそうですが、彼はまさにリズールでした。私は彼に自分の小説を読んでもらいました。彼自身は小説を書かないので、書き手の立場からは何も言えないがと断りつつ、構成や文章表現について数多くのダメ出しをしてくれました。私はそのダメ出しに時には反発しつつ、自分の作品を見直し、何度も書き直しました。その結果、生まれたのが今回の受賞作です。残念なことに、彼は半年前に交通事故で他界いたしました。出来れば彼と一緒に今回の受賞を喜び合いたかった。この会場に来て欲しかった。いや」と俺は天井を見上げた。すっかり自分の言葉に酔っていた。「染谷庄一郎。その辺りに来ているんだろう。見てくれ。俺は文藝界新人賞を取ったぞ。お前のお蔭だ。喜んでくれ」

 俺が頭を下げると、盛大な拍手が巻き起こった。

 懇親会が始まって、春名さんがワイングラスを手に近づいてきた。

「受賞の挨拶、素敵でした。胸を打たれました。染谷さん、片桐さんの大切なご友人だったのですね。片桐さんが今書き悩んでいらっしゃるのは染谷さんが亡くなられたからですか」

「それもあります」

「私も染谷さんに負けないように作品を全力で読みますので、どうか次を書いて下さいね」

「染谷の代わりになってもらえますか」

「はい」

 春名さんの目が潤んでいる。俺は思わず彼女をハグしそうになった。周りに誰もいなかったら、本当にそうしていただろう。

 彼女に導かれて、俺は他の文芸誌の編集者や過去の新人賞受賞者に会って挨拶をし、名刺を交換した。

 懇親会の終わり近くになって、ようやく読書会の連中の傍に行くことができた。

「今回の作品、本当に染谷くんに見てもらったの」と一人が言った。

「……ええ、もちろん」

「彼が死ぬ前の読書会の時、まだ書けてないから書けたらすぐに送るとか何とか、二人で話してなかった?」

 嫌なことを覚えていやがると俺は思った。

「あの後すぐに書き上げて見てもらったんですよ」

「一週間くらいしかなかったんじゃないか」

 すると、もう一人が口を挟んだ。

「何言ってるの、染谷くんが読んだに決まってるでしょ。片桐くんの以前の小説に比べたら、今回の作品、別人が書いたみたいにレベルが上がっているんだから」

 そう言えば、こいつにずっと以前俺の作品を読ませたことがあった。

「ということは、染谷くんが亡くなって一番堪えているのは片桐くんというわけか。もうチェックしてくれる人間がいないわけだから」

「担当の編集者がその代わりをするんでしょ」

「そういうことか」

 二人は笑い合った。俺は読書会には二度と顔を出さないでおこうと決めた。

 

 授賞式が終わって、俺は春名さんのためにも新作を書かなければと毎晩ノートパソコンの前に坐った。最初からあいつの文体を意識せず、取りあえず自分の文章で書き、後で文体模写の要領で書き直せばいいと開き直った。プロットはあいつが考えてくれたのだから、そんなにひどいものにはならないはずだ、というのが唯一の支えだった。

 こつこつと書いていくうちに原稿の枚数が積み上がっていった。ある程度まとまったら春名さんに読んでもらおうかと思っていたら、彼女から電話が掛かってきた。

「片桐さん、A賞の候補に決まりました」

 やっぱりそうなったか。俺はどう答えたらいいのか分からなかった。

「断ることもできますが、いかがいたしましょうか」

 断りたい、俺はそう思った。しかしそんなことをすれば、あの編集長が翻意を促しにやって来るだろう。ひょっとしたらあの高垣も一緒に連れてくるかも知れない。そんな煩わしさを考えると、受ける以外の選択肢はなかった。

「ありがとうございます。お受けいたします」

「ああ、よかった。片桐さんの作品は最有力なので、それを外すわけにはいかないというのが結論でして、断られたらどうしようかと……」

「私の作品が最有力というのは本当なんですか」

「はい。それで当選を見越して片桐さんの本を選考日の翌日、一月十六日に発売しようと企画しています」

「え、『螺旋トリビュート』を本に?」

「そうです。今書いていただいている作品と合わせて出版しようと……」

「そんな、無理ですよ」

「大丈夫ですって。年内に原稿を上げてもらえば間に合いますから」

「年内って、あと一ヵ月足らずじゃないですか」

「今どのくらいまで書けました?」

「原稿用紙換算で三十枚くらい」

「それ、読ませてもらってもいいですか」

「いや、もう少し書いてからなら」

 俺はあわてて答えた。まだあいつの文体に直していないのだ。

「分かりました。読ませてもらうのを楽しみにしています」

 俺はその夜、ほとんど徹夜で小説を書き、翌日から三日間インフルエンザかもしれないと嘘をついて仕事を休み、あいつの文体に書き直すことに集中した。

  それをプリントアウトしてリュックに入れ、俺は文學春秋社に足を運んだ。

 応接室で春名さんと向き合い、作品を渡す。彼女が読んでいる間、俺の心臓はばくばくと動悸を打っていた。偽物であることがばれるのではないか。付け焼き刃の文章を見抜かれるのではないか。俺は黙読している春名さんの表情を見詰め、そこにちょっとした感情の変化を読み取ろうとした。彼女がふっと口角を上げるとほっとし、無表情になると心配になった。

「面白いです」

 読み終わった春名さんは開口一番そう言った。

「え?」

「受賞作に比べると落ち着いていますけど、らしさが出ているのでいいと思います」

「書き進めてもいいということですか」

「もちろんです。ただ、前に年内に上げてくれたらと言いましたが、もっと早くしてもらうとありがたいです。二人で検討する時間が取れますし……」

 ゴーサインが出たことはうれしかったが、検討する時間がいるということは粗が見えるということだろう。それでも、否定されなかったことが俺に勇気を与え、できるだけ春名さんの要望に添おうという気にさせた。

 

 数日後、A賞振興会から速達が届き、最終候補になったことと、同封の用紙に略歴を書いて写真と一緒に返送する旨のことが書かれていた。

 さらに、いくつかの新聞社から当選した場合に備えての予備取材を受けた。休みの水曜日に俺の部屋に二社に来てもらい、他は夜にしてもらった。

 ――十年間書いてきて、まさかA賞の候補になれるとは思っていませんでした。

 ――やはり他人に読んでもらうのは大事です。私の場合、読書会で知り合った友人の助言を受けたことが大きかったです。

 ――文学の可能性をどこまで広げられるか、それに挑戦し続けることが自分に課せられた使命だと思っています。

 同じような質問に同じように答えていると、あたかも自分が本当にそんなことを考えている人間になったような、高ぶった気持ちになった。

 十二月中旬にA賞候補作がメディアに発表された。新聞の小さな欄に他の候補作と一緒に「片桐保『螺旋トリビュート』(文藝界十二月号)」と名前が載った。この程度だったら誰にも気づかれないだろうと思っていたら、次の日、職場のバックヤードで俺が鮭の切り身をパックしているところへ主任がやって来た。手には新聞を持っている。

「片桐くん、ここに載っている片桐保って君のこと?」

 主任は新聞の一角を指差した。ここでは誰にも小説を書いていることを話していない。とぼけるか。一瞬そう思ったが、もし当選したら、嘘をついたことがばれてしまう。

「……はい、そうですが」

「君、小説を書いてたの?」

 主任の顔が厳しいままなので、これはまずいと俺は思った。

「はい」

「私はね、ここにいる間さえきっちりと働いてもらったら、時間外で何をしようが何にも言いませんよ。ただ、仕事を休んで他のことをするとなると話は別です。片桐くん、風邪で休んでいますよね、先月も今月も」

 やはりそう来たか。

「はい」

「本当に風邪だったの?」

「はい」

「診断書は出したの?」

「いいえ、医者には行かなかったですから」

「インフルエンザも自分で治したの?」

「はい」

 主任はふーんと言って、俺の顔をじろじろ見た。俺は、目をそらすなと自分に言いきかせて主任の顔を見返した。

「そういうことなら、まあ、いい。ただこれからは病欠の場合、必ず医者に診てもらって診断書を書いてもらうように。診断書の費用はこちらで持つから。分かった?」

「分かりました」

「これから年末にかけて忙しくなるから、定時には帰れないよ。休みの日も出てきてもらうかもしれないからそのつもりで。小説なんか書いている暇はないよ」

 そう言うと、主任は離れていった。二人のやり取りを誰かが聞いていたのか、休憩時に俺はパートのおばさんたちに取り囲まれた。「片桐くん、小説書いてたんだ」「A賞の候補になるなんて凄いじゃない」「賞を取ったらどうするの。ここを辞めるの?」「どんな小説を書いたの?」「まさか、おばちゃんたちのことを書いたんじゃないでしょうね」……。

 俺はその都度、はいとかいいえと短く答えながら、曖昧な笑いを浮かべていた。

 その日、俺は七時まで働かされた。実働十三時間。くたくたになってパソコンを立ち上げる気力も起こらなかった。

 翌日も主任から残業を命じられ、俺はムカッとなった。明らかに嫌がらせだ。自分の下で働いていたつまらない人間が脚光を浴びることに嫉妬しているのだ。ケツの穴の小さい凡人め。そう思うことで、俺は怒りを抑えた。ただ、身体の疲労は精神の集中を妨げるのは確かで、その日は一応パソコンを立ち上げはしたが、読むだけで精一杯で、一行の文章も浮かんで来なかった。

  それでも何とか書こうと粘っていたら、電話が掛かってきた。十時を過ぎている。こんな時間に誰だと思ってスマホを取り上げると、春名さんからだった。俺はうれしくなって、アイコンをタップした。

「どうですか。小説、進んでますか」

「駄目です。ここのところ残業続きでくたくたに疲れてしまって。今も何とか書こうとしていたんですが、言葉が出て来なくって」

「……スーパーはやはり年末が忙しいんですか」

「書き入れ時ですから」

「何とか時間を見つけて書いて下さいね」

「いっそのこと仕事を辞めて書くことに専念しようかと……」

「ちょっと待って下さい。それは賛成しかねます。書くことを専業にして生活していくことは思った以上に大変です。ですから仕事は絶対に辞めないようにして下さい」

 喜んで賛成してくれるものとばかり思っていた俺は意外だった。

「でも、このままでは間に合わないかも知れません」

「間に合わなければ発売日をずらすこともできますから、軽々に辞めるなどという結論を出さないようにお願いします」

「分かりました」

 俺はそう答えたが、次の日も残業を命じられてぶち切れ、定時の三時に制服を脱いでロッカーに叩き込むと、派遣会社に電話をして辞めることを告げた。担当者は「そんなに急に辞めると言われても」とあわてた様子だったが、ペナルティがあるならどうぞと言って、俺は電話を切った。金がなくなったら、また別の派遣会社に登録すればすむことだと俺は居直った。

 スーパーマーケットの職場で唯一のメリットは賞味期限の過ぎた弁当を捨て値で買えることだ。それを冷凍しておけば、晩飯は月二千円もかからない。残り少なくなった在庫から弁当を取り出し、電子レンジに掛けた。新人賞の賞金五十万円が入金されたので、当分は働かなくてもいい。

 俺は解凍された酢豚弁当をかき込み、パソコンの前に坐り直すと、キーボードを叩いた。

 朝から晩までぶっ通しで書き続けた。現実の時間が消え、俺はずっと小説の時間の中にいた。今何時かも分からず、腹も減らず、眠たくなればベッドに倒れ込んで毛布を被って寝た。

 一旦自分の文章で小説が書き上がった時はさすがにうれしかったが、それもほんの束の間で、あいつの文体に近づけることにさらに時間を掛けた。

 何とか脱稿した夜、俺は喜び勇んで春名さんに電話をしようとスマホを手に取った。お気に入りに登録している春名さんの電話番号を呼び出し、発信アイコンをクリックする。

 しかし呼び出し音が一回鳴ったところで、今晩がクリスマスイブであることに気づいた。時間も十一時近くになっている。俺はあわててキャンセルボタンを押した。

 ふうっと溜息をつく。もし彼女が誰かと一緒にいたらまずいことになる。さすがに怒られるかも知れない。俺はスマホを置いて、再びパソコンに向かった。

 その時、電話が鳴った。見ると、春名さんからだった。

「今、電話しませんでした?」

「しました」

「何ですか」

「今話しても大丈夫ですか」

「え? どうしてそんなこと聞くんですか」

「クリスマスイブですから」

「ああ」

 春名さんの笑っている気配が伝わってくる。

「残念ながら仕事です。ていうか、イブであることをすっかり忘れていました。……あ、書けたんですか」

「はい、何とか」

「よかった」春名さんの声が弾んでいる。「意外と早かったじゃないですか。私はてっきり間に合わないと思って、予定を組み替えるつもりでいたんですよ」

「必死で頑張りました」

 春名さんはふふと笑ってから、

「それじゃあデータを送って下さい。早速こちらで読ませてもらって、ご連絡いたします」

 俺は原稿のデータをメール添付で送ると、ベッドの中に倒れ込んだ。

 次の日の夜、春名さんから電話が掛かってきた。

「面白かったです。いくつか気がついたところをチェックしましたので、今からそちらに持って上がります。よろしいですか」

 汚い部屋を見られるのが嫌だったので、俺が今から向こうに行くことにした。

 文學春秋社のビルの窓にはほとんど明かりがついていた。文藝界編集部もまだ照明がついていて、編集長はいなかったが、編集者が何人も残っていた。春名さんはクリアホルダーを持ってデスクから立ち上がると、俺の側にやって来た。

「顔色が悪いですよ。ちょっと痩せられました?」

 心配そうな顔をしている。

「ここのところ部屋に籠もりきりだったから……」

「籠もりきり?」

「実は、仕事を辞めたんです」

「え、辞めちゃったんですか」

「A賞の候補になったことがバレて、いろいろと言ってくる人がいるんですよ。それで働きづらくなって……」

「大丈夫なんですか」

「正社員じゃなくて派遣ですから。またどこかに登録して働きますよ」

「それならいいんですけど……」

 二人で応接室に入って向かい合って坐り、俺は春名さんからプリントアウトしたA4の束を受け取った。

 原稿を捲っていくと、ほとんど全てのページに渡って、赤い書き込みが入っている。「螺旋トリビュート」の時とは大違いで、それは俺を落ち込ませるに十分だった。

「題名も変えた方がいいでしょうか」

 俺の付けた「の行方」が「」になっている。

「鶴屋南北を思わせる内容だったので、それらしい題名にしてみました」

 春名さんが笑顔で言う。そう言えば、あいつのノートにも、鶴屋南北のい交ぜ手法に言及した箇所があったことを思い出した。

「何とか春名さんの意向に添うように書き直してみます」

「片桐さん、駄目ですよ、そんなことでは。自分の意見をきちんと持って、譲れないところは譲れないと主張しなくては」

「分かりました」

 しかし、俺はチェックされたところは、全てその通りに書き直すことに決めて、原稿を持ち帰った。

 再び、一日中パソコンに向かう生活になった。根を詰めていると肩が凝ってきて、俺は立ち上がって両腕を回し、時には気分転換のため外に出て歩き回った。頭の中には春名さんの書き込みが渦巻いている。文章に対するチェックは簡単に書き直せるのだが、エピソードを入れ替えたり、新たなエピソードを要求されたりする箇所では、なかなか前には進めなかった。

 夕方、疲れ果ててベッドに寝そべっていたら、ノックする音が聞こえてきた。俺は重い体を起こし、玄関まで行ってチェーンを掛けたままドアを薄く開けた。

 そこには春名さんが立っていた。俺は驚いてチェーンを外し、ドアを開けた。春名さんはワインカラーのコートを着て、スーパーのレジ袋を下げている。俺は自分の着古したジャージーの上下やぼさぼさの髪が恥ずかしくて、ドアを閉めたかったが、さすがにそんな真似はできない。

 冷たい風が入り込んでくるので、春名さんに中に入ってもらった。

「どうですか。進んでますか」

 俺は髪の毛を片手で撫でつけながら、

「なかなかうまく行きません」

「今日は仕事納めだったんですよ。それで早く終わったんで、陣中見舞い」

 そう言って春名さんはスーパーのレジ袋を差し上げた。仕事納めということはもう三十日だったのかと俺は初めて気づいた。

「片桐さん、ろくな物を食べていないみたいだから、今晩は私がすき焼きを作ってあげます。鍋かなんかありました?」

「ほとんど使っていませんけど、一つあります」

「よかった」

 俺は彼女に上がってもらった。1K六畳のアパートで、フローリングの床には弁当やカップヌードルの容器、空のペットボトル、丸められたティッシュ、本、衣類などが散乱していた。こんな恰好を見られたのだから、今さら部屋を繕ってみても仕方がないとは思ったが、それでも目立つゴミを片付けようとゴミ袋を取り出した。

 春名さんはスーパーのレジ袋をちっぽけなコンロのそばに置くと、散らかったゴミには目もくれず、真っ直ぐ机のところに行った。そして点けっぱなしになっていたパソコンの画面を覗き込んだ。ゴミを袋に放り込んでいた俺はあわてて飛んでいき、「まだ途中だから」とパソコンをシャットダウンした。

「私がすき焼きを作っている間でも書いたらどうですか」

 そう言われると、机の前に坐らざるを得ない。俺は椅子に腰を降ろし、再びパソコンを立ち上げた。しかし、春名さんがキッチンで野菜を切っている音が聞こえてきて、なかなか集中できない。それに自分の文章を見られるかも知れないという恐れが書くことをためらわせていた。

 俺はキーボードを適当に叩きながら時間を潰し、「できました」という声にほっとしてパソコンをスリープにした。

 いい匂いが漂っている。床に毛布を敷き、雑誌を鍋敷きにして、その上に春名さんが湯気の上がっている鍋を置いた。醤油の甘辛い匂いがふわっと俺の顔を包んだ。春名さんは生卵の入った器と割り箸も用意してくれた。

「この器は?」

「片桐さんのところにはおそらく何にもないだろうと私が家から持ってきました」

「よく分かりますね」

「でも、包丁とまな板があったのには感心しました」

「そのくらいはあるでしょう」

「使った形跡はほとんどなかったですけどね」

 春名さんの笑いに、俺は苦笑いで応えた。

 卵をかき混ぜ、肉を潜らせて口に入れる。上等の牛肉なのか柔らかくて、ひと噛みしただけですっとのどを通った。肉のうまみがいつまでも残っている。弁当に入っている固い肉とは別物だった。

 春名さんは長葱を食べている。

「すき焼きって、まず肉じゃないんですか」

「私、この葱のトロトロのところが好きなんです」

 そう言って、春名さんは斜めに切った葱を箸で持ち上げた。

 女性と二人で差し向かいで食事をするなんて何年ぶりのことだろうと俺は思った。十年前に小説家になろうと決めて書き始めた頃、派遣なんかで働かないでちゃんと就職してよと言われて一年程付き合っていた彼女と別れたのだが、その時以来だろう。最後はイタリア料理のパスタだったか。そんなことを思って肉を食べていると、ふっと涙ぐみそうになった。

「これでビールがあったら最高ですね」

 俺は気分を変えるために軽い調子で言ってみた。

「お酒、お好きでした?」

「ええ、呑む時は呑みます。でも、小説を書いている時は酔っ払わないように缶ビール一本くらいですね」

「授賞式の時、あまり呑まれていなかったので、お好きじゃないのかなと……」

「あの時は緊張で、そんな気になれなかっただけで」

「ビール、買ってきましょうか」

「いいえ、今日もこれから書かなきゃなりませんので。何とか明日中に仕上げますよ」

「そうしたら、明日も陣中見舞いに来ます。何かお好きなものがありますか」

「春名さんの作ってくれるものなら、何でもいいです」

 春名さんの目が笑っている。

 肉を食べたのはもっぱら俺で、彼女は野菜や豆腐を口にしただけだった。片付けもすべてやってくれ、生ゴミを入れたレジ袋を手に、春名さんは玄関に立った。

「春名さんのお蔭で、今日は徹夜してもいいくらいのパワーをもらいました。頑張ります」

「では、また明日」

 春名さんがドアを開けて出て行く。俺は玄関横の窓に顔を近づけて、ワインカラーの後ろ姿を見送った。

 肉の力なのか、自己暗示の力なのか、夜中を過ぎても書く力が衰えなかった。俺は春名さんと酒を呑みたい一心で書き続け、朝方になってようやく脱稿した。ベッドに倒れ込み、次に目を覚ました時は正午を過ぎていた。カップヌードルとチョコバーで空腹を満たしてから、書き直した作品を音声ソフトで読ませて誤字脱字をチェックし、プリントアウトした。それをクリップで留め、机の上に置く。ゴシック体の「返討鴇姫文章」という題名が目を惹いて、俺は満足して頷いた。

 コンビニでビールとワインを買ってきて冷蔵庫に入れ、久しぶりに風呂を沸かして体を洗い、コーデュロイのパンツにタートルネックのセーターを着た。テレビでは今年を回顧する番組をやっており、それを流しながら俺は部屋を片付けた。

 五時を回ったところでノックの音がし、ドアを開けると、赤いダウンコートを着た春名さんが昨日と同じようにスーパーのレジ袋を下げていた。ただ、昨日と違ってスーツ姿ではなく、ダウンの中は紺色のミニスカートに横縞のセーターだった。

「書けましたね」と春名さんが言った。

「分かります?」

「執筆スタイルとは違いますもん」

 上がってもらって、原稿を見せる。

「題名、これにしたんですか」

「すべて春名さんの言う通りにしました」

「もう」

 春名さんは俺を睨んだが、怒っていないことは分かる。

 後で読ませてもらいますと言って春名さんは夕食の用意を始めたが、トマト鍋だと聞いて、それなら俺でもできると代わりにキッチンに立った。春名さんはスープの袋に書いてあるレシピを示し、この通りにやってと言ってから机の前の椅子に坐って作品を読み始めた。俺はレシピを見ながら、茄子や玉葱を切り、シメジをばらし、鶏肉を炒めた。その合間にちらちらと春名さんを見る。原稿から目を離さず真剣に読んでいる様子に、俺はほっとした。

 トマト鍋が出来上がった頃、ようやく春名さんが顔を上げた。

「もう食べられますよ」と声を掛けると、彼女はこちらを向き、人差し指と親指で丸を作ってにっこりとした。

「やった!」

 俺は握り拳を突き出してガッツポーズをした。

 鍋を挟んで、俺は缶ビール、春名さんはマグカップに入れたワインで乾杯をする。

「今から準備して初版五万部を予定しています」

「五万も?」

 新人の小説は初版五千部を売るのも大変だと2ちゃんねるで聞いたことがある。

「大丈夫ですって。当選したらすぐにけますから」

「もし当選しなかったら?」

「その時は地道に売りましょう」

  俺が渋い顔をすると、

「編集長も太鼓判を押していますし、あの高垣先生も後押ししてくれるから心配しないで」

 と春名さんがマグカップを俺の缶ビールに軽く当てた。

 トマト鍋を平らげ、年越しそばの代わりに中華麺を残りのスープの中に入れ、それを二人で食べていると、何だか笑えてきた。

 準備したのが片桐さんだからと春名さんが片付け始めた。テレビの前で寝転びながら、俺は流し台で洗い物をする春名さんに目をやった。ミニスカートから伸びる脚がまぶしい。後ろから近づいていって抱きしめたら怒るだろうか。プロ作家としての道が断たれるかも知れない。そんなことを思っているうちに酔いの回った俺は眠ってしまった。

 次に目が覚めた時、俺は一瞬自分がどこにいるか分からなかった。すぐに思い出し、春名さんはと顔を動かすと、彼女は横に寝ていた。上半身を起こし、彼女の顔を見る。セーターの横縞でより豊かに見える胸が規則正しく上下し、静かな寝息で眠っているのが分かる。

 俺は顔を近づけ、彼女の唇に自分の唇をそっと当てた。その時、春名さんが目を覚ました。俺があわてて離れようとすると、彼女は俺の腕をぐっと引っ張って抱きしめた。唇を強く押し当ててくる。俺は戸惑いながらも舌を差し入れ、唇を吸った。

 それからは一瀉千里だった。服を脱ぐのももどかしく、お互い裸になると狭いベッドで抱き合った。唇を合わせたまま体をまさぐり合い、乳首を吸い、下半身に指を滑らせた。十分に濡れている。十年間セックスから遠ざかっていた気後れはすっかり飛んでしまっていた。挿入の時、避妊のことが頭をよぎって動きが止まったが、彼女が頷いたのでそのまま体を重ねていった。

 終わって抱き合っていると寒くなってきたので、毛布を被った。春名さんは横向きになって俺の肩に頭を載せた。こうして彼女と肌を合わせていることに俺は信じられない思いだった。彼女が真相を知ったら、俺と寝たことをきっと後悔するだろうと思うと、深いに落ちていく気分だった。

「俺、何だか恐い」

 ふっと言葉が口を突いて出た。

「分かるわ、その気持ち」

「A賞なんか取っていいのだろうか」

「取っていいのよ。恐くても取っていいの。どんな作家もそういう経験をして大きくなっていくのよ」

「書けるだろうか」

「第二作が書けたのだから次もきっと書けるわよ。あなたには才能があるのだから、それを信じて。あなたの才能がもっと大きく花開くよう、私がサポートします」

 俺は返事の代わりに春名さんの頭を抱きしめた。

 翌日の元旦、二人で近くの神社に初詣に出掛けた。いつもは閑散としている狭い境内に大勢の人たちが来ており、彼らの後についていって本殿の前に立った。俺は財布にあった五百円玉を賽銭箱に入れて手を合わせた。春名さんも硬貨を投げ入れて礼拝する。

「いくら入れたの」と春名さんが聞く。

「五百円」

「私もおんなじ」

「何を祈ったの」

「片桐さんがA賞を取れますように。片桐さんは?」

「俺もおんなじ」

 本当は逆だった。俺は、A賞に落選しますようにと祈ったのだ。

 その日は一日中、二人で街を歩き回り、夜、俺の部屋に戻ってベッドで抱き合った。

 

 初めての出版に向けてゲラの校正、装丁者との打ち合わせなどがあり、その都度春名さんと会うことがデートの代わりになった。

 選考日の三日前、本が出来上がったとの連絡を受け、俺は文學春秋社に行った。文藝界編集部に顔を出すと、編集長が出迎えてくれた。春名さんが目で挨拶を送ってくれる。二人が付き合っていることは内緒にしているということだった。

「これですよ」と編集長が本を見せてくれた。螺旋階段をイメージさせる赤っぽい絵のカバーに白い帯が掛けられている。そこには「驚異のA賞受賞作」という文字が極太のゴシック体で印刷されていた。

「こんなことをして大丈夫なんでしょうか」

「落選したら、候補作という帯に差し替えますから大丈夫ですよ」

 編集長はそんなことは当たり前という顔をしている。

 俺は編集者一人一人に握手して回った。春名さんの時だけ力を込めて握り、「これからもよろしくお願いします」と頭を下げた。「こちらこそよろしくお願いします」と春名さんは俺の手を握り返してきた。

 

 選考会当日、俺は編集者たちと一緒に文學春秋社の地下のカフェにいた。俺の作品が最有力ということで、メディアの記者も五人ほど来ていた。隣に春名さんがいて、時折周りに見つからないように手を握ってくれる。俺は目の前に置かれたハイボールにも口を付けず、発表を待っていた。

 午後七時過ぎ、テーブルに置いていたスマホの着信ランプが光り、同時に着信音が鳴った。俺はスマホを取り上げ、受信アイコンをタップした。

「片桐さんでいらっしゃいますか」

「はい」

「第百五十四回A賞にあなたの『螺旋トリビュート』が推挙されました。お受けいただけますか」

「はい。謹んでお受けいたします」

 その瞬間、わっと歓声が上がった。カメラのフラッシュが次々とたかれる。編集長が握手を求めてくる。春名さんが俺の肩に手を置いた。

 タクシーに乗って記者会見場に向かった。

 会場の金屏風の前に一番若い選考委員が登壇し経過を述べたが、新人賞の時と同じく全

員満票の受賞だった。俺は大勢の記者に取り囲まれ、数々の質問を受け、A賞受賞の帯の付いた新刊本を手に写真撮影に応じた。

 パーティの席には高垣周幸が真っ先に姿を見せた。焦茶色の渋い和服を着ている。

「全員満票は俺が根回ししたからだよ」と声高に吹聴している。春名さんにどういうことかと尋ねると、他の選考委員に会う度に、俺の作品の素晴らしさを説いたらしい。

「それはこちらから頼んだということ?」

「それとなくね。同じ当選にしても全員満票となると売れ行きが違うから」

「まさか、きみが色仕掛けで……」

 俺が小声で言うと、春名さんは一瞬目を見開き、すぐに笑い出した。

「何言ってるの。そんなことするわけないじゃない。確かに先生は私のこと気に入っているのは分かるけど、先生は紳士よ。私は娘のように接しているだけ」

 春名さんの反応は自然で、俺はそれ以上追及する気にはなれなかった。彼女は俺の腕を軽く掴んだ。

「でも、片桐さんが妬いてくれて、私うれしい」

 彼女の潤んだ瞳を見詰めていると、今すぐにでもここを抜け出して、二人だけになりたかった。

 

 それからはまさにジェットコースターに乗っているような日々だった。文藝界に載せるための批評家との対談、様々なメディアの記者からのインタビュー、エッセイの依頼、全国の大手書店を回ってサイン本の販売、等々。小説執筆の依頼も殺到したが、小説は文藝界だけに載せるということで、すべて断った。睡眠時間は四時間を切り、移動中のうたた寝が習慣になった。春名さんは俺のマネージャーのようになり、一日中俺の側にいた。

 全員満票の惹句が効いたのか、初版五万部は二週間足らずで売り切れた。それで文學春秋社は強気になって、さらに五万部を増刷した。A賞受賞作の載る文學春秋三月号が発売される二月八日までにできるだけ単行本を売るため、俺と春名さんは全国を飛び回った。

 そんなある朝、俺は春名さんがタクシーで迎えに来てくれるのを待っていたが、時間になっても現れなかった。どうしたのかと思っていると、彼女から電話が掛かってきた。

「すみません。今日の予定はすべてキャンセルしました。すぐにこちらに来てもらえませんか」

 切迫した声の調子だった。

「何かあったの」

「詳しいことはこちらに来てからお話しします。今すぐ来て下さい」

「こちらって文學春秋社?」

「はい」

 俺は胸騒ぎを覚えながら表に飛び出し、タクシーを捕まえた。

 文藝界編集部に顔を出すと、五人の編集者たちが一つのノートパソコンの周りに集まっていた。

「来た来た」と一人がこちらに顔を向けた。

 春名さんが険しい顔で近づいてくる。

「おはようございます」と俺は挨拶したが、春名さんはそれに応えず、「こっち」と俺を引っ張って、皆が見ているパソコンの前に連れて行った。一人が椅子に坐って、マウスを動かしている。

「片桐さん」とマウスの手を止めて彼が俺の方を振り返った。「盗作疑惑が話題になっているんですよ、『螺旋トリビュート』の」

 その瞬間、体が固まった。

「え?」

 しかしすぐに、うろたえるなと自分に言い聞かせる。

「誰がそんなことを言ってるんですか」

「2ちゃんねるですよ、ほら」

 彼は再びマウスをつかんで、画面上のマウスポインタで文字の列を大きく円で囲むように動かした。俺はよく見ようと画面に顔を近づけたが、動揺しているせいか、意味が頭に入ってこない。彼は立ち上がって、俺を椅子に坐らせてくれた。

 ――これが本当ならA賞受賞取り消しは確実だな。もちろん文藝界新人賞も。

  ――盗作と言ったって、有名どころをパクったんじゃないんでしょ。

  ――素人が素人の作品をパクったらしいよ。

  ――有名どころなら、新人賞を取った時点でバレるから、こんな騒ぎにはならないよ。

  ――自作自演じゃないの。盗作騒ぎを起こしてメディアに取り上げてもらって本を売ろうっていう。

  ――それは大いにありうるね。

  ――証拠と言ったって、あんなもの誰だって作れるんだから。

 ――その通り。文藝界新人賞即A賞受賞という王道を行った作者に嫉妬して、誰かが貶めようとしているってことも考えられる。

 ――新聞のエッセイで正直に、染谷庄一郎に助けてもらった、なんて書くから、イタズラしてやろうと思う人間が出てくるんだよ。

 ――今時、原稿用紙に手書きしているやつなんているの?

 ――本物らしく見せ掛けるために手書きにしたんでしょ。プリントアウトしたものだったら、それこそ嘘っぽく見えるからなあ。

 ――無名の人間の書いたものをパクったなんて、どうしたら証明できるんだ。

  ――その辺は画像をアップしたやつにきちんと説明してもらう以外にないな。

「画像アップて?」

 俺は画面から目を離して、周りに尋ねた。

「夕べ遅くアップされたんですよ。ずっと手前です」

 俺はマウスを動かしてスレッドを遡っていった。

 ――証拠を、ということなので画像をアップしました。これで私の言っていることが正しいと分かってもらえるでしょう。

 その次に、アップロード先のURLが打ち込まれていた。そこに矢印のポインタを持って行くと指で指し示すポインタに変わる。俺はクリックしようとして一瞬ためらった。自分で自分を奈落の底に突き落とすような気分だった。しかし周りで見ている編集者たちに自分のためらいを気づかせることはそれ以上にまずい。耳の奥からずきんずきんという動悸が聞こえてくる。俺はクリックした。

 画像が現れる。文字の書かれた原稿用紙を枠一杯に写した画像と紙の束を斜め上から撮影した画像とが上下に繋がれていた。マウスをクリックすると画像が拡大される。

 真っ先に目に飛び込んできたのは、原稿用紙の枡に書かれた「螺旋の果て 染谷庄一郎」という文字だった。まさに手書きのあいつの文字だった。五行目から「濫読という言葉も知らない幼少の頃から、私は言葉に魅了されていた」と始まっていた。

 終わったと俺は思った。同時に体から力が抜けるのを感じた。

「まさか片桐さんの自作自演ではないでしょうね」と誰かが言った。

「そんなことするわけがないじゃないですか」

 俺は思わず怒鳴ってしまった。

 その時、「2ちゃんねるはもういい」と言いながら編集長が入ってきた。俺は椅子から立ち上がった。

「片桐くん、来てたのか。ちょうどいい」

 編集長は編集者たちを見回しながら、

「今、文學春秋の矢部さんと話し合ってきたが、この件はスルーする。無視だ。ネットで誰が騒ごうが、一切こちらは取り合わない。文學春秋三月号は予定通り発売する」

 編集者たちは微妙な表情をしている。

「悪質なイタズラに関わり合っているほど俺たちは暇じゃないんだ。分かったな」

「そうですよ。イタズラに決まってます」と春名さんが甲高い声を出した。「染谷さんて、半年以上も前に亡くなってるんでしょ。私は片桐さんが第二作を書いている現場に立ち会っています。内容は異なりますが、当選作も第二作も同じ文体、同じ世界観で貫かれています。どちらも片桐さんが書いたものに間違いありません」

「どうだ、片桐くん。君が書いたんだろう」

 編集長の有無を言わせぬ口調に、

「はい」

 と俺はうなずいてしまった。

「よし、この件は終了。みんな、仕事に戻ってくれ」

 編集者たちはそれぞれのデスクに戻っていく。俺と春名さんは編集長に呼ばれて隣の応接室に入った。

「書店回りはこの件がはっきりするまで中止する。ひょっとしたらマスコミが取り上げるかも知れないが、二人とも、記者には何もしゃべらないように。それから片桐くん、しばらく自宅待機してくれ。外に出て誰かに会ったりしないように。なあにそんなに長くじゃない。イタズラと分かったらすぐに収まるから」

 俺は春名さんに見送られてエレベーターに乗った。扉が閉まる寸前、「メールするから」と彼女が微笑んだ。

 

 俺は部屋に戻ると、押し入れからミカン箱を引っ張り出した。あいつの原稿の束を手に取り、一枚目に書かれている題名に目を凝らす。すると、「トリビュート」の「トリビ」の下にうっすらと「の果て」という文字が見えた。消しゴムで消されているが、痕が残っている。ネットにアップされていたのは、題名を書き直す前のものだったのだ。

 一体誰が……。翻訳の仕事の関係者に原稿を見せたのか、あるいは読書会の誰かということも考えられる。しかし原本はここにあるのだから、ネットにあるのはコピーのはず。

 俺はノートパソコンを立ち上げて、2ちゃんねるの「A賞受賞作を語るスレ」にアクセスした。スレッドをたどっていき、画像のURLをクリックした。

 先程は頭に血が上っていて気づかなかったのだが、原稿の束を写した写真といい、拡大された原稿用紙といい、紙の色から見て明らかにコピーだった。

 俺はスレッドを遡って盗作疑惑の最初の発言を探した。それは四日前に書き込まれていた。

 ――今回の受賞作「螺旋トリビュート」は私の亡くなった友人の書いた作品をそっくりそのまま盗用しています。私は一読してびっくりしてしまいました。こんなことがあっていいのだろうか。友人の名誉のためにもこんな悪事は許せない。作者は正直に告白して、著作権を返すべきです。

 私の亡くなった友人……。頭の中に一つの映像が浮かんできた。通夜の時、泣きはらしていたあいつの恋人。あいつは自分の作品をコピーして恋人に見せたに違いない。その彼女がA賞受賞作を読んで気づいたのだ。文藝界新人賞受賞作なんて余程のマニアしか読まないから、新人賞だけならおそらく気づかれなかっただろう。それがA賞を取ったばかりに気づかれてしまった。A賞なんか取らなければよかった。俺はあの時の嫌な予感に従うべきだったのだ。

 ベッドに寝転がり、俺は頭を抱えた。

 その時、スマホがメールの着信を知らせてきた。春名さんからだった。

 ――私は片桐さんを信じています。第二作の「返討鴇姫文章」は片桐さんが仕事を辞めてまでして苦しんで書いたのを知っています。私の指摘に対して真摯に書き直してもらったのも知っています。「螺旋トリビュート」も同じように苦しんで書いて染谷さんの指摘を受けたんですよね。あくまで染谷さんは助言者なんですよね。でも、私、何だか不安なんです。同じ文体、同じ世界観とは言いましたが、そこに微妙なずれを感じてしまうのです。いや、それは盗作疑惑が起こったからバイアスの掛かった見方をしているだけだと自分にツッコミを入れて否定はするのですが。アップされていた原稿の題名が「螺旋の果て」となっていたのも私を不安にさせます。イタズラならどうして「螺旋トリビュート」のままにしなかったのでしょうか。いや、それも本物に見せ掛けるためにわざと変えたのだと取ることもできます。片桐さんを信じていると言いながらこんなことを聞くのは心苦しいのですが、すべて片桐さんが書かれたんですよね? ネットの原稿はイタズラですよね?

 俺は観念して返信を打ち始めた。

 ――春名さん、今まで騙して申し訳ありませんでした。「螺旋トリビュート」は染谷庄一郎の作品です。それが世に迎えられたら本当のことを言おうと思っていたのですが、ずるずるとその機会を逃してしまいました。心の弱い私をお許し下さい。

 しかし俺は送信アイコンをタップできなかった。押せばすべてをなくしてしまう。問題はあのコピーなのだ。あれさえこの世から消してしまえば誰も盗作呼ばわりはできないはず。

 俺は返信メールを削除した。代わりに、「どちらの作品も私が書きました。間違いありません。あんなものは私を貶めるための悪意あるイタズラです。どうか最後まで私を信じて下さい」と打ち込んで送信アイコンをタップした。

 まずあいつの恋人にコンタクトを取ることだ。そして取引を持ち掛ける。コピーをそっちの言い値で買い取るか、あるいは著作権料の半分を支払うか。俺は彼女の連絡先を知るためあいつの母親に電話をしようと履歴を調べたが、母親はあいつの携帯電話を使って俺に掛けていた。それであいつの電話番号を呼び出し、通話アイコンをタップした。しかし、何度掛けても電話に出られないか、電源が切られている可能性があると言われてつながらなかった。

 俺は母親のアパートに向かった。母親が盗作疑惑を知っている場合、会うのは危険かもしれないが他に手段がない。まさか母親と恋人が結託して仕組んでいることはないだろうとは思ったが、可能性は否定できない。俺は余程引き返そうかと思ったが、坐して死を待つことはできないという言葉がそれを抑え込んだ。

 見覚えのある公営団地に着き、記憶をたどって一つの棟の四階に上がった。一番端の四〇七号室。インターホンを押すと「はい」という声が返ってきた。

「庄一郎さんの友人で、片桐と申します」

「ああ、片桐さん。今すぐ開けますから」

 どきどきしながら待っていると、チェーンの外れる音がしてドアが開いた。母親はどてらのような上着を羽織っていた。

「片桐さん、この度はA賞受賞おめでとうございます。たまたまニュースで見て、びっくりしました。息子のお友達がまさかそんな大きな賞を取るなんてね。わたくしもうれしくなって、あちこちで言いふらしております」

 母親の表情は屈託がなく、本心から言っていると思われた。

「今日は庄一郎さんの仏前にA賞受賞を報告しようと思って」

「お寒い中、わざわざありがとうございます」

 そう言って母親は中に迎え入れてくれた。

 部屋に上がり、居間に行くと、まだ窓際の小卓は片付けられてはおらず、俺はその前に正座して位牌と写真に向かって手を合わせた。

「A賞を取って、お忙しいんでしょう」

 母親が声を掛けてきた。

「ええ、目の回る忙しさで睡眠時間も四時間を切る始末で。本当はもっと早く御礼に伺うべきだったのですが、忙しくて今日になってしまいました」

「来ていただいただけでうれしゅうございます。息子も片桐さんの受賞を喜んでいることと思います」

「ところで、庄一郎さんの彼女、えーと何というお名前でしたっけ」と俺は切り出した。

「亜季さんが何か」

「実はこの前いただいた庄一郎さんの書き物の中に亜季さん宛の手紙がありまして。投函するつもりだったようで、それを亜季さんに渡したくて。彼女の連絡先はお分かりになりますか」

 俺はあらかじめ考えておいた作り話をした。

「でしたら、わたくしからお渡ししておきましょうか。ついこの前も息子の月命日だからとお見えになりましたから」

「いいえ、亜季さんからは受賞の時に花束を贈っていただきまして、その御礼もしたいので」

 俺はとっさに嘘をついた。母親は何の疑いもせずに、亜季の電話番号を教えてくれた。

 帰り道、どういうふうに持ち掛けるべきか、ずっと考えていたので、アパートの側に来るまで自分の部屋の前に人だかりがしていることに全く気づかなかった。顔を上げると、そのうちの一人と目が合った。すぐにメディアの人間だと気づき、俺は踵を返そうとしたが、「片桐さーん」という声と同時に連中がどっと走ってきた。俺はたちまち男たちに取り囲まれた。その後ろにはテレビカメラを肩に担いだ男もおり、ICレコーダーやスマホが目の前に突き出された。

「ネットで盗作疑惑が取り沙汰されていますが、本当なんですか」

「アップされていた画像について、どう思われますか」

「盗作じゃないんなら、釈明を」

「何らかの対抗措置を取るおつもりはあるんですか」

 質問が重なって耳がわんわんと鳴る。編集長の言葉を思い出し、俺は口をつぐんでいたが、「黙っているということは盗作を認めると取っていいんですね」と言われて、「盗作ではありません。すべて私が書いたものです」と言ってしまった。

「でしたら名誉毀損で訴えるわけですね」

「それは弁護士と相談しまして……」

「いつですか。今日ですか」

「近いうちに」

「心当たりはあるんですか」

「え?」

「片桐さんに何らかの恨みを持っている人とか……」

「分かりません」

 相手にしていたら、延々と続きそうだったので、俺は「これ以上はすみません」と言いながら、連中を押しのけて何とか自分の部屋に転がり込んだ。そしてベッドの蒲団の中に潜り込んで体を丸くした。いくつも見知らぬ番号から電話が掛かってきたので、俺は留守電の設定に切り替え、着信音が鳴らないようにした。時折ドアを叩く音が聞こえてきたが、目をつぶって時間が過ぎるのを待った。

 いつの間にか眠ってしまったのか、目が覚めた時、部屋の中が暗くなっていた。ノックの音もしない。スマホを見ると、午後六時過ぎだった。腹が減っている。俺はベッドから降りると部屋の明かりを点けた。途端にドアが叩かれた。

「片桐さーん、お話をお伺いしたいんですが」

 俺はあわてて明かりのスイッチを切った。

「そこにいるんでしょう。やましいことをしていないのなら、堂々と答えて下さいよ」

 何度もドアを叩いてくる。

「出てきて話してくれない限り、ここを動きませんよ」

 尿意を催してきて、俺は静かにトイレのドアを開け、明かりを点けずに便器に腰を掛けた。音を立てないように小便をし、流さずに暗闇の中、息を凝らした。雪隠詰めという言葉が不意に浮かんでくる。

 俺はスマホをポケットから取り出し、春名さんにメールを打った。

 ――記者に取り囲まれて部屋から一歩も出られません。助けて下さい。

  しばらくして返信があった。

 ――分かりました。タクシーで迎えに行きます。

 一時間後、ノックの音に続いて「私です」という春名さんの声がした。ドアを開けると、テレビライトの強烈な光で目が見えなくなった。春名さんが手を引っ張ってくれる。記者たちがぶつかってきて前に進めない。

「盗作したんですか」「A賞辞退するんですか」「何とか言って下さい」

 硬い物が頬や唇に当たる。俺は頭を伏せ、春名さんの手に導かれてタクシーに乗り込んだ。シートに体を深く沈み込ませる。

「**ホテルへやって」と春名さんが言った。

 ホテルに着くまでお互いに無言だった。タクシーを降りて、ようやく「ほとぼりが冷めるまでしばらくここにいて」と春名さんが言った。「編集長の指示なの」

「ごめん。こんなことになって」

「私はあなたの担当者なのよ。どんな時でも守ります」

 そう言って春名さんはやっと笑顔を見せた

 チェックインをし、二人で部屋まで行った。俺は中に入ったが、春名さんは入ってこない。

「ホテルの費用はこちら持ちだから、心配しないで。食事はレストランに行かないでルームサービスを利用すること。分かった?」

 俺は頷いた。一緒にいてくれと言いたかったが、言えなかった。

「最後に一つだけ聞くけど、盗作はしていないよね?」

「絶対にしていない」

 俺は春名さんの目を見て、ためらいなくそう答えた。

「よかった」

 春名さんは突然俺の首に両手を回すと、接吻してきた。俺は彼女の腰を抱こうとしたが、その前にするりと身をかわされてしまった。

「後はあなたが潔白の身になってから」

 そう言うと、春名さんは小さく手を振って去って行った。

 部屋はシングルルームだった。俺はベッドに腰を降ろすと、スマホに登録した亜季の携帯電話番号を呼び出し、掛けてみた。しかし留守電になっている。何度掛けても留守電なので、俺は思い切って「片桐保と申します。お話があります」とメッセージを入れた。それを聞いたら向こうから掛けてくるだろうと三〇分待ったが着信ランプがつかない。俺はもう一度メッセージを入れようと電話を掛けた。

「はい、篠原です」

 女の声が返ってきた。俺はどきりとした。

「私、片桐と申します。実は篠原さんが2ちゃんねるにアップされた画像についてお話をお伺いしたいのですが」

「何のことでしょうか」

「染谷庄一郎の書いた原稿のコピーのことですよ」

「ああ、あのことですか」

「やっぱりあなたでしたか。あんなことをしたのは」

「どうして私だと気づかれたんですか」

「そりゃそうでしょ。あなたは染谷の恋人だったんでしょ。知っていますよ。染谷から読んで欲しいとコピーを渡されたんでしょ」

「その通りです」

「どうしてあんなことをしたんですか」

「駄目ですか」

「当たり前でしょ。俺がどんな目に遭うか分からなかったとは言わせませんよ。直接俺の方に言ってくるべきでしょ、最初に」

「あなたに最初に言ったら、どうなります。コピーを買い取るとでもおっしゃるわけですか」

「それはまあ……」

 俺はその時初めて、これが罠ではないかと気づいた。俺からの連絡を待っていたのかも知れない。

「分かりました」と亜季が言った。「片桐さんと話し合いの場を持ちましょう。いつがいいですか」

「……いや、いいです。あなたが犯人であると分かればいいですから」

「私が犯人? 犯罪を犯しているのはあなたの方でしょ」

 俺は電話を切った。ひとつ大きく息を吐く。ヘタなことを言えば、自分から盗作を認めたことになってしまうところだった。

 ルームサービスでカツサンドとビールを頼み、空腹を満たすと、シャワーを浴びてベッドに入った。しかし眠気がやってこない。仕方なくスマホを手に取り、ポータルサイトにアクセスすると、メインニュースの見出しの中に「A賞受賞作に盗作疑惑」という項目を見つけた。タップすると、記事と一緒に動画が配信されていた。どこかのテレビニュースらしい。俺が記者たちにもみくちゃにされ、盗作ではありませんと叫んでいる映像が流れた。記事には、ネットで大騒ぎになっており、証拠画像もアップされたとあった。

 目を閉じてもどこかで本当のことを言っておればという思いが様々な場面を甦らせ、俺はなかなか眠ることができなかった。

 翌朝、朝食と一緒に頼んだ新聞を広げた。そこにも俺のことが三段組の記事になっていた。もっと他に載せることがあるだろうと腹を立てながらも、俺は一字一字食い入るように読んでいった。

 次の日が文學春秋三月号の発売日だった。朝刊の三面下段にでかでかと広告が載っていた。「満場一致のA賞受賞作全文掲載」の文字の横に俺の上半身の写真が載っている。バレるとは思っていない頃の笑顔だ。文學春秋の広告の横には別枠で「螺旋トリビュート」単行本の広告が載っている。十万部突破! のゴシックがわざとらしい。

 俺はその時、ははんと気が付いた。文學春秋社はこの盗作騒ぎを利用するつもりなのだと。「片桐くん。君が書いたんだろう」編集長の言葉が甦る。あの時の顔は俺が盗作したことを確信しているそれだったのだ。俺が簡単に認めてしまえば騒ぎは収束する。収束すれば部数は伸びない。騒ぎが長期化すれば、その間ずっとメディアに取り上げられるから、俺の本は売れ続ける。俺がこうやって文學春秋社の金でホテルに泊まれるのも、そのせいなのだ。そうに違いない。

 そう考えると、他人の金でホテルに宿泊している後ろめたさがなくなった。一番高いコース料理を頼み、一番高い赤ワインを飲んで、俺はホテルに缶詰された憂さを晴らした。テレビを見る気も起こらず、何もしないで部屋に閉じ籠もっていると、自分が世界から排除された存在のように思えてきて、何度春名さんに電話をしようと思ったか知れない。しかし電話をしてしまうと、本当のことをしゃべりそうで恐くてできなかった。スマホのゲームに没頭することで時間を潰すしかなかった。

 そんな日が数日続いたある夜、ノックがして出てみると、編集長と見知らぬ中年男が立っていた。

「どう、元気にしてる?」と編集長が言った。

「ええ、何とか」

 二人は中に入ってくる。俺はドアを閉め、戸惑いながら二人の後に付いていく。編集長は、なかなかいい部屋だと言って周りを見回してから、「この人はドリームテレビの番組プロデューサーの日野さんだ」と見知らぬ男を紹介した。日野と呼ばれた男がポケットから名刺を取り出して渡してくれる。

「先生の御作、読ませていただきましたよ。素晴らしい作品です。それが今回の盗作疑惑で、さぞかしお困りでしょう。それで、私どもは先生の疑惑を晴らすために番組を企画いたしました。『話題の真相』という番組をご存じですか。毎週金曜のゴールデンに放送しているやつですよ。いつもは録画なんですが、今回は生放送で……」

 日野は、俺がハアとかなるほどとか相槌を打つ間に、とうとうと企画の内容をまくし立てた。

 緊急特番生放送と銘打った企画で、盗作を主張する側と否定する側のそれぞれの人物を集めて模擬裁判のような形式にする。本物の弁護士を双方に立てて弁論を行うが、判決のようなものは出さない。双方の主張が平行線のまま終わっても構わない。傍聴人に見立てた観客を入れて一時間の番組にする。出演料は五十万円。

「いかがですか。是非とも先生に出席していただきたいのですが」

「勘弁して下さい」

「どうしてですか。疑惑を晴らす絶好のチャンスですよ」

「しゃべるの苦手だから」

「だからそれは弁護士が行いますから」

「………」

「だったら出演料、倍額ではどうですか」

「いや、そういう問題ではなくて……」

「片桐くん」と編集長が口を挟んだ。「折角の機会なんだから受けたらどう。正々堂々と主張して相手を叩きつぶしたらいいんだよ」

 話題作りには恰好の番組なんだろう。文學春秋社から金を出してもらっている以上、俺には断る権利はないのだ。俺は嫌々ながら出演を了承した。

 次の日、朝食も摂らずにベッドでぐずぐずとしていると、春名さんから電話が掛かってきた。

「どうしてテレビ出演なんか承諾したのよ」

「文學春秋社には世話になっているから」

「話題作りのためだって分かってるの?」

「うん」

「何だ、分かってるの」

「本が売れれば俺も儲かるし」

「何よ、その言い方。あの本はそんなことをしなくても売れる本よ。話題作りに引っ張られて読むような読者に向けて作ったものじゃないわ。あなたは本物だって私は思ってるの。本物の作家はそんなことをしなくても砂に水が染みこむように徐々に読者を獲得していくものなのよ。どうしてそんなことが分からないの」

「分かってるよ」俺は思わず大きな声を上げた。「だから俺はA賞なんかいらないって言ったんだ」

「……ごめん。言い過ぎたわ。とにかくこの盗作騒ぎを乗り越えなくっちゃ。番組には私も呼ばれているの。あなたが書いたものに間違いがないと証言することになってるの」

「ありがとう」

「お互い頑張りましょう」

 電話を切った後、俺は頭を抱えた。今すぐにでもこの場を逃げ出したかった。

 

 それから三日たった夜のこと、ノックの音がしたのでドアスコープを覗くと、見知らぬ男が立っていた。ドアガードをしたまま俺はドアを開けた。

「片桐先生でいらっしゃいますね」

 五十代くらいの目の鋭い男だった。俺がここにいるのを知っているのはそういないはずだと思いながら、「はい」と答えた。

「わたくし、実はこういう者でして」と男は背広の内ポケットから長財布を取り出すと、名刺を抜き出して渡してくれた。「谷法律事務所 弁護士谷光一」とある。

「『話題の真相』の日野さんから頼まれまして、お相手側につくことになった弁護士です」

 ああ、なるほど。

「つきましては、先生がお預かりになっています染谷さんの書いたものをちょっと拝借したいのですが」

「え?」

「お電話をいたしましたが、ずっと留守電だったのでこうしてお邪魔にあがりました」

「………」

「染谷さんの書いたものはこちらにございますか」

「あれはすべて廃棄いたしました」

 俺はとっさに嘘をついた。

「そんなことはないでしょう」

「本当です。もう話すことはありませんので」

 俺はドアを閉めようとしたが、谷が革靴の先を突っ込んでくる。

「ネットにアップされたものが偽物なら、書いたものを渡してもらえば筆跡鑑定ですぐに分かるんですが」

「帰って下さい。フロントを呼びますよ」

 そう言うと、谷はおとなしく靴を引っ込めた。俺はドアを閉めた。

「あれは本物なんでしょう。それが分かっているから渡せないんでしょう」

 外から谷の大きな声がする。俺は無視して中に戻り、テレビをつけて音を大きくした。

 しばらくしてドアスコープから外を覗いたが、もう誰もいなかった。

 相手の弁護士が染谷の書いたものを探しているということは、まだ筆跡鑑定ができていない証拠だ。ひょっとしたら助かるかもしれない。いやそんなはずはない。俺はその間で揺れ続けた。

 放送日の前日、今度は山路と名乗る、俺に付く弁護士がやってきた。山路は「螺旋トリビュート」が俺の書いたものであることを確認すると、あいつと知り合った時から亡くなるまでの間のことを詳しく聞いてきた。特に「螺旋トリビュート」を執筆した時のあいつとのやりとりを何度も確認させられた。俺は三次通過の時をそれに擬して答えた。

 当日、本番三時間前の午後六時にアシスタントディレクターを名乗る若い男が迎えにやってきた。彼と一緒にハイヤーに乗ってドリームテレビ局へと向かう。十分ほどで局の地下駐車場に着き、そこからエレベーターで十階に上がり、「片桐保先生」という名札の貼られた楽屋に入った。テーブルに弁当が一つ置かれていたが食べる気になれず、俺はその横にあったペットボトルのお茶を飲んだ。

 ノックの音がして眼鏡をした男が入って来る。

「片桐先生でいらっしゃいますか。わたくし、番組ディレクターの佐々木と申します。よろしくお願いします。これ、今日の台本ですから目を通しておいていただけますか」

 ディレクターが手に持った薄っぺらい冊子を差し出した。表紙には「話題の真相 A賞受賞作の盗作疑惑に迫る」とあった。俺がそれを受け取ると、

「司会と弁護士の先生方に進行してもらいますので、片桐先生は坐っておいて下さい。被告人質問の時だけしゃべってもらいますから」

「私が被告なんですか」

「まあ、形だけですから」

 俺は納得のいかないままうなずいた。

「リハーサルを行ったらそのまま本番に入りますので、よろしく」

 ディレクターは片手を上げ、楽屋を出て行った。

 台本を捲ると、司会者のセリフはきっちりと書いてあるが、後は弁護士の主張、反論、証人尋問などの文字があるだけで、その間にCMが挟まっていた。

 ノックの音がし、「片桐さん」という春名さんの声が聞こえた。急いでドアを開けると、編集長も一緒だった。春名さんはピンクのスーツを着ている。

「どう、大丈夫?」

「うん」

 編集長が俺の二の腕をぽんぽんと叩いた。

「余計なことを言わずに弁護士に任せていたらいいから」

「はい」

 二人が去ってすぐに司会の二人が挨拶に来た。一人はテレビでよく見るアイドルで、もう一人は本職のアナウンサーだった。

 メイク係の女性にファンデーションを塗ってもらっていると、リハーサルが始まるからとアシスタントが呼びに来た。俺は彼の後についてスタジオの両開きの扉から中に入った。

 ちょっとした体育館くらいの大きさで、高い天井には細いレールが縦横に何本も走り、照明器具がいくつも取り付けられている。正面には巨大なモニターがあり、それを取り囲んでいるパネルには「話題の真相 盗作疑惑を斬る」とでかでかとした文字が躍っていた。何台ものテレビカメラの周りを数多くのスタッフが動き回っていて、ざわざわとした雰囲気だった。

 俺はその光景に圧倒されたせいか、今から始まるのは芝居であって、それが終われば元の本当の姿に戻れるような感覚に陥った。

 モニターのすぐ前は一段高くなっていて、司会の二人はそこのテーブルの前に坐った。司会者の席を挟んでハの字形にテーブルがあり、アシスタントの指示で俺は左側の席に行った。すでに山路弁護士がいて書類を読んでおり、顔を上げた彼に俺は挨拶をした。

 次々に人が入って来、俺の横には春名さんと編集長、向こう側の席には弁護士と若い女、それにあいつの母親が坐った。女がじっと俺の方を見た。あいつの通夜で見た恋人の篠原亜季に違いない。長かった髪をばっさりと切っている。俺は目をそらさずににらみ返した。

 一番最後に和服姿の高垣周幸がやってきて、正面の司会者席に腰を降ろした。

「それではリハーサル、行きます」

 天井のスピーカーから声が聞こえ、テレビカメラの横にいるディレクターが司会者を指差した。

「さあ、始まりました話題の真相。今夜は緊急生特番でお送りいたします……」とアイドルがテレビ脇のカンペに書かれた科白を読んでいく。それを受けてアナウンサーがしゃべる。

「今一番ホットな話題を取り上げて、その真相に迫っていくこの番組。今回はあの、A賞受賞作の盗作問題を取り上げます。選考委員全員が大絶賛した小説が果たして盗作なのかどうか。ネットで盗作疑惑に火を付けたご本人もお呼びして、その真相に斬り込んでいきます……」

 アナウンサーが背景を説明し終わるとストップが掛かり、ディレクターの声が天井から降ってきた。

「この後、谷先生に証拠提示をしていただいて、山路先生が反論、それに対して谷先生が再反論と、まあ法廷のようなやり取りをしていただきます。それから片桐先生の編集担当の春名さん、ネットで最初に盗作疑惑の火を付けた篠原さん、染谷さんのお母様、片桐先生の証言と続き、それぞれの証言に対して先生方から尋問していただきます。ただし、時間調整のため先生方の尋問を省略することもありますので、ご承知置き下さい。CMに入るのは、こちらから切りのいい所でキューを出しますのでよろしく」

 その後、ディレクターは出演者の動きを細かく指示した。証言者は中央に置かれた椅子にテレビカメラの方を向いて腰を降ろし、弁護士の問い掛けで証言するとされた。俺もテーブル席を立って真ん中の席まで歩き、坐る練習をさせられた。

 十五分前になって、傍聴人役の観客がぞろぞろと入ってきた。テレビカメラの両側に置かれたパイプ椅子に腰を降ろす。総勢五十人ほどだろうか。アシスタントの指示で拍手の練習をさせられる。

 テレビカメラを担いだ男たちが何人かスタンバイしたところで、本番が始まった。前のテレビカメラの上部に赤いランプが点灯する。

 拍手が起こってから、アイドルが口火を切り、アナウンサーが繋いでいく。

 谷弁護士が立ち上がって、手に持った紙の束を証拠物件だとして司会者席に届けた。それがテレビカメラで正面の巨大モニターに映し出される。ネットにアップされた画像と同じだ。

「どうです。冒頭からA賞受賞作と全く同じですよね。作者は染谷庄一郎。片桐先生のご友人です。片桐先生は染谷さんのご母堂から染谷さんの書いたものをすべて託されました。その中にこのコピーの元の原稿が入っていたのでしょう。それをそのまま自分が書いたように偽って文藝界新人賞に応募した……」

「異議あり」と山路弁護士が手を上げた。「それが染谷庄一郎さんの書いたものだと証明できるのですか」

「苦労しましたよ」と谷がにやりと笑う。「染谷さんの書いたものはすべて片桐先生の許にありますからね。ダメ元で先生に提供をお願いしましたが、廃棄したと言われてしまいまして。こちらにいくつか断片は残っていましたが、それでは筆跡鑑定のデータとしては少なすぎる。私どもはどこかに染谷さんの書いたものが残っていないかと探し回りました。そしてようやく見つけたんですね。染谷さんは翻訳の仕事をしておりまして、出版社に手書きの原稿を渡すのです。出版社はそれをデータ化して、その後原稿は染谷さんに返されるのですが、たまたま出版社に残っていた原稿があったのです。これがその原稿とそれが載った雑誌です」

 谷が原稿と雑誌を司会者席に届けた。コピーと原稿が交互に映され、二分割画面の静止画像になる。筆跡がよく似ている。カメラは次に雑誌を映し、それと原稿が二分割画面になる。赤いマーカーで囲まれた雑誌の一部の文章と原稿の文章が同じであることが分かる。

「筆跡鑑定の結果、同一人物の可能性が九十七パーセントと出ております。コピーの文章は染谷さんが書いたものと断定してもいいでしょう」

 終わった、完璧に終わった。俺は大きく溜息をついた。

「何か反論がありますか」とアナウンサーが言う。山路が立ち上がった。

「確かにそのコピーは染谷さんが書いたものだと認めましょう。しかし、だからといって片桐先生が盗作したとは言えませんよ」

 この人は何を言い出すのだろうと俺は思った。

「片桐先生の書いたものを染谷さんが原稿用紙に写したのではありませんか」

「何ですって」谷が大きな声を出した。

「片桐先生が染谷さんのアドバイスを受けて小説を書き直したことはご存じですよね。ですから、片桐先生から預かった小説を染谷さんが原稿用紙に写したのではないかということです」

「どうして染谷さんがそんなことをする必要があるんです」

「きちんとアドバイスをするためですよ。あるいは、あまりにも素晴らしい作品だったので写してみたくなったとも考えられます」

 亜季が立ち上がって「私が読んだのは二年前よ」と叫んだ。

「それを証明できますか」

 山路は亜季を指差した。亜季は答えられない。

 何という論理だろう。俺は山路という男、いや弁護士という職業の発想力の凄さをまざまざと思い知らされた気がした。確かにその論理を押し通せば盗作疑惑をはねのけることができる。ひょっとしたら助かるかもしれない。しかし同時に俺は何とも奇妙なことに、それを証明してくれと願ってもいたのだ。

「そんな言いがかりのような論理には付き合ってはいられませんから、次の証拠物件を披露いたします。これをお聞き下さい」

 谷がそう言うと、天井のスピーカーから、女の声が聞こえてきた。

 ――はい、篠原です

 俺はどきりとした。

 ――私、片桐と申します。実は篠原さんが2ちゃんねるにアップされた画像についてお話をお伺いしたいのですが。

 やっぱりあの時の録音だ。観客席がざわつく。

 ――何のことでしょうか。

 ――染谷庄一郎の書いた原稿のコピーのことですよ。

 ――ああ、あのことですか。

 ――やっぱりあなたでしたか。あんなことをしたのは。

 ――どうして私だと気づかれたんですか。

 ――そりゃそうでしょ。あなたは染谷の恋人だったんでしょ。知っていますよ。染谷から読んで欲しいとコピーを渡されたんでしょ。

 ――その通りです。

 ――どうしてあんなことをしたんですか。

 ――駄目ですか。

 ――当たり前でしょ。俺がどんな目に遭うか分からなかったとは言わせませんよ。直接俺の方に言ってくるべきでしょ、最初に。

 ――あなたに最初に言ったら、どうなります。コピーを買い取るとでもおっしゃるわけですか。

 ――それはまあ……。

 ――分かりました。片桐さんと話し合いの場を持ちましょう。いつがいいですか。

 ――……いや、いいです。あなたが犯人であると分かればいいですから。

 ――私が犯人? 犯罪を犯しているのはあなたの方でしょ。

  録音のやり取りが終わって、俺は隣の春名さんと目が合った。怒ったような、悲しいような表情をしていた。

「どうです。今のやり取りを聞いていただければ片桐先生の盗作は明らかでしょう。染谷庄一郎の書いた原稿だと先生は認めておられますよね。しかも、俺がどんな目に遭うかと盗作がバレた時の自覚もあります。いかがですか」

 ディレクターの合図で「山路先生の反論はCMの後で」とアナウンサーが言った。

 CM入りますの声でスタジオの中が一気にざわついた。観客たちのしゃべり合う声が聞こえてくる。

「どうして彼女に電話なんかしたんですか」

 山路が厳しい顔を向けた。

「すみません」

「ほんとだよ」と編集長が言った。「犯人がわかったのなら、まずこっちに言ってくるべきだったなあ。墓穴を掘ったんじゃないか」

 春名さんは前を向いたまま黙っている。

「まあ、何とか反論してみましょう」

 CM終わりますの声でスタジオに再び緊張感が高まった。

 山路が立ち上がる。

「先程のやり取りが片桐先生の盗作を明らかにしているというのは笑止千万な論理ですね。確かに先生は染谷庄一郎の書いた原稿とおっしゃっていますが、それは私が前に申しましたように、彼が先生の小説を写したという意味でしかありません。俺がどんな目に遭うかという言葉も、あなたのイタズラでとんでもない目に遭っていることを指しているに過ぎません。それよりもあのやり取りの中に重大な別の問題が隠れていることを指摘したいと思います。篠原さんはあの中で、コピーを買い取るとでもおっしゃるわけですかと述べていますが、これは明らかに片桐先生にコピーの買い取りを持ち掛けている言葉ですよね。自分の手許にあるコピーを利用して、金を取ろうという……」

「異議あり」と谷が手を上げた。「それは反論ではなく、誘導です」

「山路先生」とアナウンサーが呼び掛けた。「そのことは篠原さんが証言席に着いた時に尋問していただけますか」

 山路はあっさりと引き下がった。

 次に、春名さんが証言席に坐った。山路の質問に答えて、まず「螺旋トリビュート」が新人賞を取るまでの経緯を述べた。

「ここで確認しておきますが」と山路が言った。「そこにあるコピーを私も読ませてもらいましたが、本になっている『螺旋トリビュート』と一字一句全く同じというわけではないということです。特に最後の場面はコピーにはありません」

「それは篠原さんに読ませた後、染谷さんが書き加えたということでしょう」と谷が反論した。

「それでは篠原さんにお聞きしましょう」山路が亜季を指差した。「最後の場面を書き加えた原稿をお読みになりましたか」

 亜季は首を振った。

「どうして染谷さんは見せなかったのでしょう。あの作品、最後の場面があることによって完成したとも言えるでしょう。完成したのなら、もう一度恋人に読んでもらいたいと思うのが人間の心情だと思いませんか」

「異議あり」と谷が言った。「それは推量に過ぎません」

「真相はこうでしょう。片桐先生が最初に書いた小説は題名が『螺旋の果て』となっていて、しかも最後が決まらなかった。それを読んだ染谷さんが題名と最後の場面の示唆を与えて、先生が完成させた。と申しますのも、盗作疑惑は『螺旋トリビュート』だけを問題にしたのでは迷路に入ってしまいます。先生の次の作品『返討鴇姫文章』も含めて議論しなくてはなりません」

 山路が促して、春名さんが「返討鴇姫文章」の創作過程を細かく話した。特に、俺が仕事を辞めてまで書く時間を確保したこと、ぎりぎりまで書くことに苦しんだことを力説した。それを受けて山路が言った。

「二つの作品を読み比べてみて、それぞれが別人の書いたものだと言う人がいるでしょうか。確かに『螺旋トリビュート』はA賞を受賞するだけあって優れた作品です。しかし『返討鴇姫文章』もそれに劣らない作品だと言えるのではありませんか」

「高垣先生」とアナウンサーが横を向いた。「先生のご意見はいかがですか。二つの作品を読み比べてみて」

 高垣は一つ咳払いをすると、

「『螺旋トリビュート』に比べて次の作品は確かに落ちます。これは誰が見ても明らか。ただ発想、文体は優れていてA賞受賞者の書いた作品としては合格。これが私の見立てです」

「そらごらんなさい。A賞選考委員の高垣先生も太鼓判を押していらっしゃる。二つの作品とも片桐先生の書いたものに間違いありません」

 そう言うと、山路はテーブル席に戻った。

「何を言ってるんですか」と谷が中央に出てきた。「その『返討鴇姫文章』も染谷さんの元原稿が存在するに決まっていますよ。元原稿があるのにあたかも自分が書いたように見せ掛けたんですよ。春名さん、片桐先生が書いている時、何か変だなと思ったことがあるでしょう」

 春名さんはしばらく考えてから、「いいえ、ありませんでした」と答えた。

「では質問を変えましょう」谷は観客の方に顔を向け、少し間を取った。「春名さん、あなたは片桐先生の担当編集者ですね」

「はい」

「いつからですか」

「文藝界新人賞の最終候補に先生が残られた時ですから、去年の九月です」

「先生のことをどうお思いですか」

「素晴らしい才能の持ち主だと……」

「男としては?」

「え?」

「男としての魅力は?」

「異議あり」と山路が手を上げた。「本件問題とは何の関係もありません」

「いや、あります。春名さんの証言の信憑性を問うためです」

「続けて下さい」とアナウンサーが促した。

「ではずばりと伺います。あなたは片桐先生と男と女の関係を持っていますね」

「………」

「いかがですか。お答え下さい」

「ご想像にお任せします」

 春名さんが小声で答えると、観客たちからえーという声が上がった。

「あなたと片桐先生は特別な関係にある。相手に対してそういう感情を持っている場合、その証言の信憑性が疑われますが、春名さん、あなたは片桐先生を庇って偽りの証言をしているのではありませんか」

「異議あり。それは誘導です」山路が大きな声を出したが、谷はそれを無視して「いかがですか」と再び問い掛けた。

「いいえ」春名さんはきっぱりと否定した。「確かに私は先生のことが好きです。尊敬しています。しかし今まで私の述べたことはすべて本当のことです。良心に誓って偽りを述べたことはありません」

「これで尋問を終わります」

 春名さんが頬を紅潮させて戻ってきた。何か声を掛けたいが、本番中なのでそれができない。俺は春名さんの目を見て、小さくうなずいた。

 亜季が証言席に坐る。谷の問い掛けに答える形で彼女が話し始める。

「私が『螺旋トリビュート』を読んだのは、A賞受賞作としてです。満場一致の凄い作品というキャッチコピーに惹かれて読んだのです。それが文藝界新人賞を取ったことは知りませんでした。題名が『螺旋の果て』となっていたら、ひょっとしたら新人賞の時に気づいたかもしれません。私は読み始めてこの分かりにくい小説、どこかで読んだことがあると気づきました。私は分かりやすい小説しか読みませんので、すぐに染谷さんの作品だと気づきました。それで引き出しの奥から二年前にもらったコピーを取り出して、読み比べてみたのです。びっくりしました。ほとんど同じなのです。私は唖然としました。どうしてこんなことがあり得るのか。片桐保という作者に心当たりはありません。でもその後片桐さんの書いたエッセイを読んでいくと、染谷さんと友達だったことが分かりました。それで納得しました。片桐さんは染谷さんの作品を盗用したのだと。私と同じように染谷さんから作品を読ませてもらって、彼が死んだのをいいことに、それを自分の作品として発表したのだと」

「どうしてそれをネットに発表したのですか。直接、文學春秋社に訴えることをしなかったのはなぜですか」と谷が問い掛ける。

「恐かったのです。私が表に出て直接訴えると、A賞という権威に押しつぶされそうな恐さがあったのです。私さえ黙っていれば何事もなく過ぎていく。言うべきか言わざるべきかさんざん悩みました。誰か他の人が気づいてくれないかと期待したこともあります。染谷さんのお母様にそれとなく作品のことをお尋ねしましたが、お母様は染谷さんが小説を書いていたことさえご存じありませんでした。彼の書いたものをすべて片桐さんに託したことをとても喜んでおられました。私はお母様のためにも真相を明らかにしなければならないと、その時決意したのです。本来あの作品は染谷さんのものですし、彼が死んだ今となっては、著作権はお母様が持つべきです」

 谷が引っ込み、山路が尋問を始める。

「先程、文學春秋社に訴えることをしなかったのは恐かったからだとおっしゃいましたが、盗作だと確信しているのなら恐れる必要はなかったのではありませんか」

「確信はしていましたが、直接訴えるのは恐かったです」

「ネットは匿名だから恐くなかった?」

「その通りです」

「ネットで騒ぎになって、それからどうするつもりでしたか」

「どうするとは?」

「いつまでも匿名でいるわけにはいかないでしょう。いずれは表に出ていかなければならないと考えていましたか」

「騒ぎになれば文學春秋社が調べてくれると思いました」

「文學春秋社からコンタクトはありましたか」

「いいえ」

「最初にコンタクトがあったのは誰ですか」

「片桐さんです」

「その時あなたはこう言いましたよね。コピーを買い取るとでもおっしゃるわけですかと。あなたは片桐先生にコピーの買い取りを持ち掛けたのではありませんか」

「異議あり。それは誘導だ」と谷が叫ぶ。山路は無視をする。

「いかがですか」

「……そう言えば、片桐さんがボロを出してくれるかも知れないとは思いました」

「ボロを出すって、あなたは盗作を確信しているのではありませんか」

「ネットでいろいろ言われましたから」

「あなたが買い取りを持ち掛けたとすると辻褄が合うんですけどね」

「どういう辻褄なんですか」とアイドルが好奇心丸出しの声で聞いてくる。

「いいですか」と山路が谷に尋ねる。谷は憮然とした顔をしたまま答えない。

 ディレクターがキューを出し、アナウンサーが「ここで一旦コマーシャルに入ります」と言った。スタッフの声があちこちで上がり、観客席からもざわめきが聞こえてくる。

 山路がこちらに戻って来る。

 俺は、足下に視線を落としたまま証言席を動かない亜季を見ていた。彼女が話し合いの場を持ちましょうと言ったのはどういう意味だったのかと俺は考えた。本当にボロを出させようとしたのだろうか。

 CMが明け、再び山路が亜季の横に立った。

「それでは私の推理をお話しいたしましょう。あなたは染谷さんから『螺旋トリビュート』の写し、その時はまだ『螺旋の果て』という題名でしたが、それを渡されて、友人の作品だけどもどう思うかと感想を求められた。しかしそれを言う前に染谷さんは亡くなってしまった。その後それがA賞を受賞して本が売れていることを知った時、染谷さんの写しが金になることに気づいた。片桐先生はあちこちで染谷さんのお蔭だと書かれていましたからね。どうしたらこの写しを買い取ってもらえるか。それにはまず盗作騒ぎを起こすことではないか。何の騒ぎもないまま片桐先生のところに持ち込んでも相手にしてもらえないのは明らか。それでネットにアップして騒ぎを起こした。おそらく元の原稿には作者名はなかったのでしょう。あるいは片桐保と書いてあったか。書いてあっても、それを消しゴムで消して染谷庄一郎とあなたが筆跡を真似て書き込んだ。筆圧とか消した痕が分からないようにするためにコピーをした。元原稿はあなたがお持ちなんじゃありませんか」

「嘘ばっかり。よくもそんなでたらめを言えるわね」

「そうでしょうか。二年前にあなたが染谷さんから渡されたと言っているのはコピーなんですよね」

「そうです」

「どうして生原稿ではなかったのですか。普通、生原稿でやり取りするでしょう」

「分かりません。ひょっとしたらどこかに応募するつもりでコピーしていたのかもしれません」

「うまく言い逃れましたね。とにかくあなたはネットに公開して騒ぎを起こした。片桐先生が気づくように。それはまんまと成功し、あと一歩のところまで行った。もし片桐先生がコピーを買い取ったら、イタズラでしたとばらして収めてしまうつもりだったのでしょう。ネットの匿名性というのはこういう時便利ですからね」

「今から思えば、ネットに公開したことは間違っていたと思います。直接、文學春秋社に訴えるべきでした」

「仮に、あなたのおっしゃるように盗作だとして、あなたがそれを明らかにしようとされる動機は何ですか。先程言われたように染谷さんのお母様のためですか。染谷さんの名誉のためですか。それとも盗作という行為自体が許せないからですか」

「三つともすべてそうです」

「私には金のためだとしか思えませんけどね。仮に盗作ということになって著作権がお母様に移ったら、ウン千万円という印税がお母様の手許に入ることになる。あなたはそれを狙っているのではありませんか」

「ひどい」亜季は両手で顔を覆った。

「でも客観的に考えたらそう見るのが妥当じゃないですか」

 亜季は顔を上げ、指で涙を拭った。

「私は二年前、染谷さんから読んで欲しいとコピーを渡されました。『螺旋の果て』という題名の小説でした。私はその時初めて彼が小説を書いていたことを知りました。私には難しい小説でした。私は読んで、素直に分からないと言いました。彼は『そうか、亜季にはちょっと難しすぎたかな』と笑って、その小説のことはそれきりになりました。その後私が『まだ小説を書いてるの?』と聞いたことがありましたが、『次は亜季が面白いと思う小説を書くよ』と言うだけで、二度と作品を読ませてもらうことはありませんでした。染谷さんが亡くなって彼の作品が世に出、評価され、A賞まで取ったことを知って、私は自分を責めました。もし最初にあの作品を読んだ時、その価値が分かって彼にどこかの賞に応募することを勧めていたら、どうなっていたかと。新人賞を取り、作家としてデビューしていたら、運命が変わっていたに違いない。そうしたら死なずにすんだかもしれないと。彼を殺したのは私なのだと思いました。その贖罪の気持ちが私を動かしています。決してお金のためにしているのではありません」

 スタジオ内がしんと静まりかえった。

 次にあいつの母親が証言席に坐った。

「再度確認しておきますが、お母様は息子さんが小説を書いていることをご存じなかったのですね」と谷が問い掛けた。

「はい」

「当然作品を読んだことも……」

「ありません」

「篠原さんと息子さんが付き合っておられたことはご存じですか」

「はい」

「いつ頃からか分かりますか」

「三年くらい前だと思います」

「二年前、息子さんが篠原さんに作品の原稿を見せていたのはご存じですか」

「いいえ、知りませんでした」

「息子さんが片桐先生の友人であることはご存じでしたか」

「名前は聞いていなかったのですが、読書会でご一緒の方が小説を書いていて、その方の作品を見なければならないと言っていたのは聞いたことがあります」

「息子さんの書いたものを片桐先生にすべて渡した時の経緯をお話し下さい」

「あの子が事故に遭って病院に駆けつけた時はもう虫の息でした。わたくしが体を揺するとふっと目を開けて、『お母さん、片桐に俺の書いたものをすべて渡してやってくれ。頼む』そう言われたのです。『片桐って誰』と問い掛けても、それっきりでした。通夜に来ていただいた人の中に片桐さんの名前があったので、連絡して引き取ってもらったのです」

「その時お母様は原稿用紙の束を見ましたよね」

「はい」

「何と書いてありましたか」

「……すみません。覚えておりません」

 谷が狼狽した表情を見せた。

「『螺旋トリビュート 染谷庄一郎』と書かれた小説だったのでしょう?」

「息子の名前が書いてあったのは見ましたが、題名が何であったか、本当に覚えていないのです。申し訳ありません」

「……分かりました。それでは質問を変えましょう。原稿を片桐先生は読みましたね?」

「はい」

「その時、片桐先生は何と言いましたか」

「息子の書いた小説かどうか尋ねられました」

「先生は小説と言ったのですね」

「はい。わたくしはその時初めて息子が小説を書いていたのかと思いました」

「片桐先生が小説だと認めた原稿、それがまさに『螺旋トリビュート』だったわけです。それを先生は自分が書いたと……」

「いいですか、先生」と母親が手を上げた。谷がしゃべるのをやめ、目で促した。

「あの作品は片桐さんのものということにしていただけないでしょうか」と母親は話し始めた。「誰が書こうが片桐さんがいなければあの作品が世に出ることはなかったのは確かですから。息子が自分の書いたものをすべて託したということは、著作権も含めてすべてだとわたくしは理解しております。片桐さんを苦しめることは息子の本意ではないと思いますし、わたくしも片桐さんの苦しむ姿を見るのがつらいのです。もうこのような争いは止めていただけませんでしょうか」

 谷が両掌を上に向け、肩をすくめた。山路は手を交差させて反論しない意思表示をし、母親は深々とお辞儀をしてテーブル席に戻った。亜季が何か言い、母親が笑顔でうなずいた。

 最後に俺が証言席に坐った。俺のは決まっていた。

「片桐先生、『螺旋トリビュート』の執筆過程をお話し下さい」と山路が促す。俺は一つ大きく息を吐いた。

「あれは染谷庄一郎の書いた小説です」

 そう言うと、観客席は騒然となった。「何を言う」と山路が小さいが、鋭い声を出す。テーブル席の春名さんが顔を両手で覆っているのが見えた。俺は舞台の上で役者が科白をしゃべるような、興奮と冷静さが入り交じった気持ちで話し始めた。

「私は二十七歳の時から小説を書き始め、十年間ずっと文藝界新人賞に応募してきました。しかし一度も一次予選を通過したことはありませんでした。そんな時染谷庄一郎と読書会で知り合ったのです。一昨年の十月のことでした。私はその頃十二月末日が締切の応募作品を書いていたのですが、彼の批評の精緻さ、鋭さ、思いも寄らない見方、解釈に度肝を抜かれ、彼に作品を読んでもらったのです。彼のアドバイスを受けて書き直した作品がいきなり三次予選を通過した時は天にも昇る心地でした。彼に読んでもらったら、ひょっとしたら新人賞を取れるのではないかと私は思いました。それで私は次の応募作品に寝食を忘れて取り組みました。そしてそれを彼に読んでもらおうとした矢先、彼は交通事故で亡くなりました。私は呆然としました。蜘蛛の糸が切れてしまったのです。そんな時、そこにおられるお母様から彼の書いたものを渡されたのです。そこにあった『螺旋トリビュート』を読んで、私はハンマーで頭を殴られたような衝撃を受けました。自分の作品とは比べものにならない、とんでもない作品だったのです。そんな作品を読んでしまった後で、自分の作品を応募しようという気になるでしょうか。自分の作品より彼の作品を世に出すためにはどうしたらいいかと私は考え始めました。死者が応募できないのなら、取りあえず私の名前で応募したらいいのではないか。それで当選したら、その時に本当のことを言えばいい。私はそう思いました。ちなみに『螺旋トリビュート』の最後の場面、原稿用紙でいえば十枚程は、彼の創作ノートに描かれていた螺旋階段の絵を元に、私が彼の文体を真似て書いたものです」

「どうしてそんなことをしたのですか」とアナウンサーが聞いてきた。

「作品がどうしても終わっているようには思えなかったからです」

 谷が立ち上がった。

「この期に及んで、自分も著作物の一部に権利があると主張するのは見苦しいですぞ」

「私は何も権利を主張しているのではありません。事実を申し上げているだけです」

「今まで嘘をついておいて、誰がそんなことを信じるか」

「その通りです。信じるか信じないかは聞く人にお任せします」

「当選した時、どうして本当のことを言わなかったのですか」とアナウンサーが聞く。

「今になってみれば、私もその時本当のことを言うべきだったと思います。しかし人間とは弱いものです。いざ、そうなってしまうと、悪魔のささやきが聞こえるのです。このまま黙っておれば、お前は夢にまで見たプロ作家としてデビューできるのだと。染谷庄一郎が小説を書いていたことは誰も知らない。ましてや、その原稿を持っているのはお前だけなのだ、誰にもバレるはずがないと。一度でも真実を話す機会を失ってしまうと、もう次の機会では話す勇気が出てこないのです。担当編集者の春名さんから次の作品を書いて一冊の本にすると言われた時も悩みました。私は染谷庄一郎の創作ノートの中から小説のプロットを探し出し、それを元に彼の文体を真似て書きました。『螺旋トリビュート』の最後の場面を書いた時の経験がそれを可能にしてくれました」

「また、そんなことを言う」と谷が呆れた声を出した。「『返討鴇姫文章』は自分の書いたものだから著作権があると主張したいのだろう。本当は染谷さんが書いていたやつを写しただけだろう」

「先程も言いましたように、私は事実を述べているだけです。著作権のことなどこれっぽっちも頭にありません」

「だったら『螺旋トリビュート』と『返討鴇姫文章』の著作権は染谷庄一郎さんのご母堂に無償譲渡すると、ここで宣言しなさい」

「おっしゃる通り、無償譲渡いたします」

 その時、アナウンサーの横に坐っていた高垣周幸が立ち上がった。

「恥を知れ、恥を。作家は独創性こそ命なのだ。いかに自分のオリジナリティを出すか、そのことに血を吐くような努力をしているのに、貴様は何だ。人のものをかすめ取って、それでも小説家か。小説を書いていますとよくもほざいたな。貴様のような奴は小説を書く資格がない。A賞は取り消しだ!」

 俺は立ち上がり、高垣に向かって深々と頭を下げた。

 ディレクターが番組の終了を告げた。スタジオ内が一気に騒然となる。しかし、俺の側には誰も近寄ってこなかった。俺は椅子に腰を降ろし、周囲の騒ぎを人ごとのように聞いていた。高垣周幸が俯いている春名さんの肩を抱くようにしてスタジオを出て行くのが見えた。

 編集長が近寄ってくる。

「もう少し粘ってくれると思ったがなあ。でもこれで決着がついたからよしとするよ。こっちとしたら、君が書こうが染谷さんが書こうがどちらでもよかったんだ」

「すみません」

「片桐くん、A賞もそうだけど新人賞も取り消しになるよ。分かってる?」

「はい」

「分かってるならいい。じゃあ、元気で」

 編集長と入れ替わるように、プロデューサーの日野が満面の笑顔で側にやってきた。

「片桐先生、ありがとうございました。お蔭で視聴率、二十五パーセントを超えました。この番組の歴代一位ですよ。いやあ、ホントによかった。片桐先生の告白、最高でした」

 日野は俺の右手を両手で握り、何度も上下に振る。俺はその手の熱さがよく理解できなかった。

 アシスタントディレクターに促されて、俺は楽屋に戻った。顔を洗ってファンデーションを落としたが、それでもまだ顔に膜が張っているような気持ち悪さのまま部屋を出た。

 廊下のところで春名さんが立っていた。アイシャドーが流れ、目の周りが黒くなっている。

「どうして私にだけは本当のことを言ってくれなかったの」

「ごめん」

「『返討鴇姫文章』、あれも本当は染谷さんの書いたものなんでしょ。それをあたかも自分が苦しんで書いたように見せ掛けたんでしょ」

「いや違う。信じて欲しい。あれは本当に……」

 俺が春名さんの腕をつかもうとすると、彼女は身をよじって避けた。

「あなたが染谷さんだったらよかったのに」

 そう言うと、春名さんは踵を返し廊下を走っていった。俺はそのピンクの後ろ姿を呆然として見送った。彼女の言葉が頭の中を駆け巡る。

 俺はエレベーターに乗ろうと表示を見たが、非常階段の矢印を目にすると、その方向に歩いて行った。廊下の奥に非常階段の文字が浮き上がっており、俺はその鉄扉を押した。途端に冷たい風が吹き込んでくる。外階段になっており、手摺りから見下ろすと、駐車場に停められている車の天井が水銀灯に照らされて小さく見えた。

 あいつのところに行こう、そう思うとふっと心が軽くなった。

 俺は両手を手摺りに掛け、飛び上がるようにして腹を乗せた。右脚を手摺りに掛ける。下を見た。

 その時、上着のポケットに入れていたスマホが振動した。あいつが呼んでいる、そんな気がして俺は手摺りから降りた。スマホを見ると、全く見知らぬ電話番号だった。

「もしもし」

「片桐先生ですか。テレビを見ましたよ。先生のおっしゃったこと、私はすべて本当だと思いますよ」

 甲高い声が聞こえてきた。

「どちら様ですか」

「小説メフィストの磯部ですよ。新人賞の授賞式の時、お話しして名刺もお渡ししたでしょ」

「すみません。覚えておりません」

「ハハハ、覚えてないか。まあ、いいや。とにかく先生に小説を書いてもらおうと思っているんですよ」

「え?」

「そんなに驚くことはないでしょう。小説家に小説をお願いするんだから」

「私にですか」

「そうですよ。『螺旋トリビュート』も『返討鴇姫文章』も読みましたよ。『螺旋トリビュート』の最後の場面も他の場面と遜色はなかったですし、『返討鴇姫文章』もなかなかのできでしたよ。染谷さんのプロットがあったとしても、あれだけのものが書けるのは才能ですよ。A賞が取り消されたっていいじゃないですか。それも一種の勲章ですよ。小説メフィストに書いて下さいよ。お願いしますよ」

「でも、私が何を書いても誰かの剽窃だと言われてしまいますよ」

「剽窃が何ですか。そんなこと気にする必要はありませんよ。高垣のじいさんが独創性などとほざいていましたが、私小説の垂れ流しのどこに独創性があるんですか。自分のことを書けばオリジナリティがあるなどと思っていること自体が非独創性の最たるものですよ。自分の書くものにはオリジナリティがあると思っている作家は、余程の能天気だと思いますね。古今東西の書物を読んでご覧なさい。そんなもの、すでに書かれていることが分かりますから。と言っても私もすべての書物を読んだわけではないですが、ハハハ。ボルヘスの『バベルの図書館』をお読みになったことがありますか。そこには古今東西の書物だけではなく、未来永劫に渡る書物の、すべての文章が収められた本が収蔵されているんですよ。文字の組み合わせのすべてを印刷した本がね。どんな文章を書こうとも、すべてはすでに書かれている。もちろんそんな図書館は想像の産物ですが、その恐れなしに、自分の書いたものが独創性に富んでいると思っている作家なんて信用できませんね。五十年くらい前に発掘された紀元前二千年頃の遺跡があるんですが、確かタコト遺跡とか言ったかな、そこには壁一面に膨大な数の形の文字が刻まれているんですよ。最近ようやくその解読が進みまして、何とそれが物語になっていることが分かったんですよ。それも小さな独立した話が十二万五千ほどもあって、あらゆる物語の原型はここにあると言う学者もおりましてね。所詮人の考えることなど似たり寄ったり、オリジナリティなんて作者の思い上がりだということですよ。剽窃という神輿の上に乗って踊っていて、手首の動きが右を向いたからオリジナル、首が斜めを向いたからオリジナルと騒いでいるだけですよ。剽窃だなんて騒ぐ連中は創作なんかに手を染めたことのない、ただの素人でね、剽窃の神輿というのが理解できない馬鹿な連中ですよ。かの有名なイギリスの詩人T・S・エリオットもこう言っていますよ。凡庸な詩人は借用し、大詩人は剽窃すると。あのスタンダールなんか、『イタリア絵画史』はランズィ神父の著書からの剽窃ですよ。しかもスタンダールは堂々とランズィの剽窃者を自称していたくらいですからね。スタンダールは創作の何たるかがよく分かっていた大作家ですよ。そもそもオリジナリティなんか無意味だという文明もあったくらいで。片桐先生、アレクサンドリア図書館というのをご存じですか。紀元前三百年頃エジプトのアレクサンドリアに建てられた大図書館で、パピルスの巻物がおよそ七十万巻も所蔵されていたんですよ。それが七世紀頃ジハードに燃えるサラセン人の手によって燃やされてしまったんですよ。その理由がふるってますよ。それらの書物がコーランに合わないなら有害である、合うならば無用である、故に焼いてしまえ、というものです。コーランが唯一絶対の書物、それ以外のオリジナリティは認めないって言うんですから徹底してますな。昔は著作権などという馬鹿げた権利なんてなかったから、やりたい放題。それでも文句を言う連中などいなかった。それが今では金に換わるもんだから、死後五十年七十年などと著作権を引き延ばす。お前らは一体誰のお蔭で詩を書いてきたんだ、小説を書いてきたんだ、文章を書いてきたんだ、すべて剽窃の神輿に乗ってきたんだろう。それを自分たった一人で書いてきたような顔をして、独創でございなんて、ちゃんちゃらおかしいってもんでさ。ハハハ、ついつい気持ちが入っちゃいました。片桐先生、聞いてます? 要するに、私が言いたいのは、最初に言ったように剽窃なんて誰もがやっているんだから気にしなくてもいいということですよ」

 

 

  その後のことを書いておこう。

 俺のA賞受賞は取り消された。もちろん文藝界新人賞も。テレビ番組出演料の五十万円がそのまま新人賞賞金の返金に充てられた。編集長はそこまで計算して番組交渉をしたのではないかと俺は疑ったくらいだ。

 A賞は特例として染谷庄一郎に与えられることになり、授賞式には彼の母親が出席して賞金と記念品を受け取った。「螺旋トリビュート」は染谷庄一郎の名前で再度出版され、俺名義と合わせて難解な小説としては異例のミリオンセラーとなった。

 母親から託された彼の書いたものは、すべて彼女に返したが、「螺旋トリビュート」の最後の場面、それに「返討鴇姫文章」の原稿がないことが問題になった。告白の嘘がバレないように俺が処分したということになって、メディアだけではなくネット上でもさんざん批判された。しかし、ない袖は振れないので、俺は黙っているしかなかった。しばらくしてネット上に、これが染谷庄一郎の書いた「返討鴇姫文章」の生原稿だと言って一枚目がアップされた時は正直驚いた。写真ではなくPDFファイルとしてアップされており、彼の字によく似ていた。たとえよく似ていてもそれが偽物だということは俺だけには分かっていたが、世間はやっぱりあれも染谷庄一郎の書いたものだったということで納得した。

 俺は磯部の注文に応えて、小説メフィストに書くことになった。実は、染谷の書いたものを返す時、彼の三冊の創作ノートをすべてコピーして手許に残しておいたのだ。その中から面白そうなプロットを拾い出し、それを元に彼の文体で小説を書いた。一番最後に(染谷庄一郎の創作ノートからプロットを拝借しています)と書き加えることは忘れなかった。その小説が載った時、春名さんから何か言ってくるかなと期待したが、何の音沙汰もなかった。

 俺が小説メフィストにいくつか作品を発表すると、ネット上で俺に対する賛否が渦巻いた。作品自体の評価は悪くはなかったが、プロット拝借については徹底的に批判をする者と、まあまあ容認する者とに分かれた。そしていつしかそんな俺に付いたキャッチコピーは「剽窃作家」というものだった。

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