真上の部屋の女

柳生 時実


 家主から電話があった。

「退去した五○一号室、入居が決まったから掃除をやっといて」

 私と同じ世代の家主はいつも横柄で、勘に触る。

「わかりました」と、愛想なく答えた。

 息子が結婚したのを機に、私は長年住んでいた賃貸のファミリーマンションを引き払い、この家主の物件へ三年前に越してきた。夫は息子が高校生の時に亡くなり、それからは女手ひとつで大学まで通わせた。その後、息子は就職して地元の大阪から東京へ転勤になり、もう帰ってきそうもない。なぜなら東京で見つけた彼女と結婚した後、転勤のない職へと変わったのだ。

 ここへ越す際にパート勤めをやめ、遺族年金と夫の死亡保険で細々と地味に暮らしていた。その姿を見た跡取り娘の家主は、きっと私なら安い賃金で喜んで働くとでも思ったのだろう。入居後しばらくすると家主から共用部の清掃を依頼された。彼女はどうやら私を気に入ったようで、今では日常の清掃に加え、退去した部屋も頼まれるようになった。

 私は自分の住んでいる四○三号室から、掃除道具を持って階段で五階へと上がった。退去した部屋の鍵は、いつも扉で閉められているパイプスペースのメーターの上に置いてある。私は不用心だとは思うが、オートロックがあるし、新たな入居者が決まると鍵は交換するから大丈夫だと家主はいう。

 パイプスペースから鍵を取りだして玄関ドアを開けると、ブレーカーを上げるために右手の洗面所へ行く。背伸びをしてブレーカーに手をやると、すでに上がっていた。きっと客を案内した仲介業者が下げるのを忘れていたのだろう。家主が気づく前で良かった。上がったままだと電気代の請求が来て、家主が私に文句を言ってくるかもしれないからだ。

 暗い洗面所に電気を点けて、玄関の続きにあるキッチンに行く。コンロの上に鍋が置いてある。以前の住人が置いていったようだ。シンク下の引き出しを開けると、コップと皿が三つずつあった。前の住人は置き忘れが多いようだ。それからコンロと換気扇の汚れをチェックして、引き戸を開けて隣の居室へ入った。すぐに花柄のカーテンが目に飛び込んできた。足元に目をやると、床には布団が一組敷かれ、枕が二つ整然と並び、その横には小さなテーブルがあった。周りには女物のバッグや衣類が床に置いてある。私はどうやら部屋番号を聞き違えたようだ。退去した部屋番号を確認するために、ポケットから携帯を取り出して家主へかけた。

「掃除する部屋は何号室でしたか。間違えて五○一号室へ入ってしまったので」

「五○一であってるけど。階を間違えてない?」

「五○一号室は、私の部屋からは一階上なので間違えてないですよ。階段で上がりましたし」

 部屋番号は、階数と部屋の位置で番号がふられている。同じ位置の部屋ならば、番号は同じなので、階数を間違える可能性はあるのだ。

「今、空いているのは五○一号室しかないわ。もし間違えたとしても、部屋の中には入られないはず。だって鍵を置いているのは五○一だけやからね」

「でも、電気のブレーカーは上がっていたし、カーテンに布団もあります。新しい人が、もう入居されたのかもしれませんね」

「それはないわ。ちょっと待ってて。いま行くから」

 家主は慌てた様子で電話を切った。歩いて五分の近所に住んでいるので、すぐに来るのだろう。私はカーテンを引き、窓を開けた。長い間空室だった部屋独特の排水口からの嫌な臭いがしたからだ。やはりこの部屋は空いていた筈なので、住人はいったい誰なのだろう。ふり返ると、布団の横のテーブルに大学ノートが置いてある。これを読めば住人が誰だか判るのではと思い、それを手に取った。

『若本真理さんへ。僕は頑張って働いて、息子の優也と真理さんと三人で暮らします。真理さんが、すごくかわいがってくれている優也も喜ぶと思います。真理さんを世界で一番愛してます!』

 私はここまで読んで、ノートをパラパラめくった。最後のページまで、汚い大きな字で書き込まれている。全てが「僕」から「真理」宛てのラブレターのようだ。玄関ドアが開く音がしたので、ノートを元のテーブルへ置いた。すぐに家主が息を切らせて入って来た。

「なにこれ! 誰か勝手に住んでいるわ」

 部屋を見渡した家主は、顔を強張らせた。

 私は若本真理という女だろうと思ったが、黙っていた。勝手にノートを見たと言えば、ややこしくなりそうだからだ。

 家主は私の顔を見ながら怒ったように「不法侵入や。警察へ電話するわ」と言い、すぐに携帯電話で通報した。通話を終えると「親の代から大家やってるけど、こんなん初めて」とひとりごちている。それからさっき私が見たノートに気付いて読み始めた。

「気持ち悪いわ、このノート。山川さん、ちょっと読んで見て」

 私は渡されたノートを初めてのふりをして読んだ。

『真理さん。あなたという人に出会えた僕は、幸せです!』

 もう一度読むと殴り書きだが、あふれ出る愛情を表したような勢いのある字体に好感を持った。文章はありふれた愛の文句で連なっているが、私はこの若本真理をうらやましく思った。ラブレターなど、今まで一度ももらったことはなかったからだ。亡くなった夫からもない。

「すごいラブレターですね。しかも大学ノート一冊全部へ書くなんて」

 私はノートを家主へ返した。

「若本真理……。どこかで聞いたような」と、家主は首をかしげだ。

 インターフォンが鳴り、三人の警察官が五○一号室へ入って来た。一人の警察官が家主から事情を聞きながらメモを取っている。私は自分の部屋へ戻ろうと、玄関ドアへと向かった。靴を履いていると、いきなり目の前のドアが開いた。驚いて顔を上げると、スーパーの袋を手にした女が立っている。私や家主と同年代の女で、三カ月ほど前に、私の真上の部屋へ引っ越してきた人だ。いつ見かけても地味な服装をしていて、エレベーターで同乗しても、会釈すらしない愛想の悪い女だった。

「ここで何してるの。このノートの若本真理って、あんたやろ。思い出したわ」

 いつの間にか後ろに来た家主が、私の耳元で叫んだ。若本真理は食料品の入ったスーパーの袋を手から落とすと、五○三号室へと走り出す。そこは彼女の部屋の筈だ。警察官三人が追いかけて、玄関ドアに向かって鍵を開けようと焦っている若本真理をがっちり取り押さえた。

「五○一号室に入り込んだのは、あんたか」

 一番年長と思しき警察官が、真理の腕を掴んで怒鳴った。

「あたしシュウトに騙されたんです!」

 真理は泣き崩れて、ひざまずいた。

 開け放したドアから一緒に見ていた家主は興奮して「なんで勝手に入ってたの。どういう訳? シュウトって誰? 何を騙されたんよ」と早口でまくしたてながら、私を押しのけて裸足のまま真理の側へ走った。私も後から靴を履いて近づいた。

「ヤマグチシュウトさんです、あたしを騙したのは」と、真理は泣きじゃくった。

「騙されたって、どういう事や」

「あたし、ヤマグチさんと結婚するんです。彼が『同じ階の部屋を借りたから、三人でそこに住もう』って」

「次の入居者はヤマグチという人ではない。それに単身住まいしか、うちは契約しないから。あんた、嘘を言うたらあかんわ」

 家主が語気を荒げた。

「大家さん、まあ落ちついて。取りあえずこの人の話を聞くわ。あんたの名前は?」

 警察官は真理の身体から手を離して、クリップホルダーを出し、メモを取り始める。

 若本真理の生年月日、住所、電話番号を聞き取り、ヤマグチの氏名を尋ねた。

「山口秀人」

 真理は、彼の生年月日、住所、電話番号を淀みなく答えた。そして警察官へ彼に騙された経緯を話した。それによると、真理と山口はもうすぐ結婚する。そのために彼は新居として五○一号室を借りた。そこで山口の息子と三人で新婚生活を始めようと、鍵を彼にもらったと言う。

 家主は「そんな筈ない!」と怒ったが、警察官が黙ってと目配せをした。真理はうずくまったまま、鼻水をすすって震えている。それを見ていた私は、騙された真理が可哀そうには思えなかった。不思議とうらやましかった、同じような年恰好で、同じボロマンションに住み、見た目は私とほとんど変わらないはずだ。それなのに、真理には大学ノート一冊分のラブレターを書いてくれる相手がいる。還暦近いこの歳になっても恋愛が出来るのだ。衝撃を受けた私は家主に気付かれぬよう、そっと階段で下の自分の部屋へと戻った。

 あくる日、マンションの玄関前を掃除しようとエレベーターに乗ると、真理がいた。男に騙された真理には、お咎めはなかったのだろう。彼女は相変わらず無愛想で、昨日の事など何もなかったかのように会釈もしなかった。だが、男に愛されている女が醸し出す丸みを感じた。私は友人との会話を思い出した。友人は生理が上がっても、女であるかどうかは丸みで分かると断言していた。丸みとは脂肪の事なのかと聞くと「加齢や脂肪による丸みではないわよ。現役の女は、柔らかさがのった丁度良い丸みがあるのよ」と笑った。それはフェロモンのように異性を惹きつける女の印に違いない。

 真理の恋愛を知ってから、夫の死後、がむしゃらに働いて息子を育てただけの自分の人生を呪った。息子が外資系企業へ転職して高給取りになったのは、私が女手ひとつで苦労して育て上げたからだ。それを当たり前に思っている嫁は、贅沢三昧に暮らしている。そればかりか私をないがしろにする始末だ。年に一度の帰省すらせず、自分の実家へばかり夫婦で遊びに行く。私にしてくれることは、母の日にカーネーションの鉢植えを送ってくるだけだ。メッセージカードの一つも付いていない。嫁を楽にさせる為に息子を育てたのではなかったのに。

 友人に愚痴をこぼしたら「立派に育てたあんたはエライ!」と褒めてくれた。なおも嫁の悪口を言うと「息子の事はお嫁さんに任せて、これからは自分の人生を楽しんで」と慰めてくれる。だが、今の私には楽しみ方がわからなかった。友人に誘われて遊びに出かけると、その時間は楽しいのだが、家に帰って一人になると虚しさで胸がいっぱいになる。

 マンション前を掃いて、道路に出て捨てられたタバコを拾っていると、目の前に赤いベンツが止まった。家主の車だ。音もなく窓が開き、家主が「昨日は大変やった。今から娘を病院へ連れていくから、また今度、若本の話するわ」と言うが早いか去っていく。同乗している家主の娘は臨月なので、検診へ行くのだろう。もしも私に女の子がいたのなら、また違う人生だったのかも、とふと思う。母娘で仲良く買い物に出かけ、孫の世話をして……。今よりずっと充実した日々を送っている自分の生活を想像した。だが家主の娘は真理と同じくらい無愛想なのを思い出して『あんな子ならイランわ』と現実へ戻り、掃除の続きに取りかかった。

 

 三日ほど経って、五階の共用廊下をモップ掛けしていたら、エレベーターからさえないスーツ姿の中年男が出てきた。どこの部屋の人かと思っていると、チャイムを押して慣れた様子で真理の部屋へ入って行った。まさか、この男が山口なのだろうか。それとも新しい男なのだろうか。私は真理の玄関ドア前に立って、そっと様子を窺ったが、声は何も聞こえてこない。あの中年男が大学ノートのラブレターを書いたとしたら、人は見かけによらないものだと思う。

 エプロンのポケットに入れていた携帯電話が鳴った。私は驚いて五○三号室の玄関ドアから離れた。

「あれから若本さんの様子どう?」

 家主の大声が耳に響く。

「どうって。普段と同じですよ」

 私は話しながら廊下を反対側へ歩いた。

「いつも通りって、なんて図太い女やの。勝手に人の部屋へ出入りしていた癖に、被害者ヅラしてるんやもん。謝罪のひとつもないねんから」

 家主の声はいつもと同じで大きく、耳障りだ。私はモップをバケツへ入れて、水中で上下させた。透明な水がネズミ色へと変わっていく。

「山川さん、聞こえてる?」

 家主が一段と声を上げた。

「はい、聞いてますよ」

 私にはどうしようもない話をするので、返事のしようがない。

「若本さんがへんな動きしてたら、すぐに電話してきてや」

 家主は私にそういうなり電話を切った。かけてくるのも切るのも、いつも自分勝手で、真理と同じくらい感じが悪かった。ため息をついた私は、五階廊下のモップ掛けの続きを始めた。もう一度、真理の部屋である五○三号室の前で耳を澄ましたが、誰もいないかのように静かだった。

 真理の部屋を出入りする男に興味を持った私は、掃除中に見かけない人がマンションに入って来る度に、用事のふりをしてエレベーターへ同乗した。侵入事件から一週間目に息子と同世代に見える作業着を着た若い男が、真理の部屋へ入って行くのを見た。真理に子供がいるのだろうか。まさか彼女を騙した山口という男の子供ではないだろう。私は箒を手にして、真理の部屋前で耳を澄ました。

「だから……」

 内容はわからないが真理を心配するような男の声が聞こえる。

 今度は真理が怒ったような声で、しゃべっている。

 話しぶりから、どうやら真理の息子だろうと察した。私は何とも言えない羨ましさで胸がいっぱいになる。うちの息子なら、私が男に騙されて人の家へ侵入する事件を起こしたら、どうするのだろうか。きっと私の兄へ連絡して、警察や家主との対応を押し付けて、自分は仕事が忙しいからと東京を離れないだろう。そして、嫁には事件を内緒にして、世間体を気にした挙句、私を責めるに違いない。

 真理は沢山の人に愛されて、心配してもらっている。私の事を心配してくれる男はこの世にはいない。もし夫が生きていたらと考える。たとえ生きていても、私の事は二の次でゴルフや趣味の釣りなどの付き合いで忙しく、事件を起こしたら激怒するだけで、味方にはならなかったと思う。真理は、夫と離婚か死別しているのだろう。独り身という同じ境遇なのに、と私は再び息が苦しくなって箒が重たくなってしまい、のろのろと掃き掃除を再開した。

 

 夜、布団に入って天井を見上げた。上の部屋で真理は何をしているのだろうか。前の住人と比べると、真理の足音は静かだった。時々、物を落としたような大きな音がしたが、気になるほどではない。部屋の間取り上、私の布団の真上に真理も寝ているに違いない。私と違ってきっとベッドで寝ているだろう。セミダブルで男とぴったりと寄り添う真理が目に浮かんだ。その男は真理に腕枕して、髪をやさしく撫でている。安心した真理はぐっすりと深い眠りに入っていく。

 私は抱き枕を引き寄せて、足ではさんだ。枕からは湿った自分の匂いしかしない。同じ時間、真理は男の脂の匂いを吸いこんでいるのだ。それがどんな匂いなのかは、もうとっくに忘れてしまった。思いおこせば、夫の脂臭い体臭は嫌いで気分が悪かった。漂白剤や柔軟剤で誤魔化しても取れないのだ。だが今なら愛してくれる男の匂いを深く吸いこんで眠るに違いない。現実の私は、もう誰にも抱かれることもなく朽ち果てていく。閉経した今では、濡れることすら出来ない身体になってしまっていた。

 

 一ヶ月の間、真理の部屋を出入りしていたのは、中年男と息子と思しき二人だった。家主から「若本さんの様子は?」と毎日のように電話があるので、後ろめたい気にもならず、マンションの清掃に力を入れて観察したのだった。

 清掃のために玄関ドアを開けようとしたら、家主からの電話がきた。

「山川さん、ちょっと聞いてよ。若本さんにいつまでも居られたら、うちが困るから追い出すねん。また事件起こされたら迷惑やからね」

「追い出すって一体どうやってですか」

「それが難しいねん。家賃はキチンと払ってくるからね。何度も仲介業者に交渉してもらってるんやけど」

 家主はため息をついた。

「若本さんは何て言ってるんですか?」

「どうもこうもマトモな話が出来ないらしいわ。まったく聞く耳持たんと、山口いう男の話ばかりして埒アカンって。騙されていたいうのに、いつまでも待ってるなんてアホな女やわ」

 私は家賃をちゃんと払っている真理を追い出そうとする家主に腹が立った。真理は騙されていた被害者だというのに。

「若本さんが騙されていただけなら、もう大丈夫なのでは」

「いや大丈夫とは思えんわ。それでな、うちが引越し費用全部を出す事にしたわ。そこまでせんと、出て行ってくれへん。とにかく若本さんが変な行動してたら、すぐに電話してや」

「はい」と返答する間もなく、いつものように一方的に通話が切られた。

 通話の後、清掃道具を手にして部屋を出てエレベーターのボタンを押した。上から来たエレベーターが開くと、中にはいつもと変わらない普段着の真理と幾度か見かけたスーツを着た中年男が乗っていた。二人は何も言わずにこちらを見ているが視線は合わさない。乗り込むと、私は彼らに背を向けた。エレベーターはすぐに一階に着いた。先に降りた私はエレベーターのマットを掃除するふりをして、前で二人が出るのを待った。他人行儀な二人は無言のまま、外へと出て行く。その後ろ姿を見送ると、中年男は真理の男ではないと直感した。では誰なのだろうか。また、真理を騙した山口とはどうなったのだろう。どちらにせよ、真理に関わる男がいるのは現実だった。私に男は一人もいなかった。息子でさえ、もう私のものではなく嫁のものだった。

 マンションの玄関前を掃き掃除していると、真理が一人で帰って来た。手にはスーパ―でもらったような使用済みの段ボールを何枚か手にしている。

「その段ボール、どうするのですか」

 私は初めて真理に声を掛けた。

「引っ越しするので、物を整理しようともらってきたんです」

「引っ越されるって、どちらへ」

 先程の家主からの電話では、まだ引っ越し話がついていないようだったので驚いた。

「近くなんですけど、ここよりも広いマンションなんです。結婚するので」

 真理の表情が明るくなった。

「この間、話していた山口さんと結婚するんですか。騙されたって泣いていたから、心配してたんですよ」

 私は山口と真理がどうなったのか知りたくて、質問した。

「今度はちゃんと秀人さんが契約してくれたんです。さっき、新居を見て来たんですよ」

「それは良かったですね。おめでとうございます」

「ありがとうございます」

 真理は微笑むと、マンションへと入って行った。真理の幸せそうな表情を見ると、羨ましさを感じたが、不安にもなった。勝手に人の部屋の鍵を渡すような山口という男と結婚して、幸福になれるとは思えない。そんな事は簡単に予想できる年齢の筈なのに、真理にはわからないのだろうか。いくつになっても、恋をしたら大事なものを見落とすのだろうか。私はまだ見た事のない山口を頭に描いた。きっと言葉巧みな調子者に違いない。いや、調子者だと真理とは付き合えない気がする。もしかしたら正反対の口数の少ない男かも。どちらにしても、彼は真理を愛しているのだろうか。

 私はいろいろ想像しながら、掃き掃除の続きをやり始めた。

 

 真理が五○一号室へ入り込んでから二ヶ月経った頃、いつものように家主からの電話があった。

「昨日、やっと若本さんが引っ越したわ」

「昨日ですか」

 驚いた私は声を張り上げた。いったいいつの間に引っ越ししたのだろうか。昨日も午前中はマンションの清掃をしていたが、引っ越しはなかった。午後に買い物に行ったほんの一時間の間に出て行ったに違いない。キッチンと居室だけの小さな部屋の荷物の運び出しは、小一時間もあれば終わってしまうのだ。

「男に騙された言うのは、全部あの女のウソやったんやで」

「嘘?」

「そうや。みんな若本の想像やったんや」

「どういう事でしょうか」

「山口秀人いう男は実際に存在している人や。その山口とは前の職場で知り合ったらしい。職場言うても、同僚ではないんやで。ただ単に一介のお客さんで、事務的に話すだけの関係やったそう。で、若本はその人を一方的に好きになってしまい、思い込みで結婚する言うてたんやわ」

「一人芝居ですか」

「そう。オカシイ話やろ」

「なぜ、それがわかったのですか」

「若本の息子から聞いてん。息子は、よう働くええ子やよ。母親の事では大変やったようやけど」

「出入りしていた中年のスーツ着ていた男の人は、誰だったのですか」

「その人は、うちへ若本紹介してきた仲介業者の人やわ。事件起こされたから、責任持って引っ越しさせるようお願いしてたから、しょっちゅう若本の所へ行ってたハズやわ」

「たしかによく見かけました。その人が山口さんかなと思ったくらいでしたよ」

「山口さんは若本の所なんて、来るはずないよ。息子の話では、あの事件で警察が確認した際、向こうに迷惑がられて文句言われたそうやわ」

 私は自分の頭が混乱してきた。真理が一人で勝手に恋をしていたなんて、信じられなかった。本当は片思いなのに、自分の中では求婚されて幸せな気分になっているとは……。

「信じられないですね」

「わたしも聞いてびっくりしたもん。迫真の演技やったからな」

「演技ではなく、本気で山口と恋愛していたのでしょうね」

「それなら、なお不気味やわ。ま、お金が要ったけど出て行ってくれたから、うちは万々歳やわ。若本が居た五○三号室、時間のある時にでも掃除しといてね」

「わかりました」

 私は電話を切るとすぐに階段で上の五階へと行き、五○三号室のドアを開けた。部屋の中は柔軟剤の良い香りがする。真理は洗濯が好きだったのだろう。玄関から洗面所へと歩き、ブレーカーを上げて電気を点けた。隣のキッチンを見ると、きれいに掃除してある。そこを抜けて引き戸を開け、居室へ入った。カーテンのない窓から朝日が差し込んできて、まぶしい。目がなれると、何もない部屋をぐるりと眺めた。掃除したようで、床にはちり一つなかった。ワックスまでかけてあり、ピカピカだ。壁際のクローゼットへ進み、扉を開けた。ふと下を見たら、紙切れが一枚落ちている。気になって拾い上げて見た。それは椅子三個の領収書だった。配送先の住所が新居のようだ。今、真理は新居で何を想像しているのだろうか。それが幸せな新婚生活だったら良いのにと思う。

 私は無性に自分の部屋を掃除したくなり、すぐに戻った。共用部や他の部屋の掃除をしていると、ついつい自分の部屋の掃除が面倒になり手抜きになっていたからだ。居室へ入って、机に置かれたままになっているダイレクトメールを捨てようと、整理に取り掛かる。シュレッダーをかける紙を手にして顔を上げると、棚に飾っている息子の結婚式の写真が目に入ってきた。立ち上がって、写真立てを手にした。息子は嫁と腕を組み、幸せそうな顔で笑っている。私はそれを写真立てから取り出した。

 机に戻り、整理した紙のシュレッダーを始めた。小気味いい音を立てて、紙は裁断されていく。最後に息子と嫁の写真が残った。もう一度、それを手にして見た。それからシュレッダーの電源をオフにして、写真をクローゼットの箱へとしまった。空になった写真立てを元の場所に飾り、座って眺めた。次の写真は何を飾ろうかと考える。私が見知らぬ誰かと腕を組んでいる写真が頭に浮かんできた。忘れ去っていたトキメキがよみがえり、思わず笑みがこぼれた。

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