ここ数年、朝はラヂオと決まっている。しゃがれた声の六甲おろしが流れてくる日は前日の試合で阪神タイガースが勝った証。パーソナリティが熱狂的なファンなのだ。その耳障りな音は、ベッドの私から心地よい眠りを剥がしにかかる。
そもそも私はラヂオよりテレビが好きだし、阪神ファンでもない。もっと言えば、何かをする時に映像や音は気が散って邪魔だと思うほうだ。ところがダンナは音がないと落ち着かない性格である。だから、起きれば何よりもまずラヂオをつける。そして切らずにそのまま一足先に出勤してしまう。ぎりぎりまでベッドから出てこない私を心配しての行動だとも思えるが、そうだとしたらあまり功を奏していない。いつも同じ周波数の番組で、コーナーごとのタイムテーブルが決まっているから、交通情報が流れて、天気予報が始まる頃には起きだせばいいと半覚醒のままごろごろしていることは知らないと思う。そして、ラヂオの時報を確認しつつ、渋々ベッドから抜け出すのだ。そこからの行動にほとんど無駄がない。と言うよりは余裕がないとも言えるかもしれないが、朝の準備は平均二、三十分で終えてしまう。パンとカフェオレを口にしながら、適当に化粧を完成させていく。
一緒に暮らしだした頃は、起きたらすぐにラヂオを消していたが、ある時たまたまつけていて、電車の遅延情報を得たために路線を変えて回避することができた。役に立つじゃないか。なんとなくつけたままでいるようになった。聴いているとニュースや天気予報以外でも、今日の話題というテーマで時にはゲストを交えて介護・福祉情報から流行ってる本までと幅広く取り上げていることが毎日の楽しみになっていった。
ラヂオは、テレビと違って、視線が釘づけになって動作が止まることなく聴き流せるので、時間がない私の朝にはぴったりであることもわかった。主に頭に働きかけてくるところは、読書と似ているかもしれない。受容体が目か耳かの違いはあるが、受け取った言葉を処理するところは自分の頭を通してイメージしたり考えたりする作業だから共通している。テレビでは既に出来上がったイメージを受け取るから随分楽をさせてもらっている。それなのに長時間のテレビで疲れるのは目だけの肉体的な問題じゃなく、押し付けられる情報のイメージに辟易してしまっているせいだろうか。
ある朝、いつものラヂオ番組で、流行りのクロワッサンドーナツを取り上げて、パーソナリティとアシスタントが取材に行った録音が流されていた。
聴いていると、店の雰囲気、客層、目の前に並んだクロワッサンドーナツの色、形状、歯ざわり、香りなど一から十までクロワッサンドーナツとそれを食べる動作の実況中継だった。映像で見たら一瞬で理解できる流れも言葉で相手に正確にイメージさせるのはこんなに大変なんだと思った。そう思って聴いていると、パーソナリティの言葉は常に淀みなく出てくるし、語彙に溢れていて書くようにしゃべっているとも言えた。
感化された訳でもないが、クロワッサンドーナツを食べに行った。チョコレートやナッツのデコレーションが派手で、食べる前からもたれそうに思えた。クロワッサンもドーナツも好物だが、合わせるのはどうだろう。お互いの個性を潰さないだろうか。一口齧ってみると、なんともいいサクサクとした歯ざわりが返ってくる。クロワッサンをドーナツのように揚げることで、生地の層の硬さがさらに増しているようだった。意外に油っぽくなかった。あっという間に平らげた。甘さの印象よりも食感の心地よさが抜群だった。ラヂオで聴いていた印象では甘さ、色彩、食感が平等にイメージとして残ったが、実際に食べてみると歯ざわりが独特で強く印象に残る。私ならその印象だけ強調して伝えるはずだ。好みとしては別々の方が美味しい。クロワッサンが食べたくてこれが出てきたらがっかりだし、ドーナツだと言われてもこの生地に違和感を持つ。だからラヂオの場合、実況中継が中立で正しいのかもしれない。与えられた言葉をもとに頭の中でピースを組み合わせてイメージしていく。正しく、分かりやすい言葉と言い回しで聴き手に伝えなければいけない。ちなみに、私のイメージでは、もっと平らで生地はもう少し柔らかいのかと思っていた。ラヂオは受け取り手に預けられているので、このギャップは埋まりそうにないが、その余白が心地いい。
気が付けば、立派な朝のラヂオリスナーになっており、パーソナリティの言い回しに耳を傾けている。願わくば、阪神ファンには申し訳ないが、朝からの六甲おろしだけは勘弁してほしい。